第3部 「邪馬台国」比定諸説論争史(2)論争史



 (最新見直し2011.8.8日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「邪馬台国比定諸説論争史(2)論争史」を検証しておくことにする。この問題は、最高度の頭脳を寄せて解くパズルであり、歴史ロマンの最たるものと云えよう。ここに、「邪馬台国比定諸説論争史れんだいこガイダンス」を提供しておく。「邪馬台国大研究」その他を参照した。次第にれんだいこ言葉で書き換えて行くことにする。

 2007.8.20日再編集、2009.4.12日再編集 れんだいこ拝


【「日本書紀」神功皇后摂政紀】
 旧くは、「日本書紀」神功皇后摂政紀における三十九.四十.四十三年条の中で、卑弥呼を神功皇后に見立てたかの記述がなされており、これを初見とすることができる。魏志に曰くとして、「景初三年倭の女王が使いを送った」と記されている。
(私論.私見)
 その後幾つかの文献に邪馬台国関係の記事が散見されるが、いずれも倭人伝の簡単な紹介で、暗に卑弥呼は神功皇后であるとした日本書紀の受け売りの域を出ていない。

卜部兼方「釈日本紀」
 鎌倉時代に至って、卜部兼方が、日本書紀の注釈書として知られる「釈日本紀」の中で、「邪馬台国」は「倭=ヤマト」の音をとったものとする説を唱え、幻の邪馬台国と大和朝廷の相関を探っている。
(私論.私見)
 問題は、「倭=ヤマト」の音をとったものであったにせよ、そのことが邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を意味しない。大和朝廷が、支配の都合上「倭=ヤマト」を僭称し続けたことも考えられよう。これを否定するには、大和=ヤマトと読める語義的解明をせねばなるまい。和をトと読むことができても、大をヤマと読むことができるのだろうか。まずヤマトなる発音があり、後世いつの時点かは分らないが大和と当て字し、以降通用してきていると考えるべきではなかろうか。且つ、大和は大同団結和睦の意味であり、極めて勝れた当て字なのではなかろうか。

北畠親房「神皇正統記」
 南北朝時代には、北畠親房(1293-1364)が、「神皇正統記」の中で「卑弥呼=神功皇后説」を主張する等の研究が散見される。後漢書に曰くとして、「邪馬堆」と記している(後漢書には、「邪馬台国」と記されている)。全体に「後漢書中心主義」で、この傾向が継承されていくことになる。
(私論.私見)
 問題は、引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。

頼三陽の関心
 こうして、折に触れて邪馬台国の研究が為されていたようであるが、上記迄の研究と以降のそれを較べれば、邪馬台国研究の初歩的な考察に留まっている感があり、本格的な学問的研究としては、江戸時代になってから開始されることとなったといえる。江戸時代に至って、頼三陽が関心を見せている。

松下見林「異称日本伝」
 元禄時代の学者・松下見林(1637~1703年)は、1688(元禄元)年、「異称日本伝」の中で、卑弥呼を「気長足姫尊」(おきながたらしひめのみこと)と推定し、大和説の立場で考究を加えている。後漢書倭伝全文を掲載した上で、「今按ずるに、邪馬台国は大和国なり。古に大養徳国というは、いわゆる倭奴国なり。邪馬台は大和の和訓なり」と述べている。この「邪馬台=ヤマト=大和」観が継承されていくことになる。

 次いで、「今按ずるに、邪馬台の『壱』はまさに『台』に作るべし」との見解を述べている。つまり、魏志倭人伝原文は邪馬一国とあるのを邪馬台国の書き間違いとして受け取る。邪馬台国であれば大和国とも音訳語呂が合うとした訳である。この「壱→台の誤り観」が継承されていくことになる。
(私論.私見)

 問題は、引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。

新井白石「古史通或門」、「外国之事調書」
 我が国における本格的な邪馬台国研究の先駆者は、新井白石(1657~1725年)である。仙台藩の佐久間洞巌(1652~1736)が「魏志は実録に候」とする見解を発表していたが、新井白石はこの立場を受け継ぎ、信ずるに足りる歴史書と見なし、魏志倭人伝を論及するところとなった。倭人伝に記されている年代や官名、風俗等について精緻に考察し、白石以前の記事が倭人伝の多くの部分を伝聞であるとして省みなかったのと比べると、はるかに科学的・実証的な研究を行い、邪馬台国問題を学問の研究対象とさせた。白石の功績はここにある。

 1716(正徳6)年、「古史通或門」(こしつうわくもん)を著わし、「倭女王卑弥呼と見へしは、日女子と申せし事を彼國の音をもてしるせしなるべし」、「魏志に倭女王奉獻の事の見へしは、神功皇后の御事とみへけり」とのべており、「卑弥呼=日女子=神功皇后」との認識を示した。

 白石はこの時、「魏志は実録に候」と述べ、魏志倭人伝に登場する邪馬台国へ至る諸国の地名比定を試みた。対馬国を対馬、一大国を壱岐、末盧国を肥前の国松浦郡(唐津市)、伊都国を筑前の国怡土郡(前原市)、奴国を筑前の国那珂郡(いまの博多・福岡市)、不弥国を筑前の国宇美(糟屋郡宇美町)に比定し、この比定がそのまま今日の定説にもなっている等において功を為している。ちなみに同書は、投馬国を備前鞆浦に、邪馬台国を大和に比定している。「邪馬台国はすなわち今の大和国なり」としており、大和説の立場からの考究であったことが伺える。又、倭人伝に記されている年代や官名、風俗等についても考察し、白石以前の記事が倭人伝の多くの部分を伝聞であるとして省みなかったのと比べると、はるかに科学的・実証的な研究を行った。

 但し、白石は、晩年に至って「外国之事調書」において九州説に転じ、投馬国を肥後国玉名郡又は託麻郡、 邪馬台国を「筑後国山門郡」に比定するところとなった。白石の「筑後国山門説」は、後世の邪馬台国研究に多大な影響を及ぼすこととなり、今日においても有力な説となっている。ここで留意すべきは、もともと松下見林が「邪馬台→ヤマト」を引き出すために音訳比定的に「邪馬台=ヤマト=大和」としたのを、「ヤマト」を一人歩きさせ、それを九州の地の「山門」に当てはめていることである。

 成本氏は、「邪馬台国研究の歴史」の中で、次のように述べている。

 「(これにより、)ヤマトという音が一人歩きを始めたのだ。以来、明治維新も第二世界大戦も通り越して、邪馬台国が使用されている。教科書はもちろん、松本清張ですら邪馬台国だ」。

 古田氏は、著書「『邪馬台国』は無かった」で、白石の邪馬台国研究に対して、1・後漢書中心主義、2・見林の「邪馬壱→邪馬台」観、3・見林の「邪馬台をヤマトと訓ずる」、4・このヤマトを7.8世紀以降出現した大和朝廷に充てる、5・当初「邪馬台国近畿説、6・後年「邪馬台国九州筑後説、7・詳細に地名比定を試み、その際「倭音訓読による同音地名による比定」に拠っていた。8・この方法論がその後の邪馬台国研究の土台となった、と評している。
(私論.私見)
 問題は、引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。

本居宣長「馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)」
 白石の後を受ける形で邪馬台国の研究に取り組んだのが本居宣長(1730~1801年)であった。1764(宝暦14、明和元)年、新井白石が世を去って5年後に生まれた本居は、「古事記伝」の執筆に着手し、間に「玉勝間」や「うひ山ぶみ」などの執筆も挟みつつ約35年もの歳月をかけて1798年寛政10)年、脱稿させた。1790(寛政2年)年から宣長没後の1822(文政5)年にかけて刊行された。宣長の『古事記伝』は、近世における古事記研究の頂点をなし、最初の実証主義的かつ文献学的な研究として評価されている。

 1778(安永6)年、本居は、著書「馭戎概言(ぎょじゅうがいげん、からおさめのうれたみごと)」を著し、魏志倭人伝を解析した。特徴として、彼は白石ほどには原文を信用せず、独自な解釈を試みている。そういう意味で、「原文の記述を間違いだとする解釈法は本居宣長に始まった」とも云える。その中で距離・方位の問題を中心にして新たな考究を加え、九州説に立脚して考究を加えた。「その使いの経てきたりけん国々も、女王の都と思ひしも、皆筑紫のうちなりけり」と述べている。

 更に、「卑弥呼=神功皇后説」を否定し次のように述べている。
 概要「景初正始は、ともにかの国魏の年号にて、まことにかの姫尊(ひめみこと)の御世には当たれり。然れども、この時にかの国へ使いを遣わしたるよし記せるは、まことの皇朝(すめらみこと)の御使にはあらず、筑紫の南の方にて勢ひある熊襲などの類なりしものの、女王の御名の諸々の唐国にまで高く輝きませるをもって、その御使いと偽りて、私(ひそか)に遣わしたりし使いなり」。

 即ち、卑弥呼を熊襲のたぐいとする「熊襲偽僭説」を主張した。且つ、その卑弥呼が神功皇后の名を騙って魏に朝貢したとした。

 又、邪馬台国へ至る行程記述である「水行十日、陸行一月」の解釈につき、「梁書」の中で「陸行一月日」とあるのに着目し、これを引合いに出して、「一月とあるのは一日の誤りではないか」とする説を唱えた。又、その著「けん狂人」の中で、新井白石の魏志実録観に対して「非なることおほし」、「非なるをも皆実ならむと思ふはいと愚也」、「代々の史をかれこれ引合せて、こまかに考えれば、前後相違して合ざることおほく」等々、「魏志を鵜呑みにはできない」との立場を強調する立場に立った。その他邪馬台国論の骨格は、親房―見林―白石の観点を継承している。
(私論.私見)
 本居の功績は、邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を疑惑しているところにある。問題は、論拠として「卑弥呼=熊襲のたぐいの女酋偽僭説」を打ち出したが、これは却って卑弥呼-邪馬台国世界を矮小化している面が有る。しかし、「邪馬台国と大和朝廷の直系的相関の疑惑」の功が大きいと捉えるべきだろう。ちなみに、本居は、「師の説に、な、なづみそ」(師の説に決して捉われるな)の名言を遺している。この明言こそ、本居の功績ではなかろうか。

【金印の発見】
 1784(天明4).2.23日、筑前の国那珂郡志賀島で、「漢委奴国王」と刻文のある金の印章が発見された。甚兵衛と云う名の農民が耕していた田畑で見つけ、黒田藩に届け出た。この時の届け出書が現存しており、甚兵衛の口上書とそれが間違いないと併記した庄屋武蔵、組頭吉三、勘蔵の名が記されている。この金印発見のいきさつについて諸説あり、甚兵衛の作人であった秀治、喜平の二人が発見したという説もある。発見当時、黒田藩はこれを儒学者達に鑑定させ、藩校修猷館の館長・教授達が数人がかりで出した結論は、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり、安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき海中に没したが、志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。金印発見のニュースは、当時としては異例の早さで中央に伝わり、京都の国学者・藤貞幹(とうていかん)は、委奴は倭奴(いと)であるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印であるとする説を発表した。大阪の上田秋成もこれを支持している。その後も様々な説が現れたが,落合直澄(1840~91)が明治二十年代に「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王」という読み方をあみ出し、三宅米吉がこれを発表してからは、それがほぼ定説となった。現在は、金印は後漢書・光武帝本紀に書かれている「光武賜うに印綬を以てす」の一文にあるとおり、漢の光武帝が奴国の王に与えた印そのものであると理解されている。

幕末期の諸研究
 こうして今日の邪馬台国論争の骨子は、江戸時代に出された新井白石と本居宣長の説に、魏志倭人伝の解釈のあらゆる可能性の九割近くが出揃っていた感がある。

 1820(文政3)年、白石、宣長以後は邪馬台国について見るべき研究がなかったが、幕末の歴史学者・鶴峰戊信(しげのぶ、1788~1859年、豊後臼杵の神官の家に生まれた)が「襲国偽僭考」を著わした。鶴峰は「熊襲説」を主張し、邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とした。その際、魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の墓を薩摩の国の可愛陵(えのみささぎ)としている。  

 1838年、伴信友(1773~1846))が「中外経緯伝草稿」を著わし、九州説に反論し大和説を述べることとなった。伴信友は、「魏の使いが卑弥呼を姫子(ひめこ)と聞き誤ったもので、神功皇后のことである」としていた。なお、邪馬台国は大 和の国の事だが、魏の使いは大和まで来ておらず、伊都国王あたりが応対しその伝聞で倭人伝が書かれているとした。

 1846(弘化3)年、近藤芳樹(1801~1880年、周防出身)が「征韓起源」を著わし、熊襲が自分達の居住区を邪馬台と呼んでいたことを重視し、氏もまた「邪馬台国熊襲説」を述べた。但し、邪馬台国の比定地を「肥後菊池郡山門郷」と比定した。

 この他、菅政友の薩隅説も注目される。

 1893(明治26)年、吉田東吾(1864-1918年)が著書「日韓古史談」の中で、「卑弥呼は熊襲の女酋である」として、「九州薩摩姫城説」を唱えた。
(私論.私見)
 この頃、九州説、大和説の両論が対立し始めているが、問題は、1・引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探る伝統的観点と、2・本居説に与す卑弥呼-邪馬台国世界の矮小化のどちらかを継承しているところにある。

明治初期

那珂通世の研究
 明治時代の前半は、日本古代史研究においては邪馬台国問題よりも、古代の紀年すなわち年代の研究の方に人々の関心は集まった。

 1878(明治11)年、明治初年に神武紀元を修正した那珂通世(1851~1908年)が「上世年紀元考」を著わし、次のように説いた。

 概要「古代史においては年代が 定まらない限り、いかに詳細な記録があったとしても、それを外国の歴史と対比させて研究したりすることはできない。まず我が国上古の年代をはっきり定めるべきである」。
 「卑弥呼の時代は神功皇后の時代とは合致せず、百年ばかりさかのぼる。従来言われてきた卑弥呼=神功皇后説は誤りである」。

