出雲王朝史3、大国主の命王朝史考



 (最新見直し2011.09.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 出雲王朝神話は、原出雲とスサノウ出雲の鼎立時代の次に両王朝を統一する大国主の命王朝を生む。大国主は数々の迫害を乗り越えてスサノウ王朝の王権を継承し、東西出雲王朝を統合する。ここでは、この時代の様子を確認する。大国主の命については別サイト「大国主の命考」で確認する。千家尊祀著「出雲大社」その他参照。

 2008.4.10日 れんだいこ拝


【オオナムヂの素姓譚】
 後の大国主の命になるオオナムヂの素姓を確認しておかなければならない。オオナムヂをスサノオの直系の子息とみなしたり、6世の代の孫とされている書き物もあるが却って混乱する。れんだいこ独眼流史観によれば、後のスサノウ王権継承譚からも判明するようにオオナムヂをスサノウの子孫と看做すよりは、原出雲系の在地の神々の子孫と理解すべきではなかろうか。史書の記述よりも神話の方が正確に伝承していることもあるという好例だろう。

 一説に、国引き神話の主人公であるヤツカミヅオミツノ(略称「オミツノ」)が、フノズノの娘のフテミミをめとって生んだ子がアメノフユキヌ。アメノフユキヌが、サシク二オオの娘のサシク二ワカ姫をめとって生んだ子がオオナムヂとされている。これによれば、「オミツノ」の孫がオオナムヂと云うことになる。仮に、世代、血脈的にこの系譜が間違いにしても、この系譜上の出自であることは間違いないように思われる。

【いなばの白兎譚】
 スサノオ時代に続く神話として「いなばの白兎譚」がある。記紀神話におけるオオナムヂ初登場の逸話である。
 「出雲には八十神(やそがみ)と云われる在来の族長がいた。或る時、その族長達が絶世の美女と名高いイナバの国のヤガミ姫を嫁に貰い受ける旅に出た。後に大国主となるオオナムヂは、荷物係りとして伴をすることになった。オオナムヂは大きな袋を背負わされた為、随分後からついていくことになった。イナバの国の気多岬に着いた時、海岸で毛をむしられ赤裸になって泣いている兎に出くわした。兄弟達は、海水を浴びて風辺りの良い丘で寝ればよいと教え、兎は云われるままにしたところ、傷口がヒリヒリと痛み出し悶絶する破目になった。

 そこに、重い荷物を持ったオオナムヂが通りかかった。訳を尋ねると、兎は次のように語った。私は、向こうのおきの島に住んでいたが、いつもこちら側に来てみたいと思っていた。ところが海は広過ぎて渡ることができない。一計を案じて、海に住むワニに声をかけ、兎の仲間とワニの仲間の数比べしよう、ついては気多岬まで一列並ぶようにと提案した。騙されたと知らないワニが並び、兎がその上を飛び始めた。あと少しで陸に上がれるとした時に、ついうれしくなって「うまいこと騙されたな」と漏らした。これを聞きつけた一番最後に居たワニが兎を捕まえ、すっかり皮を剥いでしまった。

 陸へ上がって泣いているところを先ほど通られた神様の言いつけ通りにしたところ痛みが余計にひどくなって困っておりますと訴えた。オオナムヂは、それは余計に痛くなる。すぐに真水で体を洗い、ガマの花を摘んで、その上に寝転ぶが良いと教え、手伝った。兎は痛みが取れ、毛が生えてきた。すっかり元通りになった白兎は、『あなたは心が一番やさしい。ヤガミ姫はあなた様を慕うことになるでせう。オオナムヂ様が必ず立派な神様になるでせう』と予言した。白兎の予言通り、ヤガミ姫は、他の族長達の求婚に対して、『私は、あなた方の求愛の言葉はお受けできません。オオナムヂ様に嫁ぎたいと思います』と述べた。こうして、オオナムヂがヤガミ姫を射止め結婚することになった。オオナムヂは、イナバの白兎を助け、ヤガミ姫と結婚したことで名声を高めた」。
 オオナムヂ=大穴持命。イナバ=因幡、稲羽。ヤガミ姫=八上比売。ホウキ=伯耆国(現在の島根県と比定されている)。キサ貝姫=。うむ貝姫=。
(私論.私見)
 「いなばの白兎譚」の前段は、原出雲内の政争の存在と、後に出雲王朝を支配することになるオオナムヂの人品骨柄の物語譚であろう。もう一つ、オオナムヂの医師的能力が語られている。兎とワ二の駆け引き譚は、隠岐の島、因幡の国、伯耆の国の歴史的繋がりをも暗喩している裏意味もあると思われる。 後段は、原出雲の族長達が絶世の美女イナバの国のヤガミ姫争奪競争で、オオナムヂが選ばれた事を伝えることで、オオナムヂが将来性豊かな力量の持主であったことを示唆している。「オオナムヂのイナバの国のヤガミ姫との結婚譚」は、オオナムヂが八十神(やそがみ)と争った結果、少なくともイナバの国ひいては原出雲(東出雲)王朝の王権相続権を手に入れたことを寓意しているのではなかろうか。かく確認したい。

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【兄弟達のオオナムヂ迫害譚】
 オオナムヂのその後の原出雲(東出雲)王朝内の他の王族達との抗争が次のように伝えられている。
 「兄弟たちは嫉妬し、オオナムヂを迫害しイジメた。或る時、ホウキの国の手間の山のふもとで、いつも通りオオナムに命令した。『私たちが山から紅い猪を追い落とす。お前は下で待ちうけ、捕まえなさい』。ところが、実際に落とされたのは、大きな石を火の中で真っ赤に焼いた焼け石だった。これを手を広げて待ち受けたオオナムヂは岩に押し潰され、大火傷をして気を失った。これが最初の受難となる。オオナムヂの母サシクニワカ姫がカミムスヒの神に願ったところ、キサ貝姫とウム貝姫が駆けつけてきた。赤貝の化身であるキサ貝姫は、貝殻を削って粉にした。ハマグリの化身であるウム貝姫は、ハマグリを絞った汁で粉に混ぜ合わせ、母乳のようになるまで練り上げた。それを何度も塗ってオオナムヂは奇跡的に回復した。

