出雲大社-出雲神道考



 (最新見直し2011.07.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本神道は、国譲り政変以降、高天原王朝の伊勢神道と出雲王朝の出雲神道の二派に分かれ、両者が鼎立しつつ護持発展していくことになった。特徴的なことは、諸外国のそれと違い、暗闘しつつも平和共存体制下で棲息していったことであろう。日本型政治の特質が宗教的精神界にも通じていることになんる。

 2008.4.7日 れんだいこ拝


【出雲大社創建譚】
 古事記の日本神話―国譲り譚によれば、大国主が出雲王朝を明け渡し、引退する旨表明した際、その代償として、私の住む所として相応しい壮大な宮殿を造ってくれるのなら国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょうと告げ、これが了承されて造営されたのが出雲大社の始まりであるという。当初は、多芸志(たぎし)のお浜(現在どの辺りか不明)に殿舎を造り、水戸神(みなとのかみ、河口を掌る神)の孫に当たる櫛八玉神(くしやたまのかみ)が御*(みけ)を奉る等、神事を司った。次のように記されている。
 「これの我が*(き)れる火は、高天原には神産巣日御祖命(かみむすびのみおやのみこと)の、登陀流天(とだるあめ)の新巣(にいす)のすすの、八挙(やつか)垂るまで焼き挙げ、地の下は、底津石根(そこついわね)に焼き凝らして、*(たく)縄の千尋(ちひろ)縄打ち延(は)え、釣為し海人(あま)の、口大(くちおお)の尾翼鱸(おはたすずき)、佐和佐和邇(さわさわに)、控(ひ)き依せ騰(あ)げて、打竹(さきたけ)の、登遠遠(とおお)登遠遠邇、天の真魚*(ぐい)、献(たてまつ)る」。

 出雲風土記の出雲郷の条に次のように記されている。
 「ヤツカミヅオミツヌの神の国引き給いし後に天下造らしし大神の宮奉えまつらんとして諸々の皇神たち宮処に参集いて杵築きたまいき」。

 以降、出雲王朝の末裔は出雲大社の神主、氏子として生き延びていくことになる。これを仮に「国譲り譚その10」とする。 以上の10コマを「国譲り譚」と云う。日本書紀には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと、天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造となり、出雲王朝支配の代官として派遣されたとある。こうして出雲国造が登場し、現在まで継承されている。

 その後、出雲神道として息づいていくことになる。出雲神道には次のような特徴が認められる。
 「こうして、大国主は引退し、出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に神聖な神殿を造り、クシヤ玉神が身の回りの世話をすることになった。出雲大社は精神界に生き延び、縁結びの神として信仰されていくことになった。特徴的なことは、伊勢神宮系が二拝・二拍手・一礼のところ、宇佐八幡宮と共に二拝・四拍手・一礼を作法としている。又、軒下にかかるしめ縄は、伊勢神宮系とは逆に締めており、長さ13m、最大太さ8m、重さ5トン、2万6千束のわら束を使った日本一巨大しめ縄を飾っている。

 出雲大社社伝によれば、出雲国造のアメノホヒの命が、出雲大社宮の祭主となった時、熊野大神の櫛ミケヌの命から火きり臼、火きり杵を授かり、以来同様に代々一世一代の神火相続儀式となる火継ぎ神事が執行されている」。
 クシヤタマ神=櫛八玉神。
(私論.私見)
 「出雲大社譚」は、大国主が出雲大社の祭神として生き延びたことを明らかにしている。天穂日命の子孫が出雲国造が祭祀を司るが、この出雲国造神道と大国主の命系の出雲神道がどう対立し、その後融合するのかも確認したい。興味深いことは、出雲王朝はいわば地下に潜ったが、その後の政治経済文化に陰に陽に影響を及ぼし、日本歴史の裏面を形成していくことである。ここを見ないと、日本政治の特質が何も分からないことになる。

 2008.4.6日 れんだいこ拝

【出雲大社考】

【出雲大社の威容】
 出雲大社の建立につき、古事記は次のように記している。
 「高皇産霊神、天照大神が、大国主神の為に出雲の多芸志の小浜に底津石根(そこついわね)の宮柱太しり、高天原に氷木(千木)たかしりて造らせしめ給う」。

