倭・倭人関連の中国文献、朝鮮文献



 

 (最新見直し2011.08.21日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 中国史については「三世紀に至る中国史、朝鮮史と倭国史の交流考」で確認しているので、ここでは中国史書の編纂史を見ておくことにする。年代順に記したつもりだが、はっきりしないところもある。どなたかが労を取ってくれることを期待する。その意味で試作である。ウィキペディア倭・倭人関連の中国文献」、「邪馬台国は出雲に存在していた!」その他を参照する。

 2011.08.21日 れんだいこ拝


【中国正史28のうち、倭・日本について書かれている18の古書一覧】
後漢書 25巻 東夷 倭 南朝宋王朝 ハンカ(398~445)著
三国志  30巻 東夷 倭人 西晋王朝 陳寿(233~297)著
晋書 97巻 東夷 倭人 唐王朝 房玄齢(578~648)著 
宋書 97巻 夷蛮 倭国  南朝梁王朝 沈約(441~513)著 
南斉書 58巻 東南夷 倭国  南朝梁王朝 薫子顕(487~537)著 
梁書 57巻 東夷 倭 唐王朝 ヨウ思廉(?~637)著
南史 79巻 夷カイ下 倭国  唐王朝 李延寿(?)著 
北史 94巻 四夷 倭国 唐王朝 李延寿(?著
隋書 81巻 東夷 倭国 唐王朝 魏徴(581~643)著
10 旧唐書 199巻上 東夷 倭国・日本 五代晋王朝 劉ク(887~946)著
11 新唐書 220巻 東夷 日本  宋王朝 宋祀(998~1061)著
12 宋史 491巻 外国 日本国 元王朝 脱脱(1314~1355)著 
13 元史 208巻 外夷 日本国 明王朝 宋レン(1310~1381)著 
14 新元史 250巻 外国 日本  中華民国王朝 アショウユウ(1850~1933)著
15 明史稿 196巻 外国三 日本 清王朝 王コウショ(1645~1723)著
16 明史 322巻 外国 日本  清王朝 張廷玉(1672~1755)著
17 清史稿  164巻 邦交六 日本 中華民国王朝 趙ジニ(1845~1927)著 
18 清史 159巻 邦交六 日本 中華民国王朝 張其キン(1900~)著

 中国の勝者の記録ですが、日本の歴史学者などによっての改ざん不能ですので、信憑性の高い歴史書といえます。中国の国の歴史、外交文書などの記録ですので、信憑性が高いものと考えられます。

【中国史書のうち、倭・日本について書かれている古書一覧】
漢書地理志
論衡(ろんこう)
山海経
漢書
魏書
魏略
後漢書
三国志
呉書
晋書
宋書
南斉書
梁書
南史
北史
隋書
旧唐書
新唐書
翰苑(かんえん)
資治通鑑』(しじつがん)

 中国の勝者の記録ですが、日本の歴史学者などによっての改ざん不能ですので信憑性の高い歴史書といえます。中国の国の歴史、外交文書などの記録ですので信憑性が高いものと考えられます。

【「史記」】
 この時代、司馬遷(前145~前86)により中国最初の正史「史記」(本紀12巻、世家30巻、列伝70巻、年表10巻、書8巻、全130巻。中国の古代から紀元前100年迄の歴史を編纂)が編纂されている。司馬遷は、五千年の歴史を持つ中国の「歴史の父」と云われており、「史記」は、紀元前93年に15年の歳月を経て書かれ、世界に残る名歴史書となっている。「本紀」は国家の年代記、政治史で、「列伝」は個人の伝記である。中国史の大家・貝塚茂樹氏は、「歴史的人物に焦点をあて、その行動と個性を描く方法を創造した」と評している。

 古代の「三皇、五帝時代」を除く紀元前100年頃までの中国史を叙述している。「三皇、五帝時代」の条は、後年、司馬遷の子孫が補充したものである。倭国に対する直接言及の記事はないが、秦の始皇帝が除福に命じ、若者数千人を率いて海外へ向けて蓬来の国に不老長寿の秘薬を求めさせる条があり、除福団が倭国に辿り着いているとの伝説がある。

山海経
 山海経の著作年代は不詳、18巻(増補版はBC202~AD8)。中国最古の地理書とされているが、洛陽付近を中心に中央と地方の山脈、河川、産物、山神、生物などを述べている。その記述は奇怪さに満ちており、荒唐無稽という評価がされる向きも有る。「山海經 第十二 海内北經」に次のように記している。
 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
 (和訳)蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す

 これによれば、この時代の倭は、燕に朝貢していたことがわかる。蓋国は、現在の北朝鮮、平壌のあたりにあった国で、鉅燕とは巨大な、偉大なる燕という意味である。中国の燕の昭王が斎を破るのは起源前333年、卑弥呼登場の500年前、日本の縄文時代が終わろうとする頃、日本列島の倭が、燕国に隷属していたことを意味している。

【「漢書」】
 後漢の初頭時代(紀元1世紀後半)、班固(**~後92)が、前漢の歴史を書いた「漢書」(「前漢書」とも云う)(帝紀12巻、年表8巻、志10巻、列伝70巻、全100巻)を著わした。「漢書地理誌の第八下.燕地の条」の一節にこの時代の倭の記録が次のように残されており、これが倭についてはじめて書かれた正史となる。
 「それ樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
 (和訳)「楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う」

 楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した四郡の一つである。その役所は、今日の朝鮮民主主義人民共和国の平壌付近にあった。四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書で倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。

 「東夷伝」が記録する「百余国」は、そ大多数が「カタカナ国」であったと推定できる。後漢に朝貢した倭奴国王や倭国王(倭面土国王))師升ら、中国の古代史書に登場する倭人は「カタカムナ国」の国王であり、後の天皇族に列なるとは考えにくい。倭の先住民族を推定すると、先住者は不明であるが、その後裔としてエミシ、土蜘蛛、国栖、隼人等、これにアイヌが関わる。この時代の「倭人」は漢字のような表意文字をもたず、いわゆるカタカムナ表音文字を使用していたと思われる。

