| 出雲王朝史1、元出雲−原出雲王朝史考 | 出雲王朝史考 |

| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 出雲王朝神話は、記紀神話と出雲風土記により構成される。記紀神話では出雲の神々は劣性に語られるのに比して出雲風土記では出雲の神たちの生き生きとした姿が見られる。出雲王朝史を確認すると、1・元出雲、2・ヤツカミズオミヅの命の国引き譚による原出雲、3・スサノウ来航譚、4・スサノウのヤマタノオロチ征伐譚、5・スサノウ王権譚、6・大国主のイナバノ白兎譚、7・大国主の迫害譚、8・大国主のスサノウ王権継承譚、9・大国主の出雲王朝創始譚等々から成る。以下、これを検証する。 れんだいこ独眼流史観によれば、出雲王朝は、元出雲、ヤツカミズオミヅ原出雲、スサノウ出雲の出現による原出雲とスサノウ出雲の鼎立、大国主による統一出雲と云う風に4段階の発展を経ているように思われる。この見立ては今後の出雲王朝研究の際に大いに役立つであろう。留意すべきは、これらは皆「古代出雲」と一括されていることである。れんだいこ史観によれば正しくない。古代出雲は上記の流れの変遷史として受け取らねばならない。漠然と古代出雲とすべきではない、どの時点の古代出雲かを確認しながら論ぜねばならないと云うことである。 ここでは元始まりの元出雲、続くヤツカミズオミヅの命による国引きより生まれた原出雲時代の様子を確認する。 2008.4.10日 れんだいこ拝 |
| 【出雲地方の自然環境】 |
| 出雲の国の自然は、北から半島、湖沼、平野、山地と見事に配置されている。これらが互いに照応しながら出雲国の独自な風土を作り出したものと思われる。出雲の語義を「むくむくと雲の湧き立つ」意味と受け取れば、まさにそのように出現したのがこの地であった。古代、海洋こそが流通の道であった。島根半島は、入海、内海や潟港が対馬海流に乗せて遥か彼方から交流をもたらす格好の良港となっており、逸早く外来文化が流入したものと推定できる。出雲は東の意宇と西の杵築に分かれ、良港、平野、山地、良質な砂鉄の産出に恵まれ競い合うように文化圏を形成したと推定できる。大和王朝前の時代において、出雲は古代日本の歴史と文化の重要な地であった。 出雲の神話(出雲国風土記の国引き神話など)や文化(出雲系信仰と習俗など、出雲は宗教王国)を出雲という一地方のローカルな歴史と文化としてみるだけでなく、環日本海文化圏というグローバルな視点から見ると、出雲が日本海沿岸の国や地方と強く深く交流をもっていた先進の文化を持つ国(古代出雲王国)であったことを窺い知ることができる。出雲は独自な歴史と文化を持ち続けた地であり、神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、巨木文化を伝える出雲大社、四隅突出型墳丘墓、管玉・勾玉などの玉作り文化等が名残を伝えている。 大和朝廷の創建過程で出雲との緊張関係が生まれ、出雲王朝は徹底的に侵略される憂き目に遭っている。国譲り譚、倭建命の出雲建征討譚、出雲振根と飯入根の説話譚等がこれを伝えている。 |
| 【「元」出雲考】 |
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出雲王朝神話は、国引き神話譚から始まる。それによると、古代出雲王朝は、元々、出雲東部の意宇の郡(おうのこうり)(現在の島根県松江市、安来市周辺)から始まる。ここを踏まえなければ出雲王朝政争史が見えてこない。これを仮に「元出雲王朝」と命名する。 丹波の現在の京都府亀岡市千歳町出雲に「出雲大神宮」があり、「元出雲説話」を伝えている。これによると、元出雲は丹波ということになる。丹波国風土記には、概要「奈良朝の初めの元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり」との記述があり、「当宮に古来より元出雲の信仰があります」と云うことになる。説話によると、出雲大神宮は単に元出雲の神宮ではなく、大八洲国祖(おおやしまくにおや)の神社であると云う。(「ウィキペディァ出雲大神宮」_、「出雲大神宮」、「出雲大神宮」参照) してみれば、元出雲は丹波から始まり、出雲東部の意宇の郡(おうのこうり)へと勢力を伸ばしたことになる。その後、出雲西部にスサノウ王朝が生まれ、その両方を治める大国主の命王朝へと至ることで出雲王朝が完結する。こういう流れになるのではなかろうかと思われる。 |
