備中神楽国譲り譚



 (最新見直し2008.8.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 備中神楽の演目次第が「逸見芳春氏の神楽絵巻1」以下№11までサイトアップされている。早速これを購入してみる事にした。購入先は、「備北民報社の出版物のページ」の「神楽絵巻改訂版」。その後、神崎宣武氏編の「備中神楽の研究」(美星町教育委員会、1984.3.12日初版)を手に入れ、これらを参照に推敲した。

 いよ神楽考の本命中の本命、国譲り譚の考察に入ることにする。れんだいこは、神楽の演目はそれぞれ深い意味が有り、どれも外す訳にはいか無い事を承知しつつも、国譲り神楽さえあれば満喫できる。とは云うもののまだ観た事はないのだけれども。

 追伸。備中神楽は、他のどの神楽に比しても「国譲り譚」を正面から採り上げていることに意義はあるが、やはり想像していたようにかなり変質、こう云って良ければ高天原-大和王朝系の観点からする侵食を受けて居る。これを如何に当初の伝承原文に戻すか、これが課題になっているように思う。

 2008.8.1日、2008.8.13日再編 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評446 れんだいこ 2008/08/07
 【備中神楽に於ける国譲り譚の歴史的意義考】

 れんだいこの判ずるところ、「国譲り神楽」は本質的に政治性を帯びており、危険な裏史実伝承神楽であるやに見受けられる。その「国譲り」が、地元の出雲神楽に於いてよりも備中神楽でこそより生き生きと伝承されており、その意味で備中神楽は稀有希少な神楽に成り得ている。これを逆から云えば、「国譲り」をメインに採り上げ、かくも正面から神楽しているのが備中神楽であり、素晴らしいということになる。してみれば、この価値を減ずる方向の改訂は存在意義をなくし、これを当初より伝えられているところの生硬な形で保持する事が使命と云う事になろう。

 「国譲り」が、なぜ出雲神楽にではなく備中神楽に於いて保存されてきたのかが興味深い。推測するのに、地元出雲の地での国譲り神楽が陰に陽に行政的規制ないしは禁止されていた。為に出雲圏に有りながら出雲本地とは隣接しつつも中国山地で隔絶されていた備中に於いてこそ秘かに継承されてきたと云う事情に拠るのではあるまいか。

 「出雲王朝の高天原王朝への国譲り」は、日本古代史上の最大政変である。それは、高天原王朝による何の咎無き出雲王朝簒奪劇であった。それは、文明的に優れている方が劣っている方に恫喝と武力で王朝を奪われた事を意味している。日本史は全体的にこの時より大きな歪みを伴って今日へ至っている。

 記紀はこの史実を、高天原王朝-大和王朝の正義を裏付けるべく詐術しながら記述する事に並々ならぬ心血を注いでいる。これが当局肝いりの御用史観であるからそのプロパガンダ力は強く、通念となって今日に至っている。戦後になって、その通念的皇国史観は打破されたが、それはあくまで高天原王朝-大和王朝体制批判であり、出雲王朝論は依然として手付かずで現存している。この闇が知られ、探られねばなるまい。

 「備中神楽国譲り譚」は万巻の凡史書を退け、圧倒的迫力で史実をより克明に神楽で表現している。備中神楽は、その日本古代史上の最大政変である高天原王朝と出雲王朝の国譲り譚を、出雲王朝の正義と悲劇を語る観点から史実を忠実に神楽で伝承しているところに値打ちがある。

 御用史学が、当局ご都合主義的に編纂されている記紀神話に依拠して、高天原王朝-大和王朝史を正統的に記述する傾向があるのに対し、備中神楽は出雲王朝側からする政変ドラマを再現保存している。その史実性が高く評価されて然るべきほどに学問的水準以上のものを表現し得ている。ここに備中神楽の不朽の値打ちが認められる。

 加えて、面、踊り、囃子それぞれが有機的一体となって演じており、観客と一体になり、演劇的に堪能するのは無論、自ずと歴史を学ぶ効果を伴っている。しかもそれが、大和王朝的天皇制史観に拠らず、高天原王朝襲来以前の出雲王朝時代の政治を郷愁する役割を果たしている。神楽に興じながら触れるうちに自ずと裏歴史、実は本当の歴史が分かると云う仕掛けになっている。これは凄いと云うべきではなかろうか。
 
 2008.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評447 れんだいこ 2008/08/07
 【備中神楽に於ける国譲り譚のあらすじと史実証言】

 まず、高天原の勅使として経津主(ふつぬし)の命、武甕槌(たけみかづち)の命の両神が稲佐の浜をさして舞い下る。この神楽を「両神の舞」と云う。荒舞が荒々しく動きの激しい武装した舞であるのに対し、「両神の舞」は地舞であり、優美で端正な舞い方を特色としている。両神が一対となって舞うので高い技巧が要求される。それ以前にも複数の使者が派遣され、出雲王朝に取り込まれた経緯がナレーションで伝えられる。これにより、こたびの両神が有無を言わさずの国譲り使者として来朝したことが示唆される。

 次に、大国主の命が登場し「大国主命の舞」となる。大国主命は出雲統一王朝の国治めの神であり、日本書紀に「その子凡て百八十一神ます」と記される福徳円満の神として尊敬されている。王者の気品と威厳を漂わせながら八畳の間一杯に舞い広げる。神楽では、葦原中津国の竈(かまど)廻りをし、餅の福蒔きをした後休息する。

 次に、両神が大国主命に出合い、国譲りの談判をする。これを「国譲りの掛け合い」と云う。その遣り取りがさもありなんと思われるほど双方論証的説得的であり興味深い。大国主命は拒否し、小競り合いとなる。

 次に、そこへ稲背脛(いなせはぎ)の命が仲裁に入る。史実性は明らかではないが、あるいはこういう史実があったのかも知れない。神楽では「稲背脛命の舞」から「稲背脛命と両神の掛け合い」へと続く。稲背脛命の仲裁は功を奏せず、事代主(ことしろぬし)の命に下駄を預けることになる。

 こうして、事代主命の下へ伝令を送り、事代主命が登場し「事代主命の舞」となる。興味深いことに、事代主命は島根半島突端の美保の関で鯛(たい)釣りしていたとされている他方で、「馬を駆り、関に着き、諸手船に乗って海を渡る」仕草を演じる神楽社もあり、 「急ぐには、風の袴に両の駒、千里の道も今ぞひっと飛び」と歌われており、これによるとかなり遠隔地、恐らく大和の神であることが示唆されている。大国主の命の子供とされているが、実際の子供と云うより親子関係的なブレーンであり出雲王朝№2的地位にあった神と考えた方が適切と受け取ることができる余地を残している。案外これが史実ではなかろうかと思われる。

 次に、「大国主命と事代主命の親子勘評(かんひょう)」となる。「勘評」と云う言葉は漢和辞典をひいても見あたらない。「勘」は勘当の「勘」であり、「評」は評議の「評」である。語感からすれば、相当きつい相談、評定(評議)が為されたと云う事を伝えているように思われる。