 ちなみに、カタカムナ表音文字では「倭」は「ワ」と発音され、後代の「大和、山都、耶麻と、山門、大倭」ではない。その頃の倭人は自らを「ワ」と唱え、これが倭と漢音表記されたと窺うべきであろう。「倭」の表意的解釈は様々であるがいずれも的を射ていない。これは、「カタカムナ文字」で解く以外ない。「カタカムナ文献」(によれば、「ワ」とは、大きくはアマ宇宙球の 全体像であり、小さくは宇宙の万物万象の固体を意味する。「ワ」とは、単なる集合では無く「渾然と調和融合」であるが、 それは固くかたまっているのでは無く、自由にそこからワケられてワク(発生)し、凝縮し膨張するチカラをもつもので豊かな融通性のある、極めて柔軟な状態である。要約すると、「ワ」とは天然自然の大宇宙の実体そのものを意味していると解される。「倭人」は、古代人そのままで、天然自然のままに生き、天然自然を尊崇し、これを「ワ」という表音で絆としていたものと思われる。

論衡(ろんこう)】
 漢書地理志に続いて、王充(おうじゅう、27年 -97年)が「論衡」(ろんこう)を著わしている。王充は会稽(かいけい)郡上虞(じょうぐ)県で生まれる。もとからの江南人ではない。華北からの移住者であった。 漢書の著者・班固より5才年長の先輩で知人であった。彼は、自由な合理的・実証的な精神によって時弊を痛論し、ことに、当時盛行していた讖緯(しんい)思想・陰陽五行思想に対して強く批判し、迷信や不合理を斥け、一方、儒家、道家、法家などの言説も批判して、宿命論的・唯物的傾向が強いが、根本的には儒家思想の持ち主であった。「食白雉服鬯草 不能除凶」というのも、 迷信や不合理を批判した一例であろう。

 中国の歴史時代は、夏、商に始まり、周代(紀元前1046年 - 紀元前771年)、春秋・戦国、秦、前漢、新、後漢、三国(魏・呉・蜀)……と続いていく。この中で倭について言及している。論衡では、倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)と関連あるとしている。周代は、日本の縄文時代晩期にあたり、この当時から倭人と呼ばれる人たちがいたと考えられる。白雉や暢草(ちょうそう)は服用されたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。この草は、江南から南に生えるものである。越と並べて書かれていることからみて、王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われる。倭人について次のように記している。

 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
 (和訳)周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
 「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
 (和訳) 成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢草を貢ず。
 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
 (和訳) 周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

 既に、この頃から倭人は、大陸との関わりを持ち、倭国から海を渡って、周に朝貢していた事が分かる。ここに登場する「倭」が何時の時代の何処に住んでいた倭であるのかはっきりしていない。一説に、中国長江(揚子江)上流にあった江南の倭人の国(族)のこととされている。

 成王は、周国の二代目の天子で、その治政は紀元前1115~1079年。日本では縄文中期の終わり、縄文晩期のはじめ頃に当る。卑弥呼が登場する千二百年も前に、ベトナムの越掌が白い雉を、倭が暢草を献じたと記している。草というのは、茸類に属する霊芝のことで、酒に入れて不老長寿の妙薬とする貴重な薬草のことだと解されている。暢草というのは、江南地区ではウッチョンと呼ばれ、琉球に伝わってウッチンと呼ばれ続け、現在では「ウコン」で知られる薬草のことであるとの説がある。※「ちょう。黒黍を醸して酒と為す。ちょうと曰う。芳草を築き以って煮る、鬱と曰う。鬱を以ってちょうに合し、鬱ちょうと為す。之に因りて草を鬱金と曰い、亦ちょう草と曰う。」(説文通訓定声)。

【魏書】
 この時代、王沈(おうしん、?―266)が「魏書」を編纂している。魏志倭人伝の著者・陳寿が参考にしている。東夷伝としてはなし。

【魏略】
 続いて、魚拳(ぎょけん)が「魏略」を編纂している。現在では佚文(いつぶん、一部しか伝わらない文章のこと)になっている。清代に張鵬一(ちょうほういつ)が諸書の逸文を集めて「魏略輯本」を編集している。38巻ないし50巻。魏略は後漢の滅亡から明帝在位(227~239年)の治政までの歴史をまとめている。魚拳は、民間の歴史家であり、大変な蔵書家であり大富豪でもあった。魚劵の学識はかなり高いものであり、民間の歴史研究者として興味の趣くところを記しており、当時の武将や知識人のエピソードを伝える等において、正史と違った異彩を放っている。特に四夷の異民族に興味を持ち、その生活や習慣を克明に記している。「魏略」の真骨頂は、東夷伝の中で、当時の倭国について格別の関心を寄せていたことが伺え、位置、風俗、習慣、産業、人口、暮しぶり、国の歴史、組織などについてより詳細に伝えていることである。「魏略」の原本はなくなっており、諸書にその逸文が残っているだけである。

 魏志倭人伝の原本ともなったのが、「魏略」五十巻である。魏略の成立は三国志よりも二、三十年早いとされている。それだけ同時代史料近いといえる。倭人伝の三分の二余りが魏略からほとんど書き移す形で纏められている。帯方郡から邪馬台国への行く程度記事や、倭人の生活や習俗の記述、倭国の有様を記した部分は、ほとんど魏略に基づいている。

 角林文雄氏や江上波夫氏は、「魏志倭人」伝が異質の書き方の二部分に分かれていることを指摘し、魏志倭人伝は、魏略の記述をそのまま採用し、陳寿が魏と倭国との外交考証部分をつけ加え、倭人伝の全体が整ったと推定している。

 裴松之(はいしょうし、371-451)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6)に『魏志』に関する「注」を実施している。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。

