大和に於ける出雲系神社(大神、大和、石上、元伊勢)考



 (最新見直し2010.03.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 出雲王朝の時代、その勢威は後の大和、伊勢にまで及んでいた。史上最大政変となった国譲りは、顕界(表向き)の政治の支配権を高天原王朝に譲り、出雲王朝は幽界(裏方)の宗教的活動に於いて生息すると云う世にも珍しい和睦解決となった。これにより、出雲王朝は裏支配的に存続することとなった。

 ここで採り上げる「大神、大和、石上、元伊勢」は、出雲王朝時代に確立された神道をその後も伝承していった中心的な神社であり、且つその後の歴史に多大な影響を与えている。そういう意味で、これを検証する。

 2006.12.3日 れんだいこ拝


【大神(おおみわ)神社譚】
 奈良県桜井市三輪1422に、御諸山(三輪山)そのものをご神体(神体山)とする大神神社がある。古神道では、神が宿る山を「神奈備(かんなび)山」と云い、山そのものあるいは山頂の岩等々そのものを崇める。これが古神道の粋とも云える信仰形態である。その里宮として大神(おおみわ)神社が創建されている。大神神社は、三輪山を中心として350ヘクタール(約100万坪)、周辺は16kmもある日本一広大な社地を持つ神社となっている。

 大神神社は、大物主大神、大己貴神、少彦名神を主祭神としている。いずれも出雲王朝系の神々である。これを更に識別すると、主祭神は大物主大神であり、大己貴神、少彦名神を配祀していると捉えることができる。大物主大神と大己貴神を同一視する記述もあるが、大物主大神は、叉の名を大物主櫛甕玉命とも云い、神武東征以前の大和-河内一帯を支配していたニギ速日の尊とみなすべきであり、大己貴神は出雲王朝の盟主・大国主の命と識別すべきと思われる。少彦名神は、その大国主の命と力を合わせて国づくりした神である。

 「国譲りの神話考」の「大国主が、ヤマトの三輪山宮設営」で確認したが、国譲り前、大国主の命が、「吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である」と名乗る者と対話し、ヤマトの三輪山に宮を建てたと伝えられている。

 御諸山が三輪山と名付けられるに至った縁起が次のように伝えられている。
 「イクタマヨリ姫(ヤマトトトヒモモソ姫)は、たいそう美しい乙女だった。ある夜、姫のもとに威厳比類なき堂々として立派な男があらわれ、二人はたちまち恋におちて結ばれた。男はいつも昼には現われず夜だけやって来た。姫は身ごもった。姫の両親が姫に尋ねたところ、『みめ美しい男が毎夜のように通ってくるが、誰とも判らず契りあっているうちにこうなりました』と答えた。両親は男の素性を知りたいと思い、『床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針をつけ男の着物の裾にさしておくよう』姫に教えた。姫は言いつけどおりにして、翌朝になってみると糸は、入口の戸の鈎穴から外に出ており、辿って行くと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったのでここを三輪(美和)と呼んだ」。

 古事記の崇神天皇7年の条に次のように記述されている。
 「崇神天皇の御世に、疫病が流行り、人民(おおみたから)が尽きるほど甚大な被害が発生していた。崇神天皇がこれを愁い嘆きし時の或る日の夜に「意富多多泥古(大田田根子)を探し出し祀れば国が平安にならむ」とご託宣有りて、物部連の祖・伊香色雄(いかがしこを)に命じ、八方手を尽して探し出し足るところ、河内の国の美努村に住んでいるのを認め、祭祀主として御諸山に迎え、崇神天皇7年8月、意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を祀らした。この大田田根子が三輪氏の祖となる」。

 日本書紀では、大物主神が倭迹迹日百襲媛(やまととひももそひめ)の命に神懸かりして、また、臣下の夢に現れた神託に従い、大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせた、とある。旧事紀では「大田々彌古命」あるいは「大直彌古命」と表記されている。ニギハヤヒの子孫で、三輪神社を祭るとある。大三輪君は畿内東南部を本拠とした豪族でニギハヤヒの子孫とされる。

 日本書紀の崇神天皇10年9月の条に次のような「箸墓伝説」が記述されている。
 「倭迹迹日百襲媛の命は、或る見るからに立派な青年の妻と成った。この神は昼間は来ないで夜に来る。或る日、明朝まで居て下さい。麗しいあなたのお姿を見たいと告げた。青年は、『私はあなたの櫛箱の中に入りましょう。私の姿を見て驚かないで下さい』と告げた。翌朝、姫が櫛箱を開けてみたところ、美しい子蛇が居た。姫は驚きの余り大声を上げてしまった。子蛇は忽ち人の姿に変じて、『お前は私に恥をかかせた。私は山に帰るが、お前には相当の報いがあるであろう』と述べて大空に翔け上がった。姫は悔いて、どすんと腰を着いた拍子に箸で陰部を突いて亡くなられた。姫は大市に葬られ、箸墓と名付けられた」。

 古事記が「イクタマヨリ姫(ヤマトトトヒモモソ姫)と三輪の神との契り」を語るのに対し、日本書紀は、同様の語りをしつつ「ヤマトトトヒモモソ姫の悲劇」を添えている。「姫は大市に葬られ、箸墓と名付けられた」が貴重な記述となっている。

 三輪山信仰は万葉集にもしばしば言及されている。最初に登場するのは巻1の17、18番の歌である。「額田王、近江国に下る時に作れる歌」として、17番で次のように歌われている。
 「うまさけ 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに 委曲(つばら)にも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の隠さふべしや」。

 「井戸王のすなはち和(こた)ふる歌」として、18番反歌が次のように記されている。
 「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや」。

 この18番歌は、異説として「山上億良大夫の類しゅう歌林に曰く、都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌なり」の注で、作者を天智天皇とする異伝がある。いずれにせよ、大和の守り神の坐す三輪山を憧景している様が窺われよう。

三輪山のイワクラ(磐座)めぐり

三輪山のイワクラ(磐座)めぐり
 三輪山(みわやま)は、奈良盆地の南東部に位置する奈良県桜井市にある標高467m、周囲16kmのなだらかな円錐形の山である。三諸山(みもろやま)ともいう。おそらく縄文時代よりの古神道の聖地であり、三輪山は神の鎮座する山・神奈備とされている。弥生時代を経て、この一帯に三輪王朝政権が存在したと考えられる。。箸墓古墳(はしはかこふん)は魏志倭人伝記載の邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。大和王朝時代の古墳時代にはいると山麓地帯に次々と200~300mの大きな古墳が作られ、第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵等々がある。『記紀』には大神神社の祭神である大物主神(別称三輪明神)の三輪山伝説が載せられている。

 三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、奥垣内遺跡などがある。頂上には高宮神社が祀られている。延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社が載せられている。この日向神社は、古代には三輪山の頂上に祀られ、太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている。

 磐座は、三輪山山頂の他にも周辺に点在する。古神道では、磐座を神座と心得、注連縄を掛け、神を招き奉って祭祀を行ない、これを崇拝してきた。これを磐座祭祀と云う。磐座は一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなどがある。磐座祭祀は6世紀後半の社殿神道の始まりと共に衰退し、7世紀末の律令官社制の確立と共に実質的に終焉する。沖ノ島では、7世紀末に半岩陰・半露天祭祀から露天祭祀への移行が確認されている。三輪山においても7世紀前半には、磐座祭祀から禁足地の祭祀へと移行したとされる。7世紀末は古墳時代の終末期にあたり、磐座も古墳も石とかかわる祭祀であると云う点で共通する。従って「磐座祭祀とは、古墳時代以前に行われた岩石祭祀」であると定義することができる。

