| 出雲王朝史4、国譲りの神話考 |

| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 2011.8.22日現在の政局は、民主党の代表選が次期首相選びに直結すると云うのにまことにお粗末な限りの、党内の半数でしかない菅派内の同系内限定出馬にして且つ乱立且つ「27日告示、29日投開票」と云う僅か三日間で決すると云う前代未聞のケッタイな代表選に向かいつつある。れんだいこは、その根源に現代政治家の揃いも揃っての日本の国体に関する無知蒙昧を感じる。こういう時の政治は面白くない。よって古代史に遊ぶことにする。 いわゆる菅派、自公系政治家とは、何の恨みがあってか分からないが、日本を裏から操る国際金融資本帝国主義の、その手下であるジャパンハンドラ―ズの手先として、日本熔解、解体に嬉々として勤しむ宦官勢力である。この論証は別の機会に譲るが驚くほどの反日意識を屯(たむろ)させている。よしんば靖国神社を詣でるなどして愛国者ぶるにせよ、中曽根-小泉同様の偽装でしかない。この連中の売国奴的動きは病的で治癒し難しであろうが、日本人民大衆までその気にさせる訳にはいかない。日本人民大衆を踏み留まらせる為に、日本の国体論の一つを構成する日本神話上の粋たる国譲り譚を確認し、日本人のアイデンティティーを呼び戻す一助にしてみたい。国譲り譚は、北一輝さえ捉え損なった日本の真の国体論を垣間見る貴重な神話なので心耳を澄まして傾けよ。 紀元1、2、3世紀頃のことと推定しているが、当時の倭国は出雲王朝が治めていた。出雲王朝こそ大和王朝に先立つ先行王朝であり、日本王朝史はこれより始まると位置づけ直すべきである。出雲王朝の最後は大国主の命の御代になる。大国主の命は、それまでの旧出雲王朝の東部王権とスサノウによって創始された新出雲王朝の西部王権を手に入れ統一出雲王朝を経営していた。かっての出雲王朝の圏域を更に拡大し、まさに大国主の命と云われるに値する大国を創出しつつあった。東西出雲を統一し、更に次第に倭国の統合に成功しつつあった絶頂期の大国主の命政治の先に待ち受けていたのが高天原王朝による出雲攻略であった。両者は、長い談判の末に国譲りで決着する。この経緯と決末のさせ方が日本政治史上の一大政変となっている。或る意味で、この時に日本政治の手打ちの型が創られ、はるけき今日まで続いていると読みたい。これを記す国譲り譚は日本神話の粋である。 「高天原王朝の天孫軍是、出雲王朝の国津軍邪」とする皇国思想で塗り固められた戦前の皇国史観では、この国譲り譚も天孫側の聖戦として描いている。故に、皇国史観では出雲王朝は常に陰の国、黄泉の国として否定的に描かれることになる。れんだいこは、これに異議を唱え、出雲王朝側を是とする史観で国譲り譚を綴ってみたい。先に「検証学生運動上下巻」で日本左派運動を平衡的に分析して見たが、同じ手法で高天原王朝と出雲王朝のそれぞれの正義を描いてみたい。何度も書き換え、語り継ぐに値する神話をものしてみたい。どこまで能く為し得るか堪能あれ。 戦後は、特殊なイデオロギーでしかない皇国史観の見直し、日本古代史の読み変えが必要であったところ、日本神話譚そのものを荒唐無稽として皇国史観と共に放擲してしまった。これにより、戦後の日本人民には日本古代史に対する軽侮による無知が生まれ、その結果、己の民族と国家の由来を知らない根なし草的コスモポリタンを粗製乱造してしまった。その果てにあるのが、2011.8.22日現在の政局であると見定めたい。日本古代史と現代史はかく繫がっている。今その非を認め、日本古代史上の最重要事変である国譲り史を具現させ、日本人必須の歴史知識としたい。これを挨拶とする。以下、検証する。「国譲り神楽」、千家尊祀著「出雲大社」その他を参照する。 2006.12.3日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝 |
| 【アマテラスが「天壌無窮の神勅」発令譚】 | ||
大国主の命の下に出雲王朝が連合国家を形成しつつあった時、所在がはっきりしないが高天原に住むと云うアマテラス王朝(以下、「高天原王朝」と云う)が立ち現われ、葦原の中つ国を支配する出雲王朝平定を指令する。これを仮に「国譲り譚その1」とする。
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| 「高天原王朝アマテラスの天壌無窮の神勅発令譚」より「国譲り譚」が始まる。出雲王朝の支配地域が「葦原の中つ国」とされていることが注意を要する。 |
| 【高天原王朝の出雲王朝討伐失敗譚】 | ||||||
高天原王朝は、アマテラスの息子のアメノオシホミミの命を使者として派遣する。これを仮に「国譲り譚その2」とする。次のように記されている。
「国譲り譚その2」によると、アメノオシホミミの命が天の浮橋を渡ったところ、「それから先は抵抗が強く進むことができなかった」為に引き返したことになる。これが第一次失敗である。出雲軍の強靭さが分かる。 アメノオシホミミの命の失敗により、アメノオシホミミの命の弟のアメノオシホヒの命を第二陣の使者として派遣する。これを仮に「国譲り譚その3」とする。次のように記されている。