 その上で九州説を採用し、邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とし、「邪馬台女王は南九州にいた熊曽の女酋である」との見解を披瀝した。
(私論.私見)
 これも同じで、問題は、本居説に与し、引き続き卑弥呼-邪馬台国世界を矮小化しているところにある。

【「紀年論争」】
 那珂説に対し、各方面から異論が巻き起こった。ウイリアム・ジョージ・アストン(1841-1911年)、バーシル・ホール・チェンバレン(1850-1935年)と那珂道世の間で一大論争が行われ、以後多くの学者が論争に加わった。 後世これを「紀年論争」と呼んでいる。

 1888(明治21)年、那珂道世は、更に詳細な論文「日本上古年代考」を著したが、この紀年論争に関係して、明治20年代は邪馬台国論争が華々しく展開された。特に卑弥呼は神功皇后であるや否やを巡って大論争が巻起こった。論争には、中村正直、久米邦武、阿部弘蔵、橘良平、津田真道、吉田東伍他数十名の学者達が参加している。 折から日本は、富国強兵の気運真っ直中である。神功皇后の征韓説は事実ではないという論文が出るとすぐさま国体を無視する ものであると反論が起き、三宅米吉が 「或一部ノ先生達ハ、年代ノ捜索ナドヲ好マレズ・・・・・・其ノ量見ノ甚狭キヲ惜シムナリ」 などと反論している。

明治中期

明治中期の諸研究
 一連の論争の中で、邪馬台国問題研究は発展のきざしをみせていた。本格的に邪馬台国への行程記事に言及したり、風俗習慣をとりあげて多角的に邪馬台国を捉えようとする試みはまだ少なかったが、邪馬台国所在論争は次第に研究の歩みを進めながら、九州説が大勢をしめつつ邪馬台国はを大和朝廷とは関係のない熊襲の類であるとするのが一般的であった。これが明治時代中期までの流れとなる。

 1892(明治25)年、星野恒氏(1839ー1917年)は、「日本国号考」で、那珂の「年代論」を取り入れ、神功紀に所見する筑後山門県の「土蜘蛛田油津媛(つちぐもたぶらつひめ)」の先代こそが卑弥呼であるとして、「邪馬台国=筑後国山門郡説」を発表した。この「筑後山門郡説」は、従来の薩摩大隅説や肥後山門郷説を圧して、今日の比定の大勢により近いものとなっている。


 同年、菅政友が「漢籍倭人伝」を発表した。同書で、本居宣長が邪馬台国を筑紫としたことを批判し、邪馬台国を薩摩・大隅と比定している。つまり、「大隅薩摩説」を唱えた。彼は、倭人伝に現れる大人を酋長、下戸をその家来と初めて断じたことで知られる。 

 吉田東伍は、菅政友の後を受け「日韓古史断」という大作を著し微細に邪馬台国問題を研究したが、結論は、邪馬台国は熊襲の國都噌於城(今の宮崎県都城)であり、卑弥呼は其の辺りの「日の御子」が大和の倭王と偽ったものである、というものだった。

 この影響を受け、那珂通世は、「外交繹史」のなかで「噌於郡は女王の都スル所である」と強調した。これは、神武東遷後大和には皇朝が成立していたがその力はまだ九州には及んでおらず、神武天皇のふるさと高千穂の峰あたりの熊襲が魏と交流していたというものであり、古事記、日本書紀の内容を全面的に信用する立場からする解釈であった。 

 1898(明治31)年、久米邦武は、卑弥呼を委奴国王であるとし、筑後国高良山上のいわゆる神籠石が発表されたことに着目して、「邪馬台国=筑紫の山門郡説」を唱えた。
(私論.私見)  
 星野説、菅説、吉田説、那珂説、久米説といろいろ取り沙汰されたが、基本的な構図は変わらず、1・引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探る伝統的観点と、2・本居説に与す卑弥呼-邪馬台国世界の矮小化のどちらかを継承しているところにある。

明治後期

「内藤.白鳥論争」
 1910(明治43)年、有名な「内藤.白鳥論争」が巻き起こり、「邪馬台国論争」にとって記念碑的な年となった。東の東京大学教授・白鳥庫吉が「東亜の光」(6―7月号)に「倭女王卑弥呼考」を発表し、邪馬台国九州説(「筑後山門」説)を主張したのに対し、西の京都帝国大学教授内藤虎次郎は、「卑弥呼考」(芸文.5ー7月号)において邪馬台国畿内説を唱え、白鳥.内藤という東西史学の両巨頭による大向こうの論戦となった。これがいわゆる邪馬台国論争の発端となった。ちなみに、白鳥は、帝大卒業後、学習院教授となり、ドイツ留学を終えて帰国すると、帝大教授も兼任して、皇太子に国史や東洋史を進講、学界の中心的存在となり、数々の学説を発表、昭和の終戦直後に死去するまで、その影響力は強大であった。

 白鳥庫吉(1865~1942)は、里程計算により、帯方郡から女王国へ至る「1万2千余里」から帯方郡.狗邪韓国.対馬.一支.末盧.伊都.奴.不弥国へ至る里程「1万7百里」を差引き、不弥国から邪馬台国へ至る残り里数は「1千3百余里」であり、又「陸行一月」は「一日」の書き誤りであるとして、この推定を基に邪馬台国を九州北部(筑後の国山門郡あたり)に推定し、肥後国内にあった筈であると比定した。強力に九州説を唱え、次のように述べている。

 「魏志の示す所によりて之を推すときは、耶馬台国は不弥国より一千三百余里に当れば、女王国が大和にあらずして、九州の地域にあるべきは、亦論を待たず」。
 「後漢末より三国時代に互りて、倭国即ち九州全島は南北の二大國に分裂し、北部は女王国の所領とし、南部は狗奴国の版図として、両々相対峙し久しく相譲らざる形勢をなししなり」。
 「(耶馬台国の所在を)女王の都耶馬台国の位置は此の形勢に鑑み、又魏志に載する所の里数、日数及び行路の状況を参酌して、其全領域の西南部にありしこと、余輩の安んじて断言し得る所なり」。

 又卑弥呼についても言及し、「神功皇后である可能性よりは むしろ神話上の天照大御神(アミテラスオオミカミ)に近い存在である」と述べている。それまでの論者は、卑弥呼の時代を記紀に求め、神功皇后や土蜘蛛田油津姫、倭姫命などの人物を記紀の中から探してきた。しかし、白鳥は、 卑弥呼を天照大神に同一視した。明治時代の年代観からすると時代錯誤もはなはだしいものがあるが、倭人伝に書かれた倭国の姿と記紀に描かれた高天原の状態は酷似すると論じた。

 更に、天照大御神と素戔嗚尊(スサノオノミコト)の関係、高天原における天の安河(アマノヤスノカワ)等についても考察し、 倭國の大乱等倭人伝の記述と神話上の出来事がよく似通っていることを指摘し、古事記、日本書紀が太古からの何らかの史実を伝えたものであるとすれば、卑弥呼はまさしく天照大御神として後世に残った可能性があるとする。後年の「邪馬台国東遷説」の萌芽的見解を述べている。「邪馬台国」の「壱か台か論」については「台」を受け入れ、これを疑うところはなかった。

 一方、内藤湖南(虎次郎、1866ー1934)は、雑誌文芸「芸文」に「卑弥呼考」を発表し、白鳥説に真っ向から批判を加えた。 「邪馬一は邪馬台の訛なること、言うまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」とした上で、邪馬台国大和(奈良県)説を唱えた。卑弥呼=倭姫(やまとひめ)説を唱えた上で、九州論者の多くが邪馬台国へ至る行程の「水行十日陸行一月」を、「水行十日陸行一日」に改めることの非をつき、「軽々シク古書ヲ改メンコトハ従ヒ難キ所ナリ」と述べ 、あくまで字句通りに受けとめるべきだとして、白鳥説を批判している。

 内藤は、魏志より後の随書、北史に出てくる「邪摩堆(ヤマト)とは、魏志で言うところの 邪馬台である」という記述を受け、随も今の大和が邪馬台國と看破した証拠であるとし、当時の人口七万戸を擁する程の地域は大和地方以外に考えられず、「邪馬台国は大和朝廷と理解する外なく」との立場をとった。内藤は、卑弥呼を「倭姫命」(やまとひめのみこと)、男弟を景行天皇に中てた。

 但し、方位については、「支那古書が方向を言うとき、東と南とをあい兼ねるが常例である」として、東と南を一つにし、西と北とを一つにみるべきというように修正することを可として、不弥国以下の南とある記述を東の誤りとした。これにより、邪馬台国を畿内に比定し大和朝廷の祖とした。内藤説の特徴は、これまでの大和説がヒミコを神功皇后に比定していたのに対して、ヤマトヒメが巫女として、天照大神に仕えていたという「記.紀」の伝承によって、「天照大神の教に随って、大和より近江.伊勢.美濃.尾張.丹波.紀伊.吉備を遍歴し、到る所に其の土豪より神戸.神田.神地を徴して神領とした」と主張した。

 「邪馬台国」の「壱か台か論」については、「邪馬壱は邪馬台の訛(なまり)なること、言うまでも無し。梁書、北史、隋書皆台に作れり」としており、「台」を受け入れている。見林説と異なるところは、史書を三典(梁書東夷伝、北史*国伝、、隋書*国伝)挙げているところが新しい。(なお、古田氏の「『邪馬台国』は無かった」では、それらはいずれも後漢書の記述を受けたものであり、正確を期しがたい、とある)

 二人は当時きっての歴史家であり、後の史学界にも大きな影響を与えた史家であるが、この時の二人の論争が、 九州説と大和説という今日でも延々と続いている学問上の論争の発端となった。 二人の説の発表後、直ちに邪馬台国問題について論陣がはられた。著名な歴史家、気鋭の研究者達が、それぞれ 白鳥説,内藤説に共鳴したり批判を加えたりしたが、その論調には一つの特徴があった。 それは、白鳥説、内藤説の論者達が、完全に東大と京大に色分けされたことであった。つまり、東大の学者達は白鳥説を支持し邪馬台国=九州説を叫び、京大は内藤説の大和説(畿内説)を擁護した。

 ここに至って、邪馬台国問題は東大と京大の戦いの様相を呈したのである。このバトルはその後長きに渡って影響を及ぼし、東大の学者には九州説論者が多く京大には畿内説論者が多いという、今日でも見られる一つの傾向を生み出すこととなった。
(私論.私見)
 白鳥説は、本居説の矮小化から抜け出しているが、再び伝統的な「邪馬台国と大和朝廷の直系的相関」を探っただけで、論自体の進展はない。内藤説は、白鳥吸収説に対抗して大和説を打ち出したが、こちらも「邪馬台国と大和朝廷の直系的相関」を前提としての大和説であり、論自体の進展はない。いわゆる「東大対京大の学閥論争」として注目を浴びたことで、その限りに於いて邪馬台国論の世間的関心を高めたところに功績が認められるように思われる。

木村鷹太郎の「エジプト説」
 1910(明治43).7月、バイロンの紹介やプラトン全集の翻訳などで知られていた哲学者で翻訳家の木村鷹太郎(1870ー1931年)が、「読売新聞」紙上に「東西両大学及び修史局の考証を駁す──倭女王卑弥呼地理に就いて」を発表した。同氏は、「邪馬台国=エジプト説」を唱え、内藤教授の「卑弥呼考」による邪馬台国=畿内説、白鳥教授の「倭女王卑弥呼考」による邪馬台国=北九州説の両説に真っ向から噛みついた。ここに三つ巴論争の原形が定まった。(「邪馬台国はエジプトにあった!?─木村鷹太郎の邪馬台国=エジプト説─」参照)

 木村鷹太郎のエジプト説は奇異な感じがするが、九州、近畿の両説の欠陥を激しく揶揄するところにおいては鋭いものがあり、今日の水準においてもなお精彩を放っているといえる。こうしてみれば、邪馬台国論争とは、当初より九州説と畿内説とその他異説との三つ巴の論争として捉えることが史学的であり、九州説と畿内説との二大論争かの如くに流布することは正確とはいい難く、問題ありと云えるであろう。

 木村は、九州説、畿内説のご都合主義的「原文読み替え」に異議を唱え、次のように批判した。

 「卑弥呼地理に関する彼等諸氏の考証此くの如くそれ散漫ならずんば、牽強附会にて、何等学術的考証と称するに足らず。要するに対馬、末廬、伊都或は邪馬台等の地名の日本のそれに似たるものあるに誘はれて前期の如き見事にる牽強附会説を出現したるものゝ如し」。
 「若し之をしも考証なりとせば嗚呼大学の専門史家なる者は天下の最大愚物と称すべき也」。

 その上で、「然り、卑弥呼地理は日本を謂へるものなりと雖『極東日本』の地理を謂へるものに非ずして、他の地理を謂へるものなり」として次のように推定した。

 「請ふ伊太利[イタリア]、希臘[ギリシア]、埃及[エジプト]及び亜拉比亜[アラビア]等の古代地図を披け、卑弥呼地理の説明は此に之を求めざる可からざるなり。余が日本古代史の地理は希臘、埃及、亜拉比亜等の地図を以って説明せざる可からずと唱道すると同時に、支那[シナ、中国]歴史の内にも亦西方地理の混入せるを想はずんばあらざるなり。其西方より植民し来れる支那人中、西方歴史地理を携え来りて、東洋に於て編纂せる史書中に之れを雑入したるは蓋[けだし]有り得べき事たるなり。魏史倭人伝の歴史地理の如きは正しく是れなり。然りと雖[いえども]其詳細は此に略す。

 倭人伝中の倭女王国とは、これ吾人日本人が太古欧亜の中央部に居を占め、伊太利(新羅)、希臘(筑紫)、亜拉比亜(伊勢)、波斯[ペルシア、現・イラン]、印度[インド]、暹羅[シャム、現・タイ]等は吾版図たりし時代を謂へるものなり」。

