ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)3



 (最新見直し2009.3.7日)

 「ウィキペディアのホツマツタヱ」その他を参照する。



【ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)3、一姫三男生む殿の紋】
 3綾目次

3-1 両神(「いさなぎ」「いさなみ」)の生まれた子供の数と産屋の数が合わないことを問う(3-1~2)
3-2 両神(「いさなぎ」「いさなみ」)は筑波で最初のお子さんを生みました。(3-2~3)
3-3 「いさなぎ」「いさなみ」の最初のお子さんは「ひるこ姫」と言い、なんと、両親とも厄年でした(3-4~5)
3-4 厄を祓うため子供を川に捨て、翁に拾い育てられる(3-5)
3-5 「いさなぎ」「いさなみ」は世継ぎの男の子を生む決意をする(3-6~7)
3-6 「いさなみ」が二番目に妊娠した子は流産する(3-7~8)
3-7 「いさなぎ」「いさなみ」は子供の授かり方に間違いが(3-9)
3-8 セキレイを例に求愛の在り方を教えます(3-10~11)
3-9 「いさなぎ」「いさなみ」は正しい授かり方で求愛を(3-11~13)
3-10 両神「いさなぎ」「いさなみ」は国の再建に励みます (3-13~15)
3-11 念願の皇子「うほひるぎ」(天照神)が誕生(3-15~16)
3-12 豊受神より「わかひと」と名付けられる(3-16~17)
3-13 「いさなぎ」「いさなみ」に次男「つきよみ」が筑紫で生まれる(3-18)
3-14 厄のとれた「ひるこ姫」は「わかひるめ」に(3-18~19)
3-15 末っ子「そさのお」が和歌山で生まれ、周囲を困らせ母が「くまの宮」を建立(3-19~20)
3-16 「いさなぎ」「いさなみ」が一姫三男を生み、産屋が五つある理由です(3-21~22)
 イサナギ・イサナミの御子誕生
ひひめみをうむとののあや   一姫三男生む殿の文
もろかみの たかまにまつり はかるのち 諸守の タカマに政り 議る後 
つはものぬしか ふたかみの ひひめみをうむ ツハモノヌシが 二神の 一姫三男生む
とのゐつつ とえはかなさき こたふるに(小笠原では、ことふるに) 殿五つ 問えば カナサキ 答ふるに
むかしふたかみ つくはにて みめくりとえは 昔二神 筑波にて  身周(めぐ)り問えば
めかみには なりなりたらぬ めもとあり  女神には 生り成り足らぬ 陰没(めもと)あり
をかみのなりて あまるもの  男神の成りて 余るもの
あわせてみこお うまんとて 合わせて御子を 生まんとて
みとのまくはひ なしてこお  凹凸の交はひ 為して子を 
はらみてうめる なはひるこ 孕みて生める 名はヒルコ
しかれとちちは すすよそほ はははみそひほ  然れど父は 鈴四十穂 母は三十一穂
あめのふし やとれはあたる ちちのをゑ 天の節 宿れば当たる 父のヲエ
をのこはははの くまとなる 男の子は母の 隈(くま)となる 
みとせいつくに たらされと 三年慈(いつ)くに 足らざれど
いわくすふねに のせすつる  斎奇(いわくす)船に 乗せ捨つる
をきなひろたと にしとのに    翁拾たと 西殿に
ひたせはのちに ふたはしら 養(ひた)せば後に 二柱 
うきはしにゑる おのころの うきはしに得る オノコロの
やひろのとのに たつはしら 八紘の殿に 立つ柱 
めくりうまんと ことあけに  廻り生まんと 言挙げに
めはひたりより をはみきに 女は左より 男は右に
わかれめくりて あふときに  分れ廻りて 会ふ時に 
めはあなにえや ゑをとこと 女は「あなにえや 愛男子」と
をはわなうれし ゑおとめと  男は「わな嬉し 愛乙女」と 
うたひはらめと つきみてす 歌ひ孕めど 月満てず
ゑなやふれうむ ひよるこの あわとなかるる 胞衣(えな)破れ生む ヒヨルコの 泡と流るる
これもまた このかすならす これも未だ 子の数ならず
あしふねに なかすあはちや  葦船に 流す淡路や
あるかたち あめにつくれは  ある形 天に告ぐれば
ふとまにお あちはえいわく フトマニを 味わえ曰く
ゐよのうた ことおむすはす 五・四の歌 言を結ばず
ことあけも めはさきたてす  言挙げも 女は先き立てず
とつきとは めのにわなふり  婚ぎとは 雌のニワナ振り
をゆれなく をとりなきさる 尾搖れ鳴く 雄鳥鳴き去る
またあるひ をとりよそおふ またある日 雄鳥装ふ
めかしりて あひましわれは 雌が知りて 合ひ交われば
あめよりそ とりにつけしむ とつきのり 天よりぞ 鳥に告げしむ 婚ぎ(鳥告ぎ)法
さらにかえりて ふたかみは あらたにめくり 新に返りて 二神は 新たに廻り
をはひたり めはみきめくり  男は左 女は右回り
あひうたふ あめのあわうた 会ひ歌ふ 天のアワ(陽陰)歌
あなにゑや うましおとめに あいぬとき 「あなにゑや 美(うま)し乙女に 会いぬ」時 
めかみこたえて わなにやし  女神応えて 「わなにやし
うましをとこに あひきとそ  美し男に 会ひきとぞ」
やわしてあわお ゑなとして 和してアワを 胞衣として
やまとあきつす あはちしま  ヤマト秋津洲 淡路島
いよあわふたな おきみつこ 伊予阿波二名 隠岐三子
つくしきひのこ さとうしま 筑紫 吉備の児 佐渡大島
うみてうみかわ やまのさち 生みて海川 山の幸
きをやくくのち かやのひめ 木祖ククノチ 茅の姫
のつちもなりて あわうたに 野槌も生りて アワ歌に 
をさむはらみの みやにゐて 治むハラミの 宮に居て 
すてにやしまの くにうみて 既に八州の 国生みて
いかんそきみお うまんとて  如何んぞ君を 生まんとて 
ひのかみおうむ そのみなお 日の神を生む その御名を
うほひるきとそ たたえます 大日霊貴(うほひるき)とぞ 称えます
くにうるはしく てりとほる  国麗しく 照り徹る
くしひるのこは ととめすと 貴日霊(くしひる)の子は 留(とど)めずと
あめにおくりて あめのきと 天に送りて 天のキと 
みはしらのみち たてまつる 御柱の道 奉る
かれにはらみ おおおひやま 故(かれ)にハラミを 大日山
とよけかかゑて わかひとと いみなおささく トヨケ抱えて ワカヒトと いみ名を捧ぐ
ふたかみは つくしにゆきて うむみこお 二神は ツクシに行きて 生む御子を 
つきよみのかみ ひにつけと あめにあけます ツキヨミの神 日に継げと 天に上げます
これのさき をゑくまにすつ ひるこひめ これの先 オエ隈に捨つ ヒルコ姫 
いまいつくしに たりいたり 今慈(いつく)しに 足り至り
あめのいろとと わかひるめ             天の愛妹(いろと)と ワカヒルメ (分日霊妹)
そさくににうむ小笠原では、すさくににうむ) そさのをは ソサ国に生む ソサノヲは
つねにおたけひ なきいさち くにたみくしく 常にお猛び 鳴き騒ち 国民挫(くじ)く
いさなみは よのくまなすも わかをゑと  イサナミは 世の隈成すも 我がヲエと
たみのをゑくま みにうけて 民のヲエ隈 身に受けて
まもらんための くまのみや 守らんための 隈の宮
かくみこころお つくしうむ ひひめみをかみ  かく御心を 尽し生む 一姫三男神
うみてよの きみとみのみち とのをしゑ 生みて世の 君臣の道 調(と)の教え
さかりもとらは ほころはす 逆り惇(もと)らば 綻ろばす
このふたはしら うむとのは この二柱 生む殿は
あまのはらみと つくはやま 天のハラミと ツクバ山
あはちつきすみ くまのなりけり 淡路ツキスミ 熊野なりけり 