 その後も意地悪が続いた。或る時、大木を切り裂き、割れ目を楔で留めていた中にオオナムヂが誘い込まれた。入った途端に楔が抜かれ、挟まれたオオナムヂは気を失った。これが二度目の受難となる。この時も、オオナムヂの母が救い出した。このままでは命が危ないと、大じじに当る縁戚の木の国のオオヤ彦神のところへ避難した。ところが、兄弟の迫害とイジメが更に続き、木の国まで追いかけ引き渡せと脅した。これが三度目の受難となる。ここも安全でないと悟ったオオヤ彦神は、スサノウのいる根の堅州(かたす)国へ行くよう申し渡した」。
 サシクニワカ姫=刺国若比売。キサ貝姫=*貝比売。うむ貝姫=蛤貝比売。木の国=紀の国(現在の和歌山県に比定されている)。オオヤ彦神=大屋毘古神で五十猛神ともいう。
(私論.私見)
 「兄弟達のオオナムヂ迫害譚」は、後に原出雲王朝を支配することになるオオナムヂの頭角出世が並大抵でなかったことを伝えている。オオナムヂに対する治療の下りは、原出雲王朝時代の医療先進国ぶりをも伝えている。注目すべきは、「オオナムヂの母サシクニワカ姫がカミムスヒの神に願った」とあることである。これは、オオナムヂの母がサシクニワカ姫であること、サシクニワカ姫とカミムスヒが同盟関係にあることを伝えている。次に、キサ貝姫、ウム貝姫の献身ぶりである。これは、キサ貝姫の一族、ウム貝姫の一族がオオナムヂを後援していたことを寓意している。次に、オオナムヂが「大じじに当る縁戚の木の国のオオヤ彦神のところへ避難」したとあることで、木の国が縁戚関係にあることを見て取るべきだろう。そのオオヤ彦神のつてで「スサノウのいる根の堅州(かたす)国」へ行くことになったのも興味深い。これは、スサノウの西出雲王朝が「根の堅州(かたす)国」であることを教えている点でも意義深い。

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【オオナムヂのスサノオ王権継承譚】
 オオナムヂは、原出雲内で苦心惨憺しつつも次第に頭角を現していく。そのオオナムヂは、出雲西域のスサノウ系出雲王朝の嫡女・スセリ姫(須世理姫、 須勢理毘売)と結婚することにより後押しを得る。この経緯が次のように記されている。これを仮に「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」と命名する。
 「オオナムヂは、オオヤ彦神の教えに従い、時に木の根を潜り、時に木々の間を走り抜けて、兄弟の監視網から逃れ、ようやくスサノウの居る根の国に辿り着いた。門を叩いた時迎えに出てきたスサノオの娘スセリ姫と目を交わした瞬間恋に落ちた。スセリ姫がスサノオの前に連れて行くと、オオナムヂをじろりと見て葦原シコ男だと評した。その意味するところ、好色男という意味と思われる。スサノオはオオナムヂの器量を見定めようとして次から次へと試練を与えていった。

 その日、スサノオが泊められた部屋にはヘビが一杯いた。オオナムヂは、部屋一杯にうごめくヘビの群れに驚きおののいたが、部屋には外からカギをかけられていた。そこへ、スセリ姫が現れ、窓から霊布を投げ込んだ。その布を拾って、迫りくるヘビ達に布をかざし三回ふると、ヘビがピタリと止まり襲い掛からなくなった。その晩はぐっすり眠った。

 ヘビに噛まれて死んだと思っていたオオナムヂが生きていることに驚いたスサノオは、今度はムカデとハチがいる部屋に連れて行った。スサノオが立ち去った後に、今度もスセリビメがやってきて霊布を渡してくれた。今度も無事朝を迎えることができた。

 またしても元気な姿を見せるオオナムヂに対して、部屋に閉じ込めるのでは殺害できないと思ったスサノオは、今度は外に連れ出した。『今からワシが撃つナリカブラ(鳴鏑)を拾って来い!』と命じられたオオナムヂがナリカブラを探している間に、スサノオが平野一面に火をはなった。オオナムヂが気づいた時には辺り一面火の海になっていた。その時、ネズミがやってきて、『内はホラホラ、外はスブスブ』と告げて居なくなった。オオナムヂがネズミの逃げた方を追いかけると穴に落ちた。オオナムヂが穴の中に入った瞬間に頭上に火が襲いかかった。草原の火が過ぎ去ったのを見て地上に上がろうとした時、ネズミがスサノオの放ったナリカブラを持ってきた。今度こそオオナムヂが死んでしまったと思ったスセリ姫は、葬式の道具を持って平野で泣いていた。そこへ、オオナムヂがナリカブラを持ってやってきた。

 スサノオは今度は広くて大きな部屋に連れて行き、わしの頭のシラミを取れと命じた。スサノオの頭には髪の毛に多くのムカデが絡み付いていた。困惑するオオナムヂに、スセリ姫がムクの木の実とハニ(赤土)を手渡し、ムクの実を噛み砕いて、ハニを口に含んで吐き出してくださいと伝えた。オオナムヂが言われた通りにすると、頭にいるムカデを噛み砕いて吐き出していると勘違いしたスサノオは得心してそのまま眠ってしまった。

 オオナムヂは、眠ったスサノオの髪の毛をとって、その部屋の垂木に結びつけた。部屋の戸口を大岩で塞いだ後、スセリ姫に一緒に逃げようと誘った。二人は、スサノオの宝物である生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)、天の詔琴(あまののりごと)の宝物を持って、オオナムヂがスセリ姫を背負って逃げた。その時、天の詔琴が木に触れて音を鳴らし、大地を揺るがす大音響にはっと目を覚ましたスサノオが気づいて追った。

 スサノオがヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)にたどり着いたときには、オオナムヂは既にはるかかなたに逃げおおせていた。追いつけないと悟ったスサノオは、オオナムヂに大声で伝えた。『お前が持っていった生太刀、生弓矢でお前の腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払え! そして、お前が大国主の神(大国主神)となって、わしの娘のスセリビメを正妻として、宇迦(うか)の山のふもとに社を建て、千木の屋根を天まで届かせろ』。それは、スサノウがオオナムヂを認めたことを意味していた」。
 スセリ姫=須勢理昆賣。葦原シコ男=葦原色許男。
(私論.私見)
 「オオナムヂのスサノオ王権継承譚」は、オオナムヂがスサノオ王朝の嫡女・スセリ姫と恋仲になり、スサノウの繰り出す数々の試練を乗り越え、遂にスセリ姫と王権神器を手に入れたことを物語っている。こうしてオオナムヂがスサノオ王権を継承し、出雲統一王朝を創始していくことになったことを伝えている。これを仮に出雲王朝と命名する。先行する東部の原出雲王朝、西部のスサノウ王朝と区別する必要がある時には仮に出雲統一王朝叉はオオナムヂ出雲王朝と命名する。

 興味深いことは、スサノオの娘スセリ姫がスサノオとの初対面で恋に落ちたことである。これは、オオナムヂがよほど男ぶりが良かったことを暗喩している。次に、スサノウ王朝の神器が「生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)、天の詔琴(あまののりごと)」であったことをも教えている。次に、スサノウが逃げるオオナムヂを追って辿り着いたところを「ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)」と記していることである。「ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)」とは、イザナギが黄泉の国へ逝ったイザナミを訪ね逃げ帰ったところでもある。これは偶然の奇遇だろうか。重要な事が隠喩されていると思うが分からない。

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【オオナムヂの出雲王朝創始譚】
 スサノウ系出雲王朝の支援を得たオオナムヂは原出雲を平定し、これにより出雲統一王朝を創始する。この経緯が次のように伝えられている。
 スサノオの課した試練を次々に克服して、スサノオの娘のスセリ姫と結ばれたオオナムヂがスサノオ王権を継承し、これまで執拗な排撃を繰り返していた兄弟神をスサノオの指示通りにスサノオの太刀と弓矢で坂のすそに追い伏せ、川の瀬に追い払い、兄弟神を平伏させた。兄弟神は家来となり、ここに出雲王朝が創始された。オオナムヂはスセリ姫を出雲の国に連れてきた。先妻のヤガミ姫はスセリ姫を恐れて、生まれて間もない子供を木の股に差し挟んで因幡に帰ってしまった。この子の名をキノマタの神と呼び、またの名をミヰの神ともいう。
(私論.私見)
 「オオナムヂの出雲王朝創始譚」は、スサノウ王権を手にしたオオナムヂ出雲王朝のその後の歩みを伝えている。それによると、原出雲王朝をも支配し、こうして統一出雲王朝を創ったことが判明する。先妻のヤガミ姫がスセリ姫を恐れていたことも興味深い。  

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【オオナムヂの様々な名前譚】
  オオナムヂは色々な名前を持った。次の通りである。それらは、オオナムヂのそれぞれの面を語っている。
おほなむち(ぢ) 大己貴神 大穴牟遅神  大国主神の若い頃の名前。言い替えれば本名。「ナ」とは土地という意味。
おほなむち 大汝命  播磨国風土記での呼称
おおなもち 大名持神
あしはらしこを 葦原醜男 葦原色許男神  スサノウが命名した名前。シコヲは、強い男の意で、武神としての性格を表す。醜男とも色男とも解される。
やちほこ 八千矛神  矛は武力の象徴で、武神としての性格を持つ名前。
うつしくにたま 宇都志国玉神 顕国玉神  国を作った神としての尊称。
おほくにたま 大国玉神  大国を治める帝王の意。
おおくにぬし 大国主神  国を作った神、大国を治める帝王の意としての尊称。
おおものぬし 大物主神  日本書紀での呼称
あめのしたつくらししおほかみ 所造天下大神  出雲国風土記での尊称。
10 くにつくりおほなむち 国作大己貴命  播磨国風土記での呼称
11 いわおほかみ 伊和大神  播磨国風土記』での呼称。
12 かくりごとしろしめすおおかみ 幽冥主宰大神
13 だいこくさま 大黒様  七福神の一つ。

 日本書紀の一書には、「大国主命、またの名を大物主神、または国作大己貴命と号す。または葦原醜神という。または大国玉神という。または顕国玉神という」とある。
(私論.私見)
 「オオナムヂの様々な名前譚」は、オオナムヂの様々な顔を伝えている。葦原シコヲ神は醜男であっとも男前であっとも記されているが、英雄色を好む好色であったさまを伝えている。八千矛神とは軍神であったことを伝えている。ウツクシ国玉神は、出雲王朝の勢威を拡張したことを伝えている。大国玉神は出雲王朝を見事に大国化させたことを伝えている。オオクニ主の命はズバリそのものであろう。大物主神は、大和王朝との絡みで出て来る名前である。大国様は七福神に出て来る。  

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【オオナムヂとスクナヒコナの共同による出雲王朝形成譚】
 或る時、カンムスビ神の御子スクナヒコナの神が現われ、オオナムヂとスクナヒコナは力を合わせて天下を創り治めた。その後の出雲王朝の歩みが伝えられている。
 カンムスビ神の御子スクナヒコナの神が、波の上を蔓芋のさやを割って船にして蛾(みそさざい)の皮を剥いで着物にして御大(みほ)の御埼に現れた。クエ彦に確かめさせたところ、『カンムスビ神の子で、カンムスビ神の手の股からこぼれ落ちた子供である』と素性を証し、『葦原色許男の命と兄弟となってこの国を作り堅めなさいと仰せられやって来た』と伝えた。以来、オオナムヂは、カンムスビ神の御子スクナヒコナの神と共に国造りに励み、内治を良くした。スクナヒコナの神は医薬・禁厭などの法を創めたと云われている。百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙るという。

 その善政ぶりが記紀に次のように記されている。
 「二柱の神相並びて、この国を作り堅めたまいき」(古事記)。
 「オオナムチの神、スクナヒコナの神と力を合せ心を一にして、天下を経営り給う。又、顕しき蒼生及び畜産の為に即ちその病を療むる方を定む。又、鳥けだもの虫の災異を攘わん為には即ち、呪(まじな)いの法を定む。これを以て、生きとし生けるなべてのもの恩頼を蒙れり」(日本書紀)。
 「国の中に未だ成らざる所をば、オオナムチの神独(ひと)リ能(よ)く巡(めぐ)り造る」(日本書紀)。

 オオナムヂは、武威をもちらつかせて全国平定に繰り出した。この時点で、原出雲王朝、スサノウ王朝を統合した地域が出雲王朝の直轄地域であった。ここより手始めに伯耆、因幡の国を征服して古代出雲を足固めし、続いて但馬、丹波、更に兵を進め播磨で韓の王子アメノヒヤリと戦って勝ち支配圏を拡げた。

 支配圏は更に「越の八口」まで進んだ。越とは、若狭、能登、越前、越中、越後、加賀、飛騨、信濃を指す。八口の口とは「国」のことを云う。当時の越には八っの国々があった。これを治めたことになる。続いて、信濃、大和、紀伊まで連合国家的に傘下に収めた。更に奥州には「日高見国」もあった。こうして各地の豪族を平定し、まさに「天の下造(つく)らしし大神」と崇め奉られる大国の主となり、大国主と称されることになった。これを仮に出雲王朝と云う。

 出雲王朝は、「鉄と稲」による農耕革命を推進し国土改造計画に着手していった。これにより、縄文時代的採集経済から弥生式農耕経済へと転換し、葦原の中つ国を豊葦原の瑞穂国へと発展させていった。出雲風土記は大国主の神を呼ぶに、「天の下造らしし大神(おおかみ)」と最大級最上級の敬称を以てしている。

 或る時、オオナムヂはスクナヒコナの神と次のような遣り取りをしている。
オオナムヂ  「われわれが造れる国は理想通りに完成しているだろうか」。
スクナヒコナの神  「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」

 万葉集の代表的な歌人である柿本人麿呂は次のように詠っている。
 「オホナムチ スクナヒコナの作らしし 妹背の山は 見らくしよしも」

オオナムヂとスクナヒコナの温泉湯治療法考】
 オオナムヂとスクナヒコナは、温泉湯治療法に長けていたことで知られる。日本各地の温泉に関する神社には大国主命と少彦名命の二神を柱として祭祀しているところが幾つかある。全国各地に逸話が残されており、これを確認する。

 四国の愛媛県の松山にある道後温泉は神代の頃からある日本最古の名湯として知られる。開湯には様々な説があり、伊豫国風土記には、大国主の命が重病の少彦名命(すくなひこなのみこと)を助けようとして掌に乗せて温泉に入れたところ、不思議とよみがえり、温泉の側にあった玉の石を踏んで立ち上がり、「真暫寝哉(ましましいねたるかも)」(暫く昼寝をしたようだ)と叫んで、石の上で舞ったと言われている。この伝承から、大国主命と少彦名命の二神を道後の湯の神として、道後温泉本館側の湯神社に祭祀してある。

 玉造の湯について、出雲風土記は次のように記している。
 「川の辺に出湯(いでゆ)あり。出湯の在る所海陸を兼ねたり。仍りて男女老いたるも少(わか)きも、あるいは道路に駱駅し、あるいは海中に洲(す)を沚(は)て、日に集いて市を成し、繽紛として燕楽す。一たび濯うときは形容端正、再び浴すれば万の病悉に除く。古より今に至るまで験を得ずということなし。政、俗人(よしひと)神の湯と云えり」。

 嶋根郡の前原(さきはら)の埼の宴遊について、出雲風土記は次のように記している。

 「陂(つつみ)と海との間の浜は東西の長さ一百歩、南北の広さ六歩あり。肆松蓊欝(まつしげ)り浜鹵(なぎさ)の淵澄めり。男女時に随(よ)りて叢会(つど)い、あるいは愉楽(たのし)みて帰り、あるいは眈遊(えら)ぎて帰ることを忘れ、常に燕喜(うたげ)する地なり」。

 出雲風土記の「意宇郡 忌部の神戸の条」は次のように記している。
 「忌部の神戸、郡家の正西*一里二百六十歩なり。国造、神吉詞(かむよごと)望(ほが)いに、朝廷に参向(まいむか)う時、御*(みそぎ)の忌の里なり。故、忌部という。即ち、川の辺に湯出づ。出湯の在るところ、海陸(うみくが)を兼ねたり。よりて、男も女も、老いたるも少(わか)きも、或いは道路(みち)につらなり、或いは海中を洲(はま)に沿いて、日に集いて市を成し、みだれ紛いて宴す。ひとたび濯(すす)げば、形容(かたち)端正(きらきら)しく、再び湯浴みすれば、万の病悉に除(い)ゆ。古(いにしえ)より今に至るまで験(しるし)を得ずということなし。故、俗人(くにひと)、神の湯という」。

