邪馬台国論、同論争の歴史的意義について



 (最新見直し2008.10.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2008.11.1日、映画「まぼろしの邪馬台国」が全国一斉に放映される。内容は、昭和40年代に邪馬台国ブームを巻き起こした「まぼろしの邪馬台国」の著者にして盲人の宮崎康平氏の邪馬台国探求の旅史のようである。監督・堤幸彦、主演・吉永小百合、竹中直人。これを機会に、れんだいこの邪馬台国論をもう一ひねりしておく。

 2008.10.30日 れんだいこ拝


【邪馬台国論の意義について】
 紀元3世紀頃の日本の国状を記した史書に魏志倭人伝がある。同書には邪馬台国と女王卑弥呼についての詳述が為されている。他方、日本の自前の国史は7世紀に編纂された「記・紀」から始まる。ところが、この「記・紀」に不思議なことに邪馬台国の記述がない。女王卑弥呼についても僅かに神功皇后のくだりに出て来るぐらいで抹殺されている。これは何故か。その理由は不明である。考えられることは、魏志倭人伝がそもそも今日の日本に繋がる歴史を記述したものでないのか、何らかの理由で伏せられているのか、のどちらかであろう。

 れんだいこは、「何らかの理由で伏せられている」と読む。その理由までは分からない。云えることは、中国の三国志時代つまり曹操、劉備、孫権、諸葛孔明等々錚々たる人士が活躍していたあの時代に、日本では邪馬台国女王卑弥呼が遜色ない存在振りを示していたことである。魏志倭人伝には、この卑弥呼の特異な能力、日本の国勢図、風俗習慣、法律、社会組織等々が格調高く且つ簡潔に述べられており、極めて意義が高い史書となっている。しかし、それは中国の史書に記載されているだけで、日本の史書には対応する記述が出てこない。オカシナことである。

 今日、日本という国家の破局、破滅、溶解が視野に入りつつある。この時、魏志倭人伝を相聞し、古里を訪ねるようにして故事来歴を紐解き、我が国の最も古い時期の日本の国家創世記を知ることは貴重と覚える。綿々と続いてきたこの歴史のうちの何を失ってはならないのか、それを一人一人が胸に治めることが必要なのではなかろうか。「古きを尋ねて新しきを知る」の言葉通りである。

 2003.9.11日 れんだいこ拝

【邪馬台国論争の意義について】
 以下の観点の打ち出しは、目下れんだいこの独眼流となっている。この観点が広く認められれば、邪馬台国論争は一層内容豊かなものになるであろう。

 邪馬台国論争の核心は、邪馬台国の所在地を野次馬的に凡百の処々に比定することにあるのではない。又、3世紀頃の日本の国体国勢状況を明らかにするという意義に終始するならば片手落ちと云える。この論争の歴史的な責務は、魏志倭人伝乃至その他各史書により明らかにされる紀元3世紀頃の倭国の国体状況としての邪馬台国及び女王卑弥呼及びその他諸国の存在と、後に「記.紀」により語られる神武天皇東遷説話とこれに纏わる建国神話との整合性を探査することにある。わが国の最初の王制国家として認められる大和朝廷との絡みの解明と言い替えても良い。

 つまり、プレ大和朝廷としての邪馬台国及びその連合国家の存在を、

直系説  邪馬台国を大和朝廷の【直系】先行国家として了解するのか。
亜系説  大和王朝は邪馬台国と対立していた狗奴国が建国したのか。この場合、邪馬台国を【亜系】先行国家として了解することになる。
異系説  邪馬台国、狗奴国いずれもが新興国家としての大和朝廷に滅ぼされた側なのか。この場合、邪馬台国を【異系】の先行国家として了解することになる。
他系説  はたまたこの双方には歴史的なつながりが認められないのか、この場合、邪馬台国を【他系】の先行国家として了解することになる。

 邪馬台国は、上記四説のどちらなのかという王統譜の究明にこそ核心的な意義が認められるというべきである。そのいずれの場合においても、大和朝廷は畿内に発生した訳であるから地勢的には畿内が焦点となる。邪馬台国の比定を廻って三分される畿内説.九州説、その他説は、当然のことながら以上の緊張関係を廻って論争されていることが念頭において意義づけられていなければならない。