 日本書紀は次のように記している。
 「千尋のたく縄を以って百八十紐(ももやそむすび)に結い、柱は高く太く、板は広く厚くしてこの社を造った」。

 2000(平成12)年、出雲大社改築のための地下室工事に先駆けた発掘調査で、11世紀から13世紀(平安時代から鎌倉時代)頃の地層から、1本の柱材の太さが1m35cm、これを3本組み合わせ、合計で3mになる巨大木柱が姿を現した。出雲国造家(こくぞうけ)の千家(せんげ)家に伝わる「金輪御造営指図」(かなわおんぞうえいさしず)に描かれていた図面通りであった。

 平安時代の「口遊(くちずさみ)」(源為憲著、天禄元年・970成立)に、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」という言葉があった。当時の建造物の大きさを語ったもので、雲太は出雲太郎のことで出雲大社、和二は大和二郎で東大寺大仏殿、京三は京都三郎のことで平安京大極殿を意味している。出雲大社本殿は、高さ16丈(1丈は役.03m、約48m)、あるいは32丈(約97m)もあったと云い伝えられており、かってはデタラメと相手にされなかったが、この伝承の正しさが立証されたことになる。

 更に発掘を進めた結果、本殿の中心に位置する心御柱と東南部の側柱が発見され、測量してみると、かっての本殿が横に長い長方形という、他に例のない特異な社殿形をしていたことも判明した。この形は、「金輪御造営指図」の正方形をした設計図とも違い、新たな謎を生んでいる。

 出雲大社は、現在の本殿が建立されるまでに数次建て替えられている。1031(長元4)年から1235(嘉禎元)年の約200年間に6回も倒れ、その都度遷宮が繰り返され、再建されている。発見された巨大木柱群は、1248(宝治2)年に造営された本殿柱であったことが判明した。現在の本殿は、1744(延享4)年の造営である。
(私論.私見)
 国譲り譚は、出雲王朝が高天原王朝に政権を譲り、辛うじて出雲大社信仰で生き延びていく事になったことを明らかにしている。出雲大社はその後、大国主の命伝説と共に原日本人の精神界に大きな影響を与え続けていくことになった。出雲大社の威容はこれを証していることになる。

 2008.4.6日 れんだいこ拝

【出雲大社系神道の伊勢神宮系との違い】
 出雲大社系神道では、伊勢神宮系のそれと何もかもがあべこべになっている。出雲大社の巨大な注連縄(しめなわ)は、縄の縒(よ)りかたが世間一般の神社の縒りかたと正反対になっている。「ヒツギの神事」も違う。伊勢神宮系は、「日継ぎ」の神事を行う。それに対して、出雲大社では、祖神・天穂日命(あめのほひの命)の霊を継いで「火継ぎ」の神事を行う。暦法で、旧暦の十月は神無月(かんなづき)であるが、出雲では「神在月」(かみありづき)と云う。日本中の神様が、この時出雲に集まっていた故事から来ていると云う。古墳も違う。大和には前方後円墳が見られるが、出雲では前方後方墳となっている。
 日本に魅せられ、神話の地・出雲に住み着いて日本研究に生涯を捧げたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本印象記の中で次のように述べている。
 「神道の真髄は書籍にも儀式にも法律にも存しない。ただ、国民的心情の中に活きて永存して居るばかりである。そこに国民のあらゆる全部の魂、偉大なる霊力が潜在して震えつつある。この魂が遺伝し、内在し、無意識的、本能的に働いているのが、神道である。神道を解するには、この神秘な魂を知らなくてはならぬ」。

 また、ハーンは、杵築というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官・出雲国造と対面した感想を、「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)」を思わせると、そのときの印象を感動的に述べている。さらに「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」と述べている。