 記事倭人伝との対照は「魏略倭伝逸文、後漢書倭国伝対照」に記す。

【三国志】
 晋が天下を統一した太康年間(280-289)年、陳寿(233~297)の撰で「三国志」が著されている。華北の魏について記した魏書三十巻(通称、魏志)、華南の呉について記した呉書二十巻(通称、呉志)、長江(揚子江)の上流四川を中心にしていた蜀の蜀書十五巻(通称、蜀志)の全六十五巻からなる。魏の文帝の黄初元年から晋の武帝の太康元年にいたる間(220~280)の魏・蜀・呉の三国鼎立時代60年間の歴史を書いたもので、正史二十四史の第四番目に位置する。名著の誉れ高く、陳寿の死後、『史記』『漢書』『後漢書』の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。

 東夷伝の倭人の条を魏志倭人伝と云う。東夷伝には、扶余高句麗東沃沮?婁?馬韓辰韓弁辰・倭人の九条が含まれている。東夷伝の九条とも大体三部から構成されている。倭人伝も、第一部はその周辺との関係位置や内部の行政区画の記事、第二部はその経済生活や日常習俗の記事、第三部はその政治外交上の大事件の記事、と分けることができる。また、倭国の政治体制に関する記事を一部と考えると四部構成にできる。

 倭人伝にえがかれた時代は、後漢の終わり頃から三国鼎立の時代であった。同時代の王沈の書『魏書』に東夷伝がなかったのにも関わらず、また『三国志』は中国の皇帝の歴史を書くべき史書なのに、陳寿の『魏志』倭人伝だけが約二千字という膨大な文字を使ってこと細かく邪馬台国のことを書いている。そこには、特別な政治的事情があった。また「倭人は鉄の鏃を使う」との記述がある。

 裴松之(はいしょうし、371-451)は、宋の文帝の命を受けて426年(元嘉6)に『魏志』に関する「注」を実施している。この注は、陳寿の省略した諸事実や陳寿が簡潔に述べている事柄などについて、裴松之が入手しえた諸資料を関係箇所に「注」として補ったものである。
 東夷伝の韓伝冒頭は次のように記している。

 「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」(『魏志』韓伝)
 (和訳) 「韓は帯方の南に在り。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接する。方4千里ばかり」。

書】
 呉書は、呉の韋昭(260年頃~)の撰。全55巻。

三国志注
 南朝宋の裴松之(372-451)は、魏略.魏書など210種に及ぶ文献を 引用して、補注をつくった。原書が解逸する中にあって、この補注が現在貴重な資料となっている。

【後漢書】
 398から445年頃、南朝.宋の宣城大守・范曄(はんよう、ハンカ、398~445)が後漢書を編纂する。構成は、本紀10巻(本紀9巻.后紀1巻)、列伝80巻、志30巻の120巻より成る。この書と史記、漢書、三国志を併せて前四史と称される。成立年時の詳細は明らかでない。

 「後漢書倭伝」は通称で、「後漢書巻115.東夷伝.倭条」が正しい。「東夷伝倭人伝」とも称される。この時初めて「邪馬台国」と記される。次のように記している。記事倭人伝との対照は「魏略倭伝逸文、後漢書倭国伝対照」に記す。
 「倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。

 土宜禾稻、麻紵、蠶桑,知織績為縑布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣温●,冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲。其兵有矛、楯、木弓,竹矢或以骨為鏃。男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之。並以丹朱坋身、如中國之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別 。飲食以手。而用籩豆。俗皆徒跣,以蹲踞為恭敬。人性嗜酒。多壽考,至百餘歲者甚眾。國多女子、 大人皆有四五妻。其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊,少爭訟。犯法者沒其妻子,重者滅其門族。其死停喪十餘日,家人哭泣,不進酒食,而等類就歌舞為樂。灼骨以卜,用決吉凶。行來度海,令一人不櫛沐,不食肉,不近婦人,名曰 「持衰」。 若在塗吉利,則雇以財物; 如病疾遭害,以為持衰不謹、便共殺之。

 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 桓、靈閒、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立為王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。

 自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國。黑齒國、使驛所傳、極於此矣。

 會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不得,徐福畏誅不敢還,遂止此洲,世世相承,有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絶遠,不可往來。
 ※ 沈瑩臨海水土志によれば、「夷洲在臨海東南,去郡二千里。土地無霜雪,草木不死。四面是山谿。人皆髡髮穿耳,女人不穿耳。土地饒沃,既生五穀,又多魚肉。有犬。尾短如●尾状。此夷舅姑子婦臥息共一大床,略不相避。地有銅鐵,唯用鹿格為矛以戰鬥,摩礪青石以作(弓)矢〔鏃〕。取生魚肉雜貯大瓦器中 ,以鹽鹵之 , 歷 月所日 , 乃啖食之 , 以為上肴」也 。
 「倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝、朝鮮を滅ぼしてより使訳漢に通ずる者三十許国なり。国、皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺国に居る。楽浪郡徼はその国を去る万二千里、その西北界拘邪韓国を去ること七千余里。その地、大較会稽の東冶の東にあり、朱崖・タン耳と相近し。故にその法俗多く同じ。(略) 国には女子多く、大人は皆四、五妻あり、その余もあるいは両、あるいは三。(略) 建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名を卑弥呼という。年長じて嫁せず、鬼神の道に事え、能く妖を以て衆を惑はす。ここにおいて共立して王と為す。(略)

【宋書】
 439(元嘉16)年、宋の文帝の命によって宋書の編纂が始まり、何承天、山謙之、琲裴之(はいしょうし)、徐爰(じょかん)らの当代有数の文人たちによって継続されていた。487(永明5)年、南斉の武帝の命を受けた著作郎(歴史編纂の長官)・沈約(しんやく、441~513年、斉の著作郎(歴史編纂の長官))が翌年(元嘉17)に本紀10巻、列伝60巻を完成させた。502(天監元)年、志30巻ができあがった。宋書は全体として事実を簡にな記述しており、宋王朝の官府に集積されていた史料を実録的に記述している。