 志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社(磯城瑞籬宮址)

 海石榴(つば)市から山の辺の道に入ると銅板葺きの巨大な天理教の教会が見える。目指す志貴御県坐神社はその東隣にある。「磯城」には、石で堅固に築いた城、周囲を岩石でめぐらした祭場の意がある。志貴御県坐神社は杉や樫の茂った森の中にある小さな神社で、本殿の右側に南を向く単独の石と南北に並ぶ四つの石があり、いずれも祀られている。この地は三輪遺跡の東端にあり、神社明細帳によれば、祭神は大己貴神とある。『大和・紀伊 寺院神社大事典』は、この神社を次のように紹介している。

 金屋集落の北西山手に鎮座。旧村社。祭神は大己貴神(神社明細帳)・御県の霊(大和志料)のほか、天津饒速日命などの説がある。由緒はつまびらかでないが、拝殿右には原始信仰を物語る磐座があり、境内は崇神天皇の「磯城瑞籬宮」推定地とされるなど、鎮座の古さをしのばせる。俗に「シキノ宮」と称し、大和六御県神(「延喜式」祝詞)の一とされる。

 「大倭国正税帳」正倉院文書に、天平2年(730)「志癸御県」の記載がある。また、「延喜式」神名帳に城上郡「志貴御県坐神社、大、月次新嘗」とみえる。「日本書紀」神武天皇2年2月条に、弟磯城(おとしき)を磯城県主としたことがみえ、磯城県主は神社付近を中心として、のちの城上(しきのかみ)・城下(しきのしも)郡に勢力をもち、大和朝廷と独自の婚姻関係を結んだ古代豪族であった。天武12年に連となり、「新撰姓氏録」大和国神別に志貴連は饒速日(にぎはやひ)命の孫日子湯支(ひこゆき)命の後裔とある。

 御県神(みあがたのかみ)は田の神で、大和では高市御県・葛城御県・十市御県・志貴御県・山辺御県・曾布御県の六つの御県神が著名である。御県神は大きな川の流域の田圃の中などにも祭られていることが多い。志貴御県坐神社の境内につづく西側、現在の天理教敷島大教会と北隣りの三輪小学校の両敷地から、縄文式土器・弥生式土器・石器をはじめ須恵器や土師器のほかに金屋の地名どおり製鉄に関係のある金クソ・フイゴの口・石製模造品・玉製品などが出土している。このことから、このあたりが皇居跡ではないかとの説もある。この台地は海抜7~80mの地で、考古学上からも三輪遺跡として重要視されている。

  平等寺

 寺伝は「敏達天皇即位10年(581)聖徳太子が賊徒を平定するために三輪明神に祈願して、賊徒平定後十一面観世音菩薩を刻んで平和祈願の寺を建立して大三輪寺と称したのにはじまる」とある。しかし、『大神神社史』は、「平等寺境内の開山堂に慶円の像を安置していた」ことを根拠に、寺伝を否定し、慶円を開山者としている。『大三輪町史』は、空海説の存在も述べているが、史料上はっきりとした記述は古代にはあらわれない。慶円は鎌倉時代初期の僧で、大神神社の傍らに真言灌頂の道場「三輪別所」を開き、平等寺と改称してから大伽藍を建立したと伝えられる。江戸時代には、真言宗の寺院ではあるが、修験道も伝えていた。平等寺は明治の廃仏毀釈によって一旦廃絶するが、明治23年になって翠松寺(すいしょうじ)が河内から移され、旧平等寺の山門付近に再建された。その後、昭和52年に元の「平等寺」という名前に戻った。

 古絵図を見ると、廃平等寺鎮守である春日社の背後に「星降(ほしふり)」と記された巨岩があり、当時ここが神霊の宿るところとして意識されていたことがわかる。現在の平等寺は廃平等寺(三輪別所)よりも山裾にあるが、修験道の霊地でもあり寺の創立以前に磐座があったとしても不思議はない。磐座の正面からは「星降」を拝む形となっており、辺津磐座としては納得のゆくものである。

 素佐男神社(祗園社)

 平等寺の北側に素佐男神社が鎮座している。地元では親しみをこめて「祗園さん」と呼んでいる。南から入った参道右横に「回り石」または「夫婦岩」と呼ばれる磐座があって、丸餅のような石が2個、南北に並んでコンクリートの枠内に納まっている。これに似た列石は、志貴御県坐神社にもあり磐座を考える上で興味深い。明治13年(1880)の「大神神社儀式」の四月上卯日(春の大神祭)の項には、「回り石」について次のような記述がある。

 「未ノ刻、神主以下惣員出仕。・・・次渡ノ兒(ちご)武者ヲ始メ、渡リニ関係ノ者、八乙女一(老)等、薬師堂村ギオン(祗園)社ニ至ル。・・・次渡リノ行列ヲナシ、はぜう社(祗園社境内ニアリ)ノ前ノ石ヲ三度廻ル。次兒、同社ニ向ヒ祠中ニ矢ヲ射込ム」 神社の境内には、「白山祠」の額がかかる白山神社の朱塗りの祠があり、説明板には次のようにある。「白山神社 この地域は、古くから加賀白山の信仰も篤く、白山大神を祀り、祭礼は氏神社と併せて祭祀しております。庚申、愛宕、金比羅大権現は「歯定さん」といっては歯痛に霊験あると信仰されています」。

 左側から金比羅大権現、愛宕、白山祠、庚申が祀られている。この祗園社で春祭の中心行事である田植祭が行われたとの見解がある。子供が神事に矢を射るのは、柳田国男氏の説によれば「その年の豊作を占うため」である。また、「はぜう社」は、端山(麓山神)のことで、麓上(はじょ)さんはその俗称とある。

 夫婦岩(大神神社参道横)

 大神神社の二の鳥居から参道を進むと大神神社の階段手前の左側にある。夫婦岩は辺津磐座の一つで、室町時代の『三輪山絵図』を見ると「聖天石(しょうてんいし)」と称し富貴敬愛を祈ると記されている。今日では二つの磐が仲良く寄り添っているので「夫婦岩」と称し「夫婦円満」「子授け」「縁結び」「恋愛成就」等に霊験あらたかな磐座として信仰を集めているとある。江戸時代の寛政3年(1791)編纂の『大和名所図会』には、三輪明神影向の古跡とあり、「フウフ石」として絵図に描かれている。「夫婦岩」なる命名は概して現世利益的・現代的なものであり、太古からのものではないことが多い。大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪明神、三輪神社とも呼ばれ、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。

 日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居三ツを一ツに組み合わせた特異な形式のものである。大神神社の境内には宝物収蔵庫があり、大神神社伝世の神宝の他、山の神祭祀遺跡・奥垣内祭祀遺蹟・禁足地等の出土品が展示されている。  

 磐座神社

 磐座神社は大神神社から「くすり道」(山側の道)を通って狭井神社に向かう途中の、狭井神社のすぐ手前にある。少彦名神(すくなひこな)を祀る辺津磐座の代表格である。辺津磐座に祀る少彦名神については「大三輪社勘文」に「大神崇秘書」を引用して、「辺っ宮は・・・神殿無く磐座あり。辺っ磐座と称す。少彦名命なり。清寧天皇の御世・神託に依り賀茂君之を斎祀す」とある。この辺津磐座については「鎮座次第」では、「清寧天皇が大伴室屋大連に勅して当神社に幣帛をたてまつり、皇子無きの儀を以て祈祷せしめられ給いし時、大神が宮能売(注1)に憑られ(注2)、大神の和魂と共に少彦名命を敬祭あそばされんことを請い、もろともに天津日嗣(ひつぎ)の絶ゆることなく皇孫を守り、人民を済わん」と宣託され、大御心を安んじ給うたと伝えており、同天皇の元年冬十月乙卯の日に、磐境を立て起して崇祭されたのを起源としている。