 その結果、高天原王朝の命に従い国土を奉献することとなる。この時の遣り取りも興味深く、政治の実権を高天原王朝に譲り、幽界に隠れる経緯顛末が明かされている。それによると、出雲王朝は、無用な戦いを避け「万事和を以って尊っとし」と為し、高天原王朝が創出する新王朝に参画し勢力を温存する作戦に向かったと裏読みする事ができる。案外これが史実かも知れない。れんだいこは、日本型和合政治の原型がここに定まったと窺う。とにもかくにもこうして国譲りが定まった。

 次に、この国譲りに反対する建御名方(たけみなかた)の命が登場し「建御名方命の舞」となる。建御名方命も類推すれば、事代主命同様に大国主命の息子と云うより親子関係的なブレーンであり出雲王朝№3的地位にあった神と考えることができるのではあるまいか。建御名方命は、事代主命が和睦派となったのに対し武闘派として抗戦していくことになる。

 かくて、建御名方命軍と高天原王朝軍との間に一大決戦が始まる。神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)は次のように記している。
「建御名方命の面は凄まじい鬼面で、これにより荒鬼と呼ばれる。口は耳まで裂け、牙を剥き出している。蓬々たる髭髪が面を覆い、動くたびにその隙間からのぞく鬼面をより凶悪なものにする」。

 これによれば、建御名方命は鬼として表象されている。ということは、古代史上の「鬼退治」は、高天原-大和王朝に服属しなかった出雲王朝内の建御名方命系残党派征伐であったと考えることができる余地を残していることになる。全国各地の鬼退治譚の真相は案外そのようなものであるかも知れない。

 この戦いは備中神楽上最大の激闘となる。前半は幣を使い、後半は刀を用いる。刀を使う合戦になると、両神側に助太刀と云う舞い手が加わる。これは、両神側の軍勢の強さを語っており、建御名方命側が多勢に無勢で押されたことを暗喩して入るように思われる。

 建御名方命軍は次第に追いやられ、信州諏訪大社へ逃げ込む。高天原王朝軍はこれ以上深追いできなかった。そういう拮抗関係上で和睦となる。神楽では、建御名方命が遂に力尽き、両神に降参したことになる。実際には、建御名方命は、大国主命、事代主命同様に政治的支配権を譲り、その土地の守護神として非政治的に生息する限りに於いて許容されると云う「日本型特殊な手打ち」を見せている。れんだいこは、日本型手打ち政治の原型がここに定まったと窺う。

 「祝い込み」で完結する。かくて国譲りとなり、高天原王朝への国土奉献が完了する。備中神楽はこの一部始終を神楽で表現している。 

 一般に、日本古代史上の歴史通念は、国史書である古事記、日本書紀の記述に従い、高天原王朝の渡来的正義を確認する意識下に有る。ところが、備中神楽ではこの通念に棹差すかの如く、「記紀通念」に歪められることなく出雲王朝時代を追憶し伝承している。この神楽が悠久の歴史の中で保存され今日に至っている価値は大きいと云うべきではなかろうか。

 もっとも、このように自覚され保存伝承されてきたのではない。神楽太夫達は古来よりの伝承を非政治的にひたすら墨守する作風で神事芸能神楽として伝承請負して今日へ至っている。下手に政治性を帯びなかったことが弾圧される事なく生き延び得た要因でもあるように思われる。れんだいこ的には歴史の摩訶不思議と云うしかない。

 2008.8.7日 れんだいこ拝


(私論.私見) 【国譲り神楽逐一検証はじめに】
 以下、備中神楽に於ける「国譲り譚」の逐一を検証する。これにより、国譲りの実態がより克明に分かるであろう。記紀文書で判明する史実と神楽で判明する史実を付き合わせれば、なお能く分かるであろう。但し、備中神楽に於いても既にどの時点よりかは不明であるが既に伝承原文は散逸しているようである。これにより社中によって口上が異なるようである。これを比較対照するのも一案であるが、これは別の研究になる。

 現在の口上は、恐らく当局の行政的監視により止むを得なかったのだと思われるが、多分に高天原神話よりする書き換えが過剰に為されているように思われる。これにより時局迎合的な事大主義的描写が侠雑している。その辺りを原文に戻さない限り本来の備中神楽にはなり得ない。れんだいこがこれを剥がして、本来はこう口上し演じていたのではなかろうかと推定しながら確認して行くことにする。これを仮に「れんだいこ推理文」と命名する。未だれんだいこ言葉にならないところはそのまま踏襲しておくことにする。恐らく、「れんだいこ推理文」の方が伝承原文に近いのではないかと自負している。

 2008.8.12日 れんだいこ拝

【国譲り神楽その1、両神の天下り】
 高天原王朝は、葦原中津国の出雲王朝へ国譲りの特使を何度も送っていた。先ず、天照大御神から数えて二代目に当たる天押穂耳の時、天ほひの命を勅使として派遣した。この時は、大国主の命が旺盛に国づくりしている時で、「この葦原中津国は未だ国が若い。今しばらくは大国主の命に治めさせよう」ということになった、と云う。

 三代目になって、第一番目に武夷鳥(たけひなどり)の命が派遣された。ところが、武夷鳥の命は大国主の命の国土経営に共感し、誼を通じる事になった。

 高天原王朝は二番目の勅使として天若彦の命を派遣した。天若彦には天の加護弓と波々矢を持たせた。ところが、大国主の命の娘・下照姫と恋仲になり、武夷鳥の命同様に大国主の命に誼を通じる事になった。不審に思った高天原王朝は、七瀬の雉を遣わし、天若彦の命の動静を探らせた。天若彦の命は、一鳴きした雉に気づいて、大国主の命に誼を通じる様子を報告されては一大事と云う事で、天の加護弓に波々矢をつがえて七瀬の雉を撃った。ところが、その雉を射た矢がそのまま高天原に舞い戻った。これを見た高天原王朝は、天若彦の命が違背していたならこの矢に当たれ、そうでなければ大国主の命に当たれと射返したところ、天若彦の命に当たり命を失った。

 高天原王朝は、最後の勅使として経津主(ふつぬし)の命、武甕槌(たけみかづち)の命両神を派遣した。
 「(神の座す)高天原より天下り、瑞穂の国へ急ぐらん」。この神歌とともに、二柱(ふたはしら)の神が並んで現れる。この二神を、通称「両神(りょうしん)」と呼ぶ。 これが、「杵築(きつぎ)の能(のう)」、別名「国譲(くにゆず)り」の始まりである。経津主は弁舌さわやかな智将、一方の武甕槌は武技にすぐれた勇将である。三時間以上に及ぶこの能では、始めから終わりまで登場する重要な神神であって、いわば主役を務める。

 両神の舞
(ト書き)  舞は一対だから、呼吸がピッタリ合っていなければならない。ゆったりと、そして、上品に、しかも内に闘志を秘めた両神の舞は、いわゆる地舞(じまい)の基礎舞の手本たるべし。
神歌  「(神のます)高天原より天下り、瑞穂の国へ急ぐらん」。
(解説)  高天原王朝は、出雲王朝を「瑞穂の国」と評している。
 一畳の舞
両神一  「さって、このところに舞い出したる神をいかなる神とや思うらん。これなるは、皇天は御祖(みおや)の神に仕え奉る、磐筒男(いわつつお)、磐筒女(いわつつめ)の神の御子(おんこ)、日の神より神勅を受け天下る、我は経津主(ふつぬし)の命にて候」。
両神二  「まった、これなるは同勅使、甕速日(みかのはやひ)の神の御子、武甕槌(たけみかづち)の命」。
両神  「右二柱(ふたはしら)にて候」。
 二畳の舞
神歌  「出雲なる稲佐の浜に下り立ちて、大国主を待つぞ久しき」。
両神  「このところにおいて、大国主の命を相待たばやと存じ候」。
 三畳の舞

