1945年6、GHQの最初の取り組み

 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和元/栄和4).2.16日
 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2002.10.20日 れんだいこ拝


【GHQの最初の取り組み】
 9.6日、トルーマン大統領は、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認、マッカーサーに指令している。GHQが早急に取り組んだことは、「日本が再び米国又は世界の脅威にならないようにする為の武装解除.非軍事化」であった。日本軍国主義的要素の徹底的な破壊であり、この延長上での国家再建となった。こうして軍隊及び軍事施設の解体及び戦犯の追及から着手された。

 この経過は次の通りに進行した。GHQが焦眉に取り組んだことは、戦争の主柱であった帝国軍隊の解体を手始めとする「天皇制軍国主義とその社会的基盤の解体」となった。9.2「指令第1号」は、軍需生産全面停止を指令した。続いて戦争責任者の追及に向かい東条英機以下その内閣時の閣僚を筆頭に戦争指導犯罪者として逮捕され(9.11)、以後容疑者が次々と収監されていった。東条は自らが作った「生きて虜囚の辱めを受けず」、「死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の通り自殺を図ったが一命をとりとめた。開戦当時の陸軍参謀総長杉山元帥とその夫人、東条内閣の厚生大臣小泉親彦、文部大臣橋田邦彦らが自殺している。

 この動きとワンセットで獄中反軍国主義者の解放が指示されることになった。他方で、「基本的人権の尊重や民主主義的組織の形成が奨励、育成、指導」が為された。この流れで、GHQ指令により党の獄中幹部も又全面釈放されることになった。

【GHQ内の対立について】
 ところがGHQ内の意思統一が一枚岩であった訳ではない。ニューディラー派と反ニューディラー派が対立しており、初期対日政策はニューディラー派が取り仕切ったものの、次第に駆逐されるという過程を辿った。GHQ政治スタッフ要員の中には多くのジャパノロジストと呼ばれる日本専門家が集められていた。その中の多くはニューディーラーであった。ニューディーラーとは、1930年代のアメリカでルーズベルト大統領によって推進された幾分理想主義的な修正資本主義政策で、多分に社会主義的色彩をも持っていた。このニューディール政策を信奉する者達のことで、この連中が当初のGHQに相当数入り込んで、格好の実験場として日本改造計画に取り組むことになった。

 吉田茂は「回想十年」で、次のように評定している。
 「これらのニューディーラー達は、本物の社会主義者とまでは云わないにしても、一種の統制経済の信奉者であり、人為を以って一国の経済の在り方や動きをどうにでもできると考え、彼らが描いた青写真を基にして、平素の持論を日本で実験してみようという野望と熱意に満ちていたようであった」。

 GHQ内にはこの連中の行き過ぎを危惧する動きもあり、こうしてGHQ内の指揮系統には混乱がみられ、しばしば内部対立の起因となった。その典型は民政局「GS(ガバメント.セクション)」派と「G2(参謀第二部)」派が対立し、縄張り争いを発生させた。GS派のキャップはホイットニー少将で、配下にケージス大佐、キーレン等がいた。「民政生局にはコミュニストがいる」と云われるぐらい急進的に戦後日本の民主化を推進し、社会機構の変革を意図していた。どちらかというと社会党に対して友好的な態度を示すことになった。

 これに対し、G2派のキャップはウィロビー少将で、どちらかというと保守的な連中が配下に多く、GS派の「日本民主化政策の行き過ぎ」を懸念し、「却って混乱をもたらし、革命を誘発する」ことを危惧していた。どちらかというと自由党に対して友好的な態度を示すことになった。「G2派」は、旧特高を利用し、検察関係者を巧みに利用していた形跡がある。

 この両派の対立が昭電疑獄や経済パージに見られるように、しばしば日本の内政.パワーポリティクスに大きな影響を与えることになった。政局に大きく影響を与えた鳩山追放に関してはGS派がリードしたらしく、G2派はこれを冷ややかに眺めるという按配であったと伝えられている。但し、ニューディーラー達が活躍したのは占領初期の頃であり、次第に本国に帰還を命ぜられていった。47、48年の占領政策の転換以降は、G2派が急速に勢力を増し、戦後民主政治の抑止に大きな役割を果たした。

 他にも軍人と文官、幕僚部同士のセクション争い、ニューディーラーと反ニューディーラー、リベラル派と保守派などの対立要因があった。ワシントン国防省.国務省と在日GHQとの間にも対立が存在した。対日講和、経済集中力排除政策、反共政策をめぐって露見することになった。GHQ内親日派は、こうして陰謀策略に満ちた内部で日本の進歩的貢献策をやり繰りしていくこととなったようである。

 その一例として労働部長として来日したテオドール.コーエンの活躍が注目される。コーエンはこの時28歳であったが、労働運動の育成と規制という両面から活動した。「ストライキその他の作業停止は、これが軍事的安全のための軍事作戦を妨害するか、あるいは占領目的ないし必要を直接侵害すると占領当局が判断した場合にのみ禁止さるべきである」という観点から、次のように進言している。
 概要「占領軍当局が対日占領に際し、民主的な労働組合を組織さすことは、労働者支配の組合の成長が、日本の民主的組織と民主思想の発展に役立つ重要なきっかけになるという点で有利である。占領軍の支持があれば、日本で、真に土着の労働組合組織が、労働者の下からの盛り上がりとして芽生えてくると思われる。この芽生えを可能にするために、これを妨害するような法令、制限を停止させ、占領軍が好意をもって、独立的労働組合主義の復活を見守ることを、日本の労働者に確約すべきである」。

 米政府のニューディーラーたちは、反軍国、反封建、反独占の三本柱に基本的立場を据えて、この三本柱の占領政策を遂行していく過程の中で、日本の労働組合の意義を評価し育成していったことになる。労組育成のもう一つのねらいは、低労賃による日本経済のダンピング攻勢抑止もあったということではある。
 上記に関連して次の一文がある。これを転載しておく。
 転載元「フリーメーソンとは何か