【(れんだいこ訳)一姫三男生む殿の文】
 諸神がタカマでの儀式を済ませ寛いでいたある時、参議の一人のツワモノヌシ(兵主)が次の問いかけました。「両神(フタカミ)が一人の姫と三人の御子をお産みになられた宮殿は五つあると聞きますが、どういう事なのでしょうか」。重臣のカナサキが答えて次のように語りました。「その昔、二神は筑波にて新婚生活を始めました。お互いに身体の違いを較べ合ったところ、女神には生り成り足らぬ陰没(めもと)がありました。男神には成りて余る逸物(男根)がありました。これを合せて御子を生もうとして、凹凸の交はい(ミトノマグバイ)をしたところ、女神が子を孕(はら)みました。生まれて来た子の名はヒルコ。しかれども、この時の父いさなぎの齢は四十歳、母いさなみは三十一歳。共に天の節の陽陰の節が宿る厄年でした。天の節が宿る年に生まれる子供は父に汚穢(おえ)が宿ります。男の子ならば母が隈(くま、災い)を受けることになります。何か悪い事が起こるのではないかと、両神はこの言い伝えが次第に心配の種になりました。愛情を注いで育てた期間は三年にも満たないけれど、捨て子は育つという言い伝えに従って、斎奇舟(いわくす舟、楠の木をくりぬいて作られた舟)に乗せて捨て子しました。予(か)ねて相談を受けていたこの爺(カナサキ自身)が待ち構えて拾い、西殿(現兵庫県西ノ宮)で養いました。
 後に二柱は、うきはし(天地を結んだ橋)より降りてオノコロ島に出向き、「八尋(ひろ)の殿」に立つ御柱を互いに巡って子を生もうとされました。女神は左より男神は右に分れて柱を巡り、出会った時の言挙げ(声掛け)は、女神は「あなにえや愛男子」(なんと素敵な美男子さん)、男神は「わな嬉し愛乙女」(あぁうれしい何と可愛い娘よ)と歌い、凹凸の交わりをし、女神が子を孕みました。但し、月満てず、胞衣破れ生むヒヨルコの泡と流るました。これも未だ子の数ならず。ヒヨルコは子の数には入れられず、両神は泣く泣く葦舟に乗せて流し、あの世に送りました。この経緯を天に告げたところ、フトマニで占って次のような指図が為されました。曰く、「柱回りで出会った際に歌った五・四の歌(五四調で綴った九音の歌)は、事(九十、こと)を結ばない十音目がない不吉のリズムであり、且つ言挙げも、女神の方から先に声を掛けたのが良くない。凹凸の交わりの仕方も浅い。とつぎとは 雌のニワナフリ(セキレイ)の尾が搖れ鳴くように、雄鳥が鳴き去る仕種に学ぶが良い。またある日、両神の御前で、雄鳥が誘うような仕草を装うと雌が知りて応じ相(あい)交わった。それは天の指図で、鳥に告げさせた婚ぎ法でした。この謂れにより、鳥告ぎが嫁(とつ)ぐになったのです。