【国譲り神楽その2、大国主命の餅投げ】
 舞台は代わって大国主の命が舞いながら登場する。大国主の命は頭に大きな福頭巾(ずきん)をかぶり、大黒面を着け、右手に扇子、左手に打ち出の小槌(こづち)を持っている。頭巾には、「上を見ては及ばぬ事の多かりき。下見て暮らせ己が心を」と記している。

 大国主の命は出雲王朝の主であり、縁結びや産子繁栄の神様である。かまど廻りをしながら人々に福の種を蒔くことで知られている。かく出雲王朝政治の善政特質が示唆されている。その大国主の命が、太鼓の胴をトントンと槌で打つと、忽然として「万福袋(まんぷぶくろ)」に入った福餅が現れる。太鼓の囃子に乗りながら、東南西北、さらに中央に餅を一つずつ投げて清める。次に、神前、大当番の順に餅を供え、続いて、神楽場に集まる人々に餅を投げ与える。

 大国主の命の舞
神歌  「青垣山のふもとより、神風(かんかぜ)吹くぞ、涼しかるらん」。
 一畳の舞
大国主  「さって、このところに舞い出したる神をいかなる神とや思うらん。我こそは、葦原色(「醜」とも書く)男の神とて八千矛の神、この国の主(あるじ)、大国主の命なり。我、このところに舞い出したるは他でもない、国土経営なさんがため。これより十二氏子五姓の大御宝(おおみたから)の竈廻り(「御門(みかど)巡り」とも記す)なさばやと存じ候」。
太鼓  「こは有り難き、まった、尊き神にて候」。
 二畳の舞
大国主  「御門巡りいたし見るに、我に敵とう者とて更に無し。いずれも我を尊信まつる輩(ともがら)ばかりなるによって、これより集まる氏子に福徳幸福を授けばやと存じ候。叉、手向かう者が有る時は、打ち出の小槌を持って、世を靖国と鎮めるなり」。
太鼓  「急ぎ給えやの」。
(ト書き)  竈廻りの舞の後、歌ぐらを一首詠じる。続いて、到着の言葉と次の歌ぐらを一首詠じる。
神歌  「大八州島(おおやしま)の崎々安らげく、残る隈(くま)なくつきし広矛(ひろほこ)」。
 幕掛かりの舞
(ト書き)  太鼓の胴をトントンと叩くと、忽然として「万福袋」に入った福餅が現われる。これより餅投げとなる。神楽場のムードは最高潮になる。
太鼓  「これはこれは御命(おんみこと)におかれては、なにやら御宝(みたから)が出た儀にござるぞな」。
大国主  「これはしたり。なにやら御宝が出た儀にござるとな。老いたりと言えども、我が打つ槌に狂いはなし。御宝が出たとあるなれば、一首の神歌をもって中をあらため申さん」。
神歌  「大国が、万福袋の紐といて、集まる氏子に福を授けん」。
太鼓  「播(ま)こうや播こうや、福の種を播こうや。かより東方は、東方と申さば、きのえきのとの大小神祇の下(お)りえなされる神のな御前(みまえ)に打ちや向かいて福の種を播こうや」。
太鼓  「播こうや播こうや、福の種を播こうや。かより南方へ福の種を播こうや」。
太鼓  「播こうや播こうや、福の種を播こうや。かより西方へ福の種を播こうや」。
太鼓  「播こうや播こうや、福の種を播こうや。かより北方へ福の種を播こうや」。
太鼓  「播こうや播こうや、福の種を播こうや。かより中央へ福の種を播こうや」。
太鼓  「さてまた、神前に福の種を供える。さてまた、大当番にも福の種を授ける。さてまた、集まる氏子に、福の種を授ける」。
 餅投げ。
(ト書き)  この時、満場総立ちとなる。
大国主  「残り物に福ありとはこのことなり。これは大当番に納め置くものなり」。

【国譲り神楽その3、国譲りの掛け合い】
 大国主の命の餅投げが終わり、たくさんの福の種をプレゼントして休憩しているところへ、幕の内から両神が現れる。太鼓のリズムに合わせて、経津主命(ふつぬしのみこと)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)の両神が大幕を開け、小幕を蹴って出てくる。両神が相舞とか地舞を舞いながらゆったりと登場する。

 両神は同じ衣装を纏い似たような面で登場するが、その面はどちらも受け口で少し口を開けているが、上下の歯が見えるのが経津主命、上の歯しか見えないのが武甕槌命である。経津主命は弁舌逞しく、武甕槌命は武威の神である事を表している。
 まず、名乗り合いとなる。

 両神と大国主の命の名乗り合い
言い立て  「ようやく急ぎ候て稲佐の浜に着いたと覚えて有り、この所において大国主の命をあい待たばやと存じ候」。
(ト書き)  両神と大国主との遣り取りは坐ったままの台詞劇。
両神一  「磯の松風いとどさやけて見えけるに、左の御手に打ち出の小槌をたずさえ、背には万福の袋を背負い、にこらふくらと美しき舞をなさしめ給う神、いずこいかなる神にてましますか、その美しき御名さとし給えやな」。
大国主  「これはしたり、我が名を尋ね給うかな。我こそはこの国の主(あるじ)大国主の命にてましますが、かく我が名を尋ね給う神、いずこいかなる神にて候や。その美しき御名、さとし給えやな」。
両神一  「我こそは皇天は御祖(みおや)の神に仕え奉る、磐筒男磐筒女の神の御子、経津主(ふつぬし)の命にて候」。
両神二  「まった、これなるは同勅使、甕速日の神の御子、武甕槌(たけみかづち)の命、右二柱にてましますぞな」。
大国主  「これはしたり、いずこの神かと思いしに、高天原につかえ奉る経津主、武甕槌の御両神とな。天津(あまつ)神のことに候えば、それがし左右の御座に御座しめ給え。とくと対面つかまつるにて候」。
両神一  「しからば、左右の美しき御座、許し給えやな」。

 名乗り合いが済み、いよいよ国譲りの交渉に入る。(長編語りとなるので、第一弾、二弾に分けることとする)

