出雲王朝史2、スサノウ出雲王朝史考



 (最新見直し2011.07.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 出雲王朝は、元出雲から始まり、ヤツカミズオミヅ原出雲の次に西出雲にスサノウ出雲を生む。この時代は、原出雲とスサノウ出雲の鼎立時代であり、両者が競うようにして国家経営に励む。これを確認する。

 2008.4.10日 れんだいこ拝


【スサノウ来航】
 スサノウは、古事記ではタケハヤスサノウ(建速須佐之男)の命、日本書紀では「素盞鳴尊」と表記されている。(須佐之男命・素盞嗚命・素戔嗚尊)

 スサノウは、高天原系の出自であるが、天照大神の不興を買い高天原を追放された。そのスサノウが辿り着いたのが原出雲である。スサノウは、出雲渡来前に大ゲツ姫神譚で示唆されたように蚕(かいこ)と稲、粟、小豆、麦、大豆の五穀の種を手に入れている。スサノウは、その大ゲツ姫神を殺害した後、異聞として子のイタケルの神と共に新羅に降りている。ソシモリに暫くいたが、「この地には住みたくない」と発して土の舟をつくり出雲に向った、と云う。

 ということは、高天原を追われたスサノウは、蚕(かいこ)と五穀の種を持って出雲に渡来したことになる。ここから弥生出雲とスサノウ系出雲王朝史が始まる。見方によれば、スサノウ系出雲王朝は、高天原王朝による原出雲王朝征服の第一弾であったことになる。しかし、抗争しつつ同化する。これが日本史を貫くDNAであるように思われる。

【スサノウ考】
 「スサノヲ」という名前についても古来幾多の解釈がなされてきた。スサついては、出雲国風土記の飯石郡須佐郷には、「この国は小さい国だがよい国だ。自分の名を石や木に留めるのではなく、土地の名に留めよ」とあり、スサノヲは須佐の土地の男としている。スサノヲのスサは荒れすさぶる男という意味を込めているとする国学の本居宣長の説もある(スサという言葉の響きが「すさぶる」を連想させ、高天原で乱暴狼藉を働く出雲系の神とする物語が作られたのかもしれない。そうすることにより、朝廷はオオクニヌシ命をスサノヲ命の子孫として位置付けることができることになる)。

 他には、スサノヲのスサは朝鮮語で巫の意味で、シャーマン(古来より、シャーマンと鍛冶部は関連がありそうだ)を表すススングに由来するとし、ススングがスサヲとなったとしている(渡来した鉄の神)。これによると、スサノヲ命は朝鮮半島から渡来した新羅系の蕃神(外来神)であり、飯石郡須佐がスサノヲ命の出雲における本貫地であるとすることになる。そこから、スサノヲ命を祖神とする集団の勢力が大原郡、神門郡へ伸び、一部意宇郡や島根郡へと及んだとしている。

 「古代出雲王国-スサノオの光と影-1  谷田茂」は次のように記している。
 「島根県平田市。ここにある宇美神社は出雲風土記の中で、スサノオの生誕地と記されている。この地は新羅からの移民が数多く渡ってきたところで、スサノオが新羅の王であったとされる。今も出雲弁は周囲とは全く異なった方言であることからも、特殊な地であったことが分かる。この地の北方に連なる島根半島一帯は、古代の大産銅地であった。さて、ここで数多くの銅矛や銅鐸が生産され、全国に広がる、連合王国、古代出雲王国の首長たちに配られたことは想像に難くない。古代出雲王国は連合王国であったが、その範囲は北九州から東北以南まで、東は関東まで広がる。それは、スサノオを祀る神社が日本中に散らばっている事からも確認できる」。

 出雲国風土記に登場するスサノヲ命は、おおらかな農耕的神である。しかし、記紀神話に登場するスサノヲ命は巨魔的な巨大な神として登場する。この落差は一体何を意味するのであろうか? しかも、記紀神話のスサノヲ命は、高天原、葦原中国(出雲)、根の国(根之堅州国)と三界に登場する特殊な神として登場する。スサノヲ命は、記紀神話の中で、この三界を繋ぎ、その中でも、出雲の神々を高天原の神々の下に位置付ける(天津神と国津神を分け、日本を天津神の支配とする)という大きな役割が科せられているようにも思える。それは、記紀神話の中の出雲系神話と出雲国風土記や出雲国造神賀詞の出雲神話の説話の内容の違いからも窺うことができる。