【「出雲の御魂の理譚」】
 大国主の命は、出雲思想の伝統的御魂の理に従い祭祀を司った。「出雲の御魂の理」とは次のようなものである。「和御魂、幸御魂、奇御魂、荒御魂」を四魂と云う。
 和訓読み 表象  解説
和魂  にぎたま、にきみたま  柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂。恵み、神の加護。
幸魂  さきたま、さきみたま  人に幸を与える神の霊魂。運による幸。収穫をもたらす。豊と表す。 
奇魂  くしみたま  不思議な力を持つ神霊。奇跡による幸。櫛と表す。
荒魂  あらたま、あらみたま    荒く猛き神霊。神の祟。

 「幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)、守り給え、幸(さきわ)い給え」と祝詞する。
(私論.私見)
 「出雲の御魂の理譚」は、出雲王朝の政治理念を表象している。それによると、和魂で徳治主義政治を、幸魂で産業振興政治を、奇魂で霊力政治を、荒魂で武断政治を伝えており、出雲王朝がこれに則った政治を執り行ったことが判明する。これが日本政治の原型とも云えよう。

【「出雲の御魂の理譚」】
 出雲神道は修験道信仰の中に取り入れられ行く伸びていくことになったと思われる。修験道に見られるのは、1・「神奈備信仰」(御室山信仰)であり、山を神として祀り、宇宙の霊の集まり鎮まるところとしるところに特徴がある。神奈備山としてならの三輪山(御室山)、吉野熊野の大峰山が知られている。
(私論.私見)

【出雲神道】
 出雲王朝は、高天原王朝との談判で国譲りして以来、政治の表舞台から身を隠した。しかし、宗教的祭祀を認めさせたことにより出雲大社が建立され、その後出雲神道として生き延びていくことになった。但し、出雲神道の祭祀は、高天原王朝―大和朝廷の派遣する出雲国造がお目付け役として管掌することになった。その祖として天照大神第二子のアマノホヒの命(天穂日の命、天菩比神)が任に就いた。その後は今日まで「千家」家が出雲大社の祭祀に専修している。

 アマノホヒの命は天孫降臨に先立って天つ神の使者として葦原の中つ国を言向けするために出雲に派遣されてきた最初の神「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の次に派遣された神である。記紀神話によれば、「大国主神にへつらい従って、三年たっても復命しようとしなかった」と云う。出雲国造が代替りにあたり、天皇の大前で御代を寿ぐために奏上してきた「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかむよごと)」では、「大国主の神を和み静めた」としている。

 アマノホヒの命は、出雲東部の意宇に拠点を設け大領を拝し、意宇川上流の熊野大社を祀りながら、出雲東部の杵築(きずき)に設けられた出雲大社神道を御すことになった。「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)によれば、崇仁天皇の御世、天穂日の命の11世の孫が出雲国造家に任命されている。出雲国造家は次第に土着化し、高天原王朝と出雲王朝の架け橋的役割を果たしていくことになる。平安時代の霊亀年間715-717年頃、元正天皇の御世、出雲国造家はそれまで本拠地にしていた意宇を離れ杵築に移り住んだ。意宇にの地には新たに神魂(かもす)神社が建立され、熊野大社で執り行われていた火継式などを引き受けさせている。出雲国造家の意宇の大領と杵築の兼務は798(延暦17)年まで続き、杵築に一本化する。「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかむよごと)」は「出雲国造家考」に記す。

 日本神道は以来、アマテラス系伊勢神道と、オホクニヌシ系出雲神道が鼎立することになった。平田篤胤が、それまでの国学を復古神道として宗教化し、オホクニヌシを中心とする独自の神学を作り出した。この篤胤神学が与えた思想的影響はきわめて大きい。