 こうして、魏志倭人伝は、地中海から東アジアに及ぶ広大な地域を支配していた時代の日本を記録したものであり、この記録を携えて西方から移民してきた中国人が、東洋で編纂された歴史書の中に、この記録を混入させたのが魏志倭人伝だと所論した。こうして次のように比定した(「木村説に基づく航路図」) 以上の行程を地図にしてみたので、参照されたい。

帯方郡  ケルト人の国である。ケルト(Kelt)は「帯」を意味するギリシア語ケレト(Keletos)が語源である。ケルトは古代のドイツ、フランス一帯の称。魏志倭人伝の旅行者は現在のヴェネツィア付近から出発した。
韓国  ガラ(Galla=Gallia)[ガリア]すなわちイタリア北部の総称。
狗邪韓国 くやかん  イタリア半島の南東部、カラブリア地方。カラブリアは「化粧」の意味で、そのギリシア語名はクジォ Xyo つまり狗邪(クジャ)である。
瀚海 かん  アンブラギア湾(ギリシア西岸)。瀚(ハン)は「ワニ」の意で、神功皇后が西征の時出発した和珥津[わにつ]=ワニツア Vonitsa の所在地である。(神功皇后は第14代仲哀天皇の后で、第15代応神天皇の母。「記紀」では朝鮮半島南東部にあった新羅を「征伐」したことになっているが、事実かどうか疑わしい。『日本書紀』では卑弥呼と同一人物とされている)
壱岐国 いき  アンブラギア湾の南方、リューキ(Leuci)島(レフカス島)である。
末廬国 まつろ  ギリシア、ペロポネソス半島の西北にあったアハヤ国のオエノエである。オエノエ(Oenoe)はラテン語でマツロ(Maturo)である。
伊都国 いと  イツ(Ithys)は神を祭り斎く所の意。マンチネヤ(マンティネイア)と推定できる。これは末廬の東南にある。
奴国  ペロポネソス半島東部、アルゴリス国のアルゴス府である。「アルゴス」は船の意、船はギリシア語で「ナウ Naus 」と言い、これが「ヌ」となった。
不弥国 ふみ  アルゴリス国のハーミオネ(Hermione)府である。語尾を略せば「ハーミ」で、これが「フミ」になった。
投馬国 とうま  クレタ島である。不弥国の南にある。クレタ島の伝説にある怒牛タウロメノス Tauromenos がタウロマ、タウマと変化した。これがクレタ島の別名となった。(木村自身の書いた『日本太古小史』では以上のようになっているが、戸高一成氏による木村説の引用によれば、「クレタ島の首都はゴーチナで、その語源はゴルゴス Gorgos で悍馬(あばれ馬)を意味する。あばれ馬に人が乗ろうとするとすれば投げ出される、すなわち『投げる馬』である」という説になっている)
邪馬台国 やまたい  エジプト、スエズ付近である。投馬国から南下して東へ陸行すればエジプトに到達する。
狗奴国 くぬ  邪馬台国の南。エジプト南部のクネ Kumne(あるいはクメ Kumme)。垂仁天皇の行幸があった来目(くめ)の高宮の所在地である。

 なお、女王卑弥呼は神功皇后と同一人物であり、その橿日(かしひ)宮はギリシア北西岸のエピルスのカシオペアである。皇后の「征伐」した新羅とは、エトラスカン人(エトルリア人のこと)の国で、その首都はローマであった。日本書紀に出てくる新羅三王の名は、ローマのタークイヌス王家(タルクイニウス。ローマ王国(紀元前7~6世紀)の王家でエトルリア人。もちろん時代が合わない)の中の3王である。また、卑弥呼の後継者、壱与(いよ)はエジプトの伝説上の女王イオ Io である(イオはギリシア神話に出てくるニンフで、エジプトの女神イシスと同一視される)。


 「此に於いて東西両大学諸賢等の、堂々たる大論文は尽く反古と成り了り、鐚[びた]一文の価値だに無く、徒に日本の歴史家なる者の論理力なく、其所謂[いわゆる]考証なるものは、只是れ牽強附会に過ぎずして、且つ甚しき無学を表す所の記念として遺れることこそ墓なけれ。此くして彼等の考証は死亡せり」。

 木村は、かって日本人は「太古欧亜の中央部に居を占め」、「伊太利(新羅)、希臘(筑紫)、亜拉比亜(伊勢)、波斯、印度、暹羅等は吾版図たり」とも主張した。彼にとって、日本人とは、古代エジプト人にして古代ギリシア人にして、しかも古代ローマ人であり、かってアフリカ、ヨーロッパから東アジアに至る版図を支配していた優秀な民族であった。古事記や日本書紀の語る世界は全て全世界に拡大され、そこに登場する神々はことごとくギリシア神話の神々や聖書の登場人物と結びつけられた。彼の頭の中では時空の観念が崩壊していたのである。彼は自らの妄想的歴史学を「新史学」と称し、自説を認めようとしない「旧史学」者たちを罵倒した。その壮絶な「新史学」の詳しい内容については、別稿「疑似歴史学事典/木村鷹太郎の「新史学」、木村鷹太郎の世界 ──『海洋渡来日本史』を読む」参照のこと。
(私論.私見)
 木村説は、これまでの邪馬台国論争の邪馬台国と大和朝廷の直系的相関説、本居的矮小説の欠陥を批判したところに功績が認められる。但し、邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説に至らず、その代わりに西欧史観的エジプト説を唱えることで却って自滅している。

【橋本増吉の九州説】
 橋本増吉は、内藤・白鳥論争が開始された同年、「邪馬台国及び卑弥呼に就いて」(1932年、「東洋史上より観たる日本上古史研究」所収)を発表し、内藤説を批判した。橋本は、卑弥呼の時代を崇神朝と考え、この時期には大和王朝の支配は筑紫に及んでおらず、北九州にあったと比定される奴国や伊都国を支配していた邪馬台国は大和ではなく九州と考えるべきとした。

【喜田貞吉の折衷説】
 喜田貞吉は、卑弥呼は大和朝廷の傘下の九州の王であったが、魏志倭人伝の編者が卑弥呼の本拠地と大和朝廷のそれとを混同して不弥国のはるか南に邪馬台国をもってきたとする「折衷説」を唱えた。

 唯一の資料ともいえる「魏志倭人」伝の方位と里程を記載通りに追証していくと、それは九州でも畿内でもなく、はるか太平洋上に存在していたことになると述べ、邪馬台国論争が決着を見ない理由とした。事実、内田吟風の「沖縄説」.松本彦七郎の「ジャワ説」等は、そうした事情を背景に登場してきた。
(私論.私見)
 喜田説の問題は、邪馬台国問題の根幹である邪馬台国から大和王朝へ至る王統譜の解明に向かわぬまま、技術論的な解釈傾向を打ち出したことにある。これが新たな潮流となって今日まで及んでいる。

【山田孝雄の大和説】
 1910年、山田孝雄が「狗奴国考」(京華日報社)を著し、「魏使は伊都国にとどまり、伊都国以降の記述は伝聞」とする説を唱えた。方位については、南を東の誤りとし、山陰海岸沿いの日本海航路を推定し、投馬国を但馬、邪馬台国を後の大和国に比定した。邪馬台国と敵対していた狗奴国を毛野国とした。

志賀島金印論争
 白鳥・内藤論争の後を受け盛んに論評されるようになった邪馬台国問題だが、明治から大正にかけては 志賀島で発見された金印を巡っての論争が再発した。稲葉岩吉(1876ー1940)は、明治44年に著した論文の中で、落合直澄が唱え三宅米吉が広めた「漢の委の奴の国王」という金印の呼び方が誤りであるとした。この年、内藤虎次郎が発表した「倭面土=委奴=邪馬台=大和(これは全てヤマトと呼ぶ)」説に基づいて、委奴をヤマトと呼ぶべきだと主張した。大和説の援護射撃と受け取ることができよう。

 これに対して、喜田貞吉(1871ー1939)は、倭面土国は倭奴国と同じものであるという考えは、ただ発音が似ているというだけで何の歴史的な証明もないと反論した。二人は, 「稲葉君に質(ただ)す」、「喜田博士に答ふ」、「稲葉君の反問に答ふ」と論戦を繰り返 した。これとは別に、中山平次郎(1871ー1956)は、金印が倭国の大乱のあおりを受けて隠されたものである、という説を発表した。

大正初期

【津田左右吉の研究】
 1913(大正2)年、大正昭和にかけて日本書紀・古事記の研究に従事していた津田左右吉が「神代史の新しい研究」を発表した。同論文で、記紀の記述の多くが後世の朝廷で創作されたものであるとして、卑弥呼に関わる事件や人物を記紀の記述に結びつける研究傾向を批判した。その上で、邪馬台国の比定地について、邪馬台国の行程記事には使節の距離誇張があり、但し邪馬台国が奴国や不弥国の南方にあつたことは疑いないとして、地名から推して筑後国の山門郡とするのが穏当であろうとした。

 津田氏はその後、1919(大正8)年、「古事記及び日本書紀の新研究」、1924(大正13)年、「神代史の研究」、「古事記及日本書紀の研究」等々を著して、当時の学会に旋風を巻き起こした。これにより、学会の空気が記紀批判へと一変することになった。

【津田左右吉の研究】
 1917(大正6)年、喜田貞吉が、「漢籍に見えたる倭人記事の解釈」(日本歴史地理学会)を刊行した。倭人を日本民族論の観点から論じ、卑弥呼は筑後国山門郡に居た大和朝廷傘下の九州の王であるとした。卑弥呼は九州の国々を代表して魏と通交した。魏志倭人伝の編者は卑弥呼の国と大和朝廷を混同して、邪馬台国をはるか遠くにもってきたと述べた。

大正初期の諸研究
 大正時代の邪馬台国研究の特徴は、「邪馬台国東遷説」の出現と考古学者の参加であつた。喜田貞吉も、大正五年、「遺物遺跡上より見たる九州古代の民族に就いて」の中で考古学的遺物について言及しており、卑弥呼の墓を北九州の円墳ではないかと述べている。

 1921(大正10)年、高橋健自(1871ー1929)は考古学会の例会で次のように語って、考古学者も邪馬台国問題に大いに発言すべきであると主張した。
 「邪馬台国問題のようなものは,文献だけでいくら研究しても解決しない。当然我々考古学者が手をつけなければいけない問題であって、考古学的に考えないと到底解決には至らない」。

 そして、古屋清と富岡謙蔵(1871-1918年)の論文に触れている。

 富岡の弟子であった梅原末治は、大正10年、11年と発表した論文において、師富岡の説を発展させ、九州北部の甕棺や銅剣・銅鉾文化と、畿内の銅鐸文化の違いについて述べ、考古学的には邪馬台国は畿内の大和にあったとした。

大正中期

【和辻哲郎の九州説】
 1920(大正9)年、東京大学の哲学者和辻哲郎(1889~1960)が白鳥庫吉の九州説を踏襲し、「古代日本文化」を著した。同書の中で、邪馬台国九州説を唱え、古事記・日本書紀と魏志倭人伝の記述の一致 を指摘している。更に和辻は、大和朝廷は邪馬台国の後継者であり、日本を統一する勢力が九州から来たのであり、その伝承が大和朝廷に残っていたのだと主張した。

 和辻は、伝承のみでなく、邪馬台国の突然の消滅と大和朝廷の突然の出現、銅矛銅剣文化圏と神話との一致、即ち古事記日本書紀に銅鐸文化について全く記事がないことなどにも言及し、神武東征を史実あるいは史実に近いものと考えた。この説は、主に東京大学の学者を中心に支持され発展し続けた。その後も東大教授のみならず、栗山周一、黒板勝美、林家友次郎、飯島忠夫、和田清、 榎一雄、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、坂本太郎、井上光貞、森浩一、中川成夫、金子武雄、布目順郎、安本美典、奥野正男といった幅広い分野の学者達がこの立場に立っている。

 卑弥呼=天照大神説は、結局、邪馬台国東遷説に発展する。すなわち、九州にあった邪馬台国は、 その後、東に勢力を伸ばし、大和朝廷を打ち立てるというもので、記紀にいうところの 神武天皇の東征からの発想である。ただ、和辻哲郎は、日本の国家統一の機運を3世紀以降のこととしている。皇紀の年代観から完全に開放されているわけで、これは、考古学によるところが大きいのだろう。

 問題は、引き続き邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。
(私論.私見)
 和辻説は、本居的迷妄から抜け出したところに意義が認められる。但し、「卑弥呼=天照大神、邪馬台国東遷説」へと歩を進めたことにより却って、伝統的な邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探めることになった。ここに功罪が合わせ鏡になっているように思われる。

大正後期

大正後期の諸研究
 大正時代の終わり頃に提起された考古学的見地から見た邪馬台国論は、その遺跡遺物の多さから邪馬台国=大和説を唱える者が多かった。邪馬台国東征説の和辻哲郎に対して、高橋健自は、前方後円墳は日本独自の墳墓であり広 く畿内に分布していることから、邪馬台国も畿内であったと推論できると主張した。

  これを契機に考古学の成果を基にした研究があいついで発表される。坪井九馬三、中山太郎、笠井新也、山田孝男、三宅米吉、白鳥庫吉、豊田伊三美といった論者達が、考古学関係の雑誌を中心に次々と自説を発表した。

【高橋健自の大和説】
 1922(大正11)年、高橋健自が「考古学上より観たる邪馬台国」(日本考古学会)を発表し、卑弥呼の時代が古墳時代であるとする前提から、畿内に成立した古墳が東西に伝搬すること、前漢鏡が北九州、後漢三国六朝時代の鏡及びその模造鏡が近畿に集中しているとして、「文化的に見て邪馬台国が大和たるべきを推断」した。考古学者の観点から邪馬台国大和説を裏付けた。