 「占領日本を支配したダグラス・マッカーサー元帥は、CIAをその草創のころから嫌い、信用していなかった。1947年から50年まで東京のCIA支局を極力小さく弱体にして活動の自由も制限していた。元帥には同時のスパイ網があったのだ。広島、長崎に原爆を投下した直後から構築し始めたものだった。CIAはこのスパイ網を,元帥から受け継ぐことになったが、これはいわば毒の盛られた遺贈品だった。

 マッカーサーを軍事諜報面で補佐していたのはチャールズ・ウイロビー少将だった。ウイロビーの政治的立場は、米陸軍の将官の間では最も右よりであった。ウイロビーは1945年9月、最初の日本人スパイをリクルートすることで,敗戦国日本の諜報機関を牛耳ることになった。この日本人スパイは,戦争終結時に参謀本部第二部長で諜報責任者だった有末精三である。有末陸軍中将は1945年の夏、戦勝国に提出するための諜報関係資料を秘密裏に集めていた。それが,敗戦後自分自身の身を守ることになると考えていた。多くの高位にある軍人同輩と同じように、戦争犯罪者として起訴される可能性もあった。が、有末はかっての敵の秘密工作員となることを自ら申し出たのである。それはドイツのラインハルト・ゲーレン将軍がたどったのと同じ道だった。

 ウイロビーの最初の指示は、日本の共産主義者に対する隠密工作を計画し実施せよというものだった。有末はこれを受けて,参謀次長の河辺虎四朗に協力を求め、河辺は高級指揮官のチーム編成にとりかかった。1948年、アメリカの政治戦争の生みの親であるジョージ・ケナンは、日本については政治の改革よりは経済の復興の方がより重要であり、実際問題としても,実現が容易であると主張していた。日本の産業界を解体し、解体した機材を戦争保障のために中国に送る、共産主義者が今にも中国を制覇しようとしているときに、そうした措置をとることにどういう理屈があるのかとケナンは問いかけた。ケナンの力によって、アメリカの対日政策は1948年までに急転換を遂げた。日本の当局者に対する戦争犯罪訴追の脅威と占領の懲罰的な性格は緩和され始めた。これでウイロビー指揮下の日本人スパイにとっては仕事がやりやすくなった。

 ウイロビーはその年の冬、暗号名タケマツという正式な計画を発足させた。この計画は二つの部分に分かれていた。タケは海外の情報収集を目的とするもの、マツは日本国内の共産主義者が対象だった。河辺はウイロビーにおよそ一千万円を要求し、それを手にした。スパイを北朝鮮、満州、サハリン、千島に潜入させること、中国、朝鮮、ロシアの軍事通信を傍受すること、それに中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し、台湾に日本人の有志を送り込むことなどを約束した。

 ............CIAはその実体を知り驚愕する。日本人スパイは諜報網などというものではなく、右翼団体の復活を狙う政治活動であり、同時に金儲けのためのものというのが結論だった。『地下に潜った右翼の指導者』は諜報活動を『価値ある食いぶち』とみなしていたとCIA報告は当時の状況を要約している。

 アメリカの諜報機関が日本で行った『お粗末な仕事のやり方』の古典的な見本は、政治的マフィア児玉誉士夫との関係だった。児玉は1911年生まれ。21歳の誕生日を迎える前に、帝国議会議員に対して殺害の脅迫をしたかどで五ヶ月間投獄された。21歳のとき、暴力団・右翼反動派の集まりである天行会とともに政治家と政府当局者に対する暗殺を計画したが発覚、投獄されたが、四年と経たないうちに釈放されて極右青年運動に着手。これが戦前の日本の有力な保守派の指導者の支持を得た。戦時中は上海に足場を置き、五年間にわたって戦時の最大規模の一つと言われる闇市を取り仕切った。占領中の中国を舞台に数千人の(児玉機関の)工作員が、戦略金属から阿片に至るまで、日本の戦争遂行機関が必要とするあらゆるものを買い付け、盗み取った。戦争が終結したとき、児玉の個人財産はおよそ一億七千五百万ドルに上った。................

 児玉は1948年、アメリカ占領下の拘置所から釈放され、日本の政治の行く末に重要な役割を果たすことになる。.......アメリカがその狙いを達成するのを助ける真に強力な日本人工作員を雇い入れるまでにはさらに数年を要することになる。その任務はまさにアメリカの国益に資する日本の指導者を選ぶことに尽きていた。CIAには政治戦争を進めるうえで並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。それは現ナマだった。CIAは1948年以降、外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で、将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった」。(EGACY OF ASHESより一部転載、文芸春秋発行「CIA秘録」)。

【G2派のキャップ・ウィロビー少将考】
 「ウィキペディアチャールズ・ウィロビー」その他を参照する。ウィロビーの国際ユダヤの一員としての役割が全く記述できていない。これについては追々書き上げる予定である。
 チャールズ・アンドリュー・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby)はアメリカ陸軍の軍人。最終階級は少将。ダグラス・マッカーサー将軍の情報参謀で、日本降伏後はGHQ参謀第2部 (G2) 部長として、戦後日本の進路に影響を与えた人物。「小ヒトラー」と呼ばれた反共主義者としても知られ「赤狩りのウイロビー」とも呼ばれた。

  1892.3.8日、ドイツのハイデルベルクにてドイツ人の父 (T.von Tscheppe-Weidenbach) と、アメリカ人でメリーランド州ボルチモア出身の母エマ・ウィロビー (Emma Willoughby) の間に生まれる。初め名前はドイツ語読みで Adolf Karl 「アドルフ・カール」といい、幼少はドイツ人として過ごす。地元ハイデルベルク大学卒業後にアメリカ人に帰化、母方の姓を称すようになる。「ドイツ人の父」とあるが、ユダヤ系ドイツ人と思われる。ゲティスバーグ大卒。

 1910年、にアメリカ陸軍に一兵士として入隊した。第一次世界大戦を通じて叩き上げで昇進を重ね、1941年に大佐だったウィロビーはダグラス・マッカーサーの情報参謀としてアメリカの植民地のフィリピンに赴任した。

