れんだいこの新邪馬台国論



 

 (最新見直し2011.08.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこの邪馬台国研究サイト冒頭で「れんだいこは今も持論をもたない」と記したが、2009年、ようやく見解が固まり始めた。ここに、れんだいこの邪馬台国論を立論しておく。まだ発表したばかりであり反応もないが、邪馬台国論マニアなら飛びつく内容であり、学界の重鎮なら目からうろこで卒倒する内容になっていると自負する。だがしかし、この見解も、れんだいこの政治発言然りで黙殺されるのだろうか。新見解は以下の通りである。「出雲王朝考、その真偽考」、「三輪王朝神話考」と関係しているので併せ読み願う。

 2010.7.30日現在、「新邪馬台国論」で検索すると、大和岩雄氏の「新邪馬台国論―女王の都は二カ所あった」が冒頭に出てくる。れんだいこは読まぬままに批評するのは気が引けるが、題名からして折衷案でしかない気がする。折衷案は往々にしてトンチンカンなことが多い。早くも「最強の邪馬台国論です」なる評が為されているが、ならばれんだいこの新邪馬台国論と比較して欲しい。れんだいこの知見こそが新邪馬台国論となって然るべきだと自負している。2011.8.7日、倉橋日出夫氏の「邪馬台国と大和朝廷」を知った。れんだいこの観点と非常に通じている。2004年頃に打ち出しているので、れんだいこより早いか同じ頃かも知れない。同じような観点が時空を超えて互いに伝播しつつあることが分かる。恐らく第三、第四の共鳴者が現れるだろう。

 2009.11.22日、2011.8.29日再編集 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評626 れんだいこ 2009/11/21
 【箸墓(はしはか)古墳を廻る新たな邪馬台国論考】

 2009年、箸墓(はしはか)古墳を廻るニュースが報道を賑わした。これについて、れんだいこコメントを発表しておく。箸墓古墳は「纒向(まきむく)古墳群」のヌシ的な古墳である。その古墳が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかとの関心から脚光を浴びている。いずれにせよ、「纒向古墳群」の科学的考証が進むにつれ、日本古代上の闇の部分が明らかにされつつあることは疑いない。ごく最近発表された箸墓古墳調査は、その歩を大きく進めた。まず、このことを確認しておきたい。以下、れんだいこ史観による日本古代史上の大胆な邪馬台国論争の時代を画する新分析を発表する。既に発表されているのかもしれない。そうだとすれば、その見解を支持する。

 「纒向古墳群問題」の隠された真のテーマは、「纒向古墳群の解明」によって、新たな邪馬台国論を浮上させることにある。爾来、邪馬台国論は、いずれもが大和王朝に接続する式での、九州説、畿内説、その他説の三スクミの中で論争されて来た。「纒向古墳群の解明」は、その虚構を撃ちつつあるのではなかろうか。目下、畿内説論者は、「纒向古墳群の解明」が畿内説邪馬台国論を補強するものとして期待を膨らませている。それに反して、九州説邪馬台国論者はしかめ面を増しつつある。そういう拮抗関係にある。

 しかしながら、れんだいこの見るところ、両者とも一喜一憂するには及ばない。「纒向古墳群の解明」は、かって纒向に大和王朝とは違う別系の王権が存在していたことを示しつつあると窺うべきではなかろうか。即ち、大和王朝に接続しない式の邪馬台国大和説を浮上させつつあると認めるべきなのではなかろうか。同じ邪馬台国大和説でも、大和王朝へと陸続する説と断絶しているとする説では面貌が大きく変わる。

 後者の説を採るならば、「纒向古墳群の邪馬台国」は大和王朝側に滅ぼされたのであり、為に「纒向古墳群の邪馬台国」は表向きの痕跡を消されたのもむべなるかなであり、これによりこの時代の解明は容易なことでは進まないようにされていることになろう。「纒向古墳群の解明」は、消された王朝とその時代を復元するものであり、即ち「纒向古墳群」は滅ぼされる前の邪馬台国として位置付られるべきものである。かく構えることによって却って光芒を放ちつつあるのではなかろうか。

 こう窺うことにより、次の推理が説得力を持つのではなかろうか。日本古代史の新視角として聞き流してほしい。論旨は異なるが「邪馬台国近畿説を往く -纒向遺跡-、歴史倶楽部第76回例会 2003.9.28(日)奈良県桜井市巻向に触発されたので謝しておく。

 「かって倭国は、その豊富な天然資源の賜物によってか平和的分棲の部族連合国家として独特の王朝楽土を形成していた。ここでは一々採り上げないが、その様は中国の各史書の記す通りである。邪馬台国は、この時代の最後の精華となる諸国連合国家であり、迫り来る高天原王朝迎撃を使命としていた。案外と高度な宗教的国家であったと思われる。この時代の政治、精神、文化が今日にも深く伝統化されていることを知るべきだと思う。

 その邪馬台国の比定は難しい。何とならば、邪馬台国の痕跡が一切消されているからである。唯一の手掛かりとして、魏志倭人伝の記述が遺されている。しかしながら、どういう事情によってかは定かではないが、記載された通りの方位と里程距離を辿ると邪馬台国に辿り着けない仕掛けになっている。なぜこのように筆法されたのか、その理由は今も分らない。

 そこで、後世の史家は、自説に不都合なくだりは記述が正しくないとして無理矢理に方位を替え、あるいは里程距離を訂正する解釈を生みだしこじつけた。それにしても、邪馬台国のみならず邪馬台国に至る直前の投馬国から途端に推定できない。直前の投馬国が推定できないからして投馬国の先に予定されている邪馬台国がまちまちにならざるをえない。九州説、畿内説、その他説然りで、これにより、投馬国、邪馬台国比定地が百家百言といっても良いほど様々な比定地を登場させることになった。

 いずれにしても、邪馬台国の後に大和王朝時代が始まるのは確かだ。ところが、日本は無論、中国、韓国の史書にも、魏志倭人伝記載後の邪馬台国のその後の動向が記されていない。奇妙なほどにプッツリ途絶えている。日本古代史書正史とみなすべき地位を得ている古事記、日本書紀があれども(以下、「記紀」と記す)、且つ記紀双方の記述が互いに訂正していると見られる箇所が相当数有るにも拘わらず、邪馬台国に関する記述は共にない。記紀以前の書と云われるいわゆる古史古伝にも記述がない。これは非常に不自然なことである。

 これをどう窺うべきか。一つは、魏志倭人伝を架空のユートピア論とみなせば足りる。もう一つは、れんだいこはこれに従うが、大和朝廷が邪馬台国の流れを汲んでいない故、否むしろ邪馬台国を撲滅解体した側に位置する故、痕跡を消すのに忙しく、意図的に抹殺したとみなしている。しかし、例えそうであるにしても、西欧系世界史の如くにその征服史を堂々と記載すれば良かろうと思うが、それを不名誉なる恥とした弁えなのか、それとも別の理由によってか邪馬台国を不問にするという措置に出た。辛うじて屈折した形で邪馬台国の存在を語らしめており、いわゆる暗諭方法を採用している。これにより、日本古代史の読み取りが極めて困難なものとなっている。史書があるだけマシとの判断もできるが、非常に複雑な日本古代史になっていることは疑いない。よって凡庸な頭脳では迷路に入ることはできても抜け出すことができない。

 もとへ。大和王朝時代の初期、全国各地に古墳が造営される。この時代を古墳時代とするならば、この時代のイメージは凡そ邪馬台国のもつそれとは程遠い。記紀神話に従う限り、大和王朝派は新天地を求めて海を渡ってきた。どこから来たかは定かではない。高天原とあるばかりで、その比定はない。その高天原系渡来人が天孫降臨により日向の高千穂の峯辺りに降ったとある。その彼らが周辺諸国を次第に従え、海を越えた向こうにあるという豊芦原瑞穂の国の算奪を決意する。その手始めと地均しに出雲王朝に闘いを挑む。これによれば、出雲王朝が日本史上最古の在地土着系連合王権国家であったことになる。この出雲王朝と邪馬台国の繋がりが不明であるが、大和王朝と邪馬台国の疎遠さに比すればよほど近いと推定し得よう。但し、この解明は進んでいない。

 かくて、高天原王朝対出雲王朝の闘いと云う古代史上最大の政変が始まる。これは記紀神話の記すところである。この神話を否定するようでは古代史の解明は進まない。この辺りは各地の神楽が伝えるところである。記紀記述のそれよりも、神楽演劇の方が史実に近い伝承をしている可能性が強い。戦前の皇国史観の犯罪は、出雲王朝を下賤、高天原王朝を高貴とする史観に塗り込めていたところに認められる。このような史観では、日本古代史はさっぱり要領を得ないことになろう。それはともかく「ドラマティックな国譲り」を経て、神武東征譚に至る。

 高天原王朝はやがて畿内に攻めのぼり、二ギハヤヒと長脛彦率いる河内王権派との激闘に入り、艱難辛苦の末に紀州の熊野経由で大和の地を掌中にし、大和王朝を創始し古墳時代を造る。これを系譜的に見れば、高天原王朝による倭国乗っ取り完遂と云えよう。この時期が、微妙に邪馬台国時代と重なっていることが興味深い。仮に、邪馬台国勢力を当時のヤラレタ側に比定するならば妙に辻褄が合う。

 かくて畿内を統一した大和王朝は、縄文-初期弥生時代を牛耳っていた旧政権たる邪馬台国連合系の依然としてまつろわぬ諸国の豪族狩りに出向き、屈服させ、有力者を殺し、抵抗勢力を根こそぎねじ伏せ、和を請えば許して従軍させ、逆らえば刺し殺して首を刎ね、力づくで倭国を支配した。ヤマトタケルの征服譚は、この視点から見れば理解し易い。ヤラレタ側は土地に封じ込められ鬼化させられる。あるいは東へ東への移動を余儀なくされた。アイヌ蝦夷系の北上逃亡史はこれに歩調を合わしているように見える。倭の五王の一人が中国に送った『我が祖先は闘いに明け暮れ、日夜山野を駆けめぐり、寧所(ねいしょ)にいとまあらず』という状況はこの時代のでき事を書き残したもののように思える。

 彼らは、稲と鉄器を持ってやって来た。この二つが先進的文明的な利器となり大いに力を発揮した。まず、北九州を征服し、神武東征譚に表象される如くに次第に東漸し、遂には大和の地を掌握した。それまでの銅鐸を用いていた民族は屈服させられ、銅鐸は急ぎ山腹に隠された。三十諸国が集まって一人の女性をたて、それで国中を平和裏に治めていた邪馬台国連合国家は遂に滅ぼされた。こうして大和朝廷が創建された。かく推定できるのではあるまいか。

 但し、大和朝廷は、国譲り譚で明らかな如く、征服過程で懐柔策を用いざるを得なかった。政治権力は譲らせるが宗教的権威とその限りでの活動は認めるというものであった。それほどに征服される側の国家及び社会秩序形成能力が高かったということでもあろう。これにより、西欧史に見られるような完全絶滅ジェノサイド策は採られていない。懐柔策のもう一つとして、在地土着系豪族のうち有能なる者の登用を約束していた。こうしなければ邪馬台国征服が首尾よく進展しなかったからであると考えられる。

 これにより、大和王朝は、高天原王朝系、出雲王朝系その他を問わず官吏に用い、律令国家に向けての歩みを始めることになる。新国家は大陸文化の咀嚼に向かい、和魂漢才を発揮し始める。その摂取の仕方に於いて古尊派、革新派が競い始める。且つ新たな日本政治、社会、文化を発酵させ始める。大和朝廷内の権力は、高天原系、出雲系、邪馬台国系の内攻的な闘いへと向かい暗闘し続けることになった。

 大和王朝前の時代を画していた出雲王朝、邪馬台国の記憶は、出雲系、邪馬台国系官吏の能力に応じて温存され、辛うじて痕跡を留めることになった。ざっと荒削りであるが、これが日本古代史の流れであり伝統であり今も息づいているのではあるまいか。『これが私がたどり着いた邪馬台国の姿であるが、さてその理論武装はどうしようか』。

