出雲王朝考、その真偽考



 (最新見直し2011.07.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 いまさら出雲王朝論を唱えて何になると云う思いもある。他方で、多くの者は出雲王朝を知らない。よほど歴史に興味を持っている者以外は関心を示さない。これに掉さしておく必要があるとも考えている。れんだいこは、何と天理教教祖中山みき考経由で興味を抱くことになった。中山みきの御教えが古神道(縄文神道)と通じていることに気づき、その古神道と出雲神道との繋がりから出雲王朝に関心を持ち始めたと云う経緯がある。

 出雲王朝に関心を持って調べ始めると、古代史上、大和王朝前の「出雲王朝と高天原王朝の国譲り政変」の重要性が分かり始めた。れんだいこの出雲王朝考はここから始まる。「国譲り政変」は、知らぬ者は当然として知っている者でさえ、彼が考えている以上に史的意味と影響が深い。それは、現在に至るまで日本政治の特質を形成している。れんだいこは今そういうことに気づき始めている。

 現代世界は、「シオンの議定書」をマニュフェストとして以来台頭著しい国際金融資本帝国主義、これを仮にネオシオニズムと命名すると彼らに牛耳られている。この勢力の日本侵略は戦国時代に於ける鉄砲伝来と共に始まる。しかし、かの時は、豊臣、徳川政権の武力の方が優り、日本浸食を未然に防止した。現在に繫がる襲来は江戸幕末の黒船の来航から始まる。この時より、ネオシオニズム外国勢力の本格的な日本侵攻が始まった。れんだいこは、これに呼応する国内勢力をキリスタンならぬシオニスタンと命名している。現下の日本政治は彼らにままにされている。

 出雲王朝考が、現下日本政治の再建にいかほど寄与するのかどうかは分からない。なぜなら、ネオシオニズム系シオニスタンは史上類例のない狡猾非道の侵攻新勢力であり、古代史上には存在しないからである。同種事例があれば、かの時の対応を批判的に学ぶことができる。しかし存在しないので空拳とならざるを得ない。そういう意味で、出雲王朝考を紐解いても直接的な示唆は期待できない。しかしながら、出雲王朝考により日本政治の特質を理解するならば、より有効な対応能力を生み出す為の智恵と方策を生みだすことができますまいか。れんだいこはそう考えており、ここに出雲王朝考の意義を求めている。

 幻(まぼろし)扱いされている出雲王朝であるが、それには理由がある。記紀神話は大和王朝を創建した側からの皇統譜を記述することを目的としており、大和王朝前に先行して存在し、且つ善政を敷いていた出雲王朝を悪しざまに否定している。故に、記紀神話執筆者は、それを強いる時の政権の意向に従い、出雲王朝を一貫して日陰者扱いする構図とロジックで言及している。故に、この筆法を鵜呑みにすれば、記紀神話作成者の意のままに出雲王朝を幻扱いすることになるのも止むを得ない。故に、出雲王朝否定者は、時の政権の意向をそのままに受け入れているに過ぎないということになる。

 しかし、眼光紙背に徹するならば、出雲王朝が隠蔽されているのは表向きで、記紀神話の筆者は実のところ、大和王朝以前のヤマトに出雲王朝系が存在していたことを知らしめようとしているやにも見受けられる。筆者の念を汲み取るべきだろう。つまり、記紀神話は、中国史書に見られる裏筆法的書き方で為されていることになる。こう読み取らなければ出雲王朝考が始まらない。まずこのことを確認しておきたい。

 従って、出雲王朝の存在に対して、架空、絵空事、おとぎ話、幻と見なしてはいけない。この観点に立つ限り、日本古代史の真相が見えてこない。にも拘らず、出雲王朝不存在説を唱えてきた多種多様な通説が在り、その頭脳の貧困たるや如何ともし難い。れんだいこは、そのように考えている。

 なお、梅原猛・氏が「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―」を刊行し、氏の過去の言説を自己批判否定し、出雲王朝考に分け入り始めている。れんだいこは読み始めたばかりであるが、梅原氏が出雲王朝の存在を認め、研究を始めたこと自体が興味深いことである。

 2008.4.8日、2011.7.14日再編集 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評342 れんだいこ 2008/04/11
 現実政治にかなり食傷気味のれんだいこは、偶然立ち寄ったコンビニで関裕二氏の「出雲抹殺の謎」を手にし刺激を得た。前半が特に為になり、後半は関流史観についていけなかった。それはともかく新たな知識を加えて「れんだいこの出雲王朝考」を「れんだいこ論文集」の中に採録することにした。従来、「れんだいこの日本神話考」(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/nihonshinwaco.htm)の中に取り入れていたが一本立ちさせることにした。