 以上の王統譜の究明は、実践的には「記.紀」により語られる神武天皇東遷説話とこれに纏わる建国神話に対する認識の差となって表れる。直系.亜系の場合には、邪馬台国畿内説の立場に立てば神話的な色彩を強めることになる。九州説に立つと史実的な色彩を増すという構図になる。異系の場合には、「記.紀」神話的史実により邪馬台国が滅ぼされたことになる。他系の場合には、邪馬台国そのものが宙に浮いており実践的な変化を蒙らない。

 王統譜問題を通俗的に概略すれば、「記.紀」神話において古代の神々が天津神系と国津神系とに二分されていることに鑑みて、邪馬台国はどちらの神々の系譜に列なる国家であったのかという問題とも言い替えることができる。肝心のここのところを究明しようとする緊張感のないままに論を拡散させることは、いたずらなミステリーの意味しかもたないことになるであろう。

 なお、興味深いことは、この王統譜の解明は、史実上の意義に止まらないことである。邪馬台国から大和朝廷に至る政変は、権力の質的な大変化をも招来した歴史的一大事件であったことにより、恐らく我等が祖先の遺伝子にくっきりと情報が刻み込まれており、この情報は、はるけく今日現代にまでわが国の政治状況、経済、文化への影響が認められ、つまり国民性の特質を形成してきており、諸般の歴史的な因果に迄影響を及ぼしていることが推測できると思われる。そうであるが故に、邪馬台国論争は単に古代のロマンを追うに止まらない。極めて現代的な課題を衣装しているテーマでもあり続けているということにもなるのである。

 2006.11.27日再編集、2011.8.12日再編集 れんだいこ拝

【邪馬台国−卑弥呼の史上抹殺の秘密考】
 2008.10.30日現在、れんだいこはふと気づいた。邪馬台国の所在地について特定することは未だに困難である。れんだいこは、恐らく畿内大和か阿波ではなかろうかと推測するが、それから先が分からない。そういう訳で所在地論争はひとまず措いて、邪馬台国が何ゆえ史上抹殺されたのかの詮索に向かうことにする。この視点から逆照射することにより、所在地が見えて来る気がするからである。

 これにつき、邪馬台国は、大和王朝以前にかって存在したアイヌ蝦夷王朝の興亡史と関係しているのではなかろうか。卑弥呼女王率いる邪馬台国は、縄文時代を彩るアイヌ蝦夷王朝の最後の精華なのではなかったか。大和王朝がアイヌ蝦夷王朝を打倒し、記紀神話がその正統性を記した為に、先行して存在していたアイヌ蝦夷王朝史が意図的に抹殺され、故に卑弥呼女王率いる邪馬台国封印に向かわざるを得なかった。つまり、卑弥呼女王率いる邪馬台国は、アイヌ蝦夷王朝と深く関わっているのではなかろうか。こう考えると、新たな視野が開けてきそうな気がする。

 なぜ、こう観ずるのかというと、個々の論証は割愛するが、魏志倭人伝の記す邪馬台国の政情と風俗習慣が、どう見ても縄文系のそれであるからである。となると、邪馬台国は、縄文時代の国情に於いて位置づけられなければならないのではなかろうか。となると、この時代を牛耳っていたアイヌ蝦夷王朝こそが究明されねばなるまい。この王朝が、東北の地に日高見国として存在していたことは知られている。しかし、畿内にも存在していた時期があったのではなかろうか。あるいは四国の阿波かも知れぬ。

 ところが、畿内説にせよ四国説にせよ、従来の学問は、邪馬台国と大和王朝を同一系政体、即ち邪馬台国を大和王朝の先行国家として直系的に捉える為に、数々の無理な推断が横行しているように見受けられる。そうではなくて、アイヌ蝦夷王朝が畿内大和か四国の阿波に存在していたとして、これとは全く異系の天孫族が来襲し、大和王朝を創建した。大和王朝は、国譲りせしめた出雲王朝の協力派を抱き込みながら、王朝の基盤固めに勤しみ、他方で邪馬台国を精華とするアイヌ蝦夷王朝の痕跡を抹殺して行ったのではなかろうか。これが、邪馬台国論を難しくさせている根本要因なのではなかろうか。

