大神大社



 (最新見直し2010.03.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2006.12.3日 れんだいこ拝


【大神(おおみわ)神社譚】
 奈良県桜井市三輪1422に、御諸山(三輪山)そのものをご神体(神体山)とする大神神社がある。古神道では、神が宿る山を「神奈備(かんなび)山」と云い、山そのものあるいは山頂の岩等々そのものを崇める。これが古神道の粋とも云える信仰形態である。その里宮として大神(おおみわ)神社が創建されている。大神神社は、三輪山を中心として350ヘクタール(約100万坪)、周辺は16kmもある日本一広大な社地を持つ神社となっている。

 大神神社は、大物主大神、大己貴神、少彦名神を主祭神としている。いずれも出雲王朝系の神々である。これを更に識別すると、主祭神は大物主大神であり、大己貴神、少彦名神を配祀していると捉えることができる。大物主大神と大己貴神を同一視する記述もあるが、大物主大神は、叉の名を大物主櫛甕玉命とも云い、神武東征以前の大和−河内一帯を支配していたニギ速日の尊とみなすべきであり、大己貴神は出雲王朝の盟主・大国主の命と識別すべきと思われる。少彦名神は、その大国主の命と力を合わせて国づくりした神である。

 「国譲りの神話考」の「大国主が、ヤマトの三輪山宮設営」で確認したが、国譲り前、大国主の命が、「吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である」と名乗る者と対話し、ヤマトの三輪山に宮を建てたと伝えられている。

 御諸山が三輪山と名付けられるに至った縁起が次のように伝えられている。
 「イクタマヨリ姫(ヤマトトトヒモモソ姫)は、たいそう美しい乙女だった。ある夜、姫のもとにこの世のものとも思われぬ堂々として立派な男があらわれ、二人はたちまち恋におちて結ばれた。男はいつも昼には現われず夜だけやって来た。姫は身ごもった。姫の両親が姫に尋ねたところ、『みめ美しい男が毎夜のように通ってくるが、誰とも判らず契りあっているうちにこうなりました』と答えた。両親は男の素性を知りたいと思い、『床のまわりに赤土を撒き、巻いた麻糸(おだまき)の糸先に針をつけ男の着物の裾にさしておくよう』姫に教えた。姫は言いつけどおりにして、翌朝になってみると糸は、入口の戸の鈎穴から外に出ており、辿って行くと美和山の社まで来ていたので、男が神の御子であることが判った。麻糸の残りが家の中に三勾(みわ)あったのでここを三輪と呼んだ」。

 古事記の崇神天皇7年の条に次のように記述されている。
 「崇神天皇の御世に、疫病が流行り、人民(おおみたから)が尽きるほど甚大な被害が発生していた。崇神天皇がこれを愁い嘆きし時の或る日の夜に「意富多多泥古(大田田根子)を探し出し祀れば国が平安にならむ」とご託宣有りて、物部連の祖・伊香色雄(いかがしこを)に命じ、八方手を尽して探し出し足るところ、河内の国の美努村に住んでいるのを認め、祭祀主として御諸山に迎え、崇神天皇7年8月、意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を祀らした。この大田田根子が三輪氏の祖となる」。

 日本書紀には、大物主神が倭迹迹日百襲媛(やまととひももそひめ)の命に神懸かりして、また、臣下の夢に現れた神託に従い、大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせた、とある。

 日本書紀の崇神天皇10年9月の条に次のような「箸墓伝説」が記述されている。
 「倭迹迹日百襲媛の命は、或る見るからに立派な青年の妻と成った。この神は昼間は来ないで夜に来る。或る日、明朝まで居て下さい。麗しいあなたのお姿を見たいと告げた。青年は、『私はあなたの櫛箱の中に入りましょう。私の姿を見て驚かないで下さい』と告げた。翌朝、姫が櫛箱を開けてみたところ、美しい子蛇が居た。姫は驚きの余り大声を上げてしまった。子蛇は忽ち人の姿に変じて、『お前は私に恥をかかせた。私は山に帰るが、お前には相当の報いがあるであろう』と述べて大空に翔け上がった。姫は悔いて、どすんと腰を着いた拍子に箸で陰部を突いて亡くなられた。姫は大市に葬られ、箸墓と名付けられた」。

 三輪山信仰は万葉集にもしばしば言及されている。最初に登場するのは巻1の17、18番の歌である。「額田王、近江国に下る時に作れる歌」として、17番で次のように歌われている。
 「うまさけ 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに 委曲(つばら)にも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の隠さふべしや」。

 「井戸王のすなはち和(こた)ふる歌」として、18番反歌が次のように記されている。
 「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや」。

 この18番歌は、異説として「山上億良大夫の類しゅう歌林に曰く、都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌なり」の注で、作者を天智天皇とする異伝がある。いずれにせよ、大和の守り神の坐す三輪山を憧景している様が窺われよう。

三輪山のイワクラ(磐座)めぐり

【三輪山の磐座(いわくら)信仰】
 「三輪山のイワクラ(磐座)めぐり」を参照する。

  三輪山(みわやま)は、奈良盆地の南東部に位置する奈良県桜井市にある標高467m、周囲16kmのなだらかな円錐形の山である。三諸山(みもろやま)ともいう。おそらく縄文時代よりの古神道の聖地であり、三輪山は神の鎮座する山・神奈備とされている。弥生時代を経て、この一帯に三輪王朝政権が存在したと考えられる。。箸墓古墳(はしはかこふん)は魏志倭人伝記載の邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。大和王朝時代の古墳時代にはいると山麓地帯に次々と200〜300mの大きな古墳が作られ、第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵等々がある。『記紀』には大神神社の祭神である大物主神(別称三輪明神)の三輪山伝説が載せられている。

 三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、奥垣内遺跡などがある。頂上には高宮神社が祀られている。延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社が載せられている。この日向神社は、古代には三輪山の頂上に祀られ、太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている。

 磐座は、三輪山山頂の他にも周辺に点在する。古神道では、磐座を神座と心得、注連縄を掛け、神を招き奉って祭祀を行ない、これを崇拝してきた。これを磐座祭祀と云う。磐座は一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなどがある。磐座祭祀は6世紀後半の社殿神道の始まりと共に衰退し、7世紀末の律令官社制の確立と共に実質的に終焉する。沖ノ島では、7世紀末に半岩陰・半露天祭祀から露天祭祀への移行が確認されている。三輪山においても7世紀前半には、磐座祭祀から禁足地の祭祀へと移行したとされる。7世紀末は古墳時代の終末期にあたり、磐座も古墳も石とかかわる祭祀であると云う点で共通する。従って「磐座祭祀とは、古墳時代以前に行われた岩石祭祀」であると定義することができる。

 志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社(磯城瑞籬宮址)

 海石榴(つば)市から山の辺の道に入ると銅板葺きの巨大な天理教の教会が見える。目指す志貴御県坐神社はその東隣にある。「磯城」には、石で堅固に築いた城、周囲を岩石でめぐらした祭場の意がある。志貴御県坐神社は杉や樫の茂った森の中にある小さな神社で、本殿の右側に南を向く単独の石と南北に並ぶ四つの石があり、いずれも祀られている。この地は三輪遺跡の東端にあり、神社明細帳によれば、祭神は大己貴神とある。『大和・紀伊 寺院神社大事典』は、この神社を次のように紹介している。

 金屋集落の北西山手に鎮座。旧村社。祭神は大己貴神(神社明細帳)・御県の霊(大和志料)のほか、天津饒速日命などの説がある。由緒はつまびらかでないが、拝殿右には原始信仰を物語る磐座があり、境内は崇神天皇の「磯城瑞籬宮」推定地とされるなど、鎮座の古さをしのばせる。俗に「シキノ宮」と称し、大和六御県神(「延喜式」祝詞)の一とされる。

 「大倭国正税帳」正倉院文書に、天平2年(730)「志癸御県」の記載がある。また、「延喜式」神名帳に城上郡「志貴御県坐神社、大、月次新嘗」とみえる。「日本書紀」神武天皇2年2月条に、弟磯城(おとしき)を磯城県主としたことがみえ、磯城県主は神社付近を中心として、のちの城上(しきのかみ)・城下(しきのしも)郡に勢力をもち、大和朝廷と独自の婚姻関係を結んだ古代豪族であった。天武12年に連となり、「新撰姓氏録」大和国神別に志貴連は饒速日(にぎはやひ)命の孫日子湯支(ひこゆき)命の後裔とある。

 御県神(みあがたのかみ)は田の神で、大和では高市御県・葛城御県・十市御県・志貴御県・山辺御県・曾布御県の六つの御県神が著名である。御県神は大きな川の流域の田圃の中などにも祭られていることが多い。志貴御県坐神社の境内につづく西側、現在の天理教敷島大教会と北隣りの三輪小学校の両敷地から、縄文式土器・弥生式土器・石器をはじめ須恵器や土師器のほかに金屋の地名どおり製鉄に関係のある金クソ・フイゴの口・石製模造品・玉製品などが出土している。このことから、このあたりが皇居跡ではないかとの説もある。この台地は海抜7〜80mの地で、考古学上からも三輪遺跡として重要視されている。

  平等寺

 寺伝は「敏達天皇即位10年(581)聖徳太子が賊徒を平定するために三輪明神に祈願して、賊徒平定後十一面観世音菩薩を刻んで平和祈願の寺を建立して大三輪寺と称したのにはじまる」とある。しかし、『大神神社史』は、「平等寺境内の開山堂に慶円の像を安置していた」ことを根拠に、寺伝を否定し、慶円を開山者としている。『大三輪町史』は、空海説の存在も述べているが、史料上はっきりとした記述は古代にはあらわれない。慶円は鎌倉時代初期の僧で、大神神社の傍らに真言灌頂の道場「三輪別所」を開き、平等寺と改称してから大伽藍を建立したと伝えられる。江戸時代には、真言宗の寺院ではあるが、修験道も伝えていた。平等寺は明治の廃仏毀釈によって一旦廃絶するが、明治23年になって翠松寺(すいしょうじ)が河内から移され、旧平等寺の山門付近に再建された。その後、昭和52年に元の「平等寺」という名前に戻った。

 古絵図を見ると、廃平等寺鎮守である春日社の背後に「星降(ほしふり)」と記された巨岩があり、当時ここが神霊の宿るところとして意識されていたことがわかる。現在の平等寺は廃平等寺(三輪別所)よりも山裾にあるが、修験道の霊地でもあり寺の創立以前に磐座があったとしても不思議はない。磐座の正面からは「星降」を拝む形となっており、辺津磐座としては納得のゆくものである。

 素佐男神社(祗園社)

 平等寺の北側に素佐男神社が鎮座している。地元では親しみをこめて「祗園さん」と呼んでいる。南から入った参道右横に「回り石」または「夫婦岩」と呼ばれる磐座があって、丸餅のような石が2個、南北に並んでコンクリートの枠内に納まっている。これに似た列石は、志貴御県坐神社にもあり磐座を考える上で興味深い。明治13年(1880)の「大神神社儀式」の四月上卯日(春の大神祭)の項には、「回り石」について次のような記述がある。

 「未ノ刻、神主以下惣員出仕。・・・次渡ノ兒(ちご)武者ヲ始メ、渡リニ関係ノ者、八乙女一(老)等、薬師堂村ギオン(祗園)社ニ至ル。・・・次渡リノ行列ヲナシ、はぜう社(祗園社境内ニアリ)ノ前ノ石ヲ三度廻ル。次兒、同社ニ向ヒ祠中ニ矢ヲ射込ム」 神社の境内には、「白山祠」の額がかかる白山神社の朱塗りの祠があり、説明板には次のようにある。「白山神社 この地域は、古くから加賀白山の信仰も篤く、白山大神を祀り、祭礼は氏神社と併せて祭祀しております。庚申、愛宕、金比羅大権現は「歯定さん」といっては歯痛に霊験あると信仰されています」。

 左側から金比羅大権現、愛宕、白山祠、庚申が祀られている。この祗園社で春祭の中心行事である田植祭が行われたとの見解がある。子供が神事に矢を射るのは、柳田国男氏の説によれば「その年の豊作を占うため」である。また、「はぜう社」は、端山(麓山神)のことで、麓上(はじょ)さんはその俗称とある。