| 【出雲の国引き神話譚】 | |||||||||||||||
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「元出雲王朝」の時代、八束水臣津野命(ヤツカミズオミヅの命、意美豆努命とも称される)が活躍し、「国引き」による連合国家が形成されている。これを語るのが「国引き譚」である。れんだいこ独眼流史観によれば、「元出雲王朝」は「国引き」により次の発展段階に向かう。これを仮に「原出雲王朝」と命名する。それによると次のようにして、「原出雲王朝」が形成された。ちなみに記紀は記していない。出雲風土記が冒頭で記している。 ヤツカミズオミヅの命は或る時、次のように詔(みことのり)した。
これによると、元出雲の時代は、「八雲立つ出雲」からして八カ国による豪族国家の連合王朝であったことになる。いずれの豪族国家も「若く小さい」ものであったとも記されている。これを踏まえて、ヤツカミズオミヅの命が、「出雲の国を縫い合わせて大きくしよう」と宣言したことになる。ヤツカミズオミヅの命は、大縄で対岸の岬を引き寄せる「国引き」をして原出雲の国造りを始めた。かく理解すべきではなかろうか。 「国引き」は極めて雄大にして宏壮な構想であった。出雲風土記が次のように記している。
要するに、出雲国を作り上げるのに、神様が、「国こ、国こ」の掛け声と共に国引きをするのに次の四カ所から国を引っ張ってきたという。
つまり、石見の佐姫山(三瓶山、さんべさん)と伯耆の火神岳(大山、だいせん)を杭とし、西は薗の長浜と東は夜見ケ浜(米子から境港に長くつき出た砂嘴の半島)を引き綱として、これに掛けて新羅の海の彼方から国を引いてきて縫い合わせたという。 ヤツカミズオミヅの命は、国引きを終えると、「今はもう、国を引き終えた」と述べ、意宇の社(やしろ)に御杖を突き立てて、「おゑ」と声を発した。これにより、この地を「意宇」というようになった。これが「意宇」の地名故事である。出雲風土記は、ヤツカミズオミヅの命が、島根と名称したと記している。 |
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| 「出雲の国引き神話譚」は、古代出雲の始発的国家形成を語っていると受け止めるべきではなかろうか。仮にこれを原出雲と命名するとして、国引きの四方は、原出雲形成に於ける国土の領域と連合政権ぶりを暗喩しているのではなかろうか。「出雲の国引き神話譚」によれば、「原出雲王朝」は、朝鮮の新羅・慶州近辺、隠岐島、出雲西域から東域、越前・越中・越後の越三国まで及ぶかなり広域な日本海王朝であったことになる。スサノウ渡来前の原出雲史として踏まえておく必要があると思われる。 2008.4.6日 れんだいこ拝 |
| 【「原」出雲=東出雲王朝考】 |
| 国引きにより合衆国化した原出雲は、スサノウ渡来以前と以降により大きく変質する。スサノウ渡来以降の変化は次章「出雲王朝史2、スサノウ出雲王朝史考」で確認するので、以前の出雲の様子を確認しておく。その経済は、狩猟ー採集中心の縄文文化であった。 ヤツカミズオミヅの命による国引きにより原出雲が創始され、出雲が大国化した。特徴的なことは、この時点でも首長連合国家であったことにある。元出雲から原出雲へ発展することにより、出雲王朝は、八十神(やそがみ)と云われる在来の族長達の連合国家となった。神話上、この時代の出雲が、記紀神話で「根の堅国」、「母の国」等々と表現されているように思われる。
特徴的なことは、この時代の元出雲、原出雲はいわゆる東出雲であり、サ姫山(三瓶山、さんべさん)と火神岳(大山、だいせん)間の裾野に開けた一大政治経済文化圏ではなかったかと考えられる。これを仮に「東出雲王朝」と命名したい。 |
| 【熊野大神、佐太大神、野城大神考】 |