 1941.12月、アメリカも参戦した第二次世界大戦中の日本軍とのフィリピン攻略戦では、日本軍に敗走したマッカーサーと共にフィリピンから脱出している。

 1942.6.20日、連合国軍准将に昇進している。情報を重視するマッカーサーによって連合軍翻訳通信班 (ATIS) (捕虜の尋問や命令文章の翻訳を担当)、連合軍諜報局 (AIB) (諜報・謀略担当)が設置されるとウィロビーは元締めとして辣腕をふるった。特に日系アメリカ人や現地民を駆使した諜報活動は日本軍の動きをことごとく察知した。

 1945.4.12日、アメリカ陸軍より正式に少将に昇進した。 

 1945.9.2日、戦艦「ミズーリ」での日本の連合国軍への降伏文書調印式にマッカーサーの幕僚として参加している。

 GHQでは参謀第2部 (G2) 部長として諜報・保安・検閲(特にプレスコード)を管轄した。731部隊の隠蔽工作にも関与している。労働組合活動を奨励し日本の民主化を推進する民政局長のコートニー・ホイットニー准将や次長のチャールズ・ケーディス大佐を敵視し、縄張り争いを繰り広げた。右翼の三浦義一、旧軍の河辺虎四郎らも使って反共工作を進めた。「反共工作」とあるが正確には国際ユダヤ諜報員としてのロビー活動に明け暮れたと記すべきだろう。GHQ内におけるG2の影響力からもマッカーサーの重要な側近だったがことが窺えるが、ホイットニーほどは人物的な信頼を勝ち得ておらず、ホイットニーに認められていたワンノックでマッカーサーの執務室に入れる(面会の際に秘書官を通さなくていい)権限は、ウィロビーには認められていなかった。要するに、通説は「マッカーサーの右腕にして情報責任者」と説くが実際は「国際ユダヤ組織から送り込まれたマッカーサーのお目付け役」だったと考えられる。ちなみに、マッカーサーは彼のことを「マイ・リトル・ファシスト」と呼んでいた。

 極東国際軍事裁判の折、A級戦犯の容疑者は第一次裁判で裁かれた東條英機ら28名の他に22名ほどいたが、ウィロビーはエージェント契約と引き換えの釈放甘言で誘い、配下にしていった。22名とは、青木一男、安倍源基、阿部信行、天羽英二、鮎川義介、安藤紀三郎、石原広一郎、岩村通世、岸信介、葛生能世、児玉誉士夫、後藤文夫、笹川良一、正力松太郎、須磨弥吉郎、高橋三吉、多田駿、谷正之、寺島健、梨本宮守正王、西尾寿造、本多熊太郎、真崎甚三郎、里見甫。このうち岸信介、正力松太郎、児玉誉士夫、笹川良一らがよく知られている。

 「ウィキペディアチャールズ・ウィロビー」fは次のようにも記している。

 「判決後、ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている」。

 GHQが許可した戦後初の渡米者で、日米文化振興会(現日米平和・文化交流協会)を興した笠井重治が、「有力な情報提供者」として親交があった事で知られる(袖井林二郎「マッカーサ-の二千日」)。また、A級戦犯においてウィロビーが釈放要求を出すのに慎重だったと言われている児玉誉士夫とは、その後児玉の通訳となり、「ロッキード事件」の最中に変死した福田太郎を、自著の翻訳者にするなど、児玉とも何らかの関係にあったと推測されている。

 1948年、極東委員会でソ連のテレビヤンコ中将は日本海海戦の意趣返しとして戦艦三笠の解体・廃棄を主張したが、ウィロビーは日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだと反論して阻止。結果、三笠の廃棄は免れた。後にチェスター・W・ニミッツ海軍元帥が復興運動を行った関係で日本人にはこちらの方が知られているが、ウィロビーもまた三笠にとっては恩人といえる。

 1950年、朝鮮戦争の際にウィロビーは「中国共産党軍(中国人民志願軍)は介入しない」とする報告をマッカーサーに行い、マッカーサーはこれを元にハリー・S・トルーマン大統領に対し中華人民共和国参戦の可能性を否定した(デービッド・ハルバースタム「ザ・フィフディーズ <第1部>」 新潮社より)。これが全くの誤認であったことは、後に戦場で実証されることになった。

 GHQでの活動の他情報の専門家としてCIA設立に関与したのち1951年に退役、スペインに渡ると独裁者として知られたフランシスコ・フランコ将軍の非公式のアドバイザーになる。

 1968年、引退し、妻とフロリダ州ネイプルズで引退生活を初める。

 1972.10.25日、死亡した(享年80歳)。

 ウィロビーのG2がまとめた日米の人物調査ファイルは、近年の機密解除で、戦後史の研究資料として調査研究されているが、ウィロビーのおぼえがめでたくない人物に対しては貶めるための捏造された記述が多いとされている(デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』より)。

 著書に「知られざる日本占領 ウィロビー回顧録」(延禎監訳、番町書房、1973年初版)がある。
 「赤色スパイ団の全貌 ゾルゲ事件」(福田太郎訳、東西南北社刊、1953年)がどう関係するのか分からないが、「ウィキペディアチャールズ・ウィロビー」に記載がある。

【東久邇宮内閣の成立】
 8.17日、「陛下は非常にやつれておられまして、重苦しい言葉で、次期総理をやってくれ」と頼まれたことにより、東久邇宮稔彦内閣が成立した。皇族の東久邇宮稔彦内閣(45.8.17~)が組閣され終戦処理を行うことになった。初閣議で、東久邇宮首相は、「16日組閣の大命を拝した際、天皇陛下におかせられては『憲法を尊重し、軍の統制、秩序の維持に努め、時局の収拾に努力せよ』とのお言葉を賜った。このお言葉を十分に体して国難突破に邁進したい」と述べている。