 今のところ、この観点は披瀝されていない。それは荒唐無稽故と云うより存外核心を突き過ぎている故ではなかろうか。そもそも学問と云うのは周辺部分を触って良しとする政治の風下に立つ学風があるから。

 このれんだいこ説によると、邪馬台国の卑弥呼はアイヌ蝦夷王朝の女王として独立の勢力圏を樹立し、古代史上の動乱期を巧みに操舵した。時は、渡来系の侵略軍が日本列島を襲い始め、弥生文化なるものをもたらしつつあった。邪馬台国の卑弥呼は、この期間を数十年に亙って政権運営し、孤高のアイヌ蝦夷王朝を保持したのではなかったか。

 アイヌ蝦夷王朝は、卑弥呼没後、当然の如く動乱に巻き込まれた。トヨが後継するが、卑弥呼時代の如くに操舵することはできなかった。時は既に渡来系侵略軍の主導する弥生時代に入りつつあり、縄文時代を象徴するアイヌ蝦夷王朝は斜陽化する以外になかった。

 このトヨの時代のアイヌ蝦夷王朝と出雲王朝が深く関わっているのではなかろうか。アイヌ蝦夷王朝と出雲王朝は、女王権力系のアイヌ蝦夷王朝、男王権力系の出雲王朝と云う点で質が違うので区別されるべきだろう。恐らく、出雲王朝が国譲り政変で高天原王朝に支配権を奪われ、出雲王朝がアイヌ蝦夷王朝と合従連衡する。そこへ高天原王朝が頃合い良しとして天孫降臨し、九州の地から東征に向かう。これが神武天皇東征譚であり、大和王朝建国譚へと至る。大和王朝は、高天原王朝を正統としながら、国譲り政変で恭順した出雲王朝内の事代主派を取り込み、ここに 渡来系天津神と在地系国津神の連合政権として発足する。これが皇紀元年となる。

 してみれば、大和王朝にまつろわなかった勢力として出雲王朝内タケミナカタ派が考えられる。この派は鬼族として追討される。アイヌ蝦夷王朝も然りで、この派は蝦夷叉は土蜘蛛族として追討される。鬼族、蝦夷、土蜘蛛族は、まつろわぬ分子として徹底的に排除討伐されて行く過程で、同化帰順した派と転戦した派に分かれた。転戦派は全国に散り、その主力は次第に北へ東へ逃げ延びた。これを追って討伐したのが新大和王朝の阿倍比羅夫−坂上田村麻呂に至る征服史なのではなかろうか。

 もとへ。邪馬台国は、アイヌ蝦夷王朝時代の話なのではなかろうか。とすると、記紀神話から辿ろうとしても所詮無理な話ということになる。邪馬台国論を究めんとするなら、アイヌ蝦夷王朝史に分け入るべきではなかろうか。出雲王朝譚はその入り口であり、その入り口に辿り着こうとしない史学の現状では遠く及ばないと云うべきではなかろうか。

 この指摘は、興味のない者にはどうでも良い話に過ぎず、興味有る者にはそれなりの反応が生まれて良い衝撃推理の筈である。後は諸賢に任せることにする。

 2008.10.30日、2009.4.11日再編集 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評483 れんだいこ 2008/10/30
 【れんだいこの新邪馬台国考】

 2008.11.1日、映画「まぼろしの邪馬台国」が間もなく全国一斉放映される。内容は、昭和40年代に邪馬台国ブームを巻き起こした「まぼろしの邪馬台国」の著者にして盲人の宮崎康平氏の邪馬台国探求の旅史のようである。監督・堤幸彦、主演・吉永小百合、竹中直人。これを機会に、れんだいこの邪馬台国論をもう一ひねりしておく。

