役行者(えんのぎょうじゃ)考



 (最新見直し2008.7.23日)

Re:れんだいこのカンテラ時評419 れんだいこ 2008/07/23
 【れんだいこの役行者論】

 2008.7月頃、れんだいこは俄かに役行者(えんのぎょうじゃ)に興味を抱き始めた。それは釈尊を学んだ事により派生した関心でもある。れんだいこが役行者に注目する理由は、現代政治とりわけ日本のそれが袋小路に入っており、打開の方途が見えず、こうした時代に頼りになるのは昔から「困ったときの神頼み」で、日本神道に救いを求めるべきではないかと思ったことによる。

 日本政治は既に行き詰まっている。というより、既に支配者側の政治当局者の頭脳が高等な政治を御す能力を有していない。現代世界を牛耳る国際金融資本ネオ・シオニズムの長年の御用聞き政治により、随分と低脳化させられた結果だと思っている。この連中が今後俄かに賢くなる事は無い。銘々が政治の重責を念頭に置かず、任意な利権に食らいつき寄生するぐらいの能力しかない。そうとならば一刻も早く舞台から引き摺り下ろすまでのことであろう。

 ところで、こうした折には回天運動が働き、政権批判側の頭脳が新たな政治を担うべきはずであろう。日本史は適宜にそういう経験を刻んでいる。そうなのだが、れんだいこの見るところ、反対側も既にかなりヤラレテイテ政治当局者的頭脳を有していない。万年批判、野党型の習性が身についてしまっている。ここにもう一つのお粗末極まりない政治貧困が見受けられる。

 ならば、この情況をどう打開すべきか。れんだいこは、時代が役行者を呼んでいると思っている。

 れんだいこは、現代政治に食傷している。だから、かってのように一々の政治事情を批判する気にもなれなくなった。その気分の裏返しが今、役行者論に向かわせている。役行者を学ぶ事で、その超能力の一片でもものにし、何か有効なメッセージ、打開の方途を見出せないものかなと思っている。

 そういう理由から役行者論に取り組む。このたびも当然に通説的なものになる訳がない。通説から得るものは単に表面に現われた知識であり、どういう訳かれんだいこを納得させない。その凡庸な知識をいくら寄せ集めても博学以上にはなれないと思う。そこで、それらからは情報として知識をいただくもそこまでであり、そこから先は眼光紙背に徹するならば見えて来る一筋の流れを嗅ぎ取り、役行者が歴史上果たした役割、日本思想史上の位置を確認し称揚せんと思う。

 役行者は修験道の開祖として知られている。れんだいこは、単にそれだけのものではなかろう、彼は通常思われているよりももっと大きな役回りを果たしていると思う。結果的に修験道として果実するが、役行者が果たした日本思想史上の成果を修験道の側から見るのではなく、日本思想史全体の中から理解した方がより的確且つスケールが大きくなるのではなかろうかと思っている。

 勿論、世の中の通例で何事も功罪はある。彼が編み出した神仏習合は功の面もあれば罪の面もある。しかし、功の方がより大きいと見なす観点から評するべきではなかろうか。修験道+アルファーと云う事になるが、+アルファーの方こそ本来もっと着目されるべきではなかろうか。この観点から、彼が歴史上果たした真の役割を探求するのが真の役行者論になるべきではなかろうか。

 れんだいこにはそういう気づきがある。しかしながら、この方面の役行者論は皆無に等しい。ならば、れんだいこがこれに挑戦し、大上段に構えてヴェールを剥ぎ取り真価を晒してみたい。本サイトはこれを為す為のものである。従来の仏教的読み取り、道教的読み取りに対して新たにズバリ古神道的観点から言及してみたい。既に誰かが為しているならそれで良い。れんだいこが知らないだけで結構な事である。しかし、れんだいこは今のところ知らない。 

 以上を前置きとしていざ出航する。

 2008.7.23日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評424 れんだいこ 2008/07/26
 【既成の役小角論の典拠と物足りなさについて】

 いよいよこれから役行者(えんのぎょうじゃ)論に入る。まずは生涯履歴を確認しようと思う。ところが、はっきりしていることは、続日本紀の「699(文武天皇3).5.24日の条、役君小角は伊豆大島に流された」ということだけであり、後は評者が任意にその背丈と甲羅に合わせて創った「つくりごと」評伝でしかない。そういう意味で参考にはするが範とするには足らない。れんだいこが大きく書き換える事にする。

 役行者は後世の尊称である。帰幽後300年頃に成った「三宝絵詞」の中で始めて用いられ、以降これが通称となった。実名は役小角と云う。「えんのおづの、叉はえんのおつの、叉はえんのおづぬ、叉はえんのおづね」と読む。

 小角と命名されたことに関して、室町期の「本記」は、「額に小さな角の形をしたものがあったので小角と称した。あるいは名は豆ともいう」と記している。「役行者御伝記図絵」は「小角の額には生まれながらに一本の角があった」と記している。孔子も「額の中央には三日月の骨が張り出していた」と伝えられているので、史上の聖人にちなむ伝説か実際にそのような隆起があったのではなかろうかと拝される。

 生没年は、「634年 - 706年」とされている。これには諸説あり、はっきりとしない。飛鳥時代から奈良時代に実在した修験道の行者であることは疑いない。

 れんだいこが役行者に注目するのは、彼が日本在来の古神道に位置しつつ伝来してきた仏教、道教と教義格闘し、日本方式的に受容する道筋を創ったのではなかろうか、「洋もの」に被れるのではなく在来の知性を駆使して主体的に咀嚼したと云う意味で極めて日本主義的な伝統的営為の流れに添っていたと考えるからである。これこそ、こここそが役行者論の視角となるべきではなかろうかと考えている。その点で、既存の役行者論は上っ面なものでしかない。