 両神と大国主の命の国譲り掛け合いその一
大国主  「天津神には、この地に用なき神に候えば、このたびは、なんらの用件にて天下られ候かな」。
両神一  「されば候、今般この地に天下りしこと、余の儀にあらず。こたび高天原においては、三代の君の皇孫(すめらぎ)ニニギの命の御参政と相成り、天照大神以来の勅(みことのり)してのたまわく、『豊葦原(とよあしはら)千五百(ちいほ)の長い穂、秋の瑞穂の国は、我が子孫の世々にして治むべき地なり。なんじ皇孫行きてしろしめせ。天津日嗣(あまつひつぎ)の豊祚(ほうそ)の栄えまさんこと天地と共に窮(きわま)りなかるべし』。この大御言(おおみこと)により、我々両神、重き勅命頭にいただき、そなたのしろしめす国どころを所望に天下り候。なにとぞ、この国を日の神にご献上あらしめ給えやな」。
(解説)  高天原王朝は、出雲王朝を「豊葦原の千五百穂の秋の瑞穂の国」と評している。
大国主  「これはしたり、御両神にはいかなるご用件にて天下られ候かと思えば、高天原の御神勅を戴いての国譲りの件にて天下られ候か。こは、ご苦労なることに候。しかしながら、よく聞き給え。この国と申するは、今日に至るまで世々に亙って艱難辛苦して造り上げし国に候えば、いかに日の神の命とは言え、国譲ること叶わず。このよし、高天原に立ち帰り、日の神に言上あらしめ給え」。
両神二  「これはしたり、御命(おんみこと)のご返答、ごもっともなる次第なれども、よく聞き給え御命。そもそもこの国の始まりたるや、イザナギ、イザナミの命、天の浮橋に立ち給い、この下に国あらんか島なからんやと、天のぬ鉾を差し下し、かき給えば、ぬ鉾の先より滴り落つ雫(しずく)固まりて一つの島となるなり。これをオノコロ島と称するなり。これより次々と国を産ませ給い、この大八州も産ませ給う島なり。さすれば、汝共が艱難辛苦して造り上げし国に候えども、元々を質せば汝らの国には非ず。イザナギ、イザナミの命の創始し給う国なり。そのご神統を持つのが高天原、高天原に国譲り給うが筋と云うものではござらんか」。
大国主  「そなた等の神話によればさもあらんか。なれどよく聞き給え、御両神。我々は叉別の神話を戴いておる。概ねその弁を述べんに、天地が初めてできたとき、天の御中主の神(アマノミナカヌシの神)、高御産巣日神(タカミムスヒの神)、神産巣日神(カミムスヒの神)の三柱が御座った。これを造化の三神と云う。私どもの国は、この神話に支えられた国であり、この三神に導かれて、この国の経営が代々為され今日へと至っている。その元深く、かつ重し。そなた等に都合の良い神話を勝手に持ち出されて、ハイそうですかと国を差し出す訳には参らぬ。

 我が国はここに至るまでの間、神民共々心を一つとなし、大海原にむつびの綱を打ち掛け、もそろもそろと引き寄せ、合いたるところを国となし、合わざるところを島となし、所々に府県を立て、荒野を開墾なし、五穀を作り、水利を開き、堤防を築き、害虫鳥獣を除くに呪(まじない)の法を修め、病める者には医薬を与え、貧なる者には福徳を授け、おろか者には説諭をなし、「豊葦原の千五百穂の秋の瑞穂の国」と云われるまでになった。

 なに不自由なく治まり、今に豊祚(ほうそ)に栄えまさし国に候えば、いかに仰せあそばすとも譲ることあいかなわず。このよし、日の神に復命あらしめ給え
」。
両神一  「御命のご弁論承り候えばもっともに候かなれども、よく聞き給え。普天の下(もと)は卒土(そつど)の賓(ひん)、いずれ王土にあらざるなし。御命におかれては七つの御名まで現し給う御方に候わずや。そのご高徳に照らせば、ここは一つ国譲り給うが、御命のご政道にてはましまさんかな」。
大国主  「これはしたり。普天の下は卒土の賓、いずれ王土にあらざるはなけれども、天下の天を高天原に求めるのはそなた等の勝手に申せし事で、我が国を勝手に編入されるのは迷惑千万と云うもの。申したるごとく、この国と申するは、歴代艱難辛苦して作り固めし国なれば、いかに仰せあろうとも、譲ることあいかなわず。ましてや即刻の返答を迫るとは。早々に引き取り給え」。

 この第一弾の遣り取りで、お互いの言い分が交差される。次に、互いの言い分の検証に入る。
 両神と大国主の命の国譲り掛け合いその二
両神一  「命殿、よくお聞き為されよ。国譲りは既に二代の君、天押穂耳(あめのおしほみみ)の命の頃よりの御心組みなり。この神は、第一番の勅使として天穂日(あめのほひ)の命を遣わした。命は、天の浮橋に立ち給うて下界をご一覧召さるところ、未だもって国若きが故に大国主の命に今しばらく治めさせ様子を見んとて猶予を与えた。これを知りたるや」。
大国主  「その昔より、高天原が、この豊葦原の千五百穂の秋の瑞穂の国に深い関心を示してきた事は承知しているところである」。
両神一  「今時至り、三代の君になって数次に亙って使者を派遣した。まず武夷鳥(たけひなどり)の命を遣わした。但し、この使者は御命の甘言に迷うて取り込まれてしまったか、何の報告も無い。次に、天若彦(あめわかひこ)の命を遣わした。この時、天の加護弓、波々矢を持たせて御降しになるも、御命の娘、下照姫の色香に迷うて、またしても取り込まれてしまった。次に、七瀬の雉(きじ)を遣わした。天若彦の命は、御命に帰順したことを知らされるのを恐れて、雉を射殺した。これが高天原に伝わり、三代の君は、天若彦の命が翻心し、命に従うよう諭し給うも聞き分けない故に、当方が成敗した。

 このたび、高天原は朝議で不退転の決意を打ち固めた。高天原に於いては、もはや猶予致すべくもなく、今回我々が登場することと相成った。この経緯を思えば、国譲りにつき十分詰み切っており、高天原は既に十分に意を尽くしておると考える。如何か返答せよ
」。
大国主  「なるほど、再三の勅使を御降しに相成った点についてはその通りである。しかしながら、よく考えてみ給え。武夷鳥(たけひなどり)の命にせよ、天若彦の命にせよ、勅命に背いてまで我が国の経営に情を通じ、共々の国づくりに向かう事になった訳を思え。

 そもそも、高天原との関係で云えば、よく聞き給え。我が王朝の先代を為すスサノウの命は高天原からやって来た。我が国と高天原はスサノウの命により繋がっている。その神話を聞けば、その昔、高天原に於いてイザナミの神失せ給いし時、イザナギの神呼び戻すべく黄泉の国へ訪ねるももはや心通ぜず、仕舞いには鬼神に追われ、よもの平坂をようやく抜けて出て日向国の高千穂の小戸(おど)のあわぎ原の中つ瀬に落ち着き、ここで禊をなし給いし時、左の目を洗い給いて日の神を生じ給い、右の目を洗い給いて月読の神を生じ給い、鼻を洗いてスサノウの命を生じ給い、日の神は高天原をつかさどり給え、月読命は夜のうす国をしろし召せ、スサノウの命は海をしろし召せと御託宣為された。

