第4部―2 「魏志倭人伝」総合解説(2)予め議論を為しておくべき事項整理



 (最新見直し2009.11.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、邪馬台国研究の上で確認しておかねばならない必須事項について検討しておくことにする。

 2009.11.20日 れんだいこ拝


【「陳寿自身が倭地を実際に訪れていたかどうか」について】
 陳寿が「倭人伝」を撰するに当り、陳寿自身が倭地を実際に訪れていたとの記録はない。つまり、聞き書き及び記録史料の参照によってこの編纂を為したものと思われるが、陳寿の簡明な記述の仕方と併せて、記述の真偽を廻っての評価及び解釈が一定しない恨みを残すこととなっている。今日に至るまで通説.異説が飛び交い決着を見ないのである。

 但し、いずれにせよ、三世紀頃の倭地(日本)について書かれた貴重な記録であり、その中に記述されている「邪馬台国」あるいは女王卑弥呼の存在は、文献に表われた日本で最初の国家らしい国家の姿を伝えている点で、後に続く大和朝廷との関係は明らかでないものの、特大の価値が認められる。追記すれば、女王卑弥呼の名跡を継いだ壱與のあと、つまり265年から266年頃から後百五十年ほど、中国の歴史の本に、倭地(日本)について記載が消失していることを考えあわせる時、同書が一層の光彩を放っていることになることを確認せねばならない。

 中国の史書に次に表れるのは、邪馬台国の時代から百五十年あまりたった「倭の五王」と呼ばれる倭王たちが中国との交渉をもった記録である。しかし、「倭の五王」についてもっとも詳しくしるす「宋書倭国伝」の倭の記事でさえ、六百字足らずであり、倭人伝の二千文の三分の一にすぎない。

【「魏使が倭国を訪れた季節の推測」について】
 次に、魏使が倭国を訪れた季節の推測として夏であったとすることについて見ておこう。

朝鮮半島から対馬に渡る場合、日照時間の長い夏でないと、日のあるうちに着くことが出来ない、3ノットの速力で、約12時間以上かかり、朝5時に出航して、夕方6時過ぎに着くことになる。
冬期の航海は、季節風が連吹するので、波が高く、小型船にとって危険である。
倭人伝に記されている方位は、夏季の日ので方向を東とする方位に、大略一致している。日の出方向は、6月22日前後の夏至の頃、約30度、北にずれる。
冬期では、冷たい飛沫や風を浴びることになり、漕ぎ手の手がかじかんで、充分な力がだせない。難破は即凍死につながる。
春から秋口辺りの任意の季節と推測される。

【「原文詮議」について】
 

【「改訂解釈」について】
 邪馬台国研究者の間では、「ここは原文の誤り」なるものが頻繁に出てくる。古田氏の「『邪馬台国』はなかった」では、@・「壱の台への改訂」、A・「南を東へと改訂」、B・「一月を一日に改訂」、C・「東治を東冶へ改訂」、D・「景初2年を3年に改訂」、E・「対海国を対馬国へ改訂」、F・「一大国を一支国へ改訂」等々が指摘されている。

 古田氏は、「原形の真実」を重視、特に「紹煕本」の正確さを指摘し、「軽々しく改訂の手を加えるべきではない」として次のように述べている。
 概要「(あちら立てればこちに立たず、帯に短し、たすきに長し、屋上屋を架するの状況に対し、)3世紀には3世紀の論理性がある。自分の説にとって一番困難な個所を、またもや原文改訂で切り抜ける―これはもはや、『邪馬台国』学者の冒されて久しい『不治の病』と化しているようにさえ見えるではないか。私たち『邪馬台国』の研究者は、このように、いわば『卓抜し過ぎた有効性』を、すなわち後代人安易の道として、厳しく自らに拒否しなければならないのである」。

【当時の里程について】
 当時の里程について確認しておく。「里程は白髪三千丈的な中国人通有の誇張癖のあらわれ」として軽視する向きもあるが、この見解をひとまず斥けることとする。

