第五代タカミムスビのタマキネは、自家で行っていたタカマの祀りを、天照大御神に伝えることによって、国家祭祀にまで高められた。大御神はイサワの宮の一室をタカマ(高間)と呼び、アユキ・ワスキを祀って朝な夕な礼拝された。その最高神が天御祖神(アメノミヲヤ)である。タカマでは重臣を集めて国政会議も行われた。それは天御祖の御前で公明正大な政(まつりごと)を行うという、大御神の信念に基いていた。そこで行われる国政の会議は「タカマ議り」とか「神議り」と呼ばれ、重要な会議には大御神も臨席されて議事をお聞きになり、決裁を下されたのである。
ある神議りの場で、型通りの議事が一段落した時、大物主クシキネ・オホナムチ(大国主)が、「和歌の枕詞はどのようにして出来たのでしょうか」と質問した。 誰もこの質問に即答する事は出来なかったが、一人書籍を繰っていた碩学(せきがく)のアチヒコ・オモイカネが「そのことは、『禊の書(ふみ)』に記録されています」と答えた。 皆膝を乗り出して「是非内容をお教え下さい」と乞うた。 「それでは」と、アチヒコは禊の書を片手に、分かり易く噛み砕いて説明を始めた。
「第六代天神オモタル・カシコネには嗣子が無く、それが原因で国が乱れました。その時国政議会はイサナギ・イサナミ(ふたかみ)をピンチヒッターとして第七代天神に抜擢したのです。両神は国家再建に向けて緊急の法整備を済ませ、各地の産業振興やトラブルの解決に取り組み、これらを軌道に乗せると、先代の轍を踏まぬよう、一心に日嗣の御子の誕生を祈られました。そして首尾よく日嗣の御子であるワカヒト君を設けられ、君子教育を第五代タカミムスビのタマキネに委ねて、オキツボ(滋賀県大津市坂本付近)のオキツの宮に落ち着かれました。そこで改めて国家の進むべき道を模索されたのです。
当時は各地の方言や個人訛りがひどくて、天神の勅すらも国中の人々に十分に伝える事が困難で、言葉が通じないための行き違いや紛争も絶えませんでした。そこで両神は、言語と発音の標準化を行って、人民に教育を施すべきだと考えました。本来の日本語は四十八音で、その中に五つの母音を含んでいます。両神はこの四十八音を国中の人々が正確に発音し、聞き取れるようにする効果的な教育の方法として、アからワまでを歌い連ねたアワ歌を考え出されたのです。
アカハマナ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ
五七調のリズムは、日本語の表現に最も適している上に、四十八音がピッタリと収まります。このアワ歌を人々に教えるに当たっては、前半の二十四音をイサナギが歌い、後半の二十四音をイサナミが続けて、二人して歌い聞かせる方法を採りました。人々は楽しみながら聞き覚え、自分たちも歌い楽しんでいるうちに、自然に標準の発音が身に着いて、誰とでも話が通じ合えるようになったのです。両神が教え広めたアワ歌の発音は、ナカ州(クニ)(近畿・山陽地方)の人々の標準的な発音でした。だからアワ歌の普及によって、ナカ州はアワ州とも呼ばれるようになりました。
両神はその後ツクシ州(九州)に行幸され、アワ歌の普及と共にツクシの各地に橘(蜜柑)の植栽を振興されました。これはクニトコタチが建国事業の中心に蜜柑を据えた「常世の道」政策に倣ったもので、その成果によってツクシ各地は大変豊かになりました。両神のご努力によって豊かに安定した地域は重臣達に後を託し、経営を任された臣達も人民本意の施政を行いました。こうして両神はオトタチハナのアワキ宮(宮崎市内)を本拠として、偉大な足跡をツクシ全域に印されたのです。そのアワキ宮でお生まれになった御子はモチキネと名付けられ、やはりタマキネの下に遊学されました。後のツキヨミの神です。