「国譲り譚その3」によると、アメノオシホヒの命が派遣され、今度は出雲に辿り着いたものの大国主の命に取り込まれてしまい、「3年たっても復命しなかった」即ち出雲王朝を成敗するのではなく寝返ったことになる。これが第二次失敗である。アメノオシホヒの命が寝返った理由として、出雲王朝の統治の質が高度且つ神人和楽的な理想社会であった為に感服したと思われる。 アメノオシホヒの命の失敗により、アマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦を第三陣の使者として派遣する。 これを仮に「国譲り譚その4」とする。次のように記されている。
「国譲り譚その4」によると、今度はアマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦が派遣され、今度は武器を持たせたと云う。ところが、大国主の計略によりウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせたところ、先のアメノオシホヒの命同様にアメノワカ彦も取り込まれたことになる。アメノオシホヒの命は「3年たっても復命しなかった」がアメノワカ彦は「8年たっても復命しなかった」。その為、高天原王朝の使者が秘かに派遣されアメノワカ彦に問い質したが、アメノワカ彦の親出雲王朝姿勢が変わらず、為に射殺されたとある。これが第三次失敗である。アメノワカ彦もアメノオシホヒの命同様に出雲王朝の統治の質の高さ且つ神人和楽的な理想社会ぶりに敬服し親出雲王朝派に転じたと思われる。 |
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| 先遣隊の第一使者としてのアメノオシホミミの命、第二陣としてのアメノオシホヒの命、第三陣としてのアメノワカ彦が派遣されたが、第一陣のアメノオシホミミの命は抵抗が強く出雲王朝まで辿り着けず、第二陣のアメノオシホヒの命、第三陣のアメノワカ彦は出雲に辿り着いたものの共に篭絡され、出雲王朝側に帰順する始末となった。 「高天原王朝の出雲王朝討伐失敗譚」は、天孫族の出雲王朝征伐が並大抵では進捗しなかったことを物語っている。 |
| 【高天原王朝の切り札としてのタケミカヅチの男の登場譚】 | |
高天原王朝は、第四陣としてタケミカヅチ軍を送る。これを仮に「国譲り譚その5」とする。
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| イツノヲハバリ神=伊都乃尾羽張神。タケミカヅチの男=(古事記)建御雷之男神、(日本書紀)武甕槌。フツヌシ神=(日本書紀)経津主神、布都努志命。アメノトリ船神=天鳥船神。アシハラナカツクニ=葦原中国。 | |
| 「高天原王朝の切り札としてのタケミカヅチノ男の登場と出雲王朝討伐譚」は、高天原王朝の最後の切り札として軍神タケミカヅチノ男が派遣されることになったことを明らかにしている。 |
| 【大国主が、ヤマトの三輪山宮設営】 | |||
日本書紀には、国譲り直前の次のような逸話を記している。これを仮に「国譲り譚その6」とする。
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| 【イナサの浜での国譲り談判譚】 | |||||||||
高天原王朝のタケミカヅチは、出雲のイナサの小浜で大国主の命と国譲りの談判をする。これを仮に「国譲り譚その7」とする。
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| イナサ=伊奈佐、稲佐。十握剣=とつかのつるぎ。コトシロ主=言代主神。タケミナカタ=建御名方神。 | |||||||||
| 「高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判譚」は、高天原王朝と出雲王朝の談判の様子を明らかにしている。大国主の命は即答を避け、判断を文人頭事代主と軍人頭のタケミナカタに委ねた。 |
| 【出雲王朝の文人頭、事代主との談判譚】 | |
国譲りの判断を任された片方の文人頭の事代主は次のように対応した。古事記は次のように記している。これを仮に「国譲り譚その8」とする。
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| 「出雲王朝の文人頭、事代主との談判譚」は、国津族の文人頭、事代主が苦衷の末「国譲り」に応じ、同時に王朝の安泰を願って我が身を引き換えに姿を消したことを明らかにしている。「青柴垣」は、古神道に於ける聖域を意味しており、護り神となったことを暗喩している。投身自殺し後々の信仰対象となったのか、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びたのかは不明である。 | |
| 事代主は、大国主の命と神屋楯姫神(かむやたてひめ)の間の子供と云われる。神屋楯比売神の出自は不詳であるが、旧事本紀には「坐辺都宮・高降姫神」と書かれている。兄の味鋤高彦根神(賀茂大神)の母が「坐胸形奥津宮神多紀理比賣命」と書かれているので、この伝によれば宗像系と云うことになる。大和平野の葛城山系の麓にある鴨津波(かもつは)神社の祭神となっており、鴨一族の代表であった可能性がある。この場合、鴨族が、遠祖を出雲王朝とするのか、大和葛城地方の土着豪族のどちらかということになろう。鴨族には高天原王朝系の系譜もあり非常にややこしい。 |