【大国主の命とスクナヒコナの神の対立譚】
 大国主の命とスクナヒコナの神との間に多少の対立があった様子が播磨国風土記の神前(かんざき)郡の条で次のように伝えられている。
 「はに岡と号(なづ)くる所以は、昔、オオナムヂの命とスクナヒコナの命と相争いて、のりたまいしく、『はにの荷を担いて遠くへ行くのと、尿(くそ)下(ま)らずして遠くへ行くのと、この二つの事、いずれが能く為せむ』。オオナムヂの命のりたまいしく、『吾は尿下らずして遠くへ行かむ』。スクナヒコナの命のりたまいしく、『我ははにの荷を持ちて行かむ』。かく相争いて行でましき。数日経て、オオナムヂの命のりたまいしく、『吾は行きあえず』。即(やが)て坐(い)て、尿下りたまいき。その時、スクナヒコナの命、笑いてのりたまいしく、『然(しか)苦し』。また、そのはにをこの岡に投げうちましき。故、はに岡と号く。亦、尿下りたまいし時、小竹(ささ)、その尿を弾き上げて、衣に行(は)ねき。故、はじかの村と号く。そのはにと尿とは石と成りて今に亡(う)せず」。
(私論.私見)
 「大国主の命とスクナヒコナの神との間に多少の対立」をどう読むべきか。出雲王朝経営上の方針の違いがあったと読むべきであろう。但し、友誼的関係内のことであり敵対関係の逸話ではないように思われる。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命とアメノヒボコとの壮絶な戦い譚】
 大国主の命とアメノヒボコとの壮絶な戦い譚が播磨国風土記の揖保(いいぼ)郡、粒岡の条で次のように伝えられている。
 「粒丘(いいおか)と号(なづ)くる所以は、天日ぼこの命、韓国(からくに)より渡り来て、宇頭(うづ)の川底に到りて、宿処(やどり)を葦原の志挙(しこ)をの命に乞わししく、『汝は国主たり。吾が宿らむ処を得まく欲(おも)う』とのりたまいき。志挙、即ち海中を許しましき。その時、客(まれびと)の神、剣を以(も)ちて海水を撹(か)きて宿りましき。主(あるじ)の神、即ち客の神の盛(さかり)なる行(しわざ)を畏(かしこ)みて、先に国を占めむと欲して、巡り上りて、粒丘に到りて、飯(いいを)したまいき。ここに、口より粒落ちき。故、粒丘と号く」。

 播磨国風土記のしさはの郡、御方の里の条で次のように伝えられている。
 「御形(みかた)と号くる所以は、葦原の志許(しこ)をの命、天日ぼこの命と、黒土の志爾(しに)岳(だけ)に到りまし、各々、黒葛(つづら)三条(みかた)を以ちて、足に着けて投げたまいき。その時、葦原の志許(しこ)をの命の黒葛は、一条(ひとかた)は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫(やぶ)の郡に落ち、一条はこの村に落ちき。故、三条という。天日ぼこの命の黒葛は、、皆、但馬の国に落ちき。故、但馬の伊都志(いづし)の地を占めて在(いま)しき。ある人云えらく、大神、形見と為して、御杖をこの村に植(た)てたまいき。故、御形という」。
(私論.私見)
 大国主の命とアメノヒボコとの壮絶な戦い譚をどう理解すべきか。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【出雲王朝の政体の特質としての「神在月合議政治」譚】
 出雲王朝の合議制政治が次のように伝えられている。
 「毎年十月には、全国の八百万(やおよろず)の神が出雲に集まり、その間各地の神は不在となる。他国の神無月、出雲のは神在月と云う。これにより、出雲は、全国の神が出雲に集まり『神謀(はか)る地』と言い伝えられている」。
(私論.私見)
 「出雲王朝の政体の特質譚」は、出雲王朝が、葦原の中つ国の国津神の同盟の芯の位置に居たことを物語っている。族の祭政一致政治を踏まえた緩やかな自由連合国家として、寄り合い評定式の合議制による集団指導体制を敷いていたものと推測される。毎年十月は、全国会議を催したと云うことであろう。この「神在月合議政治」は、出雲王朝の平和的体質を物語っているように思われる。恐らく、その年の五穀豊饒を感謝し、独特の神事を執り行いながら政治的案件を合議していたのではないと思われる。これが日本のその後の権力体に伝統的に継承されていくことになった面があると思われる。神在祭については「出雲神道、出雲大社考」で考察する。

 出雲王朝は、高天原王朝の如くな支配被支配の統一国家と違い、支配権力を振るうよりは徳政的な政治を特質とする共同文化圏的な盟主的地位を保持していたことになる。出雲はこうして日本古代史の母なる原郷となった。古事記、日本書紀では「根の国」とも記すが、謂れを知るべきだろう。出雲王朝政治は祭政一致であり、今日に於いては古神道と云われるものである。これについては、「日本神道の発生史及び教理について」、「日本神道の歴史について」で考察する。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命の手腕考】
 大国主の命は、政治、経済、農業、医療、文化のあらゆる面での国作りの神であり、日本の神々のなかのスーパースターである。出雲神話の主役で、全国の国津神の総元締みたいな存在である。英雄神としては、日本の素盞鳴尊やギリシア神話の英雄のように怪物退治といった派手なことはやっていないが、少彦名神とコンビを組んで全国をめぐって国土の修理や保護、農業技術の指導、温泉開発や病気治療、医薬の普及、禁厭の法を制定、といった数々の業績を残した偉大な神であることも知られている。大国主大神はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれました。それはすべてのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれた。

 オオナムチを主祭神、スクナヒコナと下照姫を配祀している播磨一の宮の伊和神社の由緒略記は次のように記している。
 「オオナムチの神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或いは医薬の法を定めて、治病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。大神は播磨の国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨の国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里に至りまして、我が事業は終わった『オワ』と仰せられて鎮まりました。ここに於いて人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります」。

【大国主の命の政治思想考】
 「大国主神の道(出雲大社教)」が大国主の命の政治思想、人生教理を次のように伝えている。これを確認する。
 オオナムチノカミほど多くの苦難を克服された神はない。人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。あの神像に見られる福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。