 初めからやり直すことにして二神は、男神は左、女神は右回りに廻りました。二人が出会った時、次のように歌い合いました。男神の陽陰歌は「あなにゑや 美し乙女に会いぬ時」(何とうれしいことか、美しい乙女に会えた)。女神応えて「わなにやし 美し男に会ひきとぞ」(あぁうれしい、美男子に会えました)。(注、三つの間違いが直されたことになる。一つは、女神が左、男神が右回りしたのを、男神は左、女神は右廻りにしたこと。二つ目は、.女神が男神より先に歌ったのを止めて、男神が先に歌ったこと。三つ目は、.掛け合い言葉が五音・四音の歌だったのを五音・七音の歌に代えたこと) 

 両神は、アワの歌を導きにして赤子をつつむ胞衣(えな)のように優しく取り囲んで、国生みすることになりました。大和秋津州(本州)、淡路島、伊予と阿波二名(四国)、隠岐の三子(隠岐諸島)、筑紫(九州)、吉備の児島(瀬戸内の島々)、佐渡、大島。その足跡は日本全国に及びました。更に生みて海、川、山の幸を生みだしました。木の祖(おや)、ククノチ()の神、茅(かや)の姫。野の祖(おや)の「のつち」(野の霊)神たちも現われました。

 陽陰(あわ)歌の教え通りに農工産業が大いに振興し、両神はハラミの宮に居て政治を司ることになった。既に八州の地を生んでいたので、両神が次に為すべきことは、人民を守ってこの国の平和を恒久的に維持する優れた日嗣の君を生むことでした。この願いが通じて日の神を生み、御名をオオヒルキ(大日霊貴)と名付け称えました。大日霊貴は国の希望となり麗しく、その神威が隅々まで照り通りました。イサナギ、イサナミは、神威と威光がただごとでないのを知り、奇しき日(霊)の宿る「くしひる」の子を此処に留めておくわけにいかないとして天に送り、君に相応しい天神の儀式と天地を結ぶ御柱の道を教えることになりました。

 そういう事情から、ハラミ山(富士山)を大日山と呼び代えることになりました。トヨケの神(豊受神)は、考えてワカヒトと斎名(いみ名)を捧げました。この後、二神は、ツクシ(筑紫、九州の総称)に行き御子を生みました。その時に生まれた皇子をツキヨミの神と申します。ツキヨミの神を日の道を補佐させる為に天の宮中に上げました。これにより太陽と月の輝きが生まれました。

 これの先、「おえくま」(穢れや禍、けがれ、わざわい)を祓うために捨てられたヒルコ姫は今、充分に慈(いつく)しく成長され、天の神の妹として名前もワカヒルメ (分日霊妹)となりました。

 ソサ国(紀伊半島和歌山)で生まれたソサノヲは、常に猛び、鳴きわめき、国の民を困らせていました。イサナミは、ソサノヲの乱暴狼藉を自分の汚穢(不徳)と受け止め、国の民の苦労迷惑を身に受けて、民を守るために「くまの宮」(熊野宮)を建てました。イサナミは、ここにお住まいになって、ソサノヲの悪行の償いに努める生活をなされました。この様にそれぞれ御心を尽くしました。

 イサナギ、イサナミは、一人の姫と三人の御子を産みましたが、まだまだ「つきみてす」(充分に備わらず、未熟児の胞衣(えな)が破れて流産するような生みの段階でした。「ひよるこ」(未熟児)泡となって流れ去りました。よって、この子は子供の数に入りません。葦舟に乗せて、吾(あ)が恥(はじ)と流しました。これにより「あはち」(淡路島)と名づけられました。

 このようにして、御心を尽くして生まれたのが一姫三男の神です。この時代に、君(きみ)と臣(み)の道と、「との教え」を生み広めました。
これに逆らい、以前に戻るならば、敢然と矛をもって打ち破ります。