さて、ツクシの経営が軌道に乗ると、両神は休む間も無くソアサ州(四国)に回られました。イサナギの父アワナギの出身地であるソアサは当時、叔父サクナギの長子イヨツヒコが経営に当たり、弟のアワツヒコが補佐していました。ウビチニの血を引く一族の祖神アメヨロズ神が開拓に当たって以来、「常世の道」政策も順調に推移していたので、両神は人々にアワ歌を習わせる言語教育の方法をイヤツヒコに授けるだけで十分でした。また両神はアワツヒコの要望を容れて、ソアサの統治を更に木目細かく行わせるべく、イヨ邦(クニ)とアワ邦の二つに分割し、アワをアワツヒコに治めさせることにしました。
次に両神は、紀伊水道を渡ってソサ州(紀伊半島)に行かれたのですが、そこのキシヰ邦(和歌山県)に宮を造り、じっくりと経営に当たられました。ここでも蜜柑の栽培を主要産業として、やがてキシヰ邦は「常世里」と呼ばれるまでに経済的発展を遂げます。さて、ツクバで生まれた両神の第一子ヒルコ姫は、両親が厄年に当たっていたので、禍を避けるために捨てられ、カナサキに拾い育てられたことは、皆さんご承知の事と思います。この頃になって両神にもようやく心のゆたりが生じたと見え、ヒルコ姫を呼び戻して、三人で熊野地方の経営に着手されました。カナサキの手解きで歌の素質が見事に開花したヒルコ姫は、両神を助けて人々にアワ歌を教える役目をこなし、一家は四季の花を愛でる幸せな時期を過ごされたのです。
そしてイサナミはクマノで三人目の男子をお産みになり、ハナキネと名付けました。後のソサノヲです。ところが、この子は癇癪持ちで我が強く、気に入らない事があると泣き喚いたり怒鳴ったりで、手の付けられない子でした。ある時、早苗が出揃った苗代に、何と、もう一度種を蒔いて稲の成長を阻害するという、悪戯にしてはあまりにも重大な嫌がれせをしたのです。親を困らせるばかりでなく、人々が精魂込めて耕作した田に植えるべき苗を台無しにしてしまう暴挙でした。
『天の節 宿れば当たる 父の汚穢(おえ) 男(ヲ)の子は母の 隅となる』 。イサナミはハナキネの所業をすべて自分の責任だと深く心に刻み、稲作の減収を償う決心をしました。熊野地方は海岸近くまで丘陵地が迫り、水田耕作が可能な場所はごく限られているので、人々の生活は楽なものではありませんでした。イサナミはハナキネの所業によって、乏しい米収が更に減少してしまった庶民の困窮を立て直すために、山焼きをして、傾斜地には桑を植えて養蚕を興し、平地は水利を整えて水田や農地を増やす事業を進めました。ところが、必死に働くイサナミに不幸が襲ったのです。急に風向きが変わって山焼きの火に取り囲まれたイサナミは、逃げ場を失ってお亡くなりになりました。志半ばで事故に遭われたイサナミでしたが、事業は軌道に乗って動き出したので、絹や農作物の産業は熊野地方にしっかりと根付きました。
イサナミは身を挺して火の神カグツチを動かし、土の神ハニヤスと水の神ミズハノメを生み出して、農産業の守護神ワカムスビをこの地に招いたと言う事が出来ましょう。イサナミの亡骸はアリマ(三重県熊野市有馬町花の窟神社)にお納めし、その後この地の人々は、毎年桑の花が咲く春と、稲穂が色付く秋に、イサナミを偲んでお祭りをしています。 さて、この葬儀を取り仕切ったイサナギの姉ココリ姫は、すべてが済んでから遠方の親族に知らせを出しました。 イサナギの悲しみはあまりにも深かったので、ココリ姫が必死に制止するのも聞かず(キミコレナミソ)、イサナミを一目見たいと窟(いわや)に入りました。窟の中でユズの黄楊櫛(つげくし)の端に植えられた太い歯を折り取って、火を点け翳(かが)して見ると、既に時間の経ったイサナミの亡骸には蛆虫がたかっていました。