 少彦名神 は、常世国(とこよのくに)から石(いわ)に示現する神と歌われ、粟茎(あわがら)に弾かれて淡島(あわしま)より常世国に至ったとも語られる。またガガイモの舟に乗り、蛾(が)あるいは鷦鷯(さざき)(ミソサザイ)の皮を着て海上を出雲の美保崎に寄り着いたと説かれるので、この神は常世国より去来する小さな神であったことがわかる。さらにこの神は、多くの場合、国造りの神として大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主命)と並称されるが、その本質は粟作以来の穀霊であったと考えるべきであろう。生成神・神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、田の神の案山子(かがし)(久延毘古(くえびこ)に名を明らかにされる話もその本質と関係がある。大己貴神は、この常世の穀霊と合体して国造りに成功する。

 若宮社(大直禰子神社)

 狭井神社前の十字路を西に5分程下ると若宮社が鎮座している。祭神大直禰子(おおたたねこ)は大田田根子とも書かれ、大物主神の子孫とされる。記紀神話における伝説的な人物で、三輪君の祖神とされる。第10代祟神天皇の御代に、疫病が大流行して多くの民が死んだ。天皇が大いに愁い給うていたとき、夢枕に大物主神が現れた。わが児・大田田根子をして私を祀らせれば天下は平らぎなんと言った。そこで天皇は、これを茅渟県陶邑で探し出し、大田田根子を神主として、三輪の大神(大物主神)を斎き祀ったところ、疫病は鎮まり、天下は泰平になったとある。

 若宮社は明治の神仏分離までは神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ)であった。ここに御誕生所社の磐座があり、それにまつわる次のような物語が残されている。「三輪大明神縁起」によれば、大御輪寺は垂仁天皇99年の草創にかかり、武一原大納言の娘に三輪の明神が通われ、神子を生んだ。この大納言が自分の住む家を、お寺風につくりかえたのが、この大御輪寺の始めだというのである。ところが、その神子は生れて七日目に母を亡くし、その後は、来る日も来る日も母恋しさの日を重ねるうち、ある日、悲しさのあまり邸内の石の上に泣き臥していると、突然、三輪明神が現われて、母の形見を与え給うたのでようやく悲しみも薄れ、それからは父なる神のいます御本社へお参りするのを唯一の慰めとして暮らしていた。十歳の折、大御輪寺の寺内の一室に閉じ籠もったままでふたたび姿を見せなくなった。のちに聖徳太子が御参詣になり、御戸を開かれると、尊くも十一面観音菩薩像に生身入定されていたという話である。なお境内には、正月の御神火祭の時に若宮社の上にある久延彦神社に神饌を供える黒っぽい俎板のような「神饌石(みけいし)」があるが、前述のように磐座ではない。

 奥垣内(おくがいと)祭祀遺蹟(大美和の杜)

 若宮社からもと来た道を引き返すと、久延彦(くえびこ)神社の鳥居があり山に向かって参道がのびている。祭神の久延彦神は、大国主神に少彦名命の神名を教えた神であり、『古事記』には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」と記されている智恵の神である。久延彦神社の境内から見る大和三山は絶景である。本殿右側には三輪山の遥拝所がある。奥垣内祭祀遺蹟の磐座は、「大美和の杜」と称する山の辺の道沿いの公園にある。奥垣内祭祀遺蹟の磐座は、発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものである。奥垣内祭祀遺蹟の発見当時の概要を以下に紹介する。

 1965年に民間業者による温泉地開発によって、狭井川畔の当遺跡が削平をうけ、多くの祭祀遺物が発見された。樋口清之氏の紹介によると、斑礪岩の巨石が集結していた地点に重機を入れたところ、巨石の東側に接して、胴部下半を土中に据えた状態で須恵器の大甕が出土した。この中に、須恵器の杯・高杯・長頸壷など十数点が多量の滑石製臼玉とともに収められていたという。また付近には滑石製有孔円板や土師器の破片が一面に散乱していたとのことであり、現在(大美和の杜)に復元されているような磐座をともなう祭祀遺跡であったと考えられる。この遺跡で出土したとされる須恵器をみると、その主体は5世紀後半~6世紀初頭にあるが、他に4世紀末~5世紀前半の土師器や新羅系陶質土器が含まれている。また狭井川畔でも碧玉製管玉や硬玉製勾玉が採集されていることを考えると、この狭井川畔のやや広い河原では、4世紀後半~6世紀前半の間、繰り返し磐座を祀る神マツリが行なわれ、祭器をまとめて埋納した様子がうかがわれる。

 奥津磐座(三輪山山頂)

 三輪山への登り口は狭井神社境内にあり、登拝は狭井神社に申し込む。奥津磐座は山頂の高宮神社の東にあり、ゆっくり登っても往復2時間で十分である。登拝道入口から8分程歩くと小さな谷川があり、その傍に辺津磐座らしきものが鎮座している。そこから谷川に沿って10分程歩くと「三光の滝」と呼ばれる行場がある。その行場から尾根に取りつき10分程歩くと中津磐座に達する。中津磐座は、群をなしていて広いエリアが注連縄で囲われている。中津磐座は磐座と杉の巨木がセットになった古代祭祀の姿をしている。そこから20分程登ると高ノ宮神社が鎮座している。『大神神社御由来略記』によれば、三輪山のいただきにある高ノ宮は神殿なく神杉あり。大国主神その杉に降り給いその杉を神体とするとあり、続く神詠のなかに「岩杉(イワキ)」の語が見える。神はこの杉に降臨し磐に座したのであろう。目指す奥津磐座はそこから東に100m(1~2分)の距離にある。山から降りたら、狭井神社の御神水をいただいて喉をうるおそう。甘露である。

 三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の三つの磐座があると言われるが、実際はこの三つにとどまらない。三輪山の磐座分布図をみると、実に多くの磐座が点在していることがわかる。しかも分布図に点で表された磐座は群となって存在している場合が多いといわれる。このような多数の磐座が、ある時一斉に成立したとは信じにくい。やはり長い歴史の中で磐座の数が増えていったのであろう。

 奥津磐座、中津磐座、辺津磐座の呼び方が何処から来たのか。「奥津」は普通「オクツ」と読まれるが、実は「オキツ」と読むのが正統である。古事記の研究書によれば、「奥」は「沖」と同語源とされる。「津」は、「港」でありエリアを示すものと解釈できる。「辺津」は岸辺を指す。三輪山の奥津磐座・中津磐座・辺津磐座は宗像大社の奥津宮・中津宮・辺津宮と対応している。『大神神社御由来略記』によれば、大物主大神は神代より奥津磐座に鎮座、大己貴命は考昭天皇の御代に中津磐座に鎮座、少彦名命は清寧天皇の御代に辺津磐座に鎮座。今も鳥居を三ツに造りて、三柱を斎き奉るとある。(参考 天皇即位年 第5代考昭天皇 紀元前475年 第22代清寧天皇 480年)。

 大物主(おおものぬし)は、日本神話に登場する神、大神神社の祭神。古事記によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう望まれた。大国主が「あなたはどなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。日本書紀の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂(にぎみたま)を大物主神として祀ったとある。