 両神は日本の国の基(もとい)を築き上げられました。この二柱の神が御子たちをお産みになった宮殿は、ワカヒト、ウヒルギを産まれた天のハラミ(富士山)の宮、ヒルコ姫ワカヒルメを産まれたツクバ(筑波山)のイサ宮、ヒヨルコを早産された淡路の宮、モチキネ・ツキヨミをお産みになったツキスミ(九州)の宮、そしてハナキネ・ソサノヲが産まれた熊野の宮と、合わせて五つの殿ということになるのです。


参考として、「ホツマツタヱ御機の三 一姫三男生む殿のアヤ」を転載しておく。
 [訳文の前に]
 ホツマをはじめヲシデ文献で使われている言葉は、それこそ純粋の日本語と言えるのだが、千八百年の長きにわたってヲシデ文献が隠されていたために、失われたり意味が曖昧になった言葉が数多くある。記紀等でおなじみの高天原という語も、ヲシデ文献に登場するタカマの深い語感が失われて現代に伝わっていることが双方を読む事によって確認できる。ホツマ・ミカサに漲る縄文人の宗教観を感得してこそタカマの真意に到達し得るのです。このアヤの訳文に入る前にその概略を記しておこう。ただし、この説明は少し長くなる上に煩雑なので、飛ばして先へ読み進んで頂いても、差し支えない。

 前アヤで多少触れたが、いつの頃からか日本人は、天地創造の神にして民族の祖神である天御祖を天上の中心に坐す神として信仰していた。一方、初代タカミムスビのハゴクニは、国常立を最初の人間神・天御中主として、天上に天御祖と併せて祀った。この時から一つの観念が日本人の間に定着していったのである。その観念とは「日本国家を創建した国常立尊は、宇宙の中心に坐す造物主・天御祖神から地上に遣わされた天御中主神の化神である」というものである。つまりこの三神は共に日本民族の祖神という観点から一体化され、天元神(あもとかみ・アワウ)という名で天上の中心に坐す神となったのだ。この一体化された天元神を分析して見れば、中心に坐す天御祖(ウ)に、天御中主(ア)とクニトコタチ(ワ)が侍している形で表されていることが分かる。

 その後この思想は、日高見における歴代タカミムスビの元で発展を続けたものと推測される。ホツマとミカサに記されている宗教思想の根幹は、第五代タカミムスビ・タマギネから天照大御神に伝えられたもので、複雑ではあるが明解な論理で構成されており、縄文神道の完成形として受け取る事ができる。多くのアヤにちりばめられた断片をまとめると、次のような思想として展開構成されていったものと理解される。先ず発展段階の初期には、八人のクニサツチが天元神を取り巻く八元神という名で天上の神に加えられた。天元神とその周囲に配された八元神は、併せて九星(こほし)または天常立(アメトコタチ)という神名で呼ばれた。天常立が坐す天の中心は元明けまたはサコクシロと呼ばれた。この思想が更に発展すると、新たにイクラ(五臓)・ムワタ(六腑)の神を十一神(ソヒ)として祀るウマシアシガイヒコヂ神が創造された。この神々は、様々な思想観念が重ね合わされて、複雑な性格を持つ事になる。イクラ神とは方角の名キツヲサネであり、それが方位を司る神となって、更に人間の臓器の内五臓を守る神とされた。また、ムワタ神はアミヤシナウの六神で、自然の摂理を司る神から発展して、人間の六腑もしくは循環器系や神経系を守る神とされたのである。

 タカミムスビ家は祭祀場所にアユキ・ワスキの二つの宮を造り、アユキの宮には天常立を、ワスキの宮にはウマシアシガイヒコヂ神を祀った。そして、この二つの宮で祀る天上の世界をタカマノハラと呼び、祭祀を執行する場所をタカマと呼んだのである。現代でも皇室では大嘗祭に際して由基・主基(ユキ・スキ)の宮を新造し、即位された天皇が最初の祭祀を行う場所とされている。タカミムスビは天神の後見役を担うことから、後には歴代の天神や君が亡くなるとワスキの宮に合祀するようになり、ウマシアシガイヒコヂ神は十一神の観念を残しながらも、更に二重三重の観念が重合されて形態も変化した。変化後の形態は、天並(アナミ)神(アイフヘモヲスシ)の八神を中心に置き、その周囲を三十二(ミソフ)神が守るようになったのである。そして最終段階に至ってアユキ・ワスキの神々は統合され、天上の中心に坐す天元神の周囲には八元神が、その外周に天並神が、更にその外側に三十二神が配された。この構成を書き表したものを、フトマニ図と呼んでいる。

 フトマニ図
 http://www.hotsuma.gr.jp/futomani.html
 八元神・天並神・三十二神を加えると四十八(ヨソヤ)神で日本語の音韻の数である。日本語の一音一音は神とされ、ここに言霊の観念の発生を見る。各々の神は季節や方位を始め、自然界のあらゆる事象を管掌することから、フトマニ図は占いに用いられるようになった。タカミムスビ家はこの祭祀をタカマの祭りとして、自家で体系化し祭行してきたが、タマギネはイサナギ・イサナミ(両神)と天照大御神に伝授する事によって、これを国家祭祀にまで高めた。タカマの祭りをひと言で言えば、天地創造から万物の生成、人類の誕生、国家創建、そして縄文のあらゆる文化の発展経過を凝縮した思想体系である。