 原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫P7は次のように記している(原武史「〈出雲〉という思想 近代日本の抹殺された神々」参照 )。
 「つまり出雲国造とは、天皇と並ぶもう一人の「生き神」であったのであり、 天皇にも匹敵する宗教的な権威をもっていたのである。しかも天皇の権威が、明治になって作られた要素が多かったのに対して、出雲国造の権威は   それ以前からあり、特に中国、四国地方を中心とする西日本では、その存在は明治以前からよく知られていた。このような権威をもつ出雲国造であった千家尊福(せんげたかとみ)という人物が、明治になって篤胤以来のオホクニヌシを中心とする神学を受け入れたことで、出雲が伊勢に対立する思想的中心となっていったことは、注目に値する」。  
 「明治維新とともに歴史の表舞台に現れ、天皇制国家にも思想的影響を与えた復古神道の流れに属しながら、明治政府、さらには〈伊勢〉に神学的に対立し、抹殺されていった〈出雲〉。〈出雲〉という思想的場所に徹底し   てこだわることで、幕末から維新、さらには近代日本全体にわたる、もう一つの思想史が見えてくるのである。(中略)第一部「復古神道における〈出雲〉」は、本居宣長から大本教団の出口王仁三郎、さらには戦後の折口信夫に至るまでの、近世、近代の日本における〈出雲〉思想の屋台骨を支えた人々の軌跡を描いた、いわば総論にあたる。第二部「埼玉の謎ー ある歴史ストーリー」は、この問題を明治初期の埼玉県の成立に即して論じた、いわば各論に当たる。両者はセットになっている」 (原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫P8より引用))。
 「(千家尊福が政府の要職を歴任し始めた)この時期は、占領地に新たに建てられた台湾神社や樺太神社にオホクニヌシがスクナビコナとともに祀られ、この神が「幽冥主宰神」から、1879年に招魂社を改称して別格官   幣社となる靖国神社の祭神と同様の、「護国の神」へと変質を遂げる時期に一致している。しかしこのことは、1880年代以降の出雲大社と靖国神社が、同様の役割を担ったことを意味するのわけではない。それどころか靖国神社は、出雲大社に入れ替わるようにして、神道が有していた宗教性を一手に引き受けるようになる。確かにここでいう宗教とは、主として国家のために戦死した軍人だけを対象とする点や、彼らを無条件に「神」 とする点で、復古神道とは決定的に異なっていたが、「国家神道」が確立されてからも、靖国神社だけは例外的に宗教性を保ち続けるのである」 (原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫P187より引用)。

【出雲思想の世界観】
 「日本神道の歴史について」でも考察する。

 出雲思想が大地を地球として認識していたかどうかは定かではないが、連動生命体としてみなし、大いなる調和でもって宇宙を形成していると把握していたことは確かなように思われる。大地に精霊を認め(地霊)、その他自然の万物にアニマ(精霊)が宿っているとしていた。食物連鎖を生命の大いなる循環と捉え、それに即応した狩猟と採集経済を生み出していた。四季の変化を取り込み、二項対立の様々な組み合わせ、あるいは三項の組み合わせで森羅万象を分類し理解した。日月、水火、天地、男女等の差異も、対立関係のみならず相補関係に於いても捉えた。こうして、汎神論的アニミズムに基づく八百万の神々観を生み出した。これを仮に出雲思想式原始共産主義、出雲思想式多神教的共同体主義と命名する。特徴的なことは、神人和楽の且つ世界に珍しい神人協働の開かれた構造に基づく思想であったことであろう。

 本居宣長は、「古事記伝」で神について次のように記している。

 さて凡てカミとは、古(いにしえ)の御典(みふみ)に見えたる天地(あめつち)の諸々の神たちを始めて、その祀れる社(やしろ)に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらに云わず、鳥獣木草の類、海山など、その他何にまれ、世の常ならずすぐれたる徳のありて、かしこき物をカミとは云うなり。すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの怪しきものなども、よにすぐれてかしこきをば、神と云うなり。

 スサノウに始まり大国主で踏み固められた狩猟ー採集経済かせ農耕経済への移行は、出雲思想をそれに相応しいものへの転換を迫った。出雲思想の開かれた構造は、これに即応し得た。農耕経済に伴う血縁共同体から地縁共同体への転換にも即応し得た。こうして生み出されたのが出雲神道である。これを仮に古神道と云う事にする。古神道は偏に「思想の開かれた構造式」に特質が有る。その水準は、世界一等的なもので、他のどのような思想宗教が襲来しようとも受容練成することができることになった。

 (以下、略)

 2006.12.10日 れんだいこ拝

【出雲大社の縁結び、福の神信仰】
 出雲大社が縁結びの神といわれるようになったのは、少なくとも近世中葉にはそういわれていたようである。井原西鶴の「世間胸算用」に「出雲は仲人の神」という言葉が見える。しかし古くはむしろ福の神であって、狂言の節分や福の神にはその思想が窺える。

