| 1945年5、終戦直後の動き、GHQ進駐まで |

| 「Household Industries」の日本占領期年表 | 石川寛仁 | ||
| 「戦後占領史」 | 竹前栄治 | 岩波書店 | |
| 「昭和の歴史8」 | 神田文人 | 小学館 | |
| 「昭和天皇の終戦史」 | 吉田裕 | 岩波新書 | 1992.12.21 |
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「1945年5、終戦直後の動き、GHQ進駐まで」を確認する。 2002.10.20日 れんだいこ拝 |
| 8.15 | 【「ポツダム宣言」の受諾による終戦】正午、戦争終結の詔書を放送。 |
| 8.15 | 米太平洋方面陸軍総司令官マッカーサー元帥(当時65歳)、「連合国軍最高司令官」に任命される。 |
| 8.15 | 鈴木貫太郎内閣総辞職。陸軍の一部将校が終戦阻止の反乱を起こすも鎮圧される。 |
| 8.17 | 【東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の成立(日本内閣史上はじめての皇族内閣)】皇族の東久邇宮稔彦内閣が組閣され、終戦処理を行うことになった。 |
| 終戦直後 | 【闇市全盛】 |
| 8.18 | 満州国皇帝溥儀が退位し、満州国消滅。 |
| 8.18 | 【特殊慰安施設協会】設置。内務省、地方長官に占領軍向け性的慰安施設設置を指令する。 |
| 8.20 | 灯火管制3年8ヶ月ぶりに解除。 |
| 8.22 | 尊攘同志会会員が愛宕山で集団自殺。 |
| 8.23 | ソ連による関東軍のシベリア抑留拉致始まる。 |
| 8.23 | 電力制限が撤廃になる。 |
| 8.25 | 市川房枝、山高しげり、赤松常子、河崎なつ、山室民子らが集って、戦後対策婦人委員会結成。 |
| 8.27 | 占領軍向け性的慰安施設、大森海岸の小町園で開業。 |
| 8.27 | 連合軍の米軍先遣隊第一陣が横浜の厚木飛行場に到着したのを皮切りに連合軍の日本本土への進駐が開始された。 |
| 8.28 | 【一億国民総懺悔】東久邇首相は、内閣記者団との初会見で、「全国民が総懺悔することが、わが国再建の第一歩であると信ずる」と述べ「一億国民総懺悔」を説いた。 |
| 8.28 | 文部省は、終戦から2週間後の8.28日、「遅くとも9月中旬から授業を開始するように」との方針を、地方長官、学校長宛てに通達。多くの学校がこの通達に従い授業を再開させた。 |
| 8.30 | 連合国最高司令官マッカーサー元帥、厚木飛行場に到着。 |
| 9月 | 9月から11月頃まで、北海道.常磐などで中国人、朝鮮人らの暴動続く。 |
| 9月 | 文部省、学校教科書の黒塗りを指示。教科書の日本軍の戦闘賛美、軍国主義奨励、神道の教義に関する部分の削除、修正が要請された。翌46.1月にも出されてた。 |
| 9.2 | 【「降伏文書」調印】 |
| 9.2 | GHQ「指令第1号」で、軍需生産全面停止を指令した。 |
| 9.3 | イギリス人新聞記者バーチェットが「広島における大惨状(ノー・モア・ヒロシマ)」を打電。 |
| 9.6 | トルーマン米大統領、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、マッカーサーに指令。 |
| 9.10 | 【GHQ、5項目にわたる「言論及び新聞の自由に関する覚書」発表、日本政府に指示】言論機関の自由の保障と共に、言論統制的側面も持っていた。 |
| 9.10 | 在日朝鮮人連盟(「朝連」)中央準備委員会が結成された。新宿角筈の朝鮮奨学会に事務所が開かれた。「政治犯釈放促進連盟」の事務所もここに置かれた。 |
| 9.11 | GHQ、東条英機元首相ら戦争犯罪人39人の逮捕を指令。東條は自殺未遂。 |
| 9.12 | 府中刑務所在監中の日本共産党獄中党員は各自釈放要求書を書き、一冊に綴じて、岩田宙造法相あてに提出した。 |
| 9.14 | 「大日本政治会」解散。 |
| 9.15 | 東京日比谷第一生命相互ビルにGHQ本部設置。 |
| 9.17 | 重光外相の後任に吉田茂が就任した。戦後政治における吉田の第一歩がここに記された。 |
| 9.18 | 経済団体連合委員会が組織された。 |
| 9.19 | GHQ、10項目からなる「日本新聞規則に関する覚書」(、「プレス=コード」)発表。 |
| 9.19 | 教宗派管長、教団統理者会議を開催、日本再建宗教教化実践要綱を決定している。 |