【笠井新也の「卑弥呼=倭トトヒモモソ姫の命」説】
 1922(大正11)年、考古学者・笠井新也(1884~1956)が「邪馬台国は大和である」(日本考古学会)を著し、「卑弥呼即ち倭トト日百襲姫(やまとととひももそひめ)の命であり、マキムク古墳群の中にある箸墓古墳は卑弥呼の墓である」と述べ最も論理的に大和説を説き始めた。これは、現在でも大和説論者に多くの継承者がいることでその洞察力が窺える。笠井は、邪馬台国当時は大和朝廷がすでに日本を統一しており、その政治的な勢力・文化的な影響は九州勢力をも支配していたとする。続いて、1923(大正12)年、「卑弥呼時代における畿内と九州との文化的並に政治的関係」、1924(大正13)年、「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」を著わす。上記3編は、18年後の昭和17年(1942)、続編・「卑弥呼の冢墓(ちょうぼ)と箸墓(はしはか)」と共に笠井新也の名を不朽のものとした。
(私論.私見)
 笠井説の意義は、出雲王朝系の倭トト日百襲姫の命を卑弥呼としたことにより、邪馬台国と大和朝廷の関係を異系なものとして捉える機会を提供したところにある。問題は、笠井氏が、伝統的な邪馬台国と大和朝廷の直系的相関を探っているところにある。これは矛盾であるが、当人はどのように受け止めていたのであろうか。
 「鳥居龍蔵と徳島の仲間たち」は次のように記している。 
 鳥居龍蔵は、1888年、坪井正五郎の来徳を機に、徳島の仲間たちと「徳島人類学材料取調仲間」を組織し活動を始めた。しかし、1892年12月、龍蔵が一家をあげて東京に移住した後、徳島の仲間たちの活動は次第に停滞するようになった。その後の徳島の考古が研究を担ったのが笠井新也である。笠井新也は1884年美馬郡脇町に生まれた。脇町中学校を卒業後に、国学院に入学、同大学高等師範部国語漢文歴史科を首席で卒業。徳島県立高等女学校教諭、徳島県立脇町中学校教諭、徳島県史蹟名勝天然記念物調査会委員など歴任。1956年、71才の生涯を終えた。笠井新也は、徳島の考古学研究分野で数多くの業績を残したほか、邪馬台国研究においても卑弥呼の墓[箸墓説]を唱えるなど注目すべき業績を残した。このほど、笠井家に未発表原稿や研究ノート、日記などが一括で保存されていたことが判明した。そのなかには、鳥居龍蔵が1922年に発掘した徳島城山貝塚についての詳細な発掘記録もある。多くの研究業績を残した笠井新也について今まであまり取り上げられることはなかったが、大量に残された遺稿や研究ノートを紹介しながら新たな笠井新也像を語ることにしたい。

【橋本増吉の反大和説】
 橋本増吉はこれらの大和説に対抗し、高橋健自の考古学重視を批判した。「歴史学者があまりに識見のみで発言するのも問題だが、考古学者が遺物に固執してその解釈に依存するのも事実を見えなくする」などと述べて、考古学的な見地の幾つかに疑問を提示した。即ち、前方後円墳の成立は考古学者の言うように製作年代が判明している訳ではない、畿内の銅鐸文化が九州文化よりも古いと云う確証など何もない、とかの批判を投げた。

 これに対し梅原末治が反論したが、さらに橋本の反撃を受け沈黙した。橋本は、本来邪馬台国問題は魏志に記された記録上の問題であって、 現在の考古学者は記録など無視し考古学の成果しか見ていない、もし考古学の成果を歴史解釈に用いるのであれば、 それはその成果が確立不動のもので、何処にも異論のないものでなければならない。又、考古学者も、社会学・民族 心理学・人類学・土俗学・言語学・史学等の諸科学と相協力して真理に到達すべきである、と説いた。 この橋本の反撃は、考古学者達に遺跡遺物のみで判断していた態度を反省させたと、後に井上光貞も指摘している。
(私論.私見)
 橋本説の問題は、他者の作法を批判しても、王統譜や所在地比定の問題に何らかの前進寄与せねばならないところ、如何なるものを提起したかというところにある。

昭和初期

【梅原末治「鑑鏡の研究」】
 1925年、梅原末治が、「鑑鏡の研究」(大岡山書店)を刊行し、鏡の資料作成を徹底し、一部に同ハン鏡の存在を認め、鏡の伝世や銘文解釈を行った。

昭和の頃の諸研究
 1927(昭和2)年、安藤正直が、伊都国起点説と呼ばれる解釈を発表した。魏志倭人伝にいう所の奴国以下邪馬台国までの行程・方角は伊都国を起点としているというものである。これは以前にも豊田伊三美が唱えていたが安藤が大系化した。即ち、不弥国へは伊都国から東百里、奴国へは伊都国から東南百里、投馬国へは伊都国から南水行二十日、そして邪馬台国へは伊都国から南へ水行十日、陸行一月ということになる。 安藤氏はこれにより、邪馬台国を熊本県下益城郡佐俣(さまた)であると比定し、その理由として邪馬台の音が[ざまた]か[さまた]でなければならないとした。

 安藤が「邪馬台国は福岡県山門郡に非ず」を発表したその年に、志田不動麿は「邪馬台国方位考」を著し、邪馬台国へ至る行程記述を「もし水行ならば十日、もし陸行ならば一月」との解釈法を提起した。志田は安藤の方位解釈に異を唱え、邪馬台国大和説を主張した。

 志田は安藤の方位解釈に異を唱え、邪馬台国大和説を主張した。白鳥庫吉は「倭女王卑弥呼問題は如何に解決せらるべきか」を発表した。白鳥は、倭人伝の記述に現れる勾玉等の産物に着目し、この記述は真珠であり昔から真珠は九州で多く採れるものであると述べた。
(私論.私見)
 問題は、この頃より、王統譜の解明が抜け落ちたまま所在地比定に終始し始めたところにある。以下、同様であるので繰り返さない。

【太田亮の津田説批判】
 太田亮(1884ー1956)は、「邪馬台国の発生と其崩潰」を公表した。 邪馬台国を熊本県菊池郡山門郷に比定し、その理由を邪馬台は[やまと]であるからとし、神武東征によりその呼び名が近畿の大和に残ったとした。太田は、神武東征などの神代の話を事実でないとする最近の説が、古事記日本書紀等のもつ資料的価値を破壊してしまったと述べて、津田左右吉の記紀批判に対抗した。 太田の説は津田旋風の風潮を諫めようとするものであった。

【「生口論争」】
  昭和3年から5年にかけて、今日「生口論争」と呼ばれる一大論争が巻き起こる。 1928(昭和3).9月に、中山平次郎は、「考古学雑誌」に「魏志倭人伝の生口」を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈 したが、明くる年の1月、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から 贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。

  この後、二人の間で毎月のように生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎(生没年不詳)が生口は捕虜であるとし、沼田頼輔(1867-1934年)がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎(1864-1947年)は生口論争に加わりこれを奴隷である、とした。 直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉は、生口は捕虜を意味しており 奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。

唯物史観史学の登場
 昭和5年、末松保和が発表した二つの論文「太平御覧に引かれた倭国に関する魏志の文に就いて」と「魏志倭人伝解釈の変遷-投馬國を中心として-」が幕開けとなり、唯物史観史学が始まった。

  末松は、邪馬台国研究史に着目し論を展開したが、自身は「日本古典を全く離れ倭人伝だけを考えると、邪馬台国=大和説に加担する」としていた。末松は、概要「生口問題は、奴隷・捕虜の問題、財産所有形態の問題、生産技術の問題に発展すべきである」、「このような考察には畏友羽仁五郎から受けた刺激と暗示が大であった」と述べている。

  唯物史観史学そのものの成立は、昭和2年、野呂栄太郎(1900ー1934)の「日本資本主義発達史」に始まる。その後、古代史の分野でもこの史観に基づく論文が続々と発表される。早川次郎(1906ー1937)の「大化改新の研究」は邪馬台国問題をこの立場から取り上げた最初の研究として知られる。禰津正志、渡部義通、伊豆公夫らが後に続き、これらの唯物史観史学者たちの邪馬台国位置論は大和説に大きく傾いていた。

 末松の後を受けた研究は、橋本増吉、伊藤徳男、田村専之助らが引き継いだ。こちらは、邪馬台国九州説が専らであった。しかしこれ らの史観と関係なしに、邪馬台国大和説もどんどん発表された。稲葉岩吉、肥後和男、梅原末治、志田不動麿、大森志郎、笠井新也、藤田 元治らが論文を著し、邪馬台国問題と大和朝廷の研究を行った。
(私論.私見)
 唯物史観史学の登場は、日本史研究に於ける新しい研究方向を出現させることになった。ここに意義が認められる。しかしながら、邪馬台国論に於いて、何ほどか寄与せしめたというものはない。

大戦期の閉塞状況
 だが、時代は、もはやこれらの研究を大っぴらに行えないような環境に突入していた。 昭和9年、10年ごろの日本史研究論文には「XXXXXXXXX」で伏せられた部分が実に多い。渡部義通は、自身の著書の検閲についてこう語って いる。
 「それにしても、いま漸くにして世の光に浴し得たものは、見る如く、惨然たる傷痍に損なわれ、殊に後半は、校了の後に至り、文章の 数行乃至数十行を削除して片影を止めず、文脈の全く巡り難きところさへ数カ所に亘っている。本書の生みの親として、この不幸なカタ ワ児を見るの苦痛は然ることながら、かかるものを真摯な研究者や読者に提供せねばならぬ苦痛には一層忍び難いものがある」(邪馬台国研究史8より)。

 戦前の史学研究には多くの障害が存在していた。下手に論文を発表すると、検閲や不敬罪どころか非国民と呼ばれた時代であり、為にiずいぶんと不自由な学問分野となった。

戦後昭和期

戦後ルネサンス期の活況
 戦後になると、皇国史観が否定されたことによって、考古資料や外国の文献を用いての日本古代史の研究に自在が生まれ脚光をあびることとなった。戦前までの邪馬台国研究がどちらかと言えば、邪馬台国はどこか、卑弥呼は誰かという問題を中心に研究されてきたのに対し、戦後は様 々な方法論による邪馬台国論が発表された。民族学、考古学、博物学、社会学等の自由な研究方法の進展と相まって、歴史学も又自由を取り戻したと言える。

榎一雄の「放射説」の登場
 こうした中にあって、邪馬台国論争史において、衝撃を与えたものとして、榎一雄の「放射説」が注目される。この説には先行して、豊田伊三美が「邪馬台国論を読みて」において、「私はこれを以って、すべて伊都から後のは郡使が伊都で聞いた方向里程国名を挙げたもので、伊都を起点とした里程であると解するのであります」とする説があったものの、同氏の畿内説の立場及び論証面において簡略であった為に注目されること少なかった。

 1947(昭和22).11月、榎一雄は、「魏志倭人伝の里程記事について」(「学芸」第33号)を発表し、九州説の立場から邪馬台国への行程を伊都国を要として放射線状に読むことを論証的に提言し、賛否両論に分かれたものの斬新な視点を提供するところとなった。榎氏の「伊都国起点放射説」とは、これまで魏志倭人伝に表われた方位方角と距離の読み方の連続式(この説を直進説又は続進説という)が疑われることなかったのに対し、伊都国までと伊都国以降の国々との記述の仕方に相違があることに着目し、伊都国を起点として以下奴国、不弥国へと進む放射説を云う。これを「放射線式読法」と云う。

 事実、伊都国以前は方角、距離、国名と順にしるされているのに対し、伊都国以降は方角、国名、距離と記載が為されており、距離と国名の順序が替わっていることに気づかされる。つまり、奴国以後の国々は伊都国を起点として読み進められるべきだという訳である。榎説を採用することによって、これまで距離の点で不利であった九州説が活気づくこととなった。

 古田武彦氏は、「『邪馬台国』は無かった」で次のように評している。

 「確かに、方法論上の観点からすれば、榎説の意義は更に大きい。なぜなら、従来の邪馬台国研究者は、近畿説と九州説とを問わず、自説に都合のいいように、ほしいままに『原文改訂』を行ってきた。榎はこれを採らず、『南→東』、『陸行一月→一日』いずれの改定も行わずに、原文を理解しようとした。ここに榎説が研究史上に占むべき画期的な位置が存在した。このため、戦後の邪馬台国研究は、この榎の業績を無視しては語れないこととなったのである」。
(私論.私見)
 榎説は、これまで誰からも問題にされていなかった記述上の不自然さを採り上げ、放射説を打ち出したところに意義が認められる。

「放射説」を廻る諸説の登場
 榎説は、牧健二により補強された。つまり、魏志倭人伝では明確に「至」と「到」の使いわけが為されており、「到」は狗邪韓国と伊都国にのみ使用されている。このことは放射説の正しいことを証明していると主張した。

 高橋善太郎は、倭人伝中の「至」と「到」の意味を探求し、「末盧国起点放射説」を提出した。なお、中国の歴史書で直線行程の記述の場合には、又.次.乃などの接続詞の使用、もしくはその他の方法によって、直線行程を明示しており、これがない場合は直線行程ではないことを証左しているとした。高橋は、末盧国は郡使の直線コースの最後であり、陸上諸国へはすべて末盧国から出発したものであるとしている。この説は、張明澄氏中国人の見た邪馬台国論争等中国の学者に支持する者が多い。

 田中卓は、榎の伊都国中心の放射線説と高橋氏の末盧国中心の放射線説を折衷し、末盧国を含む伊都国という意味で、「伊都国末盧国起点放射説」を提唱した。

 ところで、こうして放射式の読み方は次第に撹拌されて行き、不弥国以前は旅程が里数で表わされているのに、不弥国以降は日数で記されているところから、「不弥国起点放射説」も現われることになった。邪馬台国や投馬国など日程で記されている記事は、帯方郡からの日程を示しているのではないかと考える「帯方郡起点放射説」も出てくるところとなった。

 堅田直は、その著書「邪馬台国はどこか」において、畿内説の立場からこれを主張し、坂田隆は、その著書卑弥呼と倭姫命において、九州説の立場からこれを主張するところとなった。