【出雲の七福神譚】
 出雲王朝下で七福神(しちふくじん)譚が説かれていたと思われる。七福神とは、共に宝船に乗る恵比寿、大黒天、毘沙門天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋の七神である。吉祥七福神譚が定式化するのは後のことであるが、出雲王朝下で原型が出来ていたと思われるのでここで採りあげておく。

 恵比寿神(えびすさま)
 恵比寿(えびす)は、夷、戌、恵美須とも書かれる。釣竿を持ち鯛を抱えてエビス顔と言われるような笑顔に特徴がある。イザナギの命の第3子蛭子尊とも大国主命の御子とされている事代主の命とも伝えられている。漁業、交易、商売の神様として信仰される。遠方から福を運んできてくれる寄神(よりかみ)、客神(まろうどかみ)を信仰する。「笑う門には福来る」で、律儀、清廉、家業繁栄、商売繁盛、無病息災、子孫長久の神。
 大黒天(だいこくさま)
 丸い頭巾を被り、右手に「満願成就の打ち出の小槌」を持ち、左手で大きな袋を背中にかけ、二俵の米俵の上に乗っているところに特徴がある。糧食を司る神様。家や国を支える重要な人のこと大黒柱と云うように重要な神様である。大国主の命と伝えられている。豊作 裕福、有徳、財宝、闘戦の神。大黒天が「一に俵を踏んまえて、二ににっこり笑うて、三に盃いただいて、四に世の中良いように~」と歌いながら各地の家を回る伝承がある。
 毘沙門天(びしゃもんさま)
 甲冑を着て、右手に槍(宝棒)、左手に宝珠をささげる厳しい顔をしたところに特徴がある。多聞天とも言われ仏教四天王の一人。悪業煩悩の鬼を押さえつけている。勇気を持って悪をくじき、清く正しく力強く生きぬくようにとの無言のおさとし。勇気、威光、財運、勝負事の神。
 弁財天(べんてんさま)
 琵琶を弾く白肉色裸形という姿に特徴がある。七福神の中で唯一の女神で、天照大神の娘の一人で市の神として信仰された市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)の姿と習合している。愛敬、弁舌才智智恵、学問、音楽、芸術の神。
 福禄寿(ふくろくじゅ)
 とてつもなく長く大きい頭、背が低くてあごにひげをたくわえ、長寿のしるしの鶴と亀を従え、左手には如意宝珠、右手には杖を持っている姿に特徴がある。杖にくくられた経巻には福・録・寿のご誓願がかかれている。年齢千万年を数えるという中国の神仙思想に基づく仙人で、幸福と財運と不老長寿の三徳を併せ持ち、子供には知恵を授ける。大望、人望、健康、福徳、幸福、俸禄の神。
 寿老神(じゅろうじん)
 白ひげをたらし杖を持ち、左手に鹿、右手に宝杖を持っている姿に特徴がある。長寿の神様で、長命、富財、与宝、諸病平癒の神でもある。淡路の寿老人は鹿のかわりに桃の実を持っている。長寿、幸福、安全、健康の神。
 布袋和尚(ほていさま)
 半裸で杖をつき布の大きな袋を背負い、福々しく大きな耳、広い腹の姿に特徴がある。中国五代聖人の一人である弥靭菩薩の化身ともいわれる。堪忍、和合、開運、良縁、子宝の福徳を招く神。

 宝船に書かれている回文(上から読んでも下から読んでも同じ音になる文章)として次の言葉が書かれている。
 「なかきよの とをのねぬりの みなおさめ なみのりふねの おとのよきかな」。
 (永き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良き哉)
(私論.私見)
 「出雲の七福神譚」は、出雲王朝の政治思想を間接的に説き聞かせている。