 2009.11.21日 れんだいこ拝
 追記しておく。古事記、日本書紀が何故に邪馬台国を意識しながら記述しなかったのか、その闇を解きたい。思うに、述べたように大和王朝は邪馬台国を滅ぼした側であり、その皇統譜を神聖化させる為にも、古事記、日本書紀編纂に当たって厳重な不記述を命じていたのではなかろうか。これにより、古事記は辛うじて出雲王朝を代替的に記述することで邪馬台国史を暗喩するという方法で編纂した。これに対し、日本書紀は、古事記の出雲王朝言及さえも良しとせずこれをも封殺した。古事記と日本書紀にはこういう違いがあるのではなかろうか。その後、風土記が生まれる。そのうちの出雲風土記で出雲王朝が語られた。こうして出雲王朝はそれなりに史書化されたが問題は邪馬台国である。これについては厳重に発禁されていたのではなかろうか。時代が下がるうちに本当に分からなくなってしまい今日に至っているのではなかろうか。史書の政治主義的本質性、その陥穽を思う次第である。

 2011.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評628 れんだいこ 2009/11/26
 【邪馬台国論争史上の「一、台論争」考】

 れんだいこは、先の「箸墓(はしはか)古墳を廻る新たな邪馬台国論考」で拍車がかかったか、久しぶりに邪馬台国論に色気づいてきた。このテーマは、れんだいこが学生運動に関わり始める前の関心事であり、今は散逸したがそれなりにノートしていたなつかしい思い出が詰まっている。こたび、気になっていた「一、台論争」につき、れんだいこ論を発表し、世の関心者の批評を請いたいと思う。れんだいこ結論は末尾に記す。

 1969年、当時一介の高校教諭であった古田武彦氏が「史学雑誌」に「邪馬一国説」を発表、研究者に衝撃を与えた。古田氏の論証は次の通り。

1、魏志倭人伝の原文が存在せず、 今日残っているのは全て後世の写本である。南宋時代の紹熙本、紹興本、それ以降の汲古閣本、英殿本(北宋本)等いろいろな版本がある。こうなると、どの写本が原文に忠実であるかを検証せねばならない。その結果、南宋時代の紹興年間に刊行された「紹興本」の後に刊行された同じく南宋時代の「紹煕本」がより正確最良本であるように思われる。ところで、「紹煕本」は無論のこと、写本のどれを見ても「邪馬一国」と書かれている。

2、「一」の古字は「壹」、「台」の古字は「臺」であり、似ているが厳格に使い分けられている。意訳概要「三国志全体の中に『壹(一)』と『臺(台)』の字の使用例を抜き出したところ、『壹』の字は86箇所、『臺』の字は56箇所ある。『壹』と『臺』とは一見書体が似ているが、字義が違うので、『壹』の略字として『臺』が使用されることは有り得ない。実際に、『臺』が『壹』にされたり『壹』を『臺』と誤記されたものも一つもない。つまり、『壹』と『臺』は峻別されて使い分けられており、うっかり転写間違い、誤用、混用もない」。  

3・概要「倭人伝における「臺(台)」の意味は、元々『盛り土、高地』を意味していたがこれが転じて『天子の宮殿及び天子直属の中央政庁』を示している。いわば、『臺』は至高を意味する貴文字であり、従って、そうした至高文字が東夷の一国に冠されることはありえない。これに対して、『壱(一)』の意味は、『天子に対し、二心無く、相見(まみ)える』意の表現として使われている。その反対が『二(弐)』の意味で、『同盟からの離脱と他への二股的加入』意の表現として使われている。従って、悪徳的『二(弐)』の反対語としての徳目的『一(壱)』の意図的使用、つまり意図的に『邪馬一国』、『一与』として使用されていることを窺うべきである。この観点から『魏王朝に対する、二心無き朝貢』としての往来と盛大な貢物の意味が理解し得るところとなる」。

4・魏志倭人伝の写本に「邪馬一国」と書かれている以上、であれば字句通りに読むべきである。従来式の「邪馬台国」呼称は間違いで、文献に従う限り正しくは「邪馬一国」とすべきである。5世紀半ばの「後漢書」(著者はんよう)、7世紀の「梁書」、「北史」、「隋書」等の諸書が「台」と表記しているのは誤りである。三国志の成立は3世紀後半であり、その底本が残って12世紀に「紹煕本」へと繋がっている。3世紀本の記述を5世紀本、7世紀本で訂正するのは、概要「新しい時期の書物で古い時期の書物の記述を訂正したことになり、これを良しとするのは史学の常道に反する」。5世紀に「三国志」に注をつけた裴松之本が存在するが、裴松之は邪馬一国については何の注も加えていないのが、その証左である。

5、「邪馬一国」とするならば、「邪馬台」即ち「ヤマト」の音訳による大和を宛がう形での所在地比定には根拠がない云々。

 こうして、「邪馬台国」と了解する現行の魏志倭人伝の校訂は間違っており、「邪馬一国」とするのが正しいとする「邪馬一国説」が登場することになった。氏の説によれば、卑弥呼女王の都とする国は、「ヤマタイ國」ではなく「ヤマイ國」と読むことになる。この説はそれ以前にも阪本種夫、橋本郁夫により指摘されていたが、古田氏の様な考証を伴っておらず注目を受けることが少なかった。

 それまで通説は、例えば、内藤湖南氏の「卑弥呼考」では、「邪馬壱は邪馬台の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」と、「台」説をとるのが良いとされ、すんなりと受け入れられて来ていた。従来「ヤマタイ」又は「ヤマト」の読み方に従って「大和、山門」等の音訳地名比定をしてきていた。この「常識通説」が古田論証により覆され大騒動になった。畿内説、九州説いずれを唱える者にも一大事となった。古田説には、和歌森太郎や佐伯有清、森秀人、小田洋、原田大六らが賛同見解を述べた。或る人曰く「古田氏がこの認識に達したとき邪馬台国論争の時代は終わり、邪馬一国の時代が始まった」。

 さて、その後どうなったか。邪馬台国か邪馬壱国かその古形を廻っての論争が始まり、反駁も多く未だに決着を見ない。

 古田説の方法は、中国の文字の用法を厳密に調べ上げてゆくという、今まで誰も試みなかったものであった為、多くの賛同者を得た。尾崎雄二郎氏の様に、古田説に組しないものの、「まことにあるかどうか、それを明らかにするのが研究者の仕事ではないのか」と、古田氏の主張の意義を評価する点については賛同も多い。むしろ、本来の「邪馬台-壱論争」の範囲を超えて、古田の果敢に応駁し一歩も退かない姿勢を貫く姿に属人的に古田を支持するものも多く、ある意味で在野の研究者対学界との対立図式ともなった感がある。

 以下、私説を申し上げる。れんだいこは、古田説を支持しないが、新井白石.本居宣長の研究以来邪馬台国論争は尽くされた感があるにも関わらず、榎の放射説同様云われてみれば明白初歩的なことに対し、これまで研究が為されていなかった盲点を論点にしたことにつき、これを高く評価するものである。且ついわゆる在野史家が学界以上に実証的な考証をしたことの功績が認められるべきであろう。

 但し、「邪馬壱国説」そのものについては疑問を投じたい。古田説にも拘わらず古田説の典拠する魏志倭人伝の最古写本(版本)の年代が12世紀のものであることを考えると、5世紀に成立した後漢書倭伝の「邪馬臺国」、7世紀に成立した梁書倭伝の「祁馬臺国」記述を否定することには難があるとみなすべきではなかろうか。陳寿原本が遺されていないので、こういう議論が生まれることになるが、察するに陳寿原本には「台」と書かれていたのではなかろうか。「隋書には『邪麻堆、すなわち魏志に云う邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)」とあるので『タイ』と読むのが自然である」との反論が為されており、もっともな逆指摘と思う。

 問題は次のことにある。既に議論されているのかどうか分からないが、れんだいこが目を通すところ、紹熙本、紹興本、汲古閣本、英殿本、北宋本等が「邪馬一国」と記すも、魏志倭人伝末尾の同じ一文にある「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」に続く「因詣臺」の「壹」と「臺」の明確な使い分けにこそ注目すべきだろう。これをどう解するべきかこそ議論せねばならないのではなかろうか。

 思うに、「邪馬一国」と記されているから字句通りに読むべきとするよりも、古田氏自ら解説する如く「臺」の持つ「至高の貴文字」性を理由として、朝貢して来る側の辺鄙な倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がうのは不遜不当と気づき、漢朝尊大主義の立場から南宋時代の写本者が敢えて意図的故意に「邪馬台国」とあるのを「邪馬一国」へと書き直し、この作法が伝承されたとも考えられるのではなかろうか。

 このことは逆に、辺鄙な倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がった魏志倭人伝原本筆者・陳寿の倭国観に興味が湧く。それは、ここでは問わない。

 れんだいこ説は結果的に古田氏の「邪馬一国説」を否定することになるが、邪馬台国論争史上、「一」と「台」の違いを注目せしめた古田史学の意義は不朽であると思っている。いつか議論されねばならなかった箇所であり、これを採り上げ本格的に精査した古田史学の意義は大きいと評したい。古田史学には、かく「通説の盲点」を衝く炯眼性がある思う。邪馬台国の位置を博多湾周辺に比定しているのは平凡としても、後に「日流外三郡誌(ツガルソトサソグンシ)」に着目するに至ったのもいわば氏の炯眼性が為せる必然であったように思われる。

 なぜ、古田史学に注目し始めたのか。それは、れんだいこの新邪馬台国論考の着眼に関係するからである。今や古代史学は大和王朝以前の、大和王朝勢力に潰された原日本王朝の解明に向かうべきであり、古田氏が「日流外三郡誌(ツガルソトサソグンシ)」考を通じて、その先駆的作業に手をつけていたと再評価するからである。この視点からの考証は未だ手つかずの状態にあり、邪馬台国論は出尽くしたのではなく、緒に就いたばかりという認識が欲しい為である。

 誰か、評してみよ。

 2009.11.26日 れんだいこ拝

【「邪馬一国、邪馬台国論争」考】
 「邪馬一国、邪馬台国論争」につき優れた論考を見出したので転載しておく。
 「邪馬台国・奇跡の解法」の「邪馬臺の証明01」  2011-07-28 | ●定説の真偽を検証する「証明の章」

 『後漢書』『梁書』『隋書』『太平御覧』など複数の中国歴史書が邪馬臺国と書いているにもかかわらず、私たちがテキストとする12世紀改訂の『紹興本』『紹煕本』の『三国志』倭人伝が、臺に似た壹という文字を使って邪馬壹国と書いている。この両者は、わずかな違いはあるが『咸平本』→『汲古閣本』の流れを踏襲しているとみなされる。では、なぜ「邪馬壹」と書かれたのだろうか。私のところへも2度ほど、「壹が正しい」とする立場からの意見が寄せられたことでもあるし、この論考を邪馬台国という名称で展開する根拠提示の意味も含めて、邪馬臺が正しいことを証明する。読者の多くは邪馬台という略字に慣れておられると思うのだが、文字の真偽問題がからむことでもあり、ここでは中国の歴史書が使っている旧字体の邪馬臺を使ってすすめる。

▼5世紀成立の正史『後漢書』編纂者は、『三国志』を見て邪馬臺と書いた。

 先達がその考証眼で濾過して書いた正史を資料として、自らの考証眼でさらに濾過して書くのが文章伝世である。そうやって史実を伝承することが歴史書編纂の作法だから、『三国志』を資料にするのは当然である。独自に書かれた歴史書も山ほどあるが、ほとんどが異聞として扱われている。『三国志』以降の『後漢書』倭伝を含む東夷伝にかぎっていえば、先に成立した『三国志』を資料にした事実は動かない。

 中国史上、公式かつ始めて東方を調査したのは、後漢朝ではなく魏朝だからである。すなわち『後漢書』東夷伝は、『三国志』を資料にしなければ書けない記録である。その『後漢書』倭伝は「その大倭王は邪馬臺に居る」と書いている。私たちが目にすることのできる『倭人伝』は12世紀宋代に民間で刷られた刊本だが、5世紀の『後漢書』編纂者がみた『倭人伝』には邪馬臺国と書いたあったから邪馬臺国と書いたのである。

