ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)31



 (最新見直し2009.3.7日)

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【ホツマツタヱ3、ヤのヒマキ(人の巻)31、悉と央海 見つの文】
 カンタケ・都鳥の歌 神武の御世

ホツマツタヱ 31綾 直入神 三輪神 の綾 目次

神武天皇が正式に天皇の位についた後の内容です

31-1 全国を無事治めてきた勅使「高倉下」に紀伊国(きのくに)の国造(くにつこ)の大連(おおむらじ)の称号を与えられる(31-1~4)
31-2 高倉下は再度反乱の越後に行き説得、越後の国守と弥彦神の称号を与えられる(31-4~6)
31-3 神武天皇は久米の娘を妃にしようとしたが中宮に咎められる(31-6~7)
31-4 中宮の「いそすず姫」が皇子を生む(31-7~8)
31-5 神武天皇は「やひこ神」(高倉下)に酒の肴に「ゆり姫」を賜る(3-9~11) 
31-6 神武天皇は久米の館で「いすきより姫」(後の「ゆり姫」)と出会う(3-11~13)
31-7 神武天皇の息子「たぎし皇子」が、君の局(つぼね)に恋焦がれる(3-14~16)
31-8 神武天皇はゆり姫を高倉下に賜う(3-16~17)
31-9 ほほま(おおま)の丘に御幸され、神武天皇は大和の国を見渡して感激する(3-18~20)
31-10 神武天皇は「かぬながわみみ皇子」を世継ぎ皇子に定める(3-20~22)
31-11 神武天皇は遺言を残し神になりました(3-22~25)
31-12 神武天皇の葬儀を「たぎし皇子」が仕切る (31-25~26)
31-13 「たぎし皇子」の陰謀を「いそすず姫」が察知、我が息子に危機を知らせる(31-27~29)
31-14 若宮(かぬかわみみ皇子)は母親の歌に隠された暗号を読みとる(31-30~32)
31-15 若宮(かぬかわみみ皇子)は「たぎし皇子」の先手を討って行動を起こす(31-32~34)
31-16 兄の「かんやい皇子」は手足が震え、弟の「かぬかわみみ皇子」が「たぎし皇子」を射ち殺す(31-34~36)
31-17 「かんやい皇子」は自分たちが殺した「たぎし皇子」を手厚く葬り、「みしりつひこ」と名前を変える(31-36~38)

人皇2代 綏靖(すいぜい)天皇

「かぬがわみみ」実名「やすぎね」(たかおか宮)の綾
31-18 「かぬかわみみ皇子」が天皇に即位する。(綏靖天皇になります)(31-38~41)

31-19 神武天皇の「おもむろ」を埋葬、殉死者は三十三人に(31-41~44)
31-20 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)のお妃たち(31-44~47)
31-21 大神神社(おおみわ)の御祭神の起源について(31-47~50)
31-22 筑紫より御幸の要請、「なおりなかとみ」が派遣される(31-51~54)
31-23 「住吉の神」、「直入物主」、「直入中臣」の三人は直り神として崇められる(31-54)
31-24 宇佐に「いとう」(善知鳥)の三女神 (31-54~55)
31-25 「ひこゆき」を「祀りの臣のすけ」にする(31-55)
31-26 みしりつひこ(「かぬがわみみ」綏靖天皇の兄)が亡くなる(31-55~56)
31-27 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)の子供たち(31-56~57)
31-28 「あめたねこ」が亡くなる(31-57~59)
31-29 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)が亡くなり喪に服す(31-59)

人皇3代 安寧(あんねい)天皇

「しぎひこ」実名「たまでみ」(うきあな宮)の綾
31-30 「たまで皇子」は喪明けで輪抜けで身を清める(31-60)

31-31 代が代わり、臣も全て新しく代わる(31-60~62)
31-32 「たまでみ」皇子誕生のとき、「たまでひこ」に取り上げられた(31-62~65)
31-33 綏靖天皇のご遺体を「つきだおか」に(31-65~66)
31-34 「たまでみ」(安寧天皇)のお妃が生んだ皇子たちと臣たち(31-66~71)
31-35 「よしひと」(おおやまとすきとも、後の懿徳(いとく)天皇)世継ぎ皇子になる(31-71~72)
31-36 三代目安寧天皇がお亡りになる(31-72~74)



人皇4代 懿徳(いとく)天皇

「おおやまとひこ・すきとも」実名「よしひと」
(かるまがりお宮)の綾
31-37 四代目懿徳(いとく)天皇が皇位継承(31-74~77)

31-38 安寧天皇をお送りする (31-76~77)
31-39 懿徳(いとく)天皇のお妃とその皇子たち(31-77~80)
31-40「かえしね皇子」を世継ぎ皇子に(後の孝昭天皇になる)(31-80)
31-41 懿徳天皇)はお亡くなりになる(31-81~83)


人皇5代 孝昭(こうしょう)天皇

「かえしね」実名「みるひと」
(かたきわきがみ・いけこころ宮)の綾
31-42 「かえしね天皇」(孝昭天皇)が天つ日嗣を受け継ぐ(31-83~85)

31-43 孝昭天皇のお妃たち(31-85~87)
31-44 孝昭天皇の中宮に「よそたり姫」(31-87~88)
31-45 中宮「よそたり姫」の兄が「けくに」臣に(31-88~89)

31-46孝昭天皇の中宮の「よそたり姫」が皇子を生む(31-89~90)
31-47孝昭天皇は次男の「おしひと」を若宮(立太子礼)に(31-91)
31-48孝昭天皇は長男の「おしきね」を「かすが親王」に(31-91)

31-49「かえしね」(孝昭天皇)がお亡くなりになる(31-92)
31-50皇子の神祀りに、兄の「かすが親王」は納得する(31-92~94)


人皇6代 孝安(こうあん)天皇

「やまとたりひこくに」実名「おしひと」
(むろあきつしま宮)の綾
31-51  孝安天皇は天つ日嗣を受け継ぐ(31-94~96)
31-52 孝安天皇のお妃(31-96~97)
31-53 孝安天皇は「むろあきつしま」に遷都(31-97)

31-54 稲穂虫が大発生し、孝安天皇自ら風ふの祀で祓う(31-97~98)
31-55 子宝に恵まれずやむなく春日親王の娘を内宮に(31-98~99)
31-56 孝昭天皇のご遺体を博多の洞に納める(31-99~100)
31-57 待望の「ねこひこ」皇子が生まれる。後の孝霊天皇になる(31-101)
31-58 「ねこひこ」皇子は世継ぎ皇子に(31-101~102)

31-59 駿河宮より「はらみ山」(現富士山)の絵を賜わるが受け取らず(31-102~103)
31-60 孝安天皇が亡くなる(31-103~104)

ふしとあわうみみつのあや 悉と央海見つの文                    
ときあすす よもふそやとし はつそふか 時天鈴 四百二十八年 一月十二日
あまつひつきお うけつきて 天地つ日月を  受け継ぎて
やまとふとにの あまつきみ いむなねこひこ ヤマトフトニの(孝霊天皇) 天つ君 斎名ネコヒコ
もろはかり あめのみまこの のりおもて 諸議り 天の御孫の 法を以て
たみにおかま ははおあけ 民に拝ませ 母を上げ 
みうえきさきと こそしはす 御上后と 去年十二月
くろたの いほとみや  四日に黒田の 廬戸宮
うつしてことし はつこよみ 遷して今年 初暦
ふとしきさらき そひにたつ 二年二月(天鈴429年) 十一日に立つ
しきのおおめか ほそひめお 磯城のオオメが ホソ姫を
きさきそかすか ちちはやか  后ぞ春日 チチハヤが
やまかひめなる すけきさき  ヤマカ姫なる  スケ后
といちまそをか ましたひめ ここたえとなる 十市マソヲが  マシタ姫 ココタエとなる
   
うちたり おしももよたり 内(侍) 四人 乙侍も四人
としはる おおみなくち 三年 春 (天鈴430年)  オオミナクチと   
おおやくち ともすくね オオヤクチ 共にスクネ
なつうちめ やまとくにか 夏内侍  ヤマトクニカ
みつこうむ みなやまと 三つ子 生む  名は皆 ヤマト
ももそひめ ゐさせりひこ モモソ姫 ヰサセリヒコ
わかやひめ ははやまとの ワカヤ姫 母もヤマトの
おおみやめ そひふゆいもと 大宮姫 十一年 冬 妹  (天鈴438年)
はえうち そみしはすはつ ハエを内(侍) 十三年 十二月一日 (天鈴440年)
はえひめも またみつこうむ ハエ姫も また三つ子生む
ゑわか たけひこなか 名は兄ワカ  タケヒコの 中
ひこさしま とわかたけひこ ヒコサシマ 弟ワカタケヒコ
ははあけ わかおおみやめ 母も上げ 若大宮姫
そやはる はつもちきさき 十八年 春(天鈴445年)  一月十五日 (ホソ姫)
うむみこは やまとねこひこ 生む御子は ヤマトネコヒコ (孝元天皇)
くにくるの いみなもときね クニクルの 斎名 モトキネ
ふそゐはる いつもはつそひ 二十五年 春(天鈴453年)  いつも一月十一日  
あかためし みなものたまひ アガタ (県主)召し 皆物賜ひ     
みことのり もしはら 御言宣 「もし一孕 三子
うむものは みかとつけ 生む者は 御門に告げよ
したたみも たまものある 下民も 賜物 あるぞ
そのゆえは あめのみまこ その故は 天の御孫の   
さくやひめ みつこうむより サクヤ姫 三つ子生むより
 のちきか われいまみつこ 後 聞かず 我今三つ子
うむにつき ほのかにきけは 生むに付き 仄かに聞けば
みつこおは まひくなつけ 三つ子をば "間引く" と名付け
ころすとや いまよりあら 殺すとや 今よりあらば
つみひとそ わかひと 罪人ぞ  『我が子も人は (己が子とて人たるは皆)
あめたね しかいぬより 天の種鹿・犬 千より
ひとひと たけみなかた 人 一人』 タケミナカタ
のりなりと みことさたまる 宣なり」と 御言定まる
くにつかさ たみふれんと 国司 民に告れんと
もろかえる 諸帰る
あすそふあさ  翌 十二日 朝
すわはふり はらやま 諏訪ハフリ ハラ山の絵を
たてまつる きみこれほむ 奉る 君 これを褒む
 おなしとき しらひけまこ 同じ時 シラヒゲの孫 (ホノススミ)
あめみかけ あわうみのゑお アメミカゲ アワ海の絵を
たてまつる きみおもしろく 奉る 君面白く
たまものや あるひかすかに     賜物や ある日春日に (チチハヤ)
のたまふは われむかしこの     宣給ふは 「我昔この
みれと あてなたかく     絵を見れど 艶なで貴く
これすつ いまやまさわの     これを棄つ 今 山・沢の
あわせは わりふたあわす     絵合せは 割札合わす
よきしるし はらみやまの     吉き兆 ハラミの山
よきくさも ゐもとせまえに     吉き草も 五百年前に (天鈴▲50年頃)
やけうせ たねふたたひ     焼け失せし 種も再び
なるしるし におうみやまお     生る兆 ニオ海 山を
うるほせは ちよみるくさも     潤ほせば 千齢見る草
はゆるそと たのしみたまひ 生ゆるぞ」と 楽しみ給ひ
みそむとし はつはるに     三十六年 (天鈴463年) 初春十日に
もときねお よつきなして     モトキネを 世嗣となして
みてつから みはたをりとめ     己手づから 御機織留
さつけまし これあまかみの     授けまし<て> 「これ 天神の
おしてなり あさゆふなかめ     ヲシテなり 朝夕 眺め
かんかみて たみをさめ 鑑みて 民を治めよ」
よそほひお たみにおかま     装ひを       民に拝ませ
やよひ はらみやまえと     三月七日      ハラミ山へと
みゆきなる そのみちなりて     御幸なる      その道なりで
くろたより かくやまかもや     黒田より      香久山 賀茂
たかみや すわさかおりの     多賀の宮      諏訪サカオリ
たけひてる みあえまつ     タケヒテル (=タケテル)     御饗して待つ
 やまのほり くたるすはしり     山登り       下る スバシリ(ハラミ)
すそめくり むめおおみやに     裾 巡り       梅央宮
いりゐます かすかもふさく     入り居ます     春日 申さく (チチハヤ)
みねゑる みはのあやくさ     「峰に得る     御衣の紋草
ちよみかや もろくわんとて     千齢見かや     諸 食わんとて
にかし たれくわ     煮て 苦し      誰も得食わず」
なかみねの あてあわうみ     中峰の      充てはアワ海
やつみねは すそやつうみ     八峰は       裾の八つ湖
みつうまり やくれなかは     三つ 埋まり     焼くれど(噴火しても) 眺は
かわらと つくりうた     変ら」と     御作りの歌
なかはふり なかはわきつつ  『半ば旧り 半ば湧きつつ  
(或る時は朽ち崩れ、また或る時は噴出しつつ)
このやまと ともしつまりの     九の山と      共統つまりの 
このやまこれ           熟山よこれ』
かくよみて やまのさらなと     かく詠みて 山の新名と
おほすとき たこうらひと     思す時 田子の浦人  (海縁の人)
ふちはな ささくるゆかり     藤の花 捧ぐる縁 [縁の餞]
はらみて うむみうた     孕み和て 名を生む御歌
はらみやま ひとふるさけよ    『ハラミ山 一奮 栄けよ (聳えよ)
ふしつるの おもゆかりの     藤蔓の       名をも縁の
このやまこれ           熟山よ これ』
これよりそ ふしやま     これよりぞ 名も "悉の山" [不二の山]
みなみお みやこかえり     南道を (東海道)  都に帰り
むめみやの はふりほつみの     梅宮の  ハフリ 穂積の
おしうとに いつあさまみこ     治人に イツアサマ御子(ムメヒトサクラギウツキネ)
やまつみの かみうつして     ヤマツミの     四神 移して  (マウラ)
やすかわら ときたけひてる     ヤス川原      時 タケヒテル    (潤井川原)
たまかわの かんたからふみ     保まかわの     神宝文  (秘蔵)
たてまつる これあめみまこ     奉る        これ 天御孫      (タケヒテル)
はらをきみ そのかみよの     ハラ央君      その子 上代の  (ムメヒト)
みのりて いまなからえ     御法 得て      今に永らえ
きみゑみて たけとめお     君 笑みて      子のタケトメ
とみこふ たけつつくさの     臣に請ふ      タケヅツクサ
まつりつく たけたをやそ     纏り 継ぐ      タケダの祖ぞ
かんたから いつもおさむ     神宝        出雲に納む   (杵築宮)
ゐそみとし にしなかおえす     五十三年 (天鈴480年) 西中 (西中国) 汚穢す
ちのくちと はりまひかわに     繁の口と      播磨ヒカワ
いんへぬし やまとゐさせり     斎瓮主       ヤマトヰサセリ
これそえ ゑわかたけひこ     これに添え     兄ワカタケヒコ
きひかんち とわかたけひこ     吉備上方      弟ワカタケヒコ
きひしもち そのわけときて     吉備下方      その訳 説きて
まつろわ いささわけえは     服わす       イササワケへは
ひこさしま こしくにたす     ヒコサシマ     越国を治す
なそむとし きさらきに     七十六年 (天鈴503年) 二月八日に
きみまかる としももそやそ     君 罷る       歳 百十八ぞ
みこもは よそやぬきて     御子の喪罷     四十八に脱ぎて
とみととむ とせたつまて     臣 留む  六年 経つまで
みあえなす いますことくに     敬えなす      居ます如くに
うやまひて とみさり     敬ひて       臣も世を去り
かりとのに をやつかふる     仮殿に       親に継がふる   <遷都せず>
まことなるかな           誠なるかな
ときあすす ゐもよむつき     天鈴       五百四年一月
そよきみ あまつひつきお     十四日 君      天地つ日月
うけつきて やまとくにくる     受け継ぎて     ヤマトクニクル  (孝元天皇)
 あまつきみ あめのみまこの     天つ君       天の御孫
ためしなり かさりたみに     例なり       飾りを民に     (ハラの法)
おかまて みうえきさきと     拝ませて      御上后と    (ホソ姫)
ははあけ そふつほねに     母を上げ      十二の局に
きさきたつ としやよひ     后 立つ       四年の三月   (天鈴508年)
にいみやこ かるさかひはら     新都        軽境原
せみな うちうつしこめ     五年六月 (天鈴509年)     内(侍) ウツシコメ
うむみこは やまとあえくに     生む御子は     ヤマトアエクニ
おおひこそ なつき     オオヒコぞ     六年九月六日(天鈴510年)
いほとみや おもむろおさむ     廬戸宮       骸 納む  (孝霊天皇)
 むまさかや きさら     馬坂や       七年二月二日    (天鈴511年)
うつしこめ うちみやなる     ウツシコメ     内宮となる
うつしこを なるけくにとみ     ウツシコヲ     なる ケクニ臣
しわすはつ ひのてきさき     十二月一日     日の出に后
うむみこは いむなふとひひ     生む御子は     斎名 フトヒヒ
わかやまと ねこひこみこ     ワカヤマト     ネコヒコの御子 (開化天皇)
なつ あめよそふり     九年の夏  (天鈴513年)     雨 四十日 降り
やましろ あわうみあふれ    山背方       央海 溢れ
みもち なけきつくれは     稲もミモチ     嘆き告ぐれば
みことのり みけぬしをしに     御言宣       ミケヌシ 御使
いのらしむ あわくにみおに     祈らしむ      央国 水尾
たなかかみ はれいのりて     田慰守       晴れを祈りて
--------
はらひなす かせふまつりは     祓なす       カセフ祭
おおなむち いつもたなかの     オオナムチ     出雲田慰
ためしもて みなつきそむ     例 以て       六月十六日
まつりなす そのをしくさの     祭なす       その教草
-----(異文)
かせふなす これおおなむち     カセフなす     これ オオナムチ
たなかのり みなつきそむ     田慰祈       六月十六日
おこなひは みもむそうたひ     行ひは       三百六十 歌ひ
おしくさに いたみなおる     押草に       傷みも直る
---------
まもりもて ぬかつけは     守り以て      田に額づけば
よみかえり やはりわかやき     甦り        やはり若やぎ
みつほあつ たみかてふゑて    瑞穂 充つ      民 糧 増えて
にきはえは おほみけぬしの     賑えば       "大食主の
まつりをみ なつくそれより     祭臣"        名付く それより
やましろも つくしなおりも     山背も       筑紫 "直り" も (直入県)
いつもにも いせはなやまも     出雲にも      伊勢花山
としことに まつるかせふそ     年毎に       祭る "カセフ" ぞ
そひやよひ もちまたうむ     十一年三月 (天鈴515年) 十五日にまた生む
ととひめは ともみゆきや     トト姫は 共に御幸や
へそきねか やまといけすに     ヘソキネが ヤマトイケス
みあえなす いかしこめ     御饗なす 姫のイカシコメ
かしはてに めすうちきさき     膳方に 召す 内后
ことしそよ そみはつ     今年 十四 (天鈴517年)  十三年一月三日
いかしこめ うむみこは     イカシコメ 生む御子の名は
おしまこと いむなひこふと     オシマコト 斎名 ヒコフト
そよふつき はにやすめうむ     十四年七月 (天鈴518年)  ハニヤス姫 生む
はにやすの いむなたけはる     ハニヤスの 斎名 タケハル
これかうち あおかきかけか     これ 河内      アオカキカケ
おしも なるうちきさき     姫の乙侍      なる 内后
ふそふとし むつきそふに     二十二年 (天鈴526年)      一月十二日に
よつきなる ふとひひみこ     世嗣 成る      フトヒヒの御子
ことしそむ のちおしまこと     今年 十六      後 オシマコト
おうち たかちめうむ     オウチが妹     タカチ姫と生む
うましうち これうつ     ウマシウチ     これ 紀・ウツが妹
やまとかけ めとりうむは     ヤマトカゲ     娶り 生む子は
たけうちそ ゐそななかつき       タケウチぞ     五十七年 九月 (天鈴561年)
まかる すへらきとし     二日 罷る      皇の歳
ももそなそ みこもはいり     百十七ぞ      御子の喪罷入り
いきませる ことくみあえ     生き坐せる     如く敬えし   
よそやすき まつりこときき     四十八 過ぎ     政事 聞き
とせのち おもむろおさむ     六年後(天鈴567年)       骸 納む  
つるきしま なつきすえ     剣池嶋       九月二十四日
やむなり           侍・臣も罷むなり
ときあすす ゐもむそふゆ     天鈴       五百六十年 冬
そふ かすかいさかわ     十月の十二日    春日率川
にいみやこ みことしゐそひ     新都        御子 歳 五十一
ふそ あまつひつきお     十一月の十二日   天地つ日月
うけつきて いむなふとひひ     受け継ぎて     斎名 フトヒヒ
わかやまと ねこひこあめの     ワカヤマト     ネコヒコ 天の (開化天皇)
すへらきと たみおかま     と        民に拝ませ   (天の法)
ははあけ そふきさきも     母も上げ      十二の后も    (ウツシコメ)
さきあり あくるきなゑお     先にあり      明くるキナヱを (天鈴561年)
はつとし としはつそふ     初の年       七年 一月十二日 (天鈴567年)
いきしこめ たてうちみや     イキシコメ     立てて内宮 (=イカシコメ)
これさき きみめすときに     これの先      君 召す時に
おみけぬし いさめもふさく     オミケヌシ (ミケヌシの子)      諌め申さく
きみきくや しらうとこくみ       「君 聞くや     シラウドコクミ
ははおかす かないまあり     母 犯す       名 今にあり  (サシミメ)
きみまねて かなおかふるや     君 真似て      汚名を被るや」
 うつしこを こたえめいなり     ウツシコヲ(ケクニ臣) (母ウツシコメの)答え「姪なり
ははなら いわくいせには     母ならず      曰く『妹背には
とつきて うみをやなし     女 婚ぎて      生みの親 無し』
むかしおは めいいまつつ     昔 叔母       姪 今は続
うむあり つらなるゑたの     生む子あり     連なる枝の
おしまこと ははたかひそ     オシマコト     母は違ひぞ」
またこたえ つきひと     また答え      「天に月一つ
ははつき しもめほしよ     母は月       下侍は星よ  
これめす なけきいわく     これを召す」    <オミケヌシ> 嘆きて曰く (星) 
ををんかみ あめのみちなす     大御神      陽陰の道 成す
よよきみ つきうけおさむ     代々の君      継ぎ受け 収む
あめひつき なんちまつり     天地日月      汝が政 (ウツシコヲ)
いさめて おもねりきみお     諌めずて      阿り 君を
あなする こころきたなし     穴にする      心 汚なし
きみいかん わかみをやかみ     君 如何ん      我が上祖神 (オオモノヌシ神)
はなれんや けかれはまと     離れんや      穢れ 食まず」と
 いいおはり かえれときみは     言い終り      帰れど 君は
これきか みけぬしをやこ これ 聞かず ミケヌシ親子
つくみおる 噤み下る
しはすそみ 十二月十三日に
ゆきり たけのひめうむ  ユキリの姫 タケノ姫 生む
ゆむすみの いみなこもつみ  ユムスミの 斎名 コモツミ
やよひ かすかおけつめ  八年三月 (天鈴568年) 春日オケツ姫 (春日県主オケツ)
すけかうむ いむなありすみ   スケが生む 斎名アリスミ
ひこゐます そふ ヒコヰマス 十年 五月の十二日(天鈴570年)
うちみやの うむみこみまき 内宮の 生む御子 ミマキ (イカシコメ)
いりひこの いむなゐそにゑ イリヒコの (崇神天皇) 斎名ヰソニヱ   
みなつきの そふへそきね 六月の 十二日 ヘソキネ
かるおとと うつしこを カル大臣 十一月ウツシコヲ
いわいぬし そみむつき 斎主 十三年 一月五日 (天鈴573年) 
 きさきまた うむみまつひめ 后また  生む ミマツ姫
めすうちめ かつきたるみ 召す内侍 葛城 タルミ
たかひめか もちにうむ タカ姫が 五月の十五日に生む
はつらわけ いむなたけとよ ハツラワケ 斎名 タケトヨ
ふそやとし むつき 二十八年 (天鈴588年) 一月の五日に
よつきたつ ゐそにゑみこ 世嗣 立つ ヰソニヱの御子
ことしそこ むそとしなつ 今年 十九  六十年の夏(天鈴620年)
うつき きみまかるとし 四月九日 君罷る歳
ももそひそ みこのもはいり 百十一ぞ 御子の喪罷入り
よそやのち まつりこときき 四十八後 政事聞き
とみととめ いますのみあえ 臣留め 居ますの敬え
めつき おもむろおさむ  十月三日 骸納む
いささかこれ 率坂ぞこれ