| 【出雲王朝の軍人頭、タケミナカタとの談判譚】 | |||||||||||
文人頭の事代主が戦いを避けたのに対し、軍人頭のタケミナカタは応戦した。これを仮に「国譲り譚その9」とする。タケミナカタは、古事記では「建御名方神」、続日本後紀では「南方刀美神」、延喜式神名帳は「南方刀美」と記している。大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供と云われる。
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| シナノの国=科野国、信濃国(現在の長野県と比定されている)。ヤサカトメの命=八坂刀売命。 | |||||||||||
| 「出雲王朝の軍人頭タケミナカタとの談判譚」は、出雲王朝の軍人頭タケミナカタが「国譲り」に応ぜず、各地で戦闘を続け諏訪国に逃げ、決着つかず高天原王朝のタケミカヅチ優勢のままで両者が手打ちしたことを明らかにしている。ちなみに、この神話により諏訪大社も出雲大社系譜であることが分かる。但し、諏訪大社は諏訪湖を中心に神域が40ヘクタールにも及ぶ。多数の神社で構成されており、、その中核は諏訪湖南岸の上社と下社、北岸の下社に分かれている。更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれていて、本宮と前宮、春宮と秋宮の間はそれぞれ1kmほど離れている。各々の御祭神は、本宮が建御名方神、前宮が八坂刀売神、下社はどちらも両神を祀る。これはタケミナカタ派が逃げ込んできたことと関係しているものと思われる。タケミナカタ派の逃亡ルーツも興味深い。出雲から能登へ行ったと云うことは能登に支持基盤があったことを意味しよう。同様に信濃の諏訪に向かったことも然りで、出雲王朝時代の連合国家の一つだったと思われる。タケミナカタ派は事代主派と違う生き方で生き延びたことが分かり興味深い。 ちなみに、タケミナカタが逃げ込んできた時、力比べをして負けた洩矢の神(もれやの神)は下社近くの御射山(みさやま、現在は霧ヶ峰という)を御神体としている。古くからの在地豪族の一系譜の筋と思われる。 |
| 【高天原王朝と出雲王朝の国譲り最後の談判譚】 | |||||||||||
タケミカヅチはこうして事代主とタケミナカタの双方を平定し、大国主の命との最後の談判が行われた。これを仮に「国譲り譚その10」とする。
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| 「高天原王朝と出雲王朝の国譲り最後の談判譚」は、出雲王朝が、高天原王朝の軍門に屈したことを明らかにしている。 ところで、古事記と出雲国風土記の記述は、国譲りの描き方が食い違いっている。古事記は、大国主神が、「葦原中国はすべて献上する。ただ、我が住所すみかを壮大に造ってくれれば、根の国に隠れよう」と述べたとある。風土記は、大穴持大神(大国主)は、「我が造り治めた国は奉る。ただ、八雲立つ出雲の国は我が静まります国であり、青垣山を廻らし、玉を置いて守る」と述べたとある。つまり、王朝は譲るが、代わりに祭祀権を保障せよ、と主張していることになる。 大国主の完全屈服かどうかが問われていることになる。実際には、大国主の言い分が辛うじて通り本領安堵され、出雲王朝の命脈が保たれ、それが為その後も「眼には見えぬ幽り世の世界から、その霊威をあらわす」ことで隠然とした影響力を持ち続けていくことになったと思われる。 いずれにせよ、国譲りは、理不尽なものであった。この理不尽さがその後の高天原王朝、そこから出自する大和王朝の御世に付き纏っていくことになる。ここが日本歴史の裏面史であり、ここを理解しないと何も見えなくなる。 ところで、古代史上最大の政変「高天原王朝と出雲王朝の国譲り」は、他国のそれと比べて明らかに著しい違いが認められる。それは、決戦的絶滅戦争型ではないということである。武闘と和議の二面作戦で最終的に手打ち和議し、勝者が敗者を攻め滅ぼさないという特徴が認められる。この和合融和方式が日本政治史の原型となり、その後の日本政治史の至るところに影響していくことになる。聖徳太子の「和の政治」もこれに当ると思われる。今もその影響を受けていると云うべきだろう。恐らく、それは今やDNAになっており、これを放擲して決戦的絶滅戦争型に転換するには及ばないであろう。むしろ、尊重していくことの方が望まれている、日本人の体質に合っていると窺うべきではなかろうか。 この「硬軟両様、手打ち、和合融和」と云う日本政治の質は「現代に至る迄底流となって流れ続けており、国民性ともなる重大問題であり、日本の今後の歴史には、いろいろな面で多く現われてくることであろう」。 2006.12.15日 れんだいこ拝 |
「古代文明の世界へようこそ」の「出雲の国譲りとは 出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」を転載しておく。
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