 夫婦岩(大神神社参道横)

 大神神社の二の鳥居から参道を進むと大神神社の階段手前の左側にある。夫婦岩は辺津磐座の一つで、室町時代の『三輪山絵図』を見ると「聖天石(しょうてんいし)」と称し富貴敬愛を祈ると記されている。今日では二つの磐が仲良く寄り添っているので「夫婦岩」と称し「夫婦円満」「子授け」「縁結び」「恋愛成就」等に霊験あらたかな磐座として信仰を集めているとある。江戸時代の寛政3年(1791)編纂の『大和名所図会』には、三輪明神影向の古跡とあり、「フウフ石」として絵図に描かれている。「夫婦岩」なる命名は概して現世利益的・現代的なものであり、太古からのものではないことが多い。大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪明神、三輪神社とも呼ばれ、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。

 日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居三ツを一ツに組み合わせた特異な形式のものである。大神神社の境内には宝物収蔵庫があり、大神神社伝世の神宝の他、山の神祭祀遺跡・奥垣内祭祀遺蹟・禁足地等の出土品が展示されている。  

 磐座神社

 磐座神社は大神神社から「くすり道」(山側の道)を通って狭井神社に向かう途中の、狭井神社のすぐ手前にある。少彦名神(すくなひこな)を祀る辺津磐座の代表格である。辺津磐座に祀る少彦名神については「大三輪社勘文」に「大神崇秘書」を引用して、「辺っ宮は・・・神殿無く磐座あり。辺っ磐座と称す。少彦名命なり。清寧天皇の御世・神託に依り賀茂君之を斎祀す」とある。この辺津磐座については「鎮座次第」では、「清寧天皇が大伴室屋大連に勅して当神社に幣帛をたてまつり、皇子無きの儀を以て祈祷せしめられ給いし時、大神が宮能売(注1)に憑られ(注2)、大神の和魂と共に少彦名命を敬祭あそばされんことを請い、もろともに天津日嗣(ひつぎ)の絶ゆることなく皇孫を守り、人民を済わん」と宣託され、大御心を安んじ給うたと伝えており、同天皇の元年冬十月乙卯の日に、磐境を立て起して崇祭されたのを起源としている。

 少彦名神 は、常世国(とこよのくに)から石(いわ)に示現する神と歌われ、粟茎(あわがら)に弾かれて淡島(あわしま)より常世国に至ったとも語られる。またガガイモの舟に乗り、蛾(が)あるいは鷦鷯(さざき)(ミソサザイ)の皮を着て海上を出雲の美保崎に寄り着いたと説かれるので、この神は常世国より去来する小さな神であったことがわかる。さらにこの神は、多くの場合、国造りの神として大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主命)と並称されるが、その本質は粟作以来の穀霊であったと考えるべきであろう。生成神・神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、田の神の案山子(かがし)(久延毘古(くえびこ)に名を明らかにされる話もその本質と関係がある。大己貴神は、この常世の穀霊と合体して国造りに成功する。

 若宮社(大直禰子神社)

 狭井神社前の十字路を西に5分程下ると若宮社が鎮座している。祭神大直禰子(おおたたねこ)は大田田根子とも書かれ、大物主神の子孫とされる。記紀神話における伝説的な人物で、三輪君の祖神とされる。第10代祟神天皇の御代に、疫病が大流行して多くの民が死んだ。天皇が大いに愁い給うていたとき、夢枕に大物主神が現れた。わが児・大田田根子をして私を祀らせれば天下は平らぎなんと言った。そこで天皇は、これを茅渟県陶邑で探し出し、大田田根子を神主として、三輪の大神(大物主神)を斎き祀ったところ、疫病は鎮まり、天下は泰平になったとある。

 若宮社は明治の神仏分離までは神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ)であった。ここに御誕生所社の磐座があり、それにまつわる次のような物語が残されている。「三輪大明神縁起」によれば、大御輪寺は垂仁天皇99年の草創にかかり、武一原大納言の娘に三輪の明神が通われ、神子を生んだ。この大納言が自分の住む家を、お寺風につくりかえたのが、この大御輪寺の始めだというのである。ところが、その神子は生れて七日目に母を亡くし、その後は、来る日も来る日も母恋しさの日を重ねるうち、ある日、悲しさのあまり邸内の石の上に泣き臥していると、突然、三輪明神が現われて、母の形見を与え給うたのでようやく悲しみも薄れ、それからは父なる神のいます御本社へお参りするのを唯一の慰めとして暮らしていた。十歳の折、大御輪寺の寺内の一室に閉じ籠もったままでふたたび姿を見せなくなった。のちに聖徳太子が御参詣になり、御戸を開かれると、尊くも十一面観音菩薩像に生身入定されていたという話である。なお境内には、正月の御神火祭の時に若宮社の上にある久延彦神社に神饌を供える黒っぽい俎板のような「神饌石(みけいし)」があるが、前述のように磐座ではない。

 奥垣内(おくがいと)祭祀遺蹟(大美和の杜)

 若宮社からもと来た道を引き返すと、久延彦(くえびこ)神社の鳥居があり山に向かって参道がのびている。祭神の久延彦神は、大国主神に少彦名命の神名を教えた神であり、『古事記』には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」と記されている智恵の神である。久延彦神社の境内から見る大和三山は絶景である。本殿右側には三輪山の遥拝所がある。奥垣内祭祀遺蹟の磐座は、「大美和の杜」と称する山の辺の道沿いの公園にある。奥垣内祭祀遺蹟の磐座は、発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものである。奥垣内祭祀遺蹟の発見当時の概要を以下に紹介する。

 1965年に民間業者による温泉地開発によって、狭井川畔の当遺跡が削平をうけ、多くの祭祀遺物が発見された。樋口清之氏の紹介によると、斑礪岩の巨石が集結していた地点に重機を入れたところ、巨石の東側に接して、胴部下半を土中に据えた状態で須恵器の大甕が出土した。この中に、須恵器の杯・高杯・長頸壷など十数点が多量の滑石製臼玉とともに収められていたという。また付近には滑石製有孔円板や土師器の破片が一面に散乱していたとのことであり、現在(大美和の杜)に復元されているような磐座をともなう祭祀遺跡であったと考えられる。この遺跡で出土したとされる須恵器をみると、その主体は5世紀後半〜6世紀初頭にあるが、他に4世紀末〜5世紀前半の土師器や新羅系陶質土器が含まれている。また狭井川畔でも碧玉製管玉や硬玉製勾玉が採集されていることを考えると、この狭井川畔のやや広い河原では、4世紀後半〜6世紀前半の間、繰り返し磐座を祀る神マツリが行なわれ、祭器をまとめて埋納した様子がうかがわれる。

 奥津磐座(三輪山山頂)

 三輪山への登り口は狭井神社境内にあり、登拝は狭井神社に申し込む。奥津磐座は山頂の高宮神社の東にあり、ゆっくり登っても往復2時間で十分である。登拝道入口から8分程歩くと小さな谷川があり、その傍に辺津磐座らしきものが鎮座している。そこから谷川に沿って10分程歩くと「三光の滝」と呼ばれる行場がある。その行場から尾根に取りつき10分程歩くと中津磐座に達する。中津磐座は、群をなしていて広いエリアが注連縄で囲われている。中津磐座は磐座と杉の巨木がセットになった古代祭祀の姿をしている。そこから20分程登ると高ノ宮神社が鎮座している。『大神神社御由来略記』によれば、三輪山のいただきにある高ノ宮は神殿なく神杉あり。大国主神その杉に降り給いその杉を神体とするとあり、続く神詠のなかに「岩杉(イワキ)」の語が見える。神はこの杉に降臨し磐に座したのであろう。目指す奥津磐座はそこから東に100m(1~2分)の距離にある。山から降りたら、狭井神社の御神水をいただいて喉をうるおそう。甘露である。

 三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の三つの磐座があると言われるが、実際はこの三つにとどまらない。三輪山の磐座分布図をみると、実に多くの磐座が点在していることがわかる。しかも分布図に点で表された磐座は群となって存在している場合が多いといわれる。このような多数の磐座が、ある時一斉に成立したとは信じにくい。やはり長い歴史の中で磐座の数が増えていったのであろう。

 奥津磐座、中津磐座、辺津磐座の呼び方が何処から来たのか。「奥津」は普通「オクツ」と読まれるが、実は「オキツ」と読むのが正統である。古事記の研究書によれば、「奥」は「沖」と同語源とされる。「津」は、「港」でありエリアを示すものと解釈できる。「辺津」は岸辺を指す。三輪山の奥津磐座・中津磐座・辺津磐座は宗像大社の奥津宮・中津宮・辺津宮と対応している。『大神神社御由来略記』によれば、大物主大神は神代より奥津磐座に鎮座、大己貴命は考昭天皇の御代に中津磐座に鎮座、少彦名命は清寧天皇の御代に辺津磐座に鎮座。今も鳥居を三ツに造りて、三柱を斎き奉るとある。(参考 天皇即位年 第5代考昭天皇 紀元前475年 第22代清寧天皇 480年)。

 大物主(おおものぬし)は、日本神話に登場する神、大神神社の祭神。古事記によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう望まれた。大国主が「あなたはどなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。日本書紀の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂(にぎみたま)を大物主神として祀ったとある。

 奥津磐座は長径四十数メートル、短径十数メートルの楕円形をした、高さ1メートル以下の小ぶりの岩が域内に多数集まった岩群れである。岩群れは無数の筋状の列石のようにも見えるが、人為の介在の有無は不明である。長軸をほぼ南北に置き、南端に小さな拝所が注連縄のかけられた岩の前に設けられている。
 
 岩畳畏(かしこ)き山と知りつつも我は恋ふるかなみならなくに(万葉集 巻7-1331)

 三輪山の山頂には太陽信仰にかかわるとされる大神神社の摂社である高宮神社(こうのみや)がある。高宮神社は三輪山の頂上、いわゆる高峯(こうのみね)(あるいは神峯とも書く)に鎮座、御祭神は大物主神の御子、日向御子神である。本殿は小さな池の中にあり、古来、旱魃の時には郷中の氏子が登拝し、降雨を祈ればかならず霊験ありとされている。これは『日本霊異記』にも出ている雨を支配する竜神信仰が生き継がれているといえるが、今日でも旱魃時は神職参籠の上、登拝して祈雨祭をおこなうときがある。また元旦の撓道祭(にょうどうさい)にさきがけて大晦日には神職が登拝し、御神火拝戴の儀がこの社で行なわれる。三輪山では一年のなかで太陽の勢いがもっとも弱くなる冬至の日に、司祭者が山頂に登り、磐座に太陽神の依り代としての銅鏡をはじめ玉類・武器類・土器に入れた供物などを供え、東(ひむがし)に昇る太陽に向かって礼拝した。「日向(ひむか)」とは、日(太陽)に向く、日に向かうというその意味であり、太陽(日の神)に向かって拝むとか、太陽が昇る東(ひむがし)の方に向いて拝むという太陽祭祀がおこなわれていたことを示唆している。ためでしょう。

 山ノ神祭祀遺跡

 三輪山の祭祀を知る上で極めて貴重な遺跡であり、遺物の一部は大神神社の境内にある宝物収蔵庫に展示されている。尚、山の神祭祀遺跡の磐座は、奥垣内祭祀遺蹟と同様に発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものであることに留意したい。

 三輪山は神体山であるため基本的に学術調査ができないことになっているが、ここはたまたま民有地となっていたため、詳しく調査された。山ノ神祭祀遺跡は、狭井神社の東北、狭井川の上流にあたる三輪山麓にある。その概要を文献15Aから以下に紹介する。大正7年(1918)、ミカン山開墾のために、露出していた巨石を動かそうとしてその周囲を掘り進んだ結果、発見された。巨石組は、約1.8×1.2mの平面長方形の斑礪岩(はんれいがん)を中心にして、5個の石がこれを取り囲む状態で見つかり、石組の下には割石を敷きつめて地固めをしていた。遺物は石の周囲より発見され、中には、土師器坩(はじきつぼ)の内に滑石製臼玉が入れられた状態で出土したものもあるという。残念ながら、発見から県の調査までの3ケ月間に巨石が動かされ、盗掘を受けてしまつたが、発掘された遺物を上回る大量の遺物が埋納されていたことが知られる。

