| 【中国正史28のうち、倭・日本について書かれている18の古書一覧】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中国の勝者の記録ですが、日本の歴史学者などによっての改ざん不能ですので、信憑性の高い歴史書といえます。中国の国の歴史、外交文書などの記録ですので、信憑性が高いものと考えられます。 |
| 【中国史書のうち、倭・日本について書かれている古書一覧】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中国の勝者の記録ですが、日本の歴史学者などによっての改ざん不能ですので信憑性の高い歴史書といえます。中国の国の歴史、外交文書などの記録ですので信憑性が高いものと考えられます。 |
| 【「史記」】 |
| この時代、司馬遷(前145~前86)により中国最初の正史「史記」(本紀12巻、世家30巻、列伝70巻、年表10巻、書8巻、全130巻。中国の古代から紀元前100年迄の歴史を編纂)が編纂されている。司馬遷は、五千年の歴史を持つ中国の「歴史の父」と云われており、「史記」は、紀元前93年に15年の歳月を経て書かれ、世界に残る名歴史書となっている。「本紀」は国家の年代記、政治史で、「列伝」は個人の伝記である。中国史の大家・貝塚茂樹氏は、「歴史的人物に焦点をあて、その行動と個性を描く方法を創造した」と評している。 古代の「三皇、五帝時代」を除く紀元前100年頃までの中国史を叙述している。「三皇、五帝時代」の条は、後年、司馬遷の子孫が補充したものである。倭国に対する直接言及の記事はないが、秦の始皇帝が除福に命じ、若者数千人を率いて海外へ向けて蓬来の国に不老長寿の秘薬を求めさせる条があり、除福団が倭国に辿り着いているとの伝説がある。 |
| 【山海経】 | ||
山海経の著作年代は不詳、18巻(増補版はBC202~AD8)。中国最古の地理書とされているが、洛陽付近を中心に中央と地方の山脈、河川、産物、山神、生物などを述べている。その記述は奇怪さに満ちており、荒唐無稽という評価がされる向きも有る。「山海經
第十二 海内北經」に次のように記している。
これによれば、この時代の倭は、燕に朝貢していたことがわかる。蓋国は、現在の北朝鮮、平壌のあたりにあった国で、鉅燕とは巨大な、偉大なる燕という意味である。中国の燕の昭王が斎を破るのは起源前333年、卑弥呼登場の500年前、日本の縄文時代が終わろうとする頃、日本列島の倭が、燕国に隷属していたことを意味している。 |
| 【「漢書」】 | ||
後漢の初頭時代(紀元1世紀後半)、班固(**~後92)が、前漢の歴史を書いた「漢書」(「前漢書」とも云う)(帝紀12巻、年表8巻、志10巻、列伝70巻、全100巻)を著わした。「漢書地理誌の第八下.燕地の条」の一節にこの時代の倭の記録が次のように残されており、これが倭についてはじめて書かれた正史となる。
楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した四郡の一つである。その役所は、今日の朝鮮民主主義人民共和国の平壌付近にあった。四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。 「東夷伝」が記録する「百余国」は、そ大多数が「カタカナ国」であったと推定できる。後漢に朝貢した倭奴国王や倭国王(倭面土国王))師升ら、中国の古代史書に登場する倭人は「カタカムナ国」の国王であり、後の天皇族に列なるとは考えにくい。倭の先住民族を推定すると、先住者は不明であるが、その後裔としてエミシ、土蜘蛛、国栖、隼人等、これにアイヌが関わる。この時代の「倭人」は漢字のような表意文字をもたず、いわゆるカタカムナ表音文字を使用していたと思われる。 ちなみに、カタカムナ表音文字では「倭」は「ワ」と発音され、後代の「大和、山都、耶麻と、山門、大倭」ではない。その頃の倭人は自らを「ワ」と唱え、これが倭と漢音表記されたと窺うべきであろう。「倭」の表意的解釈は様々であるがいずれも的を射ていない。これは、「カタカムナ文字」で解く以外ない。「カタカムナ文献」(によれば、「ワ」とは、大きくはアマ宇宙球の 全体像であり、小さくは宇宙の万物万象の固体を意味する。「ワ」とは、単なる集合では無く「渾然と調和融合」であるが、 それは固くかたまっているのでは無く、自由にそこからワケられてワク(発生)し、凝縮し膨張するチカラをもつもので豊かな融通性のある、極めて柔軟な状態である。要約すると、「ワ」とは天然自然の大宇宙の実体そのものを意味していると解される。「倭人」は、古代人そのままで、天然自然のままに生き、天然自然を尊崇し、これを「ワ」という表音で絆としていたものと思われる。 |