 奥津磐座は長径四十数メートル、短径十数メートルの楕円形をした、高さ1メートル以下の小ぶりの岩が域内に多数集まった岩群れである。岩群れは無数の筋状の列石のようにも見えるが、人為の介在の有無は不明である。長軸をほぼ南北に置き、南端に小さな拝所が注連縄のかけられた岩の前に設けられている。
 
 岩畳畏(かしこ)き山と知りつつも我は恋ふるかなみならなくに(万葉集 巻7-1331)

 三輪山の山頂には太陽信仰にかかわるとされる大神神社の摂社である高宮神社(こうのみや)がある。高宮神社は三輪山の頂上、いわゆる高峯(こうのみね)(あるいは神峯とも書く)に鎮座、御祭神は大物主神の御子、日向御子神である。本殿は小さな池の中にあり、古来、旱魃の時には郷中の氏子が登拝し、降雨を祈ればかならず霊験ありとされている。これは『日本霊異記』にも出ている雨を支配する竜神信仰が生き継がれているといえるが、今日でも旱魃時は神職参籠の上、登拝して祈雨祭をおこなうときがある。また元旦の撓道祭(にょうどうさい)にさきがけて大晦日には神職が登拝し、御神火拝戴の儀がこの社で行なわれる。三輪山では一年のなかで太陽の勢いがもっとも弱くなる冬至の日に、司祭者が山頂に登り、磐座に太陽神の依り代としての銅鏡をはじめ玉類・武器類・土器に入れた供物などを供え、東(ひむがし)に昇る太陽に向かって礼拝した。「日向(ひむか)」とは、日(太陽)に向く、日に向かうというその意味であり、太陽(日の神)に向かって拝むとか、太陽が昇る東(ひむがし)の方に向いて拝むという太陽祭祀がおこなわれていたことを示唆している。ためでしょう。

 山ノ神祭祀遺跡

 三輪山の祭祀を知る上で極めて貴重な遺跡であり、遺物の一部は大神神社の境内にある宝物収蔵庫に展示されている。尚、山の神祭祀遺跡の磐座は、奥垣内祭祀遺蹟と同様に発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものであることに留意したい。

 三輪山は神体山であるため基本的に学術調査ができないことになっているが、ここはたまたま民有地となっていたため、詳しく調査された。山ノ神祭祀遺跡は、狭井神社の東北、狭井川の上流にあたる三輪山麓にある。その概要を文献15②から以下に紹介する。大正7年(1918)、ミカン山開墾のために、露出していた巨石を動かそうとしてその周囲を掘り進んだ結果、発見された。巨石組は、約1.8×1.2mの平面長方形の斑礪岩(はんれいがん)を中心にして、5個の石がこれを取り囲む状態で見つかり、石組の下には割石を敷きつめて地固めをしていた。遺物は石の周囲より発見され、中には、土師器坩(はじきつぼ)の内に滑石製臼玉が入れられた状態で出土したものもあるという。残念ながら、発見から県の調査までの3ケ月間に巨石が動かされ、盗掘を受けてしまつたが、発掘された遺物を上回る大量の遺物が埋納されていたことが知られる。

 5世紀中頃を境とした上記の祭祀遺物の変化は、雄略期の伊勢遷宮によるヤマト王権の太陽神から土着の農耕神への回帰による可能性が考えられる。

 檜原神社(倭笠縫邑)

 大神神社の摂社である檜原神社は、第10代崇神天皇の御代に、はじめて皇祖天照大神(八咫鏡)を宮中から移して祀り、皇女豊鍬入姫命が奉持せられた倭笠縫邑の神蹟とされる。そのため「元伊勢」の別称も残る。室町時代のものといわれる古図(文献12)をひらくと、三輪山の中でも、檜原峯という峯を背景にし、本殿を設けずに本社と同様、三ツ鳥居・拝殿を構え、石壇が設けられており、その前方左右にわかれて末社が祀られ、御供所(ごくしょ)などがある。二ノ鳥居もあり、さらには一ノ鳥居までが、本社一ノ鳥居と同線上、上津街道近くに建っていたことが示されている。このことから、古来より大神神社の摂社の中でもとりわけ重要な神社であることがわかる。また、檜原神社は日原社とも書かれ、三輪山の朝日と二上山の夕日を遥拝する太陽祭祀であり、これが天照大神の信仰につながったものと思われる。

 檜原神社は、本社と同じく本殿がなく、三ツ鳥居を通して「神籬(ひもろぎ)・磐座」を拝む古代祭祀がそのまま残っている。江戸末期より荒れていた社頭を、昭和40年神宮の協力を得て三ツ鳥居を建造し、瑞垣を設け古儀に復したのが現状の姿である。檜原神社から三輪山山頂の間に8群の磐座が連なっており、檜原磐座線と呼ばれる。これは大神神社にもあり拝殿奥磐座線と呼ばれ、拝殿奥から山頂の間に6群の磐座がある。私は、山ノ神祭祀遺跡の遺物の変化と沖ノ島の磐座祭祀の変遷から、6世紀中頃に、檜原磐座線から拝殿奥磐座線へと、祭祀の中心が移動したと推定した。それは、伊勢遷宮を契機とした大神神社創生の時期に一致する。

 九日神社(国津神社)

 檜原神社から九日神社への道筋にはホケノ山古墳・箸墓古墳等の有名な古墳があるので、時間が許せば寄ってゆきたい。豊鍬入姫命の墓との伝承が残るホケノ山古墳はのどかな風景が楽しめる。また、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳は池側からの眺めが素晴らしい。

 九日神社は九日(くにち、くじつ)または国津(くにつ)と呼ばれる小さな神社である。「国津」と言えば、すでに通ってきた箸墓古墳の手前にある神社も国津神社であった。国津神社(箸中)付近は、祭祀遺跡である。芝と箸中の二つの国津神社は、纏向川を挟んで深い関係にある。国津神社(箸中)にある説明板には次のような説明がなされている。
当国津神社は、古来より「地主の森」といい、天照大神の御子神五柱を祭神としています。この男神五柱は、「記紀」神話によると、素盞鳴尊が天照大神と天の安河を中にはさんで誓約をしたとき、天照大神の玉を物実として成り出た神であります。
ちなみに纏向川下流の芝の国津神社(九日神社)には、素盞鳴尊の剣を物実としてうまれた奥津島比売、市杵島比売、多岐津比売の三女神を祭祠しています。
この箸中と芝で、神の山三輪山を水源とする纏向川をはさみ、二神の誓約によって成り出た神をそれぞれ祭神としていることに、古代神話伝承の原景を見る思いがします。
また、天照大神の祭祀に奉じた豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓所が国津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっています。(ホケノ山古墳は国津神社から徒歩で往復4分) 九日社には、リンガ(陽石)とヨナ(陰石)の磐座(文献2)が東西に並んで鎮座している。奈良県の飛鳥坐神社には、これに似た夥しい数の陰陽石がある。
九日社は、北に箸墓古墳、東に三輪山、西に二上山を眺めることができる特別な地(注)であるため、この神社の古代史における重要性が指摘されている。

 三輪山・箸墓・二上山は、「太陽の道」を構成することで知られている。「太陽の道」(文献22)は、小川光三氏が発見した伊勢の斎宮から淡路島の伊勢の森に至る北緯34度32分の東西の祭祀線で、その線上には点々と神奈備山や磐座が存在し、太陽神とも云われる天照大神に関係する神社が建ち並んでいる。このことから、その東西線は「太陽の道」と名付けられた。いわゆるレイライン(leyline)である。【東西線上の神社と神奈備山】 [東]伊勢(斎宮)→三輪山→檜原神社→国津神社→箸墓(倭迹迹日百襲姫命の墓) →二上山→大鳥神社→淡路島(伊勢の森) [西]

