| 万葉集考 |

| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで風土記について確認しておく。「ウィキペディア万葉集」、「万葉集原文」その他を参照する。 2006.11.22日 れんだいこ拝 |
| 【万葉集考】 |
| 万葉集(萬葉集、まんようしゅう)は、7世紀後半から8世紀後半頃の759(天平宝字3)年以後にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。万葉集の編者に関して詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄説、大伴家持説など古来種々の説がある。家持説が最有力である。但し、万葉集は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。 天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌4540首で構成され二十巻に纏められている。巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ない。首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。 万葉集の名前の意味について諸説ある。一つは、「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解する。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の万葉集註釈では、古今和歌集の「仮名序」に、「やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける」とあるのを引いている。他にも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、古事記の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。 万葉集は鎌倉時代に天台僧の仙覚が校訂した仙覚系写本のほか写本・刊本が存在している。一方、仙覚系写本とは異なる藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集も存在し、1993(平成5)年、関西大学教授の木下正俊、神堀忍により、元同大学教授の広瀬捨三所蔵本(広瀬本)が冷泉本であることが確認された。広瀬本の奥書には甲府町年寄の春日昌預(1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克(1749年 - 1805年)の名が記されており、広瀬本の書写作業は甲斐国で行われていたと考えられている。 内容上から雑歌(ぞうか)、相聞歌、挽歌の三大部類になっている。雑歌(ぞうか)とは、 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。相聞歌(そうもんか)とは、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。挽歌(ばんか)とは、棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。歌体は、短歌、長歌、旋頭歌の三種に区別されている。短い句は五音節、長い句は七音節からなる。短歌は、五七五七七の五句からなる。長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、五七を長く続け、最後をとくに五七七という形式で結ぶ。長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を二回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌と云われる。 歌を作った時期により4期に分けられる。第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。第2期は、遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。第3期は、733年(天平5)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。第4期は、759年(天平宝字3)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王などである。 全文が漢字で書かれている。但し。歌は日本語の語順で書かれている。編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。万葉仮名は、漢字の意味とは関係なく、日本語の音に当て嵌まる漢字の音を見つけ、借用して表記したものである。その意味で、万葉仮名とは漢字を用いながらも日本語であるとも云える。当時の日本人の語学センスの良さを感じさせる発明になっている。万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。この流れで平仮名と片仮名が創造されたと云われている。現在でも万葉仮名は至る所で使用されており、難読地名とされるものには万葉仮名に由来するものが多い。 万葉集は竹取物語や浦島太郎などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、竹取物語においては巻16「由縁ある雑歌」には竹取の翁と天女が登場する長歌があり、竹取物語(かぐや姫物語)との関連が指摘され、巻9の高橋虫麻呂作の長歌に浦島太郎の原型とも解釈できる内容が歌われている。 近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖、荷田春満、賀茂真淵、加藤千蔭、田安宗武、鹿持雅澄、長瀬真幸、本居宣長らが万葉集研究を展開した。近現代には文学論や国文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉、折口信夫、佐佐木信綱、土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝、武田祐吉、五味智英 、犬養孝、伊藤 博、中西進、多田一臣、上野誠、佐竹昭広、曾倉岑、内藤明らが万葉集研究を展開した。 2006.12.4日 れんだいこ拝 |