 邪馬台国論の意義について確認しておく。紀元3世紀頃の日本の国状を記した中国の魏の史書に通称「魏志倭人伝」が遺されている。同書は邪馬台国と女王卑弥呼について詳述している。他方、日本の自前の国史は7世紀に編纂された「記・紀」から始まるが、奇妙なことにこの「記・紀」には邪馬台国の記述が全くない。女王卑弥呼についても僅かに神功皇后のくだりに出て来るぐらいで抹殺されている。古史古伝各書にさえ出てこない。

 これは何故か。その理由は不明であるがここが詮索されねばならないのではなかろうか。考えられることは、魏志倭人伝の記述する邪馬台国がそもそも今日の日本列島上のできごとではなく、これに繋がる歴史を記述したものではないという場合と、何らかの理由で伏せられていると云うことのどちらかであろう。さて、どちらの判断を選択するべきか。

 れんだいこは、「何らかの理由で伏せられている」と読む。その理由までは分からなかった。云えることは、中国の三国志時代つまり曹操、劉備、孫権、諸葛孔明等々錚々たる人士が活躍していたあの時代に、日本では邪馬台国女王卑弥呼が遜色ない存在振りを示していたことである。魏志倭人伝には、この卑弥呼の特異な能力、日本の国勢図、風俗習慣、法律、社会組織等々が格調高く且つ簡潔に述べられており、極めて意義が高い史書となっている。ところが、繰り返すが、それは中国の史書に記載されているだけで、日本の史書には対応する記述が出てこない。オカシナことである。

 今日、日本という国家の破局、破滅、溶解が視野に入りつつある。この時、魏志倭人伝を相聞し、古里を訪ねるようにして故事来歴を紐解き、我が国の最も古い時期の日本の国家創世記を知ることは貴重と覚える。綿々と続いてきたこの歴史のうちの何を失ってはならないのか、それを一人一人が胸に治めることが必要なのではなかろうか。「古きを尋ねて新しきを知る」の言葉通りである。

 邪馬台国論争の意義について確認する。以下の観点の打ち出しは、目下れんだいこの独眼流となっている。この観点が広く認められれば、邪馬台国論争は一層内容豊かなものになるであろう。れんだいこに云わせれば、邪馬台国論争の核心は、邪馬台国の所在地を野次馬的に凡百の処々に比定することにあるのではない。又、3世紀頃の日本の国体国勢状況を明らかにするという意義に止まるのではない。これらに終始するならば片手落ちと云える。

 この論争の歴史的な責務は、魏志倭人伝乃至その他各史書により明らかにされる紀元3世紀頃の倭国の国体状況としての邪馬台国及び女王卑弥呼及びその他諸国の存在と、後に「記.紀」により語られる神武天皇東遷説話とこれに纏わる大和王朝建国神話との整合性を探査することにある。わが国の最初の王制国家として認められる大和朝廷との絡みの解明と言い替えても良い。

 つまり、プレ大和朝廷としての邪馬台国及びその連合国家の存在を、大和王朝とどう絡ませるのか。次のように案が分かれる。1・直系説(邪馬台国を大和朝廷の【直系】先行国家として了解するのか)、2・亜系説(大和王朝は邪馬台国と対立していた狗奴国が創出するのか。この場合は【亜系】先行国家として了解することになる)、3・異系説(邪馬台国、狗奴国いずれもが新興国家としての大和朝廷に滅ぼされた側なのか。この場合は邪馬台国を【異系】の先行国家として了解することになる)。4・他系説(邪馬台国と大和王朝には歴史的なつながりが認められないのか、この場合は邪馬台国を【他系】の先行国家として了解することになる)。

 邪馬台国論は、上記4説のどちらが歴史の真相なのかという王統譜の究明にこそ核心的な意義が認められるというべきである。そのいずれの場合においても、大和朝廷は畿内に発生した訳であるから地勢的には畿内が焦点となる。邪馬台国の比定を廻って三分される畿内説.九州説、その他説は、当然のことながら以上の緊張関係を廻って論争されるべきで、かく意義づけられなければならない。ところが、実際には、この緊張を欠いた邪馬台国論が横行している。