| 【論衡(ろんこう)】 | ||||||
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漢書地理志に続いて、王充(おうじゅう、27年 -97年)が「論衡」(ろんこう)を著わしている。王充は会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)県で生まれる。もとからの江南人ではない。華北からの移住者であった。
漢書の著者・班固より5才年長の先輩で知人であった。彼は、自由な合理的・実証的な精神によって時弊を痛論し、ことに、当時盛行していた讖緯(しんい)思想・陰陽五行思想に対して強く批判し、迷信や不合理を斥け、一方、儒家、道家、法家などの言説も批判して、宿命論的・唯物的傾向が強いが、根本的には儒家思想の持ち主であった。「食白雉服鬯草
不能除凶」というのも、 迷信や不合理を批判した一例であろう。 中国の歴史時代は、夏、商に始まり、周代(紀元前1046年 - 紀元前771年)、春秋・戦国、秦、前漢、新、後漢、三国(魏・呉・蜀)……と続いていく。この中で倭について言及している。論衡では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。周代は、日本の縄文時代晩期にあたり、この当時から倭人と呼ばれる人たちがいたと考えられる。白雉や暢草(ちょうそう)は服用されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。この草は、江南から南に生えるものである。越と並べて書かれていることからみて、王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われる。倭人について次のように記している。
既に、この頃から倭人は、大陸との関わりを持ち、倭国から海を渡って、周に朝貢していた事が分かる。ここに登場する「倭」が何時の時代の何処に住んでいた倭であるのかはっきりしていない。一説に、中国長江(揚子江)上流にあった江南の倭人の国(族)のこととされている。 成王は、周国の二代目の天子で、その治政は紀元前1115~1079年。日本では縄文中期の終わり、縄文晩期のはじめ頃に当る。卑弥呼が登場する千二百年も前に、ベトナムの越掌が白い雉を、倭が暢草を献じたと記している。草というのは、茸類に属する霊芝のことで、酒に入れて不老長寿の妙薬とする貴重な薬草のことだと解されている。暢草というのは、江南地区ではウッチョンと呼ばれ、琉球に伝わってウッチンと呼ばれ続け、現在では「ウコン」で知られる薬草のことであるとの説がある。※「ちょう。黒黍を醸して酒と為す。ちょうと曰う。芳草を築き以って煮る、鬱と曰う。鬱を以ってちょうに合し、鬱ちょうと為す。之に因りて草を鬱金と曰い、亦ちょう草と曰う。」(説文通訓定声)。 |
| 【魏書】 |
| この時代、王沈(おうしん、?―266)が「魏書」を編纂している。魏志倭人伝の著者・陳寿が参考にしている。東夷伝としてはなし。 |
| 【魏略】 |
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続いて、魚拳(ぎょけん)が「魏略」を編纂している。現在では佚文(いつぶん、一部しか伝わらない文章のこと)になっている。清代に張鵬一(ちょうほういつ)が諸書の逸文を集めて「魏略輯本」を編集している。38巻ないし50巻。魏略は後漢の滅亡から明帝在位(227~239年)の治政までの歴史をまとめている。魚拳は、民間の歴史家であり、大変な蔵書家であり大富豪でもあった。魚劵の学識はかなり高いものであり、民間の歴史研究者として興味の趣くところを記しており、当時の武将や知識人のエピソードを伝える等において、正史と違った異彩を放っている。特に四夷の異民族に興味を持ち、その生活や習慣を克明に記している。「魏略」の真骨頂は、東夷伝の中で、当時の倭国について格別の関心を寄せていたことが伺え、位置、風俗、習慣、産業、人口、暮しぶり、国の歴史、組織などについてより詳細に伝えていることである。「魏略」の原本はなくなっており、諸書にその逸文が残っているだけである。 