 そのスサノウの命が我が国へやって来て、我が王朝を拵え、国造りの神となってこの国を経営為されてきた。これは、我が国と高天原との繫がりを示している。この繫がりは友好の道を示せども、国譲りには至らない。今高天原が国譲りに拘るのは理不尽と申すべきではなかろうか
」。
両神一  「これはしたり。御命は、スサノウの命を持ち出すか。なれども、スサノウの命は高天原において日の神に荒々しき振る舞いをなしたるにより、日の神のお怒りに触れ、追放された命である。そういう脛に傷持つ履歴のスサノウの命引き合いに出しても何の意味もござらぬ」。
大国主  「これはしたり、ならばもう一つ聞かせよう、よく聞き給え、御両神。私の御代になっての或る時、美保の岬において天の鏡船に乗り来ませる神あり。いかなる神かと問えば、高天原のカンムスビ神の御子スクナヒコナの神と判明せり。以来、この命ととスクナヒコナの神は、と二つ心を一つとなし、この国を経営して来た。この繫がりは、高天原との友好の道を示せども、国譲りにはならない。何ゆえ、国譲りをせかし給うや」。

 国譲りの交渉が決裂し合戦に入る。

両神二  「御命(おんみこと)のご弁論、逐一承り候えば、ごもっともなる次第なれども、よく聞き給え。これほど理非善悪をこと分けて申しても分からざるにおいては、我々は、これまでの御使いとはこと違い、最後の勅使なるぞ。綸言(りんげん)汗のごとく出て再び帰らざる覚悟に候えば、武甕槌命の猛き勢いをもって御命の生首引っさげてでも、切っても張ってもこの国は請い受けて帰る所存に候。こたびは日の神の厳命なり。御覚悟ありて、国譲りするかしないのか、二つに一つの返答あるべし」。
大国主  「これはしたり、御両神にはそれがしの生首引っさげてでも国を請い受け帰ると仰せあそばすか。それは国賊と申すものなり。いざ進軍とあいなれば、それがしには数万の味方がござる。これが応援なさば御両神の敗北は明白でござる。それでも苦しうござらぬか。止むをえん、この打ち出の小槌の武威をもってお相手仕る」。
両神一  「問答無用。いざさぁ立ち上がり候え。我々、左の腰に手挟む一刀は千敵も一度に滅ぶと云う宝剣なり。これでお相手つかまつろう」。
大国主  「しからば、一戦交えつかまつらん。この天(あめ)の平鉾の剣(槌)でお相手申そう」。
両神一、二  「しからば、いざ」。
大国主  「しからば、いざ」。
 幣と扇との合戦。
両神二  「逃げ隠れし、敵に後ろを見せるとは卑怯でござろう。掛かって参れ」。
大国主  「卑怯ではござらん。進む引くは軍事の常道、戦略の要諦なり。ご両神こそ掛かって参れ」。
両神一  「これはしたり。ならば、我々皇天出立の際に、腰にたばさむ一刀は一寸抜けば一万才(ざい)、二寸抜けば二万才、三寸抜けば三万三千才、千敵も一度に亡ぶという宝剣がござる。これをもってお相手つかまつろう」。
大国主  「これはしたり、御両神。しからば、それがしもこの天の平鉾の剣を右手に構え、打って打って打ちまくろう。後帽子に大きなコブが出来ても苦しうござらぬか。しからば、いざ」。
 剣と槌との合戦。

【国譲り神楽その3、稲脊脛の仲裁
 大国主の命と両神の問答は決裂する。両者、戦うが、なかなか勝負がつかない。この時、幕内から「待った。待った。この戦争、しばらく待った」と、手拍子を鳴らしながら声をかけ、中に割って入るのが稲脊脛(いなしはぎ)の命である。元々は高天原より派遣された武夷鳥(たけひなどり)の命である。

 稲脊脛の命の元々の口上は散逸しているようである。あるいは、伝承原文そのままに口上するのはよほど不都合があるのかも知れない。現在の備中神楽のこの下りは大きく茶化し、現代評論風に口上されている。これをそのまま書き写しても意味が無いので概略を記しておく。

 稲脊脛の命は登場当初、一方的傲慢不遜に、両神の身元調べや罪状などをあばき立てる。ところが、稲脊脛命の身元が明かされ、返す刀で稲脊脛の命の素性が問われ、元々高天原より派遣された使者であることが判明するに及び次第に旗色が悪くなってくる。両神は、使者の役目を放棄した弱みを衝き、稲脊脛の命が結局、大国主命の長子、事代主命(ことしろぬしのみこと)に相談しては、という調停案を出して、両神に許される。その経緯が長々と綴られている。思うに、伝承原文が相当に長かったと云うことではなかろうか。

 以下、「れんだいこ推定文」を記す。

 稲脊脛と両神の掛け合い
稲脊脛  「待った。待った。この戦争、しばらく待った。国譲りの件は、この稲脊脛にお任せくだされまいか」。
両神一  「お前は何者ぞ」。
稲脊脛  「人の身元を尋ねるからには、まず自分の方から名乗るのが筋ではござらんか」。
両神一  「ならば明かそう。我は、皇天は御祖(みおや)の神に仕え奉る、磐筒男(いわつつお)、磐筒女(いわつつめ)の神の御子(おんこ)、日の神より神勅を受け天下る、我は経津主(ふつぬし)の命にて候
両神二  「我は、同勅使、甕速日(みかのはやひ)の神の御子、武甕槌(たけみかづち)の命」。
稲脊脛  「して、何をしに参ったのじゃな」。
両神一  「こたび、高天原に於いては、三代の君の皇孫(すめらぎ)としてニニギの命順調にご生育遊ばれ、今や命の御参政の御世と相成り、天照大神以来の勅(みことのり)してのたまわく、『豊葦原(とよあしはら)千五百(ちいほ)の長い穂、秋の瑞穂の国は、我が子孫の世々にして治むべき地なり。なんじ皇孫行きてしろしめせ。天津日嗣(あまつひつぎ)の豊祚(ほうそ)の栄えまさんこと天地と共に窮(きわま)りなかるべし』。この大御言(おおみこと)により、我々両神、重き勅命頭にいただき、そなたのしろしめす国どころを所望に天下り候」。
稲脊脛  「それはお役目大儀でござる。なれど、高天原の一方的なご神勅で、この国が易々と従うというのは有り得ないことではあるわな。そもそもこの国は、高天原と比しても遜色のない、これまた神の御世が歴代続く神の国であるぞな。この辺り承知しているか」。
両神一  「詳しく申せ」。
稲脊脛  「(ここで、稲脊脛が、出雲王朝史を延々と語る。時に高天原王朝史と比較しながら出雲王朝の素晴らしさを説く)」。
両神一  「高天原に詳しいそちは何者ぞ」。
稲脊脛  「おぅ、これは失礼した。私は高天原にある時は武夷鳥の命。そしてこの地に天下ってからは大国主の命と主従の契約を結んで家来として仕えているところの稲脊脛である」。
(ト書き)  稲脊脛が身元を明かしたところから形勢が転じ、それまでの威圧的な物言いから許しを請う非勢へと変わる。
両神一  「お前は元をただせば、第一番の勅使として高天原からこの地に下ったのではないか。それにも拘らず帰り言を致さず、この地で大国主の命の家来になるとは何事か」。
稲脊脛  「それと云うのも、私は、出雲へやって来て大国主の命様が治める様子を見て、これこそ理想の政治ならんと知り、以来ご協力を申し上げる身に転じた。当地では、上も下もが相協力し御国を支え、諸人が神を敬い人を慕い和している。これは素晴らしいことではござらぬか。