▼7世紀の『隋書』の編纂者も『三国志』を見て書いた。

 これもまた歴史書編纂の手順として当然といえる。見ているからこそ「魏志にいう邪馬臺なる者なり」と書いている。7世紀唐代の『隋書』編纂者がみた『倭人伝』にも邪馬臺と書いたあった証拠である。

▼『後漢書』と『隋書』『梁書』が「邪馬臺」に間違えた可能性はあるか。

 誤字はどの書物にも認められる。これは、現代のように統一された辞書がなかった時代のことでもあり、無理からぬことだと私は思う。邪馬臺を中国人の発音に併せて書き換えたたと思われるものには、邪摩惟、邪靡堆とあり、ひどいものになると、邪摩推、邪靡惟というものまである。いわゆる「間違いの増幅リレー」である。これは、ほとんどが筆写時か版木作成時の間違いと思われる。だが、可能性のパーセンテージという科学的見地からいえば、『後漢書』『隋書』『梁書』の三書が揃って壹を臺に間違ったという結論には至らない。必然的に、三書の編纂担当者が見た『三国志』には邪馬臺と書かれていたと考えるべきである。

▼注釈をつけた李賢と裴松之がみた『三国志』にも邪馬臺とあった。

 『後漢書』倭伝の場合は、「其の大倭王は邪馬臺国に居る」と書いた。これに続けて、唐代に李賢が「案:いま邪摩惟の音をこれに訛えて名ぶ」と注釈している。李賢は、自らが入れたその注釈のすぐ上にある邪馬臺の文字を見ていながら、「壹の誤りである」とは注釈していない。これが壹の間違いだったとすれば、いうまでもなく注釈を加えたはずである。これに先立って、裴松之は『三国志』に膨大な注釈をつけている。彼の注釈が完成したのは429年で451年に死去。私たちがテキストとしている『倭人伝』は12世紀に刷られたものだが、これよりも700年以上前の人である。その裴松之は臺と壹については何も触れていない。つまり、彼が見た時点では触れる必要がなかったのだと採れる。ほぼ同時代の笵曄は『後漢書』に臺と書き、『三国志』に注釈をつけた裴松之は臺にも壹にも触れていない。ということは、5世紀の裴松之と笵曄と、7世紀の李賢らが見た『三国志』には臺と書いてあった証拠である。

 ここで、裴松之が『三国志』の注釈に引用した史書を、作者とタイトルで列挙する。
・後漢代を紀伝体で記録したもの
 謝承『後漢書』、華キョウ『後漢書』、司馬彪『続漢書』
・三国時代を紀伝体で記録したもの
 王沈『魏書』、魚豢『魏略』、韋昭『呉書』、張勃『呉禄』
・その他
 麌預『晋書』、張□『後漢紀』、袁宏『後漢紀』、袁遺『献帝春秋』、楽資『山陽公載記』、司馬彪『英雄記』『九州春秋』、孫盛『魏氏春秋』『晋陽秋』、習鑿歯『漢晋春秋』、干宝『晋紀』、郭頌『世語』、麌薄『江表伝』、胡沖『呉暦』……これらの多くは多くは異聞として扱われているものである。

 次に、正史『後漢書』の編纂者が資料としたと思われる後漢代の歴史書の主だった5書をざっと眺めてみる。
・謝承『後漢書』
霊帝紀に始まり東夷列伝で終わる。東夷列伝に「三韓俗以臘日、家家祭祀、俗云臘鼓鳴春草生也………」。という記録がある。他の東夷諸国に関する記録なし。
・華キョウ『後漢書』
明帝紀 で始まり西南夷伝 ・南匈奴伝で終わり。東夷に関する記録なし。
・謝沈『後漢書』
そもそも伝少なし(断片的で不完全な紀伝体)。東夷に関する記録なし。
・袁山松『後漢書』
光武帝紀ではじまり。西域伝で終わる。東夷に関する記録なし。
・司馬彪『続漢書』
光武帝紀で始まり烏桓伝・鮮卑伝 で終わる。東夷に関する記録なし。
・薛瑩『後漢記』
光武帝紀 に始まり戴翼伝で終わる。東夷に関する記録なし。

 裴松之は、笵曄が『後漢書』を完成させたあとも10年ほど生存している。このことから、正史『後漢書』を自分の目で確認していることは疑いようがない。完璧主義ともいえる裴松之の仕事ぶりからみて、壹が臺に間違っていたとすれば彼の目の黒いうちに気づいて、後世の注釈者に間違いである旨は伝わったはずである。ところが現実には、訂正も注釈も入れなかった。一方の『後漢書』の場合。7世紀の李賢たち4人の知識人は、同じ行のすぐ目の前にある臺の下にカッコつきで注釈を入れたにもかかわらず、臺の文字については何も関与せずに臺で通した。臺で正しいと判断したからである。興味がなかったわけではない証拠に、大倭王の居るところについて「7世紀当時のいまは邪摩惟と呼んでいる」とわざわざ注釈しているのである。その邪馬臺が、12世紀の『後漢書』刊本制作でもそのまま活かされた。南宋本の『三国志』と『後漢書』の制作年代のずれは、最大アバウトでも数十年の時間差である。ここでも、李賢の注釈と同じ行にあった臺の文字は訂正されることなく生き残っている。

▼その他

 「現存する『三国志』写本がみな壹と書いている」という意見を耳にしたことがある。これは一種の「まやかし」である。『紹興本』と『紹煕本』の流れをくむ後代の『三国志』刊本は5~6種類あるらしいのだが、中国におけるこれらの評価は、年代が新しいほど誤りも激しいとのことである。編纂現場とはかけ離れたところで、「間違いの増幅リレー」をして出版された後代の版本や写本を、いちいち取りあげたところで何の意味もないのである。

●「一書一名」の現実

 現代のように体系化された辞書がなかったにしろ、中国の歴史家も完璧ではなかったらしい。現実に、「ヤマイ」と書いたのもあれば、「ヤヒタイ」と書いたのもある。中でも邪靡堆と書いた『隋書』は、邪摩堆と書くところを誤ったとみて差し支えないだろう。この件については、中国の良識が校勘できちんと回答を出している。中国中央研究院の校勘によると、「邪摩惟も邪摩推も、邪摩堆に改める」と述べている。

※『翰苑』が『後漢書』から引いたとされる「倭面土」について。

 先に提示した通り、厳密には『後漢書』は複数あった。笵曄の正史『後漢書』は、安帝紀にも倭国が朝献したことを記録している。ここに倭面土という記録がないところをみると、『翰苑』はどの『後漢書』から引いたというのか。少なくとも、正史『後漢書』から引用したとは考えられない。この倭面土に関しても「倭面上国」「倭面土地」など、ヤマイやヤヒタイの混乱ぶりと非常に酷似している。

 ここで銘記したいのは、中国の歴史書は「一書一名」だという事実である。たとえ誤字や異同があっても、どの歴史書も一つの時代の一つの国について書いている。分かりやすくいえば、「ヤヒタイ」でも「ヤマイ」でも良い、「倭面上国」「倭面土地」でも良い。一つの歴史書が、互いがまったく別の国として、同時代に存在したと書いている例はない。原本記録から刊本製作に携わった人間たちが、各時代の当て字を使って書いた呼称や誤字などの一つか二つをとりあげて、その一字に「意味」をもたせたりパズルか乱数表のように扱ったところで、文献学的見地からは何の意味もないのである。

 簡潔で分りやすい方法で説明する。
▼時代の異なる幾つかの中国史書のいうところをまとると以下のようになる。
 3世紀の日本列島に邪馬臺国があった。帯方郡から1万2000里。帯方郡から韓国の沿岸を経て狗邪韓国へ。そこから海を渡って対馬国、一支国、を経て末盧国へ。そこから伊都国、奴国、不弥国を経て、その南に王都の邪馬臺国があった。そこには卑弥呼という女王がいた。倭国の大乱のあとで女王になった。鬼道に堪能な女性だった。弟が一人いて政治を手伝っていた。 南にある狗奴国と抗争していた。景初2年に魏に朝献して、親魏倭王の爵号と金印を頂戴した。卑弥呼が死んだあと、臺與という13歳の女子が女王になった。

▼12世紀に改訂された『倭人伝』のいうところは以下の通りである。 
 3世紀の日本列島に邪馬壹国があった。帯方郡から1万2000里。帯方郡から韓国の沿岸を経て狗邪韓国へ。そこから海を渡って対海国、一大国、を経て末盧国へ。そこから伊都国、奴国、不弥国を経て、その南に王都の邪馬壹国があった。そこには卑弥呼という女王がいた。倭国の大乱のあとで女王になった。鬼道に堪能な女性だった。弟が一人いて政治を手伝っていた。
 南にある狗奴国と抗争していた。景初2年に魏に朝献して親魏倭王の爵号と金印を頂戴した。卑弥呼が死んだあと、壹與という13歳の女子が女王になった。
 
 歴史書によって微妙な違いや省略がある部分を度外視しているが、いかがだろう。同じ時期の列島の同じような場所に・邪馬壹国と邪馬臺国があった。その女王の名もまったく同じ卑弥呼といい、女王になった経緯もまったく同じだった。魏はその二人に、同時に親魏倭王の爵号と金印を与えた。こんなことがあり得ると思われるだろうか。文章伝世によって一つの国の歴史と沿革を述べるのに、時代や歴史書によって文字表記や国の呼び方が違っているだけのこと。断じて、それぞれがまったく別の国とその歴史を書いているのではないのである。

Re::れんだいこのカンテラ時評774 れんだいこ 2010/07/26
 【れんだいこ史観を世に問う】

 2010.7.26日現在の日本は、累積型の未曽有の財政危機、経済危機下にありながら深刻さがない。ひょっとして、懐の中を見ながら、れんだいこ一人の財政危機、経済危機なのかと辺りを見回したくなる。多くの方がそれなりにのほほんとしているようにも見え、元来楽天家のれんだいこの悲観ぶりが際立つ。しかし、そんなことはあるまい。食えない者が増えており、事業者の経営環境が一段と厳しくなりつつある。してみれば、日本人には悲壮感が似合わないのかも知れない。達観しているのか脳内がピーマン化しているのか、そのどちらかだろうが判断がつかない。

 日本政治は昨年の政権交代により新しい時代に入った。これは確実であるが、新政権として登場した鳩山政権、菅政権の治績を見る限り、新時代の創造性は感ぜられない。むしろ、回天事業の原野開拓から逃走し、旧政権時代の政治に戻そうと逆走し始めている気がしてならない。なぜなら、やろうとする意思さえあればできるのに真に有効な財政危機策、経済危機策に対して何一つ手をつけていないからである。7.11第22回参院選での菅首相の逆采配がこれを証明している。こたびの民主党官邸は勝とうとして指揮したのではなく負けるように企んだ。そう理解するより他ない不見識、言動ぶりが目立つ。菅首相は政治履歴にくっきりと汚点を残したが、この重篤犯罪を感知する能力を持たず居直りに汲々している。それが通用しようとしている。れんだいこには信じられない。

 この政治状況を見るにつけ、れんだいこは「或る発想」を浮かべた。現代日本人は鳩山の如く菅の如く、その脳内に大きな欠損を植え付けられているのではなかろうか。要するに「学べば学ぶほどバカになる怪しげな学説」を鵜呑みにしており、それを学ぶ程度に応じてすっかり愚頓になってしまっているのではなかろうか。もう一つ気づくことは、植民地根性を植え付けられ、祖国愛、民族愛を喪失し根無し草になってしまっているのではなかろうか。これが、れんだいこの鳩山、菅評である。彼らは元々は阿呆ではなかった。ところが、バカになる学問、政治的トレーニングを積み重ねた結果、どうにも使い物にならない愚物になってしまった。こう捉えれば辻褄が合う。こう捉えなければ説明できない。