 関西一人歩き第九稿

 【山辺の道】

シルクロード東の終点とも言われている山辺の道。大和盆地東部の山裾を天理石上神宮から桜井市の大神神社に至るおよそ七㌔の万葉の道である。関西ではこの道を知らない人はいない程よく知られたハイキングコースで、近鉄電車の主な駅にはコース案内図が必ず置いてある。石上神宮から南に下って三輪山の麓、桜井市金屋付近で西に折れ、竹内街道につながり難波津へと続くまさに大和時代の大動脈であった。そしてその先は博多朝鮮中国へと続く。

さて、スタートは近鉄天理駅。この町はご存知天理教の本部がある町で天理教が先か天理市が先かは分かりませんが、宗教名が市の名前になっているのも珍しいのではないでしょうか。駅前の商店街は天理教○○支部の法被?姿で溢れ、店先に並ぶ商品も天理教関連のものがやたらに多い。それもそのはず、商店街を抜けると天理教の一大聖地天理教本部の大伽藍が聳える。そして、それを取り巻くようにホテルのように立派な各支部の宿舎がまるで、本部を外敵からでも守るかのように幾重にも取り囲んで建っている。初めて訪れる人にとってはなんとも異様な光景であろう。今日も各地から奉仕団のような人たちが来ていて、広い境内のあちこちで清掃奉仕をしている。

 広い教区内を東へ東へと進み教区を抜けると桜並木の国道に出る。それを右に折れるとすぐに石上神宮だ。「いそのかみ」神宮と読む。
鬱蒼とした緑の中に錦絵をまぶしたような見事な紅葉に出迎えられ、華やぎと共に、否応無しに厳粛な気持ちにさせるような空間がそこにある。「布留」というのが、このあたりの古い地名で、「ふる」は神にかかる枕詞で、ちはやふるの「ふる」がそれである。古代人にとっては神霊が宿るかのような景色であったのであろう。この森の杉は「布留の神杉」とも呼ばれていた。森は現在も神域として一般の立ち入りが禁止されその厳粛さを保っている。石上神宮は古代大和崇神王朝の武器庫であったといわれている。

 崇神帝は歴史上存在する最初の天皇であるが系譜上は第十代である。それ以前は神話の世界の天皇で、大和王朝はその正当性を主張するために王朝としての歴史の深みが必要だったのであろう。既に畿内を平定し、地方にも勢力を伸ばし隆盛を極めつつあった崇神帝は、各地の豪族から兵器を差し出させ布留の森に納めた。いつしか朝鮮の百済王から七枝刀(国宝で現存する)までが送られてきた。古くは拝殿の奥に「高庭」が在って、その地中深くに磐座や神剣宝珠が埋められ本殿とされ「禁足地」とされてきた。自らの神格と、国中の戦争道具をここに集めて、物部氏の軍隊に守らせて平和を守ったのであろう。

石上神宮を参拝して南へ向かう。のどかな田園風景が続くが、ここから見える大和盆地は開発の手が隅々まで侵入して、もはや古代王朝を想像できるような風景ではなくなっているのは、仕方が無いと言えばそうなのだが、やはり残念な気がする。

この道沿いには多くの古墳が点在しているが、その中でも崇神天皇陵はひときわ壮大な前方後円墳で他を圧している。手入れも行き届き御陵を取り巻く見事な松が印象的だ。さらに南へ下り景行天皇陵を越えるあたりからは秀麗な三輪山が目に入ってくる。

標高四六七㍍の霊気の籠る山の麓に大神神社がある。明治以前は三輪明神として有名なこの神社は日本最古という言葉でもなお足りないほどの歴史的古さを有している。日本では古来秀麗で霊気を感じる独立峰を神南備山とし、山そのものをご神体として祀って来た。三輪山はその古さにおいては伊勢神宮もはるかに及ばない。古代信仰世界では横綱級の位置づけにある。明治になって神仏分離の令によって当時の神主が名をつけたものと思いますが大神と書いて(おおみわ)と読ませるには如何にも無理がある。

 大和王朝以前この地を支配していたのが出雲族といわれている。出雲と云えば現在では島根県の出雲であるが、古代においては出雲族の活躍の中心地は大和であったようだ。この出雲族が三輪山を神南備山として祀ってきた。この出雲族のミワ王朝を滅ぼした崇神帝も政権を維持するに当たって三輪山信仰を無視できなかった。すでに大和の地を追われていた三輪王朝の血統を持つ大田田根子命を現在の大阪の地で見つけ、三輪山に連れてきて祭主にした。

 三輪山は禁足の山であるが、現在は申し出をすれば、決まったルートと時間の制約はあるが登ることはできる。ただし写真撮影は一切禁止である。所々に磐座が祀って有る。まさに神のまします山である。三輪の大神様は「お酒の神様」としても古くから信仰され、現在は十一月に新酒醸造安全祈願祭が行われる。四人の巫女が三輪山の神杉を手に「うま酒みわの舞」を奏でる。杉の針葉には殺菌力があり、古くは醸造蔵の清めに使っていたという話を聞いたこともある。

大神神社を少し下ると、金屋地区に海柘榴市跡道標がある。海柘榴市(つばいち)とは古代の市の名だが「海柘榴市の八十の巷」等と言われるから余程賑わった市であったのでしょう。この金屋地区からは街道は西へ竹内街道、東へ初瀬街道、北へ山辺の道と続き、まさに幹線道路の交差する場所で交通の要衝であった。

市が立つのは当然の条件が整っていたと言える。ただ、今は小さな道標を残すのみで古代の喧騒を思わせるものは何もない。

さて、前回の葛城の道、そして今回の山辺の道と古代大和王朝とそれ以前に大和を支配していた出雲族のミワ族と鴨族の攻防に思いを馳せながら大和盆地の東西の山麓を歩いた。奈良には有名な名所旧跡は山のように有るが、その歴史的存在や意義は知っているようで殆ど知らないことが多い。関西各地を歩き回るにあたっては、あらかじめ、歴史を少しかじってから訪れると、その奥行きも深まって大変興味深いものになる。

平成十六年十二月吉日鵬翔山岳会九州支部第五十九期 平沼 徹也

物部氏の土地を歩く 縦断禁断の地交野~ 桜井、巻向
 物部氏の現在における謎は、なんといっても彼らの本願地が大和~北河内の山間地に追いやられていることである。三輪山の山麓・巻向から唐古・鍵、あるいは二上山。葛城山まで彼らの古い言い伝えや記録が残っているにもかかわらず、今、この古代豪族の痕跡は三輪山から北の山間部にしか残っていない。物部氏は本来、彼らの部下であった縄文系海人族たちのいた山の中へと追い上げられているのである。物部氏の「追いやられたコース」を逆に辿ってみる。まず大阪府枚方市から始めよう。