魏志倭人伝の原本ともなったのが、「魏略」五十巻である。魏略の成立は三国志よりも二、三十年早いとされている。それだけ同時代史料近いといえる。倭人伝の三分の二余りが魏略からほとんど書き移す形で纏められている。帯方郡から邪馬台国への行く程度記事や、倭人の生活や習俗の記述、倭国の有様を記した部分は、ほとんど魏略に基づいている。 角林文雄氏や江上波夫氏は、「魏志倭人」伝が異質の書き方の二部分に分かれていることを指摘し、魏志倭人伝は、魏略の記述をそのまま採用し、陳寿が魏と倭国との外交考証部分をつけ加え、倭人伝の全体が整ったと推定している。 裴松之(はいしょうし、371-451)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6)に『魏志』に関する「注」を実施している。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。 記事倭人伝との対照は「魏略倭伝逸文、後漢書倭国伝対照」に記す。 |
| 【三国志】 | ||
| 晋が天下を統一した太康年間(280-289)年、陳寿(233~297)の撰で「三国志」が著されている。華北の魏について記した魏書三十巻(通称、魏志)、華南の呉について記した呉書二十巻(通称、呉志)、長江(揚子江)の上流四川を中心にしていた蜀の蜀書十五巻(通称、蜀志)の全六十五巻からなる。魏の文帝の黄初元年から晋の武帝の太康元年にいたる間(220~280)の魏・蜀・呉の三国鼎立時代60年間の歴史を書いたもので、正史二十四史の第四番目に位置する。名著の誉れ高く、陳寿の死後、『史記』『漢書』『後漢書』の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。 東夷伝の倭人の条を魏志倭人伝と云う。東夷伝には、扶余・高句麗・東沃沮・?婁・?・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。 倭人伝にえがかれた時代は、後漢の終わり頃から三国鼎立の時代であった。同時代の王沈の書『魏書』に東夷伝がなかったのにも関わらず、また『三国志』は中国の皇帝の歴史を書くべき史書なのに、陳寿の『魏志』倭人伝だけが約二千字という膨大な文字を使ってこと細かく邪馬台国のことを書いている。そこには、特別な政治的事情があった。また「倭人は鉄の鏃を使う」との記述がある。 裴松之(はいしょうし、371-451)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6)に『魏志』に関する「注」を実施している。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。 |
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東夷伝の韓伝冒頭は次のように記している。
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| 【呉書】 |
| 呉書は、呉の韋昭(260年頃~)の撰。全55巻。 |
| 【三国志注】 |
| 南朝宋の裴松之(372-451)は、魏略.魏書など210種に及ぶ文献を 引用して、補注をつくった。原書が解逸する中にあって、この補注が現在貴重な資料となっている。 |
| 【後漢書】 | |||
| 398から445年頃、南朝.宋の宣城大守・范曄(はんよう、ハンカ、398~445)が後漢書を編纂する。構成は、本紀10巻(本紀9巻.后紀1巻)、列伝80巻、志30巻の120巻より成る。この書と史記、漢書、三国志を併せて前四史と称される。成立年時の詳細は明らかでない。 「後漢書倭伝」は通称で、「後漢書巻115.東夷伝.倭条」が正しい。「東夷伝倭人伝」とも称される。この時初めて「邪馬台国」と記される。次のように記している。記事倭人伝との対照は「魏略倭伝逸文、後漢書倭国伝対照」に記す。
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| 【宋書】 | ||||