 一里につき、中国では各王朝時代によってその長さが違っていたと思われる。秦の始皇帝が、「六尺をもって歩をなす」という制度を公布している。「秦始皇帝紀」は「歩三百をもって一里」としている。魏代の里程が、秦代の里程と同じであるのか違っていたのか諸説ある。中国尺度の基準は一尺をもってする。尺とは、手のひらを拡げて親指と他の四本の指との間の長さを単位としたものと云われる。単位自体は時代の変遷につれて変化している。紀元前十世紀の周、春秋戦国時代から前漢に至る頃はほぼ一定しており22.5cmであった。その後、時代が下るにつれ少しずつ増加し、唐の時代に至っては31.1cmとなった。

 この尺を基準として歩と里が定められている。六尺を一歩とし1.4472mとなる。「三百歩が一里」であるので、従って一里は434.16mとなる。単位としての「寸、尺、丈、歩、里」はこのように構成されている。簡略に見れば、一尺は24cm、一歩は六尺で144cm、一里はだいたい三百歩、432mになる。「中国度量衡史」(呉承洛著)によれば一里は434mとされている。魏代の一里が現在の何kmに当たるのか明瞭ではないが、当時のモノサシが出土しており一尺を24.12cmとしている。これによると、魏の時代の中国本土における一里は、一尺24.12cm×6=144.72cm=一歩×300=一里43416cmということになる。100cm=1mであるからして一里は凡そ400m強であったと云うことになる。魏の前の時代も魏の後の時代も、それほど変わってはいないとすれば、歴史上の中国本土の標準一里は434mを基準にしていたと考えられる。 

 ところで、一里434m説に従えば、郡より女王国へ至る里程として「万二千余里」の記述が為されていることに対して多少の混乱が生ずる。この数字をkm換算すれば凡そ5208kmとなる。邪馬台国大和説に従う場合、帯方郡から現在の奈良県迄の距離がざっと1500km内であるから大幅に超えることになる。九州説でも九州をはるかに突き抜けることになる。こういう事情から、従来魏志倭人伝の里程記述に対しては、これを中国式の白髪三千丈的な言い回しとして受けとめる向きも為されている。

 他方、誇張ではなく魏時代特有の尺度に基づいているのではないかとする説がある。この疑問を最初に投げかけたのは九州説の旗頭・白鳥庫吉氏であった。同氏は、倭人伝における里程基準として一里約140m言い替えれば1km約七里説を唱えるところとなった。この説を再び採り上げ、「魏晋朝短里説」として大々的に宣揚したのが古田氏であった。著書「邪馬台国はなかった」で、通常一里を430mとして考えられているが、「一里を75mから90m」として了解すべきことを主張した。これを短里説と云う。これに対して一里434mを基準とする説を長里説という。ちなみに、「一里を75mから90m」とした場合、「歩」はその300分の1となるので約25〜30cmとなる。この鑑定は、卑弥呼の埋葬塚「径百余歩」の解釈に関係してくる。

 この一里をどう見るかを廻って、高木彬光氏は「邪馬台国の秘密」で一里140m、山尾幸光氏は「魏志倭人伝」で一里435m、唐六典を参考にする人は一里420から540mといった具合であり未だに決着を得ていない。但し、長里短里説いずれを採る場合においても、相互の里程記述は比率としては正確な基準を保っているものと推測されており、それが誇大であれ、なんらかの内的関連のうちに統一的に記述されていることは疑いないものと思われる。

 生野真好氏による三国志全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも西暦220年(すなわち後漢から魏への禅譲の年)より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる(安本美典らの説では、「短里」は東夷伝のみに見られ、他の箇所では存在しないとしているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する)。但し、220年以後の記述であっても従来通りの「長里」でないと解釈できない部分もあり、「魏王朝=短里」という単線的構図は成立しない云々と述べている。

【水行.陸行の旅程について】
 この他、水行.陸行についても考察しておこう。一日の陸行距離については、739年に制定された唐の律令制度を記した「唐六典」による以外にめぼしいものはなく、これによると、陸上の歩行距離は一日五十里とある。もちろんこれは標準で、このほかに馬は70里、車は30里等の定めもある。唐の時代には、一里を360歩としたが、それ以前はすべて300歩をもって一里とした。孫子の兵法では一日の行軍を30里としていた。