 大地は人間の生きていくうえに、欠くことの出来ない限りない生命を生み出し育むのであり、その意味で大地は「母なる大地」と呼ぶのにふさわしいのであるが、この大地が秘めている生成の力を、むかしから「ムスビ」という言葉であらわし、「産霊」という文字をこれにあてている。人間の生命も勿論、このムスビによって生まれ、そして育っていくという生命観を、日本人は独特な信仰として持っている。ムスビとは生成の意であり、ムスビのヒは、神秘なはたらき即ち霊威を意味する言葉である。いのちあるものを積極的に生成せしめるはたらきの根源に、この「ムスビ」の霊威を見ることができるとするのである。そしてこの神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える"えにし"を結んでいただけるのである。そこでこの神を仰いで「縁結びの神」と慕ってきたのである。

 オオクニヌシノカミは辛苦の道を厭われぬだけでなく、かえって、そこにあらわれる難難や迫害、危難や試練に堪え、神としての神がらを切磋されて「ムスビの神」と成られたのである。その愛は広く天下国家のためにみちびかれるのみではなく、厚く人ひとりひとりのうえにもうるおうのである。我執の多い凡夫のわれわれのうえに、この神の歩まれた道を考えるならば、人間は修錬によって本質を錬磨して、あらゆる苦難を克服する体験を積み重ねなければ、人に慕われるような人格を養うことは出来ない、ということを教えられているのである。生み生かされた人生を、たくさんの人びとと心と心とを互に睦び合いながら、幸福にすごさせていただくために、オオクニヌシノカミが身を以て示された道を、神習う道として、笑顔をもって明るく、強く歩みつづけさせていただきたいものである。

 この出雲の祖神は他の神々に見られない、極めて顕著な霊威をあらわされているのである。昔から各国々には「一の宮」が祭祀されているが、そこに祭祀されている神のほとんどが、出雲人が祖神と仰ぐオオクニヌシノカミか、またはその神統につながる神々である。

【スクナヒコナの神退場譚】
 スクナヒコナの神が退場する。日本書紀に次のように記されている。
 「その後に、スクナヒコナの神、行きて熊野の御崎に至りて、後に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しぬ。亦曰く、淡嶋(あわのしま)に至りて、栗茎(あわがら)に縁(のぼ)しかば、弾(はじ)かれ渡りまして常世郷に至りましきという」。
(私論.私見)
 スクナヒコナの神退場の寓意は何か。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大トシの神登場譚】
 スクナヒコナの神が居なくなり、大国主の命が、このあとどの神と協力して国作りを進めたらよいかと思案する。これ以降、大国主の命の当時の名称「大己貴命」が「大己貴神」と敬称が変わる。この頃、次のように述べている。
 「そもそも葦原中国は本(もと)より荒芒(あら)びたり。岩や草木に至るまでことごとく能(よ)く強く暴(あら)し。然れども吾既に摧(くだ)き伏せて、和順(まつろ)わざる(従わない者)莫(な)し。今この国を理(おさ)むるは、唯(ただ)し吾一身(ひとり)のみなり。それ吾と共に天下(あめのした)を理(おさ)むべき者は、果たしているのだろうか」(日本書紀神代上第八段一書第六)。

 大国主の命の嘆きが伝わり、古事記は「海をてらして依り来る神あり。これを大トシの神(大物主の神)と云う。大和の三輪山なるオオミワの神」と記している。日本書紀も「神光海を照らして忽然に浮び来れる神は、オオクニヌシノカミの幸魂・奇魂であり、三輪山の神にほかならぬ」と記している。 大国主の命は以降、大トシの神(大物主の神)と共に国を経営して行った。
 「時に、神(あや)しき光海に照らして、忽ちに浮かび来る者あり。曰く、『もし吾在らずは、汝(いまし)何ぞ能くこの国を平(む)けましや。吾が在るに由りての故に、汝その大きに造る績(いたわり)を建つこと得たり』。この時に、オオナムヂ神問いて曰く、『しからば汝はこれ誰ぞ』。対(こた)えて曰く、『吾はこれ汝が幸魂奇魂なり』。オオナムヂ神曰く、『しかなり。すなわち知りぬ。汝はこれ吾が幸魂奇魂なり。今何処(いずこ)にか住まむと欲(おも)う』。対えて曰く、『吾は日本国(やまとのくに)の三諸山(みもろのやま)に住まんと欲う』。故、即ち宮を彼処(かしこ)に営(つく)りて、就(ゆ)きて居(ま)しまさしむ。これ、大三輪の神なり」(日本書紀神代上第八段一書第六)。
(私論.私見)
 大トシの神とは何者か。大トシの神は大物主の神であるとされているが、大物主の神は大国主の命の別名ともみなせる。この辺りの考察を要する。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【「出雲の御魂の理譚」】
 大国主の命は、出雲思想の伝統的御魂の理に従い祭祀を司った。「出雲の御魂の理」とは次のようなものである。
 和訓読み 表象  解説
和魂  にぎたま、にきみたま  柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂。恵み、神の加護。
幸魂  さきたま、さきみたま  人に幸を与える神の霊魂。運による幸。収穫をもたらす。豊と表す。 
奇魂  くしみたま  不思議な力を持つ神霊。奇跡による幸。櫛と表す。
荒魂  あらたま、あらみたま)    荒く猛き神霊。神の祟。
(私論.私見)
 「出雲の御魂の理譚」は、出雲王朝の政治理念を表象している。それによると、和魂で徳治主義政治を、幸魂で産業振興政治を、奇魂で霊力政治を、荒魂で武断政治を伝えており、出雲王朝がこれに則った政治を執り行った事が判明する。これが日本政治の原型とも云えよう。

