| 第3部 | 「三世紀の畿内政権」 |

| (れんだいこのショートメッセージ) |
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三世紀頃の日本の国勢史はない。後に政権の都となる大和地方にしても、先住者について資料がない。神武天皇の東遷以前の畿内政権の考察ということになるが、既にニギハヤヒノミコト、ナガスネヒコらがいたという程度にしか分からない。 神武天皇は、大和朝廷の初代ではなく、先行する葛城王朝の初代にあたるとの説も有る。 |
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1996..4月、新聞各紙が、大阪府和泉と泉大津両市にまたがる池上曽板遺跡で、1995年に見つかっている高床建物跡の築造時期が、当初考えられていた一世紀前半より百年近くも古い、紀元前五十年代であったことが判明したと報道した。出土したヒノキの柱材を、年輪年代法測定して判明したもので、その高床建物は「神殿」とみられ、三十個の柱穴の内、十七個にヒノキの柱材が残っていたという。 「藤原宮や伊勢神宮の古材が、平城京や各地の神社に転用されたように、前一世紀の柱が、後に再利用されたと考えられる。自然科学の一例で、考古学が風邪をひくようでは情けない」とする、同志社大学教授 ( 考古学 ) のような慎重論もあったが、神社から神社へ転用されたにしても、その前、前一世紀に、それに類する建物があったということこそ重要で、この報道は、畿内が、紀元前から相当の発展を遂げていた、なによりの証拠であるともいえる。 邪馬台国九州論の多くは、大和が発展するのは、四世紀の古墳時代に入ってからとする意見が多く、それ以前は九州が栄えたとして、邪馬台国を九州にあったとする根拠ともなっていたのだが、ここにきて、その古墳時代も半世紀はさかのぼるとするのが、最近では常識化してきている。 |