 5世紀中頃を境とした上記の祭祀遺物の変化は、雄略期の伊勢遷宮によるヤマト王権の太陽神から土着の農耕神への回帰による可能性が考えられる。

 檜原神社(倭笠縫邑)

 大神神社の摂社である檜原神社は、第10代崇神天皇の御代に、はじめて皇祖天照大神(八咫鏡)を宮中から移して祀り、皇女豊鍬入姫命が奉持せられた倭笠縫邑の神蹟とされる。そのため「元伊勢」の別称も残る。室町時代のものといわれる古図(文献12)をひらくと、三輪山の中でも、檜原峯という峯を背景にし、本殿を設けずに本社と同様、三ツ鳥居・拝殿を構え、石壇が設けられており、その前方左右にわかれて末社が祀られ、御供所(ごくしょ)などがある。二ノ鳥居もあり、さらには一ノ鳥居までが、本社一ノ鳥居と同線上、上津街道近くに建っていたことが示されている。このことから、古来より大神神社の摂社の中でもとりわけ重要な神社であることがわかる。また、檜原神社は日原社とも書かれ、三輪山の朝日と二上山の夕日を遥拝する太陽祭祀であり、これが天照大神の信仰につながったものと思われる。

 檜原神社は、本社と同じく本殿がなく、三ツ鳥居を通して「神籬(ひもろぎ)・磐座」を拝む古代祭祀がそのまま残っている。江戸末期より荒れていた社頭を、昭和40年神宮の協力を得て三ツ鳥居を建造し、瑞垣を設け古儀に復したのが現状の姿である。檜原神社から三輪山山頂の間に8群の磐座が連なっており、檜原磐座線と呼ばれる。これは大神神社にもあり拝殿奥磐座線と呼ばれ、拝殿奥から山頂の間に6群の磐座がある。私は、山ノ神祭祀遺跡の遺物の変化と沖ノ島の磐座祭祀の変遷から、6世紀中頃に、檜原磐座線から拝殿奥磐座線へと、祭祀の中心が移動したと推定した。それは、伊勢遷宮を契機とした大神神社創生の時期に一致する。

 九日神社(国津神社)

 檜原神社から九日神社への道筋にはホケノ山古墳・箸墓古墳等の有名な古墳があるので、時間が許せば寄ってゆきたい。豊鍬入姫命の墓との伝承が残るホケノ山古墳はのどかな風景が楽しめる。また、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳は池側からの眺めが素晴らしい。

 九日神社は九日(くにち、くじつ)または国津(くにつ)と呼ばれる小さな神社である。「国津」と言えば、すでに通ってきた箸墓古墳の手前にある神社も国津神社であった。国津神社(箸中)付近は、祭祀遺跡である。芝と箸中の二つの国津神社は、纏向川を挟んで深い関係にある。国津神社(箸中)にある説明板には次のような説明がなされている。
当国津神社は、古来より「地主の森」といい、天照大神の御子神五柱を祭神としています。この男神五柱は、「記紀」神話によると、素盞鳴尊が天照大神と天の安河を中にはさんで誓約をしたとき、天照大神の玉を物実として成り出た神であります。
ちなみに纏向川下流の芝の国津神社(九日神社)には、素盞鳴尊の剣を物実としてうまれた奥津島比売、市杵島比売、多岐津比売の三女神を祭祠しています。
この箸中と芝で、神の山三輪山を水源とする纏向川をはさみ、二神の誓約によって成り出た神をそれぞれ祭神としていることに、古代神話伝承の原景を見る思いがします。
また、天照大神の祭祀に奉じた豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓所が国津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっています。(ホケノ山古墳は国津神社から徒歩で往復4分) 九日社には、リンガ(陽石)とヨナ(陰石)の磐座(文献2)が東西に並んで鎮座している。奈良県の飛鳥坐神社には、これに似た夥しい数の陰陽石がある。
九日社は、北に箸墓古墳、東に三輪山、西に二上山を眺めることができる特別な地(注)であるため、この神社の古代史における重要性が指摘されている。

 三輪山・箸墓・二上山は、「太陽の道」を構成することで知られている。「太陽の道」(文献22)は、小川光三氏が発見した伊勢の斎宮から淡路島の伊勢の森に至る北緯34度32分の東西の祭祀線で、その線上には点々と神奈備山や磐座が存在し、太陽神とも云われる天照大神に関係する神社が建ち並んでいる。このことから、その東西線は「太陽の道」と名付けられた。いわゆるレイライン(leyline)である。【東西線上の神社と神奈備山】 [東]伊勢(斎宮)→三輪山→檜原神社→国津神社→箸墓(倭迹迹日百襲姫命の墓) →二上山→大鳥神社→淡路島(伊勢の森) [西]

【山辺の道考】
 「関西一人歩き第九稿」を転載する。
シルクロード東の終点とも言われている山辺の道。大和盆地東部の山裾を天理石上神宮から桜井市の大神神社に至るおよそ七`の万葉の道である。関西ではこの道を知らない人はいない程よく知られたハイキングコースで、近鉄電車の主な駅にはコース案内図が必ず置いてある。石上神宮から南に下って三輪山の麓、桜井市金屋付近で西に折れ、竹内街道につながり難波津へと続くまさに大和時代の大動脈であった。そしてその先は博多朝鮮中国へと続く。

さて、スタートは近鉄天理駅。この町はご存知天理教の本部がある町で天理教が先か天理市が先かは分かりませんが、宗教名が市の名前になっているのも珍しいのではないでしょうか。駅前の商店街は天理教○○支部の法被?姿で溢れ、店先に並ぶ商品も天理教関連のものがやたらに多い。それもそのはず、商店街を抜けると天理教の一大聖地天理教本部の大伽藍が聳える。そして、それを取り巻くようにホテルのように立派な各支部の宿舎がまるで、本部を外敵からでも守るかのように幾重にも取り囲んで建っている。初めて訪れる人にとってはなんとも異様な光景であろう。今日も各地から奉仕団のような人たちが来ていて、広い境内のあちこちで清掃奉仕をしている。

 広い教区内を東へ東へと進み教区を抜けると桜並木の国道に出る。それを右に折れるとすぐに石上神宮だ。「いそのかみ」神宮と読む。
鬱蒼とした緑の中に錦絵をまぶしたような見事な紅葉に出迎えられ、華やぎと共に、否応無しに厳粛な気持ちにさせるような空間がそこにある。「布留」というのが、このあたりの古い地名で、「ふる」は神にかかる枕詞で、ちはやふるの「ふる」がそれである。古代人にとっては神霊が宿るかのような景色であったのであろう。この森の杉は「布留の神杉」とも呼ばれていた。森は現在も神域として一般の立ち入りが禁止されその厳粛さを保っている。石上神宮は古代大和崇神王朝の武器庫であったといわれている。

 崇神帝は歴史上存在する最初の天皇であるが系譜上は第十代である。それ以前は神話の世界の天皇で、大和王朝はその正当性を主張するために王朝としての歴史の深みが必要だったのであろう。既に畿内を平定し、地方にも勢力を伸ばし隆盛を極めつつあった崇神帝は、各地の豪族から兵器を差し出させ布留の森に納めた。いつしか朝鮮の百済王から七枝刀(国宝で現存する)までが送られてきた。古くは拝殿の奥に「高庭」が在って、その地中深くに磐座や神剣宝珠が埋められ本殿とされ「禁足地」とされてきた。自らの神格と、国中の戦争道具をここに集めて、物部氏の軍隊に守らせて平和を守ったのであろう。

石上神宮を参拝して南へ向かう。のどかな田園風景が続くが、ここから見える大和盆地は開発の手が隅々まで侵入して、もはや古代王朝を想像できるような風景ではなくなっているのは、仕方が無いと言えばそうなのだが、やはり残念な気がする。

この道沿いには多くの古墳が点在しているが、その中でも崇神天皇陵はひときわ壮大な前方後円墳で他を圧している。手入れも行き届き御陵を取り巻く見事な松が印象的だ。さらに南へ下り景行天皇陵を越えるあたりからは秀麗な三輪山が目に入ってくる。

標高四六七bの霊気の籠る山の麓に大神神社がある。明治以前は三輪明神として有名なこの神社は日本最古という言葉でもなお足りないほどの歴史的古さを有している。日本では古来秀麗で霊気を感じる独立峰を神南備山とし、山そのものをご神体として祀って来た。三輪山はその古さにおいては伊勢神宮もはるかに及ばない。古代信仰世界では横綱級の位置づけにある。明治になって神仏分離の令によって当時の神主が名をつけたものと思いますが大神と書いて(おおみわ)と読ませるには如何にも無理がある。

 大和王朝以前この地を支配していたのが出雲族といわれている。出雲と云えば現在では島根県の出雲であるが、古代においては出雲族の活躍の中心地は大和であったようだ。この出雲族が三輪山を神南備山として祀ってきた。この出雲族のミワ王朝を滅ぼした崇神帝も政権を維持するに当たって三輪山信仰を無視できなかった。すでに大和の地を追われていた三輪王朝の血統を持つ大田田根子命を現在の大阪の地で見つけ、三輪山に連れてきて祭主にした。

 三輪山は禁足の山であるが、現在は申し出をすれば、決まったルートと時間の制約はあるが登ることはできる。ただし写真撮影は一切禁止である。所々に磐座が祀って有る。まさに神のまします山である。三輪の大神様は「お酒の神様」としても古くから信仰され、現在は十一月に新酒醸造安全祈願祭が行われる。四人の巫女が三輪山の神杉を手に「うま酒みわの舞」を奏でる。杉の針葉には殺菌力があり、古くは醸造蔵の清めに使っていたという話を聞いたこともある。

大神神社を少し下ると、金屋地区に海柘榴市跡道標がある。海柘榴市(つばいち)とは古代の市の名だが「海柘榴市の八十の巷」等と言われるから余程賑わった市であったのでしょう。この金屋地区からは街道は西へ竹内街道、東へ初瀬街道、北へ山辺の道と続き、まさに幹線道路の交差する場所で交通の要衝であった。

市が立つのは当然の条件が整っていたと言える。ただ、今は小さな道標を残すのみで古代の喧騒を思わせるものは何もない。

さて、前回の葛城の道、そして今回の山辺の道と古代大和王朝とそれ以前に大和を支配していた出雲族のミワ族と鴨族の攻防に思いを馳せながら大和盆地の東西の山麓を歩いた。奈良には有名な名所旧跡は山のように有るが、その歴史的存在や意義は知っているようで殆ど知らないことが多い。関西各地を歩き回るにあたっては、あらかじめ、歴史を少しかじってから訪れると、その奥行きも深まって大変興味深いものになる。

平成十六年十二月吉日鵬翔山岳会九州支部第五十九期 平沼 徹也

【物部氏考】
 「物部氏の土地を歩く 縦断禁断の地交野〜 桜井、巻向」を転載する。
 物部氏の現在における謎は、なんといっても彼らの本願地が大和〜北河内の山間地に追いやられていることである。三輪山の山麓・巻向から唐古・鍵、あるいは二上山。葛城山まで彼らの古い言い伝えや記録が残っているにもかかわらず、今、この古代豪族の痕跡は三輪山から北の山間部にしか残っていない。物部氏は本来、彼らの部下であった縄文系海人族たちのいた山の中へと追い上げられているのである。物部氏の「追いやられたコース」を逆に辿ってみる。