 役行者が登場する史書を見ると次のようなものがある。
 1、「続日本紀」。697-797年にかけて完成した編年体の勅撰史書。日本書紀の後を受けて編纂された国史。文武3.5.24の条に登場する。
 2、「日本霊異記」(正式名は「日本現報善悪霊異記」)。薬師寺の景戒という僧侶が仏教の霊力を広める目的をもって8世紀末~9世紀初頭に編纂した日本最古の仏教説話集。上巻第27に登場する。
 3、平安時代中期以降の役行者伝説としての「三宝絵詞」。984(永観2)年に成った源為憲が著述した仏教説話集。聖徳太子の次に登場し、小角の次が行基となっている。
 4、「本朝神仙伝」。大江匡房の撰述。37人の神仙家の一人として登場する。
 5、その他「今昔物語」、「扶桑略記」、「諸山縁起」、鎌倉時代の「水鏡」、「古今著聞集」、「私聚百因縁集」、「沙石集」、「元亨釈書」、「源平盛衰記」。南北朝時代の「金峰山秘密伝」。室町時代の「三国伝記」、「行者本記」等々。

 これらがそれぞれの役行者を記し消息を伝えているが、ガイドブックにはなっても役行者論には成り得ていない。参考文献として、藤巻一保氏の「役小角読本」(原書房、2001.6.13日初版)、銭谷武平「役行者ものがたり」(人文書院、1991.1.20日初版)、「修験道の本」(学習研究社、1993.12.15日初版)、宮家準「修験道と日本宗教」(春秋社、1996.1.10日初版)その他を参照した。

 2008.7.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評425 れんだいこ 2008/07/26
 【役行者成育時代の時代状況】

 役行者が生育していた時期は、蘇我-聖徳太子派による仏教伝来に伴う様々な軋轢が生まれていた時代であった。大和王朝により創出された天皇制も後継紛争と政治貧困により座礁しつつあった。これが壬申の乱へ向かう。そういう伏線時代であった。このことを確認しておきたい。

 時代考証は、「日本神話の研究」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/nihonshinwaco.htm)の「大化の改新前後神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/taikanokaishinshinwaco.htm)、「壬申の乱前後神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/jinshinnoranshinwaco.htm)でスケッチする。

 役行者が誕生した頃の内外情勢は多事多難、内憂外患の時代であった。蘇我氏が専横し続けており、既に聖徳太子は没していた。舒明天皇から皇極天皇の時代になり、645(皇極4、大化元).6.12日、蘇我入鹿が、藤原鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)によって皇極天皇の御前で誅殺される(「大化の改新叉は乙巳の変」)という事変が起こっている。蘇我蝦夷も自殺し、この間109年間権力の頂点で栄華を極めた蘇我氏本家は滅亡した。

 孝徳天皇の御代に成り皇極天皇が斉明天皇として重そ(再即位)し、政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執っていた。有間皇子が絞首刑にされ、 阿倍比羅夫が蝦夷国征討に向かう。660年、大和朝廷と同盟関係にあった百済が唐と新羅によって滅ぼされた。663(天智天皇2)年、朝廷は、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになった。これを白村江の戦いと云う。この戦いで朝廷軍は大敗を期し、百済復興戦争は大失敗に終わった。これに伴い、百済の官僚層が大挙して来日し、大和朝廷を支える新官僚群となった。

 朝鮮ではその後、668年、高句麗が唐に滅ぼされ、672年、新羅の文武王が百済の地を併合した。この間、大和朝廷に於いては次第に律令制度が組織されつつあった。ざっとこういう時代であった。

 2008.7.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評426 れんだいこ 2008/07/26
 【役行者の概要履歴その1、役行者の出自事情】

 634(舒明天皇6)年、聖徳太子が亡くなってから12年後の頃とされるこの頃、役行者は、日本霊異記の記すところに拠れば、葛城山の麓の大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれた。父は、出雲系氏族の高賀茂氏の役公(えんのきみ)の十十寸麻呂(とときまろ)。音曲に優れ、雅楽の君の異名を持つ家系の出自と云われている。母は白専女(しらとうめ)叉の名を刀自女(とらめ)と云う。こちらも出雲系の物部氏の流れである。

 葛城山も叉三輪山と並ぶ古くよりの出雲系の神々を祀る聖地である。記紀に拠れば、天孫族の神武東征の際、国津族のニギハヤヒーナガスネ彦連合がこれを迎え撃った。この時呼応したのが葛木の土蜘蛛族であった。「土蜘蛛」とは、土着系の出雲族と云う意味を伝える当て字であろう。その土蜘蛛族は最終的に帰順するが、新朝廷に対して常に面従腹背的立場を保持することになる。

 古代史上、この地に古くより葛城族が存在する。葛城族が出雲王朝系か高天原以来の大和王朝系氏族かは定かではない。その点で、銭谷武平氏の「役行者ものがたり」は次のように記している。
 「(役行者が誕生する地の)茅原には古くからの豪族である賀茂氏の一族が住んでいました。葛城氏というのは、加茂氏とは違って、元々この地に昔から住んでいた土地の民ではなかったのです。その元を訪ねると、神武天皇に従って、はるばると九州からやって来たのです。その時に、葛木山に古くから住んでいた土蜘蛛という人たちが、激しく抵抗したので、大変苦しめられました。ようやく、彼らを皆殺しにして国造(くにつくり)になったのが葛城氏の祖先なのです」。

 この記述に拠れば、葛木の元々の土着豪族は土蜘蛛族であり、役行者の先祖となる賀茂氏はこの系譜と云う事になる。この地にやって来た葛城氏は渡来してきた高天原王朝の官僚豪族であり、治政に失敗した後新たにやって来たのが蘇我氏と云う事になる。れんだいこは、葛城氏をこのように捉える見方は初見であるが興味深い。

 役行者の父系に当る賀茂氏は、出雲王朝系である。出雲王朝は、高天原王朝との国譲りの際に、和睦派の事代主(ことしろぬし)と武闘派の建御名方(たけみなかた)の二派に分かれた。この経緯については、「日本神話の研究」の「国譲り神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/shinwa2co.htm)でスケッチする。

 賀茂氏は、和睦派の事代主に列なる名門氏族であることは疑いない。故に、事代主即ち叉の名を一言主(ひとことぬし)とも云うが、代々この神を氏神として祀る。大和王朝創建前後に出雲系ながら協力派として重要な役割を果たすことにより登用され歴代を経ていた。大和王朝下で、出雲王朝以来の神事祭祀、神託の取り次ぎ、呪術などの司祭を務めていた。これによればシャーマン色の濃い血筋を持っていることになる。こうした事情が、役行者の出自の背景として踏まえられねばならない。