枚方はもともと「白肩」と書く。新羅のほう・・とでもなんとでも解釈は自由でいい。現在の枚方市~樟葉まで含めて昔は交野である。その証拠に交野天神社は枚方市楠葉にある。ここには継体天皇
樟葉の宮が比定地として同居する。
いわゆる物部氏の中では新しい資料に現れる肩野物部氏が住む土地である。
枚方市東部、宮之阪から私市・・きさいち・・までは旧・「点野」「禁野」である。交野という文字には×の字が入っているが、これはもともと禁野から転じたと考えている。
天皇の狩猟場として肩野物部氏が献上した記録がある。
「禁断の地」・・・それが禁野・・・交野ではなかろうか。
私市は私市部として記録された人々のいたところ。
ここから先は磐船街道が南へ走る。
河内磐船駅から歩いて天田神社へ。街道の起点である。
天野川に沿ってさかのぼる。太陽神・ニギハヤヒに会うためには、歩かねばならない。遙拝ルートを。磐船神社は物部氏の祖神・ニギハヤヒ命が天の磐船に乗り、そらみつ大和の国を天空から眺めながら降り立ったという、「もうひとつの天孫降臨」の場所、咆哮峰である。
神河・天野川は天上の天の川に模して名付けられたのか?関西最大の大河・淀川から別れる支流で、その分岐点にあるのが白肩の津である。枚方から北はもう山城の国、綴喜郡である。大筒木真若王で知られる。「つつき」が今の「つづき」郡と転じて、現在そこは八幡市となっているが、ここに京の南の鬼門とも言うべき三川合流の地がある。男山、石清水八幡宮である。秦氏が祭るこの神宮によって物部氏の侵入はここで止められた格好になる。物部氏はまずここで北の門を閉められたと言っていい。ゆえに「しめの」かとも思える。
現在、三川合流はこの目ではっきりと見ることができるが、中世以前はここに巨大な湿地帯が存在した。
宇治、木津にまで広がる巨椋池である。今でも八幡は低地で有名な流れ橋などさかんに決壊をする川が多い。
巨椋池は平安京にとって南の朱雀にあたる。
干拓されてしまうと、とたんに首都は江戸に移ってしまった。

さて元に戻って、磐船神社である。
天野川を上り詰めたところに巨石が山のように落ちている。その岩の隙間を縫うように胎内巡りができるようになっている。社務所で、異様に顔の白い宮司さんからこれまた白い遍路着をもらい挑戦する。
途中暗がりや、ほこらが点在し、薄気味悪い暗渠には小さな社が置かれ、卵が奉納されている。
そう、ここの神は蛇なのである。
蛇とは三輪山の大物主のことに他ならない。従って、ここの主祭神ニギハヤヒとは大物主の顕現した実体だったと考えてよかろう。
ニギハヤヒ=大和大物主 物部氏を解くための補助線その1がこれだ。

さて次に参るのは機物神社である。ここは牽牛・織女を祭る。
画像データが壊れたためこのページは画像が少ない。申し訳ないが興味ある方はご自分で行かれよ。
天の川があるなら、彦星・織り姫がいて当たり前?などと思われるな、これは物部氏にとっての天照大神といっていい存在。道教で言えば二人は伏儀と女禍である。
天の星となるのはおそらく物部の眷属であった、水先案内人・海の民の星信仰と混交してのことだろう。海人の星信仰は航海の指標としての星座崇拝であるから、どこかで必ず大陸の道教とはつながってしまう。太一、北斗、参・・オリオンなどの宿星信仰は海に関わる一族なら持っていて当然だろう。大和の氏族がそれをどう扱ったかは、高松塚など見れば一目瞭然である。彼らには彼らの星信仰があり、それは底辺にいる海人族とよく似すぎていた。
権威ある者にとってはそれは大変迷惑な話であったろう。当然のような信仰の取り上げと追い立てが始まる。歴史とは迫害の繰り返しと言っていい。

星田の町に戻り、星田妙見宮へあがる。ここも山頂に巨石があるが、妙見信仰そのものは江戸時代あたりの新しい信仰形態である。だがもともとここに星への信仰が残っていたために後になってもブームはスムーズに入り込んだとも思える。
巨石は北の北極星や、それとセットになる北斗七星からのスターライン上にある。同時に日の出も拝んだのかも知れない。

ニギハヤヒの道の先には大和がある。途次に登美の長髄彦のいた鳥見がある。そこから生駒山地が始まる。生駒を西に下れば日の出の遙拝地・孔舎衛である。
そこにはやはりニギハヤヒを祭る石切剱矢神社がある。いわゆるデンボ・・関西弁でおできのこと・・の神様で民間の信仰を集める薬師、祇園、厄除けの神であり、そこにはすでに出雲大国主や少名彦名のイメージが混交されている。

長髄彦は神武天皇に対して、奉公するニギハヤヒが天から持ってきた天の羽羽矢を見せる。それは天孫の証の品である。神武は困ったことだろう。自分と同じ証を見せられては同族となって殺戮に大儀がなくなってしまうからだ。「天孫にもいろいろあるのだ」などと苦しい言い逃れをするが、実のところよく考えれば、最初からニギハヤヒが大和に先行していることは東征の最初の動機としてちゃんと書紀にかかれているのだ。知っていて侵入すること、それを現在は家宅侵入罪という。もともと神武に大儀などなかったといっていい。それは単なる侵略戦争に他なるまい。

結局、神武は長髄彦だけを殺害する。それも自分の手ではなく、直属上司であったニギハヤヒが誅殺したことになっている。つまり神武は長髄彦も物部一族もどちらにも手をくださなかったとういことだ。なのになぜ彼は天皇になれたのか?当然、為政者物部氏を懐柔し、自らがその管理者となったのである。とは言っても武力、技術力すべてで在地の物部に地の利があったはずだ。九州から遠路やってきた田舎氏族に余力のあろうはずもない。ゆえにつじつまあわせにヤタカラス(葛城鴨一族)や高倉下(物部亜流の天香語山命一族)が協力したという話を作り出すことになる。物部氏本流をよく思わぬ在地勢力も確かにあったかも知れない、しかし彼らに神武に協力するいわれはない。
実際には金や後の役職取り立てなどでおだててあげて懐柔したのだろう。

あわれなのはひとり殉死させられ、あげく出雲に流された長髄彦の御霊である。祟る可能性のある神霊の監視には葛城鴨氏が随行したのだろう。彼らがやがて出雲千家になるのか、あるいは後からまた管理者がやってきて出雲国造家となったのか定かでない。

いずれにせよ故なくも死んだ海人族長髄彦の霊は、当時の感覚では、必ず祓いやる必要があっただろう。そしてそれは深い祟りなきよう、同族、あるいは上司の手で行われたであろう。それが祓いと清めのルールである。どっちに転んでも結局、長髄彦の神霊は管理者・物部氏の祖霊・・・すなわち、この時やはり殺されたはずのニギハヤヒ=大物主によって慰霊されなければ収まらなかった。

それで、大物主はある時急に、出雲に現れることとなる。10代崇神天皇の時代である。
「私はおまえの幸魂、和魂である・・・」
彼は大国主にそう言い、
「みもろの山にも私の神霊を祭れ」と申しつける。
こうして管理者物部氏の手で長髄彦=大国主の霊は出身地出雲に鎮められる。
出雲大社はこれより、天皇家が滅ぼした異形の人種達の霊が集まる場所となる。普段は在地で在地の同族に祭られている神々は死の季節である冬が始まる10月に出雲に召還されるのである。

古代、収穫が終わった時からが冬の始まりであった。春は田植えとともに始まり、梅雨の長雨が夏。そして収穫前のたわわに稲が実る前が秋なのである。つまり一年は今の半年しかなく、あとの半年は寝て暮らさねばならない夜の季節。いわゆる闇の季節なのである。