 31-1~4 全国を無事治めてきた勅使「高倉下」に紀伊国(きのくに)の国造(くにつこ)の大連(おおむらじ)の称号を与えられる

 この31綾は神武天皇「かんやまといわわれひこ」(かしはら宮)の後半部分と綏靖(すいぜい)天皇「かぬがわみみ」(たかおか宮)安寧(あんねい)天皇「たまでみ」(かたしほ・うきあな宮)懿徳(いとく)天皇「おおやまとひこ」(かる・まがりお宮)孝昭(こうしょう)天皇「かえしね」(かだきわきがみ・いけごころ宮)孝安(こうあん)天皇「やまとたりひこくに」(むろあきつしま宮)までと孝霊天皇「やまとふとに」(くろだいほど宮)が世継ぎ皇子になった所までの記録が示されています。

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31綾 なおりかみ みわかみのあや 直入神 三輪神 の綾

31-1 全国を無事治めてきた勅使「高倉下」に紀伊国(きのくに)の国造(くにつこ)の大連(おおむらじ)の称号を与えられる

かしはらの やほおやえあき(31-1)
すべしかど たかくらしたが 
ややかえり



橿原宮即位八年「おやえ」(ほつま歴5/60 後の戊辰つちのえたつ)の秋、統率勅使(すべしかど)の高倉下がやっと帰ってきました。



 つげもふさくは(31-1)
とみむかし みことをうけて
とくにより つくしみそふも



そして、君(神武天皇)に報告した内容は「臣(とみ:高倉下)」は昔、君の詔(命)を受けて、遠くの国を巡り、筑紫に遠征し(九州の)三十二県を巡視してきました。



やまかげも めくりおさめて(31-2)


次に「やまかげ」(今の山陰地方)も巡り見て無事に治めてきました。

「やまかげ」という地名に「山陰」という漢字が宛てがわれ、いつの間にか訓読み「やまかげ」から音読み「さんいん」になってしまいました。



こしうしろ やひこやまべに(31-2)
つちくもが ふだわるゆえに(31-3)
ほこもちひ いたびたたかひ
みなころし



その後、「こしうしろ」(今の越後)に行ったところ、弥彦の山辺にたむろしている「つちぐも」(地元の悪党ども)が、君のご禁制に背いて、立て札を打ち割って謀反を起こしたので、矛を用いて(武力で)五度にわたる戦いを交えて敵を皆殺しにしました。

ここでも、「こしうしろ」という地名に「越後」という漢字が宛がわれ、いつの間にか訓読みから音読み「えちご」になってしまいました。
「やまかげ」といい、「こしうしろ」といい、昔の訓読みの読み方に何か懐かしさを感じます。


 ふそよおさむと(31-3)
くにすべゑ ささくれはきみ
たかくらを きのくにつこの(31-4)
おおむらじ
 


そして、二十四県の県主とその民を治めることが出来ました。
無事治めてきた全国の縣の絵地図を作って、奉呈したところ、君は高倉下の労を称えて紀伊国(和歌山県)の国造に取り立てて「おおむらじ」(大連)の称号を与えました。


ジョンレノ・ホツマ

日本初代の天皇は、神武天皇とされています。その神武天皇が認める天皇の大元といえば、天孫ニニギ(ニニキネ)です。ニニキネは、その生涯を新田開発に捧げます。

 その頃、一部の湿地帯や川下の限られた土地での稲作を、今日見られるような近代的大規模な水田に全国展開します。国民の食糧も豊かになると自然に人口も増え国力も上がって、政治も安定し永く平和が続きます。アマテル神は、御孫(みまご)ニニキネの功績を大層お誉めになり、御祖神の精神の再来であると喜ばれて、別雷天皇(ワケイカズチアマキミ)という称名(たたえな)をお与えになりました。この名前は、災いの元である雷を光と水に分けて制御し、その水を水田開発に活かして国民の生活を豊かにし国を繁栄に導いたという意味を込めたものでした。この栄えある実績に対して、アマテル神から直々に授かったのが、三種神器です。

 この度、カンヤマトイワワレヒコ天皇の即位式に先立ち、急いで神儀(かみばかり)が開かれました。本来、太上(だいじょう)天皇が居られて三種神器を御手ずから、君と左右の臣にそれぞれ分けて授ける習わしでしたが、今は先君のウガヤも神上がられて居られないので、その式次第と役割分担を相談するためでした。

 君と左右の大臣を中心に諸神が協議したところ、皆異口同音に答えるには、
 「日の神の使者はミチオミに。月の使者はアタネなり。星の使者はアメトミに」と。
 アメトミは今度特にイシベ(司祭)の姓を賜わり、禊(みそぎ)をし身を清めて晴れの儀式に臨みました。
 時は正に橿原(カシワラ)の天皇の御世(みよ)元年、年はサナト(辛酉・しんゆう)の初日に、天皇は初めて新築なった御正殿にお立ちになりました。諸臣は殿に昇って新年の寿(ことほぎ)を君に捧げました。続いて、ウマシマジが昇殿して、十種の神宝を君に奉りました。
 この十種神宝(とくさたから)は、天孫ニニキネの兄のクシタマ・ホノアカリテルヒコが天神(あまきみ)から授かった御宝で、アスカに都を置き大和を治めてきたニギハヤヒ王朝の正統制の証しでした。
 次に、カスガの臣アメノタネコは、新年のお祝に、偉大なる神代の古事来歴を紀(ふみ)に記して奉りました。

 7日の七草粥も済み、15日にはとんど焼きと粥占(かゆうら)の神事も無事行われた後、いよいよ21日、宮中で即位式が盛大に挙行されました。
 アメトミは14日、式に先立ち先代のウガヤ時代からずっと京都の賀茂別雷(ワケズチ)宮に預けてあった八垣の剣を持ち来り、アタネは河合(カワイ)宮(下賀茂神社)に祭っておいた鏡を一緒に持って上京しました。
 
 君は高御座(たかみくら)に厳かに入られ、九重の褥(しとね)を敷いてお座りになりました。左大臣のクシミカタマは、二重の褥を敷いていました。
 ミチオミ(日の臣)が都鳥の歌を静かに、やがて朗々と唄い始めました。君と臣は、褥をお降りになって正座し直し、お身を三重に折ってうやうやしく聞いておりました。
 この歌は、正に皇孫(こうそん)ニニキネの三宝(みくさ)の授受の様子を彷彿させるものでした。

天地(あわ)を治(た)す  天皇(あますめらぎ)の  両翼臣(もろはとみ)
カスガとコモリ  君臣の  心ひとつに  都鳥  形は八民(やたみ)
首は君  鏡と剣  左右(まて)の翼(はね)  物部(もののべ)は足
鏡臣(かがみとみ)  継ぎ滅ぶれば  民離れ  日継ふまれず
剣臣(つるぎとみ)  継ぎ滅ぶれば  武人(もろふ)破れ  世を奪われる
八呎臣(やたおみ)は  稲負(ぞろお)う者の  農作業(たみわざ)を
鑑みる目ぞ  八重垣臣(かきおみ)は  邪魔(よこま)を殺(から)し
武人(もののふ)の  力護(ちからも)る手ぞ  この故に  三宝(みくさ)を
分けて  授くるは  永く一つに  なる由を  綾に記して 御手ずから
紀(ふみ)を皇孫(みまご)に  授けます  セオリツ姫は  御鏡を
持ちてカスガに  授けます  ハヤアキツ姫(め)は  御剣を
持ちてコモリに  授けます  三度(みたび)敬(うやま)い  皆受くる
ヤマト日嗣(ひつぎ)の  都鳥かな

都鳥の歌(抄訳)
今度天下を治める天皇(ニニキネ)の左大臣はカスガで、右大臣はコモリです。君と左右の大臣の三人は、いつも力を合わせて政事(まつりごと)を行い、そのお姿は都鳥(みやこどり)と呼ばれました。鳥の体は国民が形作り、頭は君であり、鏡(左)大臣と剣(右)大臣は両翼を担い、武人達は国を支える足に例えられます。もしも左大臣が滅びるようならば、民心も国を離れて皇室も滅びます。又、右大臣が滅びれば、武人(ものふ)達は内乱となり、国を奪われることになります。鏡臣の役目は農民の作業を良く指導して国民の生活豊かにすることです。剣臣の役割は悪を懲らしめて平和を守り、国の生産を上げる手助けをすることです。
このように、三種神器(三権分立)を分けて授ける理由は、三者が未来永劫に渡り常に一体となって、正しく国政に努めるよう計ったのです。この事を文章に記して、私(アマテル神)自ら孫のニニキネに手渡します。この時、中宮のセオリツ姫は、アマテル神に代わって鏡をカスガに授けました。ハヤアキツ姫(后)は、剣をコモリに授けました。
皆、うやうやしく三度礼をして神器を受けました。これこそヤマトの皇位を引き継ぐ都鳥のお姿です。

 歌が終わると、日の臣ミチオミは厳かに神璽(しるし)の御筥(はこ)を天皇に奉り、月の臣アタネは鏡をアメタネコに授け、星の臣アメトミは八垣剣(やえがき)を捧げ持ってクシミカタマに授けました。
 他の臣や大勢の司達はそれぞれ言祝(ことほぎ)を済ませた後に、全員は万歳(よろとし)を何度も何度も唱え、神武の御世を称える歓喜の声は、天地を永く震わせました。やっと落ち着いた頃合いをみて、御鏡を中宮のイソスズ姫にお預けになり、八重垣剣(やえがき)は、后のアヒラツ姫にお渡しして、神璽は後に、君自ら肌身離さずお持ちになりました。
 この三種(みくさ)は、高く掲げられ、皆三拝してから丁重に内宮(うちつみや)に一旦納めました。
 これらの儀式は、皇孫ニニキネの即位そのままに再現されて、この御宝(みたから)を納めた所を内宮(うちみや)といい、又、宮中でも内々と呼んで尊ばれました。
 翌日には、三飾り(みかざり)を国民にも拝観させて、君・臣・民(きみとみたみ)一体となった都鳥は、君が代の永からんことを祝福しました。
 
 この年11月半ばの冬至の日には、いよいよ神武(カンタケ)の一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)が厳粛に行われました。 君は天の悠紀(ゆき)宮と、地の主基(すき)宮を仮設して、元明(もとあけ)の四十八神をお祭りして、天神地祗に祈ると共にアマテル神を天からお招きして、国民には図りしれない神事が夜もすがら執り行われました。
 この様に、晴れて神々との契りも成立して、天・地・人の信任を受けた天皇としてここに正式に即位されました。
 この大嘗祭での臣達の役割は、先ずアメタネコとクシミカタマが左と右の大臣でした。御食供国政奉上臣(みけなえくにまつりもうすおみ)のウマシマジは、物部(ものべ)等と一緒に宮城外守護の任務につきました。ミチオミとクメとは力を合わせて御垣守(みかきもり)として、宮城内の護衛にあたりました。神への祝詞をあげたのは、インベ臣のアメトミでした。

 翌年の新春十一日、君は論功行賞の詔りをされます。
 「思えばこのように平和な新春を迎えられるのも、元はといえば、ウマシマジの忠義(まめ)あったればこそ叶えられたのだ。故にウマシマジは、代々物部の職を継ぐように。ミチオミは汝が望みのままにツキザカ(築坂、橿原市鳥居町付近)の館と、クメの土地を与えよう。ウツヒコは、この戦で船の水先案内を買って出たことと、祈り用のカグ山の埴(はに)を難儀して採ってきた事の功は大であった。よって、ヤマト国造(くにっこ)に任命する。弟(おと)ウガシは、タケタ(宇陀郡多気)県主に、かつ、その弟のクロハヤは、シギ(磯城)の県主に、アメヒワケにはイセの県主を任命する。アタネには山城のカモの県主を、カッテ神の孫のツルギネはカツキ(葛城・かつらぎ)の国造としよう。最後にヤタカラスには、汝の道案内で無事ウガチ村にたどり着くことができたので、ウガチ村の直頭(あたいのかみ)を与えよう。そしてその孫にはカドノ(葛野郡、京都市左京区太泰付近)県主を任命する」