 これを、事代主の側から記述すれば次のようになる。事代主は、国津神の棟梁格の大国主(「おおなむち」とも云う)の神の一番手有力神であり、大国主の神を祀る三輪山の大神(おおみわ)神社から「葛木の鴨の神奈備」に分霊したと云う関係にある。事代主は、国譲りの際、率先して高天原王朝に帰順の意を表し、出雲王朝系の諸豪族の過半の反乱を防いだ功により、大和王朝創建の際に一族が登用された、その一族の守護神として尊崇され続けた。

 よりによってこの地に、後に韓国の百済(くだら)からの帰化人が住み着き、彼らは中国系仏教、道教、陰陽道、医法などの知識を持ち込み、朝廷や有力豪族に仕え始めた。当然、賀茂氏との軋轢は避けられまい。この新思潮を背景に台頭していくのが蘇我氏で、葛城氏没落後この地域を支配した。蘇我氏はその後、大和王朝創建時の諸豪族のうちの有力氏族であった大伴氏、物部氏らを押しのけ一人勝ちの勢いで政界中枢に迫り、子姫が天皇と閨閥を結ぶことで歴代天皇をも支配する権勢を誇るようになる。

 政界のこの動きに合わせて、元興寺や興福寺を中心にして三論宗教、法相宗を始めとする後に南都六宗と云われることになるいわゆる学問仏教が盛行していた。 南都六宗とは、奈良時代に平城京を中心に栄えた仏教6宗派(法相宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗)の総称で奈良仏教とも云う。当時からこう呼ばれていたわけではなく、平安時代以降平安京を中心に栄えた「平安二宗」(天台宗、真言宗)に対する呼び名である。

 民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教とは異なり、これらの六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。ただし、中国に渡り玄奘から法相宗の教理を学び日本に伝えた道昭は、このような国家体制の仏教活動に飽きたらず、各地へ赴き井戸を掘ったり橋を架けるなどをして、民衆に仏教を教下する活動を行ったとされる。なお、同じく民衆への教下活動を行った行基の師匠も道昭であったといわれる。南都六宗は、宗派というよりもお互いに教義を学び合う学派のようなもので、東大寺を中心に興隆して勉強し合っていた。(「ウィキペディア南都六宗」参照)(南都六宗各派については「南都の六宗」が詳しいのでこれを参照し、暫くこれを「れんだいこさ意図南都六宗」に転載させていただく)

 2008.7.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評427 れんだいこ 2008/07/27
 【役行者の概要履歴その2、山岳修行者となるまで】

 この時代に役行者が生まれ、幼少より天性聡敏で早くより宗教的天分を見せていた。次のように記されている。
 「役の優婆塞は、生まれながらに知があって、博学なること当代一にして、三宝(仏、法、僧)を信じ、これを以ちて業(わざ)とす」(「日本霊異記上巻第28」)。

 仏教的脚色が施されているが、「生まれながらに知があって、博学なること当代一」とは、かく評されるほど神童ぶりを発揮していたことを伝えているのではないかと思われる。溢れる才能が近所近在に伝わるほど抜きん出ていたのは事実であったのではなかろうか。

 13歳の頃、毎夜、葛木山に登り、明け方に帰宅すると云う修法に取り組んでいる。この伝承は、既に13歳頃に於いて熱心な修行者になっていたことを逸話していると窺うべきだろう。

 日本古神道では古くより、山岳信仰を発生させている。麓に神社、山頂に「奥宮(山宮)」を創建し、神社の背後の山を「御神体(=神体山)」としていた。神威感を与える山岳は霊山として神聖視され、「神奈備山(かんなびやま)」とみなされた。奈良の大神神社の三輪山、諏訪大社の上社、金サン神社の御室ガ岳、滋賀県御上神社の三上山、宇佐神宮の御許山、御上神社の三上山等々山そのものを御神体にしているのがその例である。

 これに関連して、佐藤氏の「役小角とは何者か?」(ttp://www.st.rim.or.jp/~success/ennoozuno_ye.html)は次のように述べている。
 「仏教が拡がる以前に、山伏のスタイルで修行をする古神道が、日本の山々をネットワークする形で確立していたとみるべきではないかということになる」。

 実にそうではなかろうか。

 17歳の頃、優婆塞(うばそく)として飛鳥の元興寺(現在の飛鳥寺)で学ぶ。「優婆塞」とは、インドのサンスクリット語の「upāsaka(ウパーサカ)」の音写語で、仏教用語で僧侶ではない在家の信者を云う。これより推測するのに、役行者は賀茂氏と云う神道系の名門家柄であるからして仏教に敵愾するところ、積極的に仏教を究めんと欲し、いわば南都六宗の学生身分ではなく非正規の資格身分で強引に在家的私度僧として仏教門を叩いたと云う事になる。

 元興寺の慧観和尚が、役行者の才を見出し招門したとも考えられる。いずれにせよこの時、密教呪術の一つである「孔雀明王の呪法」を伝授したと云われる。「孔雀明王の呪法」とは、インド以来の毒蛇を捕食する孔雀の力を神格化させた呪法を云う。

 役行者はこの後一層熱心に山林修行に篭るようになった。19歳の頃、いつものように修行していた際、夢に生駒明神が現われ、次のように託宣された。
 「お前に授けたい経がある。この経を伝えられるのは、天下広しといえどもお前しかない。生駒山に登れ」。

 そこで、生駒に登り、更に北西の箕面(みのお)の山中に分け入り、3年間に及ぶ滝修行に取り組んだ。滝修行は、古神道の禊作法により霊力を高める伝統的修行であり、役行者がこれに熱心に取り組んだことが興味深い。

 22歳の春の頃、いつものように滝修行をしていると、滝の上の闇から金色が放射したと思うと、仏に仕える童子が次々と現われ、列を作って滝の上に並ぶと云うイリュージョン(幻影)を見た。童子に誘われるままに滝の奥の岩屋に導かれると、そこにはまばゆい浄土が広がっていた、と云う逸話が伝えられている。