 思うに、鳩山、菅らに象徴される知性派は明らかに日本の伝統的なそれと切り離されている。顔は日本人のように見えるが既に精神、頭脳は日本人のそれではない。せいぜい評価しても、あるかどうは知らないが西欧的市民社会の無性の抽象的人間である。身も心も戦勝国側の望むように仕立てられたことを意味する。この種の人間が戦後より急増した。これを思えば敗戦の産物であろう。してみれば、敗戦とは生易しいものではないことになる。幸いなことは、多くの日本人がそのように変質させられたのではないことだろう。一部のエリートが戦勝国イデオロギーに染められ、戦勝国政治の手下となり、駒使いさせられ、その代わりとして立身出世を得たということであろう。

 という話から急きょ邪馬台国論になる。れんだいこは、先の「カンテラ時評626」、「カンテラ時評628」で新邪馬台国論をぶちあげた。未だ何の反響もないが、れんだいこの新説が無価値な故にではない。否寧ろ想像以上の値打ちものであるが故に既成学説派はたじろぎ、言及する言葉さえ浮かばない故にだと解している。あるいは単に読んでいないのかも知れない。

 どこが違うのかと云うと、従来の邪馬台国論は九州説であれ大和説であれその他説であれ、大和王朝に陸続する前王朝として位置づけ、その上で神武天皇東征譚との絡みを念頭に置きながら各所に比定してきた。これに対し、れんだいこの新邪馬台国論は、邪馬台国は大和王朝に攻め滅ぼされ、痕跡を消された失われた王朝であるとしている。ここが違う。今日からすれば共に古代史になるが、れんだいこの新邪馬台国論によると、古代史は邪馬台国時代までの原日本、大和王朝以降の新日本を隔絶的に区別して研究しなければならないことになる。早い話がそれだけのことであるが、この分別を得るのに「れんだいこ登場までの時間」が必要だったことになる。

 もっとも、この観点は「ヤマトの地」では当たり前の伝承であり、れんだいこの新説でも何でもない。れんだいこの功績は、伝承を学問化させ、これを元にして古代史を読み直すことを指針させたことにある。これによると、邪馬台国九州説論者は頭を丸め、邪馬台国畿内説論者は大和王朝との連続性を見ようとしていた点で不明を恥じ、その他説論者は所詮は田舎の郷土史家でしかなかったことを悟らねばならぬ。邪馬台国論は出尽くしたのではなく、これから始まる、今は緒に就いたばかりということを弁えねばならないということになる。

 この指摘によって何が言いたいのか。それは、今日までの日本史に於いて、滅ぼされたにもかかわらず邪馬台国時代までに形成された原日本人の思想、哲学、宗教、政治、経済、文化こそが基底となって今も息づいており、それは原日本人能力の優秀さ故であり、この原日本人世界観こそが21世紀の地球の破滅を救うかも知れない叡智を秘めていることを指摘したい訳である。この観点も含めてれんだいこ史観と云う。

 現代日本の自称知識人の知的貧相は実に、日本史上のこの秘密を知らなさ過ぎることにあるのではなかろうか。原日本人世界観が滅び行くべき低次の自然崇拝教でしかなかったのなら別に知らなくても良かろう。それが今後の人類が範とすべき高次のものであるとしたなら知らぬことは恥でしかない。思えば、原日本人世界観は共生的である。それは宇宙と交信しており、そこから叡智が汲みだされており、自然とも人類とも国家とも民族とも等々のあらゆる空間磁場に対して開放的共生的である。産業、事業、商売、組織等々に対しても同じ原理で応用される。宗教論的に云えば神人和楽的である。

 この質が思いのほかに今日的であるように思われる。というのは、この原日本人世界観と全く対蹠的なのが現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の世界観であるからである。何から何まで違う。珍しいほど食い違っている。歴史学の一部で、国際金融資本帝国主義のル―ツである古代ユダヤの失われた支族が日本に辿りついているとして祖先の一致性を見ようとする日ユ同祖論なるものが唱えられている。れんだいこは、この説を受け入れない。これほど発想が違うというのに同祖である訳がなかろう。

 敢えて言うなら、邪馬台国を滅ぼした大和王朝の皇統譜に古代ユダヤの失われた支族が加わっていたとする可能性はある。しかし、れんだいこのように、大和王朝以前の原日本を尊ぶ者からすれば否定事象的なものであり、それでどうしたという程度のものでしかない。つまり、日ユ同祖論が仮に天皇家との絡みに於いて認められたとしても底が浅いものと云うしかない。これを踏まえずに、日ユ同祖論を持ち出して祖先の一致性を見、ひいては今日の国際金融資本に対する隷従的関係を肯定しようというのは愚昧な知見というしかない。

 もとへ。政権交代政権としての鳩山政権、菅政権に対する不信は、鳩山首相、菅首相とも、政権ブレーンも含めて、日本史のこの悪深さに対する無知ぶりに起因しているのではなかろうか。その彼らが今後何らかの施策をするとして、してくれない方が国の為民族の為になることをし始めることになる。れんだいこの永続革命論の所以がここにある。三番手政権は誰がなるにしても必ずや、原日本人的感性、知性を持つ政治家でなくてはならない。これだけがはっきりしている。思えば、吉田茂、池田隼人、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸の系譜は素晴らしい原日本人ではなかったか。彼らが政権を御した時、日本は世界に稀なる発展と成長と平和を得ていた。原日本人性を失った首相が指揮した時、日本は今日の日本へと向かった。このことを知るべきだろう。汝、自ら絞殺することなかれ。

 2010.7.26日 れんだいこ拝

【れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ】
 れんだいこの新邪馬台国論は、今明らかに或る可能性を求めて生まれつつある。それは単に邪馬台国の所在地をどこそこに比定し、当時の風俗、政体を知ることにのみ興味があるのではない。大和王朝以前の原日本の在り方を知り、その原日本の高度文明性を窺い、これをどう現代に蘇生させるのかの狙いを持っている。それは同時に、現代の無思想社会に於ける新たなカンテラの役目を持っているのではなかろうかと期待している。このカンテラは、日本のみならず、現代世界の貧相ぶりからの脱却を秘めているのではなかろうかと仮想している。仮にそういう期待が望めるのなら、これを明らかにしない手はないだろう。れんだいこの新邪馬台国論の意義はここにある。

 そのれんだいこの邪馬台国論は、邪馬台国を「ヤマトの三輪」の地に求めるようになりつつある。総合的に俯瞰すれば「ヤマトの三輪」に比定することにより理解が整合的になるように思っている。「ヤマトの三輪」にこそ邪馬台国があったのであり、邪馬台国以前よりの王朝があったのではないかと考えている。これを仮に三輪王朝と命名する。三輪王朝は出雲王朝と縁戚関係にあり、いわば出雲王朝のヤマト地方に於ける出先機関、あるいは出雲王朝の後継政権であったように思われる。もう一つ、古代史上に於ける四国阿波-讃岐の地位も相当なものである。これとの因果関係が分からないので苦労しているが、相当に深い関係があったように思われる。

 この出雲-三輪王朝こそが在地土着型即ち国津族による日本史上初の王権王朝であったと推定できるのではなかろうか。この時代に、日本の古型としての:言語、文字、政治経済文化が確立されていた。この時代に日本人の精神、風俗、社会、身分、国家のスタイルが定まった。これが社会学及び文化人類学的な意味での「原日本」なのではなかろうか。この認識を得ることが、日本史を紐解くキーではなかろうか。こうなると、問題は、出雲王朝-三輪王朝ラインの政治を日本政治の原形、大和王朝ラインの政治を新形として区別し認識した方が良いように思われる。これが日本政治の質を歴史的に確認する為の学問的方法となるべきであると思う。

 その三輪王朝が天孫族によって攻め滅ぼされる。三輪王朝の最期の政体としての邪馬台国に代わって大和王朝が建国される。記紀神話は、この過程を正統化させる為の国定史書と推定できる。という理由により、記紀神話にのみ依存しては日本古代史は解けない。本居宣長学の限界はここに認められる。もっとも、本居学は、単なる神話として片づけられていた記紀に歴史の根拠を求めたところに功績がある。今や、それを乗り越えねばならないということになるのではなかろうか。この点で、本居宣長史学の功績はそれとして認めつつも、本居学を抜け出して、更に先の古代史に分け入ろうとした形跡を持つ平田篤胤史学の方が視野を先へ広げているように思われる。但し、平田学は怨霊怪奇現象の方に関心を寄せ過ぎており、その意味では先覚者の業績に留まる。他方、津田史学は、本居学、平田学を否定し、記紀神話に史実性を認めないところから始発している。これは、逆行的な学問的態度と云うべきではなかろうか。日本マルクス主義が津田史学の系譜を引いているとしたなら、そもそもここに無能さが極まっていると云うべきではなかろうか。

 今や、我々は、記紀神話の先の日本古代史に光を当てねばならない。日本古代史の秘密を解き明かさなければならない。そういう意味で、記紀以前の史書が欲しい。これが仮に存在するとしたならろ、その記述を知りたい。これを詮索するのが興味深いのだが、いわゆる古史古伝がこれに相当すると思わるのだが、今日公開されている古史古伝はあまり当てにならない。それはなぜか。本当に記紀以前の史書かどうか疑いがあるからである。仮に原書がそうであったとしても、写筆過程での書き替え改竄の可能性が強い。その為に信に足りない。但し、記紀よりも正確な史実を伝えているとみなされるべき記述もあり、この辺りは大いに学ぶべきであろう。

 ともかくも邪馬台国滅亡前後の史書が不在である。これは、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国の滅亡に関係しているように思われる。これが為、この時代の歴史が地下に潜った。これが為に、邪馬台国滅亡前後の史書不在となっているように思われる。とはいえ、ここがまことに日本的なのだが、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国は完全に滅亡されたのではない。旧政権派は政治的能力を奪われたが宗教的能力は担保され、歴史に生き延びた。一部が新政権の大和王朝に組み込まれて残存し、一部が追放され東へ東へと逃げ延びて行くことになる。一部が人里離れた山岳に篭り鬼神化させられて生き延びる。西欧史の如くな皆殺しジェノサイドではない。

 興味深いことは、大和王朝内の政権の一角に組み込んだ出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国派が、その能力の高さ故に後々重要な影響を及ぼし続けたと看做されることである。こうして、その後の日本史は、原日本時代、新日本としての大和王朝時代、新日本と原日本の練り合わせによる新々日本の創出へと向かったのではなかろうか。この日本が今日へ至っているのではなかろうか。

 この日本史に特異な現象として、江戸幕末期よりネオシオニズム勢力が食い入って来たことであろう。ネオシオニズム勢力も又日本化するのなら一法であるが、連綿と形成されてきた日本を溶解し、植民地化せんとし続けるのなら、我々との間には闘いしかない。そういうことになろう。

 2010.7.28日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№970 】れんだいこ投稿日:2011年 8月13日
 【邪馬台国研究の新視点考】

 2011年のお盆は邪馬台国研究で明け暮れそうである。かなり書き直した。サイトは以下の通り。

 「れんだいこの新邪馬台国論」 (rekishi/yamataikokuco/rendaiconorituron.html

 有益な作業として、魏志倭人伝2千文字を文節毎に分解し、それぞれに№を付した。全部で68小節に区切ることができた。これは聖書研究に使われている手法である。今後は№で云えば、該当箇所が分かるようになる。次に、郡から邪馬台国までの行程を仕分けして№を付した。全部で11行程になった。今後は何行程かを云えば、どこの話かが分かるようになる。次に、れんだいこの新見解ないしは准新見解を別立てで確認した。全部で21になった。精密にすれば優に50を超すだろう。これにより議論が深まれば良いと思う。

 今日発見したこととして次の見解がある。従来、邪馬台国の比定地を廻る論争が絶えないが、それに比べ21ケ国の衛星諸国家の比定が疎かにされてきた。正確には疎かにしたのではなく比定できなかったものと思われる。れんだいこの知る限り四国山上説を唱える大杉博・氏がこれに成功し胸を張ったぐらいのものである。もっとも、それが正しいかどうかは別問題である。