 邪馬台国と大和王朝の関係如何と云う王統譜の究明は、実践的には「記.紀」により語られる神武天皇東遷説話とこれに纏わる建国神話に対する認識の差となって表れる。直系.亜系.異系の場合には、畿内説の立場に立てば神話的な色彩を強めることになり、九州説に立つと史実的な色彩を増すという構図になる。他系の場合には、実践的な変化を蒙らない。

 王統譜問題を通俗的に概略すれば、「記.紀」神話において古代の神々が天津神系と国津神系とに二分されていることに鑑みて、邪馬台国はどちらの神々の系譜に列なる国家であったのかという問題とも言い替えることができる。肝心のここのところを究明しようとする緊張感のないままに論を拡散させることは、いたずらなミステリーの意味しかもたないことになるであろう。

 この王統譜の解明は史実上の意義に止まらない。邪馬台国から大和朝廷に至る政変は、日本史上の権力移行の質的な大変化を招来した歴史的一大事件であったことにより、この時のドキュメント委細が恐らく我らが祖先の遺伝子にくっきりと情報として刻み込まれており、この情報は、はるけく今日現代までわが国の政治状況、経済、文化への影響が認められ、つまり国民性の特質を形成してきており、諸般の歴史的な因果にまで影響を及ぼしている。かく推測できると思われる。そうであるが故に、邪馬台国論争は単に古代のロマンを追うに止まらない。極めて現代的な課題を衣装しているテーマでもあり続けているということにもなる。

 長くなったが、これからが本題である。2008.10.30日、れんだいこはふと気づいた。邪馬台国の所在地論争はひとまず措いておくことにしよう。れんだいこは未だに確定できないから。それはそれとして、邪馬台国が何ゆえ史上抹殺されたのかに付き正面から詮索すべきではなかろうか。かく論を構える必要を感じた。

 これにつき、れんだいこは、古代史のあれこれを渉猟するうちに、大和王朝以前に縄文系アイヌ蝦夷王朝がかって存在したと考えるべきで、邪馬台国はアイヌ蝦夷王朝の興亡史と関係しているのではなかろうかと気づいた。大和王朝が結果的に平和的連合部族国家として存在していたアイヌ蝦夷王朝を暴力的に打倒し、記紀神話がその正統性を記した為に、先行して存在していたアイヌ蝦夷王朝史を批判的にすら採り上げて記すことができず、故にむしろ意図的故意に抹殺されたのではなかろうか。

 卑弥呼女王率いる邪馬台国は、日本列島上に連綿と続いてきていたアイヌ蝦夷王朝の最後の精華なのではなかったのか。記紀による卑弥呼女王率いる邪馬台国抹殺は必然的にアイヌ蝦夷王朝封印に向かわざるを得なかった。つまり、これを逆に云えば、卑弥呼女王率いる邪馬台国は、アイヌ蝦夷側の王朝であり、少なくとも深く関わっているのではなかろうか。こう考えると、新たな視野が開けてきそうな気がする。

 今のところ、この観点は誰からも披瀝されていない。正確に云えば、れんだいこは知らない。それは荒唐無稽故と云うより存外核心を突き過ぎている故ではなかろうか。そもそも学問と云うのは周辺部分を触って良しとする、政治の風下に立つ学風があるから。魏志倭人伝で仄聞される当時の日本の政体、風俗風習は、弥生文化で跡付けるより縄文文化に近いのではなかろうか。というかそのものではなかろうか。

 このれんだいこ説によると、邪馬台国の卑弥呼は、アイヌ蝦夷王朝の末裔女王として独立の勢力圏として樹立し、古代史上の動乱期を巧みに操舵した。時は、渡来系の高天原王朝侵略軍が日本列島を襲い始め、弥生文化なるものをもたらしつつあった。邪馬台国の卑弥呼は、この期間を数十年に亙って綿って政権運営し、弥生文明の良きところも消化吸収しながら孤高のアイヌ蝦夷王朝を保持したのではなかったか。