【出雲の原古語考】
 出雲王朝の原古語を確認しておく。
タマ
モノ

【出雲暦考】
 出雲暦は次の通り。
1月 睦月(むつき)
2月 如月(きさらぎ)
3月 弥生(やよい)
4月 卯月(うづき)
5月 皐月(さつき)
6月 水無月(みなづき)
7月 文月(ふづき)
8月 葉月(はづき)
9月 長月(ながつき)
10月 神無月(かんなづき) 神在月(かみありづき)
11月 霜月(しもつき)
12月 師走(しわす)

【出雲大社の神在祭考】
 (「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(五)」その他参照)

 旧暦(陰暦)十月、和暦で「神無月(かんなづき)」(「神去月、かみさりづき)」)という。日本全国のここかしこに居られる八百万の神々が、年に一度、出雲に大集合して会議をするという慣わしがあり、これに因(ちな)んでいる。この月、日本全国が神無月、出雲では神在月となる。神無月、神在月の由来につき古来より諸説、俗説が多く定まらない。一説として、陰陽説からくるものであるとする。陰陽説で神は陽であり、十月は陽の気がない極陰の月とされる。つまり「陽(かみ)無月」が「神無月(かんなづき)」に転化したという説である。一説として、陰神とされるイザナミ尊が出雲で崩御したのが十月なので、「(母)神の無い月」という考え方もある。

 神在月の一説として、神在はジンザイと読み、鎮齋(ちんさい)すなわち「忌(いみ)」の意味で新嘗祭(にいなめさい)に関係を持っていると云う。神無月は「神嘗(かんなめ)月」が転化したという説である。新嘗には斎戒を厳重に行う風俗があり、新穀を神に献ずる祭を相新嘗(あいにいなめ)と云い、10月に行っていた。大宝律令制定により、伊勢神宮だけ尊崇のため祭を繰り上げて9月に行い、その他は繰り下げて11月に行った為、10月は祭りが少ない月、すなわち「神無月」となった。しかし、出雲国では依然として10月に新穀を献ずる新嘗の祭が行われ、また、風土記に載る意宇(おう)、秋鹿(あいか)、楯縫(たてぬい)、出雲の神名火・神名樋山(かんなびやま)に神々が去来するというカンナビ信仰が結びつき出雲国特有の祭として残ったと云う。一説として、新酒を醸す月、つまり「醸成(かみなん)月」の意から来ている月名で、「神無月」は当字だとしている説もある。 一説として、諸国の神々は出雲国に集まるという伝承があり、これに基づき出雲國では昔より「神在月」と云うとしている。

 神在月の成立については、平安時代末の1177年の奥義抄に、神無月の解釈として「天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと(異)国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」とある。平安末期の藤原清輔の歌学書「奥儀抄」には「十月、天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと国に神なき故に、かみなし月といふをあやまれり」とあり、また鎌倉時代末期の「徒然草」に、「十月を神無月と云て、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。この月、万の神達太神宮へ集り給ふなど云説あれども、その本説なし」とある。かなり昔からの言い伝えで在ることになるが、どこまで遡れる伝承かは明らかではない。 それ以前の成立であることは間違いないと思われる。

 神在月に出雲に集まらない神様もいる。これを留守神と云う。この留守神伝承は各地に広がっており、特に恵比寿、竈神、金毘羅、亥の子を留守神とする地域が多い。恵比寿は関東、東海地方、竈神は関東地方、金毘羅は中国四国地方を中心に分布している。このような留守神はいわゆる神社という形で祭られる祭神ではないという特徴を持っている。ただし地域によってはこれらの神々も出雲に参集するとしているところもある。

 神無月を中心に参集する神々は氏神、鎮守系が多く、早立ちする神々は天神が多い。越年するまで滞在してしまう神々には山の神、田の神、亥の子神、竈神等の農耕神が多い。神在月に留まる神々の滞在期間が異なる。大きく分けて、(1)神無月を中心に参集する神、(2)神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)し先に戻る神、(3)中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る神、(4)神無月から大きく離れた時期まで滞在する神の四タイプあるようだ。

 神々は出雲のどこに集うのであろうか。多くの方が出雲大社に集まると思われているが、実は一ヶ所の神社に集まるのではなく出雲大社、佐太神社を中心に何ヶ所かの神社を参集して回る。朝山神社(出雲市朝山町)、出雲大社(簸川郡大社町)、万九千社(簸川郡斐川町)、神原神社(大原郡加茂町)、神魂神社(松江市大庭町)、佐太神社(八束郡鹿島町)、朝酌下神社(松江市朝酌下町) など。