生前の面影を追い求めてきたのに、何と汚らわしく変わり果ててしまったことか。イサナギは気落ちして足取りも重く帰ってきました。その夜イサナギは夢の中で再び窟に入りました。夢の中に立ち現れたイサナミは『私が汚れて変わり果ててしまったという悲しい現実を受け入れず、地の底までわざわざ来て私に恥を掻かせましたね。恨みに思いますよ。』と言うなり八人の醜女(シコメ・地獄の女鬼)に命じて、挑みかかってくるではありませんか。イサナギは後ろ手に剣を振り振り、必死に逃げました。醜女はしつっこく追って来ます。 坂道を木の根や枝に捕まって這い登るように逃げていくと、ふと掴んだ蔓に山葡萄がたわわに実っていました。イサナギが剣で蔓を断ち切って投げると、醜女は山葡萄の実を争って貪り食べ、食べ終わるとまた追いすがってきました。今度は身に着けていた竹櫛を投げると、これも拾って噛み砕いて食べ、また追って来ます。あわや追い付かれようとした時、イサナギは桃の大木の後ろに逃げ込んで、桃の実をもいで投げ付けました。すると醜女は後退りをしながら消え去りました。イサナギの夢は一旦途絶えました。
ここでイサナギが醜女の厄難を避けるため、咄嗟に用いた呪具について、その霊力の程を観察すると、山葡萄はさほどの効力を持ってはいないようです。また櫛は、竹より黄楊の方が霊力において優れていそうです。桃はさすがにウビチニ・スビチニのシンボルとされているだけあって、素晴らしい霊力を持った樹木でした。このことから、イサナギは桃の実を「大神つ実」と称えられたのです。 それはさておき、まだ夢の中に在りながら、現実を認識するに至ったイサナギは、イサナミに永遠の別れを申し渡します。まだ恨みの心が解けないイサナミは言いました。 『ああ、何と悲しい事でしょうか。この私に辱めを与えたまま、あなたは永遠に私から離れて行ってしまうのですね。そのような仕打ちをなさるなら、私はあなたの領民千人を毎日殺してしまいますよ。』イサナギは毅然として言い放ちました。 『本当に悲しい事だ。お前の心情は分かるが、折角一緒に苦労して国の基を築いてきたのだから、お前が千人を殺すなら、私は千五百人生まれるようにしてみせよう。お前が居なくとも、この国の安定と繁栄は私が守って見せる。』こうしてイサナギは、ヨモツヒラサカでイサナミに言絶ち(ことだち)をしました。イサナギはヨモツヒラサカに限り岩を立て、夢から覚めました。 この限り岩は「道返し(チカエシ)の神」といって、自由に行き来することを出来なくした、この世とあの世とを隔てる岩の扉です。
死後の世界を覗き見たイサナギは、さすがにそのショックと汚らわしさを払い切れずに、本つ宮(熊野本宮)に打ち萎れて帰ってきました。イサナギはこの汚れを濯いで何とか立ち直らなければいけないと、本つ宮の脇を流れる音無川で来る日も来る日も禊を繰り返し、身の内から[ヤソマカツヒの神]を引き出しました。それらは、元々イサナギの身の内に居て、健全な精神と健康を支えてくれる善神なのですが、不浄の体験によってすっかり捻じ曲がってしまった神々でした。イサナギはこの神々の曲がりを直して身の内へ戻しました。曲がりが直った神々のことを[神直日神(カンナオヒ)]とか[大直日神(オオナオヒ)]と呼びます。
こうして失意のどん底から立ち直って身の汚れを一切浄化したイサナギは、宗教心に目覚められました。これまでイサナミと共に国の骨格を整え、産業の振興や文教政策を行って国の安定を計り、成果を上げてきましたが、自分の心に宗教心が不足していたことを覚られたのです。
その後イサナギは単身巡幸し、ツクシのアワキ宮に滞在されて、ナカ川で行った禊でソコツツヲ・ナカツツヲ・ウワツツヲの三神を生み出されました。ツツヲという神はツツガ(災禍、牢)を祓うためにツツシム(斎戒する)ことを意味し、イサナギ自身の体験に基づいて生み出された神と思われます。この三神はカナサキに祭祀を命じられました。また北九州に行かれてアツ川(現在の釣川か?)での禊から、底、中、上のワダツミ三神を生み出され、ムナカタに祭祀を命じられました。そしてシガ海(玄界灘)で行った海水の禊から霊感を得られ、シマツヒコ・オキツヒコ・シガ三神の祭祀をアツミにお命じになりました。この三神は船を発明した神として古来崇敬されてきた神々です。
