ヤマトタケルの命の討伐神話考



 (最新見直し2006.12.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる大和王朝草創期のヤマトタケルの命(古事記で倭建命、日本書紀の日本武尊)ことオウスの命(小碓命)の武勇譚を見ておくことにする。

 2006.12.14日 れんだいこ拝


【ヤマトタケル譚その1、熊襲征伐】

 或る時、景行天皇は、御子のオホウスの命に、美濃の国に居ると聞く評判の美女姉妹であるエヒ女、オトヒ女を連れてくるようにと頼んだ。美濃の国に赴いたオホウスの命は、二人の乙女に出会った瞬間に一目ぼれしてしまった。父に渡さず我が妻にしようとして別の娘をい連れて帰り献上した。景行天皇は、期待していたほどの美女ではなかったので失望した。告げ口により真相を知らされた景行天皇は物思いにふせ、それから結婚することもなく悩み続けた。

 それからしばらくたったある日、ヲウスの命に、朝夕の食膳に出てこない兄を出仕させるよう命じた。しかし、それから5日たってもオホウスの命は姿を現さなかった。天皇は訝り、ヲウスの命に確認したところ、「夜明けに兄が厠(かわや)に入ったとき、私は待ち受けて兄を捕まえ、その手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで投げ捨てました」と答えた。

 景行天皇は、ヲウスの命の猛々しい性格を恐れ、そばにおいておくのは危険だと思い、朝廷に服従しないままでいる西のクマソタケル兄弟の討伐を命じた。ヲウスの命は父の命に従い、熊曾征伐で出かけた。その前に叔母であるヤマト姫命の元を訪ねた。この時、「何かの役に立つかもしれませんから、この衣装を渡しておきます」と、衣装を授かった。

 ヲウスの命が熊曾建の家の前までやってきたところ警護が厳しく、兵で三重も囲んであり、容易に近づけそうもなかった。しかし、どうやら新居を祝うための宴の準備をしている様子であった。このことを察知したヲウスの命は、叔母様の衣装を着て、髪も女性のように結いなおし女装して忍び込んだ。やがて熊曾建兄弟のそばにはべることになり、宴もたけなわになったときに懐の剣を取り出し、熊曾の衣の衿をつかみ、胸を剣で突き通した。それを見た熊曾の弟は逃げ出した。それを追っていき、熊曾弟の尻に剣を突き刺した。

 「お前は何者か」。「私は大八島国を治めている景行天皇の御子ヤマトヲグナノミコである。お前たち兄弟が朝廷に従わないので、征伐に派遣された」。「我は、国中の強力者なり。当時の誰が来ても、我が力に勝つ者はいなかった。武運では負けなかったが、こたびはしてやられてしまいました。今後はあなたに従い、ヤマトタケルの御子と称えます」。ヲウスの命は、「確かにそなたからの名は受け取った」と述べた後、よく熟した瓜を裂くように尻に刺した剣を抜き、クマソタケルを切り裂いて殺した。それから、大和に戻る際に、山の神、河の神、海峡の神をみな服従させた。
 オホウスの命=大碓命。エヒ女=兄比売。オトヒメ=弟比売。ヲウスの命=小碓命。クマソタケル=熊曾建。ヤマト姫命。ヤマトヲグナノミコ=倭男具那王。ヤマトタケルの御子=倭建御子、日本武尊、倭武天皇。

【ヤマトタケル譚その2、出雲征伐】

 ヲウスの命(以降、ヤマトタケルと記す)は、都に戻る際に出雲の国を通った。イズモの首長、イズモタケルを殺していこうとした。まず、イズモタケルと親しくなった。肥の川に沐浴に誘い、ヤマトタケルとイズモタケルは連れ立った。先に川から上がったヤマトタケルは、太刀を変えることを提案し、それから太刀合わせを提案した。ところが、ヤマトタケル太刀は抜けないように細工していた。こうして、ヤマトタケルは太刀を抜くことができなかったイズモタケルを打ち殺した。
 「やつめさす 出雲建が はける刀(たち) 黒葛(つづら)さは巻き さ身無しにあはれ」
 (イズモタケルが持たされた太刀は、さやにつづらが巻きつけられ、刀身が抜けず殺されてしまった。可哀そう)。

 こうして、イズモタケルを殺した後、周辺を平定し、都に上り、復命した。
 イズモタケル=。

【ヤマトタケル譚その3、東国征伐】

 ヤマトタケルが熊曾と出雲の征伐を復命したところ、新たに東方12カ国の平定を命ぜられた。ひひらぎの八尋矛を授けられた。ミスキトモミミタケ日子を共に従えることになった。東国に向かう前に伊勢神宮に行き、斎宮にして叔母のヤマト姫に会った。この時、ヤマトタケルの目から涙が零れ落ちた。