 れんだいこは何を求めて出雲に向かうのか。それは、現下政治の逼塞を打破せんが為である。現下政治は、与野党ともどもシオニスタンに占拠され過ぎており、本質的に同じ穴のムジナの翼賛政治の中で政争を演出しつつ現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオ・シオニズムの指令に基づく日本改造計画に勤しんでいる。社共運動も例外では無い。彼らはその昔から飼われている可能性が強い。目下の全政党一致で道路特定財源の一般財源化に向かいつつある流れなぞその極みであろう。政財官学報の五者機関がこれを押し進めるから如何ともし難い。

 日本人民大衆は、これに抗する手立てを講ぜねばならない。先ず為すべきは、れんだいこが見立てるところ、我々の情報機関を創らねばならない。現下マスコミの愚民化マインドコントロールとネオ・シオニズムプロパガンダの一方的洪水に対処するにはこれしかなかろう。これを批判する段階は済んだ。今や、日本人民大衆は自前のマスコミを創造せねばならない。人民大衆的機関が送り手になるブック、テレビ、ラジオ、有線、ネット網を創出せよ。

 次に、ネオ・シオニズム的歴史観、社会観、これに基く選良政治に抗する為に、諸民族協和志向の別系の歴史観、社会観、これに基く共生政治理論を創造せねばならない。ネオ・シオニズムを対自化させ批判する仕事はまだこれからで、早急に取り組まねばならない。市井にあふれているのは、ネオ・シオニズム系テキストばかりで、学べば学ぶほど阿呆に成る。そういう阿呆な自称インテリがどこにもここにもあふれている。

 今や、日本人民大衆はネオ・シオニズム批判に並行して自前の思想を打ち出さねばならない。下手に洋物思想に被れず、それらは咀嚼する対象にせねばならない。こうした折に、我々が依拠すべきが出雲王朝下の史実にある豊富な諸果実ではあるまいか。れんだいこは、そのように考えている。

 戦前は、出雲王朝史を抹殺した上に成り立つ近代皇国史観に依拠した為に、愛国愛民族を云いながら却ってミスリードされたのではなかろうか。近代皇国史観はこの観点から批判されるべきであったところ、近代皇国史観の全的否定に向かった事により出雲王朝は却って更に奥深く隠蔽されてしまう結果に成ったのではなかろうか。本当は、戦前も現在も、出雲王朝史を受肉化すべきではなかったか。

 れんだいこはそのように受け止めている。ここにれんだいこの出雲王朝考の意義がある。これをれんだいこが独りで為せる訳ではない。共同作業が望まれている。これを通じて、日本の土着型在地主義的共生主義に基く出雲王朝的政治論を確立する。その成果を現代政治に適用していく事により初めて、シオニスタン政治と鋭角的に対決していく事ができるのではなかろうか。

 それができていない今は全くダメだ。ここに思い至っただけでも大いなる成果である。そんな風に受け止めている。諸賢のご意見求む。

 2008.4.11日 れんだいこ拝


【出雲王朝存在論争考】
 出雲王朝を実在とみなす立場からその王朝史を紐解くと次のようになる。当時、日本海沿岸こそ表航路であり、黒潮に乗って様々な文化と交易が盛んであったことは充分考えられよう。この地域は、日本で逸早く開けた史上に云われる国家であった。これら諸国家の中で盟主的地位を確立していったのが出雲王朝であった。

 出雲王朝は歴史上それとしては現われていない。しかし、記紀神話の中に極めて変則的に且つかなりの分量で記されている。れんだいこは、相当な分量且つ変則的記述となったのは、出雲王朝成立後に侵略的に登場し支配権を奪った大和王朝が、政権の正統性を権威付けるために、本来善政を敷いていた先行する出雲王朝を悪し様に描きつつ抹殺秘匿した為と見る。もう一つ、出雲王朝を欠いてはヤマト史が記述できず、為に記紀神話の3分の1を占めるほどのかなりの分量となったと見る。あるいは、時の史家がそういう裏記述することにより先行する出雲王朝の存在をメッセージしているのかも知れない。