【藤間生大の「埋もれた金印」】
 1950(昭和25)年、藤間生大氏は、「埋もれた金印」により九州説を主張した。藤間は同書で、当時の東アジアの情勢とも関連させて、邪馬台国における王権構造、身分階級制度、社会生産力、共同体国家構造等の問題に触れ、 邪馬台国研究をより深く掘り下げた。藤間の説は、邪馬台国は王達による卑弥呼の共立で成立した国家であり、はっきりした国家間の隷属関係などはまだなかったというものであった。邪馬台国の比定については、「政治的社会の発育度からみて、当然北九州だろう」とした。この説に、上田正昭や井上光貞、北山茂雄、直木孝次郎らが加わり活発な論戦が行われた。

【和辻哲郎「新稿日本古代文化」】
 1951(昭和26)年、和辻哲郎は、「新稿日本古代文化」(岩波書店)を著わし、「銅鐸文化圏」、「銅剣・銅矛文化圏」による地勢図識別を打ち出し、大和朝廷は邪馬台国勢力が東遷して打ち立てたものとする「邪馬台国東遷説」を提唱した。

続戦後ルネサンス期の活況
 この時期、邪馬台国問題は多角的に研究の光があたったと言ってよい。 榎一雄、牧健二、橋本増吉、原島礼二、武田幸男といった研究者達による魏志倭人伝の研究も新たな解釈や方法論を生み出し、世界史特に東洋史の中に日本古代を置いて考える方向も、戦前と比べると著しく自由になった。日本民族は大陸の騎馬民族の末裔 であるとか、天皇家は韓国王朝の流れを汲むとか、戦前の皇国史観から見ると銃殺ものと思えるような説も自由に発表され世に出た。

【和歌森太郎「私観邪馬台国」】
 1952(昭和27)年、和歌森太郎は、「私観邪馬台国」で、「陳寿は倭国を南北へ長く伸びた形で理解していた。彼にとって日本列島は、南北に長い列島だったのである」と述べている。

【大塚山古墳から三角縁神獣鏡が30数枚出土の衝撃】
 1953(昭和28)年、国内で最も重要な古墳の一つである京都府山城町の椿井(つばい)大塚山古墳(前方後円墳)から「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡が30数枚出土し、発掘調査報告書(樋口隆康・当時京都大学考古学研究室講師、後に京都大名誉教授執筆)が同町から発刊された。後に、梅原末治教授(1983年死去)が手を入れ、梅原末治著「椿井大塚山古墳 附元稲荷古墳」(京都府 文化財調査報告第24冊)として発刊された。しかし、梅原教授と確執があった当時の小林行雄講師(のち教授、89年死去) が「私の管理する文部省研究費が調査に使われたのに、それで得られた測量図が無断で使用された」と府教委に抗議。 以来、一級資料にもかかわらず、引用はタブーとなった。1998(平成10)年、 「幻の報告書」として34年ぶりに発刊される。

 1954(昭和29)年、肥後和男氏も「大和としての邪馬台国」で同様の主張をしている。

室賀信夫氏の「混一彊理歴代国都之図」例証による方位解釈
 邪馬台国の方位の記述を廻っての古地図による考察も衝撃をもたらすこととなった。

 1956(昭和31)年、地理学者室賀信夫は、その著書「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像-地図学史的考察-」(神道学会)において、日本を記した古地図においては、日本の地形を北九州を北として日本列島が九州を北として、大和・東北地方を南とし、北から南へ列なる格好に転倒された形で記載されており、魏志倭人伝の方位もこれに従っているのではないかとの説が発表されることとなった。明の建文4年(1402)に朝鮮で作られた「混一彊理歴代国都之図」(以下、「混一図」と表記する。龍谷大学図書館所蔵)がその証左であり、 「中国の東南海上に南に転倒した形態をとって描かれた日本こそ、魏晋の時代の中国人の日本についての地理的観念を、そのまま可視的に表現したものである」と主張するところとなった。

 この地図の原拠となったのは「兎貢地域図」(魏.晋に仕えた地理学者裴秀の作)であり、裴秀は倭人伝の撰者・陳寿と同時代であるので、こうした地理観が当時の一般認識ではなかったか、つまり陳寿も又これに従っており、従って「南は東に読み換えるべきである」という説となった。この説は「倭人伝」の「正に会稽東冶の東にあるべし」の記述と適合することとなり、従来方位の点で難のあった大和説が勢いづけられることとなった。

 山尾幸久もこの説を補強し、陳寿が倭人伝を編纂する時参考にした地図は、裴秀の「兎貢地域図」、又はそれを縮小した「地形方丈記」ではないかと想定する説を唱えた。しかし、弘中芳男は、その著書「古地図と邪馬台国-地理像論を考える一」の中で、「混-彊理歴代国都之図」の成立ちを追及し、この地図が、15世紀の初頭に、朝鮮の権近が、西を上方にして描かれている日本の行基図を不用意に挿入してしまった爲に日本列島が転倒した形に描かれることになったという由来を解析する等反論されてもいる。

【上田正昭「日本古代国家成立史の研究」】
 1959年、上田正昭が「日本古代国家成立史の研究」(青木書店)を著し、 邪馬台国の王は既に3世紀中葉には北九州を含む統属国の上に立ち、基本的には共同体のアジア的形態を基礎とする初期専制君主の権力であるとした。

原田大六「邪馬台国論争」
 1961年、在野の考古学者にして福岡県糸島郡に住み地元の前原古墳を発掘し考古学に大きな足跡を残した原田大六が「邪馬台国論争」(三一書房)を著し、邪馬台国大和説を展開した。

小林行雄「古墳時代の研究」
 1961年、小林行雄は、「古墳時代の研究」(青木書店)を著し、邪馬台国大和説を展開した。古墳から発見された銅鏡を総合的に研究し、伝世鏡論や同ハン鏡(同じ鋳型から作られた同一文様鏡)論から説き起こし三角縁神獣鏡舶載品説を展開した。この説は多くの研究者に受け継がれる。

森浩一「日本の古代文化―古墳文化の成立と発展の諸問題」
 1961年、森浩一が、「日本の古代文化―古墳文化の成立と発展の諸問題」(学生社)を刊行し、三角縁神獣鏡が中国で全く出土していない事実を基礎に国産鏡説を最初に唱えた。

【直木孝次郎「国家の発生」】
 1962年、直木孝次郎が「国家の発生」(岩波書店)を著わし、 邪馬台国と大和政権との質的な違いを指摘し、両者を別系統の政権であるとした。上田説、直木説は、内藤説の系譜に列なり、いわゆる京都学派と呼ばれる。

【天理市の初期の東大寺山古墳から卑弥呼時代の「中平□年」銘文の鉄刀発見される】
 1961年、天理大学付属天理参考館が奈良県天理市の初期の前方後円墳である東大寺山古墳の発掘調査に乗り出し、粘土郭から鉄剣数本が出土した。その中の1本に金象嵌の銘文のある鉄刀が見つかった。銘文は「中平□年 五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 下*不祥」と解読された。中平は後漢の年号で西暦184~190年である。金象嵌がある鉄剣の出土は中国でもきわめて稀で、製作は特殊な場合(遠征将軍や遠地太守の任命など)に限られるという。金象嵌がある鉄剣が和珥氏の地元である奈良県天理市の東大寺山古墳から出土したことは畿内豪族の漢王朝との交流を物語る。なお、倭国の乱が光和年中とすると、卑弥呼が共立の直後に漢に遣使して中平紀年銘の秘宝剣を授けられた可能性が出てくる故に邪馬台国大和説の有力な証拠となる。

【井上光貞「日本国家の起源」】
 1965年、井上光貞が「日本国家の起源」を著し、「神話から歴史へ」の項で九州説を主張した。次のように述べている。「邪馬台国はかなりの領域を治めてはいてもずば抜けた勢力を持つ専制国家ではない。卑弥呼は多くの小国の支持なしには王位にはつけなかった。それゆえ、邪馬台国の時代は、古代専制国家成立以前の英雄時代であった」。

【福岡県前原の平原遺跡から超特大鏡5面と後漢式鏡をふくむ40面(当時39面)の鏡が出土する】
 1965年、福岡県前原の平原遺跡が発掘され、直径46.5センチの超特大鏡5面と後漢式鏡をふくむ40面(当時39面)の鏡が出土した。邪馬台国の王墓問題に関わる一級の弥生王墓と考古学的資料が確認され衝撃を与えた。発掘当時、調査者の原田大六は平原遺跡を「平原弥生古墳」と命名し、その被葬者をオオヒルメ(天照大神)とし、2世紀前半ころ(A.D100~150)の時期を想定した。

 1966年、原田大六が「実在した神話」(学生社)を著し小林説を批判し、弥生時代から古墳時代への王墓の変遷のなかで、九州の平原遺跡で成立した鏡・刀剣・玉(三種の神器)の副葬をはじめ、王墓の内・外部構造や占地などが近畿地方の古墳に継承されていったとする仮説を打ち出し、「平原弥生古墳の被葬者の子孫たちが、近畿地方に移って古墳文化をさらに発展させていった」とする観点を披歴している。しかし、平原遺跡を廻る考古学界での評価は定まらず、「平原遺跡の特大鏡は、大形倣製鏡が増加する古墳時代前期後半の産物」(『古代の日本』3角川書店)とするのが通説となっている。前期前方後円墳の出現契機を「畿内型古墳の伝播」(前掲書)とする理解が通説化しており、それに対応する卑弥呼の鏡論も、京都・椿井大塚山古墳の被葬者が各地の古墳被葬者に配布したとする説(小林行雄「三角縁神獣鏡の分有論」)が考古学界を風靡している。しかし、異論も根強い。

 原田は、著書の「むすび」で、平原遺跡に葬られた人物について、「高祖山の西麓に鎮座する高祖神社が古くは高磯比咩(たかそひめ)社といい、怡土郡の惣社とされていたということは、わたしの、最後まで残してきた謎であった」と述べ、高祖神社の祭神の中座がヒコホホデミノミコト、左座に玉依姫が位置することに注目し次のように述べている(ヒコホホデミノミコトは玉依姫の子供で、神武天皇の別名)。
 「玉依姫は、平原弥生古墳に葬られた人物であり、生前・死後ともに天照大御神とあがめられた一大女王であった。怡土郡の惣社に玉依姫が祭られたのは、伊都国が大和政権を樹立する以前の、国都であったからである。大和朝廷が伊勢神宮に天照大御神を祭って皇祖神とあがめたのと同等の意義をになっていた。だが、神武東征によって、日本列島を征服した大和朝廷にとって、皇祖神は二つは必要でなかった。天に二日(にじつ)はないのである。伊都国の神は歴史とともに、いつしか大和朝廷の意識から遠ざかり、『古事記』や『日本書紀』が書きとめられるころには、もはや大和朝廷の本籍は、どこであるのか、その詳細はわからなくなってしまっていた」。

【松本清張「古代史疑」】
 こうしたなかにあって、歴史学者だけでなく小説家による著書も出版され話題を提供するところとなった。古くは横光利一氏(1798-1947年)が、大正12年に「日輪」を発表、彼の出世作となった。

 1966(昭和41)年、推理作家として著名の松本清張氏が中央公論「古代史疑」、「邪馬台国を探る」の連載を開始した(1966.6月号―1967.3月号)。1968.3月、中央公論社から刊行された。著名な推理派小説家によるアプロ-チという点で評判を呼んだ。連載当時から、井上光貞や上田正昭ら著名な研究者が内容に反応を示すなど話題を呼ぶ著作の一つとなった。松本氏は以降、「邪馬台国の謎を探る」 (平凡社、1972年)、「邪馬台国 - 清張通史」(講談社、1976年)、「吉野ケ里と邪馬台国」(日本放送出版協会、1993年)と邪馬台国論に言及している。

【宮崎康平「まぼろしの邪馬台国」が「海岸線の復元思考」を打ち出す
 1967年、盲目の詩人宮崎康平による「まぼろしの邪馬台国」(講談社)も著われ、邪馬台国ブームを盛り上げることとなった。古代史、特に邪馬台国問題はそのロマン性と郷土身びいきとが重なって、多くのいわゆる古代史家や郷土史家達を生ん だ。長崎県島原半島に住む、島原鉄道の重役宮崎康平が出版した「まぼろしの邪馬台国」は、著者個人が盲目であるという話題性もあっ て大ベストセラーとなった。それ以後はまるで邪馬台国祭りとでも言うような出版ブームが続いた。

 宮崎康平による「海岸線の復元思考」は一石を投じた労作であった。地質学の研究成果を取り入れて、現在の海岸線と邪馬台国時代のそれを区別することの肝要さを説き、仮に弥生海岸と名付けられたそれは、現在の地図でいう等高線の五~十メ-トル辺りの範囲はかっては海域であり次第に陸化していったものであることを強調している。その著書「幻の邪馬台国」の該当部を抜粋すると次のように述べている。
 「現在の加布里付近から今津湾までは完全な海峡で、大きく云って、博多湾と唐津湾はつながっていたのである。この海峡のことを地質学では糸島水道とよぶのだそうだ。----九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門的な地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、これによって記入された弥生線と現在の町の関係を比較してみると、当時の様子がよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えてもいいだろう云々」。

 残念ながら、こうした労作にも関わらず、学会としては旧態依然の比定論争が繰り広げられていることは惜しまれる。 

【水野祐の「九州邪馬台国と原大和国の併存論」の登場】
 1967年、水野祐が「日本古代の国家形成」を著し、概要「九州説を唱える学者は、邪馬台国は九州にあるという研究に熱中して、その頃の大和地方はどうであったか、又大和国家ないし大和朝廷といわれる大和の国家と、女王国や、狗奴国などの九州の国家との関係はどうであったかという研究をおろそかにしている」と指摘した上で、「銅剣同鉾文化圏と同鐸文化権の対立を、九州国家と大和国家との対立時代にあてはめてもいっこうに不都合はない。すなわち、九州において倭奴国→女王国→狗奴国というように政治勢力の更迭が行われているあいだに、本州島にはまたそれに相応する別な政治勢力の台頭があって、少なくとも二世期に到るまでに、大和国家の前身ともいうべき国家の成立が認められるのである」と主張した。「邪馬台国と原大和国の併存論」が登場したことになる。