 閣僚の人選には近衛文麿、緒方竹虎(朝日新聞社もと主筆)、木戸幸一らがあたった。官房長官・緒方竹虎。近衛文麿が副総理格として国務大臣、外相には近衛文麿元首相らの意向により重光葵が就任した。陸相は東久邇宮が兼任、後に下村定。海相は米内光政、内務相・山崎巌(特高官僚、もと東条内閣の内務次官)、大蔵相・津島寿一(官僚)、法相・岩田百造(弁護士出身)、文部相・前田多門.厚生相・松村謙三、農相・千石興太郎(産業組合出身)、軍需相・中島知久平(中島飛行機の社長、政友会)等々の布陣となった。日本占領軍のスムーズな受け入れと引き続いての敗戦処理が目的の内閣となった。

 緒方は、日本最初の右翼団体で、明治・大正の大陸侵略政策を推進した玄洋社(首領は頭山満)の同志であった。緒方は「絶対にデマだ」と強く否定していたが、東久邇の「一皇族の戦争日記」によれば、この年のはじめ玄洋社の顧問に就任していた(231P)ことが判明する。

 東久邇内閣の政治理念は、憲法の改正の必要は夢思わず、明治憲法と五箇条のご誓文の運営を民主化していけば、ポツダム宣言の履行には何ら支障をきたさないとの見通しで万事処すことにあった。この内閣の下で、①.終戦手続き、②.内外の陸海軍の武装解除による非軍事化、③.非軍事化の徹底のための民権自由化、④.治安維持法の廃止、⑤.政治犯罪人の釈放、⑥.特別高等警察制度の廃止などが行われたが、内閣の主導で行おうとすれば行き詰まり、結局「GHQ」指令により完遂されていくことになった。

 8.17日、スカルノが、インドネシア独立を宣言した。
【特殊慰安施設協会】
 8.18日、敗戦3日後のこの日、内務省は、警保局長通達(無電)で、「外国駐屯軍慰安施設等整備要項」を、全国都道府県に発した。地方長官に占領軍向け性的慰安施設設置を指令したことになる。それは、「外国駐屯軍に対する営業行為」は、警察署長が設定する「一定の地域を限定」して「性的慰安施設、飲食施設、娯楽場」設備の急速な充実を図る、というものであった。つまり、国家公認のみならず後押しでの売春施設を事業化したことになる。政府の財源で運営された「保養慰安協会」(RAA) の援助の下に、警察と東京の業者は売春宿のネットワークを設立した。

 8.27日、占領軍向け性的慰安施設が大森海岸の小町園で開業。8.28日、東京の南隣の厚木へ進駐軍の先行隊が到着、その日の夕暮れまでに軍は最初の売春宿を見つけることになる。記録には「慰安所が開設されて以降予想通りに大繁盛だった。慰安婦たちは...昨日の敵に自らを売ることに抵抗があり、言語や人種の違いなど彼女達にも最初は大きな戸惑いがあった。しかし彼女達は高額の賃金を受け取り、徐々にその仕事を受け入れるようになった」と書かれている。RAAの情報課長だった鏑木清一氏は「私はRAA幹部と共にそこに急いで向かったが、路上に500-600人の米兵が列を作っているのを見て驚いた。アメリカの自治警察が兵達をコントロール出来ない状態だった」、「進駐軍の兵は前払いでチケットとコンドームを与えられた」と1972年の回想録で記している。最初のRAAの売春宿「小町園 - The Babe Garden」は当初38人の売春婦だったが、必要に迫られててすぐさま100人に増員した。女性一人当たりが一日に15-60人を相手にした。鏑木氏によると、1945年の末までに35万人の米軍が日本に駐留し、米兵のためにRAAは最高時7万人の売春婦を雇っていたとある。

 東京では警視庁が指導して業者にやらせる方式で「特殊慰安施設協会」を発足させ、東京銀座街頭に「新日本女性に告ぐ」と募集広告が出された。なお、新聞に慰安婦募集の広告を掲載している。
 「時有り、命下りて、かねて我らが職域を通じ戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。命重く且つ大なり。---『昭和のお吉』幾千人の人柱の上に、狂乱を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」という意図の下、「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」。

 このようにして、かなり大々的な慰安所設置が行われ、この結果、戦後の混乱の中で食料の確保にも事欠く家庭の女性たちを売春へと走らせることとなった。アメリカ人の歴史学者ジョン・ダウアー氏の著書『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本』によると、売春婦との一回が15円で、タバコ一箱の半額であり、「突然の高需要のために売春宿の運営者は、認可された売春婦でない女性をやむなく公募した」とある。慰安所はアメリカに大人気となったが、連合軍司令部は12.15日に慰安所への立ち入り禁止令を出す。つまり、3カ月で慰安所は閉鎖されたことになる。翌46年1月性病の蔓延などを理由に「GHQ」が公娼制度を廃止する。

 この間「政府の努力」で増加し1万人に達した慰安婦たちは、路頭に迷い、非公認の街娼となって行った。俗に、パンパンガールと呼ばれている。
(私論.私観) 日本政府の「外国駐屯軍慰安施設設置」について
 これを道徳的に批判する向きもあるが、逆にいえば日本支配階級の統治技術がかなり高度なものとも考えられるのではなかろうか。「従軍慰安婦問題」にも通底している施策であるように思われる。これを道徳的に批判するだけにとどまるのなら何も批判していないことになろう。支配階級をして、現実がこのような施設を必要とさせたのであり、社会秩序維持の観点から保安施設として「外国駐屯軍慰安施設設置」が為されたことを窺うべきではなかろうか。批判することはできるが、ならばさてどうすべきであったのかという対案的観点から判断せねばなるまい。

【「米軍慰安婦問題」考】
 「米軍慰安婦問題」に関しての貴重な検証記録として川島高峰「被占領心理」がある。その「第一節 己を以て他を測る」、「第5節 特殊慰安施設」を転載しておく。
 「第一節 己を以て他を測る」