 夷蛮、倭国の条がある。「宋書倭国伝」は俗称で、「宋書巻9 7.夷蛮伝.倭国条」が正しい。次のように記されている。
 「倭國 在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰 「倭讃萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」太祖元嘉二年、 讃又遣司馬曹達奉表獻方物。讃死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正。詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人。平西、征虜、冠軍、輔 國將軍號、詔竝聽」。
 (和訳)
 「順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬[偏手旁右環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」。
 (和訳) 「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。(「自昔祖禰 躬?甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」。

 宋書では、いわゆる倭の5王と言われる「讃、珍、済、興、武」について書かれている。倭の五王の中の珍に関係する記述が列伝の倭国条だけでなく本紀の文帝紀にもある。502年、梁の武帝、倭王武を征東将軍に進号(梁書武帝紀)と出ている。倭王武は以後記録がなく、従がって没年不明である。その5年後には突如として「継体天皇」が登場する。

書】
 北斉の御代、魏収(506から572年)が勅命を受けて撰述したのが「魏書」である。554年完。114巻、帝紀12巻、列伝92巻、志10巻。北魏のことを記した正史である。

【太平御覧(たいへいぎょらん)】
 宋代、北宋の太宗の勅を受けて李棒昉(りほう)等が「太平御覧」(たいへいぎょらん))を編纂した類書である。この書が類書の中では最も良書として名高いが、その引用にはやはり原文を簡略にした箇所も多い。 後代の史書『晋書』、『梁書』などが、倭人の出自に関しては一致して「太伯之後」という文言を記している。ただ「旧語を聞くに、自ら太伯(たいはく)の後という」の文章が両書にあって、倭人伝にはない。

 本伝は現存二ケ条746字の逸文であるが、通常は宋の慶元版第782四夷部三.東夷三.倭条に引かれたものを参照する。三木太郎氏魏志倭人伝の世界により、これまで、倭人伝の要約に過ぎないとされていた御覧魏志の内容が、実はかなり具体製をもっており、異本である可能性が高いと指摘されることとなった。魏略の全文は既に散逸してしまっていて、現在ではその全体像を明らかにすることは出来ない。御覧魏志に注目されるのは、御覧が義略の系譜をひくものではないかとの期待にある。三木太郎氏は、その著書魏志倭人伝の世界により究明を試みている。これによると、氏の得た結論は、義略 御覧魏志 倭人伝の成立順序であったとされる。今日残されている尤も古い御覧は、南宋蜀の刊本である。通説は、「御覧」そのものの成書は、北宋太平興国8年(984年)とされるが、氏によれば「御覧魏志」と、「南斉書倭国出」(6世紀、蕭子顕撰)、「梁書倭伝」(7世紀)、「晋書倭人伝」、「随書倭国伝」、「宋書倭国伝」と関係しており、推定するのに、魏志倭人伝より早い時期の書ではないかと説く。「魏略」、→「御覧魏志」→「魏志倭人伝」が成立順序との結論に達した。

【梁書】
 太宗の命を受けて、唐の著作郎であった姚思廉(ちょうしれん、?~637)の撰で「梁書」が編纂されている。636(貞観10)年に完成した。成立は唐の太宗の貞観三年(629年)とも云われている。本紀6巻.列伝50巻の57巻。四世―56年の歴史を記している。()。史料的価値は『宋書』より低いと見られる。梁書巻五四の諸夷伝に倭に関する記述がある。正しくは、「梁書巻57.東夷伝.倭条。56巻」。先行する倭に関係する記述を適宜に採録したものである。倭の五王名や続柄が「宋書」と異なっている。一支.臺與とある。
 「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠」。
 (和訳) 
 「從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、即倭王所居」。
 (和訳) 
 「至魏景初三、公孫淵誅 後卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。 興死立弟武。齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東(大) 將軍。其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至」
 (和訳) 
 「文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎 糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上」。
 (和訳) 

【晋書】
 646年(唐の貞観年20)年、時の太宗皇帝は、重臣の房玄齢((578―648)と皇帝政務秘書のちょ遂良(596-657)に晋書の定本をつくるよう命じ、そこで房玄齢を作業主任として8名の責任者が分担を決めて史料の採集登録にあたり、その下に多数の歴史館スタッフが調査.考証に従事した。648年完成。それまでの史書編纂がどちらかといえば個人的な業であったのに対して、いわば国家事業的に編纂されるところとなった。本書以降は、こうした国家的組織的な編纂事業ともなった。これを「晋書」と云う。「晋書」は、唐の貞観年間に編纂され帝紀30巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻より成る130巻。一部に太宗皇帝自身が筆をとった個所があり、太宗勅撰の書とも云われる。西晋265から316、東晋317から402時代を語る正史である。この時代は貞観の治と称されるように、文化的にも政治的にももっとも安定した時期であった。 

 巻30東夷伝.倭人条に、倭関係の記事をのせている。武帝紀にも書かれている。邪馬台国についての記述がある。266年に倭人が来て、円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせたと述べられ、前方後円墳のおこりを記したものとされている。289(太康10)年の条には、「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」とあり、絶遠の国が日本であるといわれる。
 「倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七 萬。男子無大小悉黥面文身。自謂太伯之後」。
 (和訳)

南斉書
 500年頃、南朝梁王朝の薫子顕(487~537)の撰により「南斉書」が編纂されている。58(59?)巻。成立年時の詳細はわからない。「南斉書は、6世紀前半に梁という国で作成」と推定されている。日本関係は東南夷伝に書かれている。 正しくは、「南斉書巻58.東南夷伝.倭国条」という。冒頭は前正史の記述を大きく妙略して引いたもので、また中国から見た倭国の位置や女王の存在などを記す。479年の倭国の遣使を記し、倭王武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍から、称号などが書かれている。南斉書倭国伝は次の通り。
 「倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓(慕韓)六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍」。
 (和訳) 「倭国は、帯方郡の東南大海中に在り、漢末の時代以来女王を立てた。風俗は既に前史に見える。健元元年(343)に、進めて新たに使持節を除し、倭、新羅、任那、加羅、秦韓・(慕韓)の六国諸軍事、安東大将軍の都督とした。倭王の武は鎮東大将軍と号せしむ」。 