 という事情で、出雲王朝をどう位置づけるのかを廻って、昔から邪馬台国所在地論争ばりの甲論乙論が駁している。れんだいこが見立てるところ、出雲王朝論は、邪馬台国論と並んで古代史上の謎を解き明かす鍵となっている。近代天皇制史観に則り皇統連綿万世一系の見地から出雲王朝の存在を否定するのは、大和王朝側のシナリオに沿う御用史家でしかなく、不明と云うべきではなかろうか。

 興味深いことは、日本マルクス主義派の歴史観は更に無知蒙昧である。記紀神話に散りばめられている史実性の否定に躍起となり、彼らは、日本神話総体を「荒唐無稽な架空の絵空事、お伽噺(とぎばなし)」として否定せんとしてきた。記紀神話が正統性を付与している大和王朝に対してさえそうだからして、先行する出雲王朝譚なぞ更に「荒唐無稽な架空の絵空事、お伽噺(とぎばなし)」にならざるを得ず、そういう訳で出雲王朝不存在説を唱えて自己満悦している。

 れんだいこは、そういう見解は、既成のマルクス主義派が如何に暗愚であるかを示しているように思われる。マルクス主義派の頭脳とは昔から案外その程度のものかも知れないと云う例証になっている気がする。れんだいこも叉マルクス主義派の末裔の一人と自負しているが、俗流マルクス主義派の諸見解とことごとく齟齬している。いわば別系のマルクス主義派であり、大言壮語すれば今後はれんだいこ系マルクス主義派が登場する出番である。

 そういう訳で、本サイトで、れんだいこの出雲王朝探訪を手掛ける事にする。一般的に、神話には、これまで見過ごされてきた貴重な歴史のヒントが隠されており、「神話の知」が宿されていると受取るべきだろう。出雲神話には特にその傾向が強い。そういう風に受取りたい。出雲王朝が如何にその後も根強く日本社会に影響を与えているか、日本精神とはそもそも出雲王朝の精神を意味するのではないのか等々の関心を持って検証していくことにする。

 2006.12.7日、2008.4.10日再編集 れんだいこ拝

【大和王朝成立前の出雲王朝存在考】
 出雲神話は、記紀神話と出雲国風土記神話から成り立つ。記紀神話には国譲り神話があるが風土記には無い。逆に、風土記には国引き神話があるが記紀神話にはない。両神話はほとんど噛み合っていない。出雲国風土記神話の方が土着性が強く、本来の出雲神話の可能性が強い。記紀神話に於ける出雲神話は、大和王朝側から見た都合の良い創作の可能性が強い。出雲王朝譚を「日本神話その4」とする。出雲王朝はかく受取るべきではなかろうか。

 天孫族による大和王朝の創始以前、更に言えば、高天原派による出雲王朝来襲前までの日本上古代には、「葦原の中つ国」又は「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国」と云われていた原日本があり、国内の概ねを出雲の神様が統べていた。その支配の仕方は、後の日本政治の原型ともなる緩やかなる連合政権であった。否単に連合政権と云うより政治の手本とも云うべき理想政治を敷いていた。これを仮に出雲王朝と云う。つまり、そういう出雲王朝が実存していたことを踏まえるべきだろう。ちなみに、これに同盟する豪族を国津族と云う。

 それとは別に、アマテラス大御神(天照大御神)が統べる高天原王朝が存在していたことになる。これに従う者を高天原族と云う。天孫降臨後は天孫族とも記す。留意すべきは、いずれも八百万の神々達の住む世界であり、これが日本神話の特質を為している。

 この両王朝の確執史が日本神話の底流を為している。こう窺うべきだろう。日本神話の告げる日本古代史は、出雲王朝系の国津族と高天原神系の天孫族の抗争と和同史であり、この事情を背景にして古代神道が二系列から形成されていることが注目される。恐らく史実であり、国津族を代表する出雲王朝が高天原王朝に対し、祭祀権だけを残して政治支配権を譲るという形で両者和合する経緯を見せる。これを「国譲り」という。日本史上最大の政変と云うべきだろう。勝利した高天原王朝が天孫降臨し、神武天皇東征譚へと続く。こう看做さないと、日本政治史の流れが見えてこない。