| 9.20 | 文部省、中等学校以下の教科書から戦時教材を削除を指示。教科書の墨塗り作業が始まる。 |
| 9.22 | アメリカ政府は「占領初期の対日管理政策」を発表した。 |
| 9.24 | GHQ、「新聞の政府よりの分離に関する覚書」発表。「新聞及び通信社に対する政府の直接もしくは間接の支配を廃止する必要な措置を採る」ことを指示した。 |
| 9.26 | 哲学者三木清が豊多摩刑務所で獄死したことが知らされた(享年49才)。 |
| 9.26 | 【出征軍人の復員開始】この日より外地軍人の引き揚げ開始。 |
| 9.27 | 【昭和天皇マッカーサー訪問】天皇はマッカーサーをGHQ(赤坂の米国大使館)に訪れた。 |
| 9.27 | 【プレ財閥解体の動き】東京.三田の三井別邸で三井財閥幹部とGHQとの財閥解体に関する第一回会談が持たれた。 |
| 9.27 | 言論.出版の自由抑圧の諸法令の撤廃を指示した。 |
| 9.30 | 「大日本産業報国会」解散。 |
| 【鈴木貫太郎内閣の終戦処理】 |
| 8.14日、 終戦の前日、鈴木貫太郎内閣は、降伏決定の手続き終了後、戦後対策委員会を内閣に設置し、「軍需用保管物資の緊急処分」を指示した。この結果、軍需物資が民間に大量に出回り、政商が暗躍した。当時の価格で約1000億円相当の軍需品(米.麦.雑穀.缶詰.砂糖.ガソリン.綿布.ゴム.鉄.銅電線など)が放出された。この決定は、どうせ占領軍に接収されるなら民間に払い下げようとしたものであったが、実際にはブローカーが暗躍し、一種無秩序状態のまま軍需工場の倉庫から分散させていくことになった。この間陸軍一部将校らによる終戦阻止の反乱があったが鎮圧された。 |
| 【軍の徹底抗戦派が首相官邸襲撃】 | |
8.14日から15日にかけて、陸軍中央部の少佐、中佐クラスの将校若干名は、本土決戦を遂行すべく、昭和天皇と政府の、ポツダム宣言受諾の決定を破棄せんとして、軍事クーデターを開始した。8.15日、日本本土防衛軍の中のもっとも重要な部隊となっていた東部軍(関東、甲信越、伊豆七島)司令官田中大将が自決した。高嶋辰彦参謀長少将がそのあと、東部軍司令官の職を代行した。この高嶋氏は、次のような大東亜戦争観を披瀝している。
ちなみに、仲小路彰も、敗戦に際して、高嶋少将と、全く同じ趣旨の文書を発して居ると言う。これを「高嶋=仲小路説」と云う(「大東亜戦争は勝利した」(高嶋、仲小路)との説は正しいか?」)。 8.15日早朝、戦争終結を阻止しようとする50人ほどの兵隊が機関銃で首相官邸を襲撃、玄関にガソリンをまいて火を放った。鈴木首相は私邸に帰っていて難を逃れた。首相不在と知って、一隊は直ちに小石川の私邸を襲い、やはり火を放つ。鈴木首相は官邸からの通報で避難し、間一髪で無事だった。鈴木首相は、「これからは老人の出る幕ではないな」と一言漏らし、即日内閣総辞職する(2002.8.31日毎日新聞、岩見隆夫「近聞遠見」より)。 |
| 【鈴木貫太郎内閣総辞職】 |
| 翌8.15日、総辞職した。つまり、つかの間の敗戦処理内閣となった。 |
| 【「ポツダム宣言」の受諾による終戦】 | |||||
1945.8.15日、日本国天皇(昭和天皇ヒロヒト)は、「玉音放送」と云われた「戦争終結の詔書」を読み上げ「ポツダム宣言」の受諾を内外に表明した。
というものであった。「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りにむこの民を殺傷し」、「(このままでは)我が民族の滅亡を招来するのみならずひいては人類の文明をも破却(する恐れがあった)」という事情による乾坤一擲の大英断であった。こうして8月下旬までには各地での日本軍の全戦闘も又解除終結されることになった。 かくして第二次世界大戦は大日本帝国の敗戦という結果をもって終戦となった。こうして「神州不滅」を誇った大日本帝国はもろくも崩れ去った。ここから戦後は始まる。満州事変勃発から数えると8年の長きにわたる国家総力戦であり、これを戦い抜いた日本国民は疲弊の極に達していた。「1945年8月、日本帝国主義の軍事的敗北の後に残ったものは、焦土と化した国土だけであった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。 ○、正午に「戦争終結の詔書」を放送する(通称「玉音放送」)。 「玉音放送」は、国民にとって青天霹靂ヘキレキの「聖断」であった。局面の急展開に呆然自失の態為す者多かったと記録にある。これをやや文学的に表現すれば、国民の大多数は「泣いた」。そして大多数のものが「ホットした」。少数のものではあるが「躍り上がって万歳を唱えた」。