【南史】
 南史は、唐王朝の李延寿(?)の撰。79(80?)巻。北史と同じく唐の李延寿による唐の高宗(650~683年)の時代と推定される。構成は。、本紀10巻、列デカン70巻からなる。正しくは、南史巻79.夷 伝下.倭国条のこと。
 「倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往?。人種禾稻、紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、橘、椒、蘇。出黑雉、真珠、青玉。有獸如牛名山鼠、又有大蛇呑此獸。蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射中而蛇則死矣。物産略與?耳、朱崖同。地氣?暖、風俗不淫。男女皆露?、富貴者以錦?雜采為帽、似中國胡公頭。食飲用?豆。其死有棺無槨、封土作家。人性皆嗜酒。俗不知正歳、多壽考、或至八九十、或至百歳。其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶至兩三妻。婦人不??、無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子、重則滅其宗族。晉安帝時、有倭王讚遣使朝貢。及宋武帝永初二年、詔曰:「倭讚遠誠宜甄、可賜除授。」文帝元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死、弟珍立、遣使貢獻、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王、表求除正。詔除安東將軍、倭國王」。
 (和訳) 
 「齊建元中除武持節都督、倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。梁武帝即位、進武號征東大 將軍。其南有侏儒國。人長四尺、又南有黒齒國、裸國。去倭四千餘里、船行可一年至、又西南萬里有海人、身黒眼白、裸而 醜、其肉美。行者或射而食之。文身國、在倭東北七千餘里、人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土 俗歡樂、物豐而賤、行客不齎糧。有屋宇、無城郭。國王所居、飾以金銀珍麗。繞屋爲塹、廣一丈、實以水銀、雨則流 于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖、犯死罪則置猛獸食之、有枉則獸避而不食、經宿則赦之」。
 (和訳) 

【北史】
 北史は、唐王朝の李延寿の撰。。帝記録12巻、列伝88巻の100巻。編者の生没年時は明らかでない。完成は、唐の高宗(650~683年.在位)の御代の659(顕慶4)年、奏上。24史のうちの一つ。魏書.北斉書.周書、随書の四史を簡約し、北朝北魏から随までの歴史を一つにまとめたもの。巻94四囲伝の倭国条に、倭関係の記事が見られるが、ほぼ梁書随書によったもの。南史倭国出んに、倭国は、其の先の所出及び所在の事、北史に詳しいとあることでわかる。四夷 倭国。
 「倭國在百濟新羅東南、水陸三千里、於大海中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆稱子。夷人不知里數、但計以 日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下、居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。又云、去樂 浪郡境及帯方郡、並一萬二千里、在會稽東、與tan[偏人旁右澹]耳相近。俗皆文身、自云太伯之後。計從帯方至倭國、 循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海、又南千餘里度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、 至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國。即[イ妥]王所都。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安 帝時又遣 朝貢、謂之[イ妥]奴國。靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立爲王。無夫有二男子、給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。爲法甚嚴。魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼、始遺使朝貢、魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相 誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命、江左歴晉宋齊梁、朝聘不絶、及陳平、至開皇二十年、 [イ妥]王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕」。
 (和訳) 
 「大業三年,其王多利思比孤遣朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」國書曰:「日出處天子致書日沒處天子,無恙。」云云。帝覽不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」明年,上遣文林郎裴世清使倭國,度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國。又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小德何輩臺從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多?從二百餘騎,郊勞。既至彼都,其王與世清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人 來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶」。
 (和訳) 

【隋書】
 7世紀後半、唐王朝の魏徴(ぎちょう、581~643)の撰により「隋書」が著されている。成立は太宗の貞観10年(636年)で、85巻(帝紀5巻.列伝50巻、のち貞観15年に撰した5代志梁.陳.斉.周.隋の10志330巻を加え、現行85巻とした)。

 「隋書巻81.東夷伝.倭国条」には、「男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)す。黥面文身して、水に没して魚を捕る」と記述している。これは608(推古16)年の隋使・裴世清(はいせいせい)の一行の見聞や観察を基礎にしたもので、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。また、「新羅 百濟皆以?為大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來」、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す」とあり、当時の外交状況がみてとれる。 また、倭人が鉄を使用していたという記述がある。
 隋書 倭国伝は次の通り。
 倭國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。魏時,譯通中國。三十餘國,皆自稱王。

 夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。

 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。

 安帝時,又遣使朝貢,謂之倭奴國。桓、靈之間,其國大亂,遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,於是國人共立為王。

 有男弟,佐卑彌理國。其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通傳言語。

 其王有宮室樓觀,城柵皆持兵守衛,為法甚嚴。自魏至于齊、梁,代與中國相通。

 開皇二十年,倭王姓阿毎,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。

 使者言倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。高祖曰:「此太無義理」

 於是訓令改之。王妻號彌,後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。

 無城郭。内官有十二等:一曰大德,次小德,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信,員無定數。有軍尼一百二十人,猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼,如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。

 其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如形,漆其上,繁之於。人庶多跣足。

 不得用金銀為飾。故時衣橫幅,結束相連而無縫。頭亦無冠,但垂髮於兩耳上。

 至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有●。

 竹為梳,編草為薦,雜皮為表,縁以文皮。有弓、矢、刀、●、弩、●、斧,漆皮為甲,骨為矢鏑。

 雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戸可十萬。

 其俗殺人強盜及姦皆死,盜者計贓酬物,無財者沒身為奴。

 自餘輕重,或流或杖。毎訊究獄訟,不承引者,以木壓膝,或張強弓,以弦鋸其項。

 或置小石於沸湯中,令所競者探之,云理曲者即手爛。或置蛇甕中,令取之,云曲者即螫手矣。

 人頗恬靜,罕爭訟,少盜賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身,沒水捕魚。無文字,唯刻木結繩(倭国には文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶだけ)。

