ホツマツタヱ御機の四 日の神の瑞御名(ミズミナ)のアヤ
[訳文の前に]
今村氏の訳ではここにはホツマツタヱの暦についての詳述が述べてありますが、大部分省略します。
スズ暦はクニトコタチの考案によるとされるが、天照大御神の生誕は二十一スズのことで、スズ暦が始まってから既に百二十万年余りを過ぎており、大御神のご逝去は五十スズであるから、大御神は百七十四万年弱を生きた事になり、この数値を加えれば優に人類の発生段階に迫ろうとするほどの数値になる。筆者はこの疑問に科学的な解答を与える事は不可能と考えている。即ち、スズ暦で現される大きな数値には宗教的な意味が込められており、科学万能の現代人感覚では理解困難と言わざるを得ないのである。現代と同じ太陽太陰暦を持っていた時代背景からして、この大きな数値は、宗教的な意味合いを加味して解釈しなければ思考の渋滞を免れない。従って、スズ暦に現れる大きな年数や月数を、筆者は仮に宗教年・宗教月と宛てて訳す事にするので、あらかじめご了承願いたい。
[訳文]
御子オシヒト・オシホミミに日嗣を譲ってイサワの宮に引退された天照大御神は、タガノコフで日高見の開発統治に専念するオシヒトを支えて国政議会を預かって居られた。大御神はその名の通り、国の隅々まで照らす太陽のように、全ての人々が均等に恵みを受けて快適な生活を送れる世の中にしようと勤めておられた。イサワの宮には定期的に参議の重臣が集まって神議りが行われ、大御神の御心を反映する政策が討議された。イサワでの定例会議が行われたある日、議事が終了して大御神も自室に戻られた後に、大物主クシヒコが「今、私達全国民から日の神として崇められている大御神の生い立ちと、ワカヒトという斎名(ヰミナ)について、詳細をご存知の方はお教え下さい」と問いかけた。
この質問に対して、オオヤマスミが「私の父が歌で綴った記録にその事が書かれています」と答えた。参議の諸臣はこぞって「是非ともそれをお聞かせ下さい」と乞うたところ、ヤマスミは謹んでその長歌に解説を加えながら語り始めた。内容は次の通りである。「昔、皆さんご存知の通り、クニトコタチの事績を継いだトホカミヱヒタメの八人の御子は総称してクニサツチと申し上げ、八人が日本全国を分治する方式を採りました。父神の出身地である常世国を起点として、先ず日高見に国家基盤を置いて果樹や穀物、野菜の栽培技術を普及させながら、ホツマ邦(関東)を始め次第に分治の輪を広げ、国家形態を整えていきました。八人の中からトの尊が互選されて指導的な立場に立ったのですが、既に日高見に磐石な基盤を築いていたヒの尊である初代タカミムスビ(二アヤ参照)は、この国家事業を側面から強力に支えました。本州中央部を開発されたトの尊は、父天御祖神を象徴する果樹として橘を常世の花と名付け、栽培を振興しました。橘の実はカグと呼ばれるので、、ハラミ山はカグ山とも呼ばれるようになったのです。クニトコタチ以来、暦の木として代々の天神が植え継いで来たマサカキも多くを数え、世も移り変わりましたが、代々のタカミムスビは常に天神を後見して国政を補佐し、主に祭祀を執り行う役割を担っていました。
そして五代目タカミムスビのタマキネが、日本民族共有の天御祖神信仰を国家宗教儀式として確立したのです。天上に存在すると信じられていた元明けを地上に具象化してタカマの祭りとし、アユキの宮には天元神と八元神を、そしてワスキの宮には天並神(あなれ)と三十二神を祭りました。人々は、天地自然の摂理を整えて万物を創造した日本民族の祖神である天御祖神に守られていることを、はっきりと意識することができるようになったので、タマキネをトヨケ神とか東(キ)の君と呼んで崇敬しました。七代目天神のイサナギ夫妻が一度崩壊しかかった国家の再建に向けて奮闘しておられた時代、国政議会を預かっておられたタマキネは、もう次代のことを憂慮しておられました。
