ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)2



 (最新見直し2009.3.7日)

 「ウィキペディアのホツマツタヱ」その他を参照する。



【ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)2、天七代、床御酒の紋 】
 酒の云われ。アヤヒナ祭りと桃の花。男雛・女雛の実名(いみな)は?
 ホツマツタヱ 2綾 目次

2-1 「おしひと」(天照大神の皇子)がお神酒のいわれを聞く(2-1)2-2 天地創造のときに遡って話される(2-1~3)
2-3 やがて、天神初代となる「くにとこたち」が誕生しました(2-3)
2-4 八人の皇子が誕生、天神2代「くにさづち」(と・お・か・み・え・ひ・た・め、の八神)になります(2-3~5)
2-5 天神2代目の神は「くにさづち」と言いました。(2-4~5)
2-6 八皇子を継いだのが天神3代「とよくんぬ」神になります(2-5~6)
2-7 天神4代「うびちに」「すびちに」は夫婦に(2-6~7)
2-8 天神4代「うびちに」「すびちに」は「ももひなぎ」「ももひなみ」と名付く
2-9 「ひな」と「ひと」、「き」は男、「み」は女を(2-9~10)
2-10 成人された「ももひなぎ」「ももひなみ」は床神酒を(2-10~11)
2-11 愛し合った二人は「うび」が煮えたぎっているように熱く「うびちに」「すびちに」の神名に(2-12~13)
2-12 このお二人(うびちに、すびちに)がひな形となり、一夫一婦制が始まる(2-13~14)
2-13 天神五代の神は、「おおとのち」神と「おおとまえ」神です(2-15~16)
2-14 天神六代「おもたる」神、「かしこね」神のときは近江が国の中心でした(2-16~17)
2-15 天神六代「おもたる」神、「かしこね」神は全国を治めるが、後継ぎがなく(2-17~19)
2-16 両神は混乱していた世の中を鎮めました(2-19~21)
2-17 天神七代の候補に「たかみむすび家」(日高見・仙台)から(2-19~21)
2-18 同じく天神七代の候補に、二代遡って「うびちに・すびちに」の子孫から「あわなぎ」(金沢)が(2-23~25)
2-19 豊受神は仲人を立て二人を結ばせる(2-25~27)
2-20 床神酒(とこみき)の始まり(2-27~30)

【(れんだいこ訳)天七代 床酒の文】
 「ホツマツタヱ、アのヒマキ(天の巻)2、天七代(あめななよ) 床酒(とこみき)の文」を説き分ける。ここでは天地開闢の神々と神酒の話をする。現在でも行なわれている新郎新婦が神前で交す三三九度のお神酒の始まりが説き明かされている。
 天照大神の御子オシヒト(おしほみみ)の婚ぎ前のこと。ある時、オシヒトが、タカギ(すずか姫の兄で仙台ひたかみの神、たかみむすび神)に、結婚の儀の前の「神酒の云われ」の講義を要望した。タカギ曰く、「神が伝えてきた教えによると、この世の始まりの往古は天地泥が定まらなかった。長い時間が経って、「あめみおや神」(天祖神)がお生まれになり、兆しが見えてきました。この時、アウ(アは軽いもの、ウは重いもの)の陰陽が渦を巻き始め、陽(お)の作用から天と日輪(太陽)が生まれた。陰(め)の作用から地と月が生まれた。神がその中に現れた。これをクニトコタチの神と云う。クニトコタチの神が常世(とこよ)国を形づくった。これが最初の神であり国となる。世に云う天地創造であります。

 クニトコタチの神は八人の御子を生み、各々を八方八下りに天下らせて、その国を治めさせました。この八人を「やもやくだり」(八面八降)の皇子と云います。これが地(国)君の始めとなりました。

 世嗣の神をクニサツチと云います。サキリの道を受けざれば、サツチ(分割、分け与える、授け与える)に治む八御子神、各々御子を五人生みました。この八方(八面、やも)の世嗣のだ三代目の神をトヨクンヌと云います。トヨクンヌは天より三つの治める業を分け、君、臣、民の三層をそれぞれに役割分担させて治めました。

 トヨクンヌ神には百二十(もふそ)の御子がおりました。しかし、この段階の陽陰なる道には夫婦の道が定まっておらず、一人身で暮らされたいました。三代まではこのようにして納まっていました。真榊(まさかき)の植え継ぎが五百(いも)に満つる頃、四代目の天神になる男神ウヒチニが世嗣しました。ウビチニは、スビチニを后として宮に入れました。その本在を越国のヒナルノ岳(日野山、越前富士)の上宮に置きました。木の実を持ちて現れました。庭に植えおいて三年後の三月の三日に花も実も百(もも)成る故に桃の木と名付けました。二神の名も桃にちなんで桃ヒナキ、桃ヒナミと名付けられました。これにより男神の名前には「き」、女神には「み」と名付けることになりました。「ヒナ」は「ひよこ」の「ひよ」を意味しており、まだ子供だと云う意味です。「ひな」から「ひと」になります。「ひと」は一人前の大人と云う意味です。「ひこ」(彦)は高位の人を指します。「きみ」(君)は皇家の方を云います。