 敬佛法,於百濟求得佛經,始有文字。知卜筮,尤信巫覡。毎至正月一日,必射戲飲酒,其餘節略與華同。

 好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖,草木冬青,土地膏腴,水多陸少。

 小環挂 ●項,令入水捕魚,日得百餘頭。俗無盤俎,藉以檞葉,食用手餔之。

 性質直,有雅風。女多男少,婚嫁不取同姓,男女相悅者即為婚。婦入夫家,必先跨犬 乃與夫相見。

 婦人不淫。死者斂以棺槨,親賓就屍歌舞,妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外,庶人卜日而。

 及葬,置屍船上,陸地牽之,或以小輿。有阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以為異,因行祭。

 有如意寶珠,其色青,大如卵,夜則有光,云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國,多珍物,並敬仰之,恒通使往來


 大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法」。

 其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞」。

 明年,上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟,行至竹島,南望●羅國,經都斯麻國,迥在大海中。 

 又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。

 自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。

 後十日,又遣大禮哥多,從二百餘騎郊勞。既至彼都,其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。

 我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境内,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化」。

 清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗」。

 於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。
 隋書琉球伝は次の通り。

 流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至。土多山洞。其王姓歡斯氏,名渇剌兜,不知其由來有國代數也。

 彼土人呼之為可老羊,妻曰多拔荼。所居曰波羅檀洞,塹柵三重,環以流水,樹棘為藩。

 王所居舍,其大一十六間,刻禽獸。多鬥鏤樹,似橘而葉密,條纖如髮,然下垂。國有四五帥,統諸洞,洞有小王。

 往往有村,村有鳥了帥,並以善戰者為之,自相樹立,理一村之事。男女皆以白紵繩纏髮,從項後盤繞至額。

 其男子用鳥羽為冠,裝以珠貝,飾以赤毛,形製不同。婦人以羅紋白布為帽,其形正方。

 織鬥鏤皮并雜色紵及雜毛以為衣,製裁不一。

 綴毛垂螺為飾,雜色相間,下垂小貝,其聲如珮。綴鐺施釧,懸珠於頸。織藤為笠,飾以毛羽。有刀、●、弓、箭、劍、鈹之屬。

 其處少鐵,刃皆薄小,多以骨角輔助之。編紵為甲,或用熊豹皮。王乘木獸,令左右輿之而行,導從不過數十人。

 小王乘机,鏤為獸形。國人好相攻撃,人皆驍健善走,難死而耐創。

 諸洞各為部隊,不相救助。兩陣相當,勇者三五人出前跳噪,交言相罵,因相撃射。如其不勝,一軍皆走,遣人致謝,即共和解。

 收取鬥死者,共聚而食之,仍以髑髏將向王所。王則賜之以冠,使為隊帥。無賦斂,有事則均税。

 用刑亦無常准,皆臨事科決。犯罪皆斷於鳥了帥;不伏,則上請於王,王令臣下共議定之。獄無枷鎖,唯用繩縛。

 決死刑以鐵錐,大如箸,長尺餘,鑽頂而殺之。輕罪用杖。俗無文字,望月虧盈以紀時節,候草藥枯以為年歳。

 人深目長鼻,頗類於胡,亦有小慧。無君臣上下之節,拜伏之禮。父子同床而寢。男子拔去髭鬢,身上有毛之處皆亦除去。

 婦人以墨黥手,為蟲蛇之文。嫁娶以酒肴珠貝為娉,或男女相悅,便相匹偶。婦人産乳,必食子衣,産後以火自灸,令汗出,五日便平復。

 以木槽中暴海水為鹽,木汁為酢,釀米●為酒,其味甚薄。食皆用手。偶得異味,先進尊者。

 凡有宴會,執酒者必待呼名而後飲。上王酒者,亦呼王名。銜杯共飲,頗同突厥。

 歌呼蹄,一人唱,衆皆和,音頗哀怨。扶女子上膊,搖手而舞。其死者氣將絶,舉至庭,親賓哭泣相弔。

 浴其屍,以布帛纏之,裹以葦草,親土而殯,上不起墳。子為父者,數月不食肉。南境風俗少異,人有死者,邑里共食之。

 有熊羆豺狼,尤多豬雞,無牛羊驢馬。厥田良沃,先以火燒而引水灌之。

 持一插,以石為刃,長尺餘,闊數寸,而墾之。

 土宜稻、粱、●黍、麻、豆、赤豆、胡豆、黑豆等,木有楓、樟、松、楠、杉、梓,竹、籐、果、藥同於江表,風土氣候與嶺南相類

 俗事山海之神,祭以酒肴,鬥戰殺人,便將所殺人祭其神。或依茂樹起小屋,或懸髑髏於樹上,以箭射之,或累石繁幡以為神主。

 王之所居,壁下多聚髑髏以為佳。人間門戸上必安獸頭骨角。

 大業元年,海師何蠻等,毎春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。

 三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻倶往,因到流求國。言不相通,掠一人而返。

 明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也」。

 帝遣武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州率兵自義安浮海撃之。至高華嶼,又東行二日至●嶼,又一日便至流求。

 初,稜將南方諸國人從軍,有崑崙人頗解其語,遣人慰諭之,流求不從,拒逆官軍。

 稜撃走之,進至其都,頻戰皆敗,焚其宮室,虜其男女數千人,載軍實而還。自爾遂絶。

【旧唐書】
 旧唐書は、五代晋王朝 劉ク(887~946)の撰。199巻上。東夷 倭国・日本。
 旧唐書 東夷伝倭国条 日本国条文は次の通り。
 「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等」。
 (和訳) 「倭国は古(いにしえ)の倭の奴国なり。四面に小島、五十余国あり。皆焉れに付属す。」。
 「貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歳貢、又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而」。
 (和訳) 「」。
 「至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」。
 (和訳) 「貞観二十二年に至り、また新羅に附して、表を奉り、もって起居を通ず。日本国は、倭国の別種なり。その国 日辺に在るをもって、故に日本をもって名と為すと。或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為すと。或いは曰く、日本は旧と(もと)小国、倭国の地を併すと。其の人の入朝する者、多自く(おおく)矜大にして、実をもって対へず 故に中国 これを疑う。又曰く、その国界、東西・南北おのおの数千里、西界・南界みな大海に至る。東界・北界、大山ありて限りと為す。山外は即ち毛人の国なりと」。
 「長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物、朝臣真人者、猶中國戸部尚書、冠進德冠、其頂為花、分而四散、身服紫袍、以帛為腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止温雅。則天宴之於麟德殿、授司膳卿、放還本國」。
 (和訳) 