 占領軍「進駐」に際して暴力的行為や略奪、特に婦女子の強姦といったことが国民の間で心配されていた。これは戦前の帝国政府による「鬼畜米英」の宣伝が民衆に徹底的に浸透していたためである。特に婦女子に不幸な事態が起こるに違いないという予測は広範な広がりを示していた。内務省は進駐軍に対する心得として、米軍の進駐は「秩序正シク極メテ平穏デアリ、彼我平和的雰囲気ノ中ニ事態ハ進行中デアルカラ一般国民ハ不安動揺ヲナスコトハ絶対禁物デアル」としていたが、その一方、「ふしだらな服装をせぬこと、また人前で胸を露わにしたりすることは絶対にいけない」と警戒を盛んに呼びかけていた。しかも、その対策となると「自分ノ權利(生命、貞操及ビ戝産)ハ飽迄自分デ主張スルコトガ必要デアル」、「婦女子は徒らに恐れるよりは毅然たる態度で、飽迄反發することが肝要であるし、又其の方が却つて難を免れることが多い」とかえって心細くされるばかりのものであった。このため早期に進駐を迎え入れる予定にあった地域では、婦女子の疎開を指導した市町村が数多くあった。(略)

 「第5節 特殊慰安施設

 RAAの誕生

 政府は占領軍「進駐」に際し「婦女子」に起こるであろう強姦等の暴力行為を未然に防ぐ手段として、占領軍専用の国家売春施設の準備にいち早く取り組んでいた。しかし、これは何も政府だけが率先した結果ではなかった。例えば、敗戦直後の東京では「異口同音最モ懸念シ居レルハ、婦女子ニ対スル暴行陵辱云々ノ恐怖ニシテ、次ニ食料問題、産業戦士ノ帰趨問題等ナルガ、就中婦女子ニ関スル問題ハ深刻ヲ極メ、速ニ疎開ノ方針若ハ敵上陸兵ニ対スル完全且大規模ナル慰安娯楽施設(特ニ接待婦)ノ確立ヲ要望スル者多キ状況」と報告されていた。また、「進駐」予定地のある三重県からも「私達がこんな事を云ふのは変ですけれども娼妓さんや芸妓なんかをうんと増して欲しい」、「アメリカ軍が民家へ来ない様な彼らを満足せしむる享楽街を早く作ってほしい」といった女性の会話が報告され「婦女子に此の要望多し」と報告されていた。このように「性の防波堤」は官民共有の発想であり、このことは他民族に残虐なものは自民族にすら残虐であることを物語っている。

 既に当局は、敗戦三日後の八月一八日には「外国駐屯慰安施設等整備要項」とする指令を内務省から各都道府県に出していた。当時これを担当した大蔵省主税局長池田勇人は予算捻出に際し「これだけの金で日本婦女子の貞操が守られるならは安い」と融資を快諾したという。かくして、東京では警視庁の音頭とりで八月二六日、特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association、略称、RAA)が設立された。結成式は皇居前で行われ「『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と大層な声明が読み上げられたのであった。かくして、最初の慰安施設「小町園」が八月二八日、東京大森に開かれた。

 以上がこの特殊慰安施設設立の経緯についてこれまで明らかにされてきた点である。しかし、ここで極め興味深い事実を指摘しておきたい。それは、連合軍「進駐」に先立ち「進駐」等の手順を決めるために行われたマニラ会談(八月二〇日)において、「慰安施設」の要求が連合国側よりあった可能性である。マニラ会談の直後、八月二二日付けで内務省警保局は地方総監、各庁府県長官宛に「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書を発令している。これはマニラ会談の雰囲気や今後の「進駐」日程等を、伝えたものであったが、その最後の項目につぎのように記されていた。「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」。これは、会談当時の模様を伝えるいわば間接情報であり、そのことの真偽、つまり、これが会談における公式な要求としてでたのか、或いは、聯合軍側の代表の私的な会話を伝えたものなのかを判断することはできない。又、仮にこれが公式な要求であったとしても「慰安」の意味の日米間での理解の相違の可能性もある。そもそも、日本政府による慰安施設の準備は、河辺虎四郎ら日本代表が出発する以前に命令されており、この資料を以て特殊慰安施設がアメリカから強制されたものであると証明することはできない。しかし、アメリカ側がこのような施設の要求をしたことを完全に否定することもできないのである。

 接待婦の募集

 当時、芸娼妓の間では「アメリカ兵の生殖器は非常に大きくて膝のところまでぶらさがつている」、「日本女性がアメリカ兵と交わればその身体が二つに裂けてしまう」といった噂が流布していた。特殊慰安は悲壮な決意をしいるものであった。警視庁保安課では、八月二一日、都下の遊興業者を麻布小学校に集め「進駐」軍に対する慰安接待の協力を懇請した。しかし、この前代未聞の要請に吉原の業者成川敏は「きのうまでの敵の異人に対し、身をまかせて慰安しろと、強引に命令したところで、たとえ娼妓たりとも、果して二つ返事で『ハイ、承知しました』と、ばかりにいうかどうか、まず娼妓たちの意向を確かめねば申上げられない」と難色を示した。さらに瀬谷(名は不明)尾久芸妓屋組合長は「御命令をもつて国のためだから、女たちにつとめさせろ、とあるが、御用が済んだあとは、如何様にしていただけるのか、この際しつかりした補償の言葉を承わりたい」と切り込んだ。これに大竹保安課長は「追ってご返事する」と言葉を濁した。娼妓の会合では「すすり泣く者さえあった。やがて一人がキツと形を改めて、『ご奉公いたしましょう』と、叫ぶように答えたので、あとの女たちも無言のうちに、頭を縦に振つた」という。

 同様のことは地方でも展開していた。茨城県土浦警察署管内では慰安施設の協力要請に対し、ある業者は、かつて本土決戦を前に、警察は「暴行陵辱に対しては甘んずるように見せかけて、米兵の睾丸を握ってしめ殺してしまうようにしてもらいたい。一人一殺の主義で行けば敵の上陸部隊を全滅させることができるのである、といったではないか」と反問があった。これに対し警察署長は「終戦の御詔勅をいただいた後は、大御心に副い奉り、平和のために死力を尽くさねばならない」とし、「いままでとその方法は違っていても、いずれも国に尽す道は変わっていない。」と答えていた。しかし、「特高係は杉山主任警部補以下、慰安婦になり手がないのでその説得にいそがしい。二十名は欲しいのに希望者がなく、やっと六名だけ出来たような始末」であった。同警察署では、警察合宿所を急遽、慰安施設に転用することとなった。これについて署長は「警察権逸脱のどんな問責も非難も、治安維持という大乗的見地から甘受する覚悟」であったという。