 神在月に留まる神々の滞在期間が異なる。出雲滞在期間は大きく分けて、(1)神無月を中心に参集する、(2)神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)し先に戻る、(3)中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る、(4)神無月から大きく離れた時期まで滞在する、の四つタイプある。

 神在月の期間には毎年決まって激しい北西の季節風が吹き、海では波が荒れ、島根半島の海岸部に錦紋小蛇=南方産のセグロウミヘビの一種が現れる。この海蛇は「竜蛇様」(石見地方では神陀=ジンダと呼ぶ。常世国から依り来るマレビト神と崇められ、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納される。上がった浜ごとに佐太神社、日御御碕神社、美保神社に奉納される。

 出雲に集まった神々は、この時、諸般の「神事(幽業、かみごと)」を決める。これを「神議り、かむはかり」と云う。翌年の酒造りや男女の縁結びも、このとき決まるといわれる。神々は出雲に参集して会議を行うほか、舟遊びをしたり、漁労や収穫の検分をしたりと、さまざまな伝承が残されている。 神々は出雲大社一社に集まるのではなく出雲大社、佐太神社を中心に何ヶ所(朝山神社(出雲市朝山町)、出雲大社(簸川郡大社町)、万九千社(簸川郡斐川町)、神原神社(大原郡加茂町)、神魂神社(松江市大庭町)、佐太神社(八束郡鹿島町)、朝酌下神社(松江市朝酌下町) など)かの神社を参集して回る。

 神在月の期間に出雲地方の多くの神社で行われるさまざまな神事を神在祭(俗に「お忌みさん」)と呼ぶ。神在祭の中でも旧暦の10月10日から始まる出雲大社の神迎祭、11月20日から始まる佐太神社の神迎祭、11月26日の万九千神社の神等去出祭(からさでさい)がよく知られている。このほかにも、旧暦の10月1日に朝山神社で神迎祭が行われるほか、神魂神社、日御御碕神社、多賀神社などでも神在祭に関わる神事が行われている。

 神在祭では、出雲大社が神事を代表する。旧暦10月10日の夜、全国から八百万の神々が集まるのをお迎えするため稲佐の浜で神迎えの儀式が行われる。これを、「神迎神事」(竜蛇神迎えの神事)と云い厳かに営まれる。この神事を営まないと、神在祭は始まらない。この時、海上を照らして寄り来る海蛇(琉球列島海域に生息するセグロウミヘビの一種)を「竜蛇さま(海上を来臨する海蛇)」として迎え、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納される(海上来臨)。「竜蛇神迎えの神事」は、海の彼方から依り来る諸神たちを寓意しているとも考えられる。これらの神々を神籬に迎えて本社に帰参し、本殿両側の十九社に鎮める「神迎祭」から始まる。佐太神社の神等去出祭では、その神霊を神目山上から船出の神事でいずこかへ送る(山上奉祀)。

 次に、出雲大社の十九社で神々が「神議」(かみはかり)を執り行う。会議は境外の海岸に近い上ノ宮(かみのみや、出雲大社の西方800m)で七日間行なわれる。この時、五穀豊穣、産業の繁栄、世の平和、縁結びの話し合いをする。この会議では静謐を第一とし、さまざまな社中法度があった。この神事の七日間、「神々の会議や宿泊に阻喪があってはならない」というので、地元の人々は歌舞を設けず、楽器を張らず、第宅(ていたく)を営まず(家を建築しない)、ひたすら静粛を保つことを旨とするので「御忌祭」(おいみさい)ともいわれている。但し、御旅社舎である境内の十九社では連日祭りが行われる。厳粛な政治と囃子や太鼓・笛の鳴る賑やかな祭りが使い分けられていた。