 三年目のことです。
 五月雨が40日間も降り続き、国民の間に疫病が流行し、稲に稲熱(いもち)病の被害が広がり始めました。早速君に状況を報告した後、アメタネコとクシミカタマの両大臣は共に、ヤス河原に赴き、仮宮を建てて風生(カゼフ)の祓いを行ってお祈りしたところ、疫病も治り、稲も再び元気になり立ち直りました。君は大層喜ばれて詔りがありました。「ワニヒコの先祖のクシヒコは勇気ある忠義のイサメ(諌言)により、アマテル神からヤマト神の名を賜わった。三代輪(みよわ)に及ぶ実直な功を称えて直り物主神(なおりものぬしかみ)の名を与えよう。又、タネコの先祖のワカヒコも直き鏡の忠告の功により、直り中臣神(なおりなかとみかみ)の名を授けよう。この尊い家名を共に子子孫孫継いで、国政を正すように」とのお言葉でした。

 四年二月に詔りがありました。
 「思えば、御祖の神の都鳥は、金の鳥に姿を変えて我と我が軍を照り輝かせてくれた。お陰で今は、敵も味方も同胞としてここに集い平和になった。アメトミには、鴨をこの地に移させて御祖神をハリワラのトリミ山に祭ることにしよう。又、アタネにカモタケズミの祭りを継がせて、ヤマシロの国造にしよう」と告げました。

 橿原宮八年の秋に、総勅使のタカクラシタがやっと帰京されて、君にご報告されました。
 「臣は昔、君の命を受けて先ず西方の遠い国、ツクシに遠征して三十二県を巡視して全て治めてまいりました。次に山陰地方を巡り見て、問題無きよう無事治めてから後、越後に行き、ヤヒコ山辺のツチグモ共が、君のご禁制に背いて立て札を打ち割って謀反を起こしましたので、矛を用いて五度戦いを交えて遂に敵を全員殺し鎮圧いたしました。この度二十四県の県主とその民を治めることができました。その記念として、カンタケの御世知らしめす全国の地図を作成しましたので奉呈いたします」と申し上げると、君はタカクラシタの功を労い称えて、新たにキ(紀伊国)の国造に取り立てて、大連(おおむらじ)の称号を与えました。

 橿原宮二十年、治まっていたコシウシロ(越後)が再び反乱を起こして初穂(年貢米)を納めませんでした。又、タカクラシタが鎮圧に向いましたが、今回のタカクラシタは一度も剣を抜かずに話合いで平和裏に敵を服(まつら)わすことができました。 この報告を受けた君は、タカクラシタを大層誉めて詔りし、今度は越後国守に取り立てて、ヤヒコ神の称号を与えました。又、君は心遣いされてタカクラシタが越後の国造になった後に、現地に永く住むことを思い、タカクラシタの婿のアメノミチネに、キ(紀伊国)の館を賜い国造としました。

 二十四年、君には未だ世嗣子と定める御子がいませんでした。
 そんな折、クメの娘で美人の誉高いイスキヨリ姫を后に召そうとおぼして密かにお通いになられたところ、中宮のイソスズ姫に咎められてしまいました。このような事情で、姫を入内させることを断念したものの、実はユリ姫と名を替えさせてクメの館にお忍びで交わっておられました。その後、中宮は妊娠して、翌年の夏無事カンヤイミミの御子をお産みになり、実名をイホヒトと名付けました。

 二十六年冬、ヤスタレのヌナ川に祭事があって君と中宮は、お揃いで御幸された折、カヌカワミミの御子がお生まれになりました。実名(いみな)をヤスギネとつけました。

 三十年夏のことです。
 ヤヒコ神となられたタカクラシタが4年ぶりに上京し、君に拝謁しました。この度はこれといった大事も無く、いつになく打ち解けた二人の酒盃の数も進んで大変盛り上がった君臣でした。君は微笑みながら何気なくお聞きになりました。
 「そういえば、汝は昔あまり飲まなかったのに、こんなに強くなったのは何故じゃ」
すると、タカクラシタが答えるには、
 「何しろ越後は寒くてついつい毎日飲んでしまい自然に強くなってこのざまです」
それを聞いた君は、笑って言うには、
 「汝は酒が強くなってから急に若返って、男前も大分上がったぞ。ようし、ここは一つ私に任せてくれ」
 この時、酒の勢いも手伝って賜わったのが美人で評判のクメの娘のイスキヨリ姫で、今のユリ姫です。タカクラシタも突然の話に、嬉しいやら、戸惑うやらで、
 「七十七の老体に二十才の姫では不釣り合いで、姫がかわいそうに存じます。どうかこの件ばかりはご容赦を」と、拒めば拒むほど顔はますます上気して、笑みを押さえ切れないご様子でした。
 ユリ姫は、タカクラシタの妻となって越後に嫁いでから、立派に一男一女をもうけて、共にヤヒコの女男(めお)神となられました。

 次のお話は、ユリ姫十九才の時のエピソードです。
 君はサユリの花見と称してサユ川の上流に御幸しました。クメは急遽館内に殿宮(かりみや)を造ってお迎えをし、一泊された時のことです。君の夕食(ゆうげ)の御饗(みあえ)の席で御饌(みかしわ)を捧げたのはイスキヨリ姫でした。君はお美しい姫をいとおしく思われ、お召しになろうと歌を作って御心を告白されました。

葦原の  繁茂殿宮(しげこきこや)に  清畳(すがだたみ)
いやさや敷きて  我が二人寝ん

 この様なわけで、すでに君の局となられたユリ姫ですが、後にタギシ皇子(みこ)が深くユリ姫に恋焦がれて、父のクメに自分の思いをしつこく訴えて、姫との仲立ちを乞い迫りました。父もタギシ皇子の一途な訴えに遂に心を動かして承諾してしまいました。タギシ皇子の思いをかなえようと、先ず父が姫の所に行き、姫を呼びながら室に入ったところ、父の異常な目つきに気ずいたユリ姫は、即座に操(みさほ)ツツ歌を作って父に差し出しました。

天(あめ)つ地(つち)  娶(と)ります君と
など割(さ)ける  利目(どめ)

 後から続いて室に入ったタギシ皇子は、姫の固い操に気ずいて、自ら進んで即座に返歌を返します。

にや乙女  唯に会わんと
我が避ける  利目(どめ)

 ユリ姫の操と忠義の心を知った父は、タギシ皇子にやむなく、「追って返事をしよう」と言うと、皇子も諦めてお帰りになりました。
 この一件を、女官が右大臣のクシミカタマに告げ、クシミカタマが天皇に申し上げるには、
 「これは、子の恥じであり、親の恥じにもなりますので、どうか内々に密かに願います」と言うと、天皇も諾かれてタギシミミの一件は、不問に付されました。

 翌三十一年、四月一日、君はワキカミ(現御所市、国見山)のホホマの岡に御幸され、美しい大和の国を見渡して感激のあまりに、このようにおおせられました。

あなにえや  得つは打木綿(うつゆう)  真幸国(まさきくに)
形  蜻蛉(あきつ)の  交尾(となめ)せる  これ秋津洲(あきつしま)
天皇(あめかみ)は  大和浦安(やまとうらやす)  扶桑根国(こえねくに)
大和日高見(やまとひたかみ)  細戈千足(そこちたる)
磯輪上秀真(しわかみほつま)  オオナムチ
玉垣内宮(たまがきうちつ)  ニギハヤヒ  空見つ大和(やまと)

 四十二年、新年三日、カヌナカワミミの皇子を皇太子と定めて立太子礼を執り行いました。中臣のウサマロと大物主のアダツクシネを左右の大臣と定め、物部のウマシマジも
 「共に皇子を助けて国政に務めよ」と詔りされました。

 七十六年正月十五日に詔りがありました。
 「我すでに老い、政事を直り中臣と大物主の親子の臣に任すべし。諸神これと若宮を立てよ」と、遺言されると内殿にこもりきりになり、遂に三月十日に神となられました。
 この偉大な大君を信じ、共に苦しみつらい戦いを越えて歩んだ歳月が夢であったかのように、アビラツ姫とクシミカタマはいつまでもいつまでも長い喪に入っていました。それは、あたかも君がまだ生きておられる時のようにお仕えしておりました。 実は、アメタネコとクシネとウサマロは、皇太子のカヌナカワミミに葬送の儀についてご相談になられましたが、天皇の崩御以来、急にタギシ皇子が独善的に一人で政事を執ろうとなされて、直り三臣(なおりみたり)の意見を聞こうともせず、又問えど返事がなく臣とタギシ皇子の間に不和が生じていました。本来ならば、皇子は喪に入って政事は両翼の臣にまかせるべきであるのに、君の葬送も拒否し続けて延び延びになっていました。
 六月に入ると、タギシ皇子は密かに二人の弟を殺そうと陰謀を企てて、ガラリと態度を変えると、あえて弟達に友好的に振る舞うようになりました。

 タギシ皇子は、サユの花見と称してウネビ山の麓のサユ川に假室(かりむろ)を用意すると、二人の弟とその母イソスズ姫を室屋(むろや)に招待して、花見の宴を開きました。その席で、母イソスズ姫は普通ならば、高屋(たかや)か社(やしろ)で開かれる花見の歌会が、このような閉ざされた狭い室屋(むろや)で行われることに不自然さを感じとっていました。
 二人の息子達に危険が迫っていることを伝えるために、イソスズ姫は二首の歌を綴ると、急ぎ二人の皇子達に歌の添削を頼む振りをして渡しました。皇太子が歌札を取ってみたところ、色々の意味にとれる歌が記されていました。

サユ川や  雲立ち渡り  ウネビ山
木の葉さやぎぬ  風吹かんとす

ウネビ山  昼は雲問ひ  夕去れば
風吹かんとぞ  木の葉さやぎる

 この歌を読んだ皇太子は、しばし考えた末に、母の送った歌の本意を悟って、今夜にもこのサユ川辺で、我ら兄弟と母を巻き込んだ恐ろしい殺りくが迫っていることを予期しました。一刻の猶予も許されません。カヌナカワミミは、カンヤイミミの皇子にそっと耳打ちして、タギシ皇子について話しました。
 「兄は昔、君の后であったイスキヨリ姫を犯そうと企んで失敗した男だ。その時は、親子の情けで内々に済んだものの、今は政事を我がものにしようと、わがままに振る舞っている。本来なら臣(とみ)に任せておくべきではないか。どうゆうつもりなんだ。葬儀も兄が拒んで未だ行えずじまい。今日我らを招いたのも陰謀だ。先手を打って速やかに計略を練ろう」と言うや、カヌナカワミミは、ユゲのワカヒコに急ぎ弓を作らせ、マナウラにマカゴの矢尻を鍛わせると、カンヤイ皇子に靫(ゆき)を背負わせて、兄弟は一緒にカタオカムロ(磯城郡多付近十市町)に居るタギシ皇子の所に向いました。

 丁度その時、タギシ皇子は昼寝の最中で床に伏っていて、二人が来たのも知りませんでした。カヌナカワ皇太子が、小声で言うには、
 「兄弟が互いに張り合っても意味がない。我が先ず室(むろ)に入るから、汝が射殺せ」と言って、兄に功を譲り、室の戸を突き上げて乱入すると、物の気配で目を覚ました兄は、
 「靫(ゆき)を背負って踏み込むとは、ふとどき者め」と剣を抜いて二人に斬りかかってきました。
 この時、弓を射るはずのカンヤイ皇子の手足がガタガタとわなないて、突っ立つたまま弓を射ることができません。とっさに皇太子は兄から弓矢を引き取って、一の矢を胸に、二の矢は背中に当て、タギシ皇子は絶命しました。後に、死骸をこの地に手厚く葬って、皇子神社(みこのかみやしろ)を建ててお祭りしました。カンヤイは、自分の腑甲斐なさを恥じて、自ら身を引くと、トイチ(現磯城郡十市町)に住んでイホノ臣ミシリツヒコと名を変え、神道(かみのみち)に身を置いて、兄タギシミミの御霊(みたま)をねんごろにお祭りして生涯を閉じました。

 神武百三十四年、新年三が日の寿も済ませて、二十一日に、カヌナカワミミ(綏靖天皇)は、天つ日嗣(あまつひつぎ)を受け継いで、カツラギのタカオカ宮(御所市森脇)で即位しました。歳は五十才でした。
 百三十四年、九月十二日、橿原宮の死骸(おもむろ)を、カシオ(ウネビ山東北・白檮尾)の陵(みささぎ)に埋葬して、神武の葬送を無事終えました。(畝び山東北陵)

 その時の儀式の様子は、君と生涯を伴にされたアビラツ姫と、やはりカンタケ君に己の夢をかけて生涯忠義を尽くされたクシミカタマとが、問わず語りに君の御世を語り明かして、いつしかお后と臣は、君の亡がらと共に洞に入られて一緒(とも)に神となられました。
 翌朝になって、お二人の殉死を聞き知った侍女や従者達が次々と、君の後を追って殉死して、その数は三十三人にも及びました。
 この時、世の人々が唄った歌。

天皇子(あめみこ)が  天(あめ)に帰れば  三十三(みそみ)追う
忠(まめ)も操(みさほ)も  通る天神(あめ)かな












(私論.私見)

31-6~7 神武天皇は久米の娘を妃にしようとしたが中宮に咎められる

31-3 神武天皇は久米の娘を妃にしようとしたが中宮に咎められる(31-6~7)

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ふそよとし きみよつぎなし(31-6)


橿原(かしはら)宮二十四年(神武二十四年)、君(神武天皇)にはまだ世継ぎ皇子がいませんでした。
ということは、このとき九州時代の妃「あびらつ姫」との皇子「たぎし皇子」が既に生まれていたと思われるのですが、世継ぎにはできない何か理由があったようです。



くめがこの いすきよりひめ(31-6)
おしもめに めせばきさきに(31-7)
とかめられ ゆりひめとなり
とのいせず



橿原(かしはら)の久米の娘の「いすきより姫」を「おしもめ」という位の后に召そうとしたら、妃(中宮の「いそすず姫」に咎められてしまいました。
そのため、「ゆり姫」と名前を変えて、姫は殿中には入れられず久米の館でこっそりとお忍びで交わっておられました。

「いそすず姫」が恐妻家と言うか、韓国の言葉にある「地下将軍」という言葉を思い出しました。
「天下将軍」は外面の男に対して、「地下将軍」は女姓が実権を握っているというのは、今も昔も、さもありなん。

ジョンレノ・ホツマ

31-4~6 高倉下は再度反乱の越後に行き説得、越後の国守と弥彦神の称号を与えられる

 31-2 高倉下は再度反乱の越後に行き説得、越後の国守と弥彦神の称号を与えられる(31-4~6)

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ふそとしさみと(31-4)
こしうしろ はつほおさめず
またむかふ たかくらしたは
たちぬかず みなまつろえば(31-5)


橿原宮二十年、「さみと」(ほつま歴28/60後の辛卯かのとう)の年、「こしうしろ」(越後)が初穂(年貢米:税金)を納めないという反乱が起りました。そこで、再び高倉下が鎮圧に向かい、今回は一度も剣を抜かずに説得により相手を服らわすことが出来ました。


みことのり たかくらほめて(31-5)
くにもりと おしてたまわる
やひこかみ


この報告を受けて、君(神武天皇)は詔をしました。
高倉下を誉めて、今度は越後の国守という地位に取り立てて、「弥彦神」の称号を与えました。


 ながくすむゆえ(31-5)
いもとむこ あめのみちねを(31-6)
くにつこと きのたちたまふ



高倉下が越後の国守になって、現地越後に永住することになりました。
そのため、妹の婿の「あめのみちね」に紀伊国の国造役として紀伊国の高倉下の館を賜いました。




31-103~104 孝安天皇が亡くなる

31-60 孝安天皇が亡くなる(31-103~104)
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 みよももふとし(31-103)
むつきこか きみまかるとし
ももみそな
 


御世は、孝安百二年(むろあきつしま宮百二年)一月九日、君(「おしひと」孝安天皇)はお亡くなりになりました。年は百三十七才でした。



みこもはおさむ(31-103)
よそやのち わかみやにいて
まつりかと(31-104)


皇子「ねこひこ」(後の孝霊天皇)は喪に服しました。四十八夜の後、若宮に入り神祀りをしました。

 ながつきみかに(31-104)
おもむろを たまでにおくり


孝安百二年(むろあきつしま宮百二年の)九月三日に、ご遺体を「たまで」に送り埋葬いたしました。



いたりおふ ともにおさめて(31-104)
あきつかみかな


五人のお供の方が後を追って(生きたまま)、一緒に埋葬されました。「あきつしま神」(孝安天皇)でありました。

31綾完

来週以降、31綾の目次(各ページにリンク)を完成させてから、次回29綾に飛びたいと思います。
というのは、29綾・30綾・31綾の前編は神武天皇についての記述なので、29綾からの方が流れがわかりやすいと感じたからです。

今日、2010/11/20読売新聞主催の纒向フォーラムがあり、遺跡の調査報告のみ聴いてきました。
発表者はホツマツタヱを多分御存じないが、ホツマツタヱの記述を裏付ける遺跡からの発見がいくつか報告され、ますますこのホツマツタヱの解読が楽しくなりました。

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31-102~103 駿河宮より「はらみ山」(現富士山)の絵を賜わるが受け取らず

31-59 駿河宮より「はらみ山」(現富士山)の絵を賜わるが受け取らず(31-102~103)

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 こそふとしはる(31-102)
するがみや はふりはらのえ
たてまつる


孝安九十二年(むろあきつしま宮九十二年)春、「駿河宮」の「はふり」(神主、祝主)が「はらのえ」(はらみやま、現富士山の絵)を奉りました。



 みこもふせども(31-102)
きみうけず(31-103)


皇子「ねこひこ」(後の孝霊天皇)は受け取るよう申しましたが、君(「おしひと」孝安天皇)は受け取りませんでした。

後日、孝霊天皇が高齢になってから、富士登山されることになりますが、その時、昔この富士山の絵を見たがあまり良くなかったから捨てたという記述があります。

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31-101~102 待望の「ねこひこ」皇子が生まれる。後の孝霊天皇になる

31-57 待望の「ねこひこ」皇子が生まれる。後の孝霊天皇になる(31-101)

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いそひとし ながつきはつひ(31-101)
きさきうむ いむなねこひこ
おおやまと ふとにのみこぞ


孝安五十一年(むろあきつしま宮五十一年)九月一日、妃(「おし姫」)が待望の皇子を生みました。(初めての皇子です。一人っ子です)
皇子の名は、実名「ねこひこ」で「おおやまとふとに」と言います。後の孝霊天皇になります。



31-58 「ねこひこ」皇子は世継ぎ皇子に(31-101~102)


なそむとし はるむつきいか(31-101)
ねこひこの としふそむたつ(31-102)
よつぎみこ


孝安七十六年(むろあきつしま宮七十六年)新春一月五日、皇子の「ねこひこ」の年が二十六才で世継ぎ皇子に立たれました。

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31-99~100 孝昭天皇のご遺体を博多の洞に納める

31-56 孝昭天皇のご遺体を博多の洞に納める(31-99~100)
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 みそみとしのち(31-99)
はつきそよ おくるみうえの
おもむろを はかたのほらに(31-100)
おさむのり


三十三年後、八月十四日、御上(先帝:「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)のご遺体を「はかた」(博多:奈良県御所市)の洞(ほら)に納めました。



 とみめのからも(31-100)
みなおさむ いきるみたりも
おひまかる あめみこのりや


天君にお仕えした臣や女官たちの亡きがらも一緒に納めました。生きていた三人も後を追って亡くなり(追い枯れ)納められました。天君(神)に仕える子供のとる典(掟:おきて)です。

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31-98~99 考安天皇は「かすが親王」の娘を内宮に

31-55 考安天皇は「かすが親王」の娘を内宮に(31-98~99)

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 ふそむとしはる(31-98)
きさらそよ かすがおきみの(31-99)
おしひめを いれてうちみや
ことしそみ



孝安二十六年(むろあきつしま宮二十六年)春二月十四日、「かすがおきみ」の娘の「おし姫」を内宮にいれました。今年、まだ十三才でした。


この記述は、大問題を秘めていますが、あえて何も触れずに事実だけをそーぅと残してあります。

というのは、「かすが親王」というのはこの孝安天皇の実の兄(四才年上)で、その兄の娘を弟が自分のお妃にしてしまったことになります。今でいう、近親婚にあたります。

なぜ、このようなことをせざるを得なかったのか?