 まず大阪府枚方市から始めよう。枚方はもともと「白肩」と書く。新羅のほう・・とでもなんとでも解釈は自由でいい。現在の枚方市〜樟葉まで含めて昔は交野である。その証拠に交野天神社は枚方市楠葉にある。ここには継体天皇樟葉の宮が比定地として同居する。いわゆる物部氏の中では新しい資料に現れる肩野物部氏が住む土地である。枚方市東部、宮之阪から私市・・きさいち・・までは旧・「点野」「禁野」である。交野という文字には×の字が入っているが、これはもともと禁野から転じたと考えている。天皇の狩猟場として肩野物部氏が献上した記録がある。「禁断の地」・・・それが禁野・・・交野ではなかろうか。私市は私市部として記録された人々のいたところ。ここから先は磐船街道が南へ走る。河内磐船駅から歩いて天田神社へ。街道の起点である。天野川に沿ってさかのぼる。太陽神・ニギハヤヒに会うためには、歩かねばならない。遙拝ルートを。磐船神社は物部氏の祖神・ニギハヤヒ命が天の磐船に乗り、そらみつ大和の国を天空から眺めながら降り立ったという、「もうひとつの天孫降臨」の場所、咆哮峰である。神河・天野川は天上の天の川に模して名付けられたのか?関西最大の大河・淀川から別れる支流で、その分岐点にあるのが白肩の津である。枚方から北はもう山城の国、綴喜郡である。大筒木真若王で知られる。「つつき」が今の「つづき」郡と転じて、現在そこは八幡市となっているが、ここに京の南の鬼門とも言うべき三川合流の地がある。男山、石清水八幡宮である。秦氏が祭るこの神宮によって物部氏の侵入はここで止められた格好になる。物部氏はまずここで北の門を閉められたと言っていい。ゆえに「しめの」かとも思える。現在、三川合流はこの目ではっきりと見ることができるが、中世以前はここに巨大な湿地帯が存在した。宇治、木津にまで広がる巨椋池である。今でも八幡は低地で有名な流れ橋などさかんに決壊をする川が多い。巨椋池は平安京にとって南の朱雀にあたる。干拓されてしまうと、とたんに首都は江戸に移ってしまった。

 さて元に戻って、磐船神社である。天野川を上り詰めたところに巨石が山のように落ちている。その岩の隙間を縫うように胎内巡りができるようになっている。社務所で、異様に顔の白い宮司さんからこれまた白い遍路着をもらい挑戦する。途中暗がりや、ほこらが点在し、薄気味悪い暗渠には小さな社が置かれ、卵が奉納されている。そう、ここの神は蛇なのである。蛇とは三輪山の大物主のことに他ならない。従って、ここの主祭神ニギハヤヒとは大物主の顕現した実体だったと考えてよかろう。ニギハヤヒ=大和大物主 物部氏を解くための補助線その1がこれだ。

 さて次に参るのは機物神社である。ここは牽牛・織女を祭る。画像データが壊れたためこのページは画像が少ない。申し訳ないが興味ある方はご自分で行かれよ。天の川があるなら、彦星・織り姫がいて当たり前?などと思われるな、これは物部氏にとっての天照大神といっていい存在。道教で言えば二人は伏儀と女禍である。天の星となるのはおそらく物部の眷属であった、水先案内人・海の民の星信仰と混交してのことだろう。海人の星信仰は航海の指標としての星座崇拝であるから、どこかで必ず大陸の道教とはつながってしまう。太一、北斗、参・・オリオンなどの宿星信仰は海に関わる一族なら持っていて当然だろう。大和の氏族がそれをどう扱ったかは、高松塚など見れば一目瞭然である。彼らには彼らの星信仰があり、それは底辺にいる海人族とよく似すぎていた。権威ある者にとってはそれは大変迷惑な話であったろう。当然のような信仰の取り上げと追い立てが始まる。歴史とは迫害の繰り返しと言っていい。

 星田の町に戻り、星田妙見宮へあがる。ここも山頂に巨石があるが、妙見信仰そのものは江戸時代あたりの新しい信仰形態である。だがもともとここに星への信仰が残っていたために後になってもブームはスムーズに入り込んだとも思える。巨石は北の北極星や、それとセットになる北斗七星からのスターライン上にある。同時に日の出も拝んだのかも知れない。

 ニギハヤヒの道の先には大和がある。途次に登美の長髄彦のいた鳥見がある。そこから生駒山地が始まる。生駒を西に下れば日の出の遙拝地・孔舎衛である。そこにはやはりニギハヤヒを祭る石切剱矢神社がある。いわゆるデンボ・・関西弁でおできのこと・・の神様で民間の信仰を集める薬師、祇園、厄除けの神であり、そこにはすでに出雲大国主や少名彦名のイメージが混交されている。

 長髄彦は神武天皇に対して、奉公するニギハヤヒが天から持ってきた天の羽羽矢を見せる。それは天孫の証の品である。神武は困ったことだろう。自分と同じ証を見せられては同族となって殺戮に大儀がなくなってしまうからだ。「天孫にもいろいろあるのだ」などと苦しい言い逃れをするが、実のところよく考えれば、最初からニギハヤヒが大和に先行していることは東征の最初の動機としてちゃんと書紀にかかれているのだ。知っていて侵入すること、それを現在は家宅侵入罪という。もともと神武に大儀などなかったといっていい。それは単なる侵略戦争に他なるまい。

 結局、神武は長髄彦だけを殺害する。それも自分の手ではなく、直属上司であったニギハヤヒが誅殺したことになっている。つまり神武は長髄彦も物部一族もどちらにも手をくださなかったとういことだ。なのになぜ彼は天皇になれたのか?当然、為政者物部氏を懐柔し、自らがその管理者となったのである。とは言っても武力、技術力すべてで在地の物部に地の利があったはずだ。九州から遠路やってきた田舎氏族に余力のあろうはずもない。ゆえにつじつまあわせにヤタカラス(葛城鴨一族)や高倉下(物部亜流の天香語山命一族)が協力したという話を作り出すことになる。物部氏本流をよく思わぬ在地勢力も確かにあったかも知れない、しかし彼らに神武に協力するいわれはない。実際には金や後の役職取り立てなどでおだててあげて懐柔したのだろう。

 あわれなのはひとり殉死させられ、あげく出雲に流された長髄彦の御霊である。祟る可能性のある神霊の監視には葛城鴨氏が随行したのだろう。彼らがやがて出雲千家になるのか、あるいは後からまた管理者がやってきて出雲国造家となったのか定かでない。

 いずれにせよ故なくも死んだ海人族長髄彦の霊は、当時の感覚では、必ず祓いやる必要があっただろう。そしてそれは深い祟りなきよう、同族、あるいは上司の手で行われたであろう。それが祓いと清めのルールである。どっちに転んでも結局、長髄彦の神霊は管理者・物部氏の祖霊・・・すなわち、この時やはり殺されたはずのニギハヤヒ=大物主によって慰霊されなければ収まらなかった。

 それで、大物主はある時急に、出雲に現れることとなる。10代崇神天皇の時代である。「私はおまえの幸魂、和魂である・・・」。彼は大国主にそう言い、「みもろの山にも私の神霊を祭れ」と申しつける。こうして管理者物部氏の手で長髄彦=大国主の霊は出身地出雲に鎮められる。出雲大社はこれより、天皇家が滅ぼした異形の人種達の霊が集まる場所となる。普段は在地で在地の同族に祭られている神々は死の季節である冬が始まる10月に出雲に召還されるのである。

 古代、収穫が終わった時からが冬の始まりであった。春は田植えとともに始まり、梅雨の長雨が夏。そして収穫前のたわわに稲が実る前が秋なのである。つまり一年は今の半年しかなく、あとの半年は寝て暮らさねばならない夜の季節。いわゆる闇の季節なのである。

 国譲りで出雲の御子神たちは天皇家に散会させられている。三人の神・・・八重事代主(異形の海人族)、あじすきたかひこね(高鴨大神、葛城鴨氏、別名高御神)、たけみなかた(九州白水郎族の宗像一族と臣下であるポリネシア系縄文海人族安曇一族)はそれぞれ追いやられた。八重事代主はえびすとなり異形の山の神・海の神としてあじすきたかひこねの葛城に祭られた。鴨氏はこの神霊を祭るため葛城に戻った。たけみなかたは奥地へと追いやられ、父大国主の母方、諏訪へ逃げ込んだ。おそらく姫川という翡翠のルートから中部地方に入り、岐阜、飛騨、諏訪、伊那、新潟、などへおかあがりしていったのだろう。安曇野はこの名残の地名か。

 九州で「すがる」という蜂のことを長野でも「すがれ」という。石見地方の子供の遊びには「かもがきた」という戦争ごっこがある。「かも」とは「鴨氏」あじすきたかひこねのことだろう。この神は漂白の民の間で紙漉の神、祖人として慕われていた。石見のこの遊びは実は被差別民がいた頃の子供らしい、無意識の無慈悲を感じさせる。追われたナガスネヒコ一族に対し、鴨氏はおそらく優しくしてあげたのかも知れない。あるいは彼らも葛城あたりの縄文系海人の血を引いていたのかも知れない。それはおそらく国巣と呼ばれる土俗の巫師集団だったのかも知れない。

 「日本神話に見る日本文化考」を転載する。


 出雲神話と高天原神話を繋ぐスサノオ

 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:なぜスサノオ神話が作られたのか?

 『出雲国風土記』に登場するスサノオ命(須佐之男命・素盞鳴命・素戔鳴尊)は、おおらかな農耕的神でした。しかし、『記・紀』神話に登場するスサノオ命は巨魔的な巨大な神として登場します。この落差は一体何を意味するのでしょうか? しかも、『記・紀』神話のスサノオ命は、高天原・葦原中国(出雲)・根の国(根之堅州国)と三界に登場する特殊な神として登場るのです。スサノオ命は、『記・紀』神話の中で、この三界を繋ぎ、その中でも、出雲の神々を高天原の神々の下に位置付ける(天津神と国津神を分け、日本を天津神の支配とする)という大きな役割が科せられているようにも思えます。それは、『記・紀』神話の中の「出雲系神話」と『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』の「出雲神話」の説話の内容の違いからも窺うことが出来ます。

 『記・紀』神話の中の「出雲系神話」は、大和朝廷が本格的に中央集権化を推し進めるにあたり、新たに作られた『記・紀』神話の中の「高天原系神話」と政治的に結び付ける意図のもと、『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』の「出雲神話」を作り替えたと考えられます(推測できます)。その際、二つの神話を繋げる(結び付ける)大きな役割として、三界にまたがる重要な神の存在が必要とされたに違いありません。その二つの神話を結び付ける神こそ、スサノオ命(天津罪を犯し高天原を追われたとする神)でありスサノオ神話(地上に降り国津神の祖神となったとする神話)であったと考えられるのです。この「出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話」というテーマで、以下のことについて少し考えてみたいと思います。

 @大和の大物主神(大物主命)と大和朝廷(:当初は大和朝廷も最高神として祀る)、A皇祖神・天照大神(天照大御神)と大和朝廷(:中央集権化の進展にあわせ氏神?から国家神へ)、B疎かに出来なかった出雲系の神々(:大和朝廷成立以前から古い政治的・文化的中心があった)、C死と再生の信仰・習俗を色濃く残す出雲(:死と再生の説話の多さと出雲系信仰)、D死者の国(冥府・他界)と妣の国(黄泉国・根の国)・出雲(:大和朝廷にとって負のイメージ・大和に対する反対概念と捉えられていた)、E死と再生を超越した至高の世界・高天原(:首長霊信仰にもとづき死のない特殊な世界観をもつ特権的世界)、F死者の国とは常世国・出雲(:本来は永遠に命が続く世界、海の彼方にある神々の世界であった)、G二つのスサノオと二つの神話(おおらかな農耕的神と巨魔的神を繋げる『記・紀』神話の意味することとは)など、一つ一つ考察してみようと思います。

 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(1)