又少数のもので「憤然とした」ものもいたかも知れない。「暗澹とし、信じれるものがなくなった闇を嗅いだ」ものもいた。 当時、日本放送協会(NHK)は次のように「重大放送」を発表したと伝えられている。「ただいまより、重大なる発表があります。全国聴取者のみなさま、ご起立願います。重大発表であります」。この後、君が代などが流され、天皇のお言葉を録音したレコード盤が回り始めた。この後和田アナウンサーが詔書を朗読し、内閣告諭やポツダム宣言の内容、御前会議の経過説明などが詳しく放送された。37分30秒の放送だった。 「玉音放送」は、当然のことながら外地にいる軍人に対しての武装解除を命令する意味を持った。それまで帝国軍人は、戦局の帰趨に関わらず「戦陣訓」にとらわれ様々な悲劇を生み出していた。「戦陣訓」とは、東条英機陸相が1941(昭和16)年に発令した軍人の心得であり、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」(本訓その2の8項)と指示されていた。この心得が現地指揮官の下で拡大解釈され、敵の捕虜となった兵隊は日本軍人ではなく、そのり罪万死に値するとして「全員銃殺せよ」命令が下されたりしていた。あるいは疑心暗鬼から現地住民の無差別殺戮に駆り立てられる行為も発生していた。「玉音放送」はこうした動きを制止する意味も持った。 「玉音放送」に続き、鈴木貫太郎内閣は、首相の名による「内閣告諭」を放送した。「国体護持」が強調された。「今や国民の斉しくむかうべきところは国体の護持にあり」、「軽挙妄動し、信義を世界に失うが如きことあるべからず」と、国民の動きを掣肘した。政府当局者は、歴史上初めての敗戦で虚脱状態に陥った。 |
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| 今日判明しつつあることは、敗戦後日本は奇跡の経済復興を遂げたことにより、この時の降伏が第二の開国にあたるのではないかと評価されつつある。当然のことながら、その第一の開国が幕末維新であり、現在が第三の開国期にあるという認識によっている。 |
| 【一部将校の反乱】 |
| 8.15日、陸軍の一部将校が終戦阻止の反乱を起こすも鎮圧される。 しかし、降伏を拒否した軍人の動きが無かった訳ではない。が、大きなうねりとはならずに終息した。例えば、進駐軍先遣隊が到着する予定地となっていた神奈川県厚木飛行場では、海軍第302航空隊(司令.小園安名大佐、定員1405名)は玉音放送後も降伏を拒否し、同基地の零戦.雷電.月光などの戦闘機を全国各地へ飛行させ、降伏反対を呼びかけるビラを撒いている。16日、直属の上官である第3航空艦隊司令長官、寺岡譲平中将の説得も叶わず、19日には同航空隊は哨戒機を飛ばし、降伏軍使としてマニラに向かう河辺虎四郎中将らの搭乗機を捕捉しようとさえしている。「海軍当局をして大いに困惑させた」(戦史叢書)とある。結局反乱兵は恭順を示したり拘束されたりして事件は解決を見る。進駐軍先遣隊が到着する二日前の8.26日のことだった。 8.15日、満映の理事長に就任していた甘糟正彦理事長は、理事長室で青酸カリ服毒自殺した。黒板には「大ばくち、元も子もなく すってんてん」と書かれていた、と伝えられている。 |
鬼塚英昭「日本のいちばん醜い日~8.15宮城事件は偽装クーデターだった」(成甲書房、2007年)は次のように記している。
藤田尚徳「侍従長の回想」は次のように記している。
昭和天皇のこの発言に対し、鬼塚英昭「日本のいちばん醜い日~8.15宮城事件は偽装クーデターだった」(成甲書房、2007年)は次のように記している。
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| 【マッカーサーが連合国軍最高司令官に任命される】 |
| 8.15日、トルーマン米国大統領が、フィリピンのマニラにいた米太平洋方面陸軍総司令官ダグラス.マッカーサーを「連合国軍最高司令官」(Supreme Commander for the Allied Powres)に任命した。以降、マッカーサーは元帥と呼称されることになる。連合国司令長官に米国軍人が就任したことから明らかなように進駐軍の主力はアメリカ軍となった。進駐当初は15個師団約40万人の兵力が投入された。ちなみにイギリス連邦軍の進駐は46.2.1日か5月末にかけてなされ、約4万の将兵が上陸した。 |
| 【朝鮮建国準備委員会が発足】 |
| 8.15日、ソウルで直ちに朝鮮建国準備委員会が発足し、朝鮮共産党の朴憲永や左翼民族主義者の呂運亭の主導権で「大日本帝国臣民」の強制を拒否した建国運動が始まった。 |