 658(斎明天皇4)年、25歳の時、箕面の滝の龍穴で龍樹菩薩の影現に遭い、修験独特の灌頂の秘法を受けた、と云う。この頃既に近辺の諸霊山を踏開しており、近畿一帯の大嶽で役行者の足跡を印さない所はなかった、と云われている。

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評428 れんだいこ 2008/07/27
 【役行者の概要履歴その3、山岳修行一条者となる】

 663(天智天皇2)年、朝廷は、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦い(白村江の戦い)、この戦いで朝廷軍は大敗を期し、これに伴い百済の官僚層が大挙して来日し、大和朝廷を支える新官僚群となったことは既述した通りである。

 685(天智天皇の4)年、32才の時、家職を捨て葛城山(金剛山)で山岳修行を行う身に転じた。こうして専従の信仰者一条になった。白村江の戦いに大敗し国内が騒然としていた時期に当る。

 役行者が専業として山に篭り修行する背景には余程の決意と転機を誘う精神的衝動事情があったものと思われる。いずれにせよ命懸けのことであった。役行者は日々山野を踏徊し「行者の滝」に打たれ思念を凝らした。「滝打ち」は古神道以来の行であり、禊(みそぎ)と霊能力を磨くのに効能が有ると云われている。この間、藤葛の皮で編んだ衣を着て、山菜食を専らとして松の実を食べていたと云われている。穀類は食べない。これらは皆、古神道以来の行法である。この行法は、中国の道教的神仙修行とも共通している。

 役行者は、その効あって霊能者として頭角を現わし、奇異の験術、呪術的能力も身につけた。その後の修験道の絡みで云えば、透視、祈祷、病気平癒祈願等々の各種修法を確立したということになる。

 667(天智天皇6)年、34歳の頃、役行者は、修行の仕上げとして大峰(大峯)-熊野連峰に向かった。銭谷武平氏の「役行者ものがたり」は次のように伝えている。
 「ある日のこと、小角が影向(ようごう)の石の上に坐って、経を読んでいましたが、ふと夢にうつつのような気持ちになってまどろんでいました。丸い小山を背にして明神さまが現われました。小角に、これから吉野の山に登り寺を建てるようにと告げました。それは、三輪明神であったのです。お告げに従って、小角は吉野山を開きました」。

 銭谷氏は、役行者の大峯山行きを仏教的に脚色しつつ読み取っているが、後段の「三輪明神のお告げ」に意味があると云うべきだろう。既に解説したが、三輪明神とは正しくは大神神社と解すべきであり、その大神神社は出雲神道の大和の惣領寺社である。従って、この逸話の裏メッセージは、役行者が大峯山に向かうに当り、出雲神道の本家である大神神社との打ち合わせに拠った、少なくとも霊的な、と云う事になる。

 大峯連峰は、今日千本桜で有名な吉野山(青根ガ岳857.9m)から熊野まで、山上ヶ岳(1719.2m)、大普賢岳(1779.9m)、行者還岳(1646.2m)、弥山(1895m)、近畿の最高峰でもある八経ヶ岳(八剣山、1914.9m)、頂上に大きな釈迦像が鎮座している釈迦ガ岳(1799.6m)、地蔵岳、涅槃岳、行仙岳、笠捨山(1352.3m)、玉置山(1076.4m)五大尊岳(825m)へと続き、大和王朝以前のはるか昔から続いている熊野神社の座す霊山熊野古道へ至る。熊野神社は、本宮、新宮、那智の三山にそれぞれ神社を設けている。那智には那智の滝がある。道中、小笹、笙(しよう)の岩屋、深仙、前鬼などの霊地がある。

 役行者が入寂し、修験道が仏教化するに及び後に、大峯-熊野連峰全体が大菩提山、大峯連峰は別名金峯山(きんぷせん)と云われ始める。この山系全体が曼荼羅の世界に例えられ、大日如来の浄土とされるようになる。

 奈良県生駒の鳴川千光寺の縁起は、次のように伝承している。
 「鳴川の里に入り小さな草堂で荒行を続ける小角を思い母も供にこの地に住し、さらに小角が大峯山に入ると母は鳴川にとどまり小角の無事を祈った」。

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評429 れんだいこ 2008/07/27
 【役行者の概要履歴その4、壬申の乱との関わり】

 役行者が大峰(大峯)-熊野連峰に篭り、思慮に余念の無いこの頃、後の壬申の乱に至る政争が勃発している。既成の役行者論はさほど検証しないが、役行者がこれに深く関っているとみなすべきだろう。

 671(天智天皇10).10.17日、天智天皇晩年、大海人皇子は、大友皇子との皇位警鐘問題を廻って政争に巻き込まれることを嫌って大津から吉野べ向かい遁世した。この経緯と役行者の繫がりは分からないが、大海人皇子一行が吉野に到着した時点よりは、既に名声を高めていた役行者と何らかの気脈が通じていたことは容易に窺えるところであろう。

 同12.3日、近江宮において天智天皇が崩御した(享年46歳)。同12.5日、大友皇子(24歳)が後継宣言し、第39代弘文天皇となる。これを近江朝と云う。672.5月中旬、弘文新天皇と大海人皇子の対立が激化する。これは、弘文新天皇と大海人皇子間の反目と云うより、それぞれを支える勢力間の対立が抑えきれない形で噴出し始めたと云う事であろう。以降の流れを「壬申の乱」と云う。

 672.6.24日、大海人皇子が挙兵し、吉野から大津へ向かう。伊賀国を縦断し伊勢美濃へと進軍した。美濃兵3千名が呼応し、わざみ(関ヶ原)を封鎖した。6.26日、大海人皇子は、東海道、東山道-尾張、三河、信濃方面に兵要請の勅令を出す。伊賀、伊勢、美濃の三国を制圧し、鈴鹿と不破を抑えて東国と近江朝廷を切り離すことに成功する。