『マサカキの植え継ぎは二十一本目のスズに及び、その間百二十万七千五百二十宗教年を経て、クニトコタチ以来の天神の血筋を引く男子は千五百人も数え上げる事ができるのだが、その中に天ナル道を習得して万民を導き、人々を生の苦しみから少しでも救済するほどの徳を持った人物は見当たらない。このままでは両神(ふたかみ)の国家再建への努力も無駄になってしまうのではないだろうか。』トヨケは暗澹たる気持ちでハラミ山へ登りました。日本列島の中心にある高みに居て、あるべき国家像を思い描いてみたのです。トヨケは思いました。『理想的な国家とは、すべての人民が自分の生を正面から見据え、生きる価値を見出すことができる国家なのだ。天ナル道はそれを可能にする立派な教義だが、その教義を教え広める優れた人材が見当たらない。両神が全国を巡幸して標準語を普及させたので、日本中の人々が同じ言葉で意思を通じ合えるようになった。次の段階は天ナル道を国家理念として国民の一人一人に植え付ける教導が必要なのだ。』こうして思考整理を済ませたけれども、トヨケの心は晴れず、重い足取りで日高見の宮に戻りました。
両神も無事に全国統治を成し遂げ、次の目標に向けてトヨケと同じようなことを考えていたのです。イサナミは父のトヨケを訪ねてその心情を訴えました。『何とかにて世嗣ぎ子が欲しいのですが、授かりません。』トヨケはフトマニで占い、ツキカツラギのイトリ山に世嗣ぎ社を建てて色幣(いろしで)を奉げ、そこに篭って天御祖神に祈りました。そして自ら八千回の禊を誓って実行したのです。この途方もない願掛けによる必死の祈りが聞き届けられたかのように、天御祖神の眼に日と月の光が差し、それを取り巻く天元神や三十二神が祝福の笑みを浮かべた幻想に囚われたのです。トヨケは世嗣子を得ることができるという確信を持ちました。
この頃ギミ両神はハラミ山に登って述懐されました。『二人で日本中を巡り人々の生活安定を計って、姫御子を一人設けることは出来たけれども、世嗣ぎの御子が得られなければとうてい心安らかに過ごすことは出来ない。』両神は世嗣ぎ子の誕生を願って、富士の湧水(原文イケミズ)で左の目を洗っては日の御霊に祈り、右の目を洗っては月に祈りました。両神の擁立者の中でも鋳造技術では随一のイシゴリドメがマス鏡を造って奉りました。イサナギは天(アメ)を治めるほどの器量を持った御子を設けたいとの一心で、イシゴリドメに進められた通り、左右両手に持ったマス鏡を日霊と月に見立て、人として顕現することを願って、首を巡らす毎に降霊を祈りました。こうして日を積んでいく内に、御霊が降って身柱(チリケ・第七頚椎)から身体の中に入り込んで行くように感じ出したのです。この業が千日にも達する頃、イサナギの白い脛が血の気を帯びて桜色に染まってきました。
ある日イサナギはイサナミに生理の経過を聞きました。姫は次のように答えました。『月潮(ツキノオエ)は流れ止まって三日経ちました。今は身も清く、日の御霊を受け入れるには最適な時ですので、お待ちしております。』男神もニッコリと微笑んで二人して拝むと、眩い光が辺り一面を覆い、あたかも日輪が飛び降って両神の前に落ち止まったかに見えました。両神は思わず我を忘れて時を過ごし、夢心地から覚めると安らぎと至福の思いで満たされたのです。宮へ帰るとヤマスミも既に察知して、ササ神酒を用意して待ち構えていました。男神は、『床神酒の作法を知っていますか。』と聞きますと、女神は次のように答えました。『コトサカノヲから教えを受けたところによると、床神酒は先ず女が飲んで、その後に男に勧めるのが作法です。床入りに当たっては、女が言挙げしてはならず、男が装うのを女が知って初めて婚ぎ(とつぎ)が成立するのです。そして精液の受け渡しを行えば互いに打ち解けて御腹に子種が宿ります。こうして良い子供を生むための教えが婚ぎ法(トツギノリ)です。床神酒の儀式は、胎児を正常に整える婚ぎ法の教えであると同時に、国家を建設する道の重要な教えでもあるのです。』