 「谷田茂・氏の古代出雲王国-スサノオの光と影-1」(2009.1.11日)は、次のように記している。
 「10月は神無月である。全国の神様が出雲に集結する。そのため、10月、全国の神社は神不在となる。一方、出雲では神在月である。旧暦の10月10日、現在の11月7日、国譲りの舞台、伊佐浜で神迎祭が厳かに執り行われる。神々はここから出雲大社に運ばれ、社に納められる。その社の中で、神々は男女の縁結びを相談する。それが現在の出雲大社が、縁結びの神様として人気を集めている理由である。しかし、事実は全国に散らばる、古代出雲王国の首長たちが、出雲と大陸との交易で得られた物品を分配するための会議が年に一度行われ、その割り符として、小型の銅鐸を持ってくることが要求されたことが史実のようである。首長は時間を経て、神となる。構成員以外の神が入り込まないために、銅鐸は使われたらしい。これが、神無月、神在月の起源であるようだ。縁結びの話しは江戸時代に作られたようである」。

 最後の旧暦17日夜、「神等去出(からさらで)」を行う。社中のみならず周辺の住民も忌み慎み、夜に外便所へいけばカラサラデさんに尻を撫でられるなどといわれている。 この「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社、神魂神社、朝山神社、万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回される。

 この神在祭で行われる神事の構成は、記紀神話の「出雲系神話」において出雲のオホナムチ命(大己貴神・大国主神)の国土平定事業に際して、海上来臨して霊威を発揮した幸魂・奇魂もしくは和魂を大和の三輪山(御諸山・三諸山)の「神奈備」に送り奉斎したという神話の構成と類似している。 共通して海岸漁村の寄神信仰が存在する。大和王朝系神事にはない出雲系神事に独特の蛇神祭祀の習俗を保持している。これが大和の三輪山に奉祀された蛇神の神話伝承と繫がっている。 この他にも、出雲・佐太大神誕生説話、大和・三輪山の丹塗矢説話、山城・賀茂別雷神誕生説話との類似性がある(出雲・麻須羅神=黄金の矢=竜蛇、大和・大物主=蛇神=八尋熊鰐=丹塗矢、山城・火雷神=丹塗矢)。このような類似の説話には、蛇神祭祀の習俗が色濃く残されている。

 まず出雲大社で旧暦10月の11日から17日まで開かれ、次に佐太神社に移動して旧暦10月26日まで会議の続きを行う。次に、簸川郡斐川町の斐伊川のほとりにある万九千神社に向い、旧暦10月26日に行われる神送りの神事を最後に神在月に集った八百万の神々は帰国する。かっては出雲地方に四つある神名火山(かんなびやま)に関係する神社すべてに神在祭があったと云う。出雲の神在祭は、こういう流れで各神社が関わる一大セレモニーとなっており、出雲地方全体で神々を迎え・見送りするのが慣わである。神在祭が終わって11月23日の夜から、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われる。

 出雲の神在祭はその構成から見る限り、古代出雲王国の国作り神話における神霊の海上来臨と山上奉祀の物語を儀礼的に再演し続けている祭りであると考えられる。「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社、神魂神社、朝山神社、万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回されるという伝承も成立した(神々来臨の目的は各社各様)。神在祭が終わって11月23日の夜から、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われる。

【出雲の特別な宗教性考】
 出雲国は他の諸国と比べて宗教性が濃い。他の風土記に神社の記事が極めて少ないのに対し、出雲国風土記(天平五年・七三三年)では、各郡各郷ごとに特別に詳記され、またその数も、中央の神祇官に登録されたものが184社、それ以外のものが215社、合計399社(神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣数、三百五十八本と関係がありそうだ)もある。平安時代の延喜式(延喜五年~延長五年)になると、この官登録の184社に3社を加えた187社(座)が式内社となっている。その数は隣の因幡国の50座、伯耆国の6座、石見国の34座に比べてケタ外れに多い。畿内の山城国122座、大和国286座、伊勢国252座などと肩を並べている。
(私論.私見)
 出雲に官社の数がこれほど多いことを、どう理解すべきだろうか。大和朝廷と特別な親近関係があったとみなすよりも、先行して存在した出雲王朝時代の遺物、国譲りに於ける幽事保証の賜物として理解すべきではなかろうか。












(私論.私見)