| 【中国で国共合作から内戦への気運が醸成される】 |
| 日本の降伏は、中国のそれまでの国共合作時代が終焉し、新たに国共内戦時代への突入を告げた。8.15日、国民党の指導者蒋介石は、日本の支那派遣軍総司令官・岡村寧次に、国民党軍への投降と「装備を維持し、所在地の秩序維持」に当るよう命じた。残留日本軍約100万人の武器が共産党軍の手に渡らないようにする為の措置であった。この触れにも拘わらず、中共軍は、日本軍の装備を獲得し、軍事力を増強させた。 |
| 【戦後対策婦人委員会結成】 |
| 8.25日、市川房枝、山高しげり、赤松常子、河崎なつ、山室民子らが集って、戦後対策婦人委員会結成。 |
| 【占領軍の進駐】 | ||
| 8.27日、連合軍の米軍先遣隊第一陣が横浜の厚木飛行場に到着したのを皮切りに連合軍の日本本土への進駐が開始された。首相の東久邇稔彦日記には「本日の進駐が無事に済んだことは、敗戦日本が平和的新日本建設の第一歩を踏み出すのに、さいさきよい前兆」と書かれている。 8.30日午後2時5分、マッカーサー元帥が、愛機C54パターン号に乗って厚木基地に到着、来日した。「メルボルンから東京までの道のりは長かった」との名台詞を吐いた。シャツ姿丸腰で、コーンパイプをくわえながら降り立った。マッカーサーとその一行が宿泊地の横浜に向かう沿道には24kmにわたって、マッカーサーを護衛するための日本の憲兵が立っていた。同じ日、横須賀に、アメリカ艦隊が姿をあらわし、アメリカ海兵隊の1万3千人が上陸を開始した。 木戸内大臣は、次のように記録している。
ダグラス.マッカーサーの経歴は次のとおりである。
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| 【GHQの最初の取り組みとしての「フリーメーソンロッジ」の設置】 |
| 連合国最高司令官として来日したマッカーサー元帥は、厚木飛行場を降り立ってすぐ、GHQ本部とは別に彼が所属していたフリーメーソン(Manila Lodge No. 1, Phillipines)の東京支部用ロッジの確保を指令し、東京都港区麻布台2-4-5の旧海軍水交社の建物を接収している。屋上に定規とコンパスのフリーメーソンのシンボルを掲げた。現在、メソニック39森ビルのジとなっている。これが最初の指令であった。 |
| 通説の表歴史論からは無視されるが、裏でのこういう動きをも見ておかねばなるまい。 |
| 【GHQの2番目の取り組みとしての戦争犯罪人容疑者の逮捕指令】 |
| 来日当夜、日米開戦時の首相だった東条英機の逮捕と戦争犯罪人の容疑者リストの早急な作成を指示した。これが2番目の指令であった。 |
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| 進駐軍の主力がアメリカ軍であったことと、総責任者がマッカーサー元帥であったことの評価についてしておくことは必要な作業である。この点考察されることが少ないが、非常に重要な差異を伴っていたと愚考する。我が国を占領した連合軍の主力がアメリカ軍であり、占領統治が実質的にアメリカ軍政になったことは、その後の我が国の戦後史に重大な意味を持ってくることになった。「仮に我々が勝利者であったとしたら、これほどの寛大さで敗者を包容することができたであろうか」(加瀬俊一.外務省情報局報道部長手記)と想起されるほどの「緻密な善政」が敷かれることになった。 このことはドイツの例と比べてみれば判る。わが国にとって、アメリカ軍政を主力としたことにより、当初の「分割占領案」が排斥され、アメリカの一元的な占領支配体制が敷かれたことはむしろ幸運であった。これを裏付けるのは連合国最高司令官マッカーサー元帥の次の言葉である。「我々は復讐をする為に日本へ乗り込んできたのではなく、新生国家再建を期して『正義と寛容の心』で臨む決意を示した」とある。占領軍が「被占領国の新生国家再建」を期した例は世界史上稀有なことである。マッカーサー元帥は自らこの珍しい「善政」に立ち向かい、これを指揮した。 マッカーサーは、国家的成熟度として「我々アングロ.サクソンが45歳なら、日本人はまだ12歳の少年である」と認識していたようである。この12歳の少年を何とか成人に導かんとして5年8ヶ月(65歳から71歳までの間)にわたって最高権力者として君臨した、というのは紛れようの無い史実である。 このマッカーサー発言は、1951.5.5日、米議会上院軍事.外交合同委員会聴聞会で次のように述べている。