 そこで新たな視点を提供したい。邪馬台国を廻るべ21ケ国の衛星諸国家とは実は、江戸時代の藩屋敷のようなものと考えれば良い。藩屋敷とは、参勤交代制により江戸詰め常設の出先機関として構えることになったのだが、21ケ国の衛星諸国家もこれに似たようなものではないのか。従って、本国が遠国にあったからと云って無理やりにその遠国に比定する必要はない。邪馬台国の周りのどの位置にシフトしていたかを判ずればよい。今となっては跡かたもない場合もあろうし、痕跡が残っている場合もあろう。こうすることで21ケ国比定が弾むことになるのではなかろうか。

 邪馬台国研究上の新発見は時に現われる。宮崎康平氏が「まぼろしの邪馬台国」で打ち出した「海岸線の復元思考論」も然りであろう。榎一雄氏は「放射説」で有名になったが、その前の「国名記述の差異」指摘の方に価値がある。誰も気づかなかった盲点を指摘した。古田武彦氏の「邪馬『台』国ではない邪馬『一』国説」も衝撃であった。これも盲点であった。他にもいろいろあるが、その後の研究を陶冶した意味で上記の説は誰でもが首肯するであろう。れんだいこの「21ケ国の邪馬台国詰め出先屋敷論」もこれに匹敵するだろうか。それは分からないが、これで悩まなくても良くなったと云う意味では今後の研究上の手かせ足かせの一つを取り除いたことになろう。

 云いたいことは以上であるが、せっかくだからもう一つ有益な論点を述べ共認を得ようと思う。一般には邪馬台国論と云われるが、魏志倭人伝上の邪馬台国の記述は一ケ所でしかない。多くあるのは女王国である。あるいは、倭人、倭、倭地が出てくる。この相互規定が曖昧な故に混乱しているので整理しておく。論者の中には、邪馬台国を女王国よりも広域圏に捉えほぼ倭に匹敵させる者もいる。正しくは、倭>女王国>邪馬台国である。女王卑弥呼の所在するところが邪馬台国であり、「21ケ国の邪馬台国詰め出先屋敷」を含むその他同盟諸国が女王国であり、それら以外の諸国も含むのが倭である。こういう書き分けがされていることを踏まえないと議論が混乱する。

 最後にもう一つ。邪馬台国所在地比定論は「九州説、畿内説、その他説」の三通りで議論されていると云うのが正しい。これを「九州説、畿内説」の二大説で括るのは止めて欲しい。それらの論争の欠陥として、邪馬台国を大和王朝前の前王朝として位置づけるのは良いとしても、邪馬台国の延長線上に大和王朝が導かれたとする直接式説が主流であるが、これは百年来の謬論患いである。神武東征譚にかこつけての邪馬台国東遷論はナンセンスである。

 邪馬台国は大和王朝派により滅ぼされたのであり、痕跡さえ消されたのである。いわゆる皇国史観は、この過程を是と説く史観である。戦後は、そういう虚の史観と決別し歴史の実像解析に取り組むべきだったが、一部の専門家に任せてしまった。戦後の学校教育で神話を教えることがなくなり、その時代の知識が白痴にされてしまった。その一部の専門家が邪馬台国論に限りロクな仕事をしていないので、れんだいこの出番となっている。こういう構図が欲しい。

 2011.8.13日 れんだいこ拝


 jinsei/

れんだいこのカンテラ時評№971  れんだいこ 投稿日:2011年 8月15日
 【邪馬台国新国学研究の会の結成呼び掛け】

 2011年お盆は邪馬台国研究で明け暮れた。恐らく突き動かすものがあるだろう。結論的に云えば、れんだいこも含めた邪馬台国研究の新段階が始まっており、これまでの研究は前史に過ぎなかったと云う地平に至っていることに感応しているのではなかろうか。「邪馬台国研究は終わった論」を奏でる者も相当に居る。だが終わったのは奏でる者自身であり、研究はこれからが本格的になるのではなかろうか。今後は眼から鱗の話、観点、発見が相次ぐだろう。自ずと従来の邪馬台国論の稚拙さをさらけ出すことになろう。

 邪馬台国研究の新段階はどうも幕末時の水戸国学の果たした役割に似ている予感がする。水戸国学は尊王攘夷論に結実し結果的に皇国史観に辿り着き役割を終えたが、これに倣えば邪馬台国新研究は新国学と云う息吹を感じさせる。水戸国学が捉えそこなった地平を切り開き、日本の真の国学復権へと至るであろう。この学問が真っ当に発達すれば、皇国史観の虚妄を衝き、本来の瑞々しい日本的思想、思考、感性を呼び戻すことになるだろう。これを予言しておく。

 これを機会に、れんだいこは世の研究者に新たな邪馬台国研究のネット形成を呼び掛けたい。月一の研究会を全国で催し、どんどん理論を進化発展させて行きたい。何事も一人では進まない。三人寄れば文殊の知恵と云う。全国の知者が寄ればどういう博識になるのだろうか、これを期待したい。れんだいこが世話どりするには及ばない。まずは定年退職者、学生に音頭を取って貰いたい。時に、れんだいこも顔を出したい。機関誌も出してもらいたい。れんだいこも投稿したい。レギュラー会員ぐらいは約束する。研究の方向性打ち出し当りは得意である。細かい検証は苦手である。故にいろんな個性が絆を結ぶ必要がある。

 今日は、れんだいこの自著「検証学生運動下巻」を刊行したばかりである。思うに学生運動には当分期待できない。組織も理論も伝統までがズタズタにされているからである。この糸を解きほぐし新たな全学連が生まれる目はない。仮に無理やり作っても積み木崩しになる恐れが強い。真因は脳がやられていることにある。故にれんだいこが打ち出す観点に評ができない。

 こういう折には、各自が銘々にこれと思うものを見つけ熱中した方が良いのではなかろうか。邪馬台国研究は日本の国体の秘密の扉を開けるものであり、歴史好きの者には堪らない分野である。既に終わったとするのではなく前史が終わったと見据え、邪馬台国新論に向かってほしいと思う。この結論を得る為に、今年の盆はどこにも行けなかった。連れ合いは嘆いている。明日近くを廻り誤魔かそうと思う。

 今日は8.15、終戦記念日である。こういうトピックな日にこういう想念が生まれたことを欣としたい。正確には違うが「二千年前の二千字解読の旅」と銘打って魏志倭人伝が伝える古来日本の在り姿を訪ね、現代に活かしたい。これが念願とするところのものである。特攻青年よ、これがれんだいこ流のはなむけである。卑弥呼が見据えた時空で逢おう。

 2011.8.15日 れんだいこ拝


 jinsei/

【れんだいこ新説「ヤマト邪馬台滅亡論(説)」考】
 れんだいこの邪馬台国新論につき仮に「出雲王朝系大和邪馬台国滅亡論」と命名することにする。従来の大和朝廷直結型の「九州説、大和説、その他説」に対して、「大和説ではあるが、大和朝廷非直結型と云う点で異なり、むしろ来航勢力の来襲を受け、出雲王朝の国譲りから始まる内戦が開始され、出雲王朝が畿内大和に最後の橋頭保として邪馬台国を創建し死守したものの数次の攻撃を受けた末に遂に滅亡され、大和朝廷が建国された」と位置付け、これらの過程を総称略して「大和邪馬台国滅亡論(説)」とする。大和を歴史的にヤマトと読んできた裏には元々邪馬台国の地であったことを踏まえた特殊な読み方であり、これが定着したと思っている。漢字の大和は、邪馬台国滅亡後に「大きく和した」形での大和朝廷創建と云う歴史的経緯を踏まえた当て字と解する。

 これにつき、倉橋日出夫氏の「古代出雲と大和朝廷の謎」(学研M文庫、2005.2.19日初版)が、れんだいこと没交渉ながら殆ど同じ知見を得ていることに驚かされている。 これにつき、直木幸次郎著「日本古代国家の成立」は、次のように記している。「天皇家の先祖は、外から大和の地に入り、それ以前から三輪山の神を祀っていた権力を打ち倒して、それに取って代わったと考えるほかない」。古代史学会の動向は分からないが、直木幸次郎、倉橋日出夫、れんだいこ、その他の論者が既に出雲王朝系邪馬台国論、その滅亡論を唱え新視点を打ち出している。記紀資料その他を普通に読めば、そのことが手に取るように分かると云うのに、これまでの邪馬台国論は九州説にせよ畿内説にせよその他説にせよ、大和王朝に直列的な先王朝としての研究に耽ってきた。しかしながら、その道に踏みいる限り、日本古代史の解明は覚束ない。

 出雲系邪馬台国論を打ち立て、それが滅ぼされて大和朝廷に移行したと云う視点を打ち出さない限り一歩も前進しない。出雲系邪馬台国論の本拠地を纏向遺跡に据え、箸墓古墳の円墳を卑弥呼の墓と仮定し、この仮定から邪馬台国論を見直し、その王権が簒奪される形で大和朝廷へと至る政変論を展開させた方が生産的ではなかろうか。記紀神話が邪馬台国を記さないのは、この過程の不義によってではないのか。こう捉えた方が古代史が正確に見えてくるのではなかろうか。

 邪馬台国研究は「ヤマト邪馬台滅亡論(説)」を獲得したことにより、その地平を大きく開いたことになる。魏志倭人伝の更なる精読は云うまでもない。次に魏志倭人伝の魏志内の地位、他の蛮夷伝との比較による特徴の検証が要求される。次に魏志倭人伝と他の史書の倭人伝倭国伝との比較検証が要請される。次に記紀神話、風土記、古史古伝各史書、記紀後の各史書との比較検証が要請される。次に考古学的検証が要請される。考古学的検証は銅剣、銅矛、銅鐸論、銅鏡論、古墳論、遺跡論等々と云う風に更に分岐したテーマごとの精密な検証が要求される。ざっとこういう按配になる。

 それらを総合して獲得すべき理論は、日本の国体、王統皇統譜の解明ではなかろうか。併せて紀元3世紀の日本の国情確認ではなかろうか。特に国津族と天孫族の抗争と和合により織り為されることになったその後の日本史の端初的解明ではなかろうか。これは実践的にどういう意味を持つのか。それは、江戸幕末の黒船来航以来浸潤してきた国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの爪牙との決別と新たな日本式国際協調の道筋を造り出すことに繫がる。つまり、紀元3世紀の日本政治上の最大政変の研究を通して現代日本の再生を呼び込むことになる。こういう関心で「ヤマト邪馬台滅亡論(説)」の検証に向かうことにする。

 付言しておけば、「大和邪馬台国滅亡論」は自ずと従来の諸説を破壊する。九州説は如何なる論であろうとも牽強付会が指摘されることになる。大和の邪馬台国との同盟関係諸国としての地勢的確認へ向かうことが要求されることになる。神武東征になぞえての邪馬台国東征論なぞ頭ごなしに否定されることになる。幻の邪馬台国論と云う観点からの邪馬台国フィクション論も雲散霧消させられる。二つの邪馬台国論も同様に折衷主義性が痛打される。畿内説も、大和王朝の前身的な位置付けの邪馬台国論は撤回を求められる。比定地としては間違いないが、滅亡された側であることを確認しない限り意味を為さないことになる。その他説も然りで、どこに宛がおうとも大和王朝の前身的な位置付けの邪馬台国論は撤回を求められる。「大和邪馬台国滅亡論」によって、こういう地平が生まれたことになる。従来の邪馬台国研究は一端ご破産にされ新たに積み木していくことが要請されている。こういう衝撃を伴っていることを理解せねばならない。この衝撃をどう受け止めるかは論者の自由である。