ヤマト姫  「どうしたのです、ヤマトタケル」。
ヤマトタケル  「父上は、私が死ねばいいと思っているのでしょうか」。
ヤマト姫  「そんなことはありません。どうしてそう思うのですか?」。
ヤマトタケル  「西の熊曾を討ちに遣わし、都に戻ってまだ間もないというのに、すぐに今度は東国の十二カ国を平定して来いだなんてひどすぎませんか。しかも、兵士もくださらずに。父上は私なんか死んでしまえときっと思っているのです」。

 それを聞いたヤマト姫は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときに手に入れた神宝の草薙の剣を授けた。それと火急の際にはこの袋の口をお開けなさいと御袋を貰った。

 伊勢を出発したヤマトタケルは、尾張、焼津、浦賀水道、相模、箱根、甲州、信州を廻り尾張へ戻る長征に出向くことになった。(日本書紀は、伊勢、駿河、焼津、相模、上総、陸奥、常陸、甲斐、武蔵、上野、信濃、美濃、尾張と記している)

 ヤマトタケルは尾張の国に立ち寄った際に、ミヤズ姫の家に泊まった。一目ぼれしたヤマトタケルは、ミヤズ姫と結婚をしようと思ったが、今回の東国征討が終わって帰ってきてから結婚することにし、結婚の約束だけを交わした。

 ヤマトタケルは相模の国にやってきた。国造(くにのみやっこ)が、「実は、この野の中に大きな沼がございます。そして、この沼に住んでいる神が非常に凶暴な神で困っています」と訴えた。ヤマトタケルは、国造の頼みを聞き、妻のオトタチバナ姫と共に沼に住む神を見るために野に入った。そこには恐ろしいわなが待ち受けていた。タケルが野に入ったことを確認した国造は、火をつけて焼殺を謀った。背後からすごい勢いで火が迫った。妻のオトタチバナ姫の安否を尋ねたところ、無事だった。辺り一面火の海に囲まれたヤマトタケルは、咄嗟に叔母様から貰った袋を取り出して見ると、火打石が入っていた。草薙の剣で辺りの草をなぎ払い、火打石で火をつけると向かい火となり、迫り来る火を打ち消した。こうして、無事出ることができた。騙された事に怒ったヤマトタケルは、相模の国造どもをみな斬り殺した。この地はそれ以後、焼津と呼ばれるようになった。

 或る日、ヤマトタケルの一行が走水海を渡ろうとしたとき、海峡の神が荒波をたて、船は前に進むことができなかった。「このままでは船が沈没してしまう。何とかせねば…」。海の中で己の無力を嘆くヤマトタケルに対して、オトタチバナ姫が「私が皇子の身代わりとなって海に身を沈めましょう」。「あなたは東征の任務を成し遂げて天皇にご報告してください」。オトタチバナ姫は海に身を沈める前に歌を歌った。

 「さしさね 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも」
 (相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが君よ、あなたの気持ちが忘れられません)

 オトタチバナ姫は、菅畳を八重、皮畳を八重、絹畳を八重、波の上に敷いて、船からその上に下りて海に沈んだ。すると、荒波は自然におだやかになり、船は前に進むことができるようになった。それから7日後、海岸に流れ着いた今は亡きオトタチバナ姫の櫛を手にした。涙を流すヤマトタケル。その櫛を取って、丁重に葬った。

 ヤマトタケルは、そこからさらに奥へ進み、ことごとく荒ぶる蝦夷(えみし)どもを平定し、また、山や川の荒れすさぶ神々を平定し、都に戻ろうとした。その途中に、足柄山の坂の下にたどり着き、乾飯(かれいい)を食べていたヤマトタケルの前に白い鹿が目の前に現れた。足柄山の神が白い鹿の姿で現れたことを知ったヤマトタケルが、食べ残した蒜(ひる)の片端を鹿に投げつけると、その目に当たって、鹿は撃ち殺された。そして、ヤマトタケルは、その坂の上に登って三度、嘆息した。「あぁ、わが妻よ…あぁ、我が妻よ…あぁ、我が妻よ…」。そこで、その国を名づけて吾妻(あづま)というようになった。

 それから、その国を越えて、甲斐の国に出て、酒折宮(さかおりみや)についたとき、歌を詠んだ。「新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(常陸の新治や筑波の地を過ぎてから、幾夜旅寝をしたことだろうか)。すると、夜警の火をたいていた老人が、この歌に続けて、「日日(かが)並べて 夜には九夜 日には十日を」(日数を重ねて、夜は九夜、日では十日になります)と歌った。見事な受け答えをした老人に、東国造(あずまのくにのみやっこ)の称号を授けた。
 ミスキトモミミタケ日子=御?友耳建日子。ヤマトヒメ=。ミヤズヒメ=美夜受比売。オトタチバナ姫=弟橘比売。

【ヤマトタケル譚その4、三重山中で死す譚】

 その後、信濃の国の坂の神を退治したヤマトタケルは、尾張の国に向かい、先に結婚の約束をしていたミヤズ姫のもとを訪れた。この時、ミヤズ姫は月の障りの最中で、うちかけの裾に血が滲んでいた。二人の問答歌が次のように記されている。