年老いたイサナギは近江に戻り、余生をアワ宮で過ごされました。後のタガの宮です。イサナミ亡き後、精神修養に没頭されたイサナギは、自ら得られた宗教観念を国家統治の柱に据えるべく思索を巡らせました。そして晩年、集大成である[導きの歌]を勅として公布されたのです。(私の拙い解説を聞くよりも、暗誦できるようになるまで、繰り返し音読してみて下さい。如何に芸術的で精神的な含蓄に富んだ歌であるか、お分かりになる筈です。
『導きの歌
アワ君よ 別れ惜しくと
妻送る 夫(オウト)は行かず
行けば恥 醜女(シコメ)に追わす
良し悪しオ 知れば足引く
黄泉坂 言断ち裂(サ)くる
器あり 禊に民の
整いて イヤマト徹(とお)る
足引きの 千五百(チイヲ)の織田の
瑞穂成る マトの教ゑに
カカンして ノンアワ州は
デンヤマト 引きて明るき
葦原の 歌も悟れよ
マト道の 徹らぬ前の
足引きの 枕詞は
歌の種 足引きは山
ほのぼのは 明けヌバタマは
夜の種 島つ鳥の鵜
沖つ鳥 鴨と船なり
この味オ ヌバタマの夜の
歌枕 覚めて明るき
前詞 心オ明かす
歌の道 禊の道は
身オ明かす ヤマトの道は
大いなるかな
(アワ君と呼ばれている天神の私は、余りにも突然妻が急逝したために惜別の念止まず、あの世まで追い掛けて会いに行った。しかしたとえ夫であれども行ってはならない世界で、結局亡き妻に恥を掻かせてしまった。醜女に追わせるほど怒った妻の心情を知って、足取りも重くあの世から帰ってきた。この世とあの世の境である黄泉坂には、厳然と両世界を分け隔たれ遮蔽物がソンザイシ、それを越えてはならないのだ。黄泉の国から生還した私は禊によって穢れを拭い去り、天神としての勤めを全うし平和な治世を取り戻すことができた。
初代天神のクニトコタチから伝えられた神宝[トとホコ]を授けられて天神になった私は、神宝の価値を深く知らず、漫然と治世を行ってきたが、禊を行うことによって初めて大いなる(イヤ、ヤ)真実(マ)である[トの教ゑ]の奥義に達することができた。それはまさしく[イヤマト]と言える悟りの境地である。イヤマトを悟ったことで、私は精神を高揚させ前向きに生きることができるようになった。妻への未練の心である[足引き]は、国の豊穣を願う心である[葦引き]に換わり、葦を引き抜いて稲を植える事業に情熱を傾けることによって多くの湿地が新田に変わり、稲穂がたわわに稔った。
[マトの教ゑ]を実践(カカン)した私に天御祖神は恩頼(ふゆ)を降ろし賜り(ノン)、またその御威光を人々に分け与えたことによって、アワ州は理想郷となり、やがて日本全土へと広がりを持つ(デン)ことになったのだ。クニトコタチ以来、国政の柱とされてきたトの教ゑは普通の原理なのだ。
[トの教ゑ]の奥義は (ヤ、マ)のヲシデ二文字に集約される。 (ヤ)のオシデは天を表す丸と地上に立てられたアンテナを表し、神に御霊を降ろし賜ることを祈る行為を意味する。また、 (マ)のオシデはその祈りを聞き届けて御霊を降ろし賜る神の御意志を意味する。
精神的に未熟だった私に、この奥義に達するイヤマトの悟りを開かせてくれた[足引き]の体験が、いかに貴重な神の御差配であったかを、歌の儀式として、後の世の人々に伝えたい。つまり、ヤマを歌に詠み込む時に、自動的に[足引き]の体験が連想される様に様式化するのだ。[足引き]を歌枕とか枕詞と呼んで、ヤマを詠う場合の歌の種とすれば、イヤマトの悟りを開いた私の貴重な体験を後世に伝えることができるのだ。
我が日嗣の御子であるワカヒトが生まれた時の記録の歌にウヲヤヤマスミは、 久方の 光生れます ウヒナメエ・・・・と詠い込んだ(四アヤ)。この歌から[久方]は[光]を導く歌の種となり、人々は自動的に日の神ワカヒトの誕生という歴史事実を連想するようになった経緯がある。このような歌の種を枕詞と呼んでワカ(和歌)の形式に採り入れることにしよう。既に[ほのぼの]は[明け]、[ぬばたま]は[夜]、[島つ鳥]は[鵜]、[沖つ鳥]は[鴨または船]の夫々歌の種とされているが、今後はこれらを枕詞と呼ぶことにする。
次の一節で、枕詞の使い方とその文学的効果を味わってみてほしい。
この妙味(アジ)オ ヌバタマの夜の 歌枕 覚めて明るき 前詞