これに先立つ4.19日上下両院合同会議の席上演説で、次のように述べている。
「老兵は死なず、ただ消え行くのみ。あの歌の老兵のように、私は今軍歴を閉じて、ただ消え行く。神の示すところに従った自分の任務を果たそうと努めてきた一人の老兵として。さようなら」とも語っている。 |
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| 今日判明しつつあることは、敗戦後日本は奇跡の経済復興を遂げたことにより、この時の降伏が第二の開国にあたるのではないかと評価されつつある。当然のことながら、その第一の開国が幕末維新であり、現在が第三の開国期にあるという認識によっている。 ちなみに、この連合軍とは云うものの実質的にはアメリカ軍政による「善政」は、当然のこととして「アングロサクソンの代表者である米国」の立場から、「しかし、この革命の底には『アメリカの利益』という動かすべからざる原則が横たわっていた」が「日本人自身の手でおこなったら、百年はかかったかも知れぬ破壊と創造-少なくとも創造の前提を実現した。確かに『革命』の一種であった」。つまり、ある種「アメリカ的政体を下敷きにした」、「革命の輸出」ではなかったのかとさえ思われる。日本が奇跡的な経済的復興を成し遂げた頃から表明され始めたわが国の排外主義的民族主義者による「不快感」の淵源は、戦後の諸改革にまつわるこの「輸出され押し付けられた革命」に対するリバウンドではなかろうかと思われる。国民の多くは「善政」を支持しており、私もその一人ではあるが、「輸出された革命」であったことには異論はない。この辺りを以下見ていくことにする。 更に付記すれば、マッカーサー元帥ならではの特徴も加味せねばならないように思われる。マッカーサー元帥は、在任中カリスマ的権威で臨んだ。「在任中のマッカーサーは、天皇と政府の上に高くそびえて、帝王以上の帝王、神以上の神の如くふるまった。彼の荘重きわまる演技は朝鮮戦争につまずいて、解任召還されるまで続いた」(林房雄「吉田茂と占領憲法」)とある。マッカーサーのこの毅然とした態度は、彼が私利私欲を図る権力者ではなく名誉と栄光を求める精神と結びついていた。多分に理想主義者であり、そうした彼の政治手法が当然に占領政策に反映することにもなった。マッカーサー元帥は、約5年8ヶ月の治世を振り返って次のように述べている。
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| 【「GHQ」の設置】 |
| 戦後憲法の制定過程は、GHQの治世の考察から説き起こさねば正確が期し得ない。という訳で、まずGHQについて考察する。ジェームス三木氏の「憲法はまだか」(角川書店・2002.4.30日初版)は新憲法制定過程検証の格好貴重本である。従来の資料に取り込みながら、書き直すことにした。 |
| 日帝の大東亜戦争の敗北によって戦後日本は、当然のことながら敗戦国の憂き目を味わうことになった。連合国軍総司令部(GHQ=General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers、以下、単にGHQと記す)が占領統治権力としてやってくることになった。 |
| 略称「GHQ」の正確な用語は、「連合軍(the Allied Powers)最高(Supreme)指揮官(Commander)の総(General)本部(Headquarters)」であり、連合軍占領政策遂行総本部という意味である。当時、ジャーナリズムがこれを進駐軍と表記したが、正しくは占領軍であろう。マスコミは専ら言葉のあやで本質を隠すところがある。 2005.5.4日 れんだいこ拝 |
| 10.2日、GHQ本部が東京日比谷の第一生命相互ビルを接収してここに設置された。GHQの組織構成は、米太平洋陸軍総司令官・D.マッカーサーを最高司令長官にして頂点に据え、参謀長(R.K.サザーランド中将)他が補佐し、この下に参謀部が4部(G-1=人事.G-2=情報・ウィロビー小将.G-3=作戦.G-4=補給)構成され、更にマッカーサー最高司令長官直轄機構として五局(民政局GSホイットニ局長.天然資源局NRS.経済科学局ESS.民間情報教育局CIE.民間諜報局CIS)の他民間通信局CCS.法務局LS.統計資料局SRS.公衆衛生福祉局PHWの9幕僚部から構成されていた。 民政局GSは、ホイットニ局長を責任者として、占領行政の中枢部に位置して、憲法改正を始めとする数々の政治の民主化政策を担当した。経済科学局ESSは、経済.産業.財政.科学の諸政策を担当したが、財閥解体.労働改革など経済民主化政策を推進した。