第9部 「讃、珍,済、興,武の倭の五王、謎の4世紀考」



 

 (最新見直し2011.08.09日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「倭の五王」を確認しておく。

 2009.11.22日 れんだいこ拝


【倭の五王】
 邪馬台国滅亡後、日本の動静は途絶えている。その中にあって、中国史書によって、5世紀の413年−478年の間に、倭の五王が、南朝の東晋や宋に少なくとも9回朝貢し、「倭国王」などに冊封されているていることが裏付けられている。これを年表にすると次のようになる。
倭の五王、外交年表
西暦 中国王朝 中国元号 倭王 用件
391年 神功皇后率いる倭軍が朝鮮に侵攻。百済と新羅を臣民とする。(高句麗広開土王碑/記、紀=香椎宮)
396年 百済が、朝鮮半島中部まで国土拡大する。(高句麗広開土王碑)
399年 倭が新羅を救援する。百済は倭と和通する。(高句麗広開土王碑)
404年 倭寇、潰敗、斬殺するもの無数なり。(高句麗広開土王碑)
413年 東晋 義熙9 倭国、東晋・安帝に貢物を献ずる。(晋書安帝紀、太平御覧
421年 永初2 倭王の讃、宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王。(宋書倭国伝)
424年 范曄、後漢書を著す(宋書)。新たな資料を得て魏志倭人伝を訂正。
425年 元嘉2 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(宋書倭国伝)
430年 元嘉7 讃? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(宋書文帝紀)(宋書倭国伝)
438年 元嘉15 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。
この年、珍、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(宋書倭国伝) 
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(宋書文帝紀)。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(宋書倭国伝)
443年 元嘉20 倭国王の済、宋に朝貢して、済が、宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(宋書倭国伝)
451年 元嘉28 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(宋書倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(宋書文帝紀)。上った23人は宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(宋書倭国伝)
460年 大明4 済? 12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。(宋書倭国伝)
462年 大明6 3月、宋・孝武帝が、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(宋書孝武帝紀、倭国伝)
471年 稲荷山鉄剣に、「辛亥、獲加多支鹵大王」の文字あり。(稲荷山鉄剣の銘)
477年 昇明1 興(武) これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(宋書倭国伝)
11月、遣使して貢物を献ずる。(宋書順帝紀)
478年 昇明2 武は上表して、自ら開府儀同三司と称し、宋の順帝に正式の叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と称する。(宋書順帝紀、倭国伝)(「武」と明記したもので初めて)
479年 南斉 建元1 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号する。(南斉書倭国伝)
502年 天監1 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(梁書武帝紀)

(私論.私見) 【倭の五王考】
 問題は、日本の史書に倭の五王が登場しないことにある。これについて次のように記されている。
 266年(西晋.泰始2)に倭の女王・壱与の西晋朝貢外交、使者の報告以降、中国史書から倭国の動静が途絶える。次に出てくるのは、413年の倭王「讃」が東晋に遣使し貢物献上(「晋書倭国伝」)であり、この間約150年間になる。倭王は「讃、珍,済、興,武」という五王が続いたことが記されている。しかしながら、記紀は「倭の五王」を全く記していない。こういう事情から「謎の四世紀」と云われている。

 この間の消息は僅かに朝鮮史の「新羅本紀」、「広開土王碑」、「三国史記」に垣間見ることができる。それによると、倭と新羅の抗争、倭と百済の交流、百済と新羅の抗争、後に高句麗の登場、これに伴う新羅、百済との抗争が記されている。倭史と朝鮮史が噛み合うのは、神功皇后(仲哀天皇の后)代になってからである。その子・応神天皇(誉田別尊、ホムダワケ)の御代で史書記述が整合し始める。「応神」を「讃」に比定すれば、「倭の五王」は応神以下の五代となる。但し、この系統は「25代武烈」で断絶していることが判明する。(【土蜘蛛総覧】へ続く

 即ち、266年(西晋.泰始2)に倭の女王・壱与の西晋朝貢外交以来、外交が途絶え、約150年後の413年になって「晋書倭国伝」に「倭王「讃」が東晋に遣使し貢物献上」と出てきて、南朝宋の御代になるや断続的に宋に朝貢してきて宋朝の爵位を求めた。倭王は「讃、珍,済、興,武」という五王が続いたことが記されている。

 歴史学通説は、記紀の天皇系譜、天皇没年から類推している。それによると、日本書紀では15代応神(即位270年、没年310年、甲午394年)、16代仁徳(即位313年、没年399年、丁卯427年)、17代履中(即位400年、没年405年)(壬申432年)、18代反正(即位406年、没年410年)(丁丑437年)、19代允恭(即位412年、没年453年)(甲午454年)、20代安康(即位453年、没年456年)、21代雄略(即位456年、没年479年)(己巳489年)、25代武烈(即位498年、没年506年)、26代継体(即位507年、没年531年)(丁未527年)の御代となる。古事記の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。しかし、宋書倭国伝は、「讃死弟珍立遣使貢献」、「元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す」と記している。これによれば、珍を讃の弟とされている。こういう事情により諸説が為されているが、いずれも決め手となるようなものはない。

 思うに、「倭の五王」を大和王権の天皇に比すること自体が間違いなのではなかろうか。大和王権の天皇であれば、記紀の履歴の条に記述されているべきであり、記述がないと云うことは、大和王権の天皇ではないと窺うべきではなかろうか。れんだいこの仮説は、「倭の五王」は邪馬台国系の王であり、紀元3世紀から4世紀の間、実際には大和王朝との鼎立時代が続いていたのではないかと推定する。最終的に邪馬台国系は大祓の祝詞で語られるように和睦形式で大和王朝に吸収され消えた。滅ぼされたが故に「倭の五王」の記録も抹殺されたと読む。求むべきは、抹殺史の復元であり、大和王朝の天皇を牽強付会に宛がうことではない。そう思う

 2010.12.31日、2011.8.8日再編集 れんだいこ拝

【倭の五王時代の終息考】
 「倭の五王」は邪馬台国系の王であり、紀元3世紀から4世紀の間、大和王朝との鼎立時代が続いていたと仮説するとして、その時代がどのように終息したのだろうか、これを愚考する。れんだいこは、「国譲り以来の大胆な手打ち」があり、それが「大祓いの祝詞」に結実していると見る。「大祓いの祝詞」については「」に記している。思うに、「大祓いの祝詞」はこの時代の終息の仕方を祝詞式に詠っているのではなかろうか。倭国の二国鼎立状態を終えた時から律令国家の歩みが始まったと読みたい。

 2011.8.9日 れんだいこ拝













(私論.私見)