 汝ら御命令に従ってのことであろうが、いきなり剣を抜くようなことではあるまい。ここは一つ、お互いに良かれの道を追求すべきではないのか
」。
 稲脊脛と太鼓の掛け合い
両神一  「稲脊脛殿、そなたがどう弁じようと、そなたの変心は高天原から見れば裏切りである。高天原の者が出雲へ寝返って良い訳があろうまい。使者は、使者の本分を尽す事が使命ではござらんか」。
稲脊脛  「云われてみれば、使者の立場を損ねた非がある。汚名挽回、名誉回復のためご協力させていただきますので、私の役に立つ事なら何なりと云い付けくだされ」。
両神一  「そこまで改心したのなら許そう。して、何か名案はあるか」。
稲脊脛  「こたびの国譲りの件を稲脊脛に御託しくださるなら、当地の事情に通じた稲脊脛ならではの相互に良きような取り計らいを致しまする。この儀、いかがならん」。
両神一  「申せ」。
稲脊脛  「大国主の命にはたくさんの子供がおいでである。その中に、天に在りては地のことを知り、地に有りては天のことを知ると云われる誠に賢い事代主の命様がおられる。この事代主の命様と大国主の命様がご相談為されるのが良いかと存じます。暫しの猶予を貸してくださらんか」。
両神一  「そういうことであるなら、稲脊脛に一任するから良きに取り計らえ。今しばらく見守ろう」。
 両神、退場。

 参考までに、「稲脊脛と両神の掛け合い現代バージョン」に言及しておくと、史実性の高いと思われる遣り取りを全く無視し、稲脊脛のひょうきんさをのみ浮き彫りにするものに仕立てている。これを現代世相に応じたものにしているので面白みはあるが、国譲りそのものの遣り取りとは関係ないので割愛する。「稲脊脛と両神の掛け合い現代バージョン」は駄作であり、使いものにならない。但し、それまでの緊迫した遣り取りの息抜きとして演芸効果はあるのかも知れない。

【国譲り神楽その4、 事代主の呼び出し 】
稲脊脛  「なんと、音楽さん。さっきのやりとりを見ておられましたか」。
太鼓  「いや、私は知りませんが。どうなされました」。
稲脊脛  「難儀なことを請け負わされました。音楽さん、請け負うてくださらんか」。
太鼓  「私は知りません。あなたが請け負われたのですから、なさらにゃあいけません」。
稲脊脛  「そうですか。そんなら仕方がありません。ところで、美保関まで行くには、なにがいいでしょうかな」。
太鼓  「そうですなあ。それは馬がよろしかろう」。
稲脊脛  「そうかな。それでは、馬を借りて来ましょう」。
(ト書き)  稲脊脛、馬を借りに幕内に入る。

 稲脊脛(いなしはぎ)は、素元(すもと)を馬に見立てて、幕内から引き出してくる。太鼓の急調子に乗って、美保関めざして、一気に馬を駆る。関に着くまで、畳の上を数十回跳び上がる。このあと、陣羽織をぬいで、艫綱に見立て、諸手船に乗って海を渡る仕草を演じる神楽社もある。

稲脊脛  「ドウドウドウドウ。馬を借りて来ました。なんと、音楽さん。この馬はずいぶん痩せとりますなあ。その上、早う乗れ、早う行ってえと、尻をピンコ、ピンコと上げようりますがな」。
神歌  「急ぐには風の袴に火の車(「両の駒」とも記す)、千里の道をひっと跳びにする」。
 稲脊脛、素元の馬を走らせる。
稲脊脛  「音楽さん。とうとう着きました」。
太鼓  「どこえな」。
稲脊脛  「お尻が畳に着きました。ところで音楽さん。このへんから事代主命を呼んだら聞こえるでしょうか」。
太鼓  「そりゃあ、聞こえましょう」。
稲脊脛  「そうですか。それでは大声で呼んでみましょう。さって、このところに事代主命様はおわしまさんかな。おわしますなら、はやばやおん立ち給えやな」。

【国譲り神楽その5、 事代主の舞 】
 大国主命(おおくにぬしのみこと)の長子、事代主(ことしろぬし)の命が、にこやかな面相で舞い出る。

 神歌「沖中に、はるかに見ゆるあの岩は、あれぞ、恵比寿(えびす)の腰掛けの岩」。神楽では、舞い出る神々ごとに独特の節回しをもった神歌を歌う。神歌は、いわば、舞い出る神の性格と役割を知らせる一種のせりふだと思えばよい。この神歌の中に「えびす」とあるのは、大黒(だいこく)、恵比寿(えびす)と対になった福の神で、事代主の別名である。 この神の舞は、華やかな衣装と釣竿が特徴である。

 舞い手には、おおむね小柄な太夫が選ばれる。また、初心者が習い始めるのも、たいてい事代主である。それは、動きが激しいが、複雑に見えて、実はそれほど難しい舞ではないからである。若い者向きだといわれ、いくらベテランが舞っても、若さには勝てない。

 
室町時代から江戸時代にかけて人気のあった民間信仰に七福神というものがある。その中に「恵比寿(えびす)」「大黒天(だいこくてん)」という福の神がいる。神楽に登場する「事代主」を「えびす・えべっさん」、「大国主」を「だいこく・だいこくさん」と呼ぶ呼び方もある。いつの間にか民間信仰の福の神に置き換えられ伝承されている。

 鯛釣り

 島根半島の突端に美保の関がある。ここは昔から鯛(たい)の釣り場として有名であった。対馬暖流にのって回遊する鯛をねらったものだ。 言い伝えによれば、釣り好きな事代主命(ことしろぬしのみこと)が、一番鶏の鳴き声にだまされて、真夜中に鯛釣りに出かけ、鰐鮫(わにざめ)に片足を食いちぎられたという。だから、事代主の舞は、片足ではねたり跳んだりする所作が織り込まれている。軽快で、生き生きと、いかにもうれしそうに、楽しそうに鯛釣りに興じているさまを表現するのが、上手な舞い方である。

 この舞いは、各社中ごとに、いろいろ工夫して演出し、特に鯛を釣り上げるところが圧巻であろう。しかし、太鼓のリズムはほぼ共通していて、子どもでも覚えやすい。

 ある神楽社で、大国主の命の面を忘れたことがあった。やむを得ず、事代主の面で間に合わせたが、「えろう、こまい面の大国じゃった」と不興を買った。親子だから面相は似ているが、どこそこ違うものだ。

 小道具の鯛と竿

 神楽では、舞もさることながら、衣装や小道具も大切な必需品である。扇、刀、長剣、槌、素元などの小道具については既に述べた。本文「鯛釣り」で使う小道具は鯛。その鯛の後日談がある。ある時、事代主命舞の太夫が鯛を忘れた。急遽、会場の役員が折り紙で急ごしらえの鯛を作り何とか間に合わせた。竿は前述の素元(すもと)を使うが、両端の花紙は五色紙を用いる。

事代主  「承って候」。
神歌  「沖中に、はるかに見ゆるあの岩は、あれぞ、恵比寿の腰掛けの岩」。
 一畳の舞
事代主  「さって、このところに舞い出だす神をいかなる神とや思うらん。我こそはこの国の主(あるじ)大国主命(おおくにぬしのみこと)が一子、事代主命 (ことしろぬしのみこと)にて候」。
 二畳の舞
神歌  「魚のえ越えてゆくらむ出雲なる、美保の岬で釣りぞ楽しむ」。
神歌  「今日もまた美保の浜沖静かにて いざ船浮けて釣をえん」。
神歌  「いなどりや釣の遊びも空晴れて 波風立たぬ今日の楽しさ」。
事代主  「さって、海上波静かなれば、これより釣り針おろさばやと存じ候」。