 672(天武天皇元).7.22日、役行者39歳の時、大海人皇子軍は、瀬田川を挟んだ勢田橋(滋賀県大津市唐橋町)の最終決戦で勝利した。弘文天皇(大友皇子)は宮を脱出したが、7.23日、山崎で自害した。左右大臣群臣、みな散亡し乱は収束した。約1ヶ月に渡る後継者争いは大海人皇子の勝利となり、反乱者側が勝利するという日本史上例の少ない内乱事件史となった。壬申の乱と呼ぶ理由は、この年の干支が壬申(じんしん、みずのえさる)に当ることによる。

 役行者はこの時、大海人皇子に味方して戦を勝利に導いている、と云う。詳細は不明であるが、役行者が、霊力による衆生救済のみならず、既成本が触れないところであるが時の政治動向に関心を払い、否むしろ積極的に関与しているということになろう。ちなみに、 事代主も、高市県許梅に憑依託宣して大海人皇子軍を助けている。こうなると、出雲系が総呼応している事になろう。

 余談ながら、今日の政教分離論派は、宗教勢力のこのような政治介入を道徳的に批判して事足りるのだろうか。宗教勢力の政治関与、世直しを否定したとして、ならば政治勢力は代わってどの程度の事が為し遂げられたと云うのだろうか。特に議会専一主義者は、この問いに答えねばならないのではなかろうか。「70年代の遅くない時期」が「20世紀の遅くない時期」に代わり、「21世紀の早い時期」へ転じ、その頃になると、言いだしっぺは誰も居なくなっていると云う無責任政治を地で行く恥じない懲りない科学的社会主義屋よ聞け。君達は、云うところの政教分離論が単なる党利党略的なものではないということを理論的に証明し無い限り、恥の上塗りを晒し続ける事になるだろう。

 もとへ。673(天武2).2月、大海人皇子は第40代天武天皇と称し、飛鳥浄御原(あすかのきよみはらのみや)を造営し、即位した。近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。正妃に菟野皇女を立てて皇后とした。

 天武天皇は大臣を置かず、皇后や皇子らとともに天皇の親族や皇族からなる皇親政治体制を確立し、兄の天智天皇の遺業を発展させ、法典である飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)や、八色姓(やくさのかばね)の身分制度の制定、冠位制度の改定等に取り組み、中央集権国家体制づくりをめざした。大和朝廷がそれまでの「倭」を改めて、「日本」という国号を使いはじめたのもこの時期であると云われている。

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評430 れんだいこ 2008/07/27
 【役行者の概要履歴その5、金剛蔵王大権現を感応】

 675(天武天皇3)年、41歳の頃(38歳の頃とする説もある)、役行者は、「大峯奥駆け千日修行」の末に 吉野の心臓ともいえる金峯山で金剛蔵王大権現を感応した。山上ケ岳頂上の巨岩の前で祈祷していたところ、その岩上に蔵王権現が湧出し、龍穴に降り立ったと伝えられている。山岳修行によって霊力を身につけた役行者はこうして修験道の開祖として世に登場することになった。

 江戸時代の山伏の行智は次のように称えている。
 「皇朝に於いて修験山伏の根元、役の行者を以って顕密二教ままの辺り修行の法祖と仰ぎ奉る」(「踏雲録事」)。

 これによれば、仏教の顕教と密教の日本柱的権威、法祖として評価している事になる。この観点の是非は別にして、役行者の偉大さが読み取れよう。

 「役行者本記」は次のように記している。
 概要「小角は空海より先に龍樹から『大日経』と『金剛頂経』の伝授を受け、大峯に封じた」。

 仏教的に解釈すればこのように評するのも道理であるが、巨岩の前に正座しての祈念は何より巨岩信仰を前提にしており、これは古神道系の信仰によるからして、蔵王権現は古神道的神格のものと窺うべきであろう。但し、それは仏教的菩薩とも読み取れる独特のものと云うべきではなかろうか。

 修験道考で再度触れることになるが、役行者がこの時感応した「金剛蔵王権現」は、釈迦如来でも阿弥陀如来でも弥勒菩薩、観音菩薩でもなく、それらが合体したものと考えられている。仏教的に考えればそういうことになるが、これを古神道の観点から見れば、仏教には無い「金剛蔵王権現」をご神体にしているところに意味がある。

 その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表わし、片足を高く上げて虚空を踏むものである。作者は不明であるが、技量のみならず役行者に対する深い理解に基いており、同時に作者自身の精神性の高さを語る彫像になっている。

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 【役行者の概要履歴補足、役行者の風体】

 役行者の画像や彫刻は数多く作られたが、その姿は、僧衣に袈裟をまとい、長いひげをたくわえ、手には錫杖を持ち、高下駄をはいて岩に腰かけ、斧を持つ前鬼(ぜんき)と棒を持つ後鬼(ごき)を従えているのが一般である。役行者が従える鬼については五鬼とする説もある。悪鬼を従え、天を飛ぶという役行者は、日本で最も強力な呪術者として広く知られ、さまざまな伝説を生み、歌舞伎の「役行者大峯桜」をはじめ、舞台や物語に登場し、坪内逍遥の「役の行者」も近代の戯曲として名高い。

 しかして役行者の当時の実際の姿は分からない。案外とシンプルな風体ではなかったか。但し、眼光、滲み出る智力は人の心を射るものであっただろう。れんだいこはそう解する。  

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評431 れんだいこ 2008/07/27
 【役行者の概要履歴その6、全国各地の霊山開闢】

 役行者はその後、大峰(大峯)の山々に天河神社や龍泉寺など至るところに修験道の霊場を創り、後の修験道の行場とした。これに倣ってか、全国の霊山の多くが役行者の開山と称され、修験道の聖地として今日に伝えられている。その総本山として、熊野から吉野にいたる 大峰山系が霊山のメッカとなっている。

 これに関連して、佐藤氏の「役小角とは何者か?」は次のように述べている。
 「今日本中には、役行者が来た修行の山というのが沢山ある。これはヤマトタケルに縁の地に負けない位の数に上るに違いない。山岳修行者ある所に役小角伝説ありと言っても過言ではない」。

 この時代、役行者は、日本列島各地の霊山開闢(かいびゃく)と関わっている。実際に足跡したのか同系伝承に過ぎないのか別にして、日本全国各地の役行者系譜の霊山は次の通りである。

