第6部 「魏略」倭伝逸文、後漢書倭国伝対照



 (最新見直し2011.08.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 陳寿の魏志倭人伝は、魚拳(ぎょけん) の「魏略」を下敷きにしていることが指摘されている。ところが、「魏略」の原文は遺されていない。歴史上、「魏略倭伝逸文」があるばかりである。その魏略逸文(前漢書巻28地理志燕地、顔師古(がんしこ、581年~645年)注)と後漢書倭国伝とを魏志倭人伝と対照させてみたい。「倭人伝 など」、「後漢書倭人伝」、「後漢書卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人」を参照した。

 2003.9.11日、2011.08.15日再編集 れんだいこ拝


魏志  倭は、帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて国邑を為している。海を度ること千里にして、復国有り、皆倭種なり。
魏略
 「倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種
 「倭は帯方東南大海の中に在り、山島に依て国を為す。渡海千里にして、また国有り、皆倭種」
後漢書
 倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。 
 倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。
魏志  帯方より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓国を暦て狗邪韓国に到ること、七十余里。

 始めて一つの海を渡ること千余里、對島国に至る。其の大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居る所は絶島で、方四百余里可り。土地は山険しく深林多く、道路は禽や鹿の径の如し。千余戸有り。良田は無く、海の物を食べて自活し、船に乗りて南北に市糴す。

 又、南へ一つの海を渡ること千余里。名づけて瀚海と曰う。一大国に至る。官は亦く卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里可り。竹木叢林多く、三千許りの家有り。

いささか田地有り、田を耕せども猶食うに足らず、亦南北に市糴す。

 又一つの海を渡ること千余里にして末盧国に至る。四千余戸有り。山海の水ぎわに居る。草木が茂盛し、行くに前が見えず。人々は好んで魚や鰒を捕らえる。水の深い浅い無く、皆沈没して之を取る。

 東南へ陸行すること五百里にして伊都国に到る。官は爾支と曰う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰う。千余戸有り。世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来するとき常に駐まる所なり。

 東南へ百里で奴国に至る。官はし馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有る。

 東へ百里行くと不弥国に至る。官は多模と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余戸有る。

 南へ水行二十日で投馬国に至る。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。

 南へ邪馬壹国に至る。女王の都する所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り、次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、次は奴佳てと曰う。七万余戸ばかり。 
魏略
 従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国、至拘邪韓国七千里 始度千余里 至対馬国。其大官曰卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴。南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里。又度海千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水取之。東南五百里 至伊都国 戸万余 置曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚。其国王皆属女王也。女王之南又有狗奴国 以男子為王 其官曰拘右智卑狗。不属女王也。女王に不属也。自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語、自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽、断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也。
 帯方より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、拘邪韓国に至る七千里、始めて度る千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗と曰い、副を卑奴と曰う。良田無く、南北に一糴す。南に海を度り、一支国に至る。官を置くこと、対に同じ、地の方三百里。又海を度ること千余里、末盧国に至る。人善く魚を捕らえ、能く水に浮没して之を取る。 東南五百里にして伊都国に至る。戸は万余、置くに爾支と曰う。副を洩渓觚・柄渠觚と曰う。其の国王皆女王に属する也。女王の南 又狗奴国有り。男子を以って王と為す。其の官を拘右智卑狗と曰う。女王に不属也。帯方より女国に至るには万二千余里。其の俗男子は皆点而文す。其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う。昔夏后小康之子、会稽に於いて封ぜられ、 断髪文身し、以って蛟龍之害を避く。今倭人亦文身し、以って水害を厭わす也。
後漢書  これに相当する文がない。
魏志  女王国より以北は、其の戸数.道里を、略載することができるが、其の余の旁国は遠絶で、詳しくは分からない。
魏志  次に斯馬国(しま國)有り 。次に巳百支国 (しおき國)有り。次に伊邪国(いや國)有り 。次に都支国 (とき國)有り。次に彌奴国(みな國)有り 。次に好古都国 (こうこと國)有り。次に不呼国(ふと國)有り 。次に妲奴国(そな國)有り 。次に對蘇国 (つそ國)有り。次に蘇奴国 (そな國)有り。次に呼邑国(こお國)有り 。次に華奴蘇奴国(かなそな國)有り。次に鬼国 (き國)有り。次に為吾国(いご國)有り 。次に鬼奴国(きな國)有り 。次に邪馬国(やま國)有り 。次に躬臣国 (くし國)有り。次に巴利国 (はり國)有り。次に支惟国(しい國)有り 。次に鳥奴国 (うな國)有り。次に奴国 (な國)有り。此れ女王の境界の尽きた所なり。
魏志  其の南に狗奴国有り、男子を王と為す。其の官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。
後漢書
 自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。 
 (和訳) 女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。
魏志  郡より女王国に至るには万二千余里。
魏志  男子は大小と無く、皆面と身に黥文す。
後漢書
 男子皆黥面文身、以其文左右大小別尊卑之差。
 男子は皆、黥面文身、その文様の左右大小の別で尊卑の差がある。
魏志  古より以来、其の使が中国に詣でるや、皆、自ら大夫と称す夏后少康の子は、(倭人を)會稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避ける。、倭の水人、好く沈没して魚や蛤を捕る。文身し亦以って、大魚や水禽を厭ふ。後、稍以って飾と為す。諸国の文身は各々異なり、或は左に、或は右に、或は大きく或は小さく、貴卑に差有り。