| 439(元嘉16)年、宋の文帝の命によって宋書の編纂が始まり、何承天、山謙之、琲裴之(はいしょうし)、徐爰(じょかん)らの当代有数の文人たちによって継続されていた。487(永明5)年、南斉の武帝の命を受けた著作郎(歴史編纂の長官)・沈約(しんやく、441~513年、斉の著作郎(歴史編纂の長官))が翌年(元嘉17)に本紀10巻、列伝60巻を完成させた。502(天監元)年、志30巻ができあがった。宋書は全体として事実を簡にな記述しており、宋王朝の官府に集積されていた史料を実録的に記述している。 夷蛮、倭国の条がある。「宋書倭国伝」は俗称で、「宋書巻9 7.夷蛮伝.倭国条」が正しい。次のように記されている。
宋書では、いわゆる倭の5王と言われる「讃、珍、済、興、武」について書かれている。倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。502年、梁の武帝、倭王武を征東将軍に進号(梁書武帝紀)と出ている。倭王武は以後記録がなく、従がって没年不明である。その5年後には突如として「継体天皇」が登場する。 |
| 【魏書】 |
| 北斉の御代、魏収(506から572年)が勅命を受けて撰述したのが「魏書」である。554年完。114巻、帝紀12巻、列伝92巻、志10巻。北魏のことを記した正史である。 |
| 【太平御覧(たいへいぎょらん)】 |
| 宋代、北宋の太宗の勅を受けて李棒昉(りほう)等が「太平御覧」(たいへいぎょらん))を編纂した類書である。この書が類書の中では最も良書として名高いが、その引用にはやはり原文を簡略にした箇所も多い。
後代の史書『晋書』、『梁書』などが、倭人の出自に関しては一致して「太伯之後」という文言を記している。ただ「旧語を聞くに、自ら太伯(たいはく)の後という」の文章が両書にあって、倭人伝にはない。 本伝は現存二ケ条746字の逸文であるが、通常は宋の慶元版第782四夷部三.東夷三.倭条に引かれたものを参照する。三木太郎氏魏志倭人伝の世界により、これまで、倭人伝の要約に過ぎないとされていた御覧魏志の内容が、実はかなり具体製をもっており、異本である可能性が高いと指摘されることとなった。魏略の全文は既に散逸してしまっていて、現在ではその全体像を明らかにすることは出来ない。御覧魏志に注目されるのは、御覧が義略の系譜をひくものではないかとの期待にある。三木太郎氏は、その著書魏志倭人伝の世界により究明を試みている。これによると、氏の得た結論は、義略 御覧魏志 倭人伝の成立順序であったとされる。今日残されている尤も古い御覧は、南宋蜀の刊本である。通説は、「御覧」そのものの成書は、北宋太平興国8年(984年)とされるが、氏によれば「御覧魏志」と、「南斉書倭国出」(6世紀、蕭子顕撰)、「梁書倭伝」(7世紀)、「晋書倭人伝」、「随書倭国伝」、「宋書倭国伝」と関係しており、推定するのに、魏志倭人伝より早い時期の書ではないかと説く。「魏略」、→「御覧魏志」→「魏志倭人伝」が成立順序との結論に達した。 |
| 【梁書】 | ||||||||
太宗の命を受けて、唐の著作郎であった姚思廉(ちょうしれん、?~637)の撰で「梁書」が編纂されている。636(貞観10)年に完成した。成立は唐の太宗の貞観三年(629年)とも云われている。本紀6巻.列伝50巻の57巻。四世―56年の歴史を記している。()。史料的価値は『宋書』より低いと見られる。梁書巻五四の諸夷伝に倭に関する記述がある。正しくは、「梁書巻57.東夷伝.倭条。56巻」。先行する倭に関係する記述を適宜に採録したものである。倭の五王名や続柄が「宋書」と異なっている。一支.臺與とある。
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| 【晋書】 | ||
| 646年(唐の貞観年20)年、時の太宗皇帝は、重臣の房玄齢((578―648)と皇帝政務秘書のちょ遂良(596-657)に晋書の定本をつくるよう命じ、そこで房玄齢を作業主任として8名の責任者が分担を決めて史料の採集登録にあたり、その下に多数の歴史館スタッフが調査.考証に従事した。648年完成。それまでの史書編纂がどちらかといえば個人的な業であったのに対して、いわば国家事業的に編纂されるところとなった。本書以降は、こうした国家的組織的な編纂事業ともなった。これを「晋書」と云う。「晋書」は、唐の貞観年間に編纂され帝紀30巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻より成る130巻。一部に太宗皇帝自身が筆をとった個所があり、太宗勅撰の書とも云われる。西晋265から316、東晋317から402時代を語る正史である。この時代は貞観の治と称されるように、文化的にも政治的にももっとも安定した時期であった。 巻30東夷伝.倭人条に、倭関係の記事をのせている。武帝紀にも書かれている。邪馬台国についての記述がある。266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したものとされている。289(太康10)年の条には、「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」とあり、絶遠の国が日本であるといわれる。