 お二人が立派に成人しました。これにより三月三日より酒造りを初めました。これが酒造りの始まりとなります。神酒(みき)ができあがり、二人(両神)に奉りました。酒ができると儀式の作法が定まり、桃の花の満開の下(宵祭り)でお酒を酌み交わしました。その時、酒を注いだ盃に月が逆さまに映っていました。これにより盃を「さかづき」と云います。まず、男神が女神にその盃をすすめ、女神が先に飲み、その後、女神が男神に勧め、男神が飲みました。お二人がお酒を飲んだところで、むつまじく交わられ一緒に床入りしました。これにより床入りする)前に飲むお酒を「床の神酒」(とこのみき)というようになりました。

 新婚初夜のお二人の愛の交わりは身も心も熱いものでした。二人は三日目の朝になって、ようやく姿を現わし、新婚初夜を過ごした二人の身体は火照り、寒川で身を清めました。袖を浸したのがきっかけで抱き合ったまま一体になりました。お二人に新たにウヒチニの神、スヒチ神の神の名が付けられました。このお二人が雛祭りの「ひな形」(雛型)となりました。お二人が夫婦(めおと)になられた慶事(よろこびごと)を記念して、男は冠を付け大袖袴をはき、女は小袖に上被衣(うはかつき)を着ることになりました。

 この時より、皇家の他の人たちも妻を入れるようになり、八十神(臣)もこれに続き、諸民に至るまで妻を定めるようになりました。これで陽陰なる道が完成しました。結婚制度が法律として備わり、一夫一婦制(たぐい)が始まりました。遡って年を数えると、ちょうど五百本目にあたる天の真榊(まさかき、すずきのき)を新しく植える年でした。

 五代の神はオオトノチ(大殿内)、オオトマエ (大門前)の二神です。ツノクイは大殿に居て、イククイを門前に会ひ見て妻としました。男神は戸(廊下)の奥に座っておられ、女神は戸の手前でお見合いをされましたので、男は戸の前が訛(なま)って殿、女は戸の前が訛(なま)って御前と云うようになりました。お二人の御代は八百続き、人々が詣でるようになりました。

 六代目を世嗣したのはオモタルの神。カシコネと全国津々浦々八方(やも)を廻り、民を治めました。近江のアツミ(滋賀の安曇川)を本拠地として、東はハラミ山(富士山)の麓から日高見と言われる東北地方全域まで、西は月隅(つきすみ)と呼ばれるツキスミ九州南部から葦原と呼ばれる山陽地方まで、南はアワと呼ばれる四国東部からソサと呼ばれる紀伊半島まで、ネ州の内シラヤマト(白山の麓)からホソホコ(近畿地方の日本海側)・チタル(山陰地方)まで治めた。百万年(もよほ)続いたが、嗣子なく 道も衰えて次第に筋道がわからなくなってしまったのです。

 そんな状況になっていた時、天より二(両)神に、「ツボは葦原 (イサナギ・イサナミ)千五百秋、汝用いて領せ」とて、経(法)と矛(警察権)を賜われた。二神は、浮橋(橋渡し、仲人を意味する)に登り、そのの上から授かった矛で下界を探り、したたり落ちた滴で「おのころ」島を生み、そこに宮殿をつくりました。ヤマト中央に万物を生み、人々の食料も、養蚕、衣服の作り方を教え広めました。「弁別(わいだめ)定む功(いさおしや)や」。物事の決まりを定め、功績(いさおし)が称えられました。

 天(中央政権)の守世の七代目を継ぐ糸口はトコヨ神で、木の実を東の国に植えて育てました。その地で生まれた子供の名前をハゴク二の神と云います。ハゴク二の神がヒタカミ(日高見)のタカマに御中主(ミナカヌシ)を祀ります。この日高見の「たかま」(高天原)に橘(たちばな)の木を植えました。そこで、生まれた皇子の名前を「たかみむすび」と云い、諸人(もろびと)が皇子の誕生を心から喜びました。この御方が東のトコタチになりました。その御子はアメカガミ神と云われ、ツクシ(筑紫)を治めました。

 天神四代目のウヒチ二とスヒチ二の間にできた皇子は、アメヨロズ神と言い、「そあさ」(南紀、阿波 四国地方)を治めていました。このアメヨロズ神は、アワナギとサクナギの二人の子供を生みました。アワナギは根の白ヤマト国のチタル(さほこちたる、山陰)までを法を以って治めました。アワナギの生む御子の斎名(真名、いみな)をタカヒトカミロキと云いました。