 「国に尽す道は変わっていない」との官僚的合理性は自己欺瞞に過ぎる。民族の純血を護るために、その純血を売ることが「大御心に副い奉」ることであるとすれば、これはあきらかに戦前説かれた「日本婦道」や「家の本義」と一致しえないのである。それは「いままでとその方法は違って」いるのみならず、その本質も違うのである。もし、同じ点があるならば、それは自民族に対する残虐さであり、当事者意識の欠如である。

 RAAはその声明に「幾千人かの人柱」としていたが、当初から職業的な芸娼妓だけでは「数」が足りないと判断されていた。このため新聞広告等を通じ広く一般にも募集することとなった。これには「米軍支給の食料が与えられた」ために、東京では最初の応募だけで一、三六〇人という予想外の女性が集まった。愛知県では「県内有力者」が「国際高級享楽ナゴヤクラブ(仮称)」を設立したが、そのダンサー、女給募集状況、募集者の志望動機等の調査についの報告書が提出されている。これによると九月十四日から十七日の四日間に行われた募集選考に六八〇名の女性が応募していた。その志望動機は「イ)外人に対する好奇心に基くもの 四〇%、ロ)享楽的職業に憧憬するもの 二〇%、ハ)良好なる待遇宣伝に眩惑されたるもの 二五%、ニ)家計困難に因るもの 五%、ホ)その他 一〇%」であった。この内、イ)、ロ)は「比較的年少にして未婚」の者が多数を占め「裏面的淫売行為を暗黙裡に是認しおりと認められる者約二〇%」であり、ハ)、ニ)は「既婚婦人及経験者等にして大体売淫行為」である事を自覚していた。仮にイ)の「外人に対する好奇心」がアメリカ文明に対する憧憬であったとすれば、「裏面的淫売行為」を是認していなかった八〇%の女性にとって、この募集は完全に詐欺行為である。しかも、イ)、ロ)を合わせた全体の六〇%の内の八割が慰安の意味を理解していなかったということは、つまり全体の四八%、つまり約半数は騙されて応募していたということになる。

 そもそも、政府自らが推進しながらその応募者の志望動機を「外人に対する好奇心」とか「享楽的職業に憧憬」、「良好なる待遇宣伝に眩惑されたるもの」と評価するとは、あまりに欺瞞・偽善が過ぎる。このイ)、ロ)、ハ)だけで全体の八五%、約五八〇人になるというのである。しかし、例えば、東京ではこのような調査結果は確認はされていないが、「一般からの応募者は、大体においてモンペ姿の、ボサボサ頭の女が多くて、国家への奉公というよりも生活のために身を投げて来た者」と観察されていた。名古屋の調査は、そもそも設問類型からして、どう考えても女性に対する封建的蔑視が、女性を潜在的通敵者とみなしているようにしか思われないのである。それは丁度戦争末期、在日朝鮮人が空襲激化と共にスパイのやり玉にあげられるようになったのと似通った心情である。フェミニズムにおいて、女性差別の男性心理は、しばしば、「女は最後の植民地」と表現されるがこれは女性差別の核心を衝いたものである。集めるときばかり、「国のため」とか「天皇のため」とか都合の良いことばかり述べ、実態は紛れもなく優良富裕階層の婦女子の貞操のための「性の防波堤」であった。

 運営の実際

 「進駐」初期の慰安施設は、慰安婦は勿論のこと、業者も「命を的に」運営されていた。というのは、アメリカ兵たちは慰安施設に従事する男性に対しては「いきなり鉄拳を喰らわせ、蹴飛ばしにかかる」。このため「殺され損なつた施設所の人は、一人や二人ではなかった。軽くて片眼をつぶし、足をポツキリやられるなぞ、全く業者は命がけ」であった。また、神奈川では業者が約三〇戸、接待婦約一〇〇名がいた。先の土浦警察署では管内での慰安施設の準備に際し、横浜の実態調査をしていた。その報告書によると、施設のほとんどは「バラック建にして内部を望見」できるようなものであり、「接待婦一人に対する一日接待客数最高五十人、接待婦は局部に『フノリ』又は『クリーム』を用う」とあり、特殊慰安施設の「接待」は過酷を極めた。帝国政府にとってこのような施設自体が国家の捨て石に過ぎなかった。政府は従軍慰安婦と同様、特殊慰安施設を直接、国家運営するのではなく民間業者に委託する形態をとった。岩手県からは元赤誠会岩手支部長菱谷敏夫が「進駐軍受入に関する慰安施設関係者の中に入り陣頭に立ちて遊廓地帯の上田移転問題之れが設置計画等に奔走し居る状態」と報告されていた。特殊慰安事業では裏社会に通じた右翼団体が重要な役割を果たしていた。

 国粋同盟の笹川良一はその代表例である。大阪府からの報告によると、国粋同盟は「進駐軍慰安施設を経営すべく之が準備に忙殺され」、「総裁笹川良一の実弟笹川良平を社長に旧幹部岡田太三郎、松岡三次を総務として連合軍慰安所 アメリカン倶楽部」を大阪市南区西櫓町元三笠屋に九月一八日から開業した。敗戦直後、国粋同盟は解散し当時は「日本勤労者同盟」という新組織への再編を行っており、旧幹部岡田太三郎も「新組織に積極的に参加すべく決意」していた。これに対し笹川良一は「該事業は資本百数十万円を投じたる大事業なれば運動(新組織再編)は他の適当なる人物に任し岡田は慰安施設経営に専念すべしとの命」を出していた。

 このように経営主体としては民間業者への委託がとられたが、先の池田の発言にもあるように、その資金源は政府からでていた。従って、それは常に政府の監視下にあり、半官半民の国家売春とみても差し支えないだろう。それどころか、慰安施設の管理は日米協同の下に行なわれていたのである。