 其の道里を計ると、當に會稽の東冶の東に在る。
魏志  其の風俗は淫らでない。男子は皆露かいし、木綿を以って頭に招け、其の衣は横幅、但結束し相い連ねて略々縫うことなし。婦人は髪をふりみだしたまま屈かいし、衣は単被の如く作り、其の中央を穿ち、頭を貫きて之れを衣る。
後漢書
 其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之
 そこの男の衣は皆、幅広で互いを結束して連ねる。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のようにして頭を突き出して着る(貫頭衣)。
魏志  禾や稲を種え、ちょまを養蚕して緝績し、細紵やけん緜を出だす。
後漢書
 土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績為縑布
 風土は粟、稲、紵麻(カラムシ)の栽培に適し、養蚕し、縑布を織ることを知っている。
魏志  其の地には牛.馬.虎.豹.羊.鵲無し。
後漢書
 無牛馬虎豹羊鵲(雞)。
 牛、馬、虎、豹、羊、鵲(鶏)はいない。 
魏志  兵は矛.楯.木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長い。竹で作った矢は或いは鐡鏃、或は骨鏃。
後漢書
 其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨為鏃。
 その兵には矛がある。楯、木弓、竹矢、あるいは骨の鏃がある。
魏志  有無する所はたん耳.朱崖と同じである。
魏志  倭の地は温暖で、冬夏生菜を食す。
後漢書
 氣温煗、冬夏生菜茹。
 気候は温暖で、冬や夏も生野菜を食べる。
魏志  皆徒跣。
後漢書
 俗皆徒跣、以蹲踞為恭敬。
 習俗は皆、裸足で歩き、蹲踞(そんきょ)で恭敬を示す。
魏志  屋室有り。父母兄弟は異なる處で臥息す。
後漢書
 有城柵屋室。父母兄弟異處。
 城柵、屋室あり。父母兄弟は居が異なる。
魏志  朱丹を以って其の身体に塗る。中国で用いる粉の如きなり。
後漢書
 並以丹朱坋身、如中國之用粉也。
 並びに、丹砂の朱粉を体に塗る、中国での白粉の用法のようである。
魏志  食飲には、へん豆を用い、手食す。
後漢書
 飲食以手、而用籩豆。
 飲食は手を使い、御膳を用いる。
魏志  其れ、死には棺有るも槨無く、土で封じて塚を作る。
魏志  始め、死するや停喪十余日、その時は肉を食わず、喪主哭泣し、他人は歌舞飲酒を就す。葬が已れば、家を挙げて水中に詣り、澡浴す。以って練沐の如し。
後漢書
 其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞為樂。
 その喪は十余日で停止する。家人は哭泣し、酒食を摂らず、而して等類は歌舞を楽しむ。
魏志  其れ、海を渡って行来し中国に詣でるには、恒に一人の髪をくしけずらず、蝨を除かず、衣服は垢で汚れ、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くにさせる。これを名付けて持衰と為す。若し行く者吉善ならば、共に其の生口.財物をいつくしむ。 若し疾病有り、暴害に遭えば好きなように之れを殺す。其の持衰謹まずと謂へばなり。