こうして両神は交わり懐妊したのですが、十ヶ月経って予定日になっても産まれず、どんどん年月が過ぎて行き、病気ではないかと本人も周囲の者達も心配をしました。けれども九十六宗教月を経過してようやく陣痛が始まり、お生まれになったのがアマテル神です。二十一スズ目の百二十五枝(七千五百宗教年台)キシヱの年の元日、ほのぼのとした初日と共にお生まれになったその御形は、日輪と同じく球形の卵だったのです。何と不思議なことではありませんか。私の祖父に当たる先々代のヤマスミは、この誕生を祝って次のように歌いました。『でかした。でかした。これでクニトコタチ以来続いてきた天の祀りも安泰となり、天神の世系も保たれることが約束された。末永く人々が幸福に暮らせる基が今開かれたのだ。何としてもめでたい事だ。』
ところで人々は、御世嗣が卵の形でお生まれになったという、世にも不思議な現象をどう受け止めれば良いのか、判断できずにいました。それは吉事なのか凶事なのか、重臣達は思い切ってトヨケに聞いてみました。そしてトヨケの説明を聞いてなるほどと頷き、ほっと胸を撫で下ろしました。その説明はこうです。『純真無垢な胎児には、世間に居る邪悪な心を持った者の念が作用して、障害を及ぼすことが多いのです。増して天神の世嗣の誕生ともなると、嫉妬心に凝り固まった者達の念がイソラという悪鬼を生み出し、胎児に悪さをしようとします。この障りを避けるために、私は願掛けをして八千回の禊を行いました。この禊によって、胎児を包んでいる胞衣が厚く強まって卵の殻のようになったのです。この強い胞衣がイソラの祟りを撥ね返して、世嗣の御子を守っているのです。』 さて、卵でお生まれになった御子を卵からお出ししなければなりません。玉の岩戸を開くような切開手術は、イチヰの木を薄く削って作った?(さく)を用いて慎重に行われました。そして天の戸が開いて日輪が顔を覗かせたかのように、現れ出た御子は光り輝いて見えました。イサナギの姉のシラヤマ姫は産湯を使わせ、アカヒコが養蚕して出来た絹糸をナツメが織り上げて産着布やおくるみとして奉りました。さすがに母親のイサナミは疲れがひどく、乳の出が細かったので、宝飯(ホイヰ)の守の妻ミツチ姫が乳母の役を買って出ました。
こうして人々がかいがいしく御子の養育に当たったのですが、瞳を閉じたまま半年余りを経過し、七月半ばになってようやく瞳を開かれました。ニッコリと笑った顔を覗き込んで、人々は手を叩いて喜び、心配も疲れも瞬時に消え去りました。この御子の誕生に瑞祥が現れました。天に懸かる白雲がたなびいて、ハラミ山の八つ峰に霰(あられ)が降ったのです。天御祖神が御子の誕生を祝福して、日の御霊が宿るニゴタマを霰として降らせたのだと人々は想い、この瑞祥に因み布で作ったヤトヨ幡を宮の八隅に立て、御子は幼いながら君として即位されたのです。
さて、アマテル神を卵からお出しする時に、玉の戸を開くのに用いたのは、位山(岐阜県大野郡宮村)に産するイチヰの木で作った?でした。長じて偉大な指導者となられたアマテル神を敬慕する者は、その象徴として?を携えるようになりました。だから後の世においても、?を持つのは大御神所縁の人々なのです。
コヱネ州(石川県)にお住まいだった伯母シラヤマ姫は、アマテル神の誕生を祝ってご自分で織り上げた御衣を奉った時、泣く御子の声をお聞きになって『あな嬉し』と聞き取りました。このことから諸臣は『御子がどのような名をお望みなのかお聞き下さい』と頼み、伯母姫からお聞きしたところ『ウヒルギ』と御子自ら答えられました。諸臣はただの泣き声としか聞こえない御子の声を、しっかりと聞き切った伯母姫は、次のように説明されました。『ウは大いなること。ヒは日の輪。ルは日の霊魂を意味し、ギはキネと同じく男子の名の最後に付ける音です。』 こうして御子の幼名はウヒルギと決まりました。両神は伯母姫を称えてキクキリ姫と名を贈りました。何と機知と教養に富んだシラヤマ姫の受け答えだったことでしょう。
御子のウヒルギ命名を祝って、先々代オオヤマスミが詠った和歌アカタマノ ワカヒルノルハ アオキタマ クレヒノミタマ ヌバタマナリキ(訳)昇り行く若々しい太陽は、真っ赤に燃える中に青い霊魂を宿しており、光を失って沈み行く太陽は、ヌバタマのように真っ黒な玉の中に、また新たに生まれ出る赤い霊魂を宿しているのだなあ。日の申し子であるウヒルギ御子も成長と共に、世の中に清浄で強力な気を漲らせ、たとえ世の中が暗く打ち沈んだ時でも、そこには明るく朝の燃えるような光源を宿している、そのような君になって欲しいものだ。新しい光が射し込んだように、タカマに輝かしい日が訪れました。世嗣ぎ子の誕生をアユキ・ワスキに報告する初嘗祭(ウヒナメヱ)が厳粛に執り行われました。