【ヤマタノオロチ譚】
 スサノウは、出雲の国の肥の川(現在の斐伊川)上流の鳥髪の船通山(1143m)にやってきた。古事記は「故、避追はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき」と記す。この地は、大砂鉄地帯で且つ原出雲の西域に位置する。つまり、東部の原出雲ではなく、西部に降り立ったことになる。次のように語られている。
 この時、川上より箸が流れてきた。スサノオは、誰か住んでいることを知り訪ねると、オオヤマツミの神の子のアシナヅチ、その妻テナヅチの神が娘のクシナダ姫を抱いて泣いていた。スサノオが訳を尋ねると、老夫婦には元々8人の娘が居たが、山奥にいるヤマタノオロチ(八俣大蛇=、岐大蛇、八俣遠呂智)という大蛇が一年に一度出てきて娘を食べ、今ではクシナダ姫一人になっており、この娘もまもなく食べられてしまうとの話を聞かされた。古事記は次のように記している。「是の高志の八俣のをろち年毎に来て喫へり。今、其の来べき時なるが故泣く」。

 オロチの姿形は、体が八つの谷、八つの丘にまたがっており、頭がハつ尻尾が八本あって体には苔(こけ)が一杯で、その上に桧や杉が生い茂っており、目はほうずきの実のように赤く恐ろしい姿をしているということであった。「彼の目は赤かがちの如くして、身一つに八頭・八尾有り。亦其の身に蘿及檜・椙生ひ、其の長谿八谷・峡八尾に度りて、其の腹を見れば悉に常に血爛れたり」と記す。スサノオは、自分がアマテラスの弟で高天原から降りて来たばかりであることを告げ、退治することを約束した。見事オロチを退治した暁には、この娘を妻にくれないかと願うと、そういう立派な方ならよろこんで差し上げませうと頷いた。

 スサノオは一計を案じ、クシナダ姫を櫛に変え髪に刺し、家の周りに垣根をつくり、その入り口を八箇所とし、強い酒桶を置くことにした。アシナヅチとテナヅチは指示された通りにして待ち受けた。いよいよオロチがやってきた。八つの頭の目は真っ赤でギラギラしていた。オロチは酒桶を見るや勢いよく飲みだした。酒をすっかり飲みほしたオロチは酔ってしまい眠り込んだ。

 スサノオは、ここぞとばかり十拳剣(とつかのつるぎ)を振り下ろし襲い掛かった。オロチは酔いながら反撃したが、スサノオは次々と首を刎ねていった。肥の川はオロチの血で紅く染まった。尻尾を切った時、硬いものに当り刃こぼれした。見ると立派な剣が出てきた。これを天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と云う。この剣はその後アマテラスに献上され、後にヤマトタケルが使うことになり、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云われ、三種の神器の一つとなる。

 出雲の肥の河上の鳥髪に降ったスサノヲ命は、斐伊川を流れる箸をみて、上流に人がいると知り尋ねてみると、そこには国つ神・大山津見神の子でアシナズチ(足名椎・脚摩乳)、テナズチ(手名椎・手摩乳)の老いた夫婦とその娘のクシナダヒメ命(櫛名田比売・奇稲田姫命)が嘆き悲しんでいた。そこで、スサノヲ命はヤマタノオロチ(八俣大蛇=八岐大蛇=八俣遠呂智)の生贄にされようとしていたクシナダヒメ命を助けようとする。スサノヲ命はヤマタノオロチを酒に酔わせ、眠らせておいて十拳剣で斬り殺し、肥の川は血に変わったという。大蛇の尾を切り裂いたところ、霊剣・草薙剣(草那芸の大刀・都牟刈の大刀)が出てきたので、姉神であるアマテラス(天照大御神)に献上し、これが後の三種の神器の一つになったという。 

 記紀神話のなかで、これほど大きく取り上げているヤマタノオロチ(八俣大蛇)退治の説話であるが、出雲国風土記には一行も記されていない。記紀神話に記載されているのに出雲国風土記にないという説話は、他にもオホナムヂ命の根の国訪問など結構たくさんある。これをどう理解するのか興味深い。