国譲りで出雲の御子神たちは天皇家に散会させられている。三人の神・・・八重事代主(異形の海人族)、あじすきたかひこね(高鴨大神、葛城鴨氏、別名高御神)、たけみなかた(九州白水郎族の宗像一族と臣下であるポリネシア系縄文海人族安曇一族)はそれぞれ追いやられた。
八重事代主はえびすとなり異形の山の神・海の神としてあじすきたかひこねの葛城に祭られた。鴨氏はこの神霊を祭るため葛城に戻った。
たけみなかたは奥地へと追いやられ、父大国主の母方、諏訪へ逃げ込んだ。おそらく姫川という翡翠のルートから中部地方に入り、岐阜、飛騨、諏訪、伊那、新潟、などへおかあがりしていったのだろう。安曇野はこの名残の地名か。

九州で「すがる」という蜂のことを長野でも「すがれ」という。
石見地方の子供の遊びには「かもがきた」という戦争ごっこがある。
「かも」とは「鴨氏」あじすきたかひこねのことだろう。この神は漂白の民の間で紙漉の神、祖人として慕われていた。石見のこの遊びは実は被差別民がいた頃の子供らしい、無意識の無慈悲を感じさせる。
追われたナガスネヒコ一族に対し、鴨氏はおそらく優しくしてあげたのかも知れない。あるいは彼らも葛城あたりの縄文系海人の血を引いていたのかも知れない。
それはおそらく国巣と呼ばれる土俗の巫師集団だったのかも知れない。

【大和神社譚】


 日本書紀その他古記録拠れば次のように記している。

 概要「大和大国魂神はも大和王朝創建以来、天照大神と共に宮中に並斎されていたが、崇神天皇5年、国内に疾病多く、死亡者が続出。崇神天皇6年、天皇は、二神が同床にあるのは畏れ多いこととして、天照大神を倭の笠縫村に移し、磯堅城(しかたき)の神(ひも)ろぎを立てて豊鍬入姫(とよすきいりひめ)に祀らせた。大和大国魂神を皇女・渟名城入姫を斎主として祀らせた(「大倭神社注進状」では、穴磯村に祀らせたとある)。しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。

 崇神天皇7年秋8月、穂積臣(ほづみおみ)の遠祖・大水口宿禰(おおみなくちのすくね)ら3人の夢に貴人が現われて、「太田田根子を大物主の祭主とし、市磯長尾市をもって倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を授けた。叉同年11月にも同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市を祭主として、神地、神戸が定められ鎮座、創建された。これが大和神社の創起となる。これにより国内は静かになり、五穀は実ったと云う。当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。一説には現在の長岳寺の位置であるという」。

【石上神社譚】
 奈良県天理市布留町384に布留(都)御魂大神(布都御魂大神叉は布都斯御魂大神とも記す)を主祭神とする石上神社がある。古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。布留の長男の宇摩志麻治命、五十瓊敷命(イニシキニミコト)、白川天皇、木事命(コゴトノミコト)、市川臣命(イチカワノオミノミコト)と八神おられ、この八神を鎮魂する為に、1081年に、白川天皇がじきじき参拝し、始められた。鎮魂するということは、祟りを恐れているから鎮魂する訳で、何故、この八神の祟りを恐れたのか、史実でははっきりしない。

 奈良時代の末期に編纂された4500首にのぼる万葉集の歌の中で、袖ふる山として歌われている。聖徳太子と蘇我馬子によって、滅ぼされた物部氏の本拠地であったと伝えられている。

 
主祭神として布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)・布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)・布都斯御魂大神(ふつしみたまのおおかみ)。配祀として五十に敷命(いにしきのみこと)・宇摩志麻治命(うましめじめみこと)・白川天皇・市川臣命(いちかわのおみのみこと)。旧社格は官幣大社。

 古事記・日本書紀に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。神武天皇が大和朝廷を開く前にこの地を治めていた大王であったニギハヤヒ-ナガスネヒコ王朝の古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。

 古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。 また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのか興味深い。

 武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣とされている布都御魂剣が奉納されている。この剣は、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、天津神から高倉下の手を通して天皇の元に渡った。その後、物部氏によって宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀った。

 この石上神宮で、毎年11月22日に鎮魂祭が催される。この鎮魂祭の神事は、「一二三四五六七八九十」(ひふみよ いむなや こと)、「ふるへ ふるへ ゆらゆらとふるへ」と、現在の日本語の数の読み方である、「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、と」の語源になっている呪文を唱えつつ、「布留部 布留部 由良由良都布留部」と石上神宮の保存している国宝の「十種の神宝」を持って、呪文を唱え、生命の長寿を祈る。
第二十九章 石上神宮の不思議な呪文」参照
 略史は次の通り(出典参照は、大野七三著「古事記、日本書紀に消された皇祖神ニギ速日大神の復権」)。
 概要「石上神社は日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放っている。主祭神は布都御魂大神であり、ご神体は神代の昔、武甕雷(たけみかづち)の神が帯びておられた神剣『ふつの霊(みたま)』で『平国之剣』(くにむけのつるぎ)である。と云う。

 記紀によれば、神武天皇御東遷の折に天降られ、邪神を破り国土を平定された御偉功により、天皇御即位の後、勅により物部氏の遠祖に当たる宇摩志麻治の命が宮中に奉祀された。この時、宇摩志麻治の命が御父のニギ速日の尊から継承された天璽(あまのしるし)十種瑞宝(とぐさのたから)も一緒に奉祀されたと云う。

 その後、崇神天皇7年に至り、勅命によって物部氏の祖の伊香色雄の命が、ふつの霊(みたま)と十種瑞宝を石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷(うつ)しして奉祀したのが石上神社の創祀で、以後物部氏が代々神宮の祭祀を預かることになった。

 創祀以降、スサノウの尊がヤマタノオロチを退治するのに用いられた天十握剣(あまのとつかのつるぎ)も祀られて、我が国古代の霊剣は全て石上神社に祀られることとなった」云々。

【古伊勢譚】
 アマテラスが伊勢神宮を構える前時代の伊勢を仮に「古伊勢」と命名する。「古伊勢」は、志摩の磯部と云われ、伊雑宮が建てられていた。つまり、「伊雑宮が本家」と云う事になる。新撰姓氏録によれば、「石辺(磯辺)公は大物主の命の子・久斯比賀多(くしひがた)の命の後(すえ)なり」とあり、出雲系としている。「伊雑宮旧記」によると、伊雑宮は竜宮で、この地方の海人族の護宮で伊雑トミの命が治めていた。この伊雑宮は出雲神道と深く関係していた。

【伊勢内宮創設譚】
 垂仁天皇の御世、天照大神が皇女倭姫(やまとひめ)に信託を下して、五十鈴川のほとり山田原に鎮まった。これが内宮となった。天照大神が、元々出雲系の「古伊勢」があったところに鎮まるまでには紆余曲折があった。各地に「元伊勢伝説」があり、天照皇大神が諸国を移動し、最後にたどり着いたのが現在の「二見ケ浦」のある伊勢の地であったというものである。しかし、外宮も移動しており「元伊勢伝説」を持つ。為に、両者がこんがらがって伝えられており詳細が分からない。

 天照大神は元々、第十代崇神天皇陵の北に位置し、天理から桜井に向かう途中にある三輪山の山麓にある「檜原神社」に鎮座していたと思われる。これが「元伊勢」のルーツと推定されている。その後、天照大神は大和の笠縫邑を発し丹後に仮鎮座した。その後全国20数カ所 を転々として伊勢に落ち着いたとされている。