【新唐書】
 新唐書は、宋王朝の宋祀(998~1061)の撰。220巻。東夷 日本。
 新唐書 東夷伝 日本条は次の通り。
 「日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部」。
 (和訳) 「日本は古への倭の奴なり。(中略)誠享元年(六百七十年)、使いを遣わして高麗を平らぐるを賀す。後梢(や)や夏音を習い、倭の名を悪み、更めて(あらためて)日本と号す。使者自ら言く、国日出づる所に近ければ、もって名を為すと。或いは曰く、日本は乃はち(すなはち)小国、倭の併す所と為る故に其の号を冒す(おかす)と。使者情をもってせず、故にこれを疑う またみだりに誇ることあり。其の国 およそ方数千里 南・西は海に尽き、東・北は大山を限る 其の外は即ち毛人という」。
 「其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州」。
 (和訳) 「」。
 「次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。仲哀死、以開化曾孫女神功為王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明」。
 (和訳) 「」。
 「欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極」。
 (和訳) 「」。
 「咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云」。
 (和訳) 「後やや夏言を習い、倭名を改めて日本と為す。使者の云うには日出づる所に近き故の改名なりと。或いは云う。日本は小国、隣の地を併せてその号と為す」。三国史記倭人伝の文武10(670)年12月の条、「倭国改めて日本と号す。自ら云う、日出づる所に近し。以て名と為すと」。



 裴世清は日本訪問の報告書で、東して周防灘の「秦の王国」から瀬戸内海の十余国を経て、海岸(難波の津)に達す竹斯(筑紫)の国より東はみな倭に附庸す」と書いている。三国史記倭人伝の文武10(670)年12月の条、「倭国改めて日本と号す。自ら云う、日出づる所に近し。以て名と為すと」。

【翰苑(かんえん)】
 唐初の張楚金(ちょうそきん、**~660年)編集の類書で、後に雍公叡が注をつけた。30巻とされる。張楚金は高宋(在位649から683)に仕え、則天武后(在位684から705)の時、配流先の嶺表で死亡。この本は、いろいろな書物から語句を集め、事類別に叙述しているが、南宋以後解散逸してしまった。「魏略」、「広志」を引用しており考証的価値が高い。1917年に東京大学の黒板勝美博士により、巻30「蕃夷部」の残巻と後述の写本が、太宰府天満宮の宮司、西高辻家に残存しているのが発見された。今日、まとまった形で残存している唯一のものである。

 蕃夷(ばんい)部第30巻及び叙文のみが太宰府天満宮に唯一現存する。国宝とされ、1977年、菅原道真の1075年忌事業として竹内理三による釈文・訓読文が付けられて刊行された。第30巻蕃夷部は、匈奴・烏桓・鮮卑・倭国・西域などの15の子目に分けられている。翰苑のほとんどが失われてしまっている為に巻数については諸説ある。旧唐書張道源(著者の祖先)伝には30巻、新唐書芸文志には7巻と20巻の2説が併記され、宋史芸文志には11巻とされている。明治時代に内藤湖南によって30巻であることが明らかにされている。

 類書とは、各種の書物の内容を編者の考える事項別に分類収録したもの。日本に唯一伝存している翰苑は9世紀に書写されたものであるが誤字や脱漏が多い。魏略の引用が多い。「翰苑卷第卅蕃夷部(倭國条)」は次のように記している。

 倭國
 憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻

 倭國

 山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。禮義に因りて袟を標す。即ち智信を以って官を命ず。邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。中元の際、紫綬の榮あり。景初の辰、文錦の獻を恭ず。
 太宰府天満宮蔵の翰苑の注記に広志が引用され次のように記されている。(「古田武彦氏の『謎の四世紀』の史料批判」参照)
 「広志曰[イ妾]国東南陸行五百里到伊都国又南至邪馬嘉国百女国以北其戸数道里可得略載次斯馬国次巴百支国次伊邪国安[イ妾]西南海行一日有伊邪分国無布帛以草為衣盖伊耶国也」(字画は太宰府原本のまま)
 (和訳) 「広志に曰く、「[イ妾](=倭)国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載するを得可(うべ)し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(=案)ずるに、[イ妾]の西南海行一日にして伊邪分国有り。布帛(ふはく)無し。草(革か)を以て衣と為す。盖(けだ)し伊耶国也」。

 魏志倭人伝の邪馬台国がここでは「邪馬嘉国」と書かれている。邪馬嘉国が邪馬台国と同じで在るかどうかは分からない。「女王の都する所」云々の説明がこの文面に全くないからである。

 広志の成立年代は、「晋(しん)の郭義恭撰、広志二巻」の存在したことが知られているので、四世紀頃、晋朝期の成立であることが分かる。その根拠は、1・「韓国・夫余・悒*婁ゆうろう」といった呼び方で朝鮮半島南半等を書いている(五世紀の宋書では「百済・新羅」等)。2・会稽(かいけい)郡南部たる「建安」の名が出ているので少なくとも永安三年(二六〇)の「建安郡」分郡以後の成立であることが明白である。3・「倭国伝」の内容からも三国志以後の成立であることが疑いない。陳寿は297(元康7)年に死んでいるので、広志の成立は早くとも三世紀末をさかのぼりえない。以上によって、広志は三世紀末~四世紀末間の成立であることが判明する。

 広志には、もう一つの倭国記事がある(岩波文庫等にも紹介せられていない)。倭人伝にも「真珠・青玉を出だす」とある。両書の「倭国」は同一国であることがうかがえよう。
 「白玉の美なる者、以て面を照らす可し。交州に出づ。青玉は倭国に出づ。赤玉は夫余に出づ。瑜玉・元玉・水蒼玉(すいそうぎょく)は皆佩用(はいよう)す」。〈『芸文類聚』巻八十三。『太平御覧』巻八百五は「瑜玉」以下無し〉 