 こうして、水野は、「邪馬台国と原大和国の併存論」の最初の提唱者となった。この説は、1981年、中国の王金林が継承することになる。王金林は、「邪馬台国は北部九州にあったが、これと同時に畿内にも同じような発達した国家前大和国が併存した」との説を発表した。つまり、邪馬台国が存在すると同時に、日本列島にはまたその発展の程度が似た一、二の地域国家が存在したと主張した。この併存説は、邪馬台国を九州に比定しているところに特徴がある。この論の妥当性はともかくも、「同時期二王朝併存論」を打ち出した点に値打ちが認められる。

【安本美典の邪馬台国研究】
 1967(昭和42).10月、産業能率大学の安本美典が「邪馬台国の道」を著し、1977(52).6月、「新考」、1998(平成10).6月、「最新」と改訂していく。

 安本は、「数理文献学」という独自の方法を用いてアプローチする手法を開拓した。早くからコンピュータを日本古代史の分野に持ち込み、地名の残存度や天皇の在位期間の割り出し、古代日本の日食と天照大神の岩戸こもりとの関係などを解明しようと試み、卑弥呼の死の前後2回にわたり皆既日食があった事を推論し、これが天照大神の岩戸こもりの伝承となって残っているのではないかと述 べている。その論旨方法は多くの賛同者を得ている。その結果、奈良地方と福岡県甘木朝倉 地方の地名の酷似に注目し、卑弥呼を「天照大神」とする説を打ち出した。且つ、邪馬台国東遷説の立場に立つ。

【古田武彦の「邪馬一国説」】
 1969年、高校教諭(元昭和薬科大学教授)であった古田武彦が「史学雑誌」に「邪馬一国説」を発表、研究者に衝撃を与えた。「一」の古字は「壹」、「台」の古字は「臺」であり、似ているが厳格に使い分けられているとした。それまで通説は、例えば、内藤湖南氏の「卑弥呼考」では、「邪馬壱は邪馬台の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」と、「台」説をとるのが良いとされ、すんなりと受け入れられて来ていた。

 ところが、古田は、魏志倭人伝の原文が存在せず、 今日残っているのは全て後世の写本であることを踏まえ、どの写本が原文に忠実であるかを検証していった。その結果、南宋時代の紹熙本、紹興本、それ以降の汲古閣本、英殿本、北宋本等いろいろな版本があるが、現在残っている色々な写本のどれを見ても「邪馬壹国」と書かれており、且つ南宋時代の紹興年間に刊行された「紹興本」後に刊行された同じく南宋時代の「紹煕本」がより正確最良本であると見定めた上で、双方が共に「邪馬一国」と表記してあるとして、つまり魏志倭人伝の系譜に連なる諸本はすべて「壱」と記載されていることに着目した。

 これより、魏志倭人伝の原文の版本が「邪馬一国」としている以上これに従うべきであり、5世紀半ばの「後漢書」(著者はんよう)、7世紀の「梁書」、「北史」、「隋書」等の諸書が「邪馬台国」と表記しているのは誤りであると結論した。幾分ややこしいが、三国志の成立は3世紀後半であり、その底本が残って12世紀に「紹煕本」へと繋がっている。3世紀本の記述を5世紀、7世紀本で訂正するのは、概要「新しい時期の書物で古い時期の書物の記述を訂正したことになり、これを良しとするのは史学の常道に反する」と批判した。これを補強して、5世紀に「三国志」に注をつけた裴松之本が存在するが、裴松之は邪馬一国については何の注も加えていないのが、その証左であるとした。

 これを証明するとして次のように論証した。
 概要「三国志全体の中に『壹(一)』と『臺(台)』の字の使用例を抜き出したところ、『壹』の字は86箇所、『臺』の字は56箇所ある。『壹』と『臺』とは一見書体が似ているが、字義が違うので、『壹』の略字として『臺』が使用されることは有り得ない。実際に、『臺』が『壹』にされたり『壹』を『臺』と誤記されたものも一つもない。つまり、『壹』と『臺』は峻別されて使い分けられており、誤用も混用も無いことが分かる云々」。
 概要「倭人伝における「臺(台)」の意味は、元々「盛り土、高地」を意味していたがこれが転じて「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」を示している。いわば、「臺」は至高を意味する貴文字であり、従って、そうした至高文字が東夷の一国に冠されることはありえない。これに対して、「壱(一)」の意味は、「天子に対し、二心無く、相見(まみ)える」意の表現として使われている。その反対が「二(弐)」の意味で、「同盟からの離脱と他への二股的加入」意の表現として使われている。従って、悪徳的「二(弐)」の反対語としての徳目的「一(壱)」の意図的使用、つまり意図的に「邪馬一国」、「一与」として使用されていることをを窺うべきだとする。この観点から「魏王朝に対する、二心無き朝貢」としての往来と盛大な貢物の意味が理解し得るところとなる。

 つまり、概要「『台』と『壱』の旧字は一見似ているが厳密に使い分けられている。その意味するところが違う故に転写間違いというのは考えられにくい。従って、字形の似ていることによるうっかり転写間違いは有り得ない。従って、魏志倭人伝原文に邪馬『壹』国とあればその通りに読むべきで、邪馬『臺』国の書き誤りとして読むべきたということにはならない。邪馬壹国は字句通り邪馬壹国と読むべきだ」。

 古田はこうして、「邪馬台国」と了解する現行の三国志、魏志倭人伝の校訂は間違っており、「邪馬一国」とするのが正しいという見解を表わすこととなった。氏の説によれば、卑弥呼女王の都とする国は、「ヤマタイ國」ではなく「ヤマイ國」と読むことになる。この説はそれ以前にも阪本種夫、橋本郁夫により指摘されていたが、古田氏の様な考証を伴っておらず注目を受けることが少なかった。

 この古田見解を支持する成本氏は、「邪馬台国研究の歴史」の中で、次のように述べている。
 「古田氏がこの認識に達したとき邪馬台国論争の時代は終わり、邪馬一国の時代が始まった」。

古田説を廻る論争
 古田の「邪馬壱説」が学会に与えた波紋は大きく、従来「ヤマタイ」又は「ヤマト」の読み方に従って「大和、山門」等の音訳地名比定をしてきた基盤が崩れ去ることから、畿内説.九州説いずれを唱える者にも一大事となった。古田説には、和歌森太郎や佐伯有清、森秀人、小田洋、原田大六らが賛同見解を述べた。古田は、邪馬台国の位置そのものは博多湾周辺を比定している。邪馬台国か邪馬壱国かその古形を廻っての論争が始まり、反駁も多く未だに決着を見ない。

 古田説の方法は、中国の文字の用法を厳密に調べ上げてゆくという、今まで誰も試みなかったものであった為、多くの賛同者を得た。尾崎雄二郎氏の様に、古田説に組しないものの、「まことにあるかどうか、それを明らかにするのが研究者の仕事ではないのか」と、古田氏の主張の意義を評価する点については賛同も多い。むしろ、本来の「邪馬台-壱論争」の範囲を超えて、古田の果敢に応駁し一歩も退かない姿勢を貫く姿に属人的に古田を支持するものも多く、ある意味で在野の研究者対学界との対立図式ともなっている感がある。

 私説は、古田説を支持しないが、新井白石.本居宣長氏の研究以来邪馬台国論争は尽くされた感があるにも関わらず、榎の放射説同様云われてみれば明白初歩的なことに対し、これまで研究が為されていなかった不思議さを論点にしたことにつき、これを高く評価するものである。いわゆる在野史家が学界の盲点を衝き、より実証的な考証をしたことの功績が認められるべきであろう。

 但し、「邪馬壱国説」そのものについては、古田説にも拘わらず古田節の典拠する魏志倭人伝の最古写本(版本)の年代が12世紀のものであることを考えると、5世紀に成立した後漢書倭伝の「邪馬臺国」、7世紀に成立した梁書倭伝の「祁馬臺国」記述を否定することには難があるとみなすべきではなかろうか。「後漢書、梁書が成立した頃の魏志倭人伝は残っていないが、当時の魏志には邪馬台国と書いてあったのではないか。隋書には『邪麻堆、すなわち魏志に云う邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)』とあるので『タイ』と読むのが自然である」との反論が為されており、もっともな逆指摘と思う。

 問題は、議論されているのかどうか分からないが、れんだいこが目を通すところ、紹熙本、紹興本、汲古閣本、英殿本、北宋本等が「邪馬一国」と記すも、魏志倭人伝末尾の「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」に続く「因詣臺」の、「壹」と「臺」の明確な使い分けにこそ注目すべきだろう。これをどう解するべきかこそ議論せねばならないのではなかろうか。

 思うに、これをもって「邪馬一国説」を唱えるよりも、「臺」の持つ字義的な高貴さを理由として、朝貢して来る側の倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がうのは不遜不当と気づき、漢朝尊大主義の立場から南宋時代の写本者が敢えて意図的故意に「邪馬台国」とあるのを「邪馬一国」へと書き直したとも考えられるのではなかろうか。

 結果的に古田の「邪馬一国説」を否定することになるが、邪馬台国論争史上、「一」と「台」の違いを注目せしめた意義は不朽であると思う。いつか議論されねばならなかった箇所であり、これを採り上げ本格的に精査した古田史学の意義は大きいと評したい。

 2009.11.26日 れんだいこ拝
Re::れんだいこのカンテラ時評628 れんだいこ 2009/11/26
 【邪馬台国論争史上の「一、台論争」考】

 れんだいこは、先の「箸墓(はしはか)古墳を廻る新たな邪馬台国論考」で拍車がかかったか、久しぶりに邪馬台国論に色気づいてきた。このテーマは、れんだいこが学生運動に関わり始める前の関心事であり、今は散逸したがそれなりにノートしていたなつかしい思い出が詰まっている。こたび、気になっていた「一、台論争」につき、れんだいこ論を発表し、世の関心者の批評を請いたいと思う。れんだいこ結論は末尾に記す。

 1969年、当時一介の高校教諭であった古田武彦氏が「史学雑誌」に「邪馬一国説」を発表、研究者に衝撃を与えた。古田氏の論証は次の通り。

1、魏志倭人伝の原文が存在せず、 今日残っているのは全て後世の写本である。南宋時代の紹熙本、紹興本、それ以降の汲古閣本、英殿本(北宋本)等いろいろな版本がある。こうなると、どの写本が原文に忠実であるかを検証せねばならない。その結果、南宋時代の紹興年間に刊行された「紹興本」の後に刊行された同じく南宋時代の「紹煕本」がより正確最良本であるように思われる。ところで、「紹煕本」は無論のこと、写本のどれを見ても「邪馬一国」と書かれている。

2、「一」の古字は「壹」、「台」の古字は「臺」であり、似ているが厳格に使い分けられている。意訳概要「三国志全体の中に『壹(一)』と『臺(台)』の字の使用例を抜き出したところ、『壹』の字は86箇所、『臺』の字は56箇所ある。『壹』と『臺』とは一見書体が似ているが、字義が違うので、『壹』の略字として『臺』が使用されることは有り得ない。実際に、『臺』が『壹』にされたり『壹』を『臺』と誤記されたものも一つもない。つまり、『壹』と『臺』は峻別されて使い分けられており、うっかり転写間違い、誤用、混用もない」。  

3・概要「倭人伝における「臺(台)」の意味は、元々『盛り土、高地』を意味していたがこれが転じて『天子の宮殿及び天子直属の中央政庁』を示している。いわば、『臺』は至高を意味する貴文字であり、従って、そうした至高文字が東夷の一国に冠されることはありえない。これに対して、『壱(一)』の意味は、『天子に対し、二心無く、相見(まみ)える』意の表現として使われている。その反対が『二(弐)』の意味で、『同盟からの離脱と他への二股的加入』意の表現として使われている。従って、悪徳的『二(弐)』の反対語としての徳目的『一(壱)』の意図的使用、つまり意図的に『邪馬一国』、『一与』として使用されていることを窺うべきである。この観点から『魏王朝に対する、二心無き朝貢』としての往来と盛大な貢物の意味が理解し得るところとなる」。

4・魏志倭人伝の写本に「邪馬一国」と書かれている以上とあれば字句通りに読むべきである。従来式の「邪馬台国」呼称は間違いで、文献に従う限り正しくは「邪馬一国」とすべきである。5世紀半ばの「後漢書」(著者はんよう)、7世紀の「梁書」、「北史」、「隋書」等の諸書が「台」と表記しているのは誤りである。三国志の成立は3世紀後半であり、その底本が残って12世紀に「紹煕本」へと繋がっている。3世紀本の記述を5世紀本、7世紀本で訂正するのは、概要「新しい時期の書物で古い時期の書物の記述を訂正したことになり、これを良しとするのは史学の常道に反する」。5世紀に「三国志」に注をつけた裴松之本が存在するが、裴松之は邪馬一国については何の注も加えていないのが、その証左である。

5、「邪馬一国」とするならば、「邪馬台」即ち「ヤマト」の音訳による大和を宛がう形での所在地比定には根拠がない云々。

 こうして、「邪馬台国」と了解する現行の魏志倭人伝の校訂は間違っており、「邪馬一国」とするのが正しいとする「邪馬一国説」が登場することになった。氏の説によれば、卑弥呼女王の都とする国は、「ヤマタイ國」ではなく「ヤマイ國」と読むことになる。この説はそれ以前にも阪本種夫、橋本郁夫により指摘されていたが、古田氏の様な考証を伴っておらず注目を受けることが少なかった。