 タカミムスビの五代目の神の斎名をタマキネトヨウケ(豊受神、後に伊勢外宮の御祭神となる)と云います。このタマキネトヨウケの神の姫をイサコ姫と云います。この姫のうきはし(仲人)を、ハヤタマノヲが渡そうとしましたが、「融けぬ趣き」でうまくいきませんでした。コトサカノヲが橋渡しを果たし、二人を結びつけることができました。ケタツボ(仙台多賀城付近)から西の方向のツクバ(筑波山)のイサ宮(筑波神社)に睦まじく一緒に住まわれましたので、イサ宮に因んでイサナギと、イサナミと名付けられました。この二人が七代目になります。二神が床入りして愛の交わりの前に床神酒(とこみき)を召されました。「とこ」(床、神聖な場所)には経矛(とほこ)を置いて、子づくりに励まれました。 

 お酒の名前のことを「ささけ」と呼びます。「ささけ」、トコヨヰノクチ(山陰)のスクナミ神の竹株に雀が籾を入れるのを見たのがヒントとなり、酒造りが始まりました。これがモモヒナギとモモヒナミの婚礼の祝いとして献上され、モモヒナギより捧げたのでササナミという称名を賜り、名も酒(ササケ、笹笥、捧げ)と呼ばれるようになりました。その神は今に ササケ山に祀られています。三三九度の儀式(しきたり)の酌度は三月三日、盃は逆さに写った月から名付けられました。名も「ひなが岳」(雛が岳、日野山)とぞ名付けて称えております。


 参考として、「ホツマツタヱ御機の二(ツ) 天七代床神酒のアヤ」を転載しておく。
 天照大御神の嗣子オシホミミは、斎名(ヰミナ・本名)をオシヒトと申し上げる。オシヒトは身体があまり丈夫ではなかったが、日高見(東北地方)のタガノコウ(宮城県多賀城市付近)に遊学し、勉学の傍ら日高見の統治を通じて帝王学の修練を積んでいた。オシヒトの教育を受け持っていたのは、第七代タカミムスビのタカキネ(たかぎ)斎名フリマロで、息子のヨロマロが、オシヒトのご学友として共に勉学に励んでいた。ある時オシヒトはタカギに「神酒のアヤ」の講義を要望した。それはオシヒト自身のルーツを知ることであり、先祖の神々が日本国を創建した経緯を学ぶことでもある。行く行くは父天照大御神から三種(ミクサ)の神宝(ミタカラ)を授かり、君の位を嗣ぐことが約束されているオシヒトにとって、それは是非とも学ぶべき事柄だった。タカギも帝王学の総まとめとして、神酒のアヤを伝授する機会が来たことを喜んで早速講義に入った。以下はタカギがオシヒトに講じた内容である。

 「神が伝えてきた教えによると、大昔まだ天地も定まらない時、宇宙空間には造物主となる唯一絶対神の天御祖神(アメノミオヤ)だけが存在し、混沌とした雲のような物質がその回りに漂っていました。ある時、天御祖神が息を大きく吐くと、その物質が動いて渦を巻き始め、渦の中心が天の御柱となり、陽極と陰極に分かれて分離集合の運動が起こりました。軽い物質が陽極に集まり、重い物質は陰極に集まっていったのです。そして、陽の物質から天空と太陽が生まれ、陰の物質から地球と月が生まれました。神がそこに出現したのですが、最初に出現された神をクニトコタチと申し上げます。日本に国家形態を初めてもたらした神で、天神(アマカミ・初代)と呼ばれ、国の名は常世国と言いました。

 クニトコタチには八人の御子があり、各々を八方(ヤモ)に降ろして夫々の州(クニ)を治めさせました。これが州君(クニキミ)の起こりなのです。トホカミヱヒタメの八御子の中から、本来は一人の統治者が選ばれるはずでしたが、誰も遠慮して譲り合ったので、やむなく分治の形を採ることになりました。だから八人を総称してクニサツチと申し上げ、天神の第二代に位置付けるのです。さしずめ首長国連邦のような統治形態だったので、最初は長兄のヱが議長のような立場にありましたが、後にはトが八御子を代表するようになりました。この八御子神は各々御子を五人ずつ生みました。そしてクニサツチの八人は夫々嗣子に政権を譲り、第三代天神トヨクンヌの分治が始まりました。

 天神一族は人数も増え、次第に分治の形態を続ける事が困難になってきたので、全体を統率する一人の君と、それを補佐する八人の臣、そして国政に参加しない民の三階層に分けることになりました。この時に君として互選されたのは、トのクニサツチの御子でした。そして後にトヨクンヌといえば、トのクニサツチの御子を指すようになったのです。こうしてクニトコタチの曾孫に当たる御子は百二十人にもなり、日本国家創建の神の一族として繁栄を遂げました。トヨクンヌの治世まで、政事は専ら男性が行うこととされ、天神三代の世はそれなりに発展していったのです。
マサカキの木は一定年数で枯れるので、枯れると植え継ぎをして、暦の木として使われていますが、その植え継ぎが五百回にも達するころのことでした。