それはそれまで二人のお妃がおられましたが、二十五年間も、子宝に恵まれず、このままでは後継ぎがいなくなるという大問題をかかえていたことが理解できます。

何が何でも世継ぎ皇子をもうけなければならなかったため、苦渋の決断であったと思います。
そのため、実の兄の娘をお妃にしてでも世継ぎが欲しかったため、兄の方を春日の姓にかえて表向きの整合性を持たせたような気もいたします。


後世、日本書記や古事記に日本の国史が編纂されるとき、このことは外国・唐(中国)にはどうしても伏せておかなければという発想があったからだと思います。

そのため、日本書記・古事記の編纂者は、この内容に気がつき、この部分を削除せざるを得なかったものと思います。
欠史八代と言われるようになった真相だと思います。



当時すでに近親婚は野蛮なものとして見ていたことが、後に「やまとたけ」が景行天皇の命を受けて「えみし征伐」に行く時、景行天皇が「えみし」についての情報を教えたとき、そのなかの一つに近親婚を今でもしているので野蛮だということが出てくるからです。


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31-97~98 稲穂虫が大発生し、孝安天皇自ら風吹の祀で祓う

31-54 稲穂虫が大発生し、孝安天皇自ら風吹の祀で祓う(31-97~98)

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 そひほむれくも(31-97)
ほおむしを つくれはきみの
みつからに はらひかぜふの(31-98)
まつりなす



孝安十一年(むろあきつしま宮十一年)、むら雲が太陽をさえぎり、稲穂虫が大発生したという訴えがありました。それを聞いて、天皇自らお祓いをして、風吹(かぜふ)の祀りをいたしました。




 かれよみかえり(31-98)
みづほあつ



お陰さまで、稲穂は再び元気に蘇えり、豊作になりました。




 よりてほづみの(31-98)
まつりなす



よって、「ほづみ」(八月一日に神を感謝する)祀りをいたしました。

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31-94~97 「孝安天皇は天つ日嗣を受け継ぎ「むろあきつしま」に遷都

人皇6代 孝安(こうあん)天皇
「やまとたりひこくに」実名「おしひと」
(むろあきつしま宮)の綾

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31-51  孝安天皇は天つ日嗣を受け継ぐ(31-94~96)


ときあすす みもふそむとし(31-94)
はつのなか あまつひつぎを(31-95)
うけつきて


時、あすず歴三百二十六年、正月の七日、天つ日嗣を受け継ぎました。



 たりひこくにの(31-95)
あめつきみ いむなおしひと
くらひなる かさりをたみに
おがませて(31-96




「やまとたりひこくに」天君が即位されました。実名を「おしひと」と言います。そして、天皇の位である三種の神器を民に拝ませました。孝安天皇になります。



31-52 孝安天皇のお妃(31-96~97)


 しぎながはえが(31-96)
ながひめを おおすけきさき



「しぎのながはえ」の娘の「なが姫」が「おおすけ妃」になりました。



とちいさか ひこがいさかめ(31-96)
うちきさき ながはしにいて
おしてもり(31-97)


「とちいさかひこ」の「いさか姫」が「うち妃」になり、長橋に住まわれて神璽(おしで)を扱う役を担いました。


 すへてそふなり(31-97)

孝安天皇のお妃は全て揃って十二名おられました。



31-53 孝安天皇は「むろあきつしま」に遷都(31-97)

ふとしふゆ むろあきつしま(31-97)
にいみやこ


孝安二年(むろあきつしま宮二年)の冬、「むろあきつしま」に遷都しました。(新しく都をつくりました。

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31-92~94 皇子の神祀りに、兄の「かすが親王」は納得する

31-50皇子の神祀りに、兄の「かすが親王」は納得する(31-92~94)

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  みこかみまつる(31-92)
としみそい おやにつかえて(31-93)
たみおさむ


皇子(皇太子、実名「おしひと」、「やまとたりひこくに皇子」)が、神(亡くなられた孝昭天皇)を祀りました。皇子の年は三十五才になりました。
祖(亡くなられた孝昭天皇、天孫)に仕えて、民(国政)を治めました。



 かれあにおきみ(31-93)
うえなひて


しかるが故に、弟(皇太子、実名「おしひと」、「やまとたりひこくに皇子」)の方針を知り、兄の「春日親王」は納得いたしました。



 そのこををやけ(31-93)
あわたおの かきもといちし
そとみまめ (31-94



春日親王の子は「おおやけ」、「あわた」、「おの」、「かきもと」、「いちし」で十人臣は忠義心を持っていました。



 きみとしごとの(31-94)
はづきいか やよのもまつり(31-94)
まことなるかな



君は年ごと(毎年)八月五日、八夜にわたる喪祀りが、とり行われました。

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31-92 「かえしね」(孝昭天皇)がお亡くなりになる

31-49「かえしね」(孝昭天皇)がお亡くなりになる(31-92)
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やそみとし あきはつきいか(31-92)
きみまかる としももそみぞ


孝昭八十三年(いけごころ宮八十三年)秋、八月五日、君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)がお亡くなりになりました。年は百十三才でした。



とみきさき みなととまりて(31-92)
もにつかふ


臣と妃は皆、君の遺体に留まってお遣いしました。

殉死されたことを言っているものと思います。

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31-91 孝昭天皇は次男の「おしひと」を若宮に、長男の「おしきね」を「かすが親王」に

31-47孝昭天皇は次男の「おしひと」を若宮(立太子礼)に(31-91)
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むそやとし むつきそよかに(31-91)
おしひとを わかみやとなす
としはたち


孝昭六十八年(いけごころ宮六十八)年一月十四日に、次男の「おしひと」を若宮(立太子礼)にいたしました。年は二十でした。



31-48孝昭天皇は長男の「おしきね」を「かすが親王」に(31-91)


 あすをしきねを(31-91)
おきみとし かすがをたまふ


後日、長男の「おしきね」を「おきみ」(親王)として、「かすが」姓を賜いました。(かすが親王)
「あす」を文字通りとれば翌日を意味するが、ここではどうも「後日」という意味合いのように思われる

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31-89~90 孝昭天皇の中宮の「よそたり姫」が皇子を生む

31-46孝昭天皇の中宮の「よそたり姫」が皇子を生む(31-89~90)
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よそいとし さつきそいかに(31-89)
きさきうむ いむなおしぎね
あまたらし ひこくにのみこ



孝昭四十五年(いけごころ宮四十五年)五月十五日に妃(中宮よそたり姫)が皇子を生みました。実名「おしぎね」で「あまたらしひこくに皇子」です。
当時の年をそのまま計算すると、「よそたり姫」は二十五年間子供が授からず、四十才で初産になります。



よそことし きみえはつひに(31-90)
きさきうむ いむなおしひと
やまとたり ひこくにのみこ
うむときに あさひかかやき


孝昭四十九年(いけごころ宮四十九年)、「きみえ」(ほつま歴 51/60後の甲寅きのえとら)の年、元旦に妃(よそたり姫)が(二人目の)皇子を生みました。実名「おしひと」で「やまとたりひこくに皇子」です。生まれた時、ちょうど朝日が輝きました。
弟であっても元日生まれで、生まれた時朝日が輝きとあれば、後に世継ぎ皇子になったのもうなずけます。

それにしても、「よそたり姫」四十四才で生んだ子供になります。

私はこの個所でも当時の一年は今の半年であった可能性があるように思えます。今の暦に当てはめれば、七~八才で妃になり、二十で初産、二十二で二人目を生む、これの方が自然に思えますが・・・。一つの推論にすぎませんので、これ以上詮索するのはやめます。

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31-87~89 孝昭天皇の中宮に「よそたり姫」その兄は「けくに」臣に抜擢

31-44 孝昭天皇の中宮に「よそたり姫」(31-87~88)
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ふそことし きしえはつみか(31-87)
きさきたつ よそたりひめの
としそいぞ



孝昭二十九年(いけごころ宮二十九年)、
「きしえ」(ほつま歴 31/60後の甲午きのえうま)の年の正月三日、
妃(中宮)をたてました。「よそたり姫」で年は十五才です。



 むかしやひこに(31-87)
ゆりひめを たまえはうめる(31-88)
あめいだき このあめをしお
まこむすめ よそたりはこれ



昔、神武天皇が弥彦神(たかくらした)に「ゆり姫」を賜わった時、生まれたのが「あめいだき」の子の「あめおしお」の孫娘がこの「よそたり姫」です。

「やひこ」に「ゆり姫」を賜う
「たけひと:後の神武天皇」が九州に行った留守に「やまと」は乱れます。「にぎはやひ」の勝手な振る舞いを平定するため、「たけひと:後の神武天皇」は東征に向います。そして、熊野から「やまと」へ向かう時、「たかくらした」が神武天皇に「くにむけ」の剣を届け、「やたからす」などと行動を共にし、全てがおさまり、「橿原宮」に即位されます。
平定後、越後の反乱を鎮めるため「たかくらした」が赴きます。反乱を治め、「やひこ」(弥彦)神の称号をあたえられます。

「ゆりひめ」について
神武天皇は「ゆり姫」をお妃にしようとしたが中宮の「いそすず姫」に咎められ、隠れて会っていたようです。
「ゆり姫」は神武天皇の最初の息子「たぎし皇子」(あびらつ姫の子供)に恋焦がれられてしまうほどの絶世の美人だったんでしょうね。(親子で取り合い!?)そんな訳かどうかわかりませんが、「たかくらした」に賜わりました。「たかくらした」に賜わった時「ゆり姫」はまだ二十でした。



31-45 中宮「よそたり姫」の兄が「けくに」臣に(31-88~89)


みそふとし うちみやのあに(31-88)
(みそひとし)小笠原写本
おきつよそ なるけくにとみ(31-89)



孝昭三十二年(いけごころ宮三十二年)(三十一年:小笠原写本)、内宮(よそたり姫)の兄の「おきつよそ」は「けくに」臣に抜擢されました。

「けくに」は後世の「お稲荷さん」

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31-85~87 孝昭天皇のお妃たち

31-43 孝昭天皇のお妃たち(31-85~87)
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 わかみやのとき(31-85)
わかはえが ぬなぎめはすけ(31-86)



天君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)がまだ皇太子であったとき、「わかはえ」の娘の「ぬなぎ姫」が「すけ妃」になりました。



さだひこが めのおおいめは(31-86)
ながはしに おしてあつかふ
かりすけよ



「さだひこ」の娘の「おおい姫」は「ながはし」で神璽(おしで)を扱う仮の「すけ妃」になりました。



うちはべむたり(31-86)
しもよたり あおめみそたり(31-87)


その他に、内女(内侍)は六人、おしも女(下女)は四人、女官(青女)たちは三十人いました。


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31-83~85 人皇5代「かえしね天皇」(孝昭天皇)が天つ日嗣を受け継ぐ

人皇5代 孝昭(こうしょう)天皇
「かえしね」実名「みるひと」
(かたきわきがみ・いけこころ宮)の綾


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31-42 「かえしね天皇」(孝昭天皇)が天つ日嗣を受け継ぐ(31-83~85)


ときあすす ふほよそみとし(31-83)
つみえはる むつきつうえは
こかきしえ あまつひつぎを(こかきみえ:小笠原写本)
うけつぎて(31-84)


時は、あすず歴の二百四十三年、
「つみえ」の年(ほつま歴 3/60後の丙寅ひのえとら)の春、
「つうえ」の月(ほつま歴 23/60後の丙戌ひのえいぬ)の正月の
九日「きしえ」(ほつま歴 31/60後の甲午きのえうま)の日、
九日「きみえ」(ほつま歴 51/60後の甲寅きのえとら)(小笠原写本)
天つ日嗣を受け継ぎました。



 かえしねあめの(31-84)
すべらぎみ かさりおがませ


「かえしね」という天のすべらぎ(天皇)になられて、三種の神器を民に拝ませました。



うつきいか みうえきさきと(31-84)
ははをあげ



四月五日、先帝の母(あめとよつ姫)を太政皇后に格上げしました



 かたきわきかみ(31-84)
いけこころ みやこうつして(31-85)


「かたきわきがみ・いけこころ宮」に新しく都を移しました。



はつとしに いづしこころを(31-85)
けくにとみ


孝昭元年(いけごころ宮初年)に「いづしこころ」を「けくに」臣に任命しました。

「けくに」の「け」は(みけないもうすおもち神)の「みけ」という神への食事、「くに」は国、国政のこと。すなわち、天皇と食事を共にして、国政を話す役職。



 きみとしみそひ(31-85)
さかいおか


天君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)の年は三十一才です。
「さかいおか」に居られました。(堺?不明)

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31-81~83 懿徳(いとく)天皇はお亡くなりになる

31-41 懿徳(いとく)天皇はお亡くなりになる(31-81~83)
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みそよとし ながつきやかに(31-81)
きみまかる



(懿徳:いとく三十四年)まがりお宮三十四年九月八日に君(おおやまとひこ・すきとも・四代懿徳天皇)はお亡くなりになりました。



 わかみやかみに(31-81)
つかえんと もはひとほまて
みあえなす いきますごとく



若宮(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)は、神にお仕えしようと、喪に一年間服しました。まだ生きておられるかのように御会えをされました。



あくるふゆ おくるうねびの(31-82)
まなごたに なそよにまして
おくるとみ とわずかたりや
わかみやも おくりおさめて
みなかえします(31-83)


あくる年の冬、ご遺体を畝傍山(うねび)の「まなご」谷に葬りました。
七十年、在世されました。
送る臣は問わず語らず無言のまま先帝と心を同じくした者、自ら洞に入って殉死されました。
若宮が送りおさめて(見納めて)、みなを天へ返しました。

「なそよにまして・・・」は、懿徳天皇が天つ日嗣を受け継いだのが三十六才のときで、この天皇の「まがおり宮」の年号が三十四年で終わっているのでちょうど七十才で亡くなられたことに合います。よって、「七十年、在世されました。」ということを言っていたことを理解しました。

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31-80 「かえしね皇子」を世継ぎ皇子に(後の孝昭天皇になる)

31-40「かえしね皇子」を世継ぎ皇子に(後の孝昭天皇になる)(31-80)
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ふそふとし きさらつしとは(31-80)
そふおしえ かえしねみこを
よつぎなる ことしそやなり


(懿徳:いとく二十二年)まがりお宮二十二年二月「つしと」(ほつま歴 44/60後の丁未ひのとひつじ)の一日から「おしえ」(ほつま歴 55/60後の戊午つちのえうま) の十二日までの間に、「かえしね皇子」を世継ぎにしました。皇太子になられました。今年十八才でした。


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31-77~80 懿徳(いとく)天皇のお妃とその皇子たち

31-39 懿徳(いとく)天皇のお妃とその皇子たち(31-77~80)

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むつきいか かるまがりおの(31-77)
にいみやこ うつしきさらぎ
そひにたつ あめとよつひめ
うちつみや(31-78)



一月五日、「かるまがりお」(軽・曲峡)に新しい都を移しました。(遷都しました。)そして、二月十一日に「あめとよつ姫」を中宮に立てました。


 しぎいでがめの(31-78)
いづみすけ



「しぎ」(磯城)の「いで」の娘の「いずみ姫」をすけ妃にしました。


 ふとまわかがめ(31-78)
いひひめを ここたえいとし
やよひゆみ すみえにみゆき



「ふとまわか」の娘の「いひ」姫を「ここたえ」という役目にしました。「ここたえ」の「ここ」は菊、「たえ」は麻の着物の意味?
懿徳(いとく)「まがりお宮」五年三月弓の日(弓張りの日、上限の月の日)住之江(住吉神社:現大阪市大和川下流付近)に御幸されました。


みるをみて うちのうむみこ(31-79)
かえしねの いみなみるひと



海松(みる:海藻)を見て、中宮「あめとよつ姫」が生んだ皇子の名前は「かえしね」で実名「みるひと」と言います。

「かえしな」:帰りしな、帰りのときに、「海松(みる)」を見たことを言っている。この「みるひと」は後の孝昭天皇になります。

海松(みる):ミル科の緑藻。干潮線から水深約30メートルの岩上に生え、高さ20~40センチ。体は丸ひも状で二またに分枝を繰り返し、扇状となる。食用。


うちのちち いきしおおきみ(31-79)


中宮「あめとよつ姫」の父は「いきし大親王」と言います。



いいひめが たけあしにうむ(31-79)
たぢまみこ いみなたけしい(31-80)



三番目のお妃「いい姫」が「たけあし」という所で生んだ皇子は「たじま皇子」で実名を「たけしい」と言います。


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31-76~77 安寧天皇をお送りする 

31-38 安寧天皇をお送りする (31-76~77)

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 みおやおくりの(31-76)
ほつみひと しわすのむかと
もはにいり



「みおや」(先祖神:安寧天皇)をお送りする供養は八月一日(ほつみひと)、(ほつみまつり、ほずみ、後の八月朔)と十二月六日(亡くなった日)に行なわれました。



 ながつきそみか(31-76)
ははをあげ みうえきさきと(31-77)



九月十三日、先帝の母(ぬなそ姫)を太政皇后に格上げしました。

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31-34~36 兄の「かんやい皇子」は手足が震え、弟の「かぬかわみみ皇子」が「たぎし皇子」を射ち殺す