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命の艶福家ぶり、政略結婚譚】
 大国主の命が各地豪族の娘との政略結婚で支配権を拡げていったことが伝えられている。最初の妻の八上姫との間に木俣神をもうけているが、正妻須世理姫との間には子供を設けていない様子である。しかし、諸国の豪族の姫との間に多くの子供をもうけており、日本書紀一書には「その御子すべて一百八十一(モモソヤハシラアマリヒトハシラ)の神ます」と記されている。艶福家ぶりを発揮しており、出雲の縁結びの神として祀られる所以でもある。これを確認しておく。
 大国主は、まずイナバの国随一の八上姫(ヤガミ)姫。その子は木俣(きまた)の神。
 スサノウの娘のスセリ姫の命。
 出雲の郡宇賀の郷でアヤト姫。
 神門の郡の朝山の郷でマタマツクタマノムラ姫の命。
 八野(やの)の郷ではヤヌノワカ(八河江)姫の命。その子は速甕之多気佐波夜遅奴美神。
 八嶋牟遅の神の娘(鳥取姫、青沼馬沼押姫)。その子は鳥鳴海の神(日名照額田毘道男)(布忍富鳥鳴海神)。
 陶津耳の命の娘の活玉依(いくたまより)。活玉前玉姫神との間に美呂浪神。
 高皇産霊の尊の娘の三穂津姫。
 宗像の三女神の中の多紀理(タキリ)姫。その子が味鋤高彦根神(アヂシキタカヒコネの命、賀茂大神)、高姫神(下照姫神)。
 宗像の辺津宮の高津姫の神。
 神屋楯(カムヤタテ)姫。その子が事代主の命。
 高志(越)の国のヌナカワ(沼河、奴奈川)姫。その子が建御名方神(タケミナカタの命)。
 三嶋のセヤタタラ姫。その子がホトタタライススキ姫の命(姫タタライスケヨリ姫)。 
 伊許知邇神。その子が国忍富神。
 前玉姫。その子が甕主日子神。
 比那良志姫。その子が多比理岐志麻流美神。
 若尽女神。その子が天日腹大科度美神。
 遠津待根神。その子が遠津山岬多良斯神。

 こうして、オオナムヂは次々と政略結婚し、子供を生んでいった。 旧事本紀は次のように記している(「大国主の命」)。
 先娶 坐宗像奥都嶋神田心姫命、生一男一女 兒味鋤高彦根神 坐倭国葛上郡高鴨社 云捨篠社 妹下照姫命 坐倭国葛上郡雲櫛社

 次娶 坐邊都宮高降姫神、生一男一女 兒都味齒八重事代主神 坐倭国高市郡高市社 亦云甘奈備飛鳥社 妹高照姫大神 坐倭国葛上郡御歳神社

 次娶 坐稲羽八上姫 生一兒 兒御井神 亦云木俣神

 次娶 高志沼河姫 生一男 兒建御名方神 坐信濃国諏方郡諏方神社
 マタマツクタマノムラ姫の命=。ヤヌノワカ姫の命=。アヂシキタカヒコネ=阿遅志貴高日子根の命。カムヤタテ姫=神屋楯姫。タケミナカタ=多建御名方。
(私論.私見)
 神話に於ける結婚とは、政略結婚による豪族間の同盟を物語っているものと思われる。政略結婚は、結婚政策で版図を広げたという意味と同時に極力武力によらなかったことを隠喩しているとも考えられる。これも叉日本政治の原型と云えよう。 

 2011.7.17日再編集 れんだいこ拝

【大国主の命のヌナカワ(沼河)姫との結婚譚】
 (古事記)大国主(八千矛神)と高志(越)の国のヌナカワ(沼河、奴奈川)姫との交情風景は麗しい。或る時、オオナムヂは越の国に行き、ヌナカワ姫に屋外から次のように求愛する。
 「八千矛の神の名(命)は八島国 妻纏(枕)きかねて 遠々し。高志の国に賢し女をありと聞かして、麗し女をありと聞こして、さ婚ひに在(あ)り立たし 婚ひにあり通はせ、大刀が緒もいまだ解かずて、襲をもいまだ解かね、嬢子(乙女)の寝すや板戸を押そぶらひ 吾が立たせれば引こづらひ 吾立たせれば、青山に鵼は鳴きぬ。さ野つ鳥 雉子は響(どよ)む 庭つ鳥 鶏は鳴く。心痛(うれた)くも 鳴くなる鳥か。この鳥もうち止めこせね。いしたふや 天馳使、事の語り言(ごと)も 是(こ)をば」。
 (八島国を治め八千矛の神名を持つ私は、同盟の証として諸国の国姫と誼を通ずるべく国中を訪れている。遠い高志の国に賢く、美しい乙女がいると聞き、契ろうとこうしてやってきた。太刀の紐も付けたまま、被衣も付けた旅装束のまま駆けつけたが、あなたは会ってもくれない。乙女の眠る寝室の前で、私は板戸を押し、引き揺すって立っている。あなたは戸を締めきったままだ。そのうち緑濃い山では鵺(ぬえ)が鳴いてしまった。野では雉も鳴き騒ぎ、庭では鶏も夜明けを告げて鳴いている。あぁいかにせん。いろいろ伝え話し合いたいことがある。鳥たちよ、私のこの思いを伝える語り部となっておくれ)