 これは良いことであって、研究が本来の軌道へ戻ることを意味する。問題は、かく構図したとしても邪馬台国史の解明は容易ではないことにある。史書を尊重するのは当然としても、魏志倭人伝の如く記述が余りにも多義的になっている場合、これをどう読みとるのか。方位、距離をそのまま受け止めれば日本列島内に留まらいない場合に、これをどう読みとるのか。魏史と他の史書で記述が違う場合にどう読みとるのか等々難題を抱えている。中には裏筆法による記述も考えられる。つまり、解読側の見立て能力が優れて問われていることになる。現に、邪馬台国論はもつれにもつれており、これをどう解(ほぐ)して読み直すのかが問われている。従って、研究を本来の軌道へ戻したところで、なお難題が待ち受けていることに変わりはない。しかしながら、精子が着床を求めて子宮内を泳ぐように正解の道を訪ねる営為を止める訳には行くまい。このことだけが確かである。このメッセージを添えたことでひとまず筆を置くことにする。

 2011.8.21日 れんだいこ拝


【れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ】
 れんだいこの新邪馬台国論は、今明らかに或る可能性を求めて生まれつつある。それは単に邪馬台国の所在地をどこそこに比定し、当時の風俗、政体を知ることにのみ興味があるのではない。大和王朝以前の原日本の在り方を知り、その原日本の高度文明性を窺い、これをどう現代に蘇生させるのかの狙いを持っている。それは同時に、現代の無思想社会に於ける新たなカンテラの役目を持っているのではなかろうかと期待している。このカンテラは、日本のみならず、現代世界の貧相ぶりからの脱却を秘めているのではなかろうかと仮想している。仮にそういう期待が望めるのなら、これを明らかにしない手はないだろう。れんだいこの新邪馬台国論の意義はここにある。

 そのれんだいこの邪馬台国論は、邪馬台国を「ヤマトの三輪」の地に求めるようになりつつある。総合的に俯瞰すれば「ヤマトの三輪」に比定することにより理解が整合的になるように思っている。「ヤマトの三輪」にこそ邪馬台国があったのであり、邪馬台国以前よりの王朝があったのではないかと考えている。これを仮に三輪王朝と命名する。三輪王朝は出雲王朝と縁戚関係にあり、いわば出雲王朝のヤマト地方に於ける出先機関、あるいは出雲王朝の後継政権であったように思われる。もう一つ、古代史上に於ける四国阿波-讃岐の地位も相当なものである。これとの因果関係が分からないので苦労しているが、相当に深い関係があったように思われる。

 この出雲-三輪王朝こそが在地土着型即ち国津族による日本史上初の王権王朝であったと推定できるのではなかろうか。この時代に、日本の古型としての:言語、文字、政治経済文化が確立されていた。この時代に日本人の精神、風俗、社会、身分、国家のスタイルが定まった。これが社会学及び文化人類学的な意味での「原日本」なのではなかろうか。この認識を得ることが、日本史を紐解くキーではなかろうか。こうなると、問題は、出雲王朝-三輪王朝ラインの政治を日本政治の原形、大和王朝ラインの政治を新形として区別し認識した方が良いように思われる。これが日本政治の質を歴史的に確認する為の学問的方法となるべきであると思う。

 その三輪王朝が天孫族によって攻め滅ぼされる。三輪王朝の最期の政体としての邪馬台国に代わって大和王朝が建国される。記紀神話は、この過程を正統化させる為の国定史書と推定できる。という理由により、記紀神話にのみ依存しては日本古代史は解けない。本居宣長学の限界はここに認められる。もっとも、本居学は、単なる神話として片づけられていた記紀に歴史の根拠を求めたところに功績がある。今や、それを乗り越えねばならないということになるのではなかろうか。この点で、本居宣長史学の功績はそれとして認めつつも、本居学を抜け出して、更に先の古代史に分け入ろうとした形跡を持つ平田篤胤史学の方が視野を先へ広げているように思われる。但し、平田学は怨霊怪奇現象の方に関心を寄せ過ぎており、その意味では先覚者の業績に留まる。他方、津田史学は、本居学、平田学を否定し、記紀神話に史実性を認めないところから始発している。これは、逆行的な学問的態度と云うべきではなかろうか。日本マルクス主義が津田史学の系譜を引いているとしたなら、そもそもここに無能さが極まっていると云うべきではなかろうか。

 今や、我々は、記紀神話の先の日本古代史に光を当てねばならない。日本古代史の秘密を解き明かさなければならない。そういう意味で、記紀以前の史書が欲しい。これが仮に存在するとしたならろ、その記述を知りたい。これを詮索するのが興味深いのだが、いわゆる古史古伝がこれに相当すると思わるのだが、今日公開されている古史古伝はあまり当てにならない。それはなぜか。本当に記紀以前の史書かどうか疑いがあるからである。仮に原書がそうであったとしても、写筆過程での書き替え改竄の可能性が強い。その為に信に足りない。但し、記紀よりも正確な史実を伝えているとみなされるべき記述もあり、この辺りは大いに学ぶべきであろう。

 ともかくも邪馬台国滅亡前後の史書が不在である。これは、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国の滅亡に関係しているように思われる。これが為、この時代の歴史が地下に潜った。これが為に、邪馬台国滅亡前後の史書不在となっているように思われる。とはいえ、ここがまことに日本的なのだが、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国は完全に滅亡されたのではない。旧政権派は政治的能力を奪われたが宗教的能力は担保され、歴史に生き延びた。一部が新政権の大和王朝に組み込まれて残存し、一部が追放され東へ東へと逃げ延びて行くことになる。一部が人里離れた山岳に篭り鬼神化させられて生き延びる。西欧史の如くな皆殺しジェノサイドではない。

 興味深いことは、大和王朝内の政権の一角に組み込んだ出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国派が、その能力の高さ故に後々重要な影響を及ぼし続けたと看做されることである。こうして、その後の日本史は、原日本時代、新日本としての大和王朝時代、新日本と原日本の練り合わせによる新々日本の創出へと向かったのではなかろうか。この日本が今日へ至っているのではなかろうか。

 この日本史に特異な現象として、江戸幕末期よりネオシオニズム勢力が食い入って来たことであろう。ネオシオニズム勢力も又日本化するのなら一法であるが、連綿と形成されてきた日本を溶解し、植民地化せんとし続けるのなら、我々との間には闘いしかない。そういうことになろう。

 2010.7.28日 れんだいこ拝

【「古代文明の世界へようこそ」氏の邪馬台国論】
 ,ネット検索で見つけた「古代文明の世界へようこそ」の「邪馬台国は出雲系か謎の出雲文化圏」が、れんだいこ説と近い見解を披歴している。これを転載しておく。
 邪馬台国と大和朝廷の関係は?

 邪馬台国を畿内大和に置き、箸墓を卑弥呼の墓とした場合、私たちは、邪馬台国と初期大和朝廷の距離の近さに驚かずにはいられません。邪馬台国と大和朝廷は、時間的につながるだけでなく、ほとんど同じ場所に位置しています。そうなると、当然、邪馬台国は大和朝廷の前身なのか、という考えが浮かびます。しかし、邪馬台国と大和朝廷は連続しているのか、していないのか、また、女王卑弥呼と、のちの天皇家との関係はどうなるのか、といったことは、まだまったく明らかではありません。

 気になるのは、前の「邪馬台国時代の列島事情」の東遷説のところでも見た神武東征説話です。「記紀」(古事記と日本書紀)にある有名な神武東征説話は、大和朝廷の伝説の初代天皇イワレヒコ、つまり、神武天皇の軍勢が、はるばる九州は日向の高千穂から北九州、瀬戸内を経て、大和に攻め入るという大和制圧のストーリーです。この神武東征説話の成立をめぐっては、これまでに多くの議論があって、史実とみるか、何らかの史実の反映された創作とみるか、さらにはまったくの虚構とみるか、専門家の間でも意見が分かれるところでした。早い話が、史実かどうかよくわからないわけです。

 神武東征説話の語るもの

 かつての文献史学の大家、津田左右吉や井上光貞は虚構説の立場をとりました。東征説話をはじめ、天皇の祖先が天から日向に天下ったという天孫降臨説話なども、もともと中国の古典や仏典をはじめ、北方や南方の民族の伝説を取り入れたもので、「記紀」の作者のフィクション、つまり虚構とみるわけです。一方、現在の多くの研究家は神武東征説話を、まったくの真実ではないにしても、何らかの史実が反映されている話、と見る傾向が強いようです。たとえば、『日本古代国家の成立』という本で、直木孝次郎さんは、次のように書いています。「天皇家の先祖は、外から大和の地にはいり、それ以前から三輪山の神を祭っていた権力を打ち倒して、それに取ってかわったと考えるほかない」 大和盆地東南部の三輪山の麓に宮を開いた最初の大和朝廷(三輪王朝)は、このように大和に侵入した新興の勢力と一般にみられています。しかも、神武軍の大和平定の過程は、決して楽なものではありません。

 大和在来の勢力から王権を譲り受ける

 神武の勢力は、まず河内から大和へ侵入しようとしますが、大和のナガスネヒコの軍勢に現在の東大阪市日下町のあたりで阻まれたあと、紀伊国(和歌山)方面に南進し、紀伊半島をぐるっと周り、熊野に向かいます。そして、熊野から吉野の山を越え、背後から大和に迫るという驚くべき難コースをとっています。きわめて遠回りなうえ、最悪といってもよい険しい山越えのルートです。これは神武の軍勢が、正面突破できるほどの大勢力ではなく、ほとんど逃げ落ちるように紀伊半島を巡っていったことがわかります。大阪湾岸から大和周辺には、おそらくすでに在来の勢力が隙間なく存在していたのでしょう。また、大和盆地そのものの平定にも、幾つもの困難な戦いが続きます。ところが、最後には、同じ天孫族の一員で、大和を支配していたニギハヤヒの命から意外なほどあっさりと王権を譲り受けます。史実はともかく、『日本書紀』のストーリーをそのまま再現すると、このようなものになります。

 三輪山周辺の出雲族

 神武東征伝説が語っているのは、大和朝廷というか、のちの天皇家となる一族は、まず九州出身だということです。かつて、天皇家のルーツは朝鮮半島の騎馬民族だったという騎馬民族征服王朝説というのがありましたが、現在では、考古学的に十分な証拠のある説ではないといわれています。そこで、ひとまず『日本書紀』に従っておきますと、天皇家のルーツはおそらく九州あたりにあったと考えられます。その勢力が、九州を発し、大和に攻め入り、大和在来の勢力を制圧したことを「記紀」は物語っています。

 では、制圧された大和の在来の勢力とは、いったい何でしょうか。それは、どうも出雲系の勢力だったようです。『神奈備・大神・三輪明神』に水野正好さん(奈良大学学長)が書いているところによりますと、大和の聖なる山、三輪山の西麓や南麓には出雲の名が残っており、三輪山を御神体とし大物主(おおものぬし)神を祀る大神(おおみわ)神社の周辺は、もともと出雲出身の氏族が住むところであった、ということです。大神神社は、もともと出雲氏の氏神的な神社だったようです。こうして出雲族と呼ばれる人々によって始められた三輪山の祭祀が、次第に大和朝廷の勢力に吸収され、5世紀ごろには大神神社そのものが朝廷の御用神社のようになっていく、という経緯が現在では考えられています。つまり、大和朝廷成立以前の三輪山の祭祀権は出雲族が握っており、大和盆地も出雲族の支配する土地であったらしい、ということです。そこに邪馬台国を重ねると、どうなるかということです。

 出雲系と天照系

 大和朝廷成立以前の大和には、出雲の神々を奉じる邪馬台国があったと想定してみると、日本の古代史は、まったく別の様相を帯びてきます。九州にルーツをもつ初期大和政権は、畿内大和を支配していた出雲系の邪馬台国から、王権を譲り受けたか、あるいは奪ったのではないか、と私は考えています。『日本書紀』には、箸墓に葬られた百襲姫(倭迹迹日百襲姫)が三輪山の神と結婚したことが述べられていました。百襲姫に卑弥呼を重ねてみると、やはり邪馬台国が出雲系だったことが考えられます。

 一方、日本神話には出雲の国譲りが述べられています。葦原中つ国(日本)の支配権が出雲の神々から天孫族の神々に譲られるというものです。神武東征説話と、出雲の国譲り神話、このふたつの話はともに、大和朝廷の勢力が別のある勢力から大和あるいは列島の支配権を譲り受けたことを物語っています。今となってはそこに、邪馬台国が重なってくるのです。