 これを北から窺うのに、恐山(青森県下北郡)、岩木山(青森県)、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山。山形県)、早池峰山(岩手県)、葉山(山形県)、日光山(栃木県日光市)、赤城山(群馬県)、筑波山(茨城県)、高尾山(東京都八王子市)、大山(神奈川県)、箱根山(神奈川県)、富士山(静岡県、山梨県)、秋葉山(静岡県)、七面山(山梨県)、白山(石川県)、立山(富山県)、石動山(石川県)、木曾御嶽山(長野県、岐阜県)、戸隠山(長野県)、飯綱山(長野県)、葛城山(奈良県、大阪府)、金剛山(奈良県、大阪府)、大峯山(奈良県)、熊野三山(和歌山県)、比叡山(滋賀県)、比良山(滋賀県大津市)、愛宕山(京都市右京区)、鞍馬山(京都市左京区)、伯キ大山(鳥取県)、石鎚山(愛媛県)、英彦山(福岡県)、求菩提山(くぼてさん、福岡県)等々。修験道については、別途「修験道考」で考察する。 

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 【役行者の概要履歴補足、陀羅尼助丸について】

 天武天皇の時代、各地に疫病が流行り、役行者が、茅原の寺(現在の吉祥草寺)の門前に大きな釜を据えて、薬を作り人々に飲ませた。これが、胃腸の良薬として知られる丹薬の陀羅尼助(だらにすけ)丸の始まりとされている。陀羅尼助丸は、大峯の山中に自生している黄はだと云う木の皮を剥いで、水で煎じ詰めたもので、「良薬は口に苦し」の諺通りの苦薬で、「陀羅尼」とは仏さまにお唱えする真言を意味する。その製法が代々伝わり、今日でも洞川名物になっている。

 この逸話は、役行者が、山中より仙薬の材料を収集し、漢方及び和法の医薬に通じていた事を窺うことができよう。役行者が薬草から薬を調整し、諸病に悩む大衆に施していた事は、藤原鎌足に飲ませたところ、腹痛が嘘のように治り、役行者の験力が著しいのに感心したとの伝でも裏付けられる。

 薬草学はなにも漢方ばかりが専売ではなく、日本古来の和薬草学としても自律的に発展しており、役行者の賀茂氏は代々の取り次ぎであった。それは恐らく出雲王朝時代の医薬の系譜を継いでいると思われる。こういう事情も窺わねばなるまい。

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評432 れんだいこ 2008/07/27
 【役行者の概要履歴その7、天武天皇との蜜月関係】

 ところで、役行者と天武天皇は相当深く関わっているように推定できる。しかし、この辺りのことが従来の役行者論には出てこない。そこで、れんだいこが現在知る限りのことを書き付けておくことにする。

 679(天武8).5.5日、天武天皇が吉野に行幸している。翌5.6日、草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基を集め、「相扶けて逆ふること無きこと」を盟約させている。 

 681(天武10).2.25日、天武天皇は、律令を改め、法式改定を命じている。これが飛鳥浄御原令となる。同日、草壁皇子を立太子させ(20歳)、一切の政務に与からせる。

 3月、川嶋皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、美努王(栗隈王の子)、中臣連大嶋ら12名の皇族貴族を大極殿に集めて、「帝紀及び上古諸事の記定」を命じている。これが古事記、日本書紀編述の出発点となっている。

 683(天武12).2.1日、大津皇子に初めて朝政を執らせる。同3.2日、僧正・僧都・律師を任命。僧尼を国家の統制のもとにおく僧綱制度を整える。

 天武王朝のこれらの施策に、役行者がどれほど関与しているのかいないのか分からないが、「帝紀及上古諸事」記定を命じ、これが古事記、日本書紀編述の伏線となる背後に訳行者の智力が働いていたと見ることは十分可能ではないかと思っている。

 役行者と天武天皇の関係を知る一つの事例が、銭谷武平氏の「役行者ものがたり」に記されている。貴重と思われるので概略を記しておくことにする。役行者は、亡き聖徳太子の弟の麻呂子君の孫に当る当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)の寺院再建に大きく協力している。

 国見は、壬申の乱の時、大海人皇子に味方をして大手柄をたてた。その国見が、613(推古天皇20)年に麻呂子君が河内の国の交野(かたの)の山田郷に建立していた万蔵法院禅林寺を移転することを願い、天武天皇が壬申の乱の時の功により後援することを命じ、役行者がこれを受け、自らが管轄していた当麻の地を提供している。

 684(天武天皇13)年、万蔵法院禅林寺の本堂や塔が完成した。役行者はこの頃、大峯山で修行していたが、落慶式に列席している。この時、役行者は、寺院が成り立つように山林や田畑など数百兆歩の土地を新たに寄進していると云う。この逸話は、役行者がこの頃、天武天皇の心服を受け非常に親しい関係にあり、既にそれなりの権勢を得ていたことを裏書しているように思われる。

 天武天皇のその後の事跡は次の通りである。
 685(天武14).1月、冠位四十八階を制定。親王や諸王も冠位制の中に組み込んだ。 3.27日、「国々で家毎に仏舎を作り仏像と経典を置いて礼拝せよ」との詔を出す。7.26日、朝服の色を定める。9.24日、不豫。11.24日、天皇のため招魂(魂振り。魂が体から遊離しないよう鎮める)を行う。

 686(天武15).5.17日、重態。川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。6.10日、天皇の病を占い、草薙の剣に祟りがあると出る。熱田社に送り安置する。7.15日、政を皇后・皇太子に託す。7.20日、朱鳥に改元。宮を飛鳥浄御原と名付ける。 

 686(天武15).9.9日、崩ず。漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。

 2007.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評433 れんだいこ 2008/07/27
 【役行者の概要履歴その8、引き続き持統天皇との蜜月関係】

 天武天皇没後、皇后の菟野讃良皇女 (うののさららのひめみこ)が天皇を後継した。これを持統天皇と云う。持統天皇は直後の10月、姉であり、大海人皇子の妃でもあった大田皇子(おおたのひめみこ)の子にして甥の大津皇子を謀反の罪で自殺に追い込んでいる。飛鳥浄御原令を施行し、翌年1月、第41代天皇として飛鳥浄御原宮で即位した。