 「元伊勢伝説」に従えば、内宮移動は「元伊勢=元伊勢神社説」で理解すれば分かり易い。これによれば、伊勢神宮が元伊勢から古伊勢へ遷座するいきさつが次のように伝えられている。
 10代崇神天皇の即位6年(紀元前59年)、倭国笠縫邑(現奈良県桜井市)に遷座し、皇女・豊鋤入姫命が初代斎主として祭事を掌っていた。この地に33年間鎮座した。
 10代崇神天皇の即位39年、「別に大宮地を求め鎮め奉れ」という天照大神の御神勅があり、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御して但波へ遷幸した。天照大神を祀る神社を創建した。此の時同時に豊受大神を合わせ祀られた。
 現在の大江町の元伊勢神社が「元伊勢内宮」ではないかと推定されている。元伊勢神社は、但波国のほぼ中央を南北に貫いて日本海へ由良川が流れ込んでおり、その上流から支流に2km程さかのぼった山間(現・京都府福知山市大江町)にある。 この地一帯は神代の昔から聖地とされており、岩戸山(亦名・城山、日室ヶ嶽)と云われる神奈備の神体山が有り(日本一美しいピラミッド?と云われている)、川守郷の中でも特に神戸郷(かんべのさと)と呼ばれていた。大本教の開祖・出口ナオと大本聖師・出口王仁三郎が皇大神社を真の元伊勢と崇敬し、天岩戸神社の清水で禊ぎを行ったことでも知られている。

 元伊勢神社は、内宮皇大神社、外宮豊受大神社、天岩戸神社と呼ばれる3神社から成り立っている。この元伊勢の内宮と外宮が古伊勢に移り現在の伊勢神宮になったと云われている。元伊勢町内には内宮、外宮の地名のほか、五十鈴川、宮川、真名井ノ池、宇治橋、猿田彦神社など伊勢神宮にまつわる名称が数多く存在しており原形をとどめている。
 4年後、突然、皇大神は更に大宮地を求めて倭(やまと)へ帰った。豊鋤入姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老齢に向かわれたので、途中第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引き継ぐ。
 垂仁天皇25年、神を祭る地を求め、伊勢の五十鈴川上の聖地(いまの伊勢の神宮)を大宮地と定め鎮座した。天照大神は「ここに鎮まりたい」と告げたのでこの地に「伊勢神宮」が出来た云々。皇女・倭姫(やまとひめ)の命が二代目斎主となった。
 7世紀後半、天武天皇の皇女・大来皇女(おおしひめみこ)が斎主となり、制度的に完成する。

 天武天皇の御世、伊勢神宮は20年周期の式年遷宮制を採り入れた。第1回の遷宮は、持統天皇の4(690)年であり、最近では平成5(2003)年に第62回目の式年遷宮している。

【伊勢外宮創設譚】
 伊勢神宮外宮は、現在の伊勢神宮の地である古伊勢に鎮座する前に、丹波国比治の真名井原(まないはら)の籠(この)神社に鎮座していたと伝えられている。丹後(京都府宮津市)の宮津湾に日本三景の一つして知られる天の橋立の北側に籠(この)神社が鎮座している。これを仮に「元伊勢=籠神社説」と命名する。籠神社には、宮司である「海部氏」の系図が残されている。

 籠神社は、真名井神社を奥宮としており、古称を与謝宮(よさのみや)、別称を豊受大神宮としている。この地が丹波国比治の真名井原だとする説があり、古伊勢と区分する意味で元伊勢とも云われている。

 丹後という名前は、もともとは丹波国(現在の京都府中部と兵庫県中部)であったが、都(京都)から見て丹波の後ろにあるという事で「丹後」と呼ばれるようになったと云う。古くは但波(たにわ)と呼ばれ、日本海側において一つの文化圏を 確立し倭政権とも対等に交流をもった国であったとも考えられる。  

 豊受大神(とようけのおおみかみ、止由気大神)は、籠神社に鎮座以来移動がなく、真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護していたところ、伊勢神宮内宮創建から5百年後、皇祖天照大御神の御神勅「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居ると雖も一人にては楽しからず神饌をも安く聞食すこと能わずと宣して丹波の比沼の真名井に坐豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」が天皇にあり、同様の御告が皇大神宮々司大佐々命にもあり、天皇に奏上されたところ非常に驚き恐れ、天照大神の御饌(食事係)として「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を丹後国から迎え入れ、現在の地である伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立し、大佐々命をして豊受大神を御遷座した。これを祀って外宮とした(天皇陵巡り:伊勢神宮の項参照)。直ちに豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は引き継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し、現在に及んでいる。

 これにより、伊勢神宮は、奥の内宮と手前の外宮(豊受大神宮)の両宮で代表されることになった。(「元伊勢神社内宮 」、「皇大神社」、「元伊勢外宮豊受大神社」参照)

 外宮の境内社の豊川茜稲荷神社は次のように由来を伝えている。
 「当神社の創祀は、九百余年前の古い由緒深い神社です。特に豊川茜神社の御祭神・宇か之御魂神は天照大神の御弟、スサノウの命の御子にして、御母は神大市姫の命にまします。叉の名を豊受姫の命などと申し上げ伊勢神宮の大神と御同体にて、五穀を始め総ての食物及び産業を守り幸へ給い云々」。

【現在の伊勢神宮考】
 伊勢神宮は仮称であって公式名称ではない。正式には、単に神宮と云う。神宮は、日本の総氏神の地位にある天照大御神を祀る皇大神宮(これを内宮と云う)と衣食住や産業の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(これを外宮と云う)の二両宮を正宮(しょうぐう)と呼び、それぞれが別宮、摂社、末社、所管社を持つ。その数125社に及ぶ。内宮、外宮、別宮の宮と社(やしろ)を総称して神宮と云う。内宮の神域は98ヘクタール。五十鈴川にかかる宇治橋が内宮の入り口となる。外宮の神域89ヘクタール。神宮の祭祀は、「外宮先祭の原則」が立てられている。神宮の主な建物は20年に一度、「式年遷宮」により建て替えられる。持統天皇の御代に始まり、1300年以上続いている。2010年現在、次の式年遷宮は2013年になる。「唯一神明造」という建築様式を今に伝え、五重の垣根に囲まれている。

 鎌倉時代に、内宮と外宮間に、何れが尊きか、どちらが正統で傍系かを廻る正閏(せいじゅん)論争が生まれ、兵火に訴えた歴史を持つと云う。

 「古代日本ユダヤ人渡来説」(坂東誠著、PHP出版)は次のように記している。
 「イセ」とは「神の救い」? p100

 大変興味深いのは、伊勢という地名だ。ユダヤ人の研究家であるヨセフ.アイデルバーグ氏によると、この「イセ」という言葉は、「神の救い」を表す「イェシュ」もしくは「イェシュア」から派生したヘブライ語だ、というのだ。イエス・キリスドのイエスももともとはヘブライ語の「イェシュ」から派生した一言葉である。つまりイエスにも「神の救い」という意味がある。現在、イエスという名は世界各地で「イセ」や「イサ」というふうに呼ばれている。つまり伊勢神宮の「イセ」という言葉は「神の救い」というヘブライ語の可能性もあるのだ。そう言えば・伊勢神宮の神域を流れる川を「五十鈴川」というが、古来の呼び方は「イスズ川レでなく「イスス川」と呼んだそうだ。この「イスス」という名前も「イエス」を連想させる響きがある。イスス川では千年にもわたつて禊が行なわれている。
(私論.私見)
 いわゆる「日ユ同祖論」の立場から上述のように説いている。れんだいこは、伊勢のイセがヘブライ語を語源とする云々に耳を傾けても良いが、イエスとの関連を持ち出すのはナンセンスと思う。イエス教とキリスト教とユダや教の混同は何の意味もなかろう。ユダヤ史及びユダヤ教で説明するなら徹するが良かろうと思う。

 2010.3.30日 れんだいこ拝












(私論.私見)