歌の道は人の心を明らかにし、禊の道は身の内を清浄にする。この二つの道が相俟(ま)ってイヤマト(ヤマト)の道になるのだ。国中の人々がこの道を志し、身も心も明るく晴れやかになる時、日本は真にヤマトの国と称えられる素晴らしい国家になるのだ。)』
ある神議りの場で、型通りの議事が一段落した時、大物主クシキネ・オホナムチ(大国主)が、「和歌の枕詞はどのようにして出来たのでしょうか」と質問した。 誰もこの質問に即答する事は出来なかったが、一人書籍を繰っていた碩学(せきがく)のアチヒコ・オモイカネが「そのことは、『禊の書(ふみ)』に記録されています」と答えた。 皆膝を乗り出して「是非内容をお教え下さい」と乞うた。 「それでは」と、アチヒコは禊の書を片手に、分かり易く噛み砕いて説明を始めた。
「第六代天神オモタル・カシコネには嗣子が無く、それが原因で国が乱れました。その時国政議会はイサナギ・イサナミ(ふたかみ)をピンチヒッターとして第七代天神に抜擢したのです。両神は国家再建に向けて緊急の法整備を済ませ、各地の産業振興やトラブルの解決に取り組み、これらを軌道に乗せると、先代の轍を踏まぬよう、一心に日嗣の御子の誕生を祈られました。そして首尾よく日嗣の御子であるワカヒト君を設けられ、君子教育を第五代タカミムスビのタマキネに委ねて、オキツボ(滋賀県大津市坂本付近)のオキツの宮に落ち着かれました。そこで改めて国家の進むべき道を模索されたのです。
当時は各地の方言や個人訛りがひどくて、天神の勅すらも国中の人々に十分に伝える事が困難で、言葉が通じないための行き違いや紛争も絶えませんでした。そこで両神は、言語と発音の標準化を行って、人民に教育を施すべきだと考えました。本来の日本語は四十八音で、その中に五つの母音を含んでいます。両神はこの四十八音を国中の人々が正確に発音し、聞き取れるようにする効果的な教育の方法として、アからワまでを歌い連ねたアワ歌を考え出されたのです。
アカハマナ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ
五七調のリズムは、日本語の表現に最も適している上に、四十八音がピッタリと収まります。このアワ歌を人々に教えるに当たっては、前半の二十四音をイサナギが歌い、後半の二十四音をイサナミが続けて、二人して歌い聞かせる方法を採りました。人々は楽しみながら聞き覚え、自分たちも歌い楽しんでいるうちに、自然に標準の発音が身に着いて、誰とでも話が通じ合えるようになったのです。両神が教え広めたアワ歌の発音は、ナカ州(クニ)(近畿・山陽地方)の人々の標準的な発音でした。だからアワ歌の普及によって、ナカ州はアワ州とも呼ばれるようになりました。
両神はその後ツクシ州(九州)に行幸され、アワ歌の普及と共にツクシの各地に橘(蜜柑)の植栽を振興されました。これはクニトコタチが建国事業の中心に蜜柑を据えた「常世の道」政策に倣ったもので、その成果によってツクシ各地は大変豊かになりました。両神のご努力によって豊かに安定した地域は重臣達に後を託し、経営を任された臣達も人民本意の施政を行いました。こうして両神はオトタチハナのアワキ宮(宮崎市内)を本拠として、偉大な足跡をツクシ全域に印されたのです。そのアワキ宮でお生まれになった御子はモチキネと名付けられ、やはりタマキネの下に遊学されました。後のツキヨミの神です。
さて、ツクシの経営が軌道に乗ると、両神は休む間も無くソアサ州(四国)に回られました。イサナギの父アワナギの出身地であるソアサは当時、叔父サクナギの長子イヨツヒコが経営に当たり、弟のアワツヒコが補佐していました。ウビチニの血を引く一族の祖神アメヨロズ神が開拓に当たって以来、「常世の道」政策も順調に推移していたので、両神は人々にアワ歌を習わせる言語教育の方法をイヤツヒコに授けるだけで十分でした。また両神はアワツヒコの要望を容れて、ソアサの統治を更に木目細かく行わせるべく、イヨ邦(クニ)とアワ邦の二つに分割し、アワをアワツヒコに治めさせることにしました。