 明治維新以降に吹聴され始めた近代天皇制皇国史観は、記紀神話の記す神武天皇東征以来の大和王朝創始の正義と権威に依拠し過ぎた為、記紀神話トリックをそのまま受け止め、出雲王朝を封印することになったように思われる。しかしそれは史実の歪曲でしかない。出雲王朝史は相当紙数を割いて古事記、日本書紀それぞれにしっかりと記されていることである。大和王朝建国譚に於いても、如何に旧出雲王朝勢力に悩まされたか縷縷記述しているところである。ここを見て取らないと、日本神話研究の重要なファクターを欠落させたものになってしまう。そういうものを喧伝したのが戦前の皇国史観であり、皇国史観はそういう意味で批判されるべきものである。(「大国主命、出雲大社」その他を参照する)

 この出雲王朝の存在に就いては、古田武彦氏が、1975年「盗まれた神話」という著書の中で、「大和朝廷」・「九州王朝」に先行する縄文の出雲王朝』の存在を国譲り神話から提起し、国生み神話とその後の黒曜石の分布などの考古史料から証明を行った。そのほかには鉄剣銘文の「臣」、部民性の史料批判等の論証を通じて出雲王朝の存在について、確固たるものにしたとのことである。(「出雲王朝と出雲銅鐸」その他を参照する)

 2006.12.7日 れんだいこ拝

【津田左右吉史学考】
 関裕二氏の「出雲抹殺の謎」(PHP文庫、2007.1.25日初版)参照する。

 1923(大正12)年、津田左右吉氏は、「神代史の研究」(岩波書店)の中で、次のように述べている。

 「(日本の神話は民族が語り継いできたものとは異なり、)神代史は我が国の統治者としての皇室の由来を語ったものにほかならぬ」。
 「(記紀神話に登場する神々の活躍が、天皇家の権威に関係する物語である事に注目し、)本来、神話とは、民族が共有するものであるにも拘らず、記紀神話は天皇家による日本支配の正統性を証明するために、調停の貴族の手で6世紀中葉に記され、8世紀に完成した代物に他ならない」。

 津田のこの説は、「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」というレッテルを貼られ批判された。

 1940(昭和15)年、津田の著書が発禁処分を受け、出版法違反で起訴され(津田事件)、昭和17年、禁固3ヶ月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。理由は、「神武天皇から仲哀天皇に至る歴代天皇の御存在に疑惑を抱かせるような講説を展開した」というものであった。原告、被告ともに控訴したが、その後審理は再開されず、いつの間にか時効が成立し、津田は免訴された。
(私論.私見)
 れんだいこは、津田左右吉氏の「神代史の研究」を読んでいない。関裕二氏の「出雲抹殺の謎」で知った一文であるが、文面をそのまま読めば、出雲王朝の存在をも視野に入れており時の皇国史観を的確に批判しているように思われる。

 2008..4.10日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評394 れんだいこ 2008/04/20
 【日本神話の最大の謎としての邪馬台国と出雲王朝の抹殺考】

 日本神話を渉猟してみて気づいた事がある。それは、記紀の日本神話のみならず古史古伝と云われる上古代史書の全てにわたって邪馬台国の記述が見当たらない事である。不自然極まりない。魏志倭人伝は、紀元3世紀頃の倭国の様子をかなり克明に記しており、卑弥呼の支配する女王国とその直接の統治国・邪馬台国についても言及している。倭国の様子の正確さからすれば、女王国及び邪馬台国の記述も然りで正確とすべきだろう。距離と方位の問題でなかなか辿り着けないのだけれども。

 ところが、記紀の日本神話だけならまだしも、既に幾多も世に出ている古史古伝でさえ女王国及び邪馬台国に関する記述が無い。これは非常にオカシナことである。記紀が何らかの事情で邪馬台国に言及し得なかったとするなら、古史古伝が訂正するべきだろう。ところが、この古史古伝にも記述が無い。気の遠くなるような超古代史に言及している割には肝腎な箇所の記述が欠落している。これは蜃気楼的幻である。

 それと同様に、記紀の日本神話に事あるごとに登場する出雲王朝についても、古史古伝も含めて正面からの記述が無い。正確には、れんだいこはそれら全てに目を通している訳では無いので、公開されている記述からすると無いということになる。これはとても不思議な事である。れんだいこは、そういうことに気づいた。

 邪馬台国と出雲王朝、両者がどのように関係するのかしないのか不明であるが、面と向かった記述が無い点で驚くほど共通しており、古代史上の最大ミステリーの双璧となっている。この点に注意を喚起しておく。どなたか為になる、為りそうなのでもよいから何か聞かせてくれないだろうか。