 縄文時代、大和の地では、人々は森林や海川の近くに住み、農耕を知りながらも、狩猟採集を主たる生活手段としていました(縄文文化)。縄文の人々は自分たちの生活を豊かにしたり、また災いをもたらしたりするもの(精霊、霊魂、霊鬼、霊威)を、すべからくカミと見なし、そのカミは恵みと恐れの神(森羅万象、自然には創造と破壊、荒ぶる力と和らぐ力を繰り返します。その自然の摂理の圧倒的な姿の背後に人智を越えた大いなるもの、聖なるものの存在を感じ取るのです)としていたようです(精霊崇拝・精霊信仰)(※注1)。原初の三輪山の神もこのようなカミであったと考えられます。大和の御諸である三輪山は、御諸(みもろ)とは御室(みむろ)ともいわれ、神奈備山(かんなびやま、神山)のことです。正体を蛇神とされる大物主(三輪山の神を、恐ろしき「モノ」=大物主と名付けたのは、大和朝廷の側であり、それは、決して本来的な名ではなかったと考えられます)が棲むというこの山麓は、実は太古からの太陽信仰(朝日信仰)の地でもあったのです。

 (※注1)万物にカミなるものが存在するという思想は「アニミズム」と呼ばれていて、世界中のあらゆる民族の文化の古層に確認されています(マナイズム、自然崇拝、死霊崇拝などの原始的な宗教観念も、縄文人の信仰には祖霊信仰の要素があるとも)。確かにアニミズムは近代合理主義とは相容れないものがありますが、現代科学でも解明できない自然界の神秘や、大地震などの災害、眠る時に見る夢や熱狂してトランス状態に陥る人間の心理のなかに見ることができます。特に、アジアそして日本では近代文明が発達し、合理化が進んでも、習俗や祭りなどの中にアニミズム的な意識が濃厚に残っています。縄文時代は土偶・ストーンサークル・ムラ集団の形などの研究により、アニミズム的な世界(精霊崇拝的な世界)に人々が生きていた時代であるとされていますが、縄文時代が過ぎ時代が変わっても、人間の無意識的な古層の中にはその時代の魂(アニミズム的な世界=精霊崇拝的な世界)が今も生き続けているようです。

 『古事記』に記されているオホゲツヒメのような説話や大祓のような儀礼のなかに、縄文文化の土偶や土器などに見られる宗教的・精神的活動を読み取る学者がいます。土偶は最も一般的な説として、妊婦を表し女性の産む力を大地に感染させて、作物や獲物の豊穣を祈る呪具であったと考えられています(死んだ妊婦の霊を慰撫するとする説もありますが)。また、ほとんどの土偶が壊れた状態で出土することから、土偶を身代わりに破壊することにより災いや疫病を祓ったのではないかと考えられ、人形(形代)に穢れを移して水に流す神道の祓えに極めて近い儀礼の起源を読み取ることができそうです(ただ、神道の人形の祓えに発展したかは議論があり、中国から渡ってきた習俗ともされています)。


 また、土偶が大地の恵みを司る女神(大地母神)を表現しているとする説もあります。土偶の破壊の跡から、殺されることによって人に穀物をもたらしたオホゲツヒメのような女神の説話を思い出すことができます(※注1)。『古事記』に登場するオホゲツヒメ(大気都比売神)は、スサノオ命(須佐之男命・素盞鳴命)をもてなすために口や尻から食べ物を出しましたが、汚物を食べさせようしたと誤解され、スサノオ命に殺されてしまいます。そして、その死体から蚕や稲・栗・小豆・麦・豆が出てきたのだとしています。『日本書紀』ではウケモチ(保食神)で、ツクヨミ命(月夜見尊)に斬殺されたとしています(※注2)。すると、こうしたオホゲツヒメなどの説話は縄文時代の宗教的儀式の名残りなのでしょうか。しかし、大地母神的土偶信仰も形代的土偶信仰も弥生時代には継承されず(伏流水のように継承され)、なぜか『記・紀』神話に突然復活したかのように登場します(さなざまな意見があります)。


 (※注1)縄文時代の初期から女性像の土偶が作られており、大地母神の崇拝があったと考えられます。しかし、それが縄文時代中期になると、作った土偶を破片にし、方々の場所に分けて処理していたようです。当時の人々にとって栽培という行為は、大地である女神の体を害することにより、その死体の破片から毎年、作物が生え出してくるということを意味していました。弥生時代になると、稲を始めとする五穀が最も大切な作物になり、神話も五穀の始まりを説明するものへと変っていきました。それが、『記・紀』に記されているオホゲツヒメやウケモチの説話になったと考えられます。この部分は縄文時代の神話を受け継いでおり、女神の体から生み出された作物は、神話が編纂された当時の農業を反映して、五穀の起源を説明しているようです。


 (※注2)ツクヨミ命は、『日本書紀』によると、男の月神で乱暴な神とされます。食物の神・ウケモチ(保食神)を殺し、姉神のアマテラス(天照大神)から「悪しき神なり」と罵られ、それ以来日月は昼と夜で別々に住むようになったと語られています。そのウケモチから粟・稗・稲・麦・大豆・牛・馬・蚕などができたので、アマテラスはこれらで農耕を始め、養蚕を始めさせたといいます。このようなタイプの説話は、ハイヌウェレ型説話に属し、南方に多く


 ◇  出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(3)

 縄文土器(蛇体装飾の土器)には、縄文人の世界観(死生観・宇宙観)が表れていそうです。(蛇はシャーマニズムとも深く関係し、シャーマンは自分の霊力を示すために、蛇を手なずけていたようです)。それは、蛇に象徴される死と再生の円環的世界観(森の思想・命の共生と循環)です。これは森とともに生き、森の永劫の死と再生の循環の中に身を委ねていた縄文人にとって自然な感覚であったと思われます。蛇は死と再生(復活・循環)を繰り返す大地の霊そのものであると考えられていたようです(森が破壊されていくとともに、蛇を神とする世界観は失われ、蛇を邪悪のシンボルとみなされていきます)(※注1)。

 縄文後期以降になると、縄文土器は、突如として消滅してします(おどろおどろしいまでの情念の造形=荒ぶる藝術から、静謐さと単調さの造形=寡黙な職人の工芸へと変化)。しかし、なぜか神話・説話・民話のなかに再び甦るのです。その例として、『常陸国風土記』に出てくる蛇神・ヤト(夜刀神)、諏訪地方に伝承されていた蛇神・ミシャグジ、出雲系神話のヤマタノオロチ(八俣大蛇)、それと大和・三輪山のオオモノヌシ(大物主神)です。夜刀神や八俣大蛇は蛇神であり、自然の猛威を神格化した自然神とされ、ともに英雄によって退治される悪神とされています。これは、猛威をふるう縄文の神を弥生人が退治したという説話とも考えることができそうです。(※注2)。

 (※注1)古代人にとって蛇は、旺盛な生命力・繁殖・豊穰のシンボルとして考えられていたようです。蛇は古い皮を脱ぎ捨てて脱皮を行う生き物であることから、新しい身体を得て生まれ変わる様子に、古代人は再生・治療・永遠の命を見ていたと考えられます。蛇信仰にまつわる伝承は多く、夜刀神伝承、ミシャグジ伝承、八俣大蛇伝承、箸墓伝承などがあり、蛇の古語「カカ」から類推すると、鏡(蛇の丸い目)、案山子(蛇をデフォルメ)などは蛇を見立てたものと考えられ、正月の「鏡餅」は蛇がトグロを巻いた形とされ、関西に多い丸餅は蛇の卵の造形であるとも云われています。ふと身の回りを見渡すと、現在の日本の習俗や行事に蛇の象徴(カミの具象としての蛇)に溢れていることに気付きます。時代が下り文明化されていく中で、蛇信仰は表面から姿を消していきますが(やがて稲作文化の拡大とともに、蛇信仰は水の神や農耕神の信仰へと変質していきます)、蛇信仰そのものは隠された形で脈々と今日まで受け継がれきたのです(今日に至るまで、隠れた地下水のように脈々と流れ続けて、日本の文化や日本人の精神構造に深く根を下ろしてきたのです)。

 (※注2)日本には太古から蛇信仰があったことは知られています(縄文人が蛇に寄せた強烈な思いの源は、生命の根源・強さに対する憧れや希求、生命力と再生力への崇拝、死と再生の循環のシンボル、水と母なる大地への信仰など、それらすべてが凝集して神与のものと考えられ、その象徴が蛇として捉えられたようです。)。縄文土器の縁や把手に無数の蛇が描かれていますし、そもそも縄文の「縄(なわ)」そのものが蛇の表現ではないかとされています(注連縄なども)。全国には山そのものを御神体とした神社も多く、それらを「神奈備山(かんなびやま、神山)」とか「御諸(みもろ)・御室(みむろ)」と呼びます。その代表例が大和の三輪山で、この三輪という名前そのものが蛇がトグロを巻いている姿(円錐形の姿)を表しているとされています。また三輪山の神・オオモノヌシ(大物主神)は古来より蛇神で、水神・雷神であるとされています。

 

 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(4)

 三輪山を御神体(山そのものが御神体=神奈備山)とする大神神社(おおみわじんじゃ)は奈良県の桜井市にあります。三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山(倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し 美し)の中でもひときわ形の整った円錐形の山(高さが四百六十七メートル、周囲十六キロメートル、南は初瀬川、北は巻向川の二つの川によって区切られ、その面積はおよそ三百五十ヘクタール)で、古来より神の鎮まる山として御諸山(みもろやま)、美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と称され崇拝されてきました(山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧を入れることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われています=千古不伐。いまでも禁足地として神社の許可がないと登れないそうです)。そうしたことから、大神神社に本殿はなく、拝殿裏の三ツ鳥居を通して直接に三輪山を拝する形になっているのです(※注1)。境内は蛇との縁が深く、参拝に行くと拝殿下の手水所で、まず蛇に迎えられます。蛇の口から出る水で清めをして拝殿に向かうと、右手に「巳の神杉」という大杉があります。ここには蛇(巳=みいさん)が祭られていて、いつも蛇の好物であると言われる卵と酒が供えられています。このように古来から、三輪山は根強く蛇信仰が残る山でした(※注2)。

 (※注1)三輪山は山全体を神体山として古代信仰をそのまま今日まで伝えており、古代祭祀信仰の形態を知る上で重要な史跡です。神社は拝殿のみがあって本殿はなく、三輪山の山中には三カ所の磐座があります。中でも辺津磐座がその中心で、三ツ鳥居からこの辺津磐座までが古来から禁足地とされ、三輪山祭祀の中心の場所でした。この禁足地からは須恵器や子持勾玉のほか、おびただしい量の臼玉が出土しています。また大正七年(一九一八年)に発見された山ノ神遺跡は祭祀用の土製模造品のほか、無数の石製品・須恵器・勾玉・臼玉・管玉・小形銅鏡などが出土しています。これらの遺跡は弥生時代に始まり、奈良時代に至る三輪山麓における古代祭祀の実態を示す貴重な遺跡とされています。また神域内は、三輪山を中心に、天然記念物として価値のあるものや、重要文化財としての拝殿はじめ、名勝・遺跡・建造物を含む神社境内地としての史跡です。
(※注2)原始信仰においては、蛇は水の神・山の神の顕現として崇拝されていました。また、蛇はその特異な姿形、脱皮という不思議な生態、強靭な生命力、その恐るべき毒などによって、古来、人々を畏怖させてきたばかりか、強烈な信仰の対象ともなってきました(蛇はその形から男性性を、脱皮するその生態からは出産=女性性が連想され、古代日本人は蛇を男女の祖先神として崇拝したようです。神=蛇身<カミ>か?)。さらに、祖霊が住まう山(神奈備)を蛇がトグロを巻いた形として連想され(蛇の最も特徴的な姿がトグロを巻いた姿形です)、三角錐の山(円錐形の山)を拝むようになったと(信仰の対象となったと)考えられます(神奈備山信仰)。大和の三輪山がその代表的な(典型的な)例です。日本人にとってカミとは何か? その問いは、古代日本人の死生観・世界観、ひいては日本人そのものを問うことになりそうです。

 

 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(5)

 三輪山の山中には至る所に磐座があり、太古よりの多くの祭祀遺跡が出土しています(※注1)。縄文時代には死と再生の循環を司る神霊・蛇神(大地の神霊)が広く信仰されていたことでしょう。三輪山もそうした蛇神信仰の象徴としての神奈備山(蛇がトグロを巻いた姿形)であったのです(※注2)。また、そうした神が磐座に降る(宿る)とする信仰が起こり(磐座信仰)、その遣いの蛇神、雷神の信仰へと発展していきます。弥生時代になると、稲作の普及と共に水神(雷神・蛇神)、日神信仰(太陽・陽光信仰)も入り、最終的に大物主神へと人格化されていったようです。三輪の神は古代よりこの地方の祖神として崇敬が篤かったのです(高天原系部族の来住以前に大和に住む先住民族が崇拝していた国魂の宿りし山=三輪山であり、火や水、死と再生を司る山の精霊であり蛇体の主=大物主でした)(※注3)。