次に両神は、紀伊水道を渡ってソサ州(紀伊半島)に行かれたのですが、そこのキシヰ邦(和歌山県)に宮を造り、じっくりと経営に当たられました。ここでも蜜柑の栽培を主要産業として、やがてキシヰ邦は「常世里」と呼ばれるまでに経済的発展を遂げます。さて、ツクバで生まれた両神の第一子ヒルコ姫は、両親が厄年に当たっていたので、禍を避けるために捨てられ、カナサキに拾い育てられたことは、皆さんご承知の事と思います。この頃になって両神にもようやく心のゆたりが生じたと見え、ヒルコ姫を呼び戻して、三人で熊野地方の経営に着手されました。カナサキの手解きで歌の素質が見事に開花したヒルコ姫は、両神を助けて人々にアワ歌を教える役目をこなし、一家は四季の花を愛でる幸せな時期を過ごされたのです。
そしてイサナミはクマノで三人目の男子をお産みになり、ハナキネと名付けました。後のソサノヲです。ところが、この子は癇癪持ちで我が強く、気に入らない事があると泣き喚いたり怒鳴ったりで、手の付けられない子でした。ある時、早苗が出揃った苗代に、何と、もう一度種を蒔いて稲の成長を阻害するという、悪戯にしてはあまりにも重大な嫌がれせをしたのです。親を困らせるばかりでなく、人々が精魂込めて耕作した田に植えるべき苗を台無しにしてしまう暴挙でした。
『天の節 宿れば当たる 父の汚穢(おえ) 男(ヲ)の子は母の 隅となる』 。イサナミはハナキネの所業をすべて自分の責任だと深く心に刻み、稲作の減収を償う決心をしました。熊野地方は海岸近くまで丘陵地が迫り、水田耕作が可能な場所はごく限られているので、人々の生活は楽なものではありませんでした。イサナミはハナキネの所業によって、乏しい米収が更に減少してしまった庶民の困窮を立て直すために、山焼きをして、傾斜地には桑を植えて養蚕を興し、平地は水利を整えて水田や農地を増やす事業を進めました。ところが、必死に働くイサナミに不幸が襲ったのです。急に風向きが変わって山焼きの火に取り囲まれたイサナミは、逃げ場を失ってお亡くなりになりました。志半ばで事故に遭われたイサナミでしたが、事業は軌道に乗って動き出したので、絹や農作物の産業は熊野地方にしっかりと根付きました。
イサナミは身を挺して火の神カグツチを動かし、土の神ハニヤスと水の神ミズハノメを生み出して、農産業の守護神ワカムスビをこの地に招いたと言う事が出来ましょう。イサナミの亡骸はアリマ(三重県熊野市有馬町花の窟神社)にお納めし、その後この地の人々は、毎年桑の花が咲く春と、稲穂が色付く秋に、イサナミを偲んでお祭りをしています。 さて、この葬儀を取り仕切ったイサナギの姉ココリ姫は、すべてが済んでから遠方の親族に知らせを出しました。 イサナギの悲しみはあまりにも深かったので、ココリ姫が必死に制止するのも聞かず(キミコレナミソ)、イサナミを一目見たいと窟(いわや)に入りました。窟の中でユズの黄楊櫛(つげくし)の端に植えられた太い歯を折り取って、火を点け翳(かが)して見ると、既に時間の経ったイサナミの亡骸には蛆虫がたかっていました。
生前の面影を追い求めてきたのに、何と汚らわしく変わり果ててしまったことか。イサナギは気落ちして足取りも重く帰ってきました。その夜イサナギは夢の中で再び窟に入りました。夢の中に立ち現れたイサナミは『私が汚れて変わり果ててしまったという悲しい現実を受け入れず、地の底までわざわざ来て私に恥を掻かせましたね。恨みに思いますよ。』と言うなり八人の醜女(シコメ・地獄の女鬼)に命じて、挑みかかってくるではありませんか。イサナギは後ろ手に剣を振り振り、必死に逃げました。醜女はしつっこく追って来ます。 坂道を木の根や枝に捕まって這い登るように逃げていくと、ふと掴んだ蔓に山葡萄がたわわに実っていました。イサナギが剣で蔓を断ち切って投げると、醜女は山葡萄の実を争って貪り食べ、食べ終わるとまた追いすがってきました。今度は身に着けていた竹櫛を投げると、これも拾って噛み砕いて食べ、また追って来ます。あわや追い付かれようとした時、イサナギは桃の大木の後ろに逃げ込んで、桃の実をもいで投げ付けました。すると醜女は後退りをしながら消え去りました。イサナギの夢は一旦途絶えました。