 次に、一日の水行距離である。現在、海上距離の単位は一海里という。1,52マイルのことで、mに換算すれば1852mである。船の速度を表わすには、時速、一海里を1ノットという。したがって、1ノットの速さで、1時間走った距離が1852mである。一日8時間の水行とすると約15km進むことになる。但し、実際はもっと少ない8km当たりを求めるのを標準とする。

【当時の方位について】
 倭人伝の方位、距離その他の大雑把なものとして受けとめる向きに対して、方位については厳格に考えるべきではないかと思われる。海洋民族であれ、草原民族であれ、今日のわれわれが考えている以上に厳格であったのではなかろうかと思われる。例え磁石がなくても、星座と太陽と時刻を基準にして東西南北にはことのほか鋭敏であったものと考えたい。従って、倭人伝の記載も又相当に正確であることが推測される。但し、魏志倭人伝に「対馬―壱岐」間の行程を「南へ一つの海を渡る」と記しており、これが正確かということになる。実際は、対馬から壱岐に至るには東南方向に向かうことになる。ここに「方角のずれ」があるとする説が生まれることになる。

 但し、方位のずれを認めるかどうかについては議論の余地がある。魏使いの来航時を六月の夏至の頃として、なお太陽の運航に合わせた方位観により導かれたものと推測すれば、正式な磁石の方位と30度の偏差をもたらすことになる。こうなると、東南というのは東寄りに解釈すべきということになり、記述された方位が互いに整合しているものとすれば、以下同様に解釈すべきということになる。

【当時の地図について】
 当時の倭国に対する地理観に関する特徴についても一考を要する。先に地理観に対しての考察を為すこととする。地理学者室賀信夫氏は、その著書「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像−地図学史的考察−」において、日本を記した古地図においては、日本の地形を北九州を北として日本列島が北から南へ伸びた格好に転倒された形で記載されており、魏志倭人伝の方位もこれに従っているのではないか。明の建文四年(1402年)に朝鮮で作られた「混一彊理歴代国都之図」がその証左であり、右下がり90度の日本が描かれている。この「中国の東南海上に南に転倒した形態をとって描かれた日本こそ、魏晋の時代の中国人の日本についての地理的観念を、そのまま可視的に表現したものである」と主張するところとなった。

 この地図の原拠となったのは「兎貢地域図」(魏.晋に仕えた地理学者裴秀224から271年の作)であり、こうした地理観が当時の一般認識であったものと推測され、つまり倭人伝の撰者も又これに従っており、従って「南」は「東」に読み換えるべきであるという説となった。この説は「倭人伝」の「其の道里を計るに、当に会稽東冶の東にあるべし」の記述と適合することとなり、 従来方位の点で難のあった大和説が勢いづけられることとなった。

 山尾幸久氏もこの説を補強し、陳寿が倭人伝を編纂する時参考にした地図は、裴秀の「兎貢地域図」十八篇、又はそれを縮小した「地形方丈図」ではないかと想定する説を唱えた。しかし、この説をそのまま鵜呑みにすることは危険であり、弘中芳男氏は、その著書「古地図と邪馬台国−地理像論を考える一」の中で、「混−彊理歴代国都之図」の成立ちを追及し、この地図が、15世紀の初頭に、朝鮮の権近が、西を上方にして描かれている日本の行基図を不用意に挿入してしまった爲に日本列島が転倒した形に描かれることになったという由来を解析し、史料的価値を持たないと反証している。

 私説は、この詮議につき参考迄に留めることとする。但し、古代の人は方角を90度右にズレた状態で東西南北を思い込んでいた可能性、3世紀の日本列島は本当に右下がりに日本列島が90度傾いていた可能性を考えることは無駄ではない。