両神は天神として多忙な中でも御子を手元に置き、手塩に掛けて育てました。そして、日の申し子を立派な君主として大成させるには親としてどうすれば良いのかを、常に考えて居られました。それほどまでに恵み厚く、心を尽くして御子を育てたのです。両神にとっては一日とも思える十六年が過ぎたある日、語らい述懐されました。『昔タマキネは、世嗣子の誕生を願って天御祖神に誓いを立て、カツラギ山で八千回の禊をされた。禊を済ませたタマキネはイトリの輦(てぐるま)を造ってカツラの迎えだと、ハラミの宮に居た私達に伝えてくれた。イトリの輦は天御祖神が遣わす御霊をお運びする乗り物で、桂の木は夫婦和合の象徴とされている。八千回の禊によって天御祖神から御霊を降ろされたタマキネは、それを私達に仲介してくれたのだ。そして私達が天御祖神の御霊を受けるための条件は夫婦和合だと教えてくれたのだ。』
両神は当時の事をまざまざと呼び起こし、夢を見ているような心地で思い返しているうちに、トヨケが天御子を教育している情景が目に浮かびました。両神は思いました。『世嗣子を教育するには、知識とか判断力や行動力だけを養っていては不十分なのだ。天から御霊の恩頼(ふゆ)を受けられる神性を身に着けなければ、本当の日の御子には成れない。その教育を施すことができるのはタマキネ以外には居ない。』善は急げと早速タマキネの同意を取り、輦を召して日高見へ向かいました。既に即位して君となっていた御子は八房の輿に乗り、身の回りの世話をする近習も侍り、ト・ホコを治めたケタコシも加えて進んで行きました。トヨケが待つケタツボ(宮城県多賀城市付近)のヤマテ宮に一行が到着すると、御子は光り輝くように神々しく見えました。辺り一面も黄金の花が咲いたような景観に包まれました。天御祖神が御子を歓迎しているのでしょう。
この有様にトヨケは日の若宮のワカヒトと御子に斎名(いみな)を奉りました。両神は我が子ながら畏敬の念を禁じ得ず『私達の宮に置いても、これ以上教育することは出来ません。』と言って後事をタマキネに委ね、オキツの宮(滋賀県大津市付近)に帰って行きました。天御子ワカヒトはこうしてタマキネの元で天道(アメノミチ)を学んだのです。ご学友としてフリマロが唯一人付き添いました。フリマロはタカミムスビの六代目ヤソキネの世継子で、トヨケの孫に当たります。五代目の君トヨケは毎日天つ宮に昇り、ワカヒトの勉学を導きました。ワカヒトは天道の奥義を極めたいと心底から望んで勉学に励みました。ある日のこと、ワカヒトはタマキネに質問をしました。『真名(まことな)を称えて斎名(ヰミナ)とも言いますが、姉の斎名がヒルコで三音なのに、私の斎名がワカヒトと四音なのは、何か理由があってのことなのでしょうか。』この質問にトヨケは次のように答えました。『斎名を付ける時に考えるべきことは、男性では四つあります。それは先ず親(タラ)とのつながり、それから世嗣ぎであるかないか、そして良い意味を持つ名であること、最後にその人が持って生まれた社会的使命である法(ノリ)です。この四つを考え合わせて斎名を付けるのです。ワカヒトは天つ君の立場ですから、人民のために一(ヒ)から十(ト)までを尽くすという使命を担っているので、ヒトと付けられたのです。同様にキネ・ヒコ・ウシなども法を表しており特別な社会的使命を担った斎名なのです。女性の場合は法を考えません。二た親とのつながりを考えて良い二音を選び、その前か後ろにコかオを付けるのです。それは男性と巡り合って子を生むからなのです。だから女性の斎名は三音で、男性の斎名は法の分だけ多く四音になります。斎名の付け方にはこのような決まりがあるのですが、称え名はいくら長い名を付けても、沢山の名を持っても構いません。斎名とは、当人の心根に染み透って、その人の真価を発揮させる力を持つものです。言い換えると、その人の人格を決定する四つの言霊なのです。』