後漢書
 行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物;如病疾遭害、以為持 衰不謹、便共殺之。
 海を渡って行き来するときは、一人に櫛や沐浴を使わせず、肉食をさせず、婦人を近づかせない、名づけて持衰という。もし道に在って(海運で)吉利を得れば財物を以て支払う。もし病疾の災害に遭遇すれば、持衰が慎まなかったことして、すなわち共にこれを殺す。
魏志  真珠.青玉を出だす。其れ、山に丹有り。其れ、木にはだん(ゆすらうめ).ちょ(とち).よしょう(くす のき).じゅう(ぼけ).れき(くぬぎ).とう(かや).きょう(かし.うごう(こうぞ).ふうこう(ふう). 其れ、竹にはじょう(ささ).かん(やだけ).とうし(しゅろち く)がある。きょう(しょうが).きつ(たちばな).さんしょう.じょうか(みょうが)有るも、以って滋味と為すを知らず。びえん(さる).こくち(黒っぽいきじ)有り。
後漢書
 出白珠、青玉。其山有丹土。
 白珠、青玉を産出する。その山には丹砂がある。
魏志  其れ、俗として、もの事、行來を挙するに、云為するところあれば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。先ず卜するところを告げる。其の辞は令の如し。龜法は火によるさけ目を視て兆を占う。
魏略
 「倭国大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視タク占吉凶也」
 (和訳)倭国大事には輒(すなわ)ち骨を灼き以って卜(うらな)う。先ず中州の令亀の如し、タクを視て吉凶を占う也。
後漢書
 灼骨以卜、用決吉凶。
 灼骨で卜占し、吉凶を決するのに用いる。
魏志  其れ、會同坐起には、父子男女の別無し。
後漢書
 唯會同男女無別。
 会同では男女の別はない。
魏志  人の性質は酒を嗜む。
後漢書
 人性嗜酒。
 人々の性質は酒を嗜む。
魏志  大人を敬する所作は、但、手を搏ち、以って跪拝に當てる。
魏志  其れ、人は長生き。或は百年、或は八九十年。
後漢書
 多壽考、至百餘歳者甚眾。
 長寿が多く、百余歳に届く者も甚だ多勢いる。
魏志  其れ、國の俗は、大人は皆四五婦、下戸も或は二三婦。婦人は淫らでなく、やきもちもやかず、盗まず、訴訟少なし
後漢書
 國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊、少爭訟。
 国に女子が多く、大人は皆、四~五人の妻がおり、その余は二~三人である。女人は淫ではなく嫉妬もしない。また、風俗は盜みをせず、争訟は少ない。
魏志  其れ、法を犯せば、軽い者は其の妻子をなくし、重いものは其の門戸を滅ぼされ、宗族の貴卑に及ぶ。各々差と序有り。相臣服するに足る。
後漢書
 犯法者沒其妻子、重者滅其門族。
 法を犯した者は、その妻子を没収し、重罪はその家系一門を誅滅する。
魏志  租賦を収む。国の邸閣(倉庫)有り。国に市有り、有無を交易し、大倭にこれを監せしめる。