 ヤマタノオロチの異様な形容記述の解釈につき諸説ある。斐伊川が鉄穴(かんな)流しによって水が赤く濁ったとする説、斐伊川の姿(蛇体の水の精霊)を表しているとする説(竜神に人柱として生贄を捧げていたが、治水開拓にすぐれた英雄神が河川を治めた)、出雲での蛇祭を表しているとする説、大和政権からみた出雲のイメージとする説、高志(北陸地方)人の首長であるとする説、中国山脈の鉄山と鍛冶部(かぬちべ=タタラと呼ばれる漂泊的採鉱冶金鍛冶集団)であるとする説、あるいは、シベリアのオロチ族であるとする説等々。他にも、もともとは「怪物と人身御供」の説話ではなく、蛇体の水神と稲田の女神との神婚説話に、新たに人間的英雄神説話「ペルセウス・アンドロメダ型説話」が包摂したとする説もある。
 オオヤマツミの神=大山津見神。アシナヅチ=足名椎。テナヅチ=手名椎。クシナダ姫=櫛名田比売、櫛稲田姫。ヤマタノオロチ=八俣の大蛇。クサナギの剣=草薙剣。
(私論.私見)
 「ヤマタノオロチ譚」は、スサノウが渡来してきた事、手始めにヤマタノオロチを退治し、出雲西域の斐伊川一帯を支配したことを明らかにしている。且つ、奇しくもクサナギの剣の由来を伝えている。出雲の国の肥の川上流の鳥髪の船通山とは、いわゆる奥出雲のことであり砂鉄の産地であった。恐らく、オロチ退治は、スサノオが同所の製鉄技能を掌握した事を暗喩している。このことは、スサノウが鉄剣その他鉄器の産地を手に入れた事を意味する。ヤマタとは、八に象徴されるたくさんのという意味であり、オロチとは先住民豪族のことを指しているように思われる。ヤマタノオロチを退治したスサノウは、先に大ゲツ姫神から生まれた蚕(かいこ)と稲、粟、小豆、麦、大豆の五穀に加えて新たに鉄を手に入れたことになる。
 日本書紀一書には、安芸の可愛(え)の河上に降ったとしたり、新羅のソシモリ(曾尸茂利)に降り、そこから船で日本の紀伊に渡るとし、また別の一書では、クマナリ(熊成)峯から根の国に渡ったとする異説を収録している。日本書紀一書は、スサノヲ命は、長雨の降る中を蓑笠姿で彷徨い歩いたが、どこの家も留めてくれるところがなく、スサノヲ命の辛苦難渋の流浪の様子を描いている。備後国風土記逸文では、蘇民将来の説話として登場する。沖縄にも類似の説話がある。

【スサノオ王権譚】
 八岐大蛇を退治して奥出雲を支配し鉄を手に入れたスサノウは、原出雲の西部に位置する杵築(きづき)郷と斐伊川一帯にスサノウ系出雲王朝を樹立した。これを仮に「スサノウ系出雲王朝」と命名する。「スサノウ系出雲王朝」は、東部の「原出雲王朝」に対抗する勢力となり、両王朝鼎立時代を迎える。その形成史が次のように伝えている。
 スサノオは、ヤマタノオロチを退治した後クシナダ姫と結ばれ、出雲で生活することになった。新妻を迎える宮を作るべき地として須賀の地を選び、御殿を建て暮らし始めた。古事記は、その須賀の宮を造られたとき、その地から「雲立チ騰リキ」と記している。宮殿を造っているときに、雲が立ち上がったのを見て、スサノオは次のように歌を詠んだ。
 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」。

 スサノオとクシナダ姫は、古代出雲の地にスサノオ王権を確立していった。スサノオは、クシナダ姫以外にも豪族の娘との間に次々に子供を生み血縁一族を増やしていった。この政略結婚政策で王朝の礎(いしずえ)を創っていった。特に、稲作農耕と鉄器の導入と「八十木種」(やそこだね)を播いて国中に植林し、国土経略事業を押し進めた」。
(私論.私見)
 スサノウは、「蚕、五穀、鉄」の支配を活用し斐伊川出雲に影響力を広げ、スサノウ王権を創始していったことが伝えられている。当然、東域の原出雲王朝と対立することになる。