今村氏の訳ではここにはホツマツタヱの暦についての詳述が述べてありますが、大部分省略します。
スズ暦はクニトコタチの考案によるとされるが、天照大御神の生誕は二十一スズのことで、スズ暦が始まってから既に百二十万年余りを過ぎており、大御神のご逝去は五十スズであるから、大御神は百七十四万年弱を生きた事になり、この数値を加えれば優に人類の発生段階に迫ろうとするほどの数値になる。筆者はこの疑問に科学的な解答を与える事は不可能と考えている。即ち、スズ暦で現される大きな数値には宗教的な意味が込められており、科学万能の現代人感覚では理解困難と言わざるを得ないのである。現代と同じ太陽太陰暦を持っていた時代背景からして、この大きな数値は、宗教的な意味合いを加味して解釈しなければ思考の渋滞を免れない。従って、スズ暦に現れる大きな年数や月数を、筆者は仮に宗教年・宗教月と宛てて訳す事にするので、あらかじめご了承願いたい。
[訳文]
御子オシヒト・オシホミミに日嗣を譲ってイサワの宮に引退された天照大御神は、タガノコフで日高見の開発統治に専念するオシヒトを支えて国政議会を預かって居られた。大御神はその名の通り、国の隅々まで照らす太陽のように、全ての人々が均等に恵みを受けて快適な生活を送れる世の中にしようと勤めておられた。イサワの宮には定期的に参議の重臣が集まって神議りが行われ、大御神の御心を反映する政策が討議された。イサワでの定例会議が行われたある日、議事が終了して大御神も自室に戻られた後に、大物主クシヒコが「今、私達全国民から日の神として崇められている大御神の生い立ちと、ワカヒトという斎名(ヰミナ)について、詳細をご存知の方はお教え下さい」と問いかけた。
この質問に対して、オオヤマスミが「私の父が歌で綴った記録にその事が書かれています」と答えた。参議の諸臣はこぞって「是非ともそれをお聞かせ下さい」と乞うたところ、ヤマスミは謹んでその長歌に解説を加えながら語り始めた。内容は次の通りである。「昔、皆さんご存知の通り、クニトコタチの事績を継いだトホカミヱヒタメの八人の御子は総称してクニサツチと申し上げ、八人が日本全国を分治する方式を採りました。父神の出身地である常世国を起点として、先ず日高見に国家基盤を置いて果樹や穀物、野菜の栽培技術を普及させながら、ホツマ邦(関東)を始め次第に分治の輪を広げ、国家形態を整えていきました。八人の中からトの尊が互選されて指導的な立場に立ったのですが、既に日高見に磐石な基盤を築いていたヒの尊である初代タカミムスビ(二アヤ参照)は、この国家事業を側面から強力に支えました。本州中央部を開発されたトの尊は、父天御祖神を象徴する果樹として橘を常世の花と名付け、栽培を振興しました。橘の実はカグと呼ばれるので、、ハラミ山はカグ山とも呼ばれるようになったのです。クニトコタチ以来、暦の木として代々の天神が植え継いで来たマサカキも多くを数え、世も移り変わりましたが、代々のタカミムスビは常に天神を後見して国政を補佐し、主に祭祀を執り行う役割を担っていました。
そして五代目タカミムスビのタマキネが、日本民族共有の天御祖神信仰を国家宗教儀式として確立したのです。天上に存在すると信じられていた元明けを地上に具象化してタカマの祭りとし、アユキの宮には天元神と八元神を、そしてワスキの宮には天並神(あなれ)と三十二神を祭りました。人々は、天地自然の摂理を整えて万物を創造した日本民族の祖神である天御祖神に守られていることを、はっきりと意識することができるようになったので、タマキネをトヨケ神とか東(キ)の君と呼んで崇敬しました。七代目天神のイサナギ夫妻が一度崩壊しかかった国家の再建に向けて奮闘しておられた時代、国政議会を預かっておられたタマキネは、もう次代のことを憂慮しておられました。