 タカマの祭りを管掌する場はアメ(天)と呼ばれ、祭祀を行う部屋がタカマと呼ばれた。タマギネは日高見で行っていたタカマの祭りを、両神(フタカミ)が一時本拠としたハラミの宮に移し、後にその祭祀を天照大御神に委ねたことから、大御神(ヲヲンカミ)の所在場所をアメと呼び、大御神の御前で行う国政会議をタカマ議(はか)りと呼ぶようになったのである。

 ホツマツタヱ御機の三 一姫三男生む殿のアヤ 

 [訳文]
 タカマでの御前会議が終了して参議の重臣達が寛いでいたある時、参議の一人、ツワモノヌシ(兵主)が次の問いを発した。「両神(フタカミ)が一人の姫と三人の御子を設けられた宮殿は、五つあると聞きますが、どういう事なのでしょうか」。すると重臣のカナサキはそれに答えて、次のように語った。最初は打ち解けた気分を壊すまいと、エッチな話を織り交ぜて語り始めたのだが、誰もが真剣に聞き耳を立てる雰囲気に、いつしかカナサキも熱を帯びて、噛んで含めるような話し振りに変わって行った。

 「その昔、両神は新婚生活をツクバで始められました。イサ宮に落ち着かれた両神は、お互いに身体の違いを較べ合ったところ、女神には足りない部分があって、男神には余る部分がありました。両神はこれを合わせて御子を生もうと、ミトノマグバイをしました。そして最初に生まれたのがヒルコ姫だったのです。けれどもその時、父の年齢は四十歳、母は三十一歳、共に天の節が宿る年回りでした。後世これを厄年と呼ぶようになるのですが、天の節が宿る年に生まれる子供は、女の子であれば父の汚穢(おえ)を受け、男の子は母の隅(くま)を成すと信じられています。

 ヒルコ姫の身に何か悪い事が起こるのではないか。両神はこの言い伝えが次第に心配の種になりました。愛情を注いで育てた期間は三年にも満たないけれど、捨て子は育つという言い伝えに従って、イワクス舟に乗せて捨てました。そして予ねて相談を受けていたこの爺(カナサキ自身)が待ち構えて拾ったのです。ヒルコ姫は西殿(現兵庫県西ノ宮)で立派に生長されたことは、一アヤを読まれた皆さんならご承知の通りです。その後両神は、自分たちを娶わせ、また擁立してくれている議会の期待を担って、新国家の建設と日嗣の御子を設ける責務を果たそうと、誓いの儀式を行いました。

 これは天御祖が宇宙空間に秩序をもたらしたことによって天地が開けたという、タカマの思想を人間社会に実現しようとする儀式なのです。具体的には、オノコロの八尋の殿に立てた柱を【天の御柱】に見立て、その回りを原始の雲のように巡って、この人間社会に、自然に即した秩序が整うように祈念したのです。

 こうして両神の試行錯誤が始まりました。最初はイサナミが掛け声をかけて左へ回り、イサナギが右へと分かれて柱を巡り、出会った時に女神が『アナニエヤ ヱヲトコ(あ、いいぞ、好男子だ)』と言い、それに答えて男神が『ワナウレシ ヱオトメ(わ、嬉しい、素敵な乙女だこと)』と言いました。このように歌って女神は身篭ったのですが、残念ながら早産してしまい、育てることができませんでした。このヒヨルコが生まれたのは淡路島の宮殿ですが、もしかすると泡と流れたから淡路島と名付けられたのかもしれません。ヒヨルコは子の数には入れられず、両神は泣く泣く葦舟に乗せて流し、あの世に送りました。

 この経緯を天(アメ・五代タカミムスビ・タマギネが主宰する議会)に告げたところ、フトマニで占って次のように原因分析結果を答申してきました。
『儀式の時に歌った五四(ヰヨ)の歌(五四調で綴った九音の歌)は事(九十こと)を結ばない(十音目がない)不吉のリズムで、また女神の方から先に声を掛けたのが良くない。婚姻の男女関係をニハナブリ(鶺鴒・せきれい)の仕種によって学んで下さい』ということで、両神の宮の庭に二羽の鶺鴒がやってきました。雌の鶺鴒が尾を振って鳴きながら雄を誘うと、雄は鳴き声を発して飛び去ってしまいました。。またある日、雄が装いを表しているのを雌が察知して、初めて鶺鴒は交わることができたのです。このように動物界普遍の法則である男女の道、すなわち婚ぎ法(とつぎのり)に則って儀式をやり直すことにしました。天の御柱に見立てた柱を、今度は男神が左から回り、女神が右から回って、出会った時に男神が次のように歌いました。『アナニヱヤ  ウマシオトメニ アイヌ(あ、いいぞ、素晴らしい乙女に会えたものだ)』。そして女神が答えて『ワナニヤシ ウマシヲトコニ アヒキ((わ、何と素敵。素晴らしい男性に会うことが出来たわ)』。この両神掛け合いの歌が天(ア)のアワ歌で、一アヤで紹介したアカハナマイキヒニ・・・・・は地(ワ)のアワ歌と区別されています。