 持統天皇は、これより701(大宝元)年に至るまでの間、32回にも及ぶ吉野行幸を繰り返している。この類例の無い頻繁な行幸は何を意味するのだろうか。天武、持統両天皇の行幸には、柿本人麻呂、山辺赤人らを初めとする万葉歌人達が多く随行した、と伝えられている。これによれば、役行者は、持統天皇の御世に於いても心服関係を得ていたということになる。

 れんだいこは、柿本人麻呂、山辺赤人らの万葉歌人に対する知識が無いので推測するしかないが、この時代、大和朝廷に対する扶翼的立場を前提にしつつも、出雲王朝時代の憧憬追憶が解禁され、非常に伸び伸びとした精神文化が花開いていたのではなかろうか。国史編纂も進んでおり、各方面に非常に高い能力が発揮されていたのではなかろうかと推定したい。

 689(持統3)年、天武天皇の第二皇子にして皇太子の草壁皇子に先立たれた。以後は草壁皇子の御子、持統天皇の孫の軽皇子の成長に望みをかけるようになった。

 690(持統4)年、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。庚寅年籍(こうごねんじゃく=戸籍)を作るとともに、日本最初の都城制に基づく都を造営し、694年、藤原宮に遷都した。

 696(持統10)年、軽皇子の伯父に当る高市皇子が薨ず。 

 697.2月、草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させ、同8.1日、持統天皇が譲位し、軽皇子が15歳にして第42代の文武天皇として即位した。持統天皇は天皇を後見し、 初めて太上天皇(上皇)を名乗った。

 701(大宝元)年、藤原不比等を用いて大宝律令を完成させ、翌年公布。冠位制は廃止され、律令官位制に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などとわかりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。

 2007.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評434 れんだいこ 2008/07/27
 【役行者の概要履歴その9、一言主との関係】

 思うに、役行者は、文武天皇の御代の頃から要注意人物と見られ始め、運勢が暗転した気配がある。この頃のいつの時点か不明であるが、葛木山の祖神である国津神系の一言主(ひとことぬし)との絡みが伝えられている。

 一言主については既述したが「我は悪事(まがごと)も善事(よごと)も一言で言い放つ神」と云われており、葛木山一帯は古くから事代主の命即ち一言主神をまつる勢力が根付いており、大和朝廷に対して面従腹背是々非々的な微妙な関係を維持し続けていた。

 或る時、役行者は、大峯と葛城山との間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。霊異記は次のように記している。
 「孔雀の呪法を修習(おこな)いて、証に奇異(あや)しき験術を得。鬼神を馳せ使いて自在を得、諸々の鬼神を唱(うなが)して、催して曰く、大倭国(やまと国)の金峯と葛木峯とに、橋を度(わた)して通わん、と云う。ここに神ら皆愁(うれ)う」。

 つまり、役行者が、「大倭国(やまと国)の金峯と葛木峯の間に石橋を架ける」よう申し出たところ、一言主は動かなかった。これに対し、役行者はこれを激しく難詰したと伝えられている。ここは考えるに値するところで、「大倭国(やまと国)の金峯と葛木峯の間に石橋を架ける」とは例えであり、政治的同盟を意味していると受け取ることができるのではなかろうか。

 この頃、どういう政治的背景があったのかまでは分からないが、役行者は、大峯と葛木の歴史的な政治的同盟を提案したところ、一言主が最終的に受け入れず、一定の緊張関係に入ったということであろう。この逸話は、役行者が出雲系の一言主(ひとことぬし)とただならぬ関係にあったことを伝えている事にこそ意味がある。国譲り以来幽界に隠れている出雲本家系と表に出ている分家系の一言主との何らかの手打ちあるいは決起を促す政変が画策されており、この動きと絡んでいたことは大いに考えられる。

 逸話では、一言主は、自分の姿が醜いのを恥じて夜だけ働こうとした。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、明王の呪法をもって責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、貴族の夢に現れ「役小角は神通力で天皇に災いをなそうとしている」と告げ天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴した、とある。

 前段はともかく後段の「一言主が天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴した」は、史実を歪める詐術であり、意図的故意の悪脚色であろう。あるいは史実を奴隷の言葉で語っているのかも知れない。いずれにせよ、役行者と一言主の対立は親しき関係ゆえのそれであり、讒訴に及ぶような関係ではなかろう。

 2007.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評435 れんだいこ 2008/07/28
 【役行者の概要履歴その10、讒訴され伊豆へ配流される】

 この頃、元弟子の韓国連広足が、「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を傾け滅ぼそうとして謀っている」、「小角が人々を言葉で惑わしている」と讒言したため、役行者は朝廷に追われる身になった。続日本紀の「699(文武3).5.24の条」に次のように記されている。
 意訳「役行者の小角、伊豆島に配流される。小角は初め葛木山に住し、呪術の力によって世に知られるようになった。外従五位下の韓国連広足は役行者を師としていたが後に、小角の呪術の能力に嫉妬してか、人を幻惑しているとして朝廷に讒訴した。役行者は故に、遠国の地に配流されることになった。世間の評判では、小角は能く鬼神を使役し、水を汲ませ、薪(たきぎ)を採らす。もし命を用いなければ、即ち呪術を使ってこれを縛したとのことである」。

 ちなみに、広足は、「続日本紀」の「732(天平4).10.17の条」に次のように記されている。
 「外従五位下の物部の韓国連広足を典薬頭に任ずる」。

 これによると、広足は、物部氏の人であり、役行者讒訴後に出世を遂げ、医療官僚として最高の地位である典薬頭(てんやくのかみ)に抜擢されたと云う事になる。

 但し、日本霊異記の既述に拠れば、伊豆流罪の原因となる讒訴をしたのは一言主の神だとしている。れんだいこは、続日本紀を採る。なぜなら、役行者と一言主は共に出雲系であり、何らかの行き違いはあったであろうが、讒訴する関係にはならないと見立てるからである。

 ところが、役行者は、呪術と忍述の遁甲を使って翻弄し神出鬼没で自由自在に身を隠したため捕まらなかった。霊異記は次のように記している。
 「験力に因りてたやすく捕られず」。

