第3部 「三世紀の畿内政権」



 (最新見直し2009.3.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 三世紀頃の日本の国勢史はない。後に政権の都となる大和地方にしても、先住者について資料がない。神武天皇の東遷以前の畿内政権の考察ということになるが、既にニギハヤヒノミコト、ナガスネヒコらがいたという程度にしか分からない。

 神武天皇は、大和朝廷の初代ではなく、先行する葛城王朝の初代にあたるとの説も有る。




権力移動があったものと思われる。
*「三輪山周辺」(桜井市.天理市)政治集団

*「佐紀西郡」政治集団
 応神が、日向、吉備、河内、葛城等の諸集団の支援を受けて王権の正統の後継者である忍熊王(おしくまのみこ)に象徴される軍勢と戦い、これを打倒して、いわゆる河内王家の基礎を築いた。

*河内の古市.百舌鳥古墳群政治集団




水野祐氏の業績。古事記、日本書紀に語られる古代の王朝が、実は崇神に始まる古王朝、仁徳に始まる中王朝、継体に始まる新王朝の三つに分かれるとした三代王朝交代説を唱えた。1952年発表。万世一系の皇国史観を打破するスタンスをとった。出雲に視点を置き、天皇制大和国家を相対化し、大和中心史観を批判する。




 「最新邪馬台国論争・21世紀のレポート 」は次のように記している。

 1996..4月、新聞各紙が、大阪府和泉と泉大津両市にまたがる池上曽板遺跡で、1995年に見つかっている高床建物跡の築造時期が、当初考えられていた一世紀前半より百年近くも古い、紀元前五十年代であったことが判明したと報道した。出土したヒノキの柱材を、年輪年代法測定して判明したもので、その高床建物は「神殿」とみられ、三十個の柱穴の内、十七個にヒノキの柱材が残っていたという。

 「藤原宮や伊勢神宮の古材が、平城京や各地の神社に転用されたように、前一世紀の柱が、後に再利用されたと考えられる。自然科学の一例で、考古学が風邪をひくようでは情けない」とする、同志社大学教授 ( 考古学 ) のような慎重論もあったが、神社から神社へ転用されたにしても、その前、前一世紀に、それに類する建物があったということこそ重要で、この報道は、畿内が、紀元前から相当の発展を遂げていた、なによりの証拠であるともいえる。

 邪馬台国九州論の多くは、大和が発展するのは、四世紀の古墳時代に入ってからとする意見が多く、それ以前は九州が栄えたとして、邪馬台国を九州にあったとする根拠ともなっていたのだが、ここにきて、その古墳時代も半世紀はさかのぼるとするのが、最近では常識化してきている。

 













(私論.私見)