31-16 兄の「かんやい皇子」は手足が震え、弟の「かぬかわみみ皇子」が「たぎし皇子」を射ち殺す(31-34~36)

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 おりにひるねの(31-34)
ゆかにふす



ちょうど、その時「たぎし皇子」は昼寝の最中で、床に伏して(寝て)いました。熟睡していました。



 すべみこやゐに(31-34)
のたまふは ゑとのたがいに
きしらうは あづくひとなし



すべ皇子(天皇になられる皇子、かぬなかわ皇子)が「やい」(かんやい皇子)に言うには、兄弟でお互いに張り合っても(競り合う)、意味がない(預ける人はいない:人は相手にしません)。



われいらば なんぢゐよとて(31-35


我が(すべ皇子)がまず先に室に入るから、汝が射殺せと言いました。



むろのとを つきあけいれば(31-35)
あにいかり ゆきおひいると
きらんとす



室の戸を突き上げて乱入すると、気配で目を覚ました兄(たぎし皇子)は「靫(ゆき)を背負って(武器を持って)踏み入れるとは不届き者め」と怒って剣を抜いて二人に斬りかかってきました。



 やゐみこてあし(31-35)
わななけば すべみこゆみや(31-36)
ひきとりて ひとやをむねに
ふたやせに あててころしつ



このとき、「やい皇子」(かんやい皇子)は、手足がガタガタ震えてしまい何もできません。とっさに、「すべ皇子」(かぬなかわ皇子)が、弓矢を引き取って、一つ目の矢を胸に、二つ目の矢を背中に命中させて殺しました。

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31-32~34 若宮(かぬかわみみ皇子)は「たぎし皇子」の先手を討って行動を起こす

31-15 若宮(かぬかわみみ皇子)は「たぎし皇子」の先手を討って行動を起こす(31-32~34)

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 これはからんと(31-32)
わかひとに ゆみつくらせて



この陰謀に計略を謀ろうと「かぬかわみみ皇子」は「わかひこ(弓削若彦)」に弓を作らせました。



まなうらに まかこのやじり(31-33)
きたわせて



「まなうら(天津真浦:刀作り)」に「ま(真)かこ弓」(鹿討)の矢じり(鍛造:鍛わせて)を取りつけた弓矢です。



 かんやゐみこに(31-33)
ゆきおはせ ぬなかわみこと
ゑといたる かたおかむろの
たきしみこ(31-34)



この弓矢を「かんやい皇子」(二男)に靫(ゆき)を背負わせて、「かぬなかわ皇子」(三男)とこの兄弟は「たきし皇子」(腹違いの長男)のいる「かたおかむろ」(奈良県香芝市)に向かいました。


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31-30~32 若宮(かぬかわみみ皇子)は母親の歌に隠された暗号を読みとる

31-14 若宮(かぬかわみみ皇子)は母親の歌に隠された暗号を読みとる(31-30~32) 

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わかみやは このふたうたを(31-30)
かんがえて さゆにそこなふ
ことをしる



若宮(皇太子:「かぬかわみみ皇子」)は、この二つの歌を読んでしばし考えた末、この「さゆ川」で殺りくが迫っている暗示を悟りました。



 かんやゐみこに(31-30)
ものがたり



そこで、若宮(皇太子:「かぬかわみみ皇子」三男)は、「かんやい皇子(二男)」に耳打ちして話しました。



 むかしきさきを(31-30)
こかせしも おやこのなさけ(31-31)
うちにすむ



昔、兄たぎし皇子は、君(神武天皇)の后であった「いすきより姫」(後の「ゆり姫」)を、こか(子供が)せし(せしめよう)と(犯そうと)企んで失敗した男だが、親子の情け(一族の恥)で内内に済んだ過去がある。



 いまのまつりの(31-31)
わかままも とみにさつけて
のくべきを



今は政事を我がものにしようと我がままに振舞っている。本来ならば、臣に任せて、自分は身を引くべきではないか。



 またいらふこと(31-31)
いかんぞや あにがこばみて(31-32)
おくりせず



また、要らぬことをしているのはどういうことなのだ。兄(たぎし皇子)が拒んで葬儀も未だ行なえていない。



 われらまねくも(31-32)
いつわりぞ


今日、此処に我々を招いたのも陰謀ではないか。


「たぎし皇子」に果たして弟二人に対して殺意があったかどうかは今となっては不明です。
しかし、当時は直接の行動を起こさなくとも、思っただけでも罪になったようなので、それまでのふるまいから正当化されたものと考えます。
「いそすず姫」が我が子可愛いさのため、他のお妃の子供は常に目障りに映る過剰反応であったかようにも見えます。
まさに「死人に口なし」で、後の「かんやい皇子」の行動を見てふと疑問に思った次第です。

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31-27~29 「たぎし皇子」の陰謀を「いそすず姫」が察知、我が息子に危機を知らせる

31-13 「たぎし皇子」の陰謀を「いそすず姫」が察知、我が息子に危機を知らせる(31-27~29)

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たきしみこ ふたおとをたつ(31-27)


たぎし皇子は密かに腹違いの弟二人を殺そうと陰謀を企んでいました。



うねびねの さゆのはなみと(31-27)
みあえして むろやにめせば



たぎし皇子は「うねび山」の麓の「さゆ川」に「さゆり」の花見の宴を開き、室屋(竪穴住居)に招きました。



ゐすずひめ うたのなおしを(31-27)
こはしむを わかみやふだを(31-28)



「いそすず姫」は室屋で行なわれることに不審に思い、二人の息子に危険が迫っていることを知らせるために、歌の直し(添削)を乞う(頼む)ふりをして、若宮(息子)に歌見札を渡しました。



とりみれば いいろよむうた(31-28)


歌見札を取ってみたところ、いろいろな意味にとれる歌が記されていました。



さゆがわゆ くもたちわたり(31-28)
うねびやま このはさやぎぬ
かぜふかんとす(31-29)



「さゆ川」より、暗雲が立ち渡り、うねび山の木の葉がさやぎ不穏(不吉な)な風が吹こうとしています。(一つ目の歌の内容です)


うねびやま ひるはくもとゐ(31-29)
ゆふされば かぜふかんとぞ
このはさやぎる



うねび山 昼は雲が立ち込めていて 夕方になると風が吹きだして木の葉がざわつき不穏です。(二つ目の歌の内容です)

さあ、若宮はこの歌をどう読み取ったのでしょうか?

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31-25~26 神武天皇の葬儀を「たぎし皇子」が仕切る 

31-12 神武天皇の葬儀を「たぎし皇子」が仕切る (31-25~26)

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あめたねこ くしねうさまろ(31-25)
わかみやに おくりはかれば


「あめたねこ」と「くしね」(あだつくしね)と「うさまろ」の三人(直り三臣:なおりみたり)は若宮(たぎし皇子)に葬送の儀について相談されました。 


たきしみこ ひとりまつりを(31-25)
とらんとす(31-26



しかし、天皇の崩御以来、「たぎし皇子」が独善的になり一人で政事を執ろうとされていました。

自分より年下で、腹違いの「かぬかわみみ皇子」を世継ぎ皇子にされてしまったため、「たぎし皇子」は長男であるというプライドが許せなかったであろうことが、うかがえます。


 なおりみたりは(31-26)
わかみやに とえどこたえず



直り三臣(なおり三人:「あめたねこ」と「くしね」(あだつくしね)と「うさまろ」の三人)は若宮(たぎし皇子)に問い合わせ(申し入れ)しましたが返事はありませんでした。


もにいりて もろはにまかす(31-26)
みおくりを こはみてのばす


自ら(たぎし皇子)は喪に入って、政事は両翼の臣に任せるべきであるのに、君(神武天皇)の葬送も拒否して延び延びになっていました。

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31-7~8 中宮の「いそすず姫」が皇子を生む

31-4 中宮の「いそすず姫」が皇子を生む(31-7~8)


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きさきはらみて(31-7)
あくるなつ かんやいみみの
みこをうむ いみないほひと(31-8)



その後、中宮の「いそすず姫」に待望の懐妊の兆候がありました。
そして翌年の夏に「かんやいみみ」皇子をお産みになりました。実名を「いほひと」と言いました。


神武天皇の浮気封じのため、「いそすず姫」は「さねん」と、いそしんだことと思われます。

前後関係から橿原(かしはら)宮二十五年(神武二十五年)に生まれたことになります。

なお、神武天皇から見れば二人目の子供になります。
長男は九州時代の「あびらつ姫」が生んだ「たぎし皇子」です。



ふそむふゆ まつりみゆきの(31-8)
やすたれに かぬかわみみの
みこうみて いみなやすぎね



橿原(かしはら)宮二十六年(神武二十六年)の冬、「やすたれ」という所に祀りごとがあって、君(神武天皇)と中宮「いそすず姫」は御幸されました。その時に、「かぬかわみみ」という皇子をお生みになりました。実名を「やすぎね」と言います。


一人生まれたら、二人目はあっという間に出来たという感じですね。
中宮「いそすず姫」はお二人の皇子をお生みになりました。神武天皇から見れば三男で、後の綏靖天皇になります。

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31-74~77 四代目懿徳(いとく)天皇が皇位継承

人皇4代 懿徳(いとく)天皇
「おおやまとひこ・すきとも」実名「よしひと」
(かるまがりお宮)の綾


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31-37 四代目懿徳(いとく)天皇が皇位継承(31-74~77


ときあすず ふおやほさみと(31-74)
きさらよか ねあえわかみや
としみそむ あまつひつぎを(31-75)
うけつぎて


時、あすず歴(神武天皇即位後)の二百八年、「さみと」(ほつま歴 28/60後の辛卯かのとう)の年、
二月四日「ねあえ」(ほつま歴 49/60後の壬子みずのえね)の日、若宮(四代懿徳天皇「おおやまとひこ・すきとも」)は、年は三十六才で天つ日嗣を受け継ぎ皇位継承いたしました。

 
おおやまとひこ(31-75)
すきともの あめすべらきと
たたえます



「おおやまとひこ・すきとも」(四代懿徳天皇)として称えられました。

 
あめののりもて(31-75)
おがませて(31-76)



天(天孫ニニキネの時代)の典(行ない・詔)に則って、民に三種の神器を拝ませました。



 まかりおこよみ(31-76)
あらためて


「まかりお」宮に遷都しましたので、年号を「まかりお」宮の暦に改めました。

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31-71~74 「おおやまとすきとも」(後の懿徳(いとく)天皇)が世継ぎ皇子になり、安寧天皇がお亡りになる

31-35 「よしひと」(おおやまとすきとも、後の懿徳(いとく)天皇)世継ぎ皇子になる(31-71~72)

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 そひのはつみか(31-71)
よしひとの いまやとせにて(31-72)
よつぎみこ


(安寧十一年)うきあな宮十一年の正月三日、「よしひと」(おおやまとすきとも、四代目の懿徳(いとく)天皇になる)は、今八才で世継ぎ皇子(皇太子)になりました。




31-36 三代目安寧天皇がお亡りになる(31-72~74)


 みそやさみゑの(31-72)
しはすむか すべらぎまかる



(安寧三十八年)うきあな宮三十八年、「さみえ」(ほつま歴 27/60後の庚寅かのえとら)の年の十二月六日、すべらぎ(安寧天皇)はお亡くなりになりました。
「すべらぎ」(すべる:統率する男)漢字が渡来してからは「大王」と言われていたが、推古天皇の以降あたりから「天皇」と言われるようになった。



わかみやの もはいりよそや(31-72)

若宮(実名「よしひと」で「おおやまとすきとも」(四代目の懿徳(いとく)天皇になる)は喪に服すこと、四十八日目の夜まで続きました。



ほぎもなし(31-73)

新年の祭もありませんでした。



 いさかわみそぎ(31-73)
みやにいで まつりごときく


「いさかわ」(春日山から「さほ川」までの川、大和川の源流)で、禊ぎをした後、宮に出て祀り事を聴きました(政務を行ないました)。



とみわけて うきあなのかみ(31-73)
みあえなす


臣を先帝の大臣と新しい大臣を切り離し分けて、「うきあなの神」(安寧天皇「たまでみ」)に呼んで御宴をいたしました。そして、先帝の臣を離しました。



 あきおもむろを(31-73)
うねびやま みほどにおくる(31-74)
としななそなり


八月一日、「うきあなの神」(三代安寧天皇「たまでみ」)のご遺体をうねび山の「みほど」陵にお送りいたしました。亡くなった年は七十才でした。

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31-66~71「たまでみ」(安寧天皇)のお妃が生んだ皇子たちと臣たち

31-34 「たまでみ」(安寧天皇)のお妃が生んだ皇子たちと臣たち(31-66~71)
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 きみゑのしはす(31-66)
かたしほの うきあなみやこ


「きみえ」(ほつま歴51/60後の甲寅きのえとら)の年の十二月、「かたしほ・うきあな宮」(片塩浮孔宮)に移りました。


きみとはつ ぬなそひめたつ(31-67)
うちつみや


「きみと」(ほつま歴52/60後の乙卯きのとう)の年の正月、「ぬなそ姫」が中宮に立たれました(なられました)。


 これはくしねが(31-67)
おうえもろ ぬなたけめとり
いいかつと ぬなそうむなり


このお姫様についてですが、「ぬなそ姫」は、「(あだつ)くしね」(七代目おおものぬし)の「おうえもろ」(東大阪市,平牧(ひらおき)神社の神主)の娘の「ぬなたけ姫」を娶り、「いいかつ」と「ぬなそ姫」を生みました。



しきはえが かわづめすけに(31-68


「しきはえ」(奈良県桜井市の豪族)の娘の「かわず姫」が「すけ妃」になりました。
「かわず姫」は安寧天皇の二番目のお妃になります。



これのさき おおまがいとい(31-68)
ながはしに うむみこいみな
いろきねの とこねつひこぞ
かれうちを おおすけとなす(31-69



これ以前の話ですが、「おおま(のすくね)」の娘の「いとい姫」が「ながはし」という所で生んだ皇子は実名「いろきね」で「とこねつひこ」と言います。
よって、お妃の「いとい姫」は(子供が生まれたので)「うちめ」から「おおすけ」に格が上がりました。
「いとい姫」は安寧天皇の三番目のお妃になります。




かわづひめ うむみこいむな(31-69)
はちぎねの しぎつひこみこ


「かわず姫」が生んだ皇子は、実名「はちぎね」で「しぎつひこ皇子」と言います。



よほつやゑ うつきそいかに(31-69)
ぬなそひめ うむみこいむな(31-70)
よしひとの おおやまとひこ
すきともぞ


(安寧四年)うきあな宮四年、「つやえ」(ほつま歴 3/60後の丙寅ひのえとら)の年、の四月(卯の花の月)十五日に、「ぬなそ姫」(中宮)が生んだ皇子は実名「よしひと」で「おおやまとすきとも」と言います。
(後の四代目の懿徳(いとく)天皇になります)



 たけいいかつと(31-70)
いつもしこ なるけくにおみ


「たけいいかつ」と「いつもしこ」は「けくに」臣(「みけないもうすおもちかみ」天皇と食事を取られ国政を語る臣、今の官房長官のようなもの)になりました。



おおねとみ なるいわいぬし(31-71)

「おおね」臣は「斎主、いわいぬし」(神だけを祀る専門の神職)に抜擢されました。



むほおしゑ むつきそいかに(31-71)
うちのうむ いみなとぎひこ(いむなときひこ)
くしともせ


(安寧六年)うきあな宮六年、「おしえ」(ほつま歴 55/60後の戊午つちのえうま)の年、一月十五日に、内宮(ぬなそ姫)が(二人目に)生んだ皇子の実名が「ときひこ」で「くしともせ」と言います。

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31-65~66 綏靖天皇のご遺体を「つきだおか」に

31-33 綏靖天皇(すいぜい天皇)のご遺体を「つきだおか」に(31-65~66) 

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かんなそか おもむろおくる(31-66)
つきだおか


十月(神々が並びいる月)十日、ご遺体(二代目綏靖天皇)を「つきだおか」(奈良県橿原市畝傍山のふもと)に送りました。

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31-62~65「たまでみ」皇子誕生のとき、「たまでひこ」に取り上げられた

31-32 「たまでみ」皇子誕生のとき、「たまでひこ」に取り上げられた(31-62~65)

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話が前後します。
「たまでみ皇子」が生まれる時、「こもり」・「かつて」に取り上げられたときの話になります。


 むかしここなの(31-62)
はなみとて みすすよりひめ
かわまため しぎくろはやが
たちにゆき みこうまんとし(31-63)
みかやめる


昔、菊栗(ここな)の花見(九月九日)のとき、中宮の「みすずより姫」が「かわまた姫」と「しぎくろはや」の館に行った時に、皇子がまさに生まれようとして、三日間苦しんで病んでおられました。



 ときめおときて(31-63)
これをこふ きみにもふして
たまでひこ かかえとりあげ
やすくうむ(31-64)


そのとき、夫婦ものが来て(陣痛の叫び声を聞きつけて)、君(天皇)に、取り上げさせてください(出産の手助け)と申しあげたところ、夫の方の「たまでひこ」が子供を抱え取り上げ、易く出産することが出来ました。



 しぎがやあさひ(31-64)
かかやけば たまでがみなを
すすめいふ


「しぎくろはや」の館で朝日が差し込んで輝きました。「たまでひこ」が私に名付け親にさせて下さいと進言しました。



 かばねをとえば(31-64)
あはこもり めはかつてひこ



名前も聞かずに出産を手助けしてもらったので、改めて名前を聞きました。男の方は「こもり」と名乗り、女の方は「かって」の「ひこ」(曾孫)と名乗りました。
「こもり」は世襲の名前で「おおものぬし三代目」「よろぎまろ」とも言う。「ことしろぬし」の子供。「みほしこ」とも言った。昔はこのように実名の他に称え名が一杯あった。子供を三十六人無事に育てたことより、天照神から「こもり」の名を賜わった。
「かつて神」は「さくらい」の「ひとことぬし」の子供)は宮中の中のことを司る役でお産婆さんでもあった。



たまふなは わかみやのうし(31-65)
もりのとみ こもりかつての
ふたかみを よしのにまつり


「たまでひこ」が賜わった名前は「わかみやのうしもりのとみ」です。「わかみや」(皇太子になる)「うし」(氏)「もり」(お守りする)「とみ」(大臣である)
先祖(三代前)の「こもり神」と「かつて神」の二神を吉野に祀りました。



ははをあげ みうゑきさきと(31-65)
かれみなも いみなもそれぞ(31-66)