ここでイサナギが醜女の厄難を避けるため、咄嗟に用いた呪具について、その霊力の程を観察すると、山葡萄はさほどの効力を持ってはいないようです。また櫛は、竹より黄楊の方が霊力において優れていそうです。桃はさすがにウビチニ・スビチニのシンボルとされているだけあって、素晴らしい霊力を持った樹木でした。このことから、イサナギは桃の実を「大神つ実」と称えられたのです。 それはさておき、まだ夢の中に在りながら、現実を認識するに至ったイサナギは、イサナミに永遠の別れを申し渡します。まだ恨みの心が解けないイサナミは言いました。 『ああ、何と悲しい事でしょうか。この私に辱めを与えたまま、あなたは永遠に私から離れて行ってしまうのですね。そのような仕打ちをなさるなら、私はあなたの領民千人を毎日殺してしまいますよ。』イサナギは毅然として言い放ちました。 『本当に悲しい事だ。お前の心情は分かるが、折角一緒に苦労して国の基を築いてきたのだから、お前が千人を殺すなら、私は千五百人生まれるようにしてみせよう。お前が居なくとも、この国の安定と繁栄は私が守って見せる。』こうしてイサナギは、ヨモツヒラサカでイサナミに言絶ち(ことだち)をしました。イサナギはヨモツヒラサカに限り岩を立て、夢から覚めました。 この限り岩は「道返し(チカエシ)の神」といって、自由に行き来することを出来なくした、この世とあの世とを隔てる岩の扉です。
死後の世界を覗き見たイサナギは、さすがにそのショックと汚らわしさを払い切れずに、本つ宮(熊野本宮)に打ち萎れて帰ってきました。イサナギはこの汚れを濯いで何とか立ち直らなければいけないと、本つ宮の脇を流れる音無川で来る日も来る日も禊を繰り返し、身の内から[ヤソマカツヒの神]を引き出しました。それらは、元々イサナギの身の内に居て、健全な精神と健康を支えてくれる善神なのですが、不浄の体験によってすっかり捻じ曲がってしまった神々でした。イサナギはこの神々の曲がりを直して身の内へ戻しました。曲がりが直った神々のことを[神直日神(カンナオヒ)]とか[大直日神(オオナオヒ)]と呼びます。
こうして失意のどん底から立ち直って身の汚れを一切浄化したイサナギは、宗教心に目覚められました。これまでイサナミと共に国の骨格を整え、産業の振興や文教政策を行って国の安定を計り、成果を上げてきましたが、自分の心に宗教心が不足していたことを覚られたのです。
その後イサナギは単身巡幸し、ツクシのアワキ宮に滞在されて、ナカ川で行った禊でソコツツヲ・ナカツツヲ・ウワツツヲの三神を生み出されました。ツツヲという神はツツガ(災禍、牢)を祓うためにツツシム(斎戒する)ことを意味し、イサナギ自身の体験に基づいて生み出された神と思われます。この三神はカナサキに祭祀を命じられました。また北九州に行かれてアツ川(現在の釣川か?)での禊から、底、中、上のワダツミ三神を生み出され、ムナカタに祭祀を命じられました。そしてシガ海(玄界灘)で行った海水の禊から霊感を得られ、シマツヒコ・オキツヒコ・シガ三神の祭祀をアツミにお命じになりました。この三神は船を発明した神として古来崇敬されてきた神々です。
年老いたイサナギは近江に戻り、余生をアワ宮で過ごされました。後のタガの宮です。イサナミ亡き後、精神修養に没頭されたイサナギは、自ら得られた宗教観念を国家統治の柱に据えるべく思索を巡らせました。そして晩年、集大成である[導きの歌]を勅として公布されたのです。(私の拙い解説を聞くよりも、暗誦できるようになるまで、繰り返し音読してみて下さい。如何に芸術的で精神的な含蓄に富んだ歌であるか、お分かりになる筈です。
『導きの歌
アワ君よ 別れ惜しくと
