邪馬台国論、同論争のもう一つの意義について



 (最新見直し2009.12.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、邪馬台国研究のもう一つの意義について確認しておく。

 2008.10.30日 れんだいこ拝


 邪馬台国研究のもう一つの意義について確認しておく。「邪馬台国比定諸説論争史(1)概括」、「邪馬台国比定諸説論争史(2)論争史」でも説き分けたが、邪馬台国論には異論のつかない箇所がない。僅か2千文字の解釈を廻って、これほど喧々諤々される学科は他には見当たるまい。そういう性格を持つ邪馬台国研究は、「歴史的」邪馬台国論とは別に「論証的」邪馬台国論の意義をも持つとみなすのが、れんだいこ見解である。案外、邪馬台国研究の後者の面での意義が疎かにされている。

 れんだいこは、邪馬台国研究に新局面を開きつつあると自負しているが、邪馬台国の比定を確かなものにする意義よりも、邪馬台国比定に向かうプロセスの論証能力の方に、より大きな価値を見出している。これを仮に「邪馬台国論証力」と命名すると、これを磨くことが同時に他の課題の推敲にも役立つ万能刀のような気がしている。これを逆に云えば、「邪馬台国論証力」を磨かない者による他の課題への論証は、「邪馬台国論証力」の乏しさに相応しく粗末なものにならざるを得ない、あるいは他の課題に於いて論証能力の低い者が邪馬台国論証に精出してみても、他の課題に於ける低い論証力の焼き直しにしかならない、そう思っている。

 そういう意味で、論証能力を鍛えねばならない職業にある者、例えば政治家とか司法家とか一言居士者には格好の教材として邪馬台国研究がある、こう云いたい訳である。これらの立場にある者が邪馬台国研究に向かわないのは、宝の山捜しを自らネグレクトしている気がしてならない。それは俗に、勿体ないと云う。何時の世も、責任ある立場の者は、一級の頭脳で立ち向かわねば責任を御せない。現代政治の貧困は、二等、三等頭脳で御しているところに起因しているのではあるまいか。そうであるなら、そういう者は普段より邪馬台国研究で頭脳を磨いておかねばならない。ここに、邪馬台国研究に向かわざるをえないゆえんがある。

 他にも格好教材がある。れんだいこが推奨するのは、宮顕リンチ事件、ロッキード事件である。この二例は、邪馬台国研究と違って或る特定の事件を廻る真偽判定である。故に焦点が定まっている。但し、相反する見解がそれぞれ伽藍のごとくに形成されており、判断力と論証力なしには結論に辿りつけない。それぞれが最終的な見解に至るには、いろんな情報の中から一つ一つ真偽を見定めつつ最終的な或る結論に辿りつかねばならない。その間の論証は、他のいろんな教材よりも群を抜いて難しく内容が濃いものとなっている。故に、志ある者は探索に向かわねばならない。

 そのようにして鍛えた論証能力を持ってすれば、他の教材を解く際に大いに役に立つ。それは、山の頂上の登った者が登山の行程を顧みて批評する技に等しい。そういう意味で、我々は、難題中の難題と思われる課題にこそ思索を凝らさねばならない。思えば、数学者が難解定理に挑む姿は同じなのではなかろうか。だがしかし、世の相は、これと反対のことばかりしている気がしてならない。一度たりとも論証能力を磨いたことのない連中が、いろんなところに首を突っ込みピンボケ評論しまくり書き散らかしている。そういうものに肩書がつくから、世間の人は信用して、他愛のない説に振り回されている気がしてならない。その式のものが定説、通説となっているから、そういう定説、通説を幾ら学んでも賢くならない。否却ってバカになると云った方が良いかもしれない。

 ご丁寧なことに、そういう定説、通説愛好論者に限って著作権棒を振り回す癖がある。妙に相関しており、これも論証すれば辻褄が合っている。ところが、彼らが力説するところの関係著作権法を読んでみれば、本来は「引用転載につき条件付きで可」と規定しているものを、現代強権著作権論派は、「事前通知、事前承諾、要対価制」へと捻じ曲げていることが分かる。そもそも己の知の偏狭さを解き放つべく知的営為に向かえば良いものを、そういう努力をネグレクトして、さほどでもない書き物を勿体ぶって振り回し、「盗られた盗られた」とバカ騒ぎにうつつを抜かすのを得意としている。そういう結果が回り回って知の貧困化へ道を開くことを承知しながら、敢えて「法以上の規制」へと向かわんとしている。漬ける薬のない手合いということになる。

 そこには著作権利権鉱脈が横たわっており、この金鉱のまばゆさに脳が眩んでいるのだろうか。れんだいこには解せない。現代強権著作権論派の著作権理論は、論証能力を高める上での邪道理論でしかない。かようなものに染まるに応じて我々の論証能力は堕ちて行くことになる。世の中が早く「強権著作権論の迷蒙」に気づいて、抜け出して欲しいと思う。

 もとへ。この混迷の時代、価値観が多様と云えば聞こえの良いものの実は単に価値基準の喪失でしかない時代の知の貧困に抗すべく、我々は、論証能力を高めることに向かいたい。それは、一人では叶わない。弁証法的知的発展は、対話弁証法によってこそ最も効果が高い。つまり、共々で知のレベルを上げて行くことが望まれている。これによって時代を切り開いていくことが望まれている。その為の格好教材として邪馬台国研究、宮顕リンチ事件、ロッキード事件がある。まずは、そのどれかを究めてほしいと思う。こういうことも云っておきたかったので記しておく。

 云い足りなかったので補足するが、邪馬台国研究は恐らく最高の知的研鑽教材である。これほどのものは滅多にお目にかかれるものではない。歴史上、多くの者が現に邪馬台国研究に踏み行ったが、その功績の出来不出来は別として、邪馬台国研究の魅力を本能的に知っていたのではなかろうか。奇しくも、れんだいこは、本サイトのトップのイントロで次のように記している。「邪馬台国論の道に踏み入れば入るほどミステリーを深める。れんだいこは今も持論をもたない。しかるに何故に拘るのか。敢えて言えば、思考を鍛えてくれるからであるとも云える。ああでもないこうでもないの宝庫であり、然るに卑弥呼の魅力が頭から離れない。恐らく他の方も同じような思いであろう。つまり、邪馬台国論はある種の中毒性で持って我々の脳を捉える。害がなければ良いことではなかろうか」。

 2009.12.22日 れんだいこ拝

















(私論.私見)