先帝の母を上げ、太政皇太后としてまつりました。
よって、「たまでみ」という名前も「しぎひと」という実名もそれぞれ祀りました。

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31-60~62 代が代わり、臣も全て新しく代わる

31-31 代が代わり、臣も全て新しく代わる(31-60~62)
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わかみやの まつりこととる(31-60)
とみはあらたぞ(31-61



若宮(新しい安寧(あんねい)天皇「たまでみ」)の祀り事を仕切る
臣は全て新たになりました。



ときあすず ももなそねあと(31-61)
あふみみか みこしぎひとの
としみそみ あまつひつぎを
うけつぎて たまてみあめの(31-62)
すべらぎみ



時はあすず歴の百七十年、「ねあと」(ほつま歴 50/60後の癸丑みずのとうし)の年、
七月(あふみ月)三日、皇子「しぎひと」の
年は三十三才で天つ日嗣を
受け継ぎました(皇位継承しました)。そして、「たまでみ」天皇(天のすべらぎみ)になられました。

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31-60 「たまで皇子」は喪明けで輪抜けで身を清める

人皇3代 安寧(あんねい)天皇
「しぎひこ」実名「たまでみ」(うきあな宮)
の綾


31-30 「たまで皇子」は喪明けで輪抜けで身を清める(31-60)
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いさかわに みそぎのわぬけ(31-60)
みやにいづ



皇太子は喪が明けたら、「いさかわ」に入り「みそぎ」をして、「わぬけ」茅の輪くぐりをして汚れを祓い身を清めることに専念し、宮中には行きませんでした。



 みうえのとみや(31-60)
かみまつる わかれつとむる



代が代わって、新しい天皇になって、今までの臣(御上の臣)は神(亡くなられた天皇)を祀ること(お別れの儀式)に専念しました。

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31-59 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)が亡くなり喪に服す

31-29「かぬがわみみ」(綏靖天皇)が亡くなり喪に服す(31-59)
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 みそむほさつき(31-59)
そかねなと すべらぎまかる
やそよとし


(綏靖三十六年)「たかおか宮」三十六年五月十日、「ねなと」(ほつま歴 40/60後の癸卯みずのとう)の日、「すべらぎ」(かぬがわみみ:綏靖天皇)はお亡くなりになりました。
八十四才でした。



 わかみやそのよ(31-59)
もはにいり よそやよいたり


若宮(皇太子:「たまで皇子」実名「しぎひと」)はその夜から裳喪に入り四十八日目の夜まで服しました。(喪明け四十九日につながる)

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31-57~59 「あめたねこ」(春日大社の御祭神)が亡くなる

31-28 「あめたねこ」(春日大社の御祭神)が亡くなる(31-57~59)

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しもそよか あめたねこさる(31-57)
ももやそな(31-58)



その年「さあと」(ほつま歴 38/60後の辛丑かのとうし)の年の十一月十四日(又は同じ月すなわち一月二十四日)、「あめたねこ」が亡くなりました。
年は百八十七才でした。
「あめたねこ」(春日大社の御祭神)は「あめのこやねの命」の孫(三代目)にあたります。



 おもむろおさむ(31-58)
みかさやま



「あめたねこ」のご遺体を「みかさやま」に納めました。



 かすがのとのに(31-58)
あひまつる



「あめたねこ」を春日の殿(春日神社)に一緒に祀りました。



 みかさのかばね(31-58)
うさまろに たまひてたたゆ
みかさおみ(31-59)



「うさまろ」は四代目「みかさ」の姓を賜わり、「みかさ」臣と称えられました。

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31-56~57 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)の子供たち

31-27 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)の子供たち(31-56~57)
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さやとながもち(31-56)
きさきうむ いみなしぎひと
たまでみこ


「さやと」(ほつま歴 18/60後の辛巳かのとみ)の年、九月十五日、中宮の「みすずより姫」(「あだつくしね」七代目大物主の妹)が生んだ皇子は実名「しぎひと」で「たまで皇子」です。



 むほねしゑふゆ(31-56)
いとおりめ うむいきしみこ
すけとなる(31-57)



(綏靖六年)「たかおか宮」六年、「ねしえ」(ほつま歴 19/60後の壬午みずのえうま)の年、冬、「いとおり姫」が「いきし皇子」を生みました。そして、「いとおり姫」は「すけ妃」に昇格しました。



 ふそいさあとの(31-57)
むつきみか しきひとたてて

よつぎみこ いまふそとし(いまふそとし:小笠原)この行以下訂正:2010/10/21

(綏靖二十五年)「たかおか宮」二十五年の「さあと」(ほつま歴 38/60後の辛丑かのとうし)の年、新年(むつみ:みつみあう月)の三日、「しきひと皇子」をたてて世継ぎ皇子にしました。(立太子礼)
皇子は今年二十五才(二十一才)です。

綏靖天皇「たかおか宮」の新年が、あすす歴の百三十四年、
「つあえ」(ほつま歴 13/60後の丙子ひのえね) :和仁估写本
(「つあと」(ほつま歴 14/60後の丁丑ひのとうし)一年違い:小笠原写本)ですから、
この皇子の生まれたのが「さやと」の年:(ほつま歴 18/60後の辛巳かのとみ)とありますから、(綏靖)「たかおか宮」五年か六年(小笠原)です。
世継ぎのとき「さあと」の年は:(ほつま歴 38/60後の辛丑かのとうし)とありますから、(綏靖)「たかおか宮」二十五年の二十年後になります。
しかし、皇子の年が二十五才とあるので、(綏靖)「たかおか宮新年」と皇子の生まれた年と取り違えて記載されているように思います。ちょっとややこしいですけど。
ジョンレノ・ホツマ
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31-55~56 みしりつひこ(「かぬがわみみ」綏靖天皇の兄)が亡くなる

31-26 みしりつひこ(「かぬがわみみ」綏靖天皇の兄)が亡くなる(31-55~56)
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 よさやえうづき(31-55)
いほみさる みしりつひこの
かみとなる(31-56)
 


(綏靖四年)「たかおか宮」四年、「さやえ」(ほつま歴 17/60後の庚辰かのえたつ)の年の四月に「いほ」の御神がお亡くなりになりました。
「いほみ」の「み」は「みこ」という意味、あるいは「みしりつひこ」の「み」にもとれます。
そして、弟をたてて身の程を知った「みしりつひこ」(「かぬがわみみ」綏靖天皇の兄)の神となられました。

「みしりつひこ」神社は世襲で祭って「おお」一族「おおのやすまろ」が子孫になります。
別名「いほのとみ・みしりつひこ」で「いほ」(井保)姓については、和仁估安聰釋述「ほつまつたゑ」が見つかった井保家の先祖にあたることが確認されています。

ジョンレノ・ホツマ
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31-55 「ひこゆき」を「祀りの臣のすけ」にする

31-25 「ひこゆき」を「祀りの臣のすけ」にする(31-55)

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 またあまぎみは(31-55)
ひこゆきを まつりのおみの
すけとなす


天君「かぬがわみみ」(綏靖天皇:神武天皇の三男)は「ひこゆき」(「にぎはやし」の子供の「うましまじ」の次男:旧事紀より)を「祭りの臣」(みけないもうすおもち神)の「すけ(太輔、天皇を助ける)」としました。

「みけないもうすおもち神」:天皇と食事を共にして国政を語る大臣、以前は左大臣、右大臣という呼び方でした。

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31-54~55 宇佐に「いとう」(善知鳥)の三女神 

31-24 宇佐に「いとう」(善知鳥)の三女神 (31-54~55)


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 うさにいとうの(31-54)
みめかみや(31-55)


また、宇佐(宇佐八幡)では氏神様として「いとう(うとう:善知)」の三女神(天照大神の宗方三女神、たけこ、たきこ、たなこ)を祀りました。

三女神(みめかみ)は宗方三女神とも言う。

別名「おきつしま姫」、「えつのしま姫」、「いちきしま姫」のことです。三女神は天照大神と「こます姫はやこ」との娘になっているが、実際は「そさのう」の子供であったと疑われました。

この三人は、そのため、宇佐に流されました。そこで天照大神のお妃の一人、宗方のご出身の「とよ姫」が三女神を育てられ、大人になって、母「こます姫はやこ」が浮気をして出来た子供と知らされ、自らの身の汚れを掃うために「かだがき」(琵琶の原点)を持って、全国を遍歴の旅に出ました。

「うとう神社」(青森県)で祭られているのは、「しまずひこ」(「おおくにぬし」が津軽に流されてからの子供)が本州の北の果てで三人をいとしく思い「いとう神社」を建てたところ、善知鳥(うとう)という鳥が啄ばみに来たので「うとう」になった。

なお、此処での「いとう」には、愛しく思うという意味と世の中を厭うという二つの意味が含まれています。

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31-54 「住吉の神」、「直入物主」、「直入中臣」の三人は直り神として崇められる

31-23 「住吉の神」、「直入物主」、「直入中臣」の三人は直り神として崇められる(31-54)

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 それよりたみの(31-54)
うふすなと まつるすみよし
ものぬしと なかとみあわせ
なおりかみ



それ以降、民(たみ、国)の氏神様(うぶすな神)になりました。
氏神様としてお祀りしたのが、「住吉の神」と「なおり物主」と「なおりなかとみ」の三神を合わせて、その土地の神「直り神」としました。

「うぶ」:生まれたときお参りに行く神、「すな」:土地を示す。

「すみよしの神」正式名は「かなさきの神」。
天照大神の時代、八年にも及ぶ「はたれ」の乱という内乱を「かなさき」が「みそぎつかさ」を、天照大神から司って、内乱を鎮めて平和が蘇えったので、「すみよろし」の神という名を賜わった。そして、天照大神より九州全土を賜わったので、九州全土の氏神様(うぶすな神)となる経緯があります。
「すみよろし」が後日漢字化されたときに「住吉」になった。

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31-51~54 筑紫より御幸の要請、「なおりなかとみ」が派遣される

31-22 筑紫より御幸の要請、「なおりなかとみ」が派遣される(31-51~54)

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つくしより みゆきをこえば(31-51)
みかわりと なおりなかとみ
くだらしむ



筑紫(九州:旧つくしみの国)より御幸の要請(天皇に国が乱れているので国を治めに来て下さい)があったので、天皇(綏靖天皇)の身代わりに「なおりなかとみ」を派遣させました。

「なおり神」(稲熱病のお祓い:「かぜふ」の祓い)の神は二系統あった
「なおりなかとみ」-後の藤原系―春日系―左大臣
「なおりものぬし」-おおもの主―右大臣




 とよのなおりの(31-51)
あがたなる みそふのぬしも
のりをうく(31-52)



「なおりなかとみ」は、豊前、豊後(現在の大分県、一部福岡県)の「なおり」の縣主(直入郡)に派遣され仮都をつくり政治をとりました。そして、九州の三十二の県主も支配下になりました。「宣告:のり」を受けて(法の下に)国を治めました。)



 さきにさみたれ(31-52)
むそかふり さなえみもちに
いたむゆえ つぐるおしかど
いなおりの はらひかぜふの
まつりなす(31-53)



これより先(以前)、五月雨が六十日間、降り続きました。そして、早苗(さなえ)が稲熱病になって傷んでしまいました。そのため、勅使(「なおりなかとみ」)に訴え、「稲直りの風吹(かぜふ)の祓いの祀り」(風によって雲を掃い晴れを願う)をいたしました。



 ぬしらつとめて(31-53)
おしくさの まもりになえも
よみかえり



主ら(九州の三十二の県主達)は努めて、「おしくさのまもり」(ごまの葉草、げんじん(黒参)を片手に持って、もう片方でからす扇を持って扇ぎたてながら、虫払いの歌を歌って稲虫・イナゴを追いたてる)のよって、苗も蘇えりました。
雨続きの雲を追い払う儀式と稲虫(いなご)を追い払う儀式と混乱しているかも知れません。




 みあつくなれば(31-53)
にぎわひて かれにほづみの
まつりなす(31-54)



実が熟し(稲が実を結び)、収穫の時期を迎え賑わいました。よって、「ほづみのまつり」(秋祭り、八朔の祭り:八月一日)をしました。(豊かになりました)

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31-47~50 大神神社(おおみわ)の御祭神の起源について

31-21 大神神社(おおみわ)の御祭神の起源について(31-47~50)

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 はつきはつひに(31-47)
みことのり われきくむかし
おおなむち ことなすときに



(綏靖三年)「たかおか宮」三年の一月元旦に、詔がありました。
私「かぬがわみみ」(綏靖天皇)は昔、聞いたことがあります。それは、「おおなむち」(くしね、五代目?)は、いろいろな事業を起こすとき、自分は何をやっても上手くいくと豪語していた。

(綏靖二年)「たかおか宮」二年の後の初めての月とあるので、三年と考えます。



みもろかみ われあればこそ(31-48)
おおよその ことなさしむる
さきみたま またわざたまは
わにひこぞ



そうしたら、天の声(大三輪神、現在みむろ神)が、おまえがやっているのではなく、後ろで全て(おおよそ)の事を私がやっている(守っている)のだ。私は先御霊(さきみたま、先祖神=ことしろ主、二代目おおものぬし)である。
また、いろいろなことをする(技、術)は「わにひこ」(くしみかたまの命)です。



 かれおおなむち(31-48)
つぎとなす(31-48)



よって、「おおなむち:ことしろぬし」(大物主)は「次なる人:すぐなる人、杉の木を植えた」が現われるのを待ちました。




 みたびめくりて(31-49)
ことなせば ひとりわかれて
みたりめの わにひこまてが
みわのかみ



 三度(三代)にわたって、国のために尽くした神々は、最初は「二代目ことしろ主」(こと、えびす)、二人目が「ふきね」(「ふきね」には子供がいなかった)、三人目が(一代とんで、養子に行った=一人分かれて)「わにひこ」(くしみかたまの命)が「みわ」大神神(おおみわ)の神を賜わりました。
すなわち、「みわのかみ」とは、「おおなむち」系の三神を称えて賜わった名前ということになります。
以上、大神神社(おおみわ)の御祭神の起源についての説明になります。



 よよすべらぎの(31-49)
まもりとて ながつきそひか(31-50)
まつらしむ


代々すべらぎ(天皇)の守護神である。九月十一日にこの祭神を祭らせました。



 あだつくしねに(31-50)
おおみわの かばねたまわる



「あだつくしね」(七代目おおもの主)に「おおみわ」(大神神)の姓を賜わりました。(今までは「みわのかみ」)


わにひこは ももこそふほぞ(31-50)


「わにひこ」(くしみかたまの命、「あだつくしね」の父親)は百九十二才でした。

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31-44~47「かぬがわみみ」(綏靖天皇)のお妃たち

31-20 「かぬがわみみ」(綏靖天皇)のお妃たち(31-44~47)

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ふとしはる みすずよりひめ(31-44)
うちつみや しぎくろはやが
かわまため おおすけきさき


(綏靖二年)「たかおか宮」二年の元旦(春)、「かぬがわみみ」(綏靖天皇)の「みすずより姫」が内宮(うちつみや)になりました。信貴の「くろはや」の「かわまた姫」が大典侍后(おおすけ妃)になりました。



あだがまご あだをりひめは(31-45)
すけきさき



「あだ」の孫の「あだおり姫」は、すけ妃になりました。



 かすがあふゑの(31-45)
もろがめの いとおりひめを
ここたえに みこながはしの
おしてもり(31-46



「かすがあふえもろ」の娘の「いとおり姫」が「ここたえ(菊妙)」役になりました。そして、天皇(かぬがわみみ皇子)の「ながはし」の「おしで」(神璽、事務方の責任者)守役になりました。



 かだきくにづこ(31-46)
つるぎねが めのかつらひめ
うちきさき



「かだぎ国造(くにづこ)」の「つるぎね」の娘の「かつら姫」が「うち妃」になりました。



 いとかつらより(31-46)
しもきさき


「かつら姫」の妹の「かつらより姫」は「おしも妃」になりました。



 あめとみがめの(31-46)
きさひめも しもきさきまた(31-47)



「あめとみ」の娘の「きさ姫」も「しも妃」になりました。



ことめみそ(31-47)


そのほか、待女(女官)が三十人いました。


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31-41~44 神武天皇の「おもむろ」を埋葬、殉死者は三十三人に

31-19 神武天皇の「おもむろ」を埋葬、殉死者は三十三人に(31-41~44)

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ながつきの そふかつみえに(31-41)
おもむろを かしおにおくる



(綏靖元年)九月(菊栗月、菊な月)の十二日「つみえ」(ほつま歴 3/60後の丙寅ひのえとら)の日に、神武天皇の「おもむろ」(死骸)を「かしお」(うねび山東北白檮尾)の陵に埋葬しました。



よそほひは あびらつひめと(31-42)
わにひこと とはずかたりを
なしはべる きみとみともに
ほらにいり かみとなること



神武天皇の葬送のその時の状況(装い)は「あびらつ姫」と「わにひこ」(くしみかたま)とが無言でかしこまってつき従い、君の亡きがらと臣は共に洞に神になりました(追い枯れ、臣は生きたまま殉死されました)。



あすききて おひまかるもの(31-43)
みそみたり



あくる日、お二人の殉死を聞いて、待女や従者たちは次々と君の後を追って殉死したものは三十三人にもなりました。


 よにうたふうた(31-43)


このとき、世の人々が唄った歌です。



あまみこが あめにかえれば(31-43)
みそみをふ まめもみさほも
とほるあめかな(31-44)



天皇子(あまみこ)が天(あめ)に帰れば(天国に召されたとき)
三十三(みそみ)人が後を追いました。天には、忠(まめ)も操も通じています。

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31-38~41「かぬかわみみ皇子」が天皇に即位する。(綏靖天皇になります)

人皇2代 綏靖(すいぜい)天皇
「かぬがわみみ」実名「やすぎね」(たかおか宮)の綾


31-18 「かぬかわみみ皇子」が天皇に即位する。(綏靖天皇になります)(31-38~41)

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にいみやこ かたきにたてて(31-38)
みやうつし ここにむかえる



新しく都を「かたき」(葛城)に建立し、遷都して此処に新しく天皇を迎えました。

ときあすず ももみそよとし(31-39)
つあえはる はつひさなえの (つあとはる:小笠原写本)
ことほぎし すえひかさやえ



今年、あすす歴の百三十四年、
「つあえ」(ほつま歴 13/60後の丙子ひのえね)
(「つあと」(ほつま歴 14/60後の丁丑ひのとうし)一年違い:小笠原写本)
の新年(春)、元旦(初日)「さなえ」(ほつま歴 57/60後の庚申かのえさる)の日、祝賀(寿:ことほぎ)も済ませ、二十一日(末の一日)「さやえ」(ほつま歴 17/60後の庚辰かのえたつ)の日のことです。