(※注1)原始信仰では神木が神籬(ひもろぎ)とされ、巨石が磐境・磐座となり、精霊が来臨し鎮座して神奈備山になりました(自然崇拝のナショナリズム)。磐座は神の降り立つ巨石の寄り代のことであり、神奈備山は神の住まう山のことです。このような信仰は、自然物を通じて感じられる「隠れ身の神性」への畏敬の念であったようです。具体的なモノの背後に感るインスピレーション、聖なるものの感覚です(モノ=精霊と古代の人々は考えていました)。大神神社には今でも本殿がありませんが、それは三輪山自体が御神体だからです。その後、剣や鏡、勾玉などを用いて豊穣を呪術する呪物崇拝のフェティシズム、巫術で精霊やカミと交流する術を身に付けた巫覡(ふげき)が行うシャーマニズム(原初的体験、脱魂=他界飛翔=エクスタシー、憑霊=神懸り=ポゼッション、忘我=恍惚=トランスを通して、超自然的な世界と人間界の交流を可能にする)などの信仰が混在し、弥生時代における稲作生産の発展のもとで祖霊信仰も生まれてきます。

 (※注2)太古より、山は人間の生活圏であるとともに神の領域でした。山に入るにはきびしい禁忌が科せられ、限られた時、限られた人以外は立ち入ることのできない神聖な場所でもあったのです(禁足地、神域)。ことに神の坐す神奈備と呼ばれる山は特別に崇められました。たとえば、三輪山や富士山のような円錐形をした山や、二上山や筑波山のように二つの峰をもつ山は、神の坐す山として信仰の対象となり、山そのものが神(神体山)であったのです。こうした考えは古くから人々に、常世国(他界・異界)から依り来る神が山を目印として寄りつく場所だと考えられていたものと考えられます。次第にそこに神が常住するのだと認識されるようになっていったようです。このことからも、神の坐す聖なる山(神奈備山・神山)とは、神の世界と人間の世界との境目として神と人とが交わる場所だということがいえそうです。

 (※注3)太古より山に超自然的存在を見出す、アニミズム的観念ともいうべき自然物信仰があったことは、日本だけでなく普遍的な精神観・宗教観でした。超自然的存在に畏れ多いとする観念のなかに、畏怖・畏敬の念を抱く原初的山岳信仰を窺うことができます。古代には、人は亡くなると肉体から霊魂が離れ、その霊魂は祖先として残された家族を見守るとされています。そのことから生存者は、自分達を守護してくれる祖先の霊を尊く崇敬します。ここに祖霊への信仰が成立するのです。この際、祖霊があの世に行く前に集まる場所は山とされたり、時には山自体があの世とされ、祖霊の宿る場所とみなされるケースが、全国各地に残されています。このことからも、山は畏れ多い場所と考えられ、祖霊信仰における信仰対象に位置付けられました。古代の信仰には、山は神の宿る場所、もしくは神そのものであるとする精神観がありました。こうした神奈備山信仰から、人は畏れ多いということで山には踏み入ることがありませんでした。そこで山麓や平野部から山を崇めようとする信仰形態が生まれたと考えられます。ここから禁足地という概念と、麓から神祭りを行なう山麓祭祀が発生するのです。  

 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(6)

 三輪山の大物主神の信仰は、三輪山周辺を支配していた火・水・死と再生を司る山の神の精霊であり(雷神・蛇神でもあります)、高天原系部族の来住以前に大和に住む先住族が崇拝していた国魂の神でした。また、ヤマトタケル命(倭建命)の説話では、伊吹山の荒ぶる神を退治しようと出かけたところ、その山の神は大蛇となって道を遮り、雲をおこし、雹を降らせたといいます。山の神は蛇体となるだけでなく、時には白猪や白鹿となって現れます。このように日本の山の神は、三輪山の大物主神や伊吹山の荒ぶる神のように、山の神→蛇、坂の神→鹿などと、神の使い(attribute)・神の具現としての山河の荒ぶる姿として登場してきます(世界の神話にも多く見られます)(※注1)。

 『記・紀』神話のなかには、大物主神の出現をどのように描写しているのでしょうか。オホナムチ命(大穴牟遅命・大穴持命・大己貴命)の国作り説話のなかで、海を照らして依り来る神(この時に海を光して依り来る神ありき『古事記』。時に神しき光、海を照らして、忽然に浮かび来る者あり『日本書紀』)と述べています。海を照らす神は、豊穣をもたらすマレビトであり、原初の太陽神・海神であったのです。古代の人々にとって自然がそのまま神(太陽・大地・山・火・水・樹木・岩石など自然のすべてに神が宿るとするアニミズム)であり、神がそのまま自然であったのです。人間はこの自然の懐に抱かれ、生きてきたのです(生かされてきたのです)(※注2)。

 (※注1)神話の世界は、アニミズム(精霊崇拝)や普遍的な自然信仰を底流にし、宇宙の成り立ちから歴史上の事実と思われることへの探求、自然の力や人間の死後と再生への探求へと広がりをみせます。そのイメージは、経験的、客観的、合理的にみれば意味のない抽象的なもの(神話的、非合理的な思考によるもの)に思えるかもしれませんが、神話学者のジョゼフ・キャンベルが述べているように、「詩的な、神秘的な、形而上的な」感覚をもってみれば、神話をイメージした古代人の死生観や世界観の精神構造(精神世界、民族の深層意識を語り継いだ物語)が浮かび上がってきます。古代の人々は、死と再生の円還的循環(生命の永遠、霊魂の再生と循環)を通して、自然を畏敬し(共生し)、自然(生命の再生と循環システム、生きとし生ける者はすべて大地から生まれ大地に還る、多様性の中の共存)の懐に抱かれ調和してきたのです。しかし、現代文明は神話的、非合理的な思考法から脱却すところから、学問研究の諸分野が形成され、近代的文明が形成されていきました。こうした科学技術の発展と文明の進歩(生命の最内奥の仕組みから宇宙空間の構造の研究と知識)は、人間の自然への畏敬の念を奪い(科学技術の発展は、自然を支配できると考えるようになった)、地球環境の汚染と破壊をもたらしています。現代人は、今一度、古代の人々が自然と宇宙の間に神秘で偉大な生命力を直感した壮大な想像力を思い起こさなければならないのかもしれません(古代の人々は、物質的なものよりも霊魂の方がより現実的と感じて、個人それぞれが魂の完成に力を注いでいたのかもしれません)。神話が伝えてくれる古代人の精神(感性)が、一元的文化(アメリカ文化を代表する今日的な世界状況)によって席捲される中、多様な文化(マルチ・カルチャリズム)の広がりをもたらし、多様性の中の共存の理念を築いてくれるかもしれません。
(※注2)自然=神は、人間の想像を超えた(人智を超えた)計り知れぬ力を持ち、人間に豊かな恵みを与え、ときには底知れぬ猛威を振るいます。それゆえ古代の人々は、自然の恵みに感謝をし、自然の猛威に畏怖し、ただその怒りを鎮める以外になく、その自然の偉大な力が神として崇拝されたのです。自然からするとどうしようもなく小さな存在(無力な存在)でしかない人間は、豊かな想像力(プリミティブな心性)を大いに働かせ、太陽・大地・山・火・水・樹木・岩石など自然のすべてに対して、生き生きとした自然観を心象風景としてとられたのです(原初的な自然観)。古代の征

 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(7)
 東アジアの照葉樹林帯(※注1)では、採集や狩猟など山や森での営みには必ず山の神の加護を祈っていたようです。例えば、焼畑の造成(森林を伐採・火入れ)に先立っても山の神に供物と祈りを捧げてきたようですし、村の男たちが総出で狩猟に出かけ、獲物の多寡で豊凶を占う儀礼的狩猟の慣行も広くみられました。また、死んだ人の魂が、山の頂上へ上っていくとする宗教的観念がありました。こうした文化は照葉樹林文化(※注2)と呼ばれています。この照葉樹林文化の特色を生み出した生活文化の基層には、山と森への深い信仰があったことを窺い知ることができます(※注3)

 (※注1)太古の昔、照葉樹林帯は中央アジアのヒマラヤ山脈麓を起点として中国・雲南省、長江以南、台湾を経て南西諸島、日本の南半分に至るまで、帯状に分布していました。照葉樹林(年間を通して常緑に輝く葉を持つカシ、クス、シイ、クスノキ、タブ、ソテツ、ツバキ類等の常緑広葉樹林)は、温暖で雨に富む湿潤地帯にのみ発生し、森林の蘇生力が非常に強く、いくら樹を切っても自然の状態に戻せば砂漠化せず、やがて常緑の森林に戻ります。昼なお暗い神秘の森の辺に住んだ人々が、心象風景として森の生命の息吹きのなかに、神々の世界を見い出したのです(神の宿る恐ろしい森とは、鬱蒼と樹木の茂る暗闇の照葉樹林の原生林でした。そうした森は、自然本来の生命力を持ち、人間にとっては恐ろしく凶暴なものでしたが、神秘的な生命力の宿る神々の坐す森や山であったのです)。
(※注2)照葉樹林文化には、各民族に共通する多くの文化的要素があります。イモ・雑穀・茶の栽培、綿花・柑橘類の栽培、養蚕、漆器の製造、麹を用いた酒・味噌の醸造、豆腐・納豆・餅・な熟れ鮓の製造など多岐にわたります。またその後、焼き畑農耕や大豆発酵食品のみならず、神話や儀礼・習俗(ハレの日に餅を食べる習慣や歌垣などの生活文化、麹酒は山の神への祈りに欠かせない供物でした)など、精神文化の共通性も知られるようになり、いまや日本の深層文化を形成するものと考えられています。さらに照葉樹林文化の基盤はイモ・雑穀類を主とする焼き畑農耕であるところから、稲作文化誕生の母胎となった文化であるとする考えもあります。
(※注3)照葉樹林文化の特徴を一言でいえば「循環と共生」ということになります。この文化の地帯では、狩猟採集と小規模な栽培を生活の基本としていたため、森や水がもたらす恵みとその再生力に見合った程度の生産活動しかしてこなかったと考えられます。そして森や水辺の動植物や滝、樹木、岩石等に八百万神の存在を認め、獲り過ぎや行き過ぎた開発は祟りを被る行為として厳しく戒めていたようです。このような多神教的な信仰形態は地域社会に異文化・異端を受容する風土(寛容さ)を生み、多様な価値観の中で共に調和して生きていこうとする精神が育まれていたと考えられます(共生の精神)。
※参考HP

 

 ◇出雲系神話と高天原系神話を繋ぐスサノオ神話:大和の大物主神と大和朝廷(8)
 日本列島は、面積に比べて南北に広いため、和辻哲郎がいうようにモンスーン的風土(和辻哲郎は、その古典的名著『風土―人間学的考察』の中で、アジアのモンスーン的風土、アラビア半島を中心にした砂漠的風土、そしてヨーロッパの牧場的風土という三つの類型を設定しました)としてひと括りに捉えることには、多少問題がありそうです。太古の日本列島は樹相の分布をみても、照葉樹林(カシ、クス、シイ、タブ、ツバキ類など)は日本列島の西半分を中心に分布し、東日本の大半は温帯落葉広葉樹林(ナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなど)に覆われていました。そのため、日本文化の源流を「照葉樹林文化」(※注1)だけで捉えるには無理がありそうです。