『マサカキの植え継ぎは二十一本目のスズに及び、その間百二十万七千五百二十宗教年を経て、クニトコタチ以来の天神の血筋を引く男子は千五百人も数え上げる事ができるのだが、その中に天ナル道を習得して万民を導き、人々を生の苦しみから少しでも救済するほどの徳を持った人物は見当たらない。このままでは両神(ふたかみ)の国家再建への努力も無駄になってしまうのではないだろうか。』トヨケは暗澹たる気持ちでハラミ山へ登りました。日本列島の中心にある高みに居て、あるべき国家像を思い描いてみたのです。トヨケは思いました。『理想的な国家とは、すべての人民が自分の生を正面から見据え、生きる価値を見出すことができる国家なのだ。天ナル道はそれを可能にする立派な教義だが、その教義を教え広める優れた人材が見当たらない。両神が全国を巡幸して標準語を普及させたので、日本中の人々が同じ言葉で意思を通じ合えるようになった。次の段階は天ナル道を国家理念として国民の一人一人に植え付ける教導が必要なのだ。』こうして思考整理を済ませたけれども、トヨケの心は晴れず、重い足取りで日高見の宮に戻りました。
両神も無事に全国統治を成し遂げ、次の目標に向けてトヨケと同じようなことを考えていたのです。イサナミは父のトヨケを訪ねてその心情を訴えました。『何とかにて世嗣ぎ子が欲しいのですが、授かりません。』トヨケはフトマニで占い、ツキカツラギのイトリ山に世嗣ぎ社を建てて色幣(いろしで)を奉げ、そこに篭って天御祖神に祈りました。そして自ら八千回の禊を誓って実行したのです。この途方もない願掛けによる必死の祈りが聞き届けられたかのように、天御祖神の眼に日と月の光が差し、それを取り巻く天元神や三十二神が祝福の笑みを浮かべた幻想に囚われたのです。トヨケは世嗣子を得ることができるという確信を持ちました。
この頃ギミ両神はハラミ山に登って述懐されました。『二人で日本中を巡り人々の生活安定を計って、姫御子を一人設けることは出来たけれども、世嗣ぎの御子が得られなければとうてい心安らかに過ごすことは出来ない。』両神は世嗣ぎ子の誕生を願って、富士の湧水(原文イケミズ)で左の目を洗っては日の御霊に祈り、右の目を洗っては月に祈りました。両神の擁立者の中でも鋳造技術では随一のイシゴリドメがマス鏡を造って奉りました。イサナギは天(アメ)を治めるほどの器量を持った御子を設けたいとの一心で、イシゴリドメに進められた通り、左右両手に持ったマス鏡を日霊と月に見立て、人として顕現することを願って、首を巡らす毎に降霊を祈りました。こうして日を積んでいく内に、御霊が降って身柱(チリケ・第七頚椎)から身体の中に入り込んで行くように感じ出したのです。この業が千日にも達する頃、イサナギの白い脛が血の気を帯びて桜色に染まってきました。
ある日イサナギはイサナミに生理の経過を聞きました。姫は次のように答えました。『月潮(ツキノオエ)は流れ止まって三日経ちました。今は身も清く、日の御霊を受け入れるには最適な時ですので、お待ちしております。』男神もニッコリと微笑んで二人して拝むと、眩い光が辺り一面を覆い、あたかも日輪が飛び降って両神の前に落ち止まったかに見えました。両神は思わず我を忘れて時を過ごし、夢心地から覚めると安らぎと至福の思いで満たされたのです。宮へ帰るとヤマスミも既に察知して、ササ神酒を用意して待ち構えていました。男神は、『床神酒の作法を知っていますか。』と聞きますと、女神は次のように答えました。『コトサカノヲから教えを受けたところによると、床神酒は先ず女が飲んで、その後に男に勧めるのが作法です。床入りに当たっては、女が言挙げしてはならず、男が装うのを女が知って初めて婚ぎ(とつぎ)が成立するのです。そして精液の受け渡しを行えば互いに打ち解けて御腹に子種が宿ります。こうして良い子供を生むための教えが婚ぎ法(トツギノリ)です。床神酒の儀式は、胎児を正常に整える婚ぎ法の教えであると同時に、国家を建設する道の重要な教えでもあるのです。』