 アイヌ蝦夷王朝たる邪馬台国は、卑弥呼没後、当然の如く動乱に巻き込まれた。壹與が後継するが、卑弥呼時代の如くに操舵することはできなかった。時は既に渡来系侵略軍の主導する弥生時代に入りつつあり、縄文時代を象徴するアイヌ蝦夷王朝は斜陽化する以外になかった。

 もう一つ。この壹與の時代のアイヌ蝦夷王朝と出雲王朝が深く関わっているのではなかろうか。アイヌ蝦夷王朝と出雲王朝は、女王権力系のアイヌ蝦夷王朝、男王権力系の出雲王朝と云う点で質が違うので区別されるべきだろう。恐らく女王指揮下のアイヌ蝦夷王朝は騒乱時代を生き延び得ず滅び、代わって政権が出雲王朝に引き継がれ、その出雲王朝が数十年の抗争を経て国譲り政変で最終的に高天原王朝に支配権を奪われる。

 その高天原王朝が追って天孫降臨し、九州の地からうまし国として知られる畿内へ向けて東征に向かう。これが神武天皇東征譚であり、大和王朝建国譚へと至る。大和王朝は、高天原王朝を正統としながら、国譲り政変で恭順した出雲王朝内事代主派を取り込むことで建国に成功する。ここに渡来系天津神と在地系国津神の連合政権として発足する。これが皇紀元年となる。

 ところで、この連合政権大和王朝にまつろわなかった勢力として出雲王朝内タケミナカタ派が考えられる。この派はその後、鬼族として追討される。アイヌ蝦夷派も然りで、蝦夷叉は土蜘蛛族として追討される。こうして、鬼族、蝦夷、土蜘蛛族は、まつろわぬ分子として徹底的に排除討伐されて行く。この過程で、同化帰順した派と転戦し抗戦し続けた派に分かれる。抗戦派は全国に散り、その主力は次第に東へ北へ逃げ延びた。これを追って討伐したのが大和王朝の阿倍比羅夫−坂上田村麻呂に至る征服史なのではなかろうか。

 さて、話を戻す。邪馬台国は、アイヌ蝦夷王朝系の話なのではなかろうか。とすると、高天原王朝系の正統ぶりを記す記紀神話から辿ろうとしても所詮どだい無理な話ということになる。邪馬台国論を究めんとするなら、アイヌ蝦夷王朝史に分け入るべきではなかろうか。出雲王朝譚はその入り口であり、その入り口に辿り着こうとしない史学の現状では遠く及ばないと云うべきではなかろうか。

 この指摘は、興味のない者にはどうでも良い話に過ぎず、興味有る者にはそれなりの反応が生まれて良い衝撃推理の筈である。後は諸賢に任せることにする。

 2008.10.30日 れんだいこ拝

 新唐書日本伝は次のように記している。

 みな尊を以って号となし、筑紫城に居る。彦 の子神武立ち、さらに天皇を以って号となし、移りて大和州に治す

 ある古書に曰く、として次のような記述がある。

 神武天皇即位前壬子年、日向一族筑紫を越え、邪馬台国(畿内にあったニギハヤヒ.安日彦.長髄彦らの国)を東征せんと兵を挙す。甲寅年、邪馬台国王アビヒコ.ナガスネヒコと摂津に戦うも、日向一族敗れて退き、南海道に兵を募り、戌午年、再び東征せしも、日向族のヒコイツセノミコトは和泉に討たれ、弟なるヒコイナイノミコトは難波に討たれ、第三皇子なるワケミケヌノミコトは行方不明と相成る。已未年、第四皇子なるワケミケヌノミコトは日向一族ヲ統率し、サラニ南海道、韓兵、淡路等の兵合わせて邪馬台国を攻めるに、ナガスネヒコは重き傷を受けて東国に退き、ツガル