 岩手県ではこの「慰安施設ノ整備促進ニ関スル事項」は県警保安課が担当していた。同文書によると、約百名の分駐隊がその管内に「進駐」した一関警察署からは、「進駐」当時の様子が報告されていた。分駐隊指揮官デュール大尉は九月二三日、一関駅到着後、部下全員を集め指示や注意を与えたが、その中には次のような「注意」も含まれていた。「酒、ビール等モ警察署長ニ頼メバ買ツテ貰ハレルダロウ(ママ)。又女モ何人カ居ルラシイ(一同笑フ)」。「一同笑フ」とあるが、これは単なる冗談ではない。九月二十五日には、「花川戸慰安施設ノ検梅状況等ニ関シ進駐軍々医ヨリ三神診療医ニ質問、状況聴取セリ」とあり、さらに九月二十六日には、「進駐軍々医大尉外三名山日村娼妓診療所ニ至リ娼妓六名(一名疾病)ノ検診ヲ了シ明二十七日ヨリ毎日午後一時ヨリ午後五時三十分迄登楼スベキニ付同時刻以外ニハ絶対ニ登楼セシメザル様注意アリ」とある。このように、特殊慰安施設の運用は警察がこれを民間業者に斡旋し、「進駐」軍はこれを公認しさらにその衛生管理に加わっていた。

 「進駐」軍関係の記録には、日本警察の連合軍将兵に対する警備活動に感謝する意の言辞が、しばしば、見受けられる。実際、警察は慰安施設の斡旋のみならず、所謂「オンリー」の世話までしていた。先に引用した土浦警察署長は「進駐」軍士官の要求により「オンリー」三名のみならず、そのための借家と、自転車まで用意する羽目となった。米軍士官は「オンリー」を「令夫人」の如くつれ歩き「まともに見られない熱愛の情景」だった。この三件の借家は、場所もあろうに管内の小学校の前にあったため、小学生の借家への投石が絶えなかった。このため、警察は学校を通じて生徒の指導を依頼した。後に士官の帰国後に生まれた女の子は、「ある公務員が、子どもがいないので、混血児をもらい受け」たという。「オンリー」は接待婦の中でも「特別待遇」だったわけであるが、小学生からは投石され、士官は子どもに何の責任もとらず帰国し、所詮、「秩序ある降伏」と「秩序ある占領」のための捨て石であった。こうして多くの下層階級の女性が「日本の良家の婦女子」の防波堤となった。高見順はこのような「防波堤」を当時次のように見ていた。「戦争は終わった。しかしやはり『愛国』の名の下に婦女子を駆り立て、「進駐」兵御用の淫売婦に仕立てている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、婬売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている」。

 GHQは一月二一日、公娼の廃止を日本政府に命じ特殊慰安施設は短命に終わる。解散時、「五万人余」いた特殊慰安婦は国家から何の補償も受けることがなかった。その多くは「パンパン」と呼ばれる洋娼となったのではないか。敗戦後、「道義の退廃」が頻繁に指摘され、「進駐」兵に「ぶら下がって歩く」「パンパン」はその典型として国民から侮蔑の対象とされた。しかし、道義の退廃は戦前の「残虐」の連続に過ぎない。国家のために要請され、その窮乏のため生きる術を他に求め得なかった彼女達は、「敗戦後の非国民」と指弾され、「見えざる地下の柱」として過去へと葬りさられたのである。敗戦後五十年、「肉体の戦士RAA」への国家賠償は未だ行われていない。

【全面降伏使節団がマニラに赴く】
 8.19日、河辺虎四郎陸軍中将を団長とする全面降伏使節団がマニラのニコラス・フィールド飛行場に着陸。会議が執り行われ、占領軍の進駐の要領、降伏文書の調印日、日本軍の武装解除等々の打ち合わせをした。「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条約を実施するため適当と認める措置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとす」とされた。制限の下に置かれるは「be subject to」。

【闇市全盛】
 敗戦直後、東京新宿に関東尾津組尾津親分の仕切りによる露天商マーケットが誕生した。軍需物資を引き取り生活用品に改造して「新宿マーケット」で販売し始めた。誰も生活に目鼻のつかない時期に早くも「光は新宿より」と銘打って活動し始めた露天商のしたたかさが知れる。東京では、上野(ノガミ).新橋(バシ).新宿.銀座(ザギン).有楽町(ラクチョウ).池袋(ブクロ).浅草(ロック)等主要な駅にはどこにも闇市ができ賑わっていくこととなり、やがて闇市全盛期に入っていった。

【関東軍のシベリア抑留開始】
 8.23日、スターリンは、モスクワ・クレムリン・国家防衛委員会議長・ヨシフ・スターリンサインによる内務人民委員(内相)ベリア宛て「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」(第9898号決定)指令を出した。指令は14項目と19項目にわたっており詳細なものである。次のように指示していた。1、極東、シベリアの環境下での労働に肉体面で適した日本人捕虜を50万人まで選別する。2、ソ連への移送に先だち、捕虜からなる千人単位の建設大隊を編成する。3、内務人民委員部捕虜問題総局は、日本人捕虜を以下の労働現場に派遣する。

 9月初旬、関東軍のシベリア抑留が開始された。ソ連軍占領下の満州、朝鮮北部などで武装解除された日本軍将兵は、建設大隊に再編成され、貨車で連行された。厚生労働省統計に拠ると、抑留された日本人総数は57万5千名、うちモンゴル人1万4千名で、そのうち5万人(モンゴル人2千名)が死亡した。実数はもっと多いとする説も有る。この機密資料は、1993.6月、ソ連崩壊後に、読売新聞社古本記者が、ロシア大統領直属の「クレムリン文書保存館」で発見した。その全文は、高木一郎氏が『征きて還りし兵の記憶』(岩波書店、1996年、P.10~17)に載せている。(「『異国の丘』とソ連・日本共産党」参照)。

【一億国民総懺悔】
 8.28日、東久邇首相は、内閣記者団との初会見で、「国体護持ということは理屈や感情を超越した、かたい我々の信仰である」と言明して、あらためて「国体護持」を内閣の基本方針に据えていることを表明した。