 稲脊脛と事代主の遣り取りは、元々無かったのか割愛されているのか、備中神楽では演ぜられないようである。しかし、その後の流れからして、この時、稲脊脛が「この国を顕界と幽界の二つに分け、顕界即ち政治の表向きを高天原に譲り、葦原中津国は幽界にて生き延びる」秘策を告げ、事代主がこれを名案として承ったと推定される。その遣り取りは表には出てこない。当然、神楽にもなっていないようである。

【国譲り神楽その6、親子勘評 】
 こうして、いきなり次の「親子勘評の場面」となる。「勘評(かんひょう)」という言葉は漢和辞典をひいても見あたらない。しかし、よく考えて評議するという意味ではあるらしい。

 親子勘評
大国主  「早かりし早かりし。なんじは一子、事代主命にてありけるかな」。
事代主  「されば候。我、釣りの真っ最中において稲脊脛命を急使 に立て、はやばや、この土(ど)に呼び返し給いしは、なんらの用件にてましますか」。
(解説)  この口上が伝承原文だとすれば、大国主と事代主命は「一子」と申しながら実際の親子関係ではなく、擬制的な同盟関係の例えとして「一子」としていることになる。
大国主  「されば候。なんじを呼び出したるは余の儀にあらず。今般、高天原より経津主、武甕槌の両神、天下り候いて、この豊葦原中津国を日の神に献上せよと候。なんじ、これにつきいかに考うるかや」。
事代主  「さればに候。戦をもって対するが常道のところ、こことは一つ堪え難きを堪えるのが良策かと存じ候」。
大国主  「して、どう堪え難きを堪えとな」。
事代主  「さればに候。戦をもって対すれば決着着かず、あるいは長き戦乱により国土が疲弊し、その間民百姓が途端の苦しみに遭い候。そこで、表向きの政治支配を高天原に譲り、我々は幽界に隠れ、宮造りを致し、世の泰平を司どらん」。
大国主  「何とそちは、この豊葦原の中津国を差し出し和睦せよと申すか」。
事代主  「作り良き鎮社社領を賜ることを高天原に認めさせ、生き延びる事ができるなら、これも一計、これが良策かと存じ候。この国はひとたびは日の神に献上為し、新たに生まれし王朝に参画し、我々の灯を繋いでいくのも一法。こたびは、高天原は戦も辞さぬ構えゆえ、双方共存の道を探るのが賢明かと存じ奉り候」。
大国主  「これはしたり。負うた子に教えられて浅瀬を渡るとはこのことかな。しからば、この国は日の神に献上為すとして、我々が生き延びていく保障を如何に取り付けるか、妙案はあるか、それが肝腎」。
事代主  「されば候。そこを御命が如何に談判するかが肝腎と承り候」。
 こうして、親子勘評の結果、国譲り秘策が纏まる。

【国譲り神楽その7、 国譲り 】
 国譲り
大国主  「御両神、立ち出で給えやな。
両神二  「大国主殿、事代主の命との親子勘評の儀、いかがご決評あそばされ候やな」。
大国主  「されば候。親子勘評の結果、御国は献上致し申そう。但し、我々は祀(まつり)ごとにて幽界に生き延びて行かんとぞ思う。高天原はこれを保障し給うかや」。
両神二  「されば候。大国主の命殿においては、出雲の国は神戸(かんど)の郡(ごおり)に一社ゆり立て、日本一社は杵築(きつぎ)大社と尊敬し、神戸六万石を献じ申さん。また、宮守として天補日(あめほひ))の神を献じ申さん。以後、万万歳に至るまで、御福の神として世に仰がれ給えやな」。
大国主  「こは、有り難きことにて候。して、一子、事代主命はなんと祀りごとなし給うか」。
両神一  「されば候。事代主の命におかれては、出雲の国は美保の岬において、左の社が美保津姫の命、右の社が事代主の命、二社建って献じ申さんほどに。以後、万万歳に至るまで、作り、耕作の神として世に仰がれ給えやな」。
事代主  「こは、ありがたきことにて候」。
大国主  「して、こたび仲裁に骨折り下された稲脊脛の命には」。
両神二  「されば候。稲脊脛命においては、大神山の裏山において、さぎの浦さぎ大明神と祀り申さん。以後、万万歳に至るまで、ほうそうの守護神として世に仰がれ給えやな」。
大国主  「こは、ありがたきことにて候。このことを、稲脊脛命に伝え申さん。
両神一  「他に申せしことあるか」。
大国主  されば候。高天原が政治の実権を司ることは良かれ、我々が幽事に於いて為す先祖伝来の神事につき構う事勿れ。我が国では、神と命と民百姓は氏親氏子で繋がって居る。折々の神事祭りを許し給うこと約束できるか」。
事代主  「畏まりて候。高天原にその儀伝え、御命の意向を叶えん」。
大国主  さすれば、国譲りの証しとして、天の平鉾の剣を献じ申さん。以後、荒ぶる神出でたる時は、この平鉾の剣をもって、めっこみじんに打ち砕き、世を安穏に治め給えやな」。
両神一  「こは、ありがたきことにて候。平鉾の剣は堅く受け取り、日の神の納所どころに納めるにて候」。
大国主  「しからば、一首の神歌をもって宮入りなし申さん」。
神歌  「天津神(あまつかみ)、国津社(くにつやしろ)と祝いてぞ、豊葦原の国は治まる」。
神歌  「荒埴(あらはに)のことも、皇孫(すめみま)大君の、大国主の神の御心」。
神歌  「高御座、天津日嗣と日御子の、受け伝えます 道はこの道
両神二  「しからば、これにて、しばらくのおいとまごいにて候」。
 大国主命、事代主命との舞い上がる
神歌  「まつろわば神も助けん、仇(あだ)なさば切り平らげて、国や治まる」。
 両神の幣舞
 同じく刀舞

 大国主の命は、出雲の国、神戸(かんど)の郡(ごおり)に社領六万石をもらい、杵築(きつぎ)大社を建て、福の神として祀(まつ)られる。今の出雲大社である。また、事代主の命は、美保の岬に、妻の美保津姫の命と共に美保両神社として祀られ、耕作の神となる。 この間仲裁役として さんざん苦労した稲背脛の命は、島根半島西端のさぎの浦に、ほうそう(疱瘡)の神、さぎ大明神として祀られる。一説に「法曹」の守護神ともいう。こたび見せた名采配が法曹事に当てはまることからかも知れない。

 こうして、大国主の命は、出雲大社に拠ることとなった。その社殿は、高天原系が建立する神明造りに比して大社造りと云われる。神明造りの代表が天つ神系の伊勢神宮、大社造りの典型が国つ神系の出雲大社ということになる。神明造りは軒が正面、大社造りは破風(はふ)が正面にくる。 有名なドイツの建築家・ブルーノ・タウトは、日本建築の粋として神明造りを挙げているが、神明造りも大社造りも長短つけがたい。