 すでに大和朝廷成立以前の日本列島では、出雲を宗教的な故地とする出雲文化圏のようなものが存在していたのではないか、と私は考えています。その出雲文化というのは、おそらく縄文時代にまでさかのぼるルーツを持ち、列島の多くをすでに覆っていたのではないか。しかし、大陸との交流が活発化する弥生時代後期になると、出雲文化圏の中心地は大和に移っており、大和の王権、すなわち邪馬台国が成立したのではないか、という推理です。初期大和朝廷は、その邪馬台国から王権を譲り受けている、言葉を代えていえば、奪っているのではないか・・・・。

 大和朝廷とはいうまでもなく、天孫系の天照大神を奉じる王朝です。その歴史を正当化する「記紀」では、出雲の神々はむしろ冷遇されています。邪馬台国から大和朝廷への政権の移行には、おそらく王統は連続せず、実際には王権の簒奪のようなことが行われたのではないか・・・・、こんな構図が見えてくるのです。

 第二部の「大和朝廷誕生の謎」では、このあたりをもう少し詳しく見ていきます。(2004年3月)

 「古代文明の世界へようこそ」は「記紀には、なぜ卑弥呼の名がないのか消された邪馬台国の存在」で次のように述べている。これを転載しておく。
 ふたつの天皇陵

 「記紀」(古事記と日本書紀)によりますと、大和朝廷の実質的な創始者とされる第10代崇神天皇以下、最初の3代の天皇が、纏向周辺の三輪山山麓に宮を築いています。初期の大型前方後円墳もこの地域に集中しています。纏向遺跡のすぐ近くで、大和政権は誕生しているという事実があるわけです。『日本書紀』には、崇神天皇の墓は「山の辺の道の匂(まがり)の岡の上」にあると記されていますが、その正確な場所は明らかではありません。今日、崇神天皇の墓とされているのは、箸墓から2キロほど離れた山裾にある行燈山古墳(あんどんやまこふん)です。初期の古墳が多く集まる柳本古墳群と呼ばれるところで、この行燈山古墳と、箸墓古墳のほぼ中間に、渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)という大きな古墳があります。こちらは第12代景行天皇陵とされています。行燈山古墳と渋谷向山古墳のふたつの古墳は、前者が全長242m、後者が全長302mで、景行陵の方が崇神陵より大きく造られています。

 ところが、このふたつの古墳はかつて、陵墓比定が逆だったといわれています。江戸時代末の1861年から66年にかけて、「文久の修陵」と呼ばれる大規模な天皇陵の修復がおこなわれました。それは修復とはいっても、濠を広げたり、堤を高くするなど、大がかりな土木工事を伴うもので、「新しい古墳づくりといった側面さえあった」(森浩一著『前方後円墳の世紀』『巨大古墳の世紀』)ということです。問題は、この文久の修陵以前には、行燈山古墳が景行陵で、渋谷向山古墳が崇神陵であった点です。かつては現在とは逆の陵墓比定だったわけです。そして、修復工事が終了する直前の1865年、ふたつの陵墓比定の取り替えが行われ、現在のように、行燈山古墳を崇神陵、渋谷向山古墳を景行陵となったようです。

 邪馬台国と大和朝廷の関係

 ところが、現在の考古学では、かつての陵墓比定の方が正しかった可能性が指摘されています。宮内庁がふたつの陵墓の周濠の土器を調査したところ、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)の方が、行燈山古墳(現崇神天皇陵)より古い形式の土器だったといいます。まだ確定するだけの十分な資料があるわけではないようですが、どうやら渋谷向山古墳の方が古いらしい。つまり、崇神天皇の墓は、行燈山古墳よりも渋谷向山古墳の可能性が強い。そうなると、卑弥呼の墓としてきわめて有力になってきた箸墓と、大和朝廷の創始者とされる崇神天皇の墓は、すぐ隣り合ったきわめて近い位置関係にあるということになります。ちょうど纏向遺跡を挟むように南と北に位置しているわけです。

  しかも、邪馬台国と大和朝廷は、単純に地理的に距離が近いというだけではなく、時間的にも非常に近いということがわかってきました。最近の弥生時代と古墳時代の編年研究では、邪馬台国と初期大和朝廷は、時間的にほとんど繋がっているといってもいいほどです。卑弥呼の死(3世紀中ごろ)を境にして、大和盆地で巨大な前方後円墳が造られ始めるという現象があるからです。

 そうなると、大和朝廷の前身を、邪馬台国と考えてみたくなるのが自然というものです。幻の邪馬台国が、思いがけず日本の古代史のなかで、もう少し具体性を帯びてきます。ところが、邪馬台国と大和朝廷の関係は、実際のところ、まったく明らかではありません。系譜として連続しているのかどうか、それもよくわからない。邪馬台国がそのまま連続的に発展して初期大和朝廷(三輪王朝)になったのか、そうではなく、邪馬台国と大和朝廷は別系統の王朝なのか、そこがわからない。不思議なことに、「記紀」にはそのあたりのことが何にも語られていないのです。むしろ、箸墓に葬られた百襲姫と、崇神天皇の背後には、何か不穏な空気があります。邪馬台国から大和朝廷へという時代の転換には、どうも秘密があるらしい。女王卑弥呼と崇神天皇、邪馬台国と大和朝廷をめぐるミステリーが、まさにここにあるわけです。

 記紀には邪馬台国の記述がない

 考えてみるとかなり変なことなのですが、「記紀」には邪馬台国のことが何も書かれていません。邪馬台国という名も、卑弥呼も、台与も、男弟の存在も、何にも書かれていません。なぜでしょうか。ここには絶対に軽視されるべきではないある重大な秘密があるといえます。『魏志倭人伝』には、邪馬台国や卑弥呼ばかりでなく、当時の日本の様子が具体的に描かれています。しかも、『魏書』というれっきとした王朝の正史ともいえる史書に書かれています。それなのに、当の日本の「記紀」には、それを思わせる記述がない。そもそもこれ自体がおかしなことです。

 8世紀に編纂された「記紀」は、日本の歴史を神代にまでさかのぼって書かれたもので、特に『日本書紀』は日本におけるまさに正史です。そこには本当なら2~3世紀頃の邪馬台国のことは書かれていなければなりません。初期大和政権の誕生をもって、つまり古墳時代に入って前方後円墳体制ができあがる時期をもって、国家の始まりとするなら、その直前に存在したのが邪馬台国です。中国の史書に「30の国を支配し、女王卑弥呼の都するところ」とまで書かれている内容は、「記紀」には、本来、卑弥呼の実名入りで書かれているべき事柄です。ところがそれがない。しかし、よく見ると、とても奇妙な記述が何箇所かあるのです。

 「記紀」の立場

 「記紀」の編者たちにとっては、大王(天皇)家は、いうまでもなく神代から続く日本で唯一の正当な王朝でなければなりません。ところが、彼らにとって最も気になったことは、歴史の本場、中国の正史に「倭国」の「女王」として、邪馬台国と卑弥呼の名がすでに堂々と述べられていることです。中国の『魏書』に「倭国には女王がいた」と書いてある。当時とすれば、中国はあこがれの文化の国、知識の供給源であったばかりか、文字そのものを輸入した国でもあります。その中国の史書に邪馬台国の存在が書かれている。すでに世界から認められている正当な倭国の王朝、それが邪馬台国だといえます。

 しかし、「記紀」の編者たちにとっては、それはどうもおもしろくないことだったらしい。むしろ、目障りでさえあったのではないでしょうか。「記紀」の立場というのは、いうまでもなく、大和政権を正当化したいということに尽きるわけです。ちょうど「記紀」が成立する頃、「日本」という国号や、「天皇」という呼び名が生まれてきます。国家としての形態をきちんと整えなければならない、歴史もまとめておかなければならない、そういう時期です。そういう時代の知識人の代表である「記紀」の編者たちは、なぜか、邪馬台国や卑弥呼という名前には触れたくなかったのです。

 なぜ卑弥呼の名がないのか

 しかし、『日本書紀』には、思わぬところに卑弥呼の存在が、じつはすべり込ませてあります。崇神天皇から数えて4代あとの仲哀(ちゅうあい)天皇の后、神功皇后(じんぐうこうごう)のところで、彼女の治世39年に、分註として次のように述べられています。・・・・『魏志』によると、景初3年6月、倭の女王は使いを帯方郡に送り、魏への朝貢を申しでて、洛陽に至ったという・・・・ここにある『魏志』とは、もちろん『魏志倭人伝』のことです。同じような分註としての記述が第40年、第43年にもあります。「景初3年6月、倭の女王が帯方郡に使いを送った」とは、まさしく邪馬台国の女王、卑弥呼のことにほかなりません。こんなことが『日本書紀』には、こっそりと分註という形で書かれているのです。

 これまでの研究で、この分註は後の時代に書き込まれたものではなく、『日本書紀』成立当初から書かれていたと考えられています。つまり、「記紀」の編者たちは、ちゃんと『魏志倭人伝』を読んでいて、卑弥呼のことも、邪馬台国のことも知っていたわけです。でも、その書き方がちょっと妙で、わざわざ「『魏志』によると」と断ったうえで、神功皇后の治世の間に、「倭の女王が使いを送ってきたと中国の史書は書いていますよ」と他人ごとのようにいっています。「我々にはよく知らないことですが」とでもいいたげな雰囲気です。しかしそうはいっても、『日本書紀』の編者たちは、暗に、神功皇后を卑弥呼とみなしています。神功皇后という人物に、卑弥呼という歴史的存在を重ねようとしているのです。

 『日本書紀』の編者たちの年代観では、神功皇后の治世の時期が『魏志倭人伝』にある邪馬台国の卑弥呼時代に当たると考えていたようです。しかし、分註で曖昧にほのめかしても、邪馬台国の名も、卑弥呼の名も出さず、邪馬台国そのものには知らんぷりをしています。「魏志によると」などという書き方自体、かなり不自然です。

 神功皇后が卑弥呼?

 もちろん神功皇后の時代では、卑弥呼の時代に年代が合わないのはいうまでもありません。神功皇后という女性は、実のところ、実在した人物かどうか疑われているのですが、仮に実在したとしても3世紀末~4世紀半ばの人物です。2世紀末から3世紀中ごろまでの卑弥呼とは、百年ほど離れています。もともと「記紀」の記述には、政治的な作為が強いと指摘されているのですが、卑弥呼と神功皇后の間にも、何やら不可解な作為がプーンと感じられるのです。

 『日本書紀』の年代観は、60年でひとめぐりする中国の干支暦のふたまわり分、つまり120年分古く取っていることがわかっています。中国の暦や出来事を参考にして、日本の歴史を120年分古く取ったらしい。日本にはまだ正確な暦や記録がなかったためにそうなったのか、わざと古くみせるために意図的にそうしたのか、もちろん今ではわかりません。しかしいずれにしても、『日本書紀』の編者は、神功皇后という人物に邪馬台国の女王、卑弥呼を仮託しようとしています。何のためにそんなことをする必要があったのでしょうか。

 ちょっと弁解じみたことをいえば、8世紀に「記紀」が編纂された頃には、すでに邪馬台国の記憶がほとんど残っていなかったという事情があったのかもしれません。自分たちの国の記録にも、記憶にもそれがないのに、歴史を記録することにかけては本場の中国の史書に、「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在が述べられている。そのために仕方なく、神功皇后という女性を創出し、辻褄(つじつま)を合わせておいたということかもしれません。さらには、「邪馬台国」といい、「卑弥呼」といい蔑視をこめたような名前になっているのを嫌って、そんなことをした可能性もあります。

 神功皇后という架空の人物を創作

 一方、そうではなく、もっと強い作為があった可能性もあります。邪馬台国や卑弥呼の存在そのものを日本の歴史から消してしまったと考えることもできるのです。神功皇后という架空の人物をつくることで、卑弥呼を大和政権の系譜に強引に押し込んでしまう。つまり、事実上、日本の歴史の中から、邪馬台国の存在を消してしまった。そのようにみることだって、できるわけです。神功皇后という女性は、その名前が象徴しているように、何とも勇ましい女傑として描かれています。まるで、ギリシア神話の戦う女神のように勇ましいのですが、逆に、勇ましすぎて、どこか漫画みたいなところがあります。