 れんだいこがこれに拘るのは、日本古代の原基的な社会の在り方、政体の在り方、古代人の生活の様子を知りたい為である。現下の政治の貧相を思うとき、別に理想視する訳では無いけれども、唐文明、西欧文明に汚染される前の日本的政治の良さと限界を見極めたい為である。

 ここをしっかり把握しておかないと、唐文明、西欧文明の吸収の仕方の偏向に気づかないのでは無いかと思っている。唐文明、西欧文明を知る事学ぶ事は大いに結構だが、鵜呑みにしてはいけないと思うからである。唐文明、西欧文明の限界が明らかになりつつある今、土着的在地主義的な共生主義に基く現代的価値観、政治論を生み出したい為である。

 穀物だって身土不二と云う。伝来のものが一番馴染んでおり、その良さと限界をうまく知りつつうまく漕いで行くのが望まれているのではなかろうか。その点、明治維新以来、戦後以来、我々は大事なことを知らぬまま駄弁ばかりしてきたのではなかろうか。日本左派運動が身につかないのは、こういう理由に拠ってではなかろうか。れんだいこにはそういう思いがある。何とか切り拓きたい。諸賢のご示唆求む。

 2008.4.19日 れんだいこ拝

【三浦 佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」考】
 「文藝春秋SPECIAL」2009年秋号(2009年8月27日)の三浦佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」に次の一文がある。これを転載しておく。
 わたしの古事記研究史

 和銅五(七一二)年正月二十八日に太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が撰録したという「序」をもつ古事記は、もうすぐ成立千三百年の節目を迎える。そこで、現存最古の歴史書を記念するイベントがさまざまに企画され、わたしもそのおこぼれにあずかって講演や原稿執筆の依頼をいただく。

 ところが、間の悪いことにというか、ひねくれているというか、ここ数年来、唯一の身分証明書である古事記の「序」は九世紀初めに付けられたもので、本文が書かれたのは七世紀後半に遡るのではないかと考えるようになった。こうした見解は江戸時代からあり、『古事記伝(こじきでん)』を書いた本居宣長(もとおりのりなが)の師である賀茂真淵(かものまぶち)も序文は後世の作と考えていた。

 近代に入ると、「序」はおろか本文にも疑いの目を向ける研究者が出てきて、古事記偽書説はにぎわった(詳細は大和(おおわ)岩雄『新版 古事記成立考』大和書房、二〇〇九年、参照)。ところが、一九七九年一月二十三日を境に偽書説は雲散霧消する。理由は、撰録者とされる安万侶の墓と墓誌が発見されたことだった。

 すでに三十年も前の出来事だが、翌二十四日の新聞各紙に大きな活字が躍ったのを今も覚えている。その銅板の墓誌には、住所や没した日付が書かれていただけで古事記の情報は何もなかったのに、多くの学者は、古事記は和銅五年に安万侶が書いたに違いないと思い込んでしまった。それはわたしが教員になって四年めの駆け出しで、ご多分に洩れず偽書説を否定する多数派に属していた。

 わたしが大学に入学した一九六六年からの四年間は、どこの大学も授業料値上げやベトナム戦争・七〇年安保への反対闘争で揺れ続け、勉強どころではなかった。そんな中で古事記を研究対象にする時代錯誤の学生などほとんどいなかったが、古事記をやるなら偽書説を踏まえねばというアカデミックな風潮はあった。そうした共通理解は墓誌が出土するまでは存したので、一九七五年に出た大和岩雄の旧版『古事記成立考』で展開された偽書説に対して、古事記や古代史の研究者たちは熱い議論を交わしていた。

 それが、今考えると理に合わないのだが、証拠能力のない墓誌が出て偽書説は消滅した。おかげで古事記研究は平穏なものとなり、若い研究者もふえた。それから時が過ぎ新世紀に入ると、わたしは古事記「序」の偽書説に親しみを感じるようになった。そして、二〇〇四年の古事記学会大会で「古事記『序』を疑う」と題した講演を行い、学会誌『古事記年報』に掲載された。ドン・キホーテよろしく古事記研究の総本山に戦いを挑んだわけだが、当時も今も、研究者にはほとんど無視され、冷笑されている。