天然資源局NRSは、農林水産業.鉱業を担当したが、特に農地改革を推進していくこととなった。民間情報教育局CIEは、日本人の思想的再編成、マスコミ.宗教.教育の自由化を推進した。民間諜報局CISは、公職追放.政治犯釈放を担当した。公衆衛生福祉局は、進駐直後の防疫、衛生管理、保健行政を推進した。 こうした中央のGHQの下に、地方軍政機構が設けられた。当初は直接に軍政を敷くという前提により、各府県に軍政中隊をおき、これらを統括して軍政グループが置かれた。46.7月占領支配の実情に合わせる為編成替えが行われ、軍政中隊を軍政チームとし、その上部機関として北海道、東北、関東、東海、近畿、中国、四国、九州の8管区に、地方軍政部司令部を設置した。都道府県の行政の監視という役目も担った。ちなみに、この8管区管轄制は、日本政府が戦争末期に本土決戦に備えて設置した地方総督府の管轄制をそのまま踏襲したことになる。 |
| 米太平洋陸軍総司令官・D.マッカーサーがGHQ最高司令長官に就任した。このことは、日帝と直接的に且つ最も激しく闘った経緯からすれば当然であったのであろう。しかし、米国が占領軍のトップを占めたということは、占領行政が米国のご都合方式で遂行されるということであり、ここに戦後日本の性格が定められた、と云うべきであろう。 2005.5.4日 れんだいこ拝 |
| GHQの組織構成を見れば、占領権力の基本構造が見て取れる。「最高司令長官、参謀部」の二体系の下で、最高司令長官の直属機関として「民政局、天然資源局、経済科学局、民間情報教育局、民間諜報局、民間通信局、法務局、統計資料局、公衆衛生福祉局」の9幕僚部が列なり、参謀部は「人事、情報、作戦、補給」の4局から構成されている。これが、一国を占領統治する機構であることになる。数百年の植民地行政から生み出された智恵なのであろう。その能力高しと云うべきではなかろうか。 2005.5.4日 れんだいこ拝 |
| 【連合国軍による三統治方式の導入】 | |||||||||||||||
敗戦後の日本領土は、対日占領管理機構上3分割され、それぞれ異なる方式で統治されることになった。
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| 【ソ連の介入とGHQとの関係】 |
| ソ連は、GHQの指揮下に入らず、独立した権限を持とうとしていた。この時のソ連軍代表はデレビヤンコ将軍だった。本国のスターリンの指令を受けて、GHQ権力と駆け引きしていった。「日本分割論」、「2.1ゼネスト中止」をめぐって、このデレビヤンコ将軍とマッカーサー元帥との逸話が有名である。公的な記録では、常に二人は対立して議論を戦わせているが、本当は中が良かったようである。 |
| GHQにおける米国とソ連の関わりを見るのに、要するに米国側の能力のほうが高く、ソ連は頭脳戦でヤラレテイルことが分かる。このことは運外重要なのであるが、ここではこれ以上触れない。 2005.5.4日 れんだいこ拝 |
| 【GHQの治世方針】 |
| GHQの治世方針は、ポツダム宣言に記載されていた「日本国の再戦争遂行能力の徹底除去(要約)」、「日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化」、「日本国民の自由に表明せる意志に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるる」ことにあった。これらの方針は連合国間の総意で実施されていくのが本来の取り決めであったが、実際にはアメリカが牛耳りその意向に左右されていくことになった。 その実施は、国際情勢の流れとの関連において強められたり弱められていくことになったが、GHQを掌握したアメリカ軍の政治目的は、太平洋に独占的支配権を自らが確立し、日本を二度と危険な競争相手になり得ない様に社会改変することにあった。これを文章で表現すれば、「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及び安全の脅威とならざる事」、「他国家の権利を尊重し国際連合憲章の理想と原則に示されたる米国の目的を支持すべき平和的且つ責任ある政府を究極に於て樹立すること」にあった。つまり、軍政ではあるが「間接軍政」を採ろうとし、「軍政は敷かない」と明言していた。 GHQの統治は、「戦後の日本政府の形態は、自由に表明された日本国民の意思によって決められるべきだという大前提」、「日本における民主的責任政府の樹立及び日本の非軍事化」であり、GHQは、その手法を廻って日本の世論に非常に神経を使うことになった。復讐を意図した占領ではなく、敗戦国の社会改造という史上初めての実験が開始された。なお、「日本は今や大きな強制収容所のごときものとなった。占領軍は8千万日本人の看守である」という言葉も為されている。 更に注目すべきは、GHQの陸海軍省の軍官僚追放、内務省解体の裏腹で、その他の官僚機構には手を付けず統治に活用したことである。その為、戦前来の官僚機構がそのまま残ることになった。内務省に代わって大蔵省(財務省の前身)が省庁に対する支配権を強めることになる。 |