 『史通(しつう)』は唐の劉知幾(りゅうちき)撰。


【資治通鑑』(しじつがん)】
 北宋の司馬光が編纂した編年体の歴史書で、1084年に成立、収録範囲は、紀元前403年から、959年までの1362年間となっている。
 「詔起劉仁軌檢校帶方州刺史,將王文度之衆,便道發新羅兵以救仁願。仁軌喜曰:「天將富貴此翁矣!」於州司請唐暦及廟諱以行,曰:「吾欲掃平東夷,頒大唐正朔於海表!」仁軌御軍嚴整,轉鬭而前,所向皆下。百濟立兩柵於熊津江口,仁軌與新羅兵合撃,破之,殺溺死者萬餘人」。
 (和訳) 「」。
 「左驍衞將軍白州刺史沃沮道總管龐孝泰,與高麗戰於蛇水之上,軍敗,與其子十三人皆戰死。蘇定方圍平壤久不下,會大雪,解圍而還」。
 (和訳) 「」。
 「仁願、仁軌等屯熊津城,上與之敕書,以「平壤軍回,一城不可獨固,宜拔就新羅。若金法敏藉卿留鎭,宜且停彼;若其不須,即宜泛海還也。」將士咸欲西歸」。
 (和訳) 「」。
 「今平壤之軍既還,熊津又拔,則百濟餘燼,不日更興,高麗逋寇,何時可滅!且今以一城之地居敵中央,苟或動足,即爲擒虜,縱入新羅,亦爲羈客,脫不如意,悔不可追。況福信凶悖殘虐,君臣猜離,行相屠戮;正宜堅守觀變,乘便取之,不可動也」。
 (和訳) 「」。
 「十二月,戊申,詔以方討高麗、百濟」。
 (和訳) 「」。
 「九月,戊午,熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城。初,劉仁願、劉仁軌既克眞峴城,詔孫仁師將兵浮海助之。百濟王豐南引倭人以拒唐兵。仁師與仁願、仁軌合兵,勢大振。諸將以加林城水陸之衝,欲先攻之,仁軌曰:「加林險固,急攻則傷士卒,緩之則曠日持久。周留城,虜之巣穴,羣凶所聚,除惡務本,宜先攻之,若克周留,諸城自下。」於是仁師、仁願與新羅王法敏將陸軍以進,仁軌與別將杜爽、扶餘隆將水軍及糧船自熊津入白江,以會陸軍,同趣周留城。遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水皆赤」。
 (和訳) 「」。
 「詔劉仁軌將兵鎭百濟,召孫仁帥、劉仁願還。百濟兵火之餘,比屋凋殘,僵尸滿野。仁軌始命瘞骸骨,籍戸口,理村聚,署官長,通道塗,立橋梁,補隄堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,立唐社稷,頒正朔及廟諱;百濟大悅,闔境各安其業。然後脩屯田,儲糗糧,訓士卒,以圖高麗」。
 (和訳) 「」。
 「劉仁願至京帥,上問之曰:「卿在海東,前後奏事,皆合機宜,復有文理。卿本武人,何能如是?」仁願曰:「此皆劉仁軌所爲,非臣所及也。」上悅,加仁軌六階,正除帶方州刺史,爲築第長安,厚賜其妻子,遣使齎璽書勞勉之」。
 (和訳) 「」。
 「十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:「臣伏覩所存戍兵,疲羸者多,勇健者少,衣服貧敝,唯思西歸,無心展効。臣問以『往在海西,見百姓人人應募,爭欲從軍,或請自辦衣糧,謂之「義征」,何爲今日士卒如此?』咸言:『今日官府與曩時不同,人心亦殊。曩時東西征役,身沒王事,並蒙敕使弔祭,追贈官爵,或以死者官爵回授之弟,凡渡遼海者,皆賜勳一轉。自顯慶五年以來,征人屢經渡海,官不記録,其死者亦無人誰何。州縣毎發百姓爲兵,其壯而富者,行錢參逐,皆亡匿得免;貧者身雖老弱,被發即行」。
 (和訳) 「」。
 「臣又問:『曩日士卒留鎭五年,尚得支濟,今爾等始經一年,何爲如此單露?』」。
 (和訳) 「」。
 「陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共爲影響,若無鎭兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田,所藉士卒同心同德,而衆有此議,何望成功!自非有所更張,厚加慰勞,明賞重罰以起士心,若止如今日以前處置,恐師衆疲老,立效無日」。
 (和訳) 「」。
 「上深納其言,遣右威衞將軍劉仁願將兵渡海以代舊鎭之兵,仍敕仁軌俱還。仁軌謂仁願曰:「國家懸軍海外,欲以經略高麗,其事非易。今收穫未畢,而軍吏與士卒一時代去,軍將又歸;夷人新服,衆心未安,必將生變。不如且留舊兵,漸令收穫,辦具資糧,節級遣還;軍將且留鎭撫,未可還也」。
 (和訳) 「」。
 「八月,壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山」。
 (和訳) 「」。
 「麟德二年、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會、高宗甚悦、擢拜大司憲」。
 (和訳) 「」。



12、宋史 491巻  外国 日本国 元王朝 脱脱(1314~1355)著 




13、元史 208巻  外夷 日本国 明王朝 宋レン(1310~1381)著 




14、新元史 250巻  外国 日本 中華民国王朝 アショウユウ(1850~1933)著 




15、明史稿 196巻  外国三 日本 清王朝 王コウショ(1645~1723)著 





16、明史 322巻  外国 日本 清王朝 張廷玉(1672~1755)著 




17、清史稿 164巻  邦交六 日本 中華民国王朝 趙ジニ(1845~1927)著 




18、清史 159巻  邦交六 日本 中華民国王朝 張其キン(1900~)著 














(私論.私見)