 こうして両神は国家秩序も男女の関係もすべてが、天地自然の法則に支配されていることを知り、いよいよ新しい国造りに励むことになりました。まず大和秋津州(本州)から淡路島、伊予阿波二名(四国)、隠岐三つ子(隠岐諸島)、筑紫(九州)、吉備の子(瀬戸内の島々)、佐渡、大島(北海道?)まで、その足跡は日本全国に及びました。

 乱れて争いが絶えなかった地方にも、漁業権や入会権、そして農地権や水利権などの秩序作りを進めたので、人々は自然の恵みを平等に享受できるようになり、労働意欲も高まって、産業も大いに振興しました。両神の政策は天地自然の摂理に叶うものだったので、国民の信頼を得て、新しい統治国家は出来上がり、両神は地(ワ)のアワ歌を中心に据えた教育を重点政策として、ハラミの宮に落ち着く事になりました。国造りを終えた両神が次に為すべきことは、人民を守ってこの国の平和を恒久的に維持する優れた日嗣の君を設けることでした。両神は一心に祈って日の神をお生みになったのです。その御子こそウホヒルギと名付けられ、成人し大成した今、アマテル神と称えられている君その方なのです。両神は太陽の申し子を手元に置いて、私的に甘やかして育ててはいけないと、天(五代タカミムスビ・タマギネ・トヨケ神の下)に送って君に相応しい教育と御柱の道(アメナルミチ)の伝授を託されました。

 日の神がお生まれになったので、ハラミ山を大日山とも呼ぶようになり、トヨケは熟考の末この御子にワカヒトと斎名(ヰミナ・生まれ名・本名)を捧げました。両神はその後も全国を巡幸され、ツクシで生まれた御子モチキネを日の神に次ぐ貴い神になれと願いを込め、ツキヨミの神と称え名されて、この御子も天に上げました。ツキヨミが生まれる前のこと、先に汚穢隅(オエクマ)を回避するために捨てたヒルコ姫は、すでに天の節の厄払いも成ったので、第一子ではあるけれども、日嗣の御子として天で研鑽を積んでいるワカヒトの妹という序列で復帰し、両親の元で暮らすことになりました。

 その後、ソサの邦(紀伊半島)で生まれた両神の末子ソサノヲは幼少の頃から我が強く、気に入らないことがあるといつも駄々をこね、大声で叫び、泣き喚く子でした。その性格は成長しても止まず、凶暴性を発揮して人々にも危害を及ぼしました。イサナミはソサノヲの行状が世の人々に災厄をもたらすのは、自分の身に宿った汚れがソサノヲに乗り移ったせいに違いないと、民の困苦を一身に受けて民を守ることを決意され、熊野宮にお住まいになって、ソサノヲの悪行の償いに努める生活をなされたのです。

 この様にそれぞれ御心を尽くして、一人の姫と三人の御子を産み、世の秩序を正して、トの教えを広め、あくまでも秩序を乱そうとする者には敢然と矛をもって打ち破り、両神は日本の国家秩序を築き上げられました。ですから、この二柱の神が御子たちをお産みになった宮殿は、ワカヒト・ウヒルギを産まれた天のハラミの宮、ヒルコ姫ワカヒルメを産まれたツクバのイサ宮、ヒヨルコを早産された淡路の宮、モチキネ・ツキヨミをお産みになったツキスミの宮、そしてハナキネ・ソサノヲが産まれた熊野の宮と、合わせて五つの殿ということになるのです」。

参考として、「ホツマツタエ 天の巻 3アヤ、イサナギ・イサナミの御子誕生」を転載しておく。 
 天神六代目を嗣いだオモタルの神は、妻のカシコネと一緒に力を合わせて国の八方を巡幸し、農業開発の指導をして国民の糧を増やしつつ、さとしてもなお逆らう賊共に対しては敢然と逆矛を持って打ち滅ぼし国の平和を計りました。

 淡海(オウミ)の安曇(アツミ)川の中州に国の中柱(なかはしら)を建て、ここを沖壺と名付けて起点とし、東方は日高見(ヒタカミ)国から、西は月隅葦原(ツキスミアシハラ)国、南に転じて阿波(アワ)から素佐(ソサ・紀州)へと歩みを進めて、北は北(ネ)国(北陸)から山本細矛千足(ヤマトホソホコチタル・山陰地方)国まで開発と平和維持に尽くしました。しかし最後まで嗣子に恵まれなかったばかりに、せっかく統一なった豊かな国も次第に乱れ秩序を失っていきました。

