古代出雲王国−スサノオの光と影−48
謎の天皇 崇神天皇2 騎馬民族かイスラエルか
谷田茂
「騎馬民族征服王朝説」
これは元東京大学名誉教授江上波夫氏が、1948年、東京・お茶の水駅近くの喫茶店に江上と岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の学究仲間3氏が集った座談会で披露され、
「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」という特集記事で発表された。
3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。百済王はこの騎馬民族の首長ではないかと江上氏は示唆している。
この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸しこの地を征服する。
その時朝鮮からやってきて、後 100年ほど続く「九州王朝」の開祖となった者が、
後に「崇神天皇」と呼ばれるようになったと言うのである。
現天皇家の始祖はここにあるとする。
江上氏によればこれが「第一回の建国」ということになる。
「九州王朝」はやがて「応神天皇」を戴いて近畿征服を果たす。
この北九州から近畿への遠征が「神武東征」として日本神話に反映している。
「第二回目の建国」である。
ちなみに、崇神の渡来はニニギノミコトによる高千穂峰への降臨として説話に残っている、
と言う。
氏は、崇神天皇の別名「御間城入彦」「御間城天皇」のミマキに注目し、「ミマキ天皇」とは、
「ミマ」の宮殿に居住した天皇であるとしている。
そしてミマこそ南鮮にあった「任那」だというのである。
即ち日本の天皇家の始祖は任那から来たということになる。
また応神天皇は九州の出身ということが「記紀」に載っており、河内にある現「応神天皇陵」はそのまま応神天皇の墓と見なして良く、応神こそ北九州から畿内に進出しそこに大和朝廷を創始した立て役者であろうという、水野祐、井上光貞の説を紹介している。
そして「記紀」神話や伝承に関する考察の結果として、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服− 日本国家の実現が、大体二段の過程で行われ、第一弾は南鮮の任那(伽羅)方面から北九州(筑紫)への進入、第二弾は北九州から畿内への進出で、前者は崇神天皇を代表者とした天孫族と、たぶん大伴・中臣らの天神系諸氏の連合により、4世紀前半におこなわれ、後者は応神天皇を中心とした、やはり大伴・久米らの天神系諸氏連合により、4世紀末から5世紀初めのあいだに実行されたように解されるのである」と言う。
日本古代史・邪馬台国を取りまく謎「騎馬民族は日本を征服したか?」から引用。
「神」がつく天皇は三人いる。神武、崇神、応神だ。この三天皇は一人の天皇の功績を三つに分けて描いたという説が有力だ。
裏神道からの情報によれば、神武=崇神=応神のルーツは、騎馬民族と一緒に東へと移動してきた失われたイスラエル十支族の末裔だという。
一時、チベット北部の天山山脈の麓に長く住んでいたとすされる。
奈良大仏開眼供養の際、応神天皇を祀る宇佐八幡宮(後章で取り上げる)から、
日本最初の「神輿(みこし)」が東大寺に運び込まれている。
この「神輿」こそ、旧約聖書の出エジプト記でモーセが神から受けた「十戒石版」を入れた、
「契約の箱」なのだと。映画「インディジョーンズ」では、「失われたアーク」と呼んでいる。
実際、契約の箱についての旧約聖書の記述は神輿と酷似している。
契約の箱は全面金で覆われ、純金の蓋を覆うような形で、一対の金のケルビム(羽が生えている。日本の一般の神輿では鳳凰)が取り付けられ、二本の竿を通して運んだ。
聖書をお持ちの方は、ご覧あれ。出エジプト記25章10節に詳しく記載されている。
今現在、この聖櫃は伊勢神宮内宮正殿地下に安置されており、「御船」と呼ばれる。
フランス南西部オーシュにあるサント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱

日ユ同祖論者の小谷部全一郎氏は「ミカド」は本来「ミガド」と発音したとし、「御ガド」と解釈。
「ガド」とは、失われたイスラエル十支族のひとつ「ガド族」のことであると指摘している。