 ヌナカワ姫は、いまだ戸を開けず、内から歌って聞かせた。
 「八千矛の神の命。萎(ぬ)え草の女にしあれば、吾が心 浦渚の鳥ぞ。今こそは吾鳥にあらめ。後は汝鳥にあらむを、命は な殺(死)せたまひそ いしたふや 天馳使、事の語り言(ごと)も。こをば。青山に日が隠らば、ぬばたまの夜は出でなむ。朝日の咲(笑)み栄え来て、楮綱(たくづの)の白き腕 沫雪の 若やる胸を そ叩き(素手抱き) 叩きまなかり(手包き抜きまながり) 真玉手 玉手差し纏(枕)き 股(百)長に 寝は宿(寝)さむを。あやに な恋い聞こし。八千矛の神の命。事の語り言(ごと)も 是(こ)をば」。
 (八千矛の神の命様。私など、なよなよした草のような弱い女。浜辺の千鳥のようなもので、今は我がまま鳥でいるものの、やがてあなたに抱かれる鳥になるのですから、お焦りなされるな。青山に日が隠れ、暗闇になったらおいでください。朝日のような笑顔でおいでなさい。真っ白に輝く腕で、雪のようなこの白い胸をじかに抱きしめ、なでさすり、抱き交わし、私の玉のような手を枕に差し、足を並べて尽きぬ共寝を致しませう。だから、余り恋焦がれなさりませぬよう。八千矛の神の命様、その時ゆっくり語り合いませう)

 「かれその夜は合はさずて、明日の夜御合したまひき」。こうしてヌナガワ姫を娶してミホススミの命を生み、ミホススミの命は美保の郷に住むことになった。建御名方神(タケミナカタ)もこの姫から生まれた。

【大国主の大和の国旅立ち譚】
 古事記の伝えるところ、ヌナカワ姫の元から戻ってきた大国主対して、スセリ姫の嫉妬が激しかった。大国主は次のように歌っている。これを仮に「大国主の命のぬば玉歌」と命名する。
 「ぬば玉の 黒き御衣(みけん)を まつぷさに取り装い 沖つ鳥 胸見る時 羽叩(たた)ぎも これは適(ふさ)わず。辺つ波 そに脱(ぬ)ぎ棄(う)て。翠(鴗、そに)鳥の 蒼(青)き御衣を まつぷさに取り装い 沖つ鳥 胸見る時 羽たたぎも 此(こ)も適(ふさ)わず。辺つ波 そに脱ぎ棄て。山縣(県)に 蒔きしあたね(藍蓼)春(つ)き 染木が汁に 染(し)め衣(ころも)を まつぷさに取り装い 沖(奥)つ鳥 胸見る時 羽たたぎも 此(こ)し宜(よろ)し。いとこやの 妹(いせ)の命 群島の 我が群れ往(い)なば 引け鳥の 我が引け往なば 泣かじとは 汝(な)は言うとも 山處(やまと、山処)の 一本(ひともと)薄(すすき) 項(うな)傾(かぶ)し 汝が泣かさまく 朝雨のさ霧に立たむぞ 若草の 妻の命(みこと) 事の語り言(ごと)も 是をば」。
 ぬば玉とは、アヤメ科多年草の檜扇(ひおうぎ)の種子を指し、黒々と丸い形をしている。「きらきらと光るミステリアスな黒」の意味があり、万葉集の枕詞で「ぬばたまの夜」、「ぬばたまの夢」などとして使われる。「大国主の命のぬば玉歌」に掛けている。
 (ぬば玉のような黒い衣を礼装しても似合わない、波に流してしまおう。翡翠のような蒼い衣(沼河比売を暗喩)を装っても似合わない、波に流してしまおう。着慣れた山の畑の茜草で染めた赤い衣(須勢力比売を暗喩)が私には一番しっくりとなる。渡り鳥のように私が旅立ってしまったら、君は泣かないといっていても、きっと泣くのだろうな。それを思うと哀しくて霧のように溜息が出てしまう)

 大国主が、大和の国に向うべく旅支度を始めた。スセリ姫は、大国主に大御酒杯(おおみさかずき)を取らせて、立ち依り指挙げて、歌よみし歌。歌謡の詞書きとして「その夫の神わびて、出雲より倭の国(やまとのくに)に上りまさむとして、束装(よそひ)し立たす時に 片御手は御馬の鞍に繁け、片御足はその御鐙に蹈み入れて、歌よみしたまひしく」云々とある。愛する夫との永の別れになることを覚悟した痛切な恋歌となっている。

 八千矛の 神の命や、吾が大国主 汝こそは 男に坐(いま)せば、うち廻る 島の埼(崎)々 かき廻る 磯の埼おちず、若草の 嬬(妻)持たせらめ。吾はもよ 女にしあれば、汝を除(置)て 男は無し。汝を除(置)きて 夫(つま)は無し。綾(文)垣の ふはやが下に、苧衾(蒸被、蚕衾) 柔やが下に、たく衾(栲被) さやぐが下に、沫雪の 若やる胸を 楮綱(たくづ)の 白き臂(腕) そ叩き(素手抱き) 叩きまながり(手抱き抜がり) 真玉手(出) 玉手差し纏(枕)き 股(百)長に 寝をし寝(な)せ。豊御酒 奉(たてまつ)らせ。
 (あなたは男なので、お廻りになられる島の崎々、磯の崎々で若い妻を娶るのでせうが、私は女ですから、あなたの他に愛する者は居りません。どうぞあなたは旅先で彼女達と柔らかい暖かい布団でお休みになられませ。でも、何時までも心は私のところにあるとこの御酒を召して誓ってくださいませ)

 二人は互いが杯を交わし、手を首に掛け合って別れを惜しんだ。「かく歌ひて、すなはち盞結ひして、項繁けりて、今に至るまで鎮ります。こを神語といふ」とある。大国主は旅立ち、スセリ姫は留まり鎮座することになった。
(私論.私見)
 この逸話は重要である。僅かにこれだの記述であるが、大国主が大和の国に向ったことを示唆しているからである。このことは出雲王朝と河内王朝、三輪王朝との絡みを考える上で意味がある。この旅立ちの際にスセリ姫が詠った歌意を「正妻のスセリ姫が嫉妬激しく」なる解説があるが無用であろう。よほどの重大決心で大和へ向かおうとする夫の大国主に対する恋歌と受け取るべきであろう。大国主は艶福家で知られているが、正妻のスセリ姫との信頼が厚かったことを逆に教えると受け止めるべきであろう。

 2011.7.16日 れんだいこ拝












(私論.私見)