 そんなある日の事です。天神からイサナギとイサナミの両神(ふたかみ)にお達しがありました。「沖壷の葦原には千五百反にも及ぶ秋の実を約束された良い水田があるから、ここを起点に全国を統一し、天神七代目を嗣ぐべし」。又、クニトコタチから連綿と受け継いだ瓊の璽(トのオシデ・天成道を記した宝典)と、逆らう者を滅ぼす矛とを賜わり、「汝、これを用いて国を治めよ」との詔がありました。

 後に両神は仲人の事解雄(コトサカノオ)の浮橋(橋渡し)を受け入れ夫婦となり、手初めにその浮橋の上に立って授かった矛で下界を探り手応えを得て後、したたり落ちた滴(しずく)で占い、クニトコタチの秘儀のオノコロを契って、良い場所を決めて宮殿を造営しました。ここから大日本国(オオヤマト)を再び平和で豊かな国へと再生しなおし、その間山海の万物をも生み育て、又、夫婦あい和して人々の訛った言葉を正すために音声の訓練にアワ歌を教えて全国を巡り、人の道を教え広めながら養蚕法も伝えて生活改善にも尽くしました。

 いったん乱れた秩序を再び回復させて国を再建し、功(いさお)しを立てて神代の七代目を継いだそもそもの糸口は、クニトコタチの神が木の実を東国に行って植えて、その地で生んだ子供の名をハゴクニと言い、そのハゴクニはヒタカミの国を建国し、この地に天上の高天原(タカマガハラ)の四十九神を歓請して、初めて地上の高天原(タカマガハラ)にアメミナカヌシを祭りました。ここにクニトコタチの理想郷のシンボルの橘(たちばな)の木も植えて、生んだ子の真名(イミナ)をキノトコタチと言います。諸民は神聖な高天原を嗣ぐ御子の誕生を心から喜び、ヒタカミ国を統べる(結ぶ)タカミムスビの名を捧げて称えました。キノトコタチの子はアメカガミ神と言い、筑紫(ツクシ)を治めました。

 天神四代目のウビチニが生んだ子のアメヨロズ神はタカミムスビを継いで素阿佐(ソアサ・四国地方)国を治めて、アワナギとサクナギの二子を儲けました。アワナギは北陸(ネ)の白山本(シラヤマト)国から細矛千足(サホコチタル)国(山陰地方)までを、法をもって治めました。アワナギの長男の真名(イミナ)をタカヒトと言い、幼名はカムロギと言います。

 タカミムスビ家の五代目を継いだ真名(イミナ)タマキネは豊受神(トヨウケ)とも言い、六代目にして滅びた天神の皇統を何とか復活したいと願い、娘のイサコとアワナギの子のタカヒトとを結ばせて七代目を継がせようと考えます。最初ハヤタマノオが二人の間にウキハシ(仲人役)を渡そうと試みますが失敗します。次にコトサカノオが慎重に国の危機を二人に説いて聞かせて橋渡しに成功しました。両神は方壷(ケタツボ・仙台多賀城市付近)から西南の方向のツクバ山の麓を流れるイサ川から少し離れたイサ宮でお互い縁結びをして、イサ宮に因んでイサナギとイサナミを名乗り即位しました。

 それはツクバのイサ宮でのことです。ある日の事、男神が女神に体調(生理)をお聞きになりました。女神がお答えになり、「私には成り成り足らぬ陰元(メモト)という処がございます」男神が答えて言いました、「私には成りて余りある物があるので、これをお互い合わせて御子を生もうじゃないか」。

 この後、両神は御殿(みとの)で交合(マグバイ)をなして子をはらみ生まれた子の名を、昼に生まれたので昼子と名付けました。しかしながらこの年父の年は四十才、母が三十一才で二年後には天の節目(厄年)に当たり、この節目に悪霊が宿ると、女子には父の汚穢(おえ)が当たり、男子は母の隈(くま)となると恐れられていました。まだあどけない三才にもならない、いとおしいヒルコ姫は、イワクス船に乗せて捨てられました。下流では住吉神のカナサキが待ちかまえて拾い上げ、妻のエシナズと共に西殿(西宮)で育てました。

 この後、イサナギとイサナミの二柱は、浮橋の上でオノコロの印相(いんぞう)を契って後に建てた八尋殿(ヤヒロノトノ)に立つ天御柱(アメノミハシラ)をお互い巡って男の子を生もうと話し合いました。先ず言挙(コトアゲ)の儀式に、女は左廻りに男は右廻りに別々に巡り、お互い出会い頭に女神は、「アナニエヤ(なんとうれしい)良(え)男(おとこ)」男神は答えて、「ワナウレシ(わあうれしい)良(え)乙女(おとめ)」と相歌い一緒に交わってはらんだものの、その子は月満てず流産してしまいました。その子の名前をヒヨルコ(未熟児)と言い、泡の様に流れ去りましたので、この児は子供の数には入りません。葦船に乗せ、吾が恥と流した先を淡路島と呼びました。