 神功皇后は、北九州の筑紫で夫の仲哀天皇が死んだ後、みずから軍を率いて朝鮮半島に出兵するという行動派の女性です。その様子が普通ではなくて、彼女の乗った船は、波や風はおろか、海の魚にまで持ち上げられ、新羅の国土の中まで運ばれます。それを見た新羅の王は、「神の国の神兵がやってきた」と白旗をあげて降伏し、「服従して、馬飼いになりましょう」などという始末。しかし実際には、そんなに都合よく物事が運ぶとは、ちょっと考えられません。また、彼女は新羅への出兵にさいして、お腹の中に子を宿しているのですが、遠征中に(遠征の直前とも)子供が生まれそうになると、腰に重い石を縛りつけてそれを押さえ、北九州の筑紫に戻って、ようやく出産するという具合です。その子供がのちの応神天皇です。このあたりは、たしかに、どうも白々しい。神功皇后はまた一方で、神がかりとなって神託をくだす巫女的な女性としても描かれています。どこかで邪馬台国の卑弥呼を思わせるのです。さらに彼女は、30代の前半、仲哀天皇の死によってみずから政務を取り始め、百歳で死ぬまでに60数年間も政権の中枢にいたことになっています。これも卑弥呼が60年間ほど女王であった姿と重なってきます。

 倭人伝の記述を知っていた編者たち

 こうなってくると、『日本書紀』の編者たちは、『魏志倭人伝』の記述をじつによく知っているし、『魏志倭人伝』の記述に合うように神功皇后という女性を扱っている、と考えないわけにはいきません。このようにさりげなく辻褄を合わせたり、分註のなかで卑弥呼の存在をほのめかしたり、細かな細工をしていますが、しかし、正面きって「神功皇后は卑弥呼ですよ」と、彼らは言うのではない。それはそうでしょう。架空の人物を実在の人物に重ねること自体に無理があります。「記紀」は一方で、日本の正史でもありますから、あまり見えすいた嘘を書くわけにもいかなかったのでしょう。

 歴史的に見ると、3世紀の邪馬台国の時代には、倭国の軍隊が朝鮮半島に出兵したような事実はありません。そもそも当時はまだ、朝鮮半島に新羅という国は建国されていないのです。ですから、この点でも神功皇后を卑弥呼に重ねるのはかなり無理があります。ところが、4世紀の後半ごろなら、倭国の軍隊が百済救援のために朝鮮半島に出兵していたことは、高句麗の碑文から知られています。何度か新羅や高句麗との戦いがあったようです。ただし、神功皇后に相当するような日本の天皇か皇后に率いられた軍隊が、朝鮮半島に出兵したという事実はありません。

 神功皇后を思わせる人物といえば、6世紀に斉明天皇という女帝がいて、有名な白村江の戦いの2年ほど前に、百済救援と新羅攻撃のため北九州にまで遠征したケースがあります。神功皇后はどうもこの女帝がモデルになっているのではないか、といわれています。そこに卑弥呼もダブらせてあるわけです。さらに、初期の大和朝廷(三輪王朝)の天皇は男性ばかりで、女帝や女王などはいません。やっぱり神功皇后の記述自体がかなり嘘っぽい。そいうことになります。

 歴史から邪馬台国を消す

 もう一度考えてみましょう。「記紀」には、なぜ邪馬台国も、卑弥呼の名前もないのでしょうか・・・・。それは前にも述べたように、蔑視をこめたような呼び名のせいかもしれないし、あるいは、邪馬台国の卑弥呼は中国の魏に朝貢したように書かれているから、そのへんが大和政権としてはおもしろくなかったのかもしれません。しかしおそらく、理由はそれだけではないでしょう。当時の大和政権は、天皇を頂点とするピラミッド型の社会システムを懸命に構築しようとしている時期です。そんな彼らにとって、たぶん卑弥呼の存在はきわめて目障りだったと考えられます。
 それはなぜでしょうか・・・・。

 もし、邪馬台国がどこか九州あたりの狭い地域の小さな部族国家で、卑弥呼はその女酋長のような存在であれば、大和政権としては放っておけばいいことです。中国の史書も、そんな小さな国のことを、わざわざ倭国の代表のようには書かないでしょう。しかし現実には、邪馬台国は30ほどのクニを統合する倭国の代表で、卑弥呼はその女王として中国の正史に述べられています。小さなクニの小さな部族国家などではありません。だからこそ、魏の王朝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授け、銅鏡百枚をはじめ、多くの贈り物を与えるという、当時の中国外交としては異例な待遇をするのです。倭国を代表する正当な王権だったからこそ、そこまでしたのです。

 邪馬台国と大和朝廷の格闘

 「記紀」の立場に立てば、中国の史書に載ったほどの正当な邪馬台国は、当然、大和朝廷の系譜のなかに存在していなければならない。そういうことになります。そうでなければ、大王家が神代から続く正当な王朝とはいえないからです。どこかに卑弥呼を思わせる人物を入れておかないと恰好がつきません。そこで「記紀」の編者たちは、神功皇后という女帝を創ることで『魏志』に擦り寄ろうとしたらしい。まさに卑弥呼を彼らの系譜に取り込んだわけです。ところが、彼らには一方で、邪馬台国という名も、卑弥呼という名もなぜか出したくないという思いがある。素直にそれを受け入れられない事情が「記紀」の編者たちにはあるのです。だからこそ、「『魏志』によれば云々・・・・」と、分註のなかで曖昧に匂わせるような、ぼかした表現をしているのです。

 そう考えると、これはもう確信犯に見えてきます。「記紀」がことさら邪馬台国や卑弥呼の存在を無視しているように見えるのには、じつは大きな理由があります。垣間見えるのは、邪馬台国と大和朝廷の間には、どうもギクシャクした関係がありそうだ、ということです。邪馬台国から大和朝廷へという流れは、あまりスムーズではなく、何か大きな格闘があるように見えます。たぶん、大和政権の系譜と、邪馬台国の系譜は違うからです。両者の間には、ひょっとしたら王朝の交代か、さらには王権の簒奪があった可能性があります。大和朝廷は、邪馬台国から連続的に発展した政権ではたぶんないし、正当な後継者でもない。「記紀」の編者にとっては、神功皇后という架空の人物を創出することで、卑弥呼の存在はもちろん、邪馬台国そのものを歴史から塗り消してしまう必要があった。そう考えられるのです。(2004/4/17)

 何事も一人では進まない。先人の努力の労を借りることにする。「ウィキペディア邪馬台国」、「邪馬台国大研究」、「邪馬台国は出雲にあった!!??」をとりあえず挙げておく。その他検索すれば無数に出てくる。いずれ読破し咀嚼させてもらうつもりである。

 「土蜘蛛正統記第四部】【百万人の歴史3】【カタカナ国と日本国】【土蜘蛛総覧】」が、「邪馬台国先異系王朝論」を主張し、極めて貴重な歴史解析をしているように思われる。これを確認しておく。言及が多岐にわたっているが、れんだいこ見解と親和する下りのみを採り、れんだいこ風に意訳する。 

 塚田敬氏の「古代史---第三章、三角縁神獣鏡に関する考察」は、邪馬壱国大和説に立ち、後漢への朝貢以後の卑弥呼共立までの経緯を詳細に述べ、卑弥呼を国の代表として祭り上げ、邪馬壱国という新国家を建設した政略を推理している。塚田敬氏の指摘かサイト土蜘蛛管理人氏のヒラメキかは不明であるが、次のように述べている。
 概要「大和王朝に先行する邪馬台国の女王卑弥呼と壱与の呼称は、漢音では意味が分かりにくい。むしろカタカムナ語の表音であると思われる。同様に、古事記の神武天皇以降33代推古天皇(豊御食炊屋比売)まで、日本書紀の40代持統天皇(高天原広野姫)までの神々や天皇の尊称は漢字表記されているもののカタカムナ語で理解すべきと思われる。尊称は、表音文字だけのもの、表意文字と混合したものとに識別することができるが、主として神々はカタカムナ系表音文字であり、天皇は表意文字で表記されているように思われる。但し、漢字の表意とカタカムナの表音の組み合わせの場合もある。例えば、神武天皇の尊号『神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ)』は、『神倭』が表意文字、『伊波礼毘古』が表音文字である。『伊波礼毘古』は『イワレヒコ』と読み、これをカタカムナ語で解読してみると、『朝日(ヒ)の昇るような勢いを持って入る』という意味になる。留意すべきは、ヒミコの『ミ』のような最高のチカラは見られない。

 7世紀後半の持統天皇の代に至って、天皇のカタカムナ語尊称は終止符を打った。この頃、大和の国号が倭から日本へと表記替えされており、カタカムナ語による天皇尊称名の廃止が同時対応しているように見受けられる。このことは、カタカムナ人との歴史的決別を意味していると思われる。

 歴代天皇の諡号と尊号を対比しておく。諡号は後代に贈られた美称 、尊号(日本書紀より)は稗田阿礼が語り伝えたと思われるカタカムナ語と推定できる」。

諡号 尊号
神武(ジンム) イワレヒコ.
綏靖(スイゼイ) ヌナカワミミ.
安寧(アンネイ) シキツヒコ タマデミ.
懿徳(イトク) スキトモ.
孝昭(コウショウ) エシネ.
孝安(コウアン) クニオシヒト.
孝霊(コウレイ) フトニ.
孝元(コウゲン) クニクル.
開化(カイカ) オオヒヒ.
10 崇神(スジン) イニエ. 日本書紀では、「五十瓊殖=イソニエ」と呼称されている。

 695年、持統天皇の御代、日本国号と天皇称号を決定。712、古事記撰上。762天平宝字6)~764年(同8)年、淡海三船により神武天皇から持統天皇、元明・元正天皇の諡号が一括撰進された。淡海三船(722~785、養老6~延歴4)は、奈良時代の文人で続日本紀の編纂作業に参加し懐風藻を著している。政治的には壬申の乱で大友皇子を葬り去 った大伴氏の失脚を図ったりしている。諡号と尊号の意味が相通 じていることからして、淡海三船人がカタカムナ語解読の能力を究めていたことが判明する。

 使用された漢字は次の通りである。

美諡 神聖賢文武成康獻懿元章釐景宣明昭正敬恭荘粛穆戴翼襄烈桓威勇毅克壮圉魏安定簡貞節白匡質靖真順思考顕和元高光大英睿博憲堅孝忠恵徳仁智慎礼義周敏信達寛理凱清欽益良度類基慈斉深温譲密厚純勤謙友廣淑霊栄比舒賁逸退偲宜哲察通儀経庇協端休悦容確紹世果
平諡 懐悼愍哀隠幽沖夷懼息
悪諡 野躁伐荒蕩戻刺虚戻墨亢千専苛介暴虐凶慢毒悪残頑昏驕惑溺僞詐詭奸邪慝危覆敗費

 天皇の諡号.尊号について、本居宣長の古事記伝の「十八の巻」P1057は次のように記している。

 「神倭伊波禮毘古命、御名の義上巻伝十七の末に見ゆ。書紀に、諱彦火々出見とあるは、心得ぬ書きざまなり。先此天皇をも彦火々出見と申せしことのよしは、伝十六の末に云るが如し。然るに是を諱としも書れたるは、漢国の史どもに、某帝、諱某と云例に倣てなれども、甚く事たがへり。皇国の上代の天皇たちの大御名は、諱と申すべきに非ず、凡て尊むべき人の名えを呼ことを忌み憚るは、本外国の俗なり。名は本其人を美称ていふものにて、上代には称名にも多く名てふことをつけたり。大名持などの如し。(中略)後の漢様の諡号神武天皇と申す、凡て御代々々の漢様のの諡のこと、書紀の私記に、師説に『神武等の諡名者、淡海御船奉勅撰也』とあり、まことに然るべし云々」。













(私論.私見)