【「混一彊理歴代国都之図」の記す国名について】
 「混一彊理歴代国都之図」は、倭国転倒方位に於いてのみ意義があるのではない。もう一つ、興味ある国名を記しているところにも意味がある。魏志の地名が登場するのは「黒歯」である。明の時代に作られた地図に邪馬台国時代の地名はことごとく消えたかに思えるなか、黒歯国のみが記されているというのが面白い。日本海沿いに長門、石見、出雲、出雲の沖に隠岐の島、伯( )困幡、但馬、丹後、若峡、加賀、越前、能登、越中、越中沖に佐渡の島、越後、出羽、津軽。瀬戸内海ルートで、長門から安芝備後、備前、備中、播磨、摂津。「日本」という丸で囲んだ国の周囲に展開するのは、河内、和泉、伊賀、伊勢、紀伊、大和、志摩、近江の国々。東海方面から、尾張、美濃、飛騨、三河、遠江、信濃、駿河、相模、下野、武蔵、安房、上総下総、常陸、陸奥、夷地などの聞き覚えのある地名が列記されている。

【当時の海岸線について】
 当時の海岸線に対しても一考せねばならない。かって、盲目の詩人宮崎康平氏による「まぼろしの邪馬台国」が上宰され、邪馬台国ブームを盛り上げることに一役を買ったが、同氏の邪馬台国ほか諸国の比定については評価がかんばしくないものの、その著書の中で指摘された、当時の「海岸線の復元思考」は価値有る一石であったと思われる。同氏曰く、現在の海岸線と邪馬台国時代のそれを区別することが肝要であり、仮に弥生海岸と名付けられたそれは、現在の地図でいう等高線の五〜十メ−トル辺りの範囲はかっては海域であり、後次第に陸化していったものであるものと推測されるということであった。

 その著書「幻の邪馬台国」の該当部を抜粋すると、「現在の加布里付近から今津湾までは完全な海峡で、大きく云って、 博多湾と唐津湾はつながっていたのである。この海峡のことを地質学では糸島水道とよぶのだそうだ。----九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門的な地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、これによって記入された弥生線と現在の町の関係を比較してみると、当時の様子がよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えてもいいだろう」。残念ながら同氏のこの指摘にも関わらず、旧態依然の比定地論争が繰り広げられていることは惜しまれる。

【「卑字当て字」の使い分けについて】
 中国の史書は伝統的に周辺の民族に対し、「卑字」を宛がっている。「東夷、北てき、西戎、南蛮」なる表記がそれである。他にも、邪、卑、奴、鬼、狗、馬、牛等々の「卑字」を多用している。これは、現地音の発音を中華思想に基づき文字選択して意図的に「卑字」を宛がったと考えられる。

 「邪馬台国」の「邪」、「馬」や卑弥呼の「卑」等々いわゆる「卑字」をどう理解すべきか。「単なる表音的用法に過ぎぬ」として拘らず理解すべきか。「邪」は二通りに読め、「正邪」の場合は「ジャ」、「疑問の助字」の場合は「ヤ」となる。「邪馬台国」の「邪」は後者に読み取るべきで、「疑問=神秘、不思議」的な意味合いを込めている。「卑」は二通りの意味を持ち、軽蔑の意味を込めた「卑しい」又は謙譲の意味を込めた「へりくだる」の両読みがある。「卑弥呼」の「卑」は後者に読み取るべきで、同様例として「辞を卑(ひく)くして礼を尊ぶ」(「国語」越語下)、「求むる有れば、即ち辞を卑くす」(「漢書」西域伝)がある。

【「当て字」の読み方について】
 古田氏の「『邪馬台国』は無かった」に次のように書かれている。「邪馬台国」が「邪馬壱国」だとして、これをどう読むべきか。「壱」は倭音では「い」又は「ゐ」となる。恐らく「ゐ」と読むべきで、そうなると「邪馬壱国」は「山倭」と読むことができる。「倭」は3世紀以前の上古では「ゐ」と読んでいたのが後に唐代の頃より「わ」音に転じた。「倭」と「委」は同義同音にして、「倭」とは「委の人」という意味でもある。してみれば、志賀島で発見された金印に「漢委奴国王」とあるのも頷ける。この金印の記事を掲載した後漢書(はんよう、5世紀)には「漢倭奴国王」と記されているが、あきらかな誤訂正である。












(私論.私見)