 なぜ偽書説に向かったのか

 わたしの研究方法は、正統的な古事記研究者とは違うのかもしれない。古事記というテクストを金科玉条として、文字表記にこだわって文脈を説明したり、古事記内部で完結する読みを提示したりするよりも、古事記の神話や伝承を外に開こうとする志向が強い。たとえば、語りという視点を導入し、沖縄やアイヌの口頭伝承と比較して叙事の様式を考え、古事記以前の表現を見ようとする。その成果の一部が『古代叙事伝承の研究』(勉誠社、一九九二年)になった。

 その後、わたしの古事記研究は二つの方向へと展開する。一つは、歴史書として古事記をどこに位置づけるかというテーマである。日本書紀や風土記など古代律令国家によって編纂されたのが明らかな歴史書に対して、古事記が律令国家の内部に成立の根拠を見出せない理由を解明しようとしたのだ。それは『神話と歴史叙述』(若草書房、一九九八年)にまとまったが、見えてきたのは古事記の居心地の悪さであった。

 一方、「語り」論の実践として『口語訳 古事記[完全版]』(文藝春秋、二〇〇二年)を書いた。ありがたいことに一般の読者に広く支持されたが、それよりも、研究上の転機になったのがうれしかった。一語一語にこだわる口語訳をしたことで、今まで読めていなかったところに、いろいろ気づかされたのである。

 そして、この二つの方向を一つにつなごうとするうちに、従来の古事記成立論に対する違和感が大きくなっていった。そのことをおずおずと表明したのが『古事記講義』(文藝春秋、二〇〇三年)第四回「出雲神話と出雲世界」と最終回「古事記の古層性」であった。古事記が、日本書紀にはまったく存在しない出雲神話を大きく取り上げる理由を問いつめていくと、その古態は明白になり、「序」の新しさが否定できなくなったのである。その結果、古事記本文は七世紀後半に書かれ、「序」は権威化のために九世紀初頭に付けられたという二〇〇四年の古事記学会での講演となり、それが『古事記のひみつ』(吉川弘文館、二〇〇七年)へと結実した。

 出雲神話の先に見えるもの

 出雲神話をどのように位置づけるか、それは古事記という歴史書の根幹にかかわる認識であるために、さまざまな議論が展開されてきた。西郷信綱が『古事記の世界』(岩波新書、一九六七年)で説いた世界観は魅力的な仮説で、長くわたしをとりこにした。しかし近年の考古学的な発見や日本海文化圏に関する研究が深まるとともに、ヤマト(倭/大和)を唯一の中心として古代の日本列島を考えようとする単線的な歴史観への疑問がふくらみ、わたしの古事記論は急転回を余儀なくされたのである。

 いちばん大きなきっかけは何だったのか、今となっては判然としない。ただ、出雲神話が古事記に占める大きさと、それが日本書紀にはまったく存在しないということに気づいたのは大きかった。具体的にいうと、『古事記講義』に掲げた対照表「記紀神話の構成」(文庫版、二九五頁)を作成することで、記紀の違いが一目瞭然になったのだと思う。対照表を最初に作ったのは、パソコンファイルの作成日で確認できるが、二〇〇二年四月二十四日である。それは『口語訳 古事記』の校正をほぼ終えた頃で、おそらく授業資料として作成したのだろう。その表からさまざまなことが閃いた。

 たとえば、オホクニヌシの子タケミナカタという神がいる。アマテラスの命令で高天(たかま)の原(はら)から降りてきた戦士タケミカヅチとの力競べに敗れて州羽(すわ)に逃げ、背かないと誓う神である。タケミナカタは諏訪大社の祭神になるが、古事記のオホクニヌシ系譜には名前が出てこず、州羽へ逃げる神話はあとから付け加えられたのではないかという説も根強い。

 タケミナカタは、出雲から州羽へどのようなルートを辿って逃げたのか。古事記では記さない母を、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(十世紀初頭以前成立)や諏訪大社の伝えではヌナカハヒメとするが、それは古いのか。そのヌナカハヒメは、出雲国風土記によれば、オホクニヌシ(国作らしし大神)と結婚してミホススミ(島根半島先端に鎮座する美保神社の古い祭神)を生んでいる。また古事記の神話では、高志(こし)の国に出かけたヤチホコ(オホクニヌシの別名)が求婚した女神もヌナカハヒメであり、その名は「玉の川」(硬玉ヒスイが採れる川の意で、新潟県糸魚川市を流れる姫川とその支流)に由来する。