 この時東久邇首相は、「一億国民総懺悔」を説いた。「この際私は軍、官、民の国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならないと思う。全国民総懺悔することが、わが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信ずる」と述べた。この「一億国民総懺悔」は少々意味深であり、今日よりすれば戦争指導者の責任を曖昧にしたままの戦後再建への決意宣言とみなせるが、当時の国民心情としては「国を守れなかったことを天皇にお詫びするという気持ちが込められた天皇への国民的謝罪」という意味も込められていたようである。「当時の自分の心境にぴったりくる言葉だった」と云う者もある。

 朝日新聞が8.30日の社説で、「まさに一億総懺悔のとき、しかして相依り相たすけて民族新生の途に前進すべきときである」と呼応した。こうして戦争責任の追及に向かう流れがマスコミリードで阻止されていった形跡がある。それを良しとする国民の一般的気分があったとも云えるのかも知れない。新聞は国体の自尊心と体面を考慮してか、敗戦という表現を使わずに終戦と報道していた。占領軍は進駐軍と表現される等新用語が発明された。 

【インドシナのベトナムで、ホ・チミン率いる共産軍が決起】
 9.2日、インドシナのベトナムで、ホ・チミン率いる共産軍が決起した。民族統一戦線組織べトミンがハノイなど各地で決起し、この日ハノイのバディン広場で約50万人の民衆の前でベトナムの独立を宣言した。

 これに対して、インドシナ全土の再支配を目論むフランスは、英軍の協力を得て南ベトナムでの支配権確立に向かい始めた。べトミンはこれに激しく抵抗していくことになる。

【トルーマン大統領が、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認、マッカーサーに指令】
  9.6日、トルーマン大統領は、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認、マッカーサーに指令している。GHQが早急に取り組んだことは、「日本が再び米国又は世界の脅威にならないようにする為の武装解除.非軍事化」であった。日本軍国主義的要素の徹底的な破壊であり、この延長上での国家再建となった。こうして軍隊及び軍事施設の解体及び戦犯の追及から着手された。この動きとワンセットで獄中反軍国主義者の解放が指示されることになった。他方で、「基本的人権の尊重や民主主義的組織の形成が奨励、育成、指導」が為された。この流れで、GHQ指令により党の獄中幹部も又全面釈放されることになった。

 この経過は次の通りに進行した。GHQが焦眉に取り組んだことは、戦争の主柱であった帝国軍隊の解体を手始めとする「天皇制軍国主義とその社会的基盤の解体」となった。9.2日付「指令第1号」は、軍需生産全面停止を指令した。

 続いて戦争責任者の追及に向かった。11.10日、米国は、東条らのA級戦犯を国際法廷で裁くようマッカーサー司令長官に通達した。9.11日、マッカーサーは、東条英機以下その内閣時の閣僚だった外相・東郷茂徳、海相・嶋田繁太郎、蔵相・賀屋興宣、商工相・岸信介らを筆頭とする戦争指導犯罪者43名の逮捕指令を出した。以後容疑者が次々と収監されていった。

 東条は自らが作った「生きて虜囚の辱めを受けず」、「死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の通り自殺を図ったが一命をとりとめた。開戦当時の陸軍参謀総長・杉山元帥はピストル自殺し、その夫人が後追い短刀自決した。東条内閣の厚生大臣小泉親彦、文部大臣橋田邦彦らも青酸カリによる服毒自殺している。12.16日、元首相の近衛文麿が出頭期限の12.16日未明、青酸カリ自殺を遂げた。

 戦犯逮捕命令は、11.19日、12.2日、12.6日と出され、A級戦犯容疑者だけで約100名に達した。

【ソ連の介入とGHQとの関係】
 ソ連は、GHQの指揮下に入らず、独立した権限を持とうとしていた。この時のソ連軍代表はデレビヤンコ将軍だった。本国のスターリンの指令を受けて、GHQ権力と駆け引きしていった。「日本分割論」、「2.1ゼネスト中止」をめぐって、このデレビヤンコ将軍とマッカーサー元帥との逸話が有名である。公的な記録では、常に二人は対立して議論を戦わせているが、本当は中が良かったようである。

 9.1日、週間東洋経済の主筆・石橋湛山が「更正日本の進路」を発表。
【「降伏文書」調印】
 9.2日、マッカーサー到着の3日後のこの日の午前9時4分、日本政府は東京湾上横須賀の沖合い29キロに停泊する米艦ミズーリ号上で「降伏文書」に調印した。法的な意味での終戦がここに完結したことになる。日本全権は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長他文官4名.武官7名が任に当たった。この随員選考は、東久邇宮首相が近衛文麿国務相、木戸幸一内大臣、緒方竹虎書記官長と相談して為されたとある。

 マッカーサーの約3分の演説の後、重光と梅津、連合国代表としてマッカーサー、次いで連合国各国代表8名が署名して式は終わった。米、中、英、ソ、豪、カナダ、仏、蘭、ニュージーランドの順に署名して調印式は終了した。この時、92年前にペリー提督が日本に開港を迫ったとき、戦艦ミシシッピー号に掲げられていた星条旗が式場に運び込まれていたといわれている。

 文書には、「連合国に対する無条件降伏を布告す」、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるものとす」と記載があり、こうして日本は連合国軍占領統治下に国家主権が置かれ、天皇の権限もマッカーサー元帥の制限下に置かれることとなった。敗戦の帰結であり、こうして以後正式に連合軍「GHQ」が超法規的に戦後日本の君臨と統治にあたることになった。

 9.3日、調印式の翌日、重光外相がマッカーサーを訪ね、GHQの日本直接統治は混乱を招く恐れが強く、政策の実行は、日本政府を通して行うよう申し入れた。重光の作成した文書によれば、マッカーサーの答えは次のようなものであった。
 「自分は、日本国を破壊し、国民を奴隷にする考えは全くなし。要するに、政府と国民の出方一つにて、この問題はいかんともなるものなり」。

 マッカーサーは、日本の政府を介した間接統治を行うと約束した。この報告を聞いた昭和天皇の様子を伝える重光の手記には、「陛下より、それは誠に良かったねと、一方ならず、お言葉があり」と記されている。







(私論.私見)