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| 【南斉書】 | ||
500年頃、南朝梁王朝の薫子顕(487~537)の撰により「南斉書」が編纂されている。58(59?)巻。成立年時の詳細はわからない。「南斉書は、6世紀前半に梁という国で作成」と推定されている。日本関係は東南夷伝に書かれている。 正しくは、「南斉書巻58.東南夷伝.倭国条」という。冒頭は前正史の記述を大きく妙略して引いたもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号などが書かれている。南斉書倭国伝は次の通り。
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| 【南史】 | ||||
南史は、唐王朝の李延寿(?)の撰。79(80?)巻。北史と同じく唐の李延寿による唐の高宗(650~683年)の時代と推定される。構成は。、本紀10巻、列デカン70巻からなる。正しくは、南史巻79.夷
伝下.倭国条のこと。
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| 【北史】 | ||||
北史は、唐王朝の李延寿の撰。。帝記録12巻、列伝88巻の100巻。編者の生没年時は明らかでない。完成は、唐の高宗(650~683年.在位)の御代の659(顕慶4)年、奏上。24史のうちの一つ。魏書.北斉書.周書、随書の四史を簡約し、北朝北魏から随までの歴史を一つにまとめたもの。巻94四囲伝の倭国条に、倭関係の記事が見られるが、ほぼ梁書随書によったもの。南史倭国出んに、倭国は、其の先の所出及び所在の事、北史に詳しいとあることでわかる。四夷 倭国。
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| 【隋書】 | ||
| 7世紀後半、唐王朝の魏徴(ぎちょう、581~643)の撰により「隋書」が著されている。成立は太宗の貞観10年(636年)で、85巻(帝紀5巻.列伝50巻、のち貞観15年に撰した5代志梁.陳.斉.周.隋の10志330巻を加え、現行85巻とした)。 「隋書巻81.東夷伝.倭国条」には、「男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)す。黥面文身して、水に没して魚を捕る」と記述している。これは608(推古16)年の隋使・裴世清(はいせいせい)の一行の見聞や観察を基礎にしたもので、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。また、「新羅 百濟皆以?為大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來」、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」とあり、当時の外交状況がみてとれる。 また、倭人が鉄を使用していたという記述がある。 |
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隋書 倭国伝は次の通り。
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| 【旧唐書】 | ||||||||
| 旧唐書は、五代晋王朝 劉ク(887~946)の撰。199巻上。東夷 倭国・日本。 | ||||||||
旧唐書 東夷伝倭国条 日本国条文は次の通り。
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| 【新唐書】 | ||||||||||
| 新唐書は、宋王朝の宋祀(998~1061)の撰。220巻。東夷 日本。 | ||||||||||
新唐書 東夷伝 日本条は次の通り。