また、「ミカド」の「ミ」はヘブライ語の「〜出身」という意味で、「ミカド」とは、ガド族出身の者」と指摘するユダヤ人のラビ(ユダヤ教の教師、先生)も現れた。
これらの事柄に対し、裏の情報源は「我らに伝えられた伝承と同じ」と明言した。
そして、ガド族の王「応神天皇」は、宇佐の地において、再臨したイエス・キリストから洗礼を受け、原始キリスト教徒に改宗したという。
イエスは新約聖書によれば、この世の終わりに再臨するとされているので、
この部分は疑問符がつくところではあるが、とりあえず情報として記す。
ガド族はキリスト教徒ではなかった。十支族がイスラエルから連れ去られ、消えてしまった当時、イエス・キリストはまだ生まれていない。
秦氏こそ、原始キリスト教徒なのだ。
原始キリスト教徒とは、イエスの十二弟子から直々に教えを受けた、エルサレム教団の教えを守るユダヤ人キリスト者である。
佐野雄二氏は著書「聖書は日本神話の続きだった!」の中で、以下の指摘をしている。
崇神天皇の生涯に起こった事を「旧約」と比較すると、ダビデ王を想起させる。
その理由は沢山あって、
1.崇神天皇の代に悪疫が三年続き、人口の半分が死んだが、
ダビデ王の時代にも三年間の旱魃があり、その後の悪疫で7万人が死んだ。
両方の王は、その惨状に責任を感じ、神にお伺いを立てている。
2.ダビデ王の軍隊はエドムのシア山で戦った。
崇神天皇の軍隊はイドミの山城で戦った。
3.約束の地にイスラエル人が定着してからは、あまり活動実績のない王の時代が500年以上も続き、その後、ダビデが王位についている。
日本神話でも神武天皇の死後、あまり活動実績のない王が500年以上続き、
その後、崇神天皇が王位についている。
4.ダビデ王の死後、息子のソロモンが王位を継承し、
最初のヘブライ寺院を今のエルサレムに建てた。
祟神天皇の死後、息子の垂仁天皇が継承し、
最初の神宮を伊勢に建てた。
5.ソロモン王はハマトに穀倉を建てた。
垂仁天皇は久米の村に穀倉を建てた。
謎の天皇である。それゆえ、いろんな説がある。どれを採るかは読者にゆだねたい。
ただ、裏の人間と直接接触を持った僕としては、
神武=崇神=応神天皇のルーツがイスラエル十支族であることは疑いないと思っている。
天皇家や記紀の真実を知るためには、旧約、新約聖書の知識が必要であることは間違いない。
49につづく
谷田茂
「騎馬民族征服王朝説」
これは元東京大学名誉教授江上波夫氏が、1948年、東京・お茶の水駅近くの喫茶店に江上と岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の学究仲間3氏が集った座談会で披露され、
「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」という特集記事で発表された。
3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。百済王はこの騎馬民族の首長ではないかと江上氏は示唆している。
この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸しこの地を征服する。
その時朝鮮からやってきて、後 100年ほど続く「九州王朝」の開祖となった者が、
後に「崇神天皇」と呼ばれるようになったと言うのである。
現天皇家の始祖はここにあるとする。
江上氏によればこれが「第一回の建国」ということになる。
「九州王朝」はやがて「応神天皇」を戴いて近畿征服を果たす。
この北九州から近畿への遠征が「神武東征」として日本神話に反映している。
「第二回目の建国」である。
ちなみに、崇神の渡来はニニギノミコトによる高千穂峰への降臨として説話に残っている、
と言う。
氏は、崇神天皇の別名「御間城入彦」「御間城天皇」のミマキに注目し、「ミマキ天皇」とは、
「ミマ」の宮殿に居住した天皇であるとしている。
そしてミマこそ南鮮にあった「任那」だというのである。
即ち日本の天皇家の始祖は任那から来たということになる。
また応神天皇は九州の出身ということが「記紀」に載っており、河内にある現「応神天皇陵」はそのまま応神天皇の墓と見なして良く、応神こそ北九州から畿内に進出しそこに大和朝廷を創始した立て役者であろうという、水野祐、井上光貞の説を紹介している。