 追捕役人はならばと、母を人質として「母親を解放して欲しければ投降しろ」と呼びかける及び、自ら出頭し捕らえられた。この逸話は、わざわざ古神道的には反目関係にある韓国の連の讒訴により訴追される身になった、としているところに意味があろう。

 699(文武天皇3).5.24日、66歳の時、役行者は伊豆大島に流された。島での様子は殆ど伝わっていない。昼は伊豆におり、夜には富士山に行って修行したと伝えられている。ところが、小角が流されてからのち各地で気象の異変などが起きた。天皇がその対策に心を痛めていると、夢枕に北斗七星の化身の童子が現れ「聖人を無実の罪に陥れたからこのようなことになったのだ」と告げた。天皇は小角のことに思いが及び、役行者を放免したと云う。

 これには異聞がある。れんだいこは、こちらの方が史実ではないかと思っている。それによると、役行者が伊豆大島に流刑された後、葛城山から金峯山一帯の山岳修行者達の間に謀叛の動きが出てきた。文武朝は、事が起こる前の対策として役行者の斬首を決定した。

 701(文武天皇の大宝元)年、検察使が伊豆大島に派遣され、役行者を砂の上に敷かれた藁むしろの上に正座させた。刑吏が振り下ろした瞬間に刀身に富士明神の秘文が浮かび上がり、刀が三つに折れ、役行者が折れた刀をなめると餅飴のように溶けて滴がしたたり落ちた、と云う。この逸話の裏メッセージは、役行者はかく斬殺されたと云う事ではなかろうか。

 2007.7.28日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評436 れんだいこ 2008/07/28
 【役行者の概要履歴その11、晩年、昇天】

 異聞説に立つと、以下の伝承は全て脚色評伝と云うことになる。伝承では役行者は赦免され、大和に帰郷する事になる。

 配流より2年後の701年、役行者は大赦により故郷に帰った。朝廷に仕えず、大峰山に入り一千の塔婆を立てる等で余生を過ごした。巷間伝わる話として、「小角は能く鬼人を使い、水を汲ませ、薪を取らしむ。もし鬼人が命に従わないときは、呪をもってこれを縛った」、「鬼神を馳せ使いて自在を得」と伝えている。

 役行者はこの頃いわゆる仙人になった。霊異記やその他伝承に次のように記されている。
 「毎夜五色の雲に乗って大空の外に飛び、化人と共に永遠の世界に遊んだ」。
 「仙人になって空を飛んだ」。

 701(大宝元).6.7日、68歳の時、役行者は老母を連れ箕面の天上ヶ岳へ登り、 「本覚円融の月は西域の雲に隠るるといえども、方便応化の影はなお東海の水にあり」とのご遺偈を残し、五色の雲に乗って母とともに天上に登った。また一説には唐の国に渡られたとも伝えられている。 天井ヶ岳にて入寂したと言われる。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。

 その後の伝説として次のような逸話が伝えられている。「日本霊異記」上巻28によると、道照法師が唐へ向かわれた時の道中の新羅で、五百の虎の要請により法華経を講じていたら、聴衆の中に日本語で質問する者がいて、名を尋ねると「役優婆塞」と名乗ったと伝えられている。この逸話は、役行者が並々ならぬ学識を持っていたことを伝えているように思われる。

 その後の一言主について、「役行者に呪縛せられ、今の世に至るまで解脱(と)かれず」とある。その後の修験道については、別途「修験道の歩み」で考察する。修験道については「修験道考」で考察する。

 以上「れんだいこの役行者伝」とする。ネットからも情報収集できるが、それぞれが断片的な憾みがある。これらの情報を寄せ集め生涯履歴の流れで確認してみた。その際特徴として、従来の仏教的叉は道教的読み取りよりは古神道の流れを汲む行者として位置づけた。底流に流れているのは、雌伏を余儀なくされている出雲系の復権と云う日本古代史上の正統の流れであろう。新たな役行者論としてご理解賜れば有り難い。

 現下日本は政治的にも経済的にも文化的にも精神的にも行き詰まり閉塞している。この閉塞の次にやってくるのは、ネオ・シオニズムに完全占領された日本で有り、それは連綿と続いてきた大和民族の最終的解体を意味する。アメリカンインディアンが辿った歴史の通りのものが待ち享けていると思えばよい。この国難期には、役行者的侠気を澎湃と起せずんば、この悪しき流れを変えられないのではなかろうか。れんだいこにはそういう気づきがあり、役行者論に向かわせられることになった。時代に何がしかお役に立てばこれに勝る喜びはない。 

 2007.7.28日 れんだいこ拝

【その後の政局】
 702(大宝2).12.22日、持統上皇が崩御する。

 707(慶雲4).6月、文武天皇が崩御(25歳)。

 同7月、文武天皇の母・阿閉皇女(あべノひめみこ)が第43代元明天皇に即位。

 710(和銅3).3.10日、藤原京から平城京へ遷都。
 
 712年、大安万呂(おおのやすまろ)は、天武天皇の命を受けて始まった国史としての古事記(上中下3巻)を編纂し元明天皇に献上した。これが我が国初の官撰国史書となった。古事記の序文には、編集に当っての事情が記載されている。それによれば、673年、「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れている、と聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」という天武帝の詔(みことのり)で編纂が開始された。しかし、天武帝は完成を待たず崩御、持統、文武の時代を経てやっと元明女帝に献上された。物語風に編纂されているところに特徴がある。

 707.7.17日、第43代元明天皇が即位する(707.7.17日-715.9.2日)。

 715.9.2日、第44代元正天皇が即位する(715.9.2日-724.2.4日)。

 720(養老4)年、古事記献上から8八年後、元明女帝の皇女・元正女帝の時代に、天武天皇10年の681年の条の「帝紀と上古諸事の記定命ず」より約40年を経て舎人親王等によって日本書紀30巻が編纂献上された。

 天皇はこの後、、第45代)聖武天皇(724.2.4日749.7.2日)、第46代孝謙天皇(749.7.2日-758.8.1日)、第47代淳仁天皇(758.8.1日-764.10.9日)、第48代称徳天皇(764.10.9日-770.8.4日)と経緯する。称徳天皇の死をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活する。












(私論.私見)