 このように、いくつもの糸口を探っていくと、出雲と高志・州羽とは、日本海を通して太いパイプでつながっていたことがわかってくる。とすれば、古事記に伝えられるタケミナカタの逃走譚は架空の話などではなく、出雲と州羽とをつなぐ何らかの歴史を秘めているのではないか。そのことを確認したくて日本海沿岸を歩いたのが、『古事記を旅する』(文藝春秋、二〇〇七年)の第一部「対馬海流とともに」であった。その旅を通して見えてきたのも、古事記の神話や伝承の古層性であり、ヤマトとは別の文化圏をもつ世界だった。

 古事記の真実を見ようとして古事記に振りまわされて一生を終える、それがわたしかもしれない。そうなっても仕方がないと思えるほどに古事記には遊んでもらった。お礼として、また古事記研究者の責任として、膂力を鍛え、古代と近代とに誤って填(は)められた「国家」という足枷(あしかせ)を外してやりたい。

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(私論.私見)
 三浦佑之(すけゆき)氏の「古事記の中の出雲神話」の値打ちは、古事記に於ける出雲神話の比重の重さと日本書紀に於ける出雲神話の抹殺ぶりを対比的に明確に論じているところにある。且つ、「いくつもの糸口を探っていくと、出雲と高志・州羽とは、日本海を通して太いパイプでつながっていたことがわかってくる。とすれば、古事記に伝えられるタケミナカタの逃走譚は架空の話などではなく、出雲と州羽とをつなぐ何らかの歴史を秘めているのではないか」と問い掛けているところにある。これは、どちらも重要な指摘である。これを云いたいが為に全文を転載しておく。

 2011.7.13日 れんだいこ拝

 倉橋 日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」は「出雲の国譲りとは出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」で次のように述べている。これを転載しておく。
 出雲の神々は敵役

 出雲神話は『古事記』の神代記の3分の1を占めています。『古事記』に描かれる日本神話は、大きく高天原系と出雲系、それに海神系の話に分けられますが、それぞれが系譜でつながって一つのパンテオン(神界)を形成しています。なかでも、天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものの、両者を比べると、その性格はかなり違っています。出雲の神々というは、始祖のスサノオと国土開発の英雄オオクニヌシを主人公にしていますが、最後には天孫族に屈伏し、国の支配権を譲るのです。しかも、出雲の神々はどちらかというと、天孫族の敵役といった印象です。

 『日本書紀』では、その性格はもっと強調されており、スサノオにいたっては、高天原をかき乱すただの乱暴物といったところ。また、オオクニヌシの説話なども『日本書紀』ではほとんどカットされています。国譲りの場面などもわりとスムーズで、いかにも朝廷側の思惑を反映したものになっています。これは記紀に特徴的な「天つ神対国つ神」、「天的な概念対土着的な概念」という対立構造からいえば、当然のことです。「天」というイメージを打ち出して、自分たちの優位性を主張したい記紀の編者たちにとっては、出雲や海神系の神々は無視することはできないけれども、どこか厄介者という扱いです。しかし、何といっても忘れていけないのは、出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、天孫族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であったこと、そして、出雲族が国を造ったあと、天孫族はその国を譲り受けていることです。

 八俣の大蛇伝説

 そもそもこうした神話の記述をどこまで信用するかという根本的な問題があるのですが、出雲神話には、象徴的な面白い説話が幾つもあります。そのひとつが八俣(やまた)の大蛇(おろち)伝説です。記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。

 この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。

 考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。

 大きな土地の貴人

 スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。また、『出雲国風土記』によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」とも呼ばれています。また『日本書紀』によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。

 さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。

 古代出雲文化圏の範囲

 オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。

 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。また、『日本書紀』の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

 『出雲国風土記』には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。 また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。

 出雲大社神楽殿の巨大な注連縄

 一方、出雲系の神社の分布についてみると、『延喜式』(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」『古代出雲文化展』図録)。これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。

  こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。

 武力で奪った国土

 出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。

 オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。

 ところが、『日本書紀』の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです。

 出雲国か、葦原中つ国か

 こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。ところが、『出雲国風土記』はまったく別のニュアンスを伝えています。国譲りにさいして、オオクニヌシ(『出雲国風土記』では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」。つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。

 このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。しかも、この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示している、と考えることもできます。出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと、倭国の支配権が移動した事実を伝えているのではないか。大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で簒奪している。そう考えられるのです。神武東征伝説や、出雲の国譲り神話が語っているのは、このような古代日本の隠された構造ではないかと私は思います。(2005年6月)












(私論.私見)