アビヒコもまた越に退き、奥州会津にて合軍し、さらに奥州東日流に移りアラハハギゾクて安住し、ここに荒吐族の祖となりぬ。神武帝の乙亥年、荒吐五王一挙して故地邪馬台国を攻め、日向族を誅滅し、天皇を空位ならしめたるも、荒吐族のタギシミミ敗れたるによりて奥州に退く。荒吐族の大和への遠征は爾来、歴代の帝位に必ずや攻防を繰り返す。 徳帝の在位時も、荒吐族五王軍は大挙して邪馬台国を攻めるにより亦天皇を空位とあいなす。のち日向族と和交す と。

 この古文書は、記期に記される神武天皇東征伐伝承を、敗者の側から記録したものとみられる。要約すると、日向から東征伐したイツセら兄弟の率いる日向軍は、抗戦派のもう反撃に会い、三兄弟は戦死.水死し、敗戦退却し、四男のワケミケヌ後の神武天皇が新手の軍勢をもって再攻撃の末、遂に勝利した。ナズスネヒコらの畿内軍は結局、敗れて奥地へ逃げ、その後、再三、故地大和へ逆襲して大和政権をしばしば空位ならしめたという内容である。

Re::れんだいこのカンテラ時評560 れんだいこ 2009/04/11
 【邪馬台國論争終結宣言させない宣言】

 阿修羅の歴史02版で、山形明郷氏の「邪馬台國論争終結宣言」(星雲社、1995.5月初版)なる書と栃木県婦人ペンクラブ会長の吉田利枝書評が紹介されていた(「『邪馬台國論争 終結宣言』 邪馬台国は日本にはなかった…」)。れんだいこの観点と異なるのでコメントしておく。れんだいこは読んでいないので書評を参照しながら論評する。

 「著者・山形明郷氏は、在野の古代東アジア史研究家である」。在野という意味では、れんだいこも同じである。「この著作は、日本史学界はもとより、我が国史を後世に伝承させる汎日本国民への空前絶後の一大偉業である」。こういう書評に出くわすと、れんだいこも読みたくなる。しかし、れんだいこの処女作にも、こういう書評が欲しいな。

 結びは、「まさに著者・山形明郷氏ならではの蘊蓄に彩られた峻厳・明晰の一大論証であり、余りにも長歳月に跨った紛々の論争に、鮮烈な「終結」を宣した我が国古代史界希有の大書である」とある。これは読まんといかんかな。

 しかし、気になるのは内容である。◆ 古代朝鮮・楽浪・前三韓の所在地は、旧満州であった(現在の朝鮮半島ではなかった)◆ 卑弥呼の正体は、遼東侯公孫氏の係累であった(日本の卑弥呼ではなかった)◆ 倭の所在地は、古代「韓」半島であった(日本ではなかった)を骨子として「邪馬台國論争終結宣言」へと導いているようである。

 こうなると、れんだいこの立論と全く対立していることになる。れんだいこは、邪馬台国研究はこれからであり、今までのそれは緒についたばかりと認識している。よって、「邪馬台國論争終結宣言させない宣言」をしたい。どちらの認識が正しいのだろうかと云うことになる。

 ちなみに、れんだいこは、邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説を唱えようとしている。邪馬台国は大和王朝によって滅ぼされたのであり、よって記紀から抹殺され封印され、痕跡さえ破壊尽されたとみなしている。九州説なり大和説なりその他説は、所在地論争で対立しているように見えて、邪馬台国の延長上に直系的な大和王朝を捉えようとしている点で同じ視点であり、この視点からは真相が見えないと仮説している。

 記紀記述に於いて封殺されている大和王朝以前の日本の実相を捉え直すことが研究課題となっているのであり、邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説の視点は始まったばかりであり、どういう展開を見せるのか見当もつかない豊穣な沃野が待ち受けているとみなしている。つまり、どう見てもこれからの研究である。四角四面コチコチの著作権狂いの学会人の頭脳では解けまい。在野が開拓する以外あるまい。そう云うときに終結宣言されたら堪らない。早分かりも困る。これが云いたいのでコメントしておく。

 邪馬台国考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/yamataikokuco.htm)

 れんだいこの邪馬台国論
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/rendaiconoyataikokuron.htm)

 2009.4.11日 れんだいこ拝












(私論.私見)