| 「マッカーサー主導の日本統治要領」については本来もっと考察されるべきであるように思われる。仮に、GHQ最高司令長官が他の者であった時にどのような違いを生み出していたかの想定比較研究となる。れんだいこは、美化する意図ではなく「復讐を意図した占領ではなく、敗戦国の社会改造という史上初めての実験」に付き、「マッカーサー的政治理想」が大いに働いていた、と読む。その理由は一言では述べられないが、マッカーサーの対日観、対日本人観、戦争観、国家観、次期米国大統領としての凱旋観等々が作用していたと推理する。 2005.5.4日 れんだいこ拝」 |
| 【天皇の処遇についての各国の違いについて】 |
| GHQの統治の最高度の難関は「天皇の処遇問題」にあった。昭和天皇の戦争責任の追及に関わる天皇制廃止かこれを利用するのかについて、連合国軍の足並みは揃っていなかった。特にソ連.オーストラリアは天皇を戦争犯罪人として処罰すべきだ。アメリカでも、9.10日に、天皇を戦争犯罪人として裁くことが合衆国の政策と宣言する合同決議案が、連邦議会に上下院合同で提出されていた。つまり、この時期、天皇の戦争責任を問う声が圧倒的に大きかった。 ところが、マッカーサーは、「(こうした動きに)強力に抵抗した」。その理由として、マッカーサーの特異な皇室観と「戦争終結後の占領期における政治的安定策として天皇制存続のほうが効果的」とする判断があったようにも思われる。 |
| 【「ポツダム勅令」について】 |
| GHQが発するものには、指令.覚書.手紙等、各種の形式のものがあったが、いずれも命令であることには変わりなかった。但し、占領統治政策は間接占領方式を採用したので、GHQが直接乗り出すのは稀であった。緊急事態か重大決定の場合にのみ限られていた。これらの命令を受け、日本政府が実施にあたるも法制化が間に合わぬ場合に発せられたのが「ポツダム勅令」(新憲法実施後はポツダム政令)であった。おいおい見ていくことになる「治安維持法の撤廃」、48.7月の芦田内閣時の「政令201号」などがこれにあたる。つまり、超法規的に出動した命令として受け取ることができよう。 |
| 【江藤淳「忘れたことと忘れさせられたこと」考】 | |||||||||
| 「日本は無条件降伏した」と繰り返し教え込まれてきた。その結果、「疑う余地のない歴史の常識」として戦後日本人の頭に刷り込まれてきた。ところで、ポツダム宣言の原文を読んだことは?降伏文書の全文、確認したことは?1945年8月の新聞、見たことは?。ほとんどの人がない。ここにアメリカ国立公文書館で一次史料を徹底解読した江藤淳の研究がある。これに基づいた「3つの事実」を見れば、教科書で教えられてきたこととは180度違う本当の戦後の歴史が見えて来る。 事実①、日本は国としては無条件降伏していない。1945年7月26日、連合国が突きつけた「ポツダム宣言」には、こう記されている。
注目すべきは、「無条件降伏」の主体が日本国家ではないという点である。宣言文はあくまで「armed forces」(“日本軍”)に対する要求になっている。つまり、日本は国家としては屈辱的な「無条件降伏」をしていないことになる。 事実②、日本は敗戦を“条件付き”で受け入れている。日本がどんな形で敗戦を受け入れてたのかにつき、この条件当時の原文にはっきりと記されている。そのうちの二つを紹介する。①日本政府からの通告。「この宣言は、天皇の主権的地位を損なう要求を含まないという了解の下で受諾する」(“…with the understanding that said declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a sovereign rule。r.”) これによれば天皇の地位を守っている。②ポツダム宣言に明記された事。「連合国の占領軍は、日本国民の自由に表明された意思に従い、平和的傾向を有する責任ある政府が樹立されたときに、日本より撤退する」("The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.")