 それまで通説は、例えば、内藤湖南氏の「卑弥呼考」では、「邪馬壱は邪馬台の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」と、「台」説をとるのが良いとされ、すんなりと受け入れられて来ていた。従来「ヤマタイ」又は「ヤマト」の読み方に従って「大和、山門」等の音訳地名比定をしてきていた。この「常識通説」が、古田論証により覆され、大騒動になった。畿内説、九州説いずれを唱える者にも一大事となった。古田説には、和歌森太郎や佐伯有清、森秀人、小田洋、原田大六らが賛同見解を述べた。或る人曰く「古田氏がこの認識に達したとき邪馬台国論争の時代は終わり、邪馬一国の時代が始まった」。

 さて、その後どうなったか。邪馬台国か邪馬壱国かその古形を廻っての論争が始まり、反駁も多く未だに決着を見ない。

 古田説の方法は、中国の文字の用法を厳密に調べ上げてゆくという、今まで誰も試みなかったものであった為、多くの賛同者を得た。尾崎雄二郎氏の様に、古田説に組しないものの、「まことにあるかどうか、それを明らかにするのが研究者の仕事ではないのか」と、古田氏の主張の意義を評価する点については賛同も多い。むしろ、本来の「邪馬台-壱論争」の範囲を超えて、古田の果敢に応駁し一歩も退かない姿勢を貫く姿に属人的に古田を支持するものも多く、ある意味で在野の研究者対学界との対立図式ともなった感がある。

 以下、私説を申し上げる。れんだいこは、古田説を支持しないが、新井白石.本居宣長の研究以来邪馬台国論争は尽くされた感があるにも関わらず、榎の放射説同様云われてみれば明白初歩的なことに対し、これまで研究が為されていなかった盲点を論点にしたことにつき、これを高く評価するものである。且ついわゆる在野史家が学界以上に実証的な考証をしたことの功績が認められるべきであろう。

 但し、「邪馬壱国説」そのものについては疑問を投じたい。古田説にも拘わらず古田説の典拠する魏志倭人伝の最古写本(版本)の年代が12世紀のものであることを考えると、5世紀に成立した後漢書倭伝の「邪馬臺国」、7世紀に成立した梁書倭伝の「祁馬臺国」記述を否定することには難があるとみなすべきではなかろうか。原本が遺されていないので、こういう議論が生まれることになるが、察するに原本には「台」と書かれていたのではなかろうか。「隋書には『邪麻堆、すなわち魏志に云う邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)」とあるので『タイ』と読むのが自然である」との反論が為されており、もっともな逆指摘と思う。

 問題は次のことにある。既に議論されているのかどうか分からないが、れんだいこが目を通すところ、紹熙本、紹興本、汲古閣本、英殿本、北宋本等が「邪馬一国」と記すも、魏志倭人伝末尾の同じ一文にある「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」に続く「因詣臺」の「壹」と「臺」の明確な使い分けにこそ注目すべきだろう。これをどう解するべきかこそ議論せねばならないのではなかろうか。

 思うに、「邪馬一国」と記されているから字句通りに読むべきとするよりも、古田氏自ら解説する如く「臺」の持つ「至高の貴文字」性を理由として、朝貢して来る側の辺鄙な倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がうのは不遜不当と気づき、漢朝尊大主義の立場から南宋時代の写本者が敢えて意図的故意に「邪馬台国」とあるのを「邪馬一国」へと書き直し、この作法が伝承されたとも考えられるのではなかろうか。

 このことは逆に、辺鄙な倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がった魏志倭人伝原本筆者・陳寿の倭国観に興味が湧く。それは、ここでは問わない。

 れんだいこ説は結果的に古田氏の「邪馬一国説」を否定することになるが、邪馬台国論争史上、「一」と「台」の違いを注目せしめた古田史学の意義は不朽であると思っている。いつか議論されねばならなかった箇所であり、これを採り上げ本格的に精査した古田史学の意義は大きいと評したい。古田史学には、かく「通説の盲点」を衝く炯眼性がある思う。邪馬台国の位置を博多湾周辺に比定しているのは平凡としても、後に「日流外三郡誌(ツガルソトサソグンシ)」に着目するに至ったのもいわば必然であったように思われる。

 なぜ、古田史学に注目し始めたのか。それは、れんだいこの新邪馬台国論考の着眼に関係するからである。今や古代史学は大和王朝以前の、大和王朝勢力に潰された原日本王朝の解明に向かうべきであり、古田氏がその先駆的作業に手をつけていたと再評価するからである。この視点からの考証は未だ手つかずの状態にあり、邪馬台国論は出尽くしたのではなく、緒に就いたばかりという認識が欲しい為である。

 誰か、評してみよ。

 2009.11.26日 れんだいこ拝

【原田大六が「新方位論」を打ち出す】
 1969年、原田大六が「邪馬台国論争」を刊行した。方位論に新見解を打ち出し、次のように述べている。
 「太陽の出る場所は、わかりきったことだが夏至と冬至の間では約60度違う。もし冬の最中に帯方郡使がやってきて、太陽の出る方向を東としたら、実際の東は東北になる。南は東南になる。夏至近くにやってきたら、東は東南になり、南は南西になる。冬至と夏至では概略の方向は90度の相違にもなるのである。狗邪韓国から不弥国までの相違が、実際と約45度内外南よりに誤差が生じているのは、帯方郡使がやってききたのが夏であって、それに随行して記録をとったものが、方位を太陽の出る方向にしたので、そこに45度の差が出たのではないかということが考えられる」。

【その後の諸研究
 鈴木武樹は、唐代の「翰苑」という本に書かれているように「邪馬嘉国」が正しいという「ヤマカ國説」を唱えた。更に、女王卑弥呼の読みにおいても「ヒミコ」、「ヒメコ」、「ヒメゴ」等々の諸説が為されることになった。

 冨久隆は、魏志邪馬台の位置に関する考察で、邪馬台国に至る水行は川を航行することだと主張した。

 山尾幸久は、「日本古代王権の成立過程」において、放射説によって伊都国から「水行十日陸行一月」で大和へ行き着けるという大和説を唱えた。

 立石巌は、「邪馬台国新考」において、九州から黒潮を用いた航路で邪馬台国「熊野畿内説」を唱えた。

 熊坂利雄は「北陸説」を唱えた。原田大六氏は在野の考古学者であったが、福岡県糸島郡に住み地元の前原古墳を発掘し考古学に大きな足跡を残した。「邪馬台国論争」を 著し、邪馬台国大和説を展開している。

 他にも、重松明久の「邪馬台国の研究」や、山尾幸久、古田正隆、川野京輔、山田一雄といった 面々が自説を発表したが特に目新しい解釈は生まれていない。

 1970(昭和45).4月、三品影英が、従来の邪馬台国研究を総括した大著「邪馬台国研究総覧」を出版。従来の学説を網羅している。 

 1971(昭和46).11月、古田武彦が「『邪馬台国』はなかった」(朝日新聞社)を刊行する。

 1971(昭和46).年、石母田正が「日本の古代国家」(岩波書店)を刊行し、卑弥呼は国内に対する原始的な巫女の顔と、中国の動向に対する国際情勢を読む開明的君主の二つの顔を持っていたとした。それ故、魏が帯方郡を押さえたことに対応する形で、邪馬台国の三十国に対する支配が確立したと述べた。

 1972(昭和47)年、佐伯有清の「研究史邪馬台国」の刊行が邪馬台国研究を推進させる大きな力となった。その他、笠井新也は日本海航路による邪馬台国畿内説、志田不動麿は瀬戸内航路による畿内説を世に問うた。

高木彬光 (あきみつ)が「帆船航路による神湊到着説」を打ち出す
 1973年、高木彬光が「邪馬台国の秘密」(光文社カッパ・ノベルス)を著し、「帆船航路による神湊到着説」を打ち出した。この説も注目される。高木も又、自然地理学的な事実の認識の重要性を指摘し、魏の使節が訪れた時期の考察と使節が乗ったと思われる船とその航路の推測に情熱を傾け、次のように述べている。

 概要「対馬海峡、壱岐水道を経て北九州の海岸線の何処かに辿り着こうとする場合、現在の汽船であれば、望むなら直線コ-スをとることはできるが、当時の使節を載せた船は漕ぎ船又は帆船又はその併用型と想像され、この場合は順風に恵まれ、ごく近距離を航海する場合は別にして、普通は直線コ-スをとれない。特に決まった両地点の間を航海するというような時には、距離の伸びが当然のことになってくる。風向きの都合に左右される訳である。注意せねばならぬことは、今日においても朝鮮から北九州を経る水域は、航行が容易ではなく、経験的な知識を集積して、もっとも航海条件のいい順路を選ぶことが肝心となる程に風と海峡の流れの測定が大事な水域であるということである。赤道から日本に向かって北東に流れる海流は、九州本土にぶつかって黒潮と対馬海流に分かれる。古代の人々の航海感覚からすれば、かなりな激流を踏破する感じであったと推測される。現在でも風速が秒速15メートルの風となって来ると忽ち遭難の危険にさらされる。風速が秒速8メ-トルを越すと帆船の航行は危険にさらされる。史上元冦の二度の失敗が玄界灘の大暴風雨襲来に曝された歴史的事実を思い起こすとよい。魏の使節を載せた船は、適宜な季節の好き日をみはらかって「吹送流」(西または西南の風が吹くと風が海流の表面を後押しするような流れの現象となる)の助けを借りてやって来たに違いない。そうすると、使節の到着地点は自ずと定まる」。

 高木氏はかく述べて、末盧国を北九州北岸の「神湊」に比定することとなる。

富岡謙蔵が「古鏡の研究」を刊行
 1974年、富岡謙蔵が「古鏡の研究」(臨川書店時)を刊行し、三角縁神獣鏡を魏の鏡と考え、魏志倭人伝の中の「銅鏡百枚」に符合させた。

【大杉氏の「四国山上説」の登場】
 1977年頃より、大杉博が「四国山上説」を打ち出した。1977年、「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」を自費出版した。1979年、「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。その後も自費出版で自説の発表を続け、1992年、「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)を発表して、その成果を世に問うた。

 大杉は邪馬台国を阿波国内にとどまらず、四国の中央山地全体に広がる国だったとする。ただし卑弥呼の都城や陵墓、出雲国(狗奴国)などの位置については、古代阿波研究会の結論と共通しており、その意味では阿波説の一変種とみることができる。 これについては、「四国説考」で更に検証する。

 れんだいこは大杉氏の「四国山上説」に注目している。次のように批評されている。

 「いったん原典を離れてしまえば、邪馬台国がどこかという謎を解くのに、得手勝手な推論の横行が避けられない。まず自分の好きなところに邪馬台国を比定しておき、都合のいいデータだけを取上げ、都合の悪いデータには目をつぶってしまう風潮が跋扈することとなる。こうして幻の邪馬台国は、いたるところに姿を現わすことになる。客観性を欠く主観的な態度、独断的な論法の跋扈する様は、邪馬台国論争に限っては学問的態度は不要であるやに見える程である。中には、比定を廻って特許論争まで起こしてしまう有様となった。又在野の史学者の指摘について黙殺されることも忍びない。或る説を唱えた者が権威があるや無しやの評価に関わらず、指摘された説に対する真摯な討論というものが許容されないものであろうか。特に、このところにわかに浮上して来た感のある大杉氏の「四国説」についても同様に思うのである」。

【安本美典「『邪馬壱国』はなかった」】
 1980年、安本美典が、古田武彦の「邪馬台国はなかった」に続いて「『邪馬壱国』はなかった」を刊行する。古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」を意識して批判を加え、ここに九州説同士の激しい論戦が始まった。

【中国の王金林が「九州邪馬台国と原大和国の併存論」打ち出す】
 1981年、王金林は、邪馬台国は北部九州にあったが、これと同時に畿内にも同じような発達した国家前大和国が併存したとの説を発表した。つまり、邪馬台国が存在すると同時に、日本列島にはまたその発展の程度が似た一、二の地域国家が存在したと主張した。この併存説はこれからの研究の主流になる可能性がある。

【その後の邪馬台国研究】
 1986年、松本清張「邪馬台国 清張通史(1)」(講談社文庫)。

 1992年、古田武彦「邪馬台国はなかった」(朝日文庫)。

 1992年、中国の考古学者である王仲殊が「三角縁神獣鏡」(新潮社)を著わし、三角縁神獣鏡を東渡した呉の工匠により日本で制作されたものであると発表し、衝撃を与えた。

 1995年、山形明郷氏の「邪馬台國論争終結宣言」(星雲社、1995.5月初版)。

 1996年、邦光史郎「海の邪馬台国」(祥伝社ノンポシェット)、黒岩重吾「古代史への旅」、「古代史浪漫紀行」(講談社文庫)。

【「東日流外三郡誌実書偽書騒動事件」】
 1975年から1977年にかけて、和田喜八郎が「市浦村史資料編」として「日流外三郡誌(ツガルソトサソグンシ)」を紹介した。昭和薬科大学教授となっていた古田武彦氏が、「古代、津軽の地に大和政権に対抗する東北王朝があった」として和田氏公開の「東日流外三郡誌」の実書説を説き始めた。これに対して、古田氏の論敵である安本美典氏が偽書説を展開し、二人はその後も雑誌の討論、NHKTV討論等でバトルを続けた。その後、古田は東北王朝の存在証明に向うも、 稚拙な偽作問題に関わって歴史家としての信用を失墜してしまう。この間、古田氏の主宰していた「市民の古代研究会」は解散し、雑誌は終刊となる。

 安本氏が編集長をしている「季刊邪馬台国」52号(梓書院)の一大特集「虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』」の冒頭、谷川健一氏の一文は次のように述べている。
 「これだげ証拠をつきつけられると、これを偽書でないと反論することはまず不可能である』『文章も文法も目茶苦茶で、拙劣、醜悪の限りをつくしている。偽書とLては五流の偽書、つまり最低の偽書である」。