 日本の中央高地から東北・北海道南部にかけて広がるナラ・ブナ林帯には、縄文時代以来、独自の農耕文化・生活文化が営まれてきました。ナラ林文化(ブナ林文化)(※注2)の特徴は、照葉樹林帯よりも食料資源が豊富なことです(クリ・クルミ・トチ・ドングリ・ウバユリなどの採集)。日光照射もあり植物種も豊富なため、狩猟対象となる動物(トナカイ、熊、鹿、海獣など)や漁撈の対象となる魚介(サケ・マスなど)も多くいました。これらの狩猟・漁猟・採集文化により、縄文文化はナラ林文化の下で発展しいきました。東北日本には、照葉樹林文化と融合し稲作文化を発展させた大和政権(稲作を基盤として成立した大和朝廷)が東漸するまで、まったく異なる文化が花開いていたのです(※注3)。


 (※注1)日本の北半分はナラ、ブナ、クリ、カエデ、シナノキなどの温帯落葉広葉樹林に覆われていました。南方に連なる照葉樹林文化に比して、朝鮮半島から東アジア一体に連なる温帯落葉広葉樹林帯の文化を「ナラ林文化」(ナラ林文化の下で独自の自然崇拝信仰を生みました)と呼ばれます。日本の縄文文化は、主にナラ林文化(ブナ林文化)の下で、東北日本を中心に発展しました(日本の南半分とは食体系が違い、日本の北半分では採集・狩猟・畑作資源が豊富なため、すぐには生活スタイルを壊してまで稲作を始める必要がなかったのかもしれません)。このように、日本の文化の源流(基層)には、東西二分する別々の文化圏があったとされています(方言・味覚など)。

 (※注2)三内丸山遺跡をはじめとする最近の発掘調査は縄文文化と縄文人のイメージを大きく変えました。集落の中央には直径一メートルの太い柱を使った大型建物を作り、そしてヒスイや漆を加工していました。クリを栽培し、周辺の森も人間が利用しやすいように管理していました。遠方から黒曜石や、琥珀などが運ばれ、交流・交易も活発であったと考えられます。定住生活が、本格的に営まれていたのです。

 (※注3)東日本(ナラ林文化では、木の実<栗やくるみなどの堅花を加工して>は、そのまま食べられるので、冬の保存食として最適だったようです。)に比べて、西日本(温暖な照葉樹林文化では、木の実はアクが強く、そのままでは食べられなかったようです)は食糧に乏しかったのか、日本の縄文文化は、主にナラ林文化の下で、東北日本を中心に発展しました(日本の南半分とは食体系が違い、日本の北半分では採集・狩猟・畑作資源が豊富なため、すぐには生活スタイルを壊してまで稲作を始める必要がなかったのかもしれません)。
 

 『古事記』、神話のコスモロジー

 (一)※『古事記』、神話のコスモロジー
 『古事記』の冒頭は、「天地初めて発れし時に、高天原に成りし神の名は、天之御中主神。次に、高御産巣日神。次に、神産巣日神。此の三柱の神は、並に独神と成り坐して、身を隠しき。・・・」と、神の名を呼び上げるだけのものです。この天地初発の神話では、天地の創造と高天原の創造については、語ることなく(触れることなく)神々の出現を述べるだけのようです。

 このことは、天地創造や高天原の神々の世界を広く語ることが主題(本題)でなく、天上界(高天原)が働きかけることにより、地上界(「くらげなすただよへる・・・」「是のただよへる国を・・・」)がどのようにして形成されて世界となったのかということと、神々の世界から天皇の統治する世界に収斂していく過程を、神話的に語ることにあったようです。 言い換えれば、高天原の天津神の関与によって、地上界は初めて世界となったということです。然るに、地上界(葦原中国)は天上界(高天原)の天津神が支配・統治すべき国であることを、語ろうとしているのです。


 (二)※『古事記』、アマテラス(天照大神)と天孫降臨神話
 アマテラス(天照大神)は、天孫降臨の際、ニニギ命(邇邇芸命)とオモイカネ命(思金神)にアマテラス(天照大神)の御魂である鏡を伊勢の五十鈴の宮に祭るよう命じます。この神話にあるように、アマテラス(天照大神)の御魂が伊勢に正しく祭られていることが、天皇を支え、永続的に支え続けられていく根拠となるのです。

 このように『古事記』は、アマテラス(天照大神)に支えられて(守られて)天皇があることを語ることにより、天皇の正統性を確信させるのです。天皇を支える氏族も、天孫降臨神話で天孫・ニニギ命(邇邇芸命)と一緒に降った、身近に仕える五伴緒を祖神(天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命)としてあることにより、保証されるのです。

 つまり、アマテラス(天照大神)は、天孫降臨神話を通して地上界(葦原中国)の正統な支配者(天孫族・天皇家)を決め、それを実現する天上界(高天原)の主宰神・アマテラス(天照大神)、天津神代表・アマテラス(天照大神)、天皇の祖先神・アマテラス(天照大神)としての役割を担うのです(果たすのです)。このなかでなぜか、高御産巣日神(高木神)が天孫降臨の指令役として登場し絡んできます(ここには、天皇家が祀る本当の皇祖神との関連性がありそうですが)。しかも、ニニギ命(邇邇芸命)は、アマテラス(天照大神)の子・オシホミミ命(天之忍穂耳命)と高御産巣日神(高木神)の娘・ヨロズハタトヨアキツシ姫(萬幡豊秋津師比売命)との間の子供です。
 

 (五)※『古事記』の成立過程

 『古事記(ふることぶみ)』は第四十代・天武天皇の詔勅により、稗田阿礼が記憶していた「帝紀(天皇の系譜と年代記)」や「旧辞(それまでに伝承されていた神話・伝説)」を読み上げ、これを太安万侶が筆録したもので、和銅五年(七一二)に第四十三代・元明天皇に献上されました。

 (六)※『古事記』の内容

 『古事記』の内容は、上・中・下巻からなり、上巻は「神代の巻」で、天地開闢からさまざまな神々の名が読み上げられます。その神々の系譜やその神々に纏わる事件や出来事を記しています(神々の活躍が生き生きと語られています)。中・下巻は「人代の巻」で、中巻は初代・神武天皇から第十五代・応神天皇まで、下巻は、第十六代・仁徳天皇から第三十三代・推古天皇に至る歴代天皇の系譜や諸天皇に纏わる事件や出来事を記しています。


 (七)※『古事記』の特徴

 『古事記』と『日本書紀』の編纂の目的は、中央集権的な律令制度による国家の基盤を固めるために、確固たる歴史を確立することにあったようです。そういう意味で、『古事記』と『日本書紀』のどちらも政治的な意図が見られますが、『日本書紀』には、その意図がいっそう強く感じられます。すなわち、それは当時、統治基盤を確立しつつあった朝廷の系譜が、天孫族(天津神系・高天原系の神々)から連綿と続いていることを明らかにしようとするものでありました。
 これに対して、『古事記』は太安万侶の序文にも示されているとおり、第四十代・天武天皇が貴重な古代史の伝承の散逸を恐れてこれを記録しようとしたのであり、そこには日本人のアイデンティティを確認しようとする、より純粋な精神がみられます。

 ※参考HP(ホームページ)
 『古事記』の秘密、謎の歴史書『日本書紀』【真説日本古代史】 第二部
 

 (八)※『古事記』、国学者・本居宣長の評価『古事記伝』

 江戸時代には、本居宣長は『日本書紀』より『古事記』のほうが、編纂の動機が純粋(編纂動機の純粋性)であると考え(このことに着目して)、『古事記』のなかに日本民族のアイデンティティを見出そうとしました。たとえば、本居宣長は「すべて意(心)も事(ことがら)も、言(ことば)を以て伝えるもの」であるから、「上代の実(真実)」をもとめるためには、『日本書紀』でなく『古事記』を読まなければならない。実際には、『日本書紀』とともに『万葉集』などを総動員し、あるべきことばをもとめて訓みをつけることとなる。そうした作業を通じて、はじめて「古語」によって表された事柄(「古伝」)と、古(いにしえ)の、穢(けが)れのない正実(まこと)の心(「古意」)とを得ることができると考えていました。

 (九)※『古事記』、「神ながらの道・惟神」、国学者・本居宣長『古事記伝』

 「古意(心)」を通して古(いにしえ)の「清らかなる正実(まこと・穢れのない真実)」を見出すことが、『古事記』においてそれができるはずであると、本居宣長は確信するのです。それを実現しようとしたのが『古事記伝』であったのです。このように、本居宣長は『古事記』をあるがままの姿に受け止めるべきであると強調します。「いまの世の中の賢(さか)しら」をもって勝手に解釈すべきではないと説きます。本居宣長のこういった姿勢を「神ながらの道(惟神)」といい、『古事記』を古典文学や史書として以上に、神典として考えていたのです。

 (十)※『古事記』、日本人としての自己確証、国学者・本居宣長『古事記伝』

 本居宣長は『古事記』のなかに、そこにこそ、日本人の純粋な元来の姿(上代の清らかなる正実)が語られているのだと強く主張します。『古事記』を通して、日本人としての自己確証(自分たち日本人が固有の言葉と文化をもち、民族的な纏まりをもち続けてきたという確信、いわゆる民族的アイデンティティ)が可能であると考えるのです。本居宣長の日本人としての自己確証の営みが、『古事記伝』なのです。

 (十一)※『古事記』、「古語(古事記)」の語る神話が現実の根拠、国学者・本居宣長『古事記伝』

 本居宣長は自分たちが生きるこの世界があるのも、「古語(古事記)」の語る神話の世界の出来事の上にあるのだと受け止めるのです(この現実の世界が、『古事記』の語る神話の世界に根拠付けられている)。自分たちを在らしめている、世界の成り立ち・世の成り立ちが『古事記』の神話に語られているとして読むのです。


 (十二)※『古事記』、古義を明らかにし古道を闡明(せんめい)にする、本居宣長・平田篤胤

 復古神道とは、本居宣長を筆頭に江戸時代の国学者、いわゆる国学の四大人(うし)の説を本流とし、神道の純粋性を保とうとするところにありました。国学というのは、日本の古典をありのままに吟味して、古典に込められている純日本的精神を追求しようとする学問です。つまり中世以来の儒教や仏教などを拠りどころとする日本の古典研究・解釈に反対するものであったのです。
 こうした国学の学問に対する姿勢が、日本固有の文化・精神を探求し、古道すなわち日本固有の宗教・神道を復元しようとする復古主義の神道説、つまり復古神道を形成する下地を作っていくのです。復古神道の成立に決定的な役割を果たすのが、賀茂真淵(『万葉集』の大家として知られていました)の門人の本居宣長と平田篤胤であります。二人は、古典文献から古語を知り、古語から古典を研究し、古義を明らかにし、古道を闡明(せんめい)にしようとしていたのです。

 (十三)※『古事記』、いにしえを明かし皇道を広めた、平田篤胤・復古神道

 平田篤胤は本居宣長没後の門人として、本居宣長の国学を受け継ぎ、古(いにしえ)を明らかにし、皇道を遍く天下に広めることを自らの使命とします。名声が高まるつれて、神祇伯白川家や吉田家の配下の神職に古学を教授するようになります。当時の神社の大半は両家に属していましたから、全国神社界は平田篤胤の復古神道の影響下にあったとみていいようです。
 平田篤胤の神道の中心をなすものが、『霊能真柱(たまのまはしら)』と『古史伝』であります。『霊能真柱(たまのまはしら)』は、人の神の道を実践するには、天地の形成過程を知り、日本が万国の本源の国であり、すべてにおいて勝れた国であり、天皇が最高の存在であることを知ることであると説きます。さらに、『古史伝』は平田篤胤の古道の真意のすべてを纏めたものです。


 (十四)※『古事記』、根源探求への強烈な衝動と日本中心主義、平田篤胤・復古神道

 注目すべきは、一連の著述のなかに一貫する思想があります。古代史の研究に基づいた「日本本源論(日本がすべての国のなかで最も勝れた国である)」、「皇国尊厳論(天皇は至高の存在である)」です。これは、医術や易も、果ては中国インドの神々もすべての起源が日本のあるとし、日本が世界で一番尊い神国であるとしました。
 平田篤胤の思想は、「幽世こそ本世」ともいうべきものであり、スサノオ命(須佐之男命)・オオクニヌシ命(大国主神)という出雲系の神々による幽冥界の支配は、顕界による天皇の支配とまったく同等か、より上位に位置付けられるべきものであると説きます。 

