笠井新也氏は、の説である。「瀬戸内航路説」 を採れない理由を次のように記している。
| 「この大和説の主張に於ける一の弱点は、「陸行一月」に対する解釈である。即ち邪馬台国を大和とし、これに達する交通路を、普通大和説の学者が考えて居るが如く瀬戸内海に取る時は、その邪馬台国に向かふべき上陸地点は、畿内の門戸として古代史上に著名な難波を以ってこれに擬定するのが最も適切でなければならないのであるが、若し然であるとすると、難波から大和の何れの地に至るとしても、その日程は数日の外に出でないのであって、陸行一月といふ魏志の記事に合わないのである」。 |
笠井新也氏は、「陸行一月」という魏志倭人伝の記述ゆえに「日本海沿岸を航行し敦賀に上陸し、越前、近江、山城を経て、陸行一月を費やして大和に入った」とした。
「投馬国は出雲?五万余戸・第二の大国」は次のように述べている。
| 「ただ、当サイトでは、上古音により近い発音から推測して、「投馬」国のことを「ツマ」国と解釈して、投馬国=出雲国説を提唱したい。 イツモの「イ」は母音の発語、音が軽いから自然に省かれる。 「マ」と「モ」は同類音で相通ずるから、出雲と投馬両国名は全く一敦する可能性が高い。この場合、魏志倭人伝に出てくる投馬国、邪馬台国までの水行を日本海沿岸航路と解釈していくことになる。 「投馬」国のことを「ツマ」国として、投馬国=出雲国とするのには、他にいろいろ要因がある。宋版「大平御覧」の「倭人伝」では、投馬が於投馬(エツモ)と書かれている。 今日、出雲の人は出雲を「エヅモ」となまって言うから、 この時代もそうで、中国人はそれを聞き取ったのかもしれない。また、投馬国の官名が異彩をはなっているのも注目だ。彌彌(ミミ)と彌彌那利(ミミナリ)である。実は、この「ミミ」がつく名称は、記紀では、出雲系や神代系に多く登場する名前である。これらの理由から、投馬国=出雲国だと思われる」。 |