 この不幸な出来事を天神に告げ相談したところ、早速太占(フトマニ)を占って天意を伺っていわく、「先の五(イ)・四(ヨ)の歌は事を結ばず。と卦(け)に出ている。又、言挙(コトアゲ)も女が先に立ってはいけない」との神託があり、なお続けて嫁法(とつぎのり)についてのお話がありました。「トツギと言うのは、そもそも古来からの言い伝えによると、二羽の一つがいのセキレイが知らせてくれたものと言う。先ず雌鳥(めんどり)が尾を揺り動かして鳴き、その時は雄鳥は一声鳴いて飛び去ってしまう。又ある日今度は雄鳥が誘うような態度を装うと、雌(め)がそれを悟って合い交われば、これは天からの啓示で鳥に告げさせたので鳥告法(トツギノリ)と言うのである。この話が後に嫁ぐという語源ともなったのだ」。

 両神は改めて宮に帰ると、新たに御柱(みはしら)を巡り直しました。男神は左廻りに、女神は右廻りに巡り合った時に先に男神が天(アメ)の天地(アワ)歌を歌いました。「アナニエヤ(ああなんてうれしい)美(うま)し乙女(おとめ)に会いぬ」。その時、すかさず女神が答えて歌い「ワナウレシ(わあうれしい)美(うま)し男に会いき」と歌い和(やわ)して、天(ア)と地(ワ)を胞衣(えな)として国の再建に励みました。再統一なった島々の名は、最初はヤマトアキツス(大日本豊秋津島)で、次はアハヂシマ(淡路島)、次イヨ・アワ二名(ふたな、伊予・阿波二名島)、オキ三子(みつご、隠岐三子島)、ツクシ・キビノコ(筑紫島・吉備児島)、サド・ウシマ(佐渡島・大島)の大八島を再建しました。

 後に海や河の幸を生み、木の祖(オヤ)神のククノチ神、草の祖神のカヤノ姫、又ノズチの神も生成し終えると、ハラミ(蓬莱参)の宮にしばらくの間落ち着かれて、アワ歌の心をもって国を治めました。このように既に八洲(やしま)の国も生み終えて、あとはいかにして日継(ひつぎ)の君を生まんとの思いがやっとかなって、日の神が誕生しました。その神の御名を幼名ウヒルギと申し、この慶事を諸民こぞって称えました。国の隅々まで天の日が麗しく照り通り、君(キミ)、臣(トミ)、民の誰もが一緒に明るい未来への夢を共有していました。

 イサナギは我が子とはいえ、君の放つ神威と威光がただごとでないのを知り、「奇しき日(ひ)の霊(る)により生まれませる子を私物にはできない」と申され、天(高天原)に居られる豊受神の元に送り届けて、天下国家の貴人となるべく御柱道(みはしらのみち)を学ばせるため奉りました。この時この喜びを記念して日の神の御誕生になられたハラミ山をオオヒヤマ(太日山)と改名しました。御子を心からお迎えしたトヨケ神は良く考えた末に、元旦の若日とともに生まれました君にワカヒト(若仁)と真名(イミナ)を捧げました。

 この後、両神はツクシに御幸され、この地で生まれた子の真名(イミナ)をモチキネと名付け、称名(タタエナ)をツキヨミノ神と呼びました。ツクシは以前ツキスミの国ともいい、日の出とともに月の沈む隅の国の方角にあったからです。丁度月は太陽の光彩を受けて輝くように、日の神アマテルのお陰により輝く月として、日に次(つ)げと宮中に上げアマテル神を補佐させました。以前、穢(けが)れや禍(わざわ)いを祓うために川に流し捨てたヒルコ姫も、今は慈(いつく)しく成長され、天照神の妹神として宮に上がり、名もワカヒルメと変わって、花の下(もと)で母イサナミから歌を教わりつつ、静かで平和な時を過ごしていました。

 丁度花の季節の頃、ソサ国(現・和歌山)で末子として生まれたのが、真名(イミナ)ハナキネ、称名(タタエナ)ソサノオです。ソサノオは常に雄叫び泣きいざち、その悪行から国民(くにたみ)に多大な迷惑をかけて母イサナミを苦しめていました。イサナミは、息子ソサノオがこの様に荒れて世間に隈(くま・災い)をなすのも全ては自分の汚穢(おえ・穢れ)によるものと深く悩んだ末に、民に降りかかる災害の責任を全て我が身に引き受けて民を守るために、息子の厄を除く祈りからクマノ宮を建てました。このように御心を尽くしてお生みになったのが一姫三男神(ヒヒメミオガミ)で、このお子達により君、臣の道も再び確立されて子子孫孫までも国の平和が約束されました。

 なによりも尊い瓊(ト)の教えを守り、もしも諭(さと)してもなお逆らい戻(もと)る者があらば、断固として逆矛により制するこの偉大な二柱(ふたばしら)の産殿(うぶどの)は、天のハラミ(アマテル神)宮とツクバ山(ヒルコ姫)、アハジ(ヒヨルコ)、ツキスミ(ツキヨミ)、クマノ(ソサノオ)の五か所です。













(私論.私見)