わかみやの いみなやすぎね
としゐそふ あまつひつぎを(31-40)
うけつぎて



若宮の実名「やすぎね」と言い、年五十二才になり、天つ日嗣を受け継ぎました。



 かぬがわみみの(31-40)
あまきみと たかおかみやの(に)
はつこよみ



そして、「かぬがわみみ」(綏靖天皇)の天君として即位し、「たかおか宮」元年(綏靖元年)を迎えました。



 かみよのためし(31-40)
みかさりを たみにおがませ(31-41)
ははをあげ みうえきさきと



神代の先例(天孫ににきね)に則って、御飾り(三種の神器)を民に拝ませました。(即位の礼)
そして、先帝の母(いそすず姫)を太政皇后に格上げしました。

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31-36~38「かんやい皇子」は自分たちが殺した「たぎし皇子」を手厚く葬り、「みしりつひこ」と名前を変える

31-17 「かんやい皇子」は自分たちが殺した「たぎし皇子」を手厚く葬り、「みしりつひこ」と名前を変える(31-36~38)

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おもむろを ここにおさめて(31-36)
みこのかみ(31-37



後に、死骸(たぎし皇子)をこの地に手厚く葬り、皇子神社(みこのかみやしろ)を建ててお祀りしました。




 かんやゐはぢて(31-37)
うえなひぬ



「かんやい皇子」は自分の不甲斐なさを恥じました。(うえ:うべ、むべ、うえなえる:同意する、納得する=一歩引く)



 といちにすみて(31-37)
いほのとみ みしりつひこと
なをかえて つねのおこなひ
かみのみち あにがまつりも(31-38)
ねんころにこそ



「かんやい皇子」は自ら身を引いて、「といち」(かたおかむろ、奈良県磯城郡多付近十市町)に住んで「いほの臣みしりつひこ」と名前を変えて、生涯を神の道に身を置いて、兄(たぎし皇子)の御霊(みたま)をねんごろにお祀りしました。

「いほの臣みしりつひこ」の「いほ」姓はこのほつまつたゑを編纂執録された「井保ゆうのしん」の先祖にあたり、「みしりつひこ」は我が身の程を知った、自ら身を引いたという意味合いがあります。


神武天皇関連の活躍されていた記述が此処(31綾前半)で終わり、以降欠史八代と言われている天皇の記述に入ります。


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31-103~104 孝安天皇が亡くなる

31-60 孝安天皇が亡くなる(31-103~104)
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 みよももふとし(31-103)
むつきこか きみまかるとし
ももみそな
 


御世は、孝安百二年(むろあきつしま宮百二年)一月九日、君(「おしひと」孝安天皇)はお亡くなりになりました。年は百三十七才でした。



みこもはおさむ(31-103)
よそやのち わかみやにいて
まつりかと(31-104)


皇子「ねこひこ」(後の孝霊天皇)は喪に服しました。四十八夜の後、若宮に入り神祀りをしました。

 ながつきみかに(31-104)
おもむろを たまでにおくり


孝安百二年(むろあきつしま宮百二年の)九月三日に、ご遺体を「たまで」に送り埋葬いたしました。



いたりおふ ともにおさめて(31-104)
あきつかみかな


五人のお供の方が後を追って(生きたまま)、一緒に埋葬されました。「あきつしま神」(孝安天皇)でありました。

31綾完

来週以降、31綾の目次(各ページにリンク)を完成させてから、次回29綾に飛びたいと思います。
というのは、29綾・30綾・31綾の前編は神武天皇についての記述なので、29綾からの方が流れがわかりやすいと感じたからです。

今日、2010/11/20読売新聞主催の纒向フォーラムがあり、遺跡の調査報告のみ聴いてきました。
発表者はホツマツタヱを多分御存じないが、ホツマツタヱの記述を裏付ける遺跡からの発見がいくつか報告され、ますますこのホツマツタヱの解読が楽しくなりました。

ジョンレノ・ホツマ
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31-102~103 駿河宮より「はらみ山」(現富士山)の絵を賜わるが受け取らず

31-59 駿河宮より「はらみ山」(現富士山)の絵を賜わるが受け取らず(31-102~103)

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 こそふとしはる(31-102)
するがみや はふりはらのえ
たてまつる


孝安九十二年(むろあきつしま宮九十二年)春、「駿河宮」の「はふり」(神主、祝主)が「はらのえ」(はらみやま、現富士山の絵)を奉りました。



 みこもふせども(31-102)
きみうけず(31-103)


皇子「ねこひこ」(後の孝霊天皇)は受け取るよう申しましたが、君(「おしひと」孝安天皇)は受け取りませんでした。

後日、孝霊天皇が高齢になってから、富士登山されることになりますが、その時、昔この富士山の絵を見たがあまり良くなかったから捨てたという記述があります。




31-101~102 待望の「ねこひこ」皇子が生まれる。後の孝霊天皇になる

31-57 待望の「ねこひこ」皇子が生まれる。後の孝霊天皇になる(31-101)

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いそひとし ながつきはつひ(31-101)
きさきうむ いむなねこひこ
おおやまと ふとにのみこぞ


孝安五十一年(むろあきつしま宮五十一年)九月一日、妃(「おし姫」)が待望の皇子を生みました。(初めての皇子です。一人っ子です)
皇子の名は、実名「ねこひこ」で「おおやまとふとに」と言います。後の孝霊天皇になります。



31-58 「ねこひこ」皇子は世継ぎ皇子に(31-101~102)


なそむとし はるむつきいか(31-101)
ねこひこの としふそむたつ(31-102)
よつぎみこ


孝安七十六年(むろあきつしま宮七十六年)新春一月五日、皇子の「ねこひこ」の年が二十六才で世継ぎ皇子に立たれました。

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31-99~100 孝昭天皇のご遺体を博多の洞に納める

31-56 孝昭天皇のご遺体を博多の洞に納める(31-99~100)
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 みそみとしのち(31-99)
はつきそよ おくるみうえの
おもむろを はかたのほらに(31-100)
おさむのり


三十三年後、八月十四日、御上(先帝:「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)のご遺体を「はかた」(博多:奈良県御所市)の洞(ほら)に納めました。



 とみめのからも(31-100)
みなおさむ いきるみたりも
おひまかる あめみこのりや


天君にお仕えした臣や女官たちの亡きがらも一緒に納めました。生きていた三人も後を追って亡くなり(追い枯れ)納められました。天君(神)に仕える子供のとる典(掟:おきて)です。




31-98~99 考安天皇は「かすが親王」の娘を内宮に

31-55 考安天皇は「かすが親王」の娘を内宮に(31-98~99)

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 ふそむとしはる(31-98)
きさらそよ かすがおきみの(31-99)
おしひめを いれてうちみや
ことしそみ



孝安二十六年(むろあきつしま宮二十六年)春二月十四日、「かすがおきみ」の娘の「おし姫」を内宮にいれました。今年、まだ十三才でした。


この記述は、大問題を秘めていますが、あえて何も触れずに事実だけをそーぅと残してあります。

というのは、「かすが親王」というのはこの孝安天皇の実の兄(四才年上)で、その兄の娘を弟が自分のお妃にしてしまったことになります。今でいう、近親婚にあたります。

なぜ、このようなことをせざるを得なかったのか?

それはそれまで二人のお妃がおられましたが、二十五年間も、子宝に恵まれず、このままでは後継ぎがいなくなるという大問題をかかえていたことが理解できます。

何が何でも世継ぎ皇子をもうけなければならなかったため、苦渋の決断であったと思います。
そのため、実の兄の娘をお妃にしてでも世継ぎが欲しかったため、兄の方を春日の姓にかえて表向きの整合性を持たせたような気もいたします。


後世、日本書記や古事記に日本の国史が編纂されるとき、このことは外国・唐(中国)にはどうしても伏せておかなければという発想があったからだと思います。

そのため、日本書記・古事記の編纂者は、この内容に気がつき、この部分を削除せざるを得なかったものと思います。
欠史八代と言われるようになった真相だと思います。



当時すでに近親婚は野蛮なものとして見ていたことが、後に「やまとたけ」が景行天皇の命を受けて「えみし征伐」に行く時、景行天皇が「えみし」についての情報を教えたとき、そのなかの一つに近親婚を今でもしているので野蛮だということが出てくるからです。





31-97~98 稲穂虫が大発生し、孝安天皇自ら風吹の祀で祓う

31-54 稲穂虫が大発生し、孝安天皇自ら風吹の祀で祓う(31-97~98)

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 そひほむれくも(31-97)
ほおむしを つくれはきみの
みつからに はらひかぜふの(31-98)
まつりなす



孝安十一年(むろあきつしま宮十一年)、むら雲が太陽をさえぎり、稲穂虫が大発生したという訴えがありました。それを聞いて、天皇自らお祓いをして、風吹(かぜふ)の祀りをいたしました。




 かれよみかえり(31-98)
みづほあつ



お陰さまで、稲穂は再び元気に蘇えり、豊作になりました。




 よりてほづみの(31-98)
まつりなす



よって、「ほづみ」(八月一日に神を感謝する)祀りをいたしました。




31-94~97 「孝安天皇は天つ日嗣を受け継ぎ「むろあきつしま」に遷都

人皇6代 孝安(こうあん)天皇
「やまとたりひこくに」実名「おしひと」
(むろあきつしま宮)の綾

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31-51  孝安天皇は天つ日嗣を受け継ぐ(31-94~96)


ときあすす みもふそむとし(31-94)
はつのなか あまつひつぎを(31-95)
うけつきて


時、あすず歴三百二十六年、正月の七日、天つ日嗣を受け継ぎました。



 たりひこくにの(31-95)
あめつきみ いむなおしひと
くらひなる かさりをたみに
おがませて(31-96




「やまとたりひこくに」天君が即位されました。実名を「おしひと」と言います。そして、天皇の位である三種の神器を民に拝ませました。孝安天皇になります。



31-52 孝安天皇のお妃(31-96~97)


 しぎながはえが(31-96)
ながひめを おおすけきさき



「しぎのながはえ」の娘の「なが姫」が「おおすけ妃」になりました。



とちいさか ひこがいさかめ(31-96)
うちきさき ながはしにいて
おしてもり(31-97)


「とちいさかひこ」の「いさか姫」が「うち妃」になり、長橋に住まわれて神璽(おしで)を扱う役を担いました。


 すへてそふなり(31-97)

孝安天皇のお妃は全て揃って十二名おられました。



31-53 孝安天皇は「むろあきつしま」に遷都(31-97)

ふとしふゆ むろあきつしま(31-97)
にいみやこ


孝安二年(むろあきつしま宮二年)の冬、「むろあきつしま」に遷都しました。(新しく都をつくりました。




31-92~94 皇子の神祀りに、兄の「かすが親王」は納得する

31-50皇子の神祀りに、兄の「かすが親王」は納得する(31-92~94)

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  みこかみまつる(31-92)
としみそい おやにつかえて(31-93)
たみおさむ


皇子(皇太子、実名「おしひと」、「やまとたりひこくに皇子」)が、神(亡くなられた孝昭天皇)を祀りました。皇子の年は三十五才になりました。
祖(亡くなられた孝昭天皇、天孫)に仕えて、民(国政)を治めました。



 かれあにおきみ(31-93)
うえなひて


しかるが故に、弟(皇太子、実名「おしひと」、「やまとたりひこくに皇子」)の方針を知り、兄の「春日親王」は納得いたしました。



 そのこををやけ(31-93)
あわたおの かきもといちし
そとみまめ (31-94



春日親王の子は「おおやけ」、「あわた」、「おの」、「かきもと」、「いちし」で十人臣は忠義心を持っていました。



 きみとしごとの(31-94)
はづきいか やよのもまつり(31-94)
まことなるかな



君は年ごと(毎年)八月五日、八夜にわたる喪祀りが、とり行われました。




31-92 「かえしね」(孝昭天皇)がお亡くなりになる

31-49「かえしね」(孝昭天皇)がお亡くなりになる(31-92)
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やそみとし あきはつきいか(31-92)
きみまかる としももそみぞ


孝昭八十三年(いけごころ宮八十三年)秋、八月五日、君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)がお亡くなりになりました。年は百十三才でした。



とみきさき みなととまりて(31-92)
もにつかふ


臣と妃は皆、君の遺体に留まってお遣いしました。

殉死されたことを言っているものと思います。

31-91 孝昭天皇は次男の「おしひと」を若宮に、長男の「おしきね」を「かすが親王」に

31-47孝昭天皇は次男の「おしひと」を若宮(立太子礼)に(31-91)
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むそやとし むつきそよかに(31-91)
おしひとを わかみやとなす
としはたち


孝昭六十八年(いけごころ宮六十八)年一月十四日に、次男の「おしひと」を若宮(立太子礼)にいたしました。年は二十でした。



31-48孝昭天皇は長男の「おしきね」を「かすが親王」に(31-91)


 あすをしきねを(31-91)
おきみとし かすがをたまふ


後日、長男の「おしきね」を「おきみ」(親王)として、「かすが」姓を賜いました。(かすが親王)
「あす」を文字通りとれば翌日を意味するが、ここではどうも「後日」という意味合いのように思われる

31-89~90 孝昭天皇の中宮の「よそたり姫」が皇子を生む

31-46孝昭天皇の中宮の「よそたり姫」が皇子を生む(31-89~90)
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よそいとし さつきそいかに(31-89)
きさきうむ いむなおしぎね
あまたらし ひこくにのみこ



孝昭四十五年(いけごころ宮四十五年)五月十五日に妃(中宮よそたり姫)が皇子を生みました。実名「おしぎね」で「あまたらしひこくに皇子」です。
当時の年をそのまま計算すると、「よそたり姫」は二十五年間子供が授からず、四十才で初産になります。



よそことし きみえはつひに(31-90)
きさきうむ いむなおしひと
やまとたり ひこくにのみこ
うむときに あさひかかやき


孝昭四十九年(いけごころ宮四十九年)、「きみえ」(ほつま歴 51/60後の甲寅きのえとら)の年、元旦に妃(よそたり姫)が(二人目の)皇子を生みました。実名「おしひと」で「やまとたりひこくに皇子」です。生まれた時、ちょうど朝日が輝きました。
弟であっても元日生まれで、生まれた時朝日が輝きとあれば、後に世継ぎ皇子になったのもうなずけます。

それにしても、「よそたり姫」四十四才で生んだ子供になります。

私はこの個所でも当時の一年は今の半年であった可能性があるように思えます。今の暦に当てはめれば、七~八才で妃になり、二十で初産、二十二で二人目を生む、これの方が自然に思えますが・・・。一つの推論にすぎませんので、これ以上詮索するのはやめます。




31-87~89 孝昭天皇の中宮に「よそたり姫」その兄は「けくに」臣に抜擢

31-44 孝昭天皇の中宮に「よそたり姫」(31-87~88)
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ふそことし きしえはつみか(31-87)
きさきたつ よそたりひめの
としそいぞ



孝昭二十九年(いけごころ宮二十九年)、
「きしえ」(ほつま歴 31/60後の甲午きのえうま)の年の正月三日、
妃(中宮)をたてました。「よそたり姫」で年は十五才です。



 むかしやひこに(31-87)
ゆりひめを たまえはうめる(31-88)
あめいだき このあめをしお
まこむすめ よそたりはこれ



昔、神武天皇が弥彦神(たかくらした)に「ゆり姫」を賜わった時、生まれたのが「あめいだき」の子の「あめおしお」の孫娘がこの「よそたり姫」です。

「やひこ」に「ゆり姫」を賜う
「たけひと:後の神武天皇」が九州に行った留守に「やまと」は乱れます。「にぎはやひ」の勝手な振る舞いを平定するため、「たけひと:後の神武天皇」は東征に向います。そして、熊野から「やまと」へ向かう時、「たかくらした」が神武天皇に「くにむけ」の剣を届け、「やたからす」などと行動を共にし、全てがおさまり、「橿原宮」に即位されます。
平定後、越後の反乱を鎮めるため「たかくらした」が赴きます。反乱を治め、「やひこ」(弥彦)神の称号をあたえられます。

「ゆりひめ」について
神武天皇は「ゆり姫」をお妃にしようとしたが中宮の「いそすず姫」に咎められ、隠れて会っていたようです。
「ゆり姫」は神武天皇の最初の息子「たぎし皇子」(あびらつ姫の子供)に恋焦がれられてしまうほどの絶世の美人だったんでしょうね。(親子で取り合い!?)そんな訳かどうかわかりませんが、「たかくらした」に賜わりました。「たかくらした」に賜わった時「ゆり姫」はまだ二十でした。



31-45 中宮「よそたり姫」の兄が「けくに」臣に(31-88~89)


みそふとし うちみやのあに(31-88)
(みそひとし)小笠原写本
おきつよそ なるけくにとみ(31-89)



孝昭三十二年(いけごころ宮三十二年)(三十一年:小笠原写本)、内宮(よそたり姫)の兄の「おきつよそ」は「けくに」臣に抜擢されました。

「けくに」は後世の「お稲荷さん」




31-85~87 孝昭天皇のお妃たち

31-43 孝昭天皇のお妃たち(31-85~87)
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 わかみやのとき(31-85)
わかはえが ぬなぎめはすけ(31-86)



天君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)がまだ皇太子であったとき、「わかはえ」の娘の「ぬなぎ姫」が「すけ妃」になりました。



さだひこが めのおおいめは(31-86)
ながはしに おしてあつかふ
かりすけよ



「さだひこ」の娘の「おおい姫」は「ながはし」で神璽(おしで)を扱う仮の「すけ妃」になりました。



うちはべむたり(31-86)
しもよたり あおめみそたり(31-87)


その他に、内女(内侍)は六人、おしも女(下女)は四人、女官(青女)たちは三十人いました。

31-83~85 人皇5代「かえしね天皇」(孝昭天皇)が天つ日嗣を受け継ぐ

人皇5代 孝昭(こうしょう)天皇
「かえしね」実名「みるひと」
(かたきわきがみ・いけこころ宮)の綾


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31-42 「かえしね天皇」(孝昭天皇)が天つ日嗣を受け継ぐ(31-83~85)


ときあすす ふほよそみとし(31-83)
つみえはる むつきつうえは
こかきしえ あまつひつぎを(こかきみえ:小笠原写本)
うけつぎて(31-84)


時は、あすず歴の二百四十三年、
「つみえ」の年(ほつま歴 3/60後の丙寅ひのえとら)の春、
「つうえ」の月(ほつま歴 23/60後の丙戌ひのえいぬ)の正月の
九日「きしえ」(ほつま歴 31/60後の甲午きのえうま)の日、
九日「きみえ」(ほつま歴 51/60後の甲寅きのえとら)(小笠原写本)
天つ日嗣を受け継ぎました。