 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」は五・七・五・七・七の形式の整った和歌であり、これが和歌の初見とされている。出雲国風土記では、このスサノオの命の神詠は、出雲の国引きをしたヤツカミズオミツヌの命の詠んだとされる「出雲(いずも)と号(なず)くる所以は、ヤツカミズオミツヌの命、八雲立つと詔り給いき、故、八雲立つ出雲という」と記している。これによれば、スサノウはヤツカミズオミツヌの命が樹立した東出雲王朝の王権を意識していることになる。

【三種の神器譚】
 スサノウ王朝の御代、正統王権の証として「三種の神器」が生まれたように思われる。「三種の神器」とは、天*(むら)雲の剣、八*(た)の鏡、八尺(やさか)*(に)の勾玉(まがたま)を云う。

【息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚譚】
  
 「やがて、正妻クシナダ姫との息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる」。

 但し、日本書紀は、スサノウと稲田姫の間に生まれた子として八嶋手の命を記し、「この神の5世の孫は即ち大国主神なり」と記していると云う。つまり、「正妻クシナダ姫との息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる」との時間差が生まれている。
(私論.私見)
 れんだいこが思うに、大国主の命となるオオナムヂがスサノウ-クシナダ姫の息女・須世理姫を娶ったのは象徴的神話であり、スサノウ王朝の後継息女を娶ったと云うのが史実なのではあるまいか。そう考えた方が良いと思われる。

【八十(やそ)木種譚】
 日本書紀の第五の一書が次のように記している。
 一書に曰く、スサノウ尊曰く、『韓郷(からくに)の嶋には、これ金(こがね)銀(しろがね)有り。若使(たとい)吾が児の所御(しら)す国に、浮く宝有らずは、未だ佳(よ)からじ』とのたまいて、すなわと髭髯(ひげ)を抜きて散(あか)つ。即ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。これ檜に成る。尻の毛は、これマキに成る。眉の毛はこり樟(くす)に成る。すでにしてその用いるべきものを定む。すなわち称(ことあげ)して曰く、『杉及び樟、この両(ふたつ)の樹は、以て浮く宝とすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材にすべし。マキは以て顕見(うつしき)蒼(あお)生(くさ)の奥津(おきつ)棄戸(すたへ)に将(も)ち臥さむ具(そなえ)にすべし。その比ぶべき八十(やそ)木種、皆能(よ)くほどこし生(う)』とのたまう」。

【全国に分布するスサノオ神社考】
 スサノオを祀る神社は全国各地にある。その中でも組織だった神社として氷川神社(ひかわじんじゃ)がある。旧武蔵国(埼玉県、東京都)を中心として神奈川県下に及びその数は280社を数える。簸川神社と書く神社もあり、これは出雲の「簸川」(ひいかわ、現在は斐伊川)に由来するものと思われる。埼玉県埼玉市大宮区にある氷川神社を総本社とする。夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)に任じられた出雲系の豪族が各地に勧請されて広大な祭祀(さいし)圏を形成して来たものと推定できる。国造本紀の中に、志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に、出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫、兄多毛比命を以って、无邪志国造に定め賜うとある。これによれば、出雲族のエタモヒが第13代成務天皇の時代に、无邪志国造として赴任してきたことになる。高橋氏文では、第12代景行天皇が安房の浮島にあった行宮に行幸した際、武蔵国造の上祖・大多毛比と知々夫国造の上祖が、共にその地に参り奉仕したと記されている。武蔵の国は広大だったため、大化の改新以前は、无邪志(むさし)、胸刺(む(な)さし)、知々夫(ちちぶ)の3つの地域に分けて、それぞれに国造が置かれた。无邪志の国は、北部の荒川流域を支配する国であり、その中心は、埼玉県の行田周辺の古代埼玉(さきたま)地方や、東松山市周辺の古代比企(ひき)地方だった。この地域には、6世紀になると埼玉古墳群の巨大古墳を築造されていて、有力豪族がいたことを証明している。 氷川信仰は、同じスサノオ信仰でも祇園信仰とは異なり、自然神である氷川神(ひかわのかみ)とスサノオが習合したものと思われる。氾濫を起こす暴れ荒川の本支流域に多く分布する。 ヤマトタケルの東征経路や、8世紀に出雲族出身の无邪志国造が開拓したと伝えられる地域と一致している。













(私論.私見)