| 起源1世紀半ば頃の「元出雲」は、各地の首長がそれぞれの神々を祀っていたように推定される。「元出雲」の時代の出雲は、熊野大神、佐太大神、野城大神と云われる三柱の大神を核としてそれぞれ独立的に統治されていたと推定される。それぞれが、日本古来の信仰の原点である1・精霊信仰、2・祖霊信仰、3・首長霊信仰に基づく祭政一致政治を執り行っており、元―原出雲時代の共同体の土着系護り神にして名君的指導者であったと推定できる。 熊野大社の最高神はクシミケヌ(櫛御気野命、奇御食主命)で「熊野大社(出雲)考」に記す。佐太神社の最高神は佐太大神で「佐太神社考」に記す。ここでは「野城大神」を確認する。 野城大神(のぎのおおかみ)とは、安来市能義町の能義(のぎ)神社の祭神。733年に撰上された出雲風土記の野城の驛の条に「野城の大神の坐ししに依り、故、野城と云う」と記されている。967年に制定された「延喜式」の神明帳には「野城神社(のぎのかみやしろ)」と記載されている古社である。 同社の由緒には、「当社のご祭神は天照大神の第二子、天穂日命であります」、「出雲の國人達は四大大神、つまり出雲大神、熊野大神、佐太大神とならんで能義大神とその神名を称え尊崇されてまいりました」と記されており、国譲り前の由緒と国譲り後のそれが二重記載となっている。天照大神の第二子にして、「国譲り」後に高天原から遣わされた最初の神で、後の出雲国造の祖神となる天穂日命を祭神とするのは「国譲り」後の応法的変化と考えられる。元々は意宇郡東部の有力な地主神として信仰されてきた能義大神そのものを祀る神社であったと推定したい。なお、野城大神は記紀に全く登場しない。このことは、元―原出雲時代の土着神であり政治的な立ち働きが殆どなかったことを意味していると思われる。 |
| 「熊野大神、佐太大神、野城大神」を祀る熊野大社、佐太神社、能義神社それぞれが、その後の歴史的経緯で祭神を変えたり複雑にしている為に、今日となっては元出雲、原出雲時代の「熊野大神、佐太大神、野城大神」の復元が難しい。窺うべきは、当時の信仰の在り方、祭神の祀られ方、それぞれの国の動向であろう。これは推理するしか方法がない。問題は、どう推理するかである。見立てが間違えば全てが水泡に帰す。見立てが正しければ目からうろこが落ちるように次から次へと歴史が見えてこよう。 2011.7.16日 れんだいこ拝 |
| 【「原」出雲とスサノウ出雲の鼎立と抗争考】 |
| その原出雲にスサノウが渡来し、対抗するかの如く西域にスサノウ王権を創り上げ、大国主の命がそれを後継し、出雲王朝を創出する。そして国譲りへと至るように思われる。 |
| 【小泉八雲の出雲王朝観考】 | ||
| 1890(明治23)年、世界の文豪にして日本古代史に魅せられたラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn、1850.6.27ー1904.9.26、英国人を父、ギリシャ人を母とし、ギリシャで生まれた)が日本に魅せられ来日する。島根県松江尋常中学校と松江師範学校の英語教師に命じられ、8.30日に松江到着。同年9.14日、出雲大社に参拝。1891年、松江藩の士族小泉湊の娘・小泉節子と結婚する。1896年、東京帝国大学文科の英文学講師に就任。帰化し、スサノウの命の詠んだ「八雲立つ出雲八重垣」にちなんで「小泉八雲」と名乗る。1903年、東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)。1904.3月、早稲田大学の講師を勤め、9.26日に狭心症により東京の自宅で亡くなった(享年54歳)。 神話の地・出雲に住み着いて伝統的な日本文化を研究した小泉八雲は、出雲王朝に対して次のように述べている。
「日本印象記」の中で次のように述べている。
「杵築」というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官の出雲国造と対面した感想を、「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)を思わせる」と、そのときの印象を感動的に述べている。さらに「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」と述べている。 |
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| 小泉八雲の出雲王朝観は、出雲大社系の出雲神道を念頭に置いているが、さらに前の元―原出雲王朝までをも視野に入れての感慨と思えば良い。実に的確な出雲王朝観であるように思われる。 2011.7.16日 れんだいこ拝 |