 かえしねあめの(31-84)
すべらぎみ かさりおがませ


「かえしね」という天のすべらぎ(天皇)になられて、三種の神器を民に拝ませました。



うつきいか みうえきさきと(31-84)
ははをあげ



四月五日、先帝の母(あめとよつ姫)を太政皇后に格上げしました



 かたきわきかみ(31-84)
いけこころ みやこうつして(31-85)


「かたきわきがみ・いけこころ宮」に新しく都を移しました。



はつとしに いづしこころを(31-85)
けくにとみ


孝昭元年(いけごころ宮初年)に「いづしこころ」を「けくに」臣に任命しました。

「けくに」の「け」は(みけないもうすおもち神)の「みけ」という神への食事、「くに」は国、国政のこと。すなわち、天皇と食事を共にして、国政を話す役職。



 きみとしみそひ(31-85)
さかいおか


天君(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)の年は三十一才です。
「さかいおか」に居られました。(堺?不明)

31-81~83 懿徳(いとく)天皇はお亡くなりになる

31-41 懿徳(いとく)天皇はお亡くなりになる(31-81~83)
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みそよとし ながつきやかに(31-81)
きみまかる



(懿徳:いとく三十四年)まがりお宮三十四年九月八日に君(おおやまとひこ・すきとも・四代懿徳天皇)はお亡くなりになりました。



 わかみやかみに(31-81)
つかえんと もはひとほまて
みあえなす いきますごとく



若宮(「かえしね」実名「みるひと」孝昭天皇)は、神にお仕えしようと、喪に一年間服しました。まだ生きておられるかのように御会えをされました。



あくるふゆ おくるうねびの(31-82)
まなごたに なそよにまして
おくるとみ とわずかたりや
わかみやも おくりおさめて
みなかえします(31-83)


あくる年の冬、ご遺体を畝傍山(うねび)の「まなご」谷に葬りました。
七十年、在世されました。
送る臣は問わず語らず無言のまま先帝と心を同じくした者、自ら洞に入って殉死されました。
若宮が送りおさめて(見納めて)、みなを天へ返しました。

「なそよにまして・・・」は、懿徳天皇が天つ日嗣を受け継いだのが三十六才のときで、この天皇の「まがおり宮」の年号が三十四年で終わっているのでちょうど七十才で亡くなられたことに合います。よって、「七十年、在世されました。」ということを言っていたことを理解しました。

ジョンレノ・ホツマ
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31-80 「かえしね皇子」を世継ぎ皇子に(後の孝昭天皇になる)

31-40「かえしね皇子」を世継ぎ皇子に(後の孝昭天皇になる)(31-80)
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ふそふとし きさらつしとは(31-80)
そふおしえ かえしねみこを
よつぎなる ことしそやなり


(懿徳:いとく二十二年)まがりお宮二十二年二月「つしと」(ほつま歴 44/60後の丁未ひのとひつじ)の一日から「おしえ」(ほつま歴 55/60後の戊午つちのえうま) の十二日までの間に、「かえしね皇子」を世継ぎにしました。皇太子になられました。今年十八才でした。





31-77~80 懿徳(いとく)天皇のお妃とその皇子たち

31-39 懿徳(いとく)天皇のお妃とその皇子たち(31-77~80)

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むつきいか かるまがりおの(31-77)
にいみやこ うつしきさらぎ
そひにたつ あめとよつひめ
うちつみや(31-78)



一月五日、「かるまがりお」(軽・曲峡)に新しい都を移しました。(遷都しました。)そして、二月十一日に「あめとよつ姫」を中宮に立てました。


 しぎいでがめの(31-78)
いづみすけ



「しぎ」(磯城)の「いで」の娘の「いずみ姫」をすけ妃にしました。


 ふとまわかがめ(31-78)
いひひめを ここたえいとし
やよひゆみ すみえにみゆき



「ふとまわか」の娘の「いひ」姫を「ここたえ」という役目にしました。「ここたえ」の「ここ」は菊、「たえ」は麻の着物の意味?
懿徳(いとく)「まがりお宮」五年三月弓の日(弓張りの日、上限の月の日)住之江(住吉神社:現大阪市大和川下流付近)に御幸されました。


みるをみて うちのうむみこ(31-79)
かえしねの いみなみるひと



海松(みる:海藻)を見て、中宮「あめとよつ姫」が生んだ皇子の名前は「かえしね」で実名「みるひと」と言います。

「かえしな」:帰りしな、帰りのときに、「海松(みる)」を見たことを言っている。この「みるひと」は後の孝昭天皇になります。

海松(みる):ミル科の緑藻。干潮線から水深約30メートルの岩上に生え、高さ20~40センチ。体は丸ひも状で二またに分枝を繰り返し、扇状となる。食用。


うちのちち いきしおおきみ(31-79)


中宮「あめとよつ姫」の父は「いきし大親王」と言います。



いいひめが たけあしにうむ(31-79)
たぢまみこ いみなたけしい(31-80)



三番目のお妃「いい姫」が「たけあし」という所で生んだ皇子は「たじま皇子」で実名を「たけしい」と言います。





31-76~77 安寧天皇をお送りする 

31-38 安寧天皇をお送りする (31-76~77)

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 みおやおくりの(31-76)
ほつみひと しわすのむかと
もはにいり



「みおや」(先祖神:安寧天皇)をお送りする供養は八月一日(ほつみひと)、(ほつみまつり、ほずみ、後の八月朔)と十二月六日(亡くなった日)に行なわれました。



 ながつきそみか(31-76)
ははをあげ みうえきさきと(31-77)



九月十三日、先帝の母(ぬなそ姫)を太政皇后に格上げしました。

ジョンレノ・ホツマ

3-20~22 神武天皇は「かぬながわみみ皇子」を世継ぎ皇子に定める

31-10 神武天皇は「かぬながわみみ皇子」を世継ぎ皇子に定める(3-20~22)

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よそふとし はつみかきみえ(31-20)
かぬながわ みみのみことを(31-21)
よつぎみこ



神武四十二年新年の正月三日、「きみえ」(ほつま歴 51/60後の甲寅きのえとら)の日に、「かぬがわみみ」の皇子を世継ぎ皇子に定めました。


「かぬがわみみ皇子」は神武天皇の三番目の皇子です。そのため、天皇の死後、一番目の皇子「たぎし皇子」(腹違い)が、この世継ぎ皇子の決定を納得していなかったようです。問題が生じます。



 かがみのとみは(31-21)
うさまろと あだつくしねは
ものぬしと みこのもろはぞ



そして、「かがみ」(鏡:鑑)の臣(左大臣)は、「うさまろ(四代目)」になりました。「あだつくしね」(右大臣)が「大物主(七代目)」になりました。新たに皇子を補佐する両翼(左大臣・右大臣)が決められました。



くにまつり みけなへもふす(31-22)
おもちきみ ともにたすけよ



この両翼の左大臣・右大臣は国祀り(国政)の「みけなへ」(食事の席で政治を)語る、「おもちきみ」臣・役職につきました。(30-27参照)

3-22~25 神武天皇は遺言を残し神になりました

31-11 神武天皇は遺言を残し神になりました(3-22~25)

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なそむとし むつきのもちに(31-22)
みことのり



神武七十六年一月十五日に、詔がありました。



 われすてにおひ(31-22)
まつりこと なおりなかとみ(31-23)
ものぬしの おやこのとみに
まかすべし



私(神武天皇)は、既に年老いてしまったので、これからの祀りごとは「なおりなかとみ」(うさまろ四代目、左大臣、春日)と「ものぬし」(右大臣、大物主六代目「くしみかたま」と大物主七代目、「あだつくしねと」)の親子の臣に任せなさい。



 もろとみこれと(31-23)
わかみやを たてよといふ(ひ)て
うちにいり やよいそきやえ(31-24)
かみとなる



「諸臣よ。このこと(政治は左大臣右大臣に任せなさい)と若宮(かぬかわみみ皇子:後の綏靖天皇)を助けて立てよ」と言われて内殿に入って(こもって)、三月十日「きやえ」(ほつま歴 41/60後の甲辰きのえたつ)の日に神となりました。(お亡くなりました)

この遺言は、「かぬかわみみ皇子」が三男であったが、天皇を引き継ぐのに一番頼りになると思われたから敢えて残したものと思われます。 


下記の記述部分は和仁估安聰写本によるもので、小笠原写本と多少記述が違いますが内容的には同じです。

 あびらつひめと(31-24)
ものぬしの くしみかたまと
うちにいり なかくもにいり 
いきますの ごとにつとむる(31-25)


「あびらつ姫」(九州時代の妃、日向、日南海岸あぶらつ)と「六代目ものぬし」である「くしみかたま」は一緒に帳(とばり)の内裏(だいり)に入りました。そして、永遠に喪に服しました。あたかも、君がまだ生きておられるかのようにお仕えしました。 

*********
(小笠原写本)このページが一部内容が多少異なっています

あびらつひめと(31-24)
ものぬしと かしはらみやに
はんべりて なかくもにいり
いきますの ごとにつとむる(31-25)



「あびらつ姫」と「六代目ものぬし」は橿原宮(神武天皇)に侍り(お仕えし)ました。そして、永遠に喪に服しました。あたかも、君がまだ生きておられるかのようにお仕えしました。
**********

3-18~20 ほほま(おおま)の丘に御幸され、神武天皇は大和の国を見渡して感激する

31-9 ほほま(おおま)の丘に御幸され、神武天皇は大和の国を見渡して感激する(3-18~20)

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としさみと うつきはつひに(31-18)
わきかみの ほほまのおかに
みゆきして めくりのぞめば



翌年(神武二十八年)、「さみと」(ほつま歴 28/60後の辛卯かのとう)の年、四月一日に「わきかみ」(奈良県御所市、国見山)の「ほゝまの岡」に御幸されました。
美しい、大和の国を見渡して感激されました。



あなにえや ゑつはうつゆふ(31-18)
まさきくに かたちあきつの(31-19)
となめせる これあきつしま



ああ、何と素晴らしい国であろうか。 私が得た(治める)国は何と素晴らしい国であろうか。「ゆう」(木綿、当時は「いらくさ」)を打つ音があちこちから聞こえてくる。
幸多き国である。「ま」は真(まこと)「さ」は幸(さいわい)真幸国である。 
国の形は蜻蛉(あきつ)とんぼが丸く交尾しながら飛んでいるのとおなじようだ。(真ん中で全てが結びついている様)まさに、我が秋津洲(あきつしま:この大和、日本)である。



あまかみは やまとうらやす(31-19)
こゑねくに やまとひたかみ
そこちたる しわがみほづま(31-20)
おおなむち たまがきうちつ
にきはやひ そらみつやまと



そして、日本全国の地名をうたい上げます。

天皇(あめかみ)は、大和心安(いやまととおる、まとの教えがますます行きわたる法治国家=「やまと」が派生、やまとうらやす:大和国、浦々も静かで恵み多い、浦安)、
こえ(「こ」は「こかい」(蚕)のこと、「え」は盛んなこと、つまり養蚕が盛んである)、扶桑。
根国(北陸)、
大和日高見(現在の陸奥地方)、
山陰(そこ)ちたる
関東地方、しわがみ(波が輪のように押し寄せる波の上に、磯輪上)ほづま(秀真、そびえ立っている富士山)
おおなむち(大国主、大黒さん)(出雲譲りで津軽(岩木山)へ流される)は玉垣の内つ宮(出雲を示す)つまり、宮中と同じように扱われた。
にぎはやひ(奈良県、大和を治めた)
空を見続けながら大和へ入った(舟で大和へ天下るとき、海が凪いでいたので天を走るかのようであった)

私が得たものは、何と素晴らしい国々、人々(神々)であろうか。





3-16~17神武天皇は「ゆり姫」を高倉下(弥彦神)に賜う

31-8 神武天皇はゆり姫を高倉下に賜う(3-16~17)

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 ことめがつぐる(31-16)
くしみかた きみにもふさく(31-17)
しむのはぢ きみうなつきて
ひそかにし



この「たぎし皇子」の一件を、侍女が「くしみかた」(右大臣)に告げました。更に、「くしみかた」は君(神武天皇)に申し上げました。
この件は、身内の恥(子の恥でもあり、親の恥でもある)なので、君も、内密にすることを承諾しました。



 このたびたまふ(31-17)
おしもめは このゆりひめぞ



そして、高倉下(弥彦神)に賜ったのは「おしもめ」の「ゆり姫」です。

(31-10~11)と同じ内容の事を、言葉を変えて言っています。ここで「いすきより姫」を「ゆり姫」に名前を変えて賜わったことがわかります。


これで、神武天皇は「ゆり姫」を高倉下に譲ったことにより、肩の荷をおろすことが出来ました。つまり、息子の「たぎし皇子」からも、中宮の「いそすず姫」からも「ゆり姫」のことを気にする必要がなくなったからです。




3-14~16 神武天皇の息子「たぎし皇子」が、君の局(つぼね)に恋焦がれる

31-7 神武天皇の息子「たぎし皇子」が、君の局(つぼね)に恋焦がれる(3-14~16)



これにめし つぼねにあるを(31-14)
たぎしみこ ふかくこがれて
ちちにこふ


このようなわけで、「いすきより姫」は君(神武天皇)の局(つぼね)になられました。 
その後、「たぎし皇子」(神武天皇が九州時代に娶った「あびらつ姫」との子供)が、「いすきより姫」に深く恋焦がれてしまい、「いすきより姫」の父親の久米に自分の思いを訴え姫との仲立ちを迫りました。


 うなづきうばふ(31-14)
ちちがよぶ あやしきどめを
さとるひめ みさほつずうた(31-15)


久米の父も断念し仲立ちを承諾してしまいました。
父親が娘「いすきより姫」を呼んだところ、父親の異常な目つきに気が付き、状況に気づいた「いすきより姫」は操のつづ歌を作って父に差し出しました。
「みさほ」の「み」は身を清める、「さ」は機織りから、「ほ」は秀でていることか。


あめつつち とります(31-15)
きみと などさけるどめ



天つ地(天皇と私) 娶り(鳥り)ます君と(求愛行動・つがう、一体になっている) 何ど(何故)裂(割)ける止め(利目)

私と天皇とは太陽と月の関係で、一体になっています。もう離れることは出来ません。
どうして、私たちの間を割けることができましょうか。
 なぜ、私たちの間の関係を壊そうとするのですか。

尚、この「ゆり姫」(「いすきより姫」が後に「ゆり姫」と名前をかえる)の歌は39綾69-70にも「つづ歌」の説明として載っており、後世にも引き継がれていることがわかります。


たぎしみこ すすみこたえて(31-15)


「たぎし皇子」は、姫の固い操に気づき恥じることなく自ら進んで即座に返歌で答えました。


にやおとめ ただにあわんと わがさけるどめ(31-16)

にや乙女(いいえ違います) 唯に会わんと(唯(ただ)貴方に会いに来たのです。
我が避ける 止め(利目) 私を避けようとする鋭い眼は何ですか。



やわなきを おつてといえば(31-16)
みこもさる


ゆり姫の操と忠義の心を知ったゆり姫の父は、たぎし皇子に、やむなく、追って返事をしましょうと返事するのがやっとでありました。
たぎし皇子もあきらめて帰りました。




3-11~13 神武天皇は久米の館で「いすきより姫」(後の「ゆり姫」)と出会う

31-6 神武天皇は久米の館で「いすきより姫」(後の「ゆり姫」)と出会う(3-11~13)

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ここで話が前後します。「いすきより姫」との出会いです。

さきにさゆりの(31-11)
はなみとて きみのみゆきは
さゆかはに(31-12)



以前の事ですが、さゆり(山ゆり)の花見に、君(神武天皇)はさゆ川に御幸されました。



  ひとよいねます(31-12)
くめがやの いきすよりひめ



君(神武天皇)は、久米の館の「いすきより姫」と一夜を共に寝られました。
(結論が先に書かれています)


かしはでに みけすすむれば(31-12)
すべらぎは これをめさんと
つげのみうたに(31-13)


君(神武天皇)の夕食の御饗(みあえ)の席で、「いすきより姫」が、かしわで(御饌:みかしわ)を捧げました。
食事が進むにつれ「すべらぎ」(君、神武天皇)はこの娘「いすきより姫」を気にいって召したいと、歌を作って告白しました。



あしはらの しげこきおやに(31-13)
すがたたみ いやさやしきて
わがふたりねん



葦原が深く繁げった小さな家で
清々しい(真新しい)畳に、いや(弥)紗綾(絹織物)を敷いて=「いすきより姫、貴方を抱いて」私と二人で寝ましょう





3-9~11 神武天皇は「やひこ神」(高倉下)に酒の肴に「ゆり姫」を賜る

31-5 神武天皇は「やひこ神」(高倉下)に酒の肴に「ゆり姫」を賜る(3-9~11)   

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さみゑなつ やひこのぼりて(31-9)
おがむとき あめのさかつき
かずいたる すべらぎとわく
むかしゑず いまのむいかん



「さみえ」(ほつま歴 27/60後の庚寅かのえとら)年(神武二十七年)の夏、「やひこ神」となった高倉下が上京して君に拝謁しました。 天の酒盃の杯も重なりました。
すべらぎ(神武天皇:君)が問いました。汝(高倉下)は昔はそれほどお酒が飲めなかったのに、今こんなに飲めるようになったのはどうしたんだ。



そのこたえ わかくにさむく(31-10)
つねのめば おのづとすけり



高倉下が答えるには、我が国(越後)は寒く、常についつい飲むようになってしまい、自然と強くなってしまいました。



きみゑみて なんぢはみきに(31-10)
わかやぎつ


君(神武天皇)は微笑みながら、汝(高倉下)は酒のおかげで若くなり男前になったものだ。



 さかなにたまふ(31-10)
おしもめぞ(31-11)



そこで、君(神武天皇)が高倉下に、酒の肴にと賜ったのが、なんと「おしもめ」(久米の娘の「いすきより姫」で今は「ゆり姫」となった絶世の美人)でした。

自分が密会していた姫をゆずったことになります。

これで、神武天皇は残念ながら息子の手前、お妃の手前、肩の荷がおりました。



 なそなのおとに(31-11)
はたちめと こしにとつぎて
おめをうむ



高倉下は七十七の老体に二十の娘ではと躊躇されていたようでしたが、越国(高倉下)に嫁ぎ、一男一女をもうけました。

後にこの子供の何代か先の子孫の「よそたり姫」が人皇五代の孝昭天皇の中宮になることが後でわかります。