妻送る 夫(オウト)は行かず
行けば恥 醜女(シコメ)に追わす
良し悪しオ 知れば足引く
黄泉坂 言断ち裂(サ)くる
器あり 禊に民の
整いて イヤマト徹(とお)る
足引きの 千五百(チイヲ)の織田の
瑞穂成る マトの教ゑに
カカンして ノンアワ州は
デンヤマト 引きて明るき
葦原の 歌も悟れよ
マト道の 徹らぬ前の
足引きの 枕詞は
歌の種 足引きは山
ほのぼのは 明けヌバタマは
夜の種 島つ鳥の鵜
沖つ鳥 鴨と船なり
この味オ ヌバタマの夜の
歌枕 覚めて明るき
前詞 心オ明かす
歌の道 禊の道は
身オ明かす ヤマトの道は
大いなるかな
(アワ君と呼ばれている天神の私は、余りにも突然妻が急逝したために惜別の念止まず、あの世まで追い掛けて会いに行った。しかしたとえ夫であれども行ってはならない世界で、結局亡き妻に恥を掻かせてしまった。醜女に追わせるほど怒った妻の心情を知って、足取りも重くあの世から帰ってきた。この世とあの世の境である黄泉坂には、厳然と両世界を分け隔たれ遮蔽物がソンザイシ、それを越えてはならないのだ。黄泉の国から生還した私は禊によって穢れを拭い去り、天神としての勤めを全うし平和な治世を取り戻すことができた。
初代天神のクニトコタチから伝えられた神宝[トとホコ]を授けられて天神になった私は、神宝の価値を深く知らず、漫然と治世を行ってきたが、禊を行うことによって初めて大いなる(イヤ、ヤ)真実(マ)である[トの教ゑ]の奥義に達することができた。それはまさしく[イヤマト]と言える悟りの境地である。イヤマトを悟ったことで、私は精神を高揚させ前向きに生きることができるようになった。妻への未練の心である[足引き]は、国の豊穣を願う心である[葦引き]に換わり、葦を引き抜いて稲を植える事業に情熱を傾けることによって多くの湿地が新田に変わり、稲穂がたわわに稔った。
[マトの教ゑ]を実践(カカン)した私に天御祖神は恩頼(ふゆ)を降ろし賜り(ノン)、またその御威光を人々に分け与えたことによって、アワ州は理想郷となり、やがて日本全土へと広がりを持つ(デン)ことになったのだ。クニトコタチ以来、国政の柱とされてきたトの教ゑは普通の原理なのだ。
[トの教ゑ]の奥義は (ヤ、マ)のヲシデ二文字に集約される。 (ヤ)のオシデは天を表す丸と地上に立てられたアンテナを表し、神に御霊を降ろし賜ることを祈る行為を意味する。また、 (マ)のオシデはその祈りを聞き届けて御霊を降ろし賜る神の御意志を意味する。
精神的に未熟だった私に、この奥義に達するイヤマトの悟りを開かせてくれた[足引き]の体験が、いかに貴重な神の御差配であったかを、歌の儀式として、後の世の人々に伝えたい。つまり、ヤマを歌に詠み込む時に、自動的に[足引き]の体験が連想される様に様式化するのだ。[足引き]を歌枕とか枕詞と呼んで、ヤマを詠う場合の歌の種とすれば、イヤマトの悟りを開いた私の貴重な体験を後世に伝えることができるのだ。
我が日嗣の御子であるワカヒトが生まれた時の記録の歌にウヲヤヤマスミは、 久方の 光生れます ウヒナメエ・・・・と詠い込んだ(四アヤ)。この歌から[久方]は[光]を導く歌の種となり、人々は自動的に日の神ワカヒトの誕生という歴史事実を連想するようになった経緯がある。このような歌の種を枕詞と呼んでワカ(和歌)の形式に採り入れることにしよう。既に[ほのぼの]は[明け]、[ぬばたま]は[夜]、[島つ鳥]は[鵜]、[沖つ鳥]は[鴨または船]の夫々歌の種とされているが、今後はこれらを枕詞と呼ぶことにする。
次の一節で、枕詞の使い方とその文学的効果を味わってみてほしい。
この妙味(アジ)オ ヌバタマの夜の 歌枕 覚めて明るき 前詞
歌の道は人の心を明らかにし、禊の道は身の内を清浄にする。この二つの道が相俟(ま)ってイヤマト(ヤマト)の道になるのだ。国中の人々がこの道を志し、身も心も明るく晴れやかになる時、日本は真にヤマトの国と称えられる素晴らしい国家になるのだ。)』