 「ひさかたの 天の香山 利鎌に さ渡るくび 弱細 手弱腕を 枕かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が著せる むすびの裾に 月立ちにけり」。

 返歌は、

 「高光る 日の御子 やすみしし 吾が大君 あら玉の 年が来経れば あら玉の 月は来経往く うべなうべな 君待ちがたに 君が著せる むすびの裾に 月立たなむよ」。

 伊吹山神退治に向かったが、山の神を素手で退治するつもりだからと述べて草薙の剣を姫に預けた。こうして素手で伊吹山に向かった。山に登ってすぐ白いイノシシに出会った。「この白いイノシシの姿をしているのは、山の神の使者だろう。今殺さずとも、山の神を殺してからでも遅くはあるまい」。こういってさらに山を登った。この時、雹がすごい勢いで降ってきた。命からがら山から下りてきたヤマトタケルは、清水を見つけ一息つき、正気を取り戻すことができた。

 ヤマトタケルはタギノ(当芸野)のあたりにたどり着いた。「私の心は、いつも空を駆け登るような気持ちだった。しかし、今、私の足は歩くことができず、道がはかどらなくなってしまった」。こう弱音を吐いたヤマトタケルは、さらにほんの少しばかり歩いた。しかし、ひどく疲れてしまい、杖をついてそろそろ歩いた。さらに進むと、尾津崎の一本松のもとにたどりつき、食事をしていたときに、そこに忘れてきた大太刀がなくならないでそのまま残っていた。

 それから三重村にたどりついた。「私の足は三重のまがり餅のようになって、ひどく疲れてしまった」。そこからさらに歩き続けた。能煩野(のぼの)に着いた際に、故郷の大和国をしのんで歌を歌った。

 「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
 (大和の国は国々の中心の故郷である。青い垣根が重なり合うようにして山を覆っている。大和の国は何と美しい国なのだろう)
 「命の 全けむ人は たたみこむ 平群(へぐり)の山の くまかしが葉を うずに挿せ その子」
 (生命力の旺盛な人は、重なるように連なる平群の山のくま樫の葉を髪にさして、生命を謳歌するがいい、みなの者よ)
 「愛(は)しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」
 (あぁ、なつかしいわが家の方から、雲がわき起こってくることよ)

 この歌を歌った後、ヤマトタケルの病気は急に悪化した。そのときに歌った歌は、

 「嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」
 (ミヤズ姫と過ごした寝床のそばに私が置いて来たあの草薙の剣をもう手にすることは出来ないのだろうか)

 こう歌い終わってすぐにヤマトタケルは死んでしまった。早馬の急使が朝廷にヤマトタケルの死を告げに行った。

【ヤマトタケルの白鳥伝説譚】

 ヤマトタケルが亡くなったという知らせを聞いた妻と子は、大和からヤマトタケルの死んだ場所に向かい、御陵を作った。そして、その周りの田を這い回り、泣き悲しんだ。
 「なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 匍(ほ)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」
 (お陵(はか)の近くの田に生えている稲の茎に、その稲の茎に這いまつわっている野老(ところ)の蔓のような私たちよ)

 この時、見ると、御陵から大きな白い千鳥が空に飛び立ち、海に向かって飛び去った。白鳥が海に向かって悠然と飛び去っていくのを見た妻や子は、あたりに生えている竹の切り株で足を傷つけられても、その痛さを忘れ、泣きながら追っていき、歌った。
 「浅小竹原(あさしのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」
 (低い小竹(しの)の原を行こうとすれば、腰に小竹がまとわりついて歩きづらい。鳥のように空を飛ぶこともできず、足で歩いて行くもどかしさよ)。

 浜の海水に入って、難儀しながらも追っていったときに歌った歌は、

 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海がはいさよふ」
 (海を行こうとすれば、腰が水にはばまれて歩きづらい。大河の水中に生えた水草が揺れるように、海は水にはばまれて進むことができない)

 さらに、白千鳥が飛び立って、海岸の磯にとまっているとき歌った歌は、

 「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ」
 (浜の千鳥は、歩きやすい浜伝いには飛ばないで、岩の多い磯伝いに飛んでいった)

 この4首はみなヤマトタケルの葬儀の際に歌った。

 さて、白鳥は伊勢国(三重県)から飛んでいって、河内国(大阪府)の志磯にとどまった。そこで、その地にも御陵をつくり、ヤマトタケルの魂を鎮座させた。そして、その御陵を名づけて白鳥御陵といった。しかし、白鳥はそこからさらに空高く天翔けて飛び去って行った。こうして、ヤマトタケルの冒険は終わった。
(私論.私見)

【倭の五王】
 478年、倭王の武が宋の順帝に対して次のように上奏している。
 概要「歴代倭王は、身に甲冑を纏いて山川を踏渉し、東は毛人の55カ国を征し、似士は衆夷の66カ国を服し、渡りて海北の99カ国を平らげて、土を拡め畿(くに)を遥かにした云々」。












(私論.私見)