。暫定的に占領政治を受け入れるが、然るべき時に日本国政府が樹立されるとしている。敗れた日本であるが、譲れないところは条件として、しっかり連合国に突きつけていることになる。 事実③、アメリカが恐れた350万の温存兵力。アメリカが本当の無条件降伏を日本に突きつけることができなかった秘密は、日本の当時の兵力にあった。陸軍225万3千人、海軍125万人、合計350万人を超える兵力が復員されないまま存在していた。この事実を、アメリカ側の識者は冷静に見ていた。米国の評論家レイモンド・スウィングの1945年8月23日のNBCラジオ「日本の降伏はドイツの降伏と異なる。日本は強大な政府を有している。 連合国は政府に命令を出すことはできても、自ら日本を支配することはないだろう」。 マッカーサーは以下の条件を日本に突きつけた。1、日本政府を介さない軍政の実施。2、占領軍による直接統治。3、B円軍票(アメリカ通貨)の使用。要するに、ドイツ占領に近い「軍政」を想定していた。 この報告を受けた重光葵外相は即座に横浜へ急行。マッカーサーと直接対峙し、こう言い放った。「日本の降伏は、あくまでポツダム宣言に基づくもの」、「宣言の前提は、日本政府を通じて占領目的を達成すること」、「もしそれを越える軍政措置を一方的に取るなら、日本政府は、占領行政の一切の責任を負わない」。日本にはまだ約350万の旧日本軍兵力が本土に残っていた。「政府が手を引けば彼らを誰が抑えるのか。占領は一夜にして泥沼と化すかもしれない」。マッカーサーは一瞬でその意味を悟り、「軍政の施行を中止せよ」の命令を下した。 私たちが教えられてきた敗戦戦後史と史実は違う。無条件降伏のウソはその一例でしかない。当時の日本人は日本を守る数々の条件を明確に出していた。敗戦後も対等に交渉し、戦後日本を立て直そうとした日本人がいた。「無条件降伏」のほかにも、私たちが教えられてきた敗戦戦後史の誤りはたくさんある。 では、なぜ私たちが教えられてきた敗戦戦後史は史実と違うのか?そのカギは、1945年、日本を占領したGHQが最初に示した方針「初期対日方針」にある。そこに記された最優先目標は、「世界の平和」でも 「日本の民主化」でもなかった。「米国の脅威とならないこと」。これが占領政策の最優先事項だった。そのためにアメリカは、銃弾ではなく「言葉」で日本を支配する道を選んだ。広島・長崎の原爆が肉体を焼いたように、次は情報統制によって日本人の「記憶」を焼き尽くそうとしはじめた。終戦からわずか数ヶ月のあいだに日本の言論空間が一気に塗り替えられた。封印された情報統制の全貌は次の通りである。
GHQ文書が認めた「罪悪感の植え付け」 GHQ公式文書「日本及び朝鮮における非軍事活動の総括」が完全収録されている。そこには、こう記されている。「占領軍が東京に進駐した時点では、日本人の裡(うち)にはまったくといってよいほど戦争についての罪の意識がみられなかった」。彼らは、新聞、ラジオ、映画、教育——あらゆる媒体を総動員して、それを「作る」プログラムを組んだ。その結果、何が起きたか?1、「日本は世界に迷惑をかけた国だ」、 「日本の歴史は恥の歴史だ」、 「日本は残虐だった」等々の反省と謝罪が押し付けられた。2、日本はアメリカによって原爆で多くの命を奪われ、占領政策でも振り回されてきたにもかかわらず、依然としてアメリカの顔色をうかがいペコペコ政治を続ける。「日本はアメリカの庇護下にあるべきだ」。そう思い込まされ、その枠組みが今なお日本を縛っている。戦後の占領政策とは、銃による支配ではなく、思想による洗脳だった。その影響の中で、私たち日本人は、今もなお “歪んだ構造” の中で生き続けている。 本書『忘れたことと忘れさせられたこと』には、私たち日本人にとって大切でありながら、長いあいだ "封印"されてきた事実が数多く収録されている。著者は江藤淳。戦後日本の言論史を読み解くうえで欠かせない文芸評論家である。GHQの占領政策、とりわけ"検閲"の実像を追究し、アメリカ国立公文書館に通い詰めて一次史料を徹底的に解読した研究者である。この著書は、江藤研究の中でも "出発点" にして "到達点" といわれる名著である。膨大な資料を根拠に、戦後日本の言論がどのように「作り変えられた」のかを鮮やかに解明し、その成果は現在も多くの研究者の基盤となっている。今回の復刊にあたり、著名な先生方、そして江藤氏ご遺族のご協力を得て、ようやく正式な版権を取得し、待望の刊行が実現した。戦後日本に残された"見えない傷跡"に向き合った江藤淳が、未来の日本人へ遺したメッセージを、手に取ってみませんか?(「忘れたことと忘れさせられたこと」参照) |