裴世清は日本訪問の報告書で、「東して周防灘の「秦の王国」から瀬戸内海の十余国を経て、海岸(難波の津)に達す。竹斯(筑紫)の国より東はみな倭に附庸す」と書いている。三国史記倭人伝の文武10(670)年12月の条、「倭国改めて日本と号す。自ら云う、日出づる所に近し。以て名と為すと」。 |
| 【翰苑(かんえん)】 | |||
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唐初の張楚金(ちょうそきん、**~660年)編集の類書で、後に雍公叡が注をつけた。30巻とされる。張楚金は高宋(在位649から683)に仕え、則天武后(在位684から705)の時、配流先の嶺表で死亡。この本は、いろいろな書物から語句を集め、事類別に叙述しているが、南宋以後解散逸してしまった。「魏略」、「広志」を引用しており考証的価値が高い。1917年に東京大学の黒板勝美博士により、巻30「蕃夷部」の残巻と後述の写本が、太宰府天満宮の宮司、西高辻家に残存しているのが発見された。今日、まとまった形で残存している唯一のものである。 蕃夷(ばんい)部第30巻及び叙文のみが太宰府天満宮に唯一現存する。国宝とされ、1977年、菅原道真の1075年忌事業として竹内理三による釈文・訓読文が付けられて刊行された。第30巻蕃夷部は、匈奴・烏桓・鮮卑・倭国・西域などの15の子目に分けられている。翰苑のほとんどが失われてしまっている為に巻数については諸説ある。旧唐書張道源(著者の祖先)伝には30巻、新唐書芸文志には7巻と20巻の2説が併記され、宋史芸文志には11巻とされている。明治時代に内藤湖南によって30巻であることが明らかにされている。 類書とは、各種の書物の内容を編者の考える事項別に分類収録したもの。日本に唯一伝存している翰苑は9世紀に書写されたものであるが誤字や脱漏が多い。魏略の引用が多い。「翰苑卷第卅蕃夷部(倭國条)」は次のように記している。
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太宰府天満宮蔵の翰苑の注記に広志が引用され次のように記されている。(「古田武彦氏の『謎の四世紀』の史料批判」参照)
魏志倭人伝の邪馬台国がここでは「邪馬嘉国」と書かれている。邪馬嘉国が邪馬台国と同じで在るかどうかは分からない。「女王の都する所」云々の説明がこの文面に全くないからである。 広志の成立年代は、「晋(しん)の郭義恭撰、広志二巻」の存在したことが知られているので、四世紀頃、晋朝期の成立であることが分かる。その根拠は、1・「韓国・夫余・悒*婁ゆうろう」といった呼び方で朝鮮半島南半等を書いている(五世紀の宋書では「百済・新羅」等)。2・会稽(かいけい)郡南部たる「建安」の名が出ているので少なくとも永安三年(二六〇)の「建安郡」分郡以後の成立であることが明白である。3・「倭国伝」の内容からも三国志以後の成立であることが疑いない。陳寿は297(元康7)年に死んでいるので、広志の成立は早くとも三世紀末をさかのぼりえない。以上によって、広志は三世紀末~四世紀末間の成立であることが判明する。 広志には、もう一つの倭国記事がある(岩波文庫等にも紹介せられていない)。倭人伝にも「真珠・青玉を出だす」とある。両書の「倭国」は同一国であることがうかがえよう。
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『史通(しつう)』は唐の劉知幾(りゅうちき)撰。
| 【資治通鑑』(しじつがん)】 | ||||||||||||||||||||||||||||
北宋の司馬光が編纂した編年体の歴史書で、1084年に成立、収録範囲は、紀元前403年から、959年までの1362年間となっている。
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12、宋史 491巻 外国 日本国 元王朝 脱脱(1314~1355)著
13、元史 208巻 外夷 日本国 明王朝 宋レン(1310~1381)著
14、新元史 250巻 外国 日本 中華民国王朝 アショウユウ(1850~1933)著
15、明史稿 196巻 外国三 日本 清王朝 王コウショ(1645~1723)著
16、明史 322巻 外国 日本 清王朝 張廷玉(1672~1755)著
17、清史稿 164巻 邦交六 日本 中華民国王朝 趙ジニ(1845~1927)著
18、清史 159巻 邦交六 日本 中華民国王朝 張其キン(1900~)著