【国譲り神楽その8、建御名方命の談判 】
 かくて、大国主、事代主は、両神に屈し、わずかな社領で隠棲することになった。 しかし、ここに、腹の虫がどうしても納まらない神がいた。 大国主の二男、建御名方命(たけみなかた)の命である。通称「黒鬼」と呼ばれる。

 この神を相手に、両神が合戦の準備をする舞を「幕掛かり」という。両神が、持っている幣を幕内に投げ込むと、待っていたとばかりに、建御名方の命が現れる。鬼気漂う。この神を相手に、両神が合戦の準備をする舞を「幕掛かり」と云う。神楽社によっては「山懸かり」とも云う。 前者は、幕内にいる鬼を迎える意味であろうが、後者は、大きな山場にかかるから、とも解釈できる。この舞は、すべての神楽舞の中で最も男性的、かつ華やかなもので、観客の心に一種の爽快さを与える。それに、太鼓のリズムが勇壮である。
 
 この役は、神楽太夫のうち、できるだけ若い方がいい。老練さは評価できても、年輩の者では物足りない。なぜならば、素顔で舞う二枚目役だからである。前半は幣(へい)を使い、後半は刀を扱う。両神の呼吸がぴったり一致し、きびきびと、しかも、切れのいい舞でなければならない。絵でこれを表現するのは難しい。

 幕のこと

 神楽の幕には大幕と小幕がある。大幕は神楽太夫の控え室、つまり楽屋と神殿を隔てる幕で、舞い出る時には、この大幕を開く。 幕には「備中神楽」とか「神代神楽」という字を染め抜き、社名を入れる。鮮やかな色を配した幕は会場の雰囲気を盛り上げる大切な舞台装置とも言える。小幕は大幕の内側(観客から見て奥側)に低く垂れ下がっている。神々が登場する度に大幕が開かれ、神々は小幕を操って「幕の内」という舞を舞う。それから神殿(こうどの)の八畳間におもむろに舞い出る。大幕が閉じられて背景となる。

 建御名方の命が重厚な舞をしたあと、舞台の中央で素元(すもと)を杖にして一息ついているところへ、両神が躍り出て、横合いから素元を激しく叩くと、建御名方の鬼は弾かれたように一回転して、両神と向かい合う。しばらくはにらみ合いの状態で、大きく右回りをしながら、隙を狙う。ここまでを「大仕合(一)」と云う。

 次に「大仕合(二)」に入る。太鼓が急調子に変わると、素元の打ち合いが始まる。やがて、素元を握り合ったまま押し合いとなり、鬼の方が両神を追い詰め、馬乗りになって威嚇したり、反対に両神が鬼を舞台の隅に押さえつけたりする。

 前半は幣を使い、後半は刀を用いる。刀を使う合戦になると、両神側に助太刀と云う舞い手が加わる。これは、両神側の軍勢の強さを語っており、建御名方命側が多勢に無勢で押されたことを暗喩して入るように思われる。

 ついに、鬼は力尽きて、両神に降参する。「祝い込み」で完結する。
建御名方  「人の国に勝手にやって来て、無理難題ぶつけている奴はお前か」。
両神一  「そうだ。この国をもらい受けに来た。悪鬼にして荒らぶるそなたは何者ぞ、いかなる奴か、その儀、姓名答えて参れ」。
建御名方  「おうー、我がことを尋ぬるかや。我こそは大国主命の二男、建御名方(たけみなかた)の王子なり。尋ぬるなんじら、いかなる者か。その儀、答えて参れ」。
両神一  「経津主、武甕槌、両神立ち向かったり。大国主、事代主、親子勘評の結果、国は着々と受け取ったり。なんじ一人(いちにん)なんと手向かい申すか」。
建御名方  「なに、国は着々と受け取ったと申するか。そんな暴力が許されると思うのか。我一人、国譲りの妨げをなしてみせるが、返答いかに」。
両神二  「これはアマテラス様のご命令だ。なんじ一人、国譲りの妨げなすとあらば、互いに素元を投げ捨て一寸のじんず比べ申そうか(真剣勝負試み申そうか)」。
建御名方  「ならば一戦交えるのみである。望むところは戦場なり。しからば、いざ」。
両神  「しからば、いざ」。
(解説)  こうして談判は決裂し、戦闘することになった。神話では、二人の力比べが始まり相撲をとったことになっている。タケミナカタがタケミカヅチの手を握り投げようとしたところ、タケミカヅチの腕からサキがツララになり、冷たさと硬さと滑り易さでその力をうまく示すことができなかった。もう一度掴みなおすと、タケミカヅチの腕は一瞬にして鋭い刃の剣に変わった。次に、タケミカヅチが同じようにタケミナカタの手を握ると、易々と手を握りつぶした上に、そのままタケミナカタの巨体を投げ飛ばしてしまった。この逸話は、当初は互角伯仲し勝負がつかなかったが、タケミナカタが次第に劣勢となったことを暗喩している。同時に、これが史上に出て来る相撲の起源とも云われる。
 太刀での大仕合
 長剣での大仕合
(解説)  力競べに負けたタケミナカタの軍勢は、科野(しなの、信濃)の国の洲羽海(すわの海、諏訪湖)まで逃げた。この時、現地の豪族の洩矢の神(もれりの神)が抵抗し、敗れて降伏したとの伝承がある。引き入れる派と反対する派が居たということであろう。

 これをタケミカヅチが追撃し、両者は再々度対峙した。しかし、決着がつかず、長期戦化模様を危惧したタケミカヅチと形勢不利を認めたタケミナカタは、手打ちすることになった。
建御名方  「いかに戦えども、負けはせぬが勝つ事もできない。御命に従うとならば、その条件を示されたし」。
両神二  「神妙なることを申するかや。しからば、信州は諏訪野において、諏訪神社と祝い納むるによって、立ち上がって、宮入りなし申せ。タケミナカタがこの地から出ず蟄居するならこれ以上戦闘しない。次に、アマテラスの御子が葦原中国を支配することを認めよ。この条件でどうだ」。
建御名方  「こは、ありがたきことにて候」。
(解説)  双方これを受け入れ和議がなった。以降、タケミナカタはヤサカトメの命(八坂刀売命)を妻に娶り、諏訪大社の主祭神に納まることになった。
 舞い上げの太鼓
 両神、建御名方命とも祝い込み
全員  「さて、ありがたや。大国主命においては、出雲の国は神戸の郡に、大宮柱を等しくゆり立て、日本一社は杵築大社と祝い納める。さてまた、事代主命においては、出雲の国は美保の岬に、左の社が美保津姫命、右の社が事代主命と、美保両神社と祝い納める。さてまた、建御名方の王子においては、信州諏訪の大地、諏訪の神社と祝い納める。天下は泰平、国家は安全、当所は繁栄、治まる御代こそめでたかりける」。
神歌  「剣(つるぎ)をば、未だ御門(みかど)の宝にて、呪詛怨敵(じゅそおんてき)は遠く退く」。

 中入れ

 鬼を舞った太夫が、汗をふきながら、観客に「これをもちまして、しばらく中入れといたします」とあいさつして、国譲りの能が終わる。













(私論.私見)