そして「記紀」神話や伝承に関する考察の結果として、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服− 日本国家の実現が、大体二段の過程で行われ、第一弾は南鮮の任那(伽羅)方面から北九州(筑紫)への進入、第二弾は北九州から畿内への進出で、前者は崇神天皇を代表者とした天孫族と、たぶん大伴・中臣らの天神系諸氏の連合により、4世紀前半におこなわれ、後者は応神天皇を中心とした、やはり大伴・久米らの天神系諸氏連合により、4世紀末から5世紀初めのあいだに実行されたように解されるのである」と言う。
日本古代史・邪馬台国を取りまく謎「騎馬民族は日本を征服したか?」から引用。
「神」がつく天皇は三人いる。神武、崇神、応神だ。この三天皇は一人の天皇の功績を三つに分けて描いたという説が有力だ。
裏神道からの情報によれば、神武=崇神=応神のルーツは、騎馬民族と一緒に東へと移動してきた失われたイスラエル十支族の末裔だという。
一時、チベット北部の天山山脈の麓に長く住んでいたとすされる。
奈良大仏開眼供養の際、応神天皇を祀る宇佐八幡宮(後章で取り上げる)から、
日本最初の「神輿(みこし)」が東大寺に運び込まれている。
この「神輿」こそ、旧約聖書の出エジプト記でモーセが神から受けた「十戒石版」を入れた、
「契約の箱」なのだと。映画「インディジョーンズ」では、「失われたアーク」と呼んでいる。
実際、契約の箱についての旧約聖書の記述は神輿と酷似している。
契約の箱は全面金で覆われ、純金の蓋を覆うような形で、一対の金のケルビム(羽が生えている。日本の一般の神輿では鳳凰)が取り付けられ、二本の竿を通して運んだ。
聖書をお持ちの方は、ご覧あれ。出エジプト記25章10節に詳しく記載されている。
今現在、この聖櫃は伊勢神宮内宮正殿地下に安置されており、「御船」と呼ばれる。
フランス南西部オーシュにあるサント・マリー大聖堂のレリーフに彫られた契約の箱

日ユ同祖論者の小谷部全一郎氏は「ミカド」は本来「ミガド」と発音したとし、「御ガド」と解釈。
「ガド」とは、失われたイスラエル十支族のひとつ「ガド族」のことであると指摘している。
また、「ミカド」の「ミ」はヘブライ語の「〜出身」という意味で、「ミカド」とは、ガド族出身の者」と指摘するユダヤ人のラビ(ユダヤ教の教師、先生)も現れた。
これらの事柄に対し、裏の情報源は「我らに伝えられた伝承と同じ」と明言した。
そして、ガド族の王「応神天皇」は、宇佐の地において、再臨したイエス・キリストから洗礼を受け、原始キリスト教徒に改宗したという。
イエスは新約聖書によれば、この世の終わりに再臨するとされているので、
この部分は疑問符がつくところではあるが、とりあえず情報として記す。
ガド族はキリスト教徒ではなかった。十支族がイスラエルから連れ去られ、消えてしまった当時、イエス・キリストはまだ生まれていない。
秦氏こそ、原始キリスト教徒なのだ。
原始キリスト教徒とは、イエスの十二弟子から直々に教えを受けた、エルサレム教団の教えを守るユダヤ人キリスト者である。
佐野雄二氏は著書「聖書は日本神話の続きだった!」の中で、以下の指摘をしている。
崇神天皇の生涯に起こった事を「旧約」と比較すると、ダビデ王を想起させる。
その理由は沢山あって、
1.崇神天皇の代に悪疫が三年続き、人口の半分が死んだが、
ダビデ王の時代にも三年間の旱魃があり、その後の悪疫で7万人が死んだ。
両方の王は、その惨状に責任を感じ、神にお伺いを立てている。
2.ダビデ王の軍隊はエドムのシア山で戦った。
崇神天皇の軍隊はイドミの山城で戦った。
3.約束の地にイスラエル人が定着してからは、あまり活動実績のない王の時代が500年以上も続き、その後、ダビデが王位についている。
日本神話でも神武天皇の死後、あまり活動実績のない王が500年以上続き、
その後、崇神天皇が王位についている。
4.ダビデ王の死後、息子のソロモンが王位を継承し、
最初のヘブライ寺院を今のエルサレムに建てた。
祟神天皇の死後、息子の垂仁天皇が継承し、
最初の神宮を伊勢に建てた。
5.ソロモン王はハマトに穀倉を建てた。
垂仁天皇は久米の村に穀倉を建てた。
謎の天皇である。それゆえ、いろんな説がある。どれを採るかは読者にゆだねたい。
ただ、裏の人間と直接接触を持った僕としては、
神武=崇神=応神天皇のルーツがイスラエル十支族であることは疑いないと思っている。
天皇家や記紀の真実を知るためには、旧約、新約聖書の知識が必要であることは間違いない。
49につづく