こうして両神は交わり懐妊したのですが、十ヶ月経って予定日になっても産まれず、どんどん年月が過ぎて行き、病気ではないかと本人も周囲の者達も心配をしました。けれども九十六宗教月を経過してようやく陣痛が始まり、お生まれになったのがアマテル神です。二十一スズ目の百二十五枝(七千五百宗教年台)キシヱの年の元日、ほのぼのとした初日と共にお生まれになったその御形は、日輪と同じく球形の卵だったのです。何と不思議なことではありませんか。私の祖父に当たる先々代のヤマスミは、この誕生を祝って次のように歌いました。『でかした。でかした。これでクニトコタチ以来続いてきた天の祀りも安泰となり、天神の世系も保たれることが約束された。末永く人々が幸福に暮らせる基が今開かれたのだ。何としてもめでたい事だ。』
ところで人々は、御世嗣が卵の形でお生まれになったという、世にも不思議な現象をどう受け止めれば良いのか、判断できずにいました。それは吉事なのか凶事なのか、重臣達は思い切ってトヨケに聞いてみました。そしてトヨケの説明を聞いてなるほどと頷き、ほっと胸を撫で下ろしました。その説明はこうです。『純真無垢な胎児には、世間に居る邪悪な心を持った者の念が作用して、障害を及ぼすことが多いのです。増して天神の世嗣の誕生ともなると、嫉妬心に凝り固まった者達の念がイソラという悪鬼を生み出し、胎児に悪さをしようとします。この障りを避けるために、私は願掛けをして八千回の禊を行いました。この禊によって、胎児を包んでいる胞衣が厚く強まって卵の殻のようになったのです。この強い胞衣がイソラの祟りを撥ね返して、世嗣の御子を守っているのです。』 さて、卵でお生まれになった御子を卵からお出ししなければなりません。玉の岩戸を開くような切開手術は、イチヰの木を薄く削って作った?(さく)を用いて慎重に行われました。そして天の戸が開いて日輪が顔を覗かせたかのように、現れ出た御子は光り輝いて見えました。イサナギの姉のシラヤマ姫は産湯を使わせ、アカヒコが養蚕して出来た絹糸をナツメが織り上げて産着布やおくるみとして奉りました。さすがに母親のイサナミは疲れがひどく、乳の出が細かったので、宝飯(ホイヰ)の守の妻ミツチ姫が乳母の役を買って出ました。
こうして人々がかいがいしく御子の養育に当たったのですが、瞳を閉じたまま半年余りを経過し、七月半ばになってようやく瞳を開かれました。ニッコリと笑った顔を覗き込んで、人々は手を叩いて喜び、心配も疲れも瞬時に消え去りました。この御子の誕生に瑞祥が現れました。天に懸かる白雲がたなびいて、ハラミ山の八つ峰に霰(あられ)が降ったのです。天御祖神が御子の誕生を祝福して、日の御霊が宿るニゴタマを霰として降らせたのだと人々は想い、この瑞祥に因み布で作ったヤトヨ幡を宮の八隅に立て、御子は幼いながら君として即位されたのです。
さて、アマテル神を卵からお出しする時に、玉の戸を開くのに用いたのは、位山(岐阜県大野郡宮村)に産するイチヰの木で作った?でした。長じて偉大な指導者となられたアマテル神を敬慕する者は、その象徴として?を携えるようになりました。だから後の世においても、?を持つのは大御神所縁の人々なのです。
コヱネ州(石川県)にお住まいだった伯母シラヤマ姫は、アマテル神の誕生を祝ってご自分で織り上げた御衣を奉った時、泣く御子の声をお聞きになって『あな嬉し』と聞き取りました。このことから諸臣は『御子がどのような名をお望みなのかお聞き下さい』と頼み、伯母姫からお聞きしたところ『ウヒルギ』と御子自ら答えられました。諸臣はただの泣き声としか聞こえない御子の声を、しっかりと聞き切った伯母姫は、次のように説明されました。『ウは大いなること。ヒは日の輪。ルは日の霊魂を意味し、ギはキネと同じく男子の名の最後に付ける音です。』 こうして御子の幼名はウヒルギと決まりました。両神は伯母姫を称えてキクキリ姫と名を贈りました。何と機知と教養に富んだシラヤマ姫の受け答えだったことでしょう。
御子のウヒルギ命名を祝って、先々代オオヤマスミが詠った和歌アカタマノ ワカヒルノルハ アオキタマ クレヒノミタマ ヌバタマナリキ(訳)昇り行く若々しい太陽は、真っ赤に燃える中に青い霊魂を宿しており、光を失って沈み行く太陽は、ヌバタマのように真っ黒な玉の中に、また新たに生まれ出る赤い霊魂を宿しているのだなあ。日の申し子であるウヒルギ御子も成長と共に、世の中に清浄で強力な気を漲らせ、たとえ世の中が暗く打ち沈んだ時でも、そこには明るく朝の燃えるような光源を宿している、そのような君になって欲しいものだ。新しい光が射し込んだように、タカマに輝かしい日が訪れました。世嗣ぎ子の誕生をアユキ・ワスキに報告する初嘗祭(ウヒナメヱ)が厳粛に執り行われました。