 1995.4月、安本美典氏が「虚妄の九州王朝 独断と歪曲の『古田武彦説』を撃つ 」(梓書院)を著し、「東日流外三郡誌」を偽書と断定し、実書説を展開する古田氏を手酷く難詰した。「はしがき」次のように述べている。興味深い所論なので転載しておく(文意を変えない形で編集替えした)。
 「今日、ほとんど詐欺事件といってよい『東日流外三郡誌』にまつわる数々のインチキとペテンとが明らかにされている。(拙著『虚妄の東北王朝ー歴史を贋造する人たちー』[毎日新聞社刊]、安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』[廣済堂出版刊]、および『季刊邪馬台国』51、52、53、54、55号の特集記事参照。)

 偽の古文書、『東日流外三郡誌』を、本物だと信じこんで、その内容に感激し、『真実の東北王朝』なる本を書いた人がいた。昭和薬科大学教授の、古田武彦氏である。この程度の、三流、五流の偽書が、偽書とわからぬようでは、学者失格というほかはない。「偽書」をもとにして書いた本を、『真実の東北王朝』と名づける。「真実」が泣く。そして、これだけ証拠がつみかさねられた今でも、古田武彦氏は、『東日流外三郡誌』が本物であると主張してやまない。「偽」の歴史を、「真実」であると主張するなら、それは、歴史の贋造である。

 日本が、第二次世界大戦でまけたあと、ブラジルで、「日本は戦争に勝ったのだ」と主張してやまない日系の人々がいた。いわゆるブラジルの「勝ち組」とよばれた人々である。「勝ち組」の人々は、「日本は、戦争にまけたのだ」という人々に、執拗な攻撃を加えてやまなかった。今日、古田氏らの主張は、その妄想性において、ブラジルの「勝ち組」とほとんど変らないものとなっている。学問的には、もう決着がついているといってよい。しかし、「東日流外三郡誌事件」以後でも、古田氏が講演会をひらけば、ときに、百人、二百人の人が集まるという。

 これまで、古田氏を支持してきた人々のなかにも、「古田ばなれ」をした人たちもすくなくない。しかし、外部の情報を遮断し、ひたすら、古田氏の述べることのみを信ずる人々によってささえられている「古田武彦と古代史を研究する会」「『多元的古代』研究会」「古田史学の会」などは、活動をつづけている。『東日流外三郡誌』口偽書説に対する批判攻撃がおこなわれつづけている。古田教という宗教的ドグマにもとづく、狂信者の集団というほかはない。

 古田武彦氏のような誤った結論、結実をもたらしたのは、古田武彦氏の「学問の方法」という「もとの木」そのものが良くなかったからである。私たちは、『東日流外三郡誌』事件以前にも、たびたび、古田氏が、事実に関するあまりにも明白な誤りを、あまりにも強引にくりかえしおし通そうとすることが多いことを指摘してきた。古田武彦説の本質は、「事実」や、「真実」ではなく、コピーライター顔まけの「名文」による「センセーショナリズム」である。マス・コミは、「センセーショナリズム」に弱いという体質をもっている。センセーショナルであれば、本は、売れるからである。

 マス・コミが、信念的発言やセンセーショナリズムに弱いことは、戦時中の報道をみれば、よくわかる。マス・コミ報道に対しては、よほど用心しないと、とんでもないところにひっぱりこまれてしまう。「この道は、いつか来た道」という歌詞がある。自信ある態度、高圧的言辞、まくしたてる弁舌、くりかえされるシュプレヒコール。かつて、私たちは、このようなプロパガンダの方法にであったことはなかったか。むかし、こんな人がいた。その人はポーランドにみずから侵入しながら、ドイツ住民に対するポーランドの残虐行為を発表しつづけた。はじめから破る予定であったとしか思えない独ソ協定を結んだ。その行動は、たえず矛盾していても、語ることばは、迫真力をもっていた。小ヒットラーは、いつの時代でも、どの世界にもいる。警鐘は、ならしつづけられなければならない。「科学」というものは、その歴史上、古田武彦氏のような、ものすごいドグマと、戦いつづけてきたのである。

 私がこの本を書いたのは、つぎのような意図にもとづく。
  1. 古代史の研究にたずさわる以上、古代史についての科学的な研究とは、どのようなものであるかを、ねばり強く説く必要があると思われること。つまり、科学的な研究を顕現させ、普及させるよう努力することは、研究にたずさわるものの義務と思えること。

  2. 地道な雑誌などに発表された三木太郎、奥野正男、白崎昭一郎、その他諸氏の、すぐれた研究を、一般の読者にもわかりやすい形で、まとめて紹介する必要があるように思われること。

  3. 論争を通じて、古代史についての、多くの事実が、あきらかになるように思われること。科学というものは、多くの先人たちの、粒々たる、そして時には、結果的にむなしい努力の末に、しだいに顕現してきたものである。
 私のこの本は、あらぬ非難を、他へ投げかけるためにあらわしたものではない。誤った知識は、世にひろめられるべきではない。私は、この本を、心をつくして、古代史研究における「科学」の顕現をめざして書いた。意のあるところを、おくみとりいただければ幸いである 」。
(私論.私見)
 この「古田-安本バトル」について思う。「安本氏の言は良し。されど古田氏の感性は更に良し」。「古代東北王朝説」に至った古田氏の学問的帰結の方が、より学究的なのではなかろうか。和田氏の公開した「東日流外三郡誌」の直接本が偽書であろうがなかろうが、「古代東北王朝説」そのものの価値は高い。安本氏が為すべきは、「古代東北王朝説そのものの否定」であろう。だがしかし、「古代東北王朝説」を否定し得るだろうか。れんだいこはむしろ逆に、「古代東北王朝説」をもっと精査して行くべきだと思う。ということは、「古田氏の炯眼」をこそ思う。

 1999.9.14日、和田は、肝心の「東日流外三郡誌」の「原本」の発表を拒んだまま死去。死後、和田家はくまなく調査されたが原本は発見できなかった。古田は、和田の死去に際して「古田史学会報」(1999.10.11日、No34)において「和田喜八郎氏に捧ぐ」を掲載している。次のように述べている(文意を変えない形で編集替えした)。
 「和田喜八郎氏に捧ぐ 古田武彦  --一九九九、九月二十八日、午前四時、永眠---

 和田喜八郎氏の訃報に接した。言葉もない。その日がいつか来ることを、お互いに知っていた。否、お互いに、いつも言い合っていた。『お互い、そんなに永くはないからな」。朝の挨拶、夕の挨拶のように、何かあると書いた。電話で話していた。しかし、今は言葉もない。貴方と(もう、こう呼ばせてほしい)はじめて会ったのは、石塔山だった。貴方はいつものくせで、あぐらを組み、斜めにわたしを見上げるようにしながら、言った。『絶対に---裏切るなよ』と。

 あれから十余年、今日まで、わたしは一回も貴方を裏切らなかった。お互いにきびしい言葉は投げたが、背を向けなかった。世間の一人々々が、たとえみんな、貴方を疑ったとしても、わたしは貴方を信じた。信じ通した。貴方が知って、の通りだ。

 無論、貴方には欠点も多かった。貴方御自身、御承知の通り。酒は浴びるわ、突然消えるわ、大言壮語で煙(けむ)に巻くわ、早くから『うその八ちゃん』の異名をもらっていたことを、永年の、貴方の知友から聞いた。

 わたしには、分る。分りすぎるほど分る。その異名のいわれが。いつもながらの、貴方の、あのやり方、あの放言だから、そう言われても、何の不思議もない。わたしはそう思った。疑えない。けれども、ちがった。貴方はわたしに対して、ちがった。それも、ギリギリの一つ。和田家文書そのものに関して、一切『うそ』を突いたことがない。決してあの『うその八ちゃん』ではなかった。お互いに、見、お互いに聞き、お互いに言 ってきた、この十余年の経験から、わたしにはそれが断言できることを誇りに思う。

 お互いに、欠点の多い身だ。他人(ひと)様にも迷惑はかけ通しだった。生きている限り、これからも、そうだろう。だからこそ、貴方とわたし、二人の中の一本の線、人間の真実のつながりを、わたしはみずからの人生を終えたあとも、『限りなき宝』と言い切ることができるだろう。深い幸せだ。

 二

 貴方は中傷に囲まれていた。誹謗は日常茶飯事だった。貴方の身のまわりから、あることないこと書き集め、『証拠資料』のように各所に送りつける輩(やから)もいた。わたしにも送られてきた。それはとても、口にすることもおぞましいほどの中傷だった。わたしもさすがに、その内容を貴方に告げることができなかった。

 やがて、貴方から、その『証拠書類』のことを聞かれ、それを見せた。貴方は怒り狂った。関係者を召集した。もちろん、それは虚言だった。泣いて、あやまられた、と貴方は言った。もちろん、わたしははじめから、そんなこと信じなかった。貴方と貴方の御家族を見ていれば、それが分った。

 けれども、ある人々には、それで十分だった。その『証拠資料』を各所に発送して、貴方の身の囲りの人々や古代史の会の人々を『分裂』にもちこめれば、それで足りた。『証拠資料』の真否など、はじめから問題ではなかった。そういう人々だった。そのような中傷や誹謗につつまれてすごした、貴方と貴方の家族、そのことを思うと、わたしの心はふるえた。いつもふるえつづけていた。その心がわたしの内奥から、わたしの情熱をかきたててくれた。屈せぬ心を育ててくれた。貴方とわたしの絆(きずな)を深く、深く、さらに深くへと深めてくれた。わたしたちは、あの中傷者たち、誹謗者たちに対して、その点では感謝すべきかもしれぬ。

 三

 しかし、許せないもの。それは、貴方のお子さんやお孫さんたちへの中傷の連鎖、誹謗の包囲網だった。それによって、どれだけ鋭く、どれだけ深く、若い魂が、女性の心が傷つけられたか。働きざかりの男がどれだけ、天を仰いで嘆かねばならなかったか。それを思うと、暗然とする。天地が真っ暗となってしまう。『なぜ』。『なぜ、そんなことができるのか』。人間という動物の中の、どす黒い獣性とみにくさに、暗然とする。

 しかし、負けてはいけない。決してくじけてはならない。そう思って、わたしは書きつづけた。裁判のための文書も、一字一字を紙の底深く、彫りつけた。それはわたし自身にとっても、わたしが人間であることの証(あか)しとなった。

 四

 貴方の深く愛する母上様が亡くなられてから、貴方の環境は、大きく変った。今までは、善きにつけ、悪しきにつけ、明快だった。ことに処して、迷いがなかった。決断しつづけてきた。それが貴方の築き上げた、カリスマだった。

 それが変った。晦渋となった。わたしのストレートな問いに、なかなかストレートに答えなくなった。否、それは、おそらく貴方ひとりのせいではないであろう。和田家一族の長としての苦悩。わたしには、そう思えた。いたましかった。

 だからこそ、この一年。それについてはいまだ語るときではないかもしれないが、或るときは、明快。或るときは晦渋。或る人にはAの答、或る人には、Bの答。人を迷わせはじめた。今までの貴方に、ない姿だった。見る人が見れば、『やはり、うその八ちゃん』と見えたことであろう。昔からの姿の復活、と観じた人もあろう。しかし、わたしはちがった。その貴方の声の中に『深い悲しみ』と『深い迷い』を感じた。『これでは、酒量がふえているだろうな』。そう思った。その危惧は、不幸にも当たっていた。『八ちゃん』なら、こんな悩みはなかった。

 五

 もう、止めよう。貴方にまた『出て行け』などと怒鳴られるからな。もっとも、今、この世から出て行くとしたら、また貴方とバッタリ会う。それも、いいか。

 もっとも、いそぐことはない。どうせ、二人は会うのだ。会って、深い、深い握手をするのだ。それまで、貴方の『頼み』を片づけなくちゃ、な。もちろん、あれだ。末吉さん、長作さんの苦心の結晶、あの写本群とじっくり取り組もう。何しろ『毎日日曜』の有難い身だからな。後世の研究者のために、少しでも確実な、少しでも役に立つ、道をつけておくのだ。

 『寛政原本』だって。もう、いい。『照顧脚下』、今、わたしにできることを、専心やること、それに尽きている。貴方の御遺族方もみんな『人間の心』を心の奥深くもっておられる、すばらしい方々だ。やがて人類の最高の遺産の一つとして、それは輝く姿を現すことだろう。わたしの人生が、それに間に合うかな。わたしの守護霊よ、喜八郎さん。四六時中、見守っていてくれ。頼む。一九九九、九月三〇日、記」。

 2006年、古田は新たな証拠として東日流三郡誌の「寛政原本」を発見したとして公表した。しかし公開されたその文書は、以前発表された「和田喜八郎の祖父である末吉による写本」と筆跡が一致していたとされる。

 2007年、これまで存在すら知られていなかった「東日流内三郡誌(つがるうちさんぐんし)」の原本が発見された。「内三郡誌」は、「外三郡誌」に比べてさらに重要な内容が記されており、より大きなインパクトを秘めている。「寛政原本」、「内三郡誌」の鑑定は今後の課題となっている。

【広畠輝治氏の吉備説登場】
 2002年、在野の歴史研究家・広畠輝治が「邪馬台国 岡山・吉備説から見る古代日本の成立」(神無書房、2002.4.15日初版)を刊行した。続いて2009年、「邪馬台国・吉備説 神話編」(神無書房、2009.1月初版)を刊行した。「邪馬台国吉備説」の立場から精力的な邪馬台国研究に着手している。

【れんだいこの邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説の登場】
 2009年、在野の歴史研究家・れんだいこが、「邪馬台国=出雲―アイヌ蝦夷連合王朝説」を打ち出した。これによれば、邪馬台国と大和王朝は異系の関係であり、大和王朝権力の御用史書である記紀を通じては邪馬台国論は解明されない、隠された裏史実から掘り起こすしかないということになる。この観点こそ、従来の邪馬台国研究の限界から出藍するものであり、ここに邪馬台国研究の新たなページが開かれたことになる。












(私論.私見)