 女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを畏れ憚る。國中を、常に伊都國で治する。刺史の如く有る。王、使を遣わして京都.帯方郡.諸韓国に詣で、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、文書を伝送し遺の物を賜ふ。

 女王に詣でて、差錯することを得ず。下戸、大人と道路で相遭えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くときは、或はうずくまり或はひざまつき、両手は地に據り、之を恭敬と為す。対応する声は噫と曰う。比するに然諾の如し。
魏志  記載なし
魏略
 「其の俗不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀」
 (和訳)其の俗正歳四時を知らず。但し春耕秋収を記り、年紀と為す。
後漢書  記載なし
魏志  記載なし
後漢書
 「東夷倭の奴国王、使を遣わして奉献す」(光武帝紀第一下.中元二年春正月辛未の項 )
 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見
 建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。
 ※建武中元二年は西暦57年にあたる。授けられた金印の倭奴国王印は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。
 「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」(同書.倭伝)。
 (和訳) 「安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う」。
魏志  其の國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。
後漢書
 桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主
 (和訳) 桓帝と霊帝の間(146-189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。
 桓帝 (本初元年146から永康元年167).霊帝(永康元年167から中平六年189) 。従って、桓.霊の間とは、その両帝の全期間中という意味に解せば、146から189年の訳40年間となる。短く解せば、桓帝の末期から霊帝の初めの頃にかけてという意味において167年前後ということになる。
魏志  年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼と曰い、鬼道を事とし、衆を能く惑わす。年已に長大なるも夫壻無し。男弟有り佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし。婢千人を以って自ら侍らす。唯、男子一人有り、飲食を給し、出入りして辞を伝える。居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、常に人有り兵を持って守衛す。
後漢書
 有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻
 (和訳) 一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。
魏志  女王国から東へ海を渡ること千余里、復國有り、皆倭種。
魏志  又、侏儒國が有って、其の南に在り、人の長は三四尺で、女王国を去ること四千余里。又、裸國.黒齒國が有って、復其の東南に在り、船行一 年で 至る可し。
魏略
 倭南有侏儒国 其人長三四尺 去女王国四千里
 倭の南に侏儒国が有る。其の人の長(たけ)三~四尺。女王国を去ること四千里。
後漢書
 自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。
 女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三~四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。
魏志  倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋五千余里可り。
魏志  景初二年六月、倭の女王は大夫難升米等を遣わして郡に詣で、天子に詣でて朝獻することを求む。太守劉夏、吏を遣わして送って行き、京都に詣らしむ。
魏志  其の年十二月、詔書は倭の女王に報じて曰く、「卑彌呼を親魏倭王に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わして汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝が獻ずる所の男生口四人.女生口六人.班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝の在る所ははるかに遠きも、すなわち使を遣わし貢獻す。是れ汝の忠孝なり。我甚だ汝を哀れみ、今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を假し、装封して帯方の大守に付し假授せしむ。汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の來使難升米と牛利は遠くを渉り、道路勤勞す。今難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し銀印青綬を假し、引見してねぎらい、遣還を賜う。今、こう地交龍錦五匹.こう地すう粟けい十張.せんこう五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹.細班華けい五張.白絹五十匹. 金八兩.五尺刀二口.銅鏡百枚.真珠鉛丹各五十斤、皆装封し て難升米と牛利に付す。還り到らば録受し、以って汝の國中の人に悉く示すべし。国家が汝を哀れむを知らすことに使え。故に汝の好物を鄭重に賜うなり」と。
魏志  正始元年、大守弓遵は建中校尉梯しゅん等を遣わし、詔書.印綬を奉りて倭国に詣で倭王に拝假し、並びに詔をも たらし、金帛.錦けい.刀.鏡.采物を賜う。倭王、使によりて上表し、恩詔を答謝す。
魏志  其の四年、倭王復た使大夫伊聲き.やく邪狗等八人を遣わし、生口.倭錦.こう青 .緜衣.帛布.丹.木ふ.短弓矢を上獻す。やく邪狗等、率善中郎将の印綬を壹つ拝す。
魏志  其の六年、詔して倭の難升米に黄どうを賜い、郡に付して假綬す。
魏志  其の八年、大守王き、官に到る。
魏志  倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と、素から和せず。倭のさいしうえつ等を遣わし、郡に詣でて、相攻撃する状を説く。さいそうのえんし張政等を遣わし、因って詔書.黄幢をもたらしらし、難升米に拝假し、檄を為りて之を告喩す。
魏志  卑弥呼が死んだので、大きな塚を作る。徑百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
魏志  替わって男王を立てたが、國中服さず、こもごも相誅殺す。当時千余人を殺す。
魏志  復た卑弥呼の宗女壹與、年十三才なるを立てて王と為す。 政等、檄を以って壹與を告喩す。
魏志  壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送り、因って臺に詣で、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔.青大句珠二枚.異文雑錦二十匹を貢ぐ。
魏志  記載なし
後漢書
 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
 (和訳) 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。












(私論.私見)