両神は天神として多忙な中でも御子を手元に置き、手塩に掛けて育てました。そして、日の申し子を立派な君主として大成させるには親としてどうすれば良いのかを、常に考えて居られました。それほどまでに恵み厚く、心を尽くして御子を育てたのです。両神にとっては一日とも思える十六年が過ぎたある日、語らい述懐されました。『昔タマキネは、世嗣子の誕生を願って天御祖神に誓いを立て、カツラギ山で八千回の禊をされた。禊を済ませたタマキネはイトリの輦(てぐるま)を造ってカツラの迎えだと、ハラミの宮に居た私達に伝えてくれた。イトリの輦は天御祖神が遣わす御霊をお運びする乗り物で、桂の木は夫婦和合の象徴とされている。八千回の禊によって天御祖神から御霊を降ろされたタマキネは、それを私達に仲介してくれたのだ。そして私達が天御祖神の御霊を受けるための条件は夫婦和合だと教えてくれたのだ。』
両神は当時の事をまざまざと呼び起こし、夢を見ているような心地で思い返しているうちに、トヨケが天御子を教育している情景が目に浮かびました。両神は思いました。『世嗣子を教育するには、知識とか判断力や行動力だけを養っていては不十分なのだ。天から御霊の恩頼(ふゆ)を受けられる神性を身に着けなければ、本当の日の御子には成れない。その教育を施すことができるのはタマキネ以外には居ない。』善は急げと早速タマキネの同意を取り、輦を召して日高見へ向かいました。既に即位して君となっていた御子は八房の輿に乗り、身の回りの世話をする近習も侍り、ト・ホコを治めたケタコシも加えて進んで行きました。トヨケが待つケタツボ(宮城県多賀城市付近)のヤマテ宮に一行が到着すると、御子は光り輝くように神々しく見えました。辺り一面も黄金の花が咲いたような景観に包まれました。天御祖神が御子を歓迎しているのでしょう。
この有様にトヨケは日の若宮のワカヒトと御子に斎名(いみな)を奉りました。両神は我が子ながら畏敬の念を禁じ得ず『私達の宮に置いても、これ以上教育することは出来ません。』と言って後事をタマキネに委ね、オキツの宮(滋賀県大津市付近)に帰って行きました。天御子ワカヒトはこうしてタマキネの元で天道(アメノミチ)を学んだのです。ご学友としてフリマロが唯一人付き添いました。フリマロはタカミムスビの六代目ヤソキネの世継子で、トヨケの孫に当たります。五代目の君トヨケは毎日天つ宮に昇り、ワカヒトの勉学を導きました。ワカヒトは天道の奥義を極めたいと心底から望んで勉学に励みました。ある日のこと、ワカヒトはタマキネに質問をしました。『真名(まことな)を称えて斎名(ヰミナ)とも言いますが、姉の斎名がヒルコで三音なのに、私の斎名がワカヒトと四音なのは、何か理由があってのことなのでしょうか。』この質問にトヨケは次のように答えました。『斎名を付ける時に考えるべきことは、男性では四つあります。それは先ず親(タラ)とのつながり、それから世嗣ぎであるかないか、そして良い意味を持つ名であること、最後にその人が持って生まれた社会的使命である法(ノリ)です。この四つを考え合わせて斎名を付けるのです。ワカヒトは天つ君の立場ですから、人民のために一(ヒ)から十(ト)までを尽くすという使命を担っているので、ヒトと付けられたのです。同様にキネ・ヒコ・ウシなども法を表しており特別な社会的使命を担った斎名なのです。女性の場合は法を考えません。二た親とのつながりを考えて良い二音を選び、その前か後ろにコかオを付けるのです。それは男性と巡り合って子を生むからなのです。だから女性の斎名は三音で、男性の斎名は法の分だけ多く四音になります。斎名の付け方にはこのような決まりがあるのですが、称え名はいくら長い名を付けても、沢山の名を持っても構いません。斎名とは、当人の心根に染み透って、その人の真価を発揮させる力を持つものです。言い換えると、その人の人格を決定する四つの言霊なのです。』