 (十五)※『古事記』、倒幕の原動力と教派神道の発生、国学・復古神道の思潮

 このような国学・復古神道の思潮は、幕末期の外圧によるナショナリズムの高揚と連動し、明治維新を推進するイデオロギーとして大きな影響を与えます。いわゆる、明治維新に繋がる新しい歴史の幕開けを、急激に推し進める原動力になっていくのです(倒幕の原動力となっていきます)。さらに、平田篤胤の思想は、民間の教派神道(江戸時代末期頃から国家神道とは別に、庶民の中から発生してきた民間信仰があります。黒住教、天理教、金光教、大本教といった、いわゆる教派神道の発生〈天理教は、今は諸派〉)や偽書・偽史を生み出し、そこに日本ユダヤ同祖論が主張される原型をみることができます。

 この平田篤胤が国学・復古神道を通して開けた、古神道ルネッサンスともいうべき思想の潮流は、堰を切ったように日本を駆け巡ります(近代の夜明け前から今日に至る、霊学・言霊学などの神秘思想・秘教霊学を生み出していきます)。古神道家(本田親徳・大石凝真素美・川面凡児・出口王仁三郎など)たちは、神霊界とのダイレクトな交流を模索し、埋もれていた太古神を復活させ、神話の裏側に潜む「神の国」「神秘の国」のヴィジョンを幻視し語り始めるのです。

 

 (十六)※『古事記』、平田篤胤の神話的宇宙論と尊王思想

 近世から近代にかけて、『記・紀』を学問の対象にしたのは、国学でありました。しかも、「天皇観」と結び付けける形で、『記・紀』を取り上げたのは、平田篤胤を第一にあげることができます。平田篤胤の先駆としての本居宣長は、顕事と幽事という二元論的宇宙論をもっていましたが、まだ体系的に整備されておらず、顕事の支配者と天皇がしっかりと結び付いていたわけではありませんでした。それよりは、「古えの道」を極めるには「物のあわれ」を知る必要があると、和歌的教養を身に付けることを説きます。

 平田篤胤は、本居宣長の教養的「古えの道」ではなく、イデオロギー的「古えの道」の構築に取り組みます。一元的に体系化されてた「古えの道」は、天皇とすっきりと結びつくことになります。平田篤胤の『記・紀』をもとにした日本神話の宇宙論から神話体系を作り上げる作業(元の神話から展開・発展・再構築・体系化を遂げる)が、『古史伝』から始まる平田篤胤の一連の著作となるのです。

 平田篤胤の神話的宇宙論は、造化の神から天皇への系譜といった一元的・体系的構築により、天皇を中心とするヒエラルキーを新しく作り出し、幕末動乱期に爆発的エネルギーを生み出す原動力となっていきます(彼の神話的宇宙論には、村落共同体の人々をも熱狂させる土俗的信仰も含まれていました)。

 (十七)※『古事記』、尊王攘夷運動と王政復古の波、平田学と後期水戸学

 このあと、「平田学」と国学を取り入れて尊王思想を鼓吹する「後期水戸学」は、幕末尊王攘夷派の志士に多大な影響を与え、倒幕の指導原理ともなります。これは、王政復古(天皇の古代的権威による日本の中央集権的再統一をめざす)の波となり近代の始まり(明治維新)を呼び寄せます。さらに維新後も、国家神道としてその精神的・理論的中枢に据えられ、結果的に国粋主義を助長することとなります。維新がなり、朝廷より王政復古の大号令が下されると、明治新政府により祭政一致の方針が打ち出されます。そして、国民意識の統一を図るため、天皇と神道と神社が最大限に利用されることとなります。国家神道の始まりです。

 

 (十八)※『古事記』、天皇の神格化、全体主義・国家神道体制への道

 明治維新という激変で、天皇は政治的実権を取り戻します。そして、現人神(明治維新に始まる天皇の神格化)となった天皇のもと、時代は狂乱の全体主義・国家神道体制へと突き進んでゆくのです。

 (十九)※『古事記』、天皇の絶対的宗教的権威、近代日本国家の創造
 明治維新による近代日本国家の創造のためには、天皇のカリスマ・宗教性を活かし(利用し)、「国家」を樹立することにありました。「国家」である以上、基本となる憲法において、天皇を絶対的宗教的権威を有する存在として、どう盛り込むかが必要になってきました。大日本帝国憲法の起草者である伊藤博文や知識人の代表である福沢諭吉は、「近代国家」の手本である西洋人の倫理や秩序にキリスト教があることを考え、そこで、天皇にキリスト教の奉じる絶対神のような役割を期待するようになります。そのために、天皇には絶対的な権威が与えられるようになるのです。

 (二十)※『古事記』、天皇制国家の神話、大日本帝国憲法

 大日本帝国憲法は、「大日本帝国憲法ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)と、国体を規定します。その「万世一系」の正統性を確認し根拠づけるものとして、『古事記』・『日本書紀』の神話を拠りどころとするのです。『大日本帝国憲法義解』には、「古典ニ天祖ノ勅ヲ挙ケテ、瑞穂国是吾子孫可王之地宜爾皇孫就而治焉、ト云ヘリ。又神祖ヲ称ヘタテマチリテ、始御国天皇、ト謂ヘリ。・・・」(古典にあるように神勅をうけて皇孫が降り、代々の天皇がこの国を統治してきたのであり、憲法はこれに基礎づけられる。・・・)、と、そのことを裏付けています。

 大日本帝国憲法の、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)についても、『大日本帝国憲法義解』では、「恭テ按スルニ、天地部伴シテ神聖位ヲ正ス。神代紀」と『古事記』・『日本書紀』の神話を拠りどころとしています。このことを日本国民に定着させるために、神話が教科書に登場し、教育されるようになるのです(明治三十六年)。

 第一期国定教科書「小学日本歴史」の巻頭は、「第一、天照大神」。「天照大神はわが天皇陛下の御祖先にてまします。その御徳、きわめて、高く、あたかも、太陽の天上にありて、世界を照らすが如し。大神は、御孫瓊瓊杵尊に、この国をさづけたまひて、〈皇位の盛なること、天地とともにきはまりなかるべし〉と仰せたまひき。万世うごくことなき。わが大日本帝国の基は、実に、ここにさだまれるなり。・・・」と、天皇の正統性の神話的歴史が教えられるようになります。


 (二十一)※『古事記』、近代天皇制のもとでの「日本神話」の解釈、「国体の本義」

 このように、大日本帝国の歴史の根源を『古事記』・『日本書紀』の神話に求め、国体論を支える支柱として「日本神話」が制度化されていきます。「日本神話」を軸とする、近代天皇制の正統性のイデオロギーの一つの帰着点が、「国体の本義」(昭和十二年)です。

 「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」は、天孫降臨の神勅を根拠として天皇の正統性を確信しようとするものです。近代天皇制のもとでの、『古事記』と『日本書紀』による「日本神話」の解釈の一つの完成でありました。このあと、日本は戦争へと邁進していきます(突入していきます)。

 (二十二)※『古事記』、天皇と国家神道体制への道

 明治維新という激変で、天皇は政治的実権を取り戻します。そして、現人神(明治維新に始まる天皇の神格化)となった天皇のもと、時代は狂乱の全体主義・国家神道体制へと突き進んでゆくのです。国家神道とは、天皇を中心とする国家の統制による神社制度と、国家主義的なイデオロギーをいいます。明治政府は明治元年(一八六八)に、祭政一致の原則から神仏判然令(神仏分離令)を出し、それまで仏教などと習合し共存していた神社のあり方を否定します。

 そのあと、一部地方で激しい廃仏毀釈運動が起こり、寺に火をつけたり仏像を壊したりするといった運動が起こります。そして翌年には、律令国家で祭祀を司った神祇官が、政治を司る太政官と同じ地位で復活します。明治四年(一八七一)には、神社を「国家の宗祀」とし、神主の世襲を禁じ、近代社格制度(伊勢神宮をトップとした神社のランク付け)を整備します。

 明治十年代になると、神社は国家のための「祭り」の場として機能を限定されます。宗教・布教活動を行うものは教派神道として神社神道とは分けられ、また、学問的研究は皇典講究所が担当するようになり、祭・教・学の分離が行われ、こうして、神社は、祭祀以外の宗教性を剥奪されていきます。


 (二十三)※『古事記』、天皇の宗教的権威の根源、皇室の祭祀の再構築

 国家神道は、皇室神道と神社神道とを直結し、皇室の祭祀を基準に神社の祭祀を画一的に再構成することで形作られます。皇室の祭祀は、天皇の宗教的権威の根源でしたから、明治維新直後からその復興と拡充が進められ、多くの祭典が新たに定められます(大祭・小祭など、因みに神武天皇祭や元始祭などは新しく作られた祭典で、古来からの祭典は新嘗祭と神嘗祭のみ)。

 また、一人の天皇の治世の間、元号を改めない一世一元性と、このとき皇紀(神武天皇紀元)が制定されます。明治新政府は、長い伝統を持つ五節句などの民間の祝日をすべて廃止し、宮中の祭祀と行事に基づいて祝祭日を定めます。こうして、皇室神道は、祝祭日と神社の祭りを通じて、国民に直接の影響を及ぼすことになり、万世一系の天皇を頂く万邦無比の国体という国家神道の教義の徹底的な普及が図られるのです。

 (二十四)※『古事記』、国家の祭祀だけを行う国教の国家神道として確立

 皇室神道と直結した神社神道は、明治新政府の宗教政策が神道国教化政策から国民教化政策へと変転する時期に、国教としての基礎を固めます。さらに、神社神道は、祭祀と宗教の分離によって、一般の宗教と区別して、国家の祭祀だけを行う国教の国家神道として確立していくのです。

 明治二十二年(一八八九)、皇室典範と大日本帝国憲法が制定され、近代天皇制国家が確立します。これを期に、天皇は、政治上の主権者、軍事上の統帥者であるとともに、国家神道の最高祭祀をつとめる神聖不可侵の現人神とされます。


 (二十五)※『古事記』、神社神道を国家の規模に拡大した国教、国家神道

 国家神道は、神社神道を国家の規模に拡大した宗教で、日本の国土と日本民族に限定された国教です。この国家神道は、儀礼が中心で、個人の内面に関わる普遍的な教え(教義)を欠いていました(世界の宗教史でも殆ど類例のない特異な国教といえます)。近代天皇制国家は、仏教、陰陽道、儒教と習合して発展してきた神社神道の歩みを断ち切って、国家の祭祀に限定された新しい国教として国家神道を作り、教派神道、仏教、キリスト教の三教の上において、天皇崇拝と神社崇敬を全国民の義務としました。大日本帝国憲法は第二十八条において「信教の自由」を一部認めますが、あくまで国家神道の枠内で宗教活動をすることを許し、本来の信教の自由はなく、激しい宗教弾圧が繰り返されました。

 (二十六)※『古事記』、廃仏毀釈運動の思想的源流をなすものが平田篤胤、復古神道?

 国家神道とは、天皇を中心とする国家の統制による神社制度と、国家主義的なイデオロギーをいいます。明治政府は明治元年(一八六八)に、祭政一致の原則から神仏判然令(神仏分離令)を出し、それまで仏教などと習合し共存していた神社のあり方を否定します。そのあと、一部地方で激しい廃仏毀釈運動が起こり、寺に火をつけたり仏像を壊したりするといった運動が起こります。この廃仏毀釈運動の思想的源流をなすものが平田篤胤の復古神道だとされました。

 しかし、平田篤胤自身は、太古の神道を復興させようとしながらも、密教や道教や諸外国の神話について深い造旨と関心を持ていた両義的な人物でありました。決して排他的な神道一本やりの国粋主義者ではなかったようです。しかし、幕藩体制を打倒し、明治新政府を設立する際の思想的バックボーン(ないしは、イデオロギー)として、国学や後期水戸学が取り入れられ、明治元年(一八六八)の神仏判然令(神仏分離令)として神仏分離政策に多大な影響を与える結果となってしまいました。













(私論.私見)