 四代目の天神になる君の位を嗣いだウビチニは、后のスビチニを宮に入れて、政事も共に執るようになりました。スビチニは女性として初めて中宮(ウチミヤ)に入って政事の場に参加し、夫婦で天神の座に就いたのです。そうなったいきさつをこの夫婦神の生い立ちから辿ると、お二人は越邦(コシクニ)ヒナルノ岳(現福井県武生市日野山麓)の神宮(カンミヤ)で一緒に育てられたのです。幼い二人は将来を誓い合って庭に木の実を植えました。木の実は発芽生長して、三年後の三月三日には多くの花が咲き、その花は結実して多くの実を結びました。花も実も百(モモ)を数えたその花木は、桃の花と名付けられました。

 このことから幼い二人はモモヒナギにモモヒナミと呼ばれるようになったのです。モモは桃の花に因み、成人前で幼さが残る二人は鳥の雛のように愛らしく、また木の実に因んで男神を木、女神を実にたとえ、そのように名付けられたのでした。このお二人が成人すると、誓い合ったとおり結婚されました。それは三月三日の夜のことで、神酒を醸造して神前に供えると共に、桃の木の下で神酒を酌み交わす儀式でした。器に注いだ神酒には三日月が写り、それはそれは優雅で幻想的な光景だった事でしょう。

 儀式は女神が先ず神酒を飲んで男神に薦め、後に男神が飲むという形式がこのとき出来上がりました。この儀式は、とこしえの愛をもって添い遂げる事を誓うと共に、良き子を授かる願いを込めて床入りする事から、トコの神酒と呼ぶようになりました。春先とはいえ、新婚初夜を過ごした二人はどんなにか身体が火照ったことでしょう。明くる朝、二人は寒川で身を清めました。二人とも袖を濡らして笑い合ったのですが、その様はお互いの心が完全に通い合って、誰の目にも似合いの夫婦に映りました。そこで人々は二人にウビチニ・スビチニという愛称を付けました。似合いのカップル第一号です。この雛形から、多い少ないとか大きい小さいという意味の「ウス」という言葉が生まれました。その時の衣装が、男雛は冠を被って大袖と袴を着ており、女雛は小袖と上被衣(ウハカツキ)を着ておられたからです。この時から近侍の者達も一般庶民も皆、お二人を見習って妻を同居させるようになり、一夫一婦制が確立されました。お二人が示した理想的な男女関係は、後に「妹背(イモヲセ)の道」とか「伊勢の道」と呼ばれ、縄文日本の国家原理である「天(アメ)なる道」の中心的な理想として根付いていったのです。

 さて年月は経過し、天のマサカキの植え継ぎが五百回に達したとき、天神五代目の位を継いだのはオオトノチ・オオトマエの夫婦神です。ウビチニ・スビチニの嗣子であるツノグヰは大殿で政事を助けていたのですが、政務を終えて表に出たところ、戸の前で一人の美しい優れた女性に出会いました。ツノグヰはイククイというこの女性にたちまち心を奪われ妻にしました。それで人々はこの夫婦神をオオトノチ・オオトマエと申し上げたのです。この時から男神を殿、女神を前と呼ぶ慣わしになって今に至っています。

 さて天神六代目を嗣いだのはオモタルの神で、妻のカシコネと共に全国津々浦々を巡り、統治を進めました。近江のアツミ(現滋賀県安曇川町)を本拠地として、東はハラミ山(富士山)の麓から日高見と言われる東北地方全域まで、西は月隅(つきすみ)と呼ばれる九州南部から葦原と呼ばれる山陽地方まで、南はアワと呼ばれる四国東部からソサと呼ばれる紀伊半島を、北はネ州の内シラヤマト(白山の麓)からホソホコ(近畿地方の日本海側)・チタル(山陰地方)まで、広大な地域を統治下に置いたのですが、不運にもこの夫婦神には嗣子が出来ませんでした。その上、気候の寒冷化による農作物の減産も重なって、オモタル・カシコネには焦りが生じ、次第に専制的な傾向を帯びてきたのです。

 天神が全国を巡幸して国家建設にまい進している間、天神後見役のタカミムスビが国政の議会を預かる慣わしになっています。オモタル・カシコネの後見人だった第五代タカミムスビのタマキネは若いながら英明の誉れが高く、この国家的危機に際して実に的確な対処を行いました。クニサツチの時代から採られていた合議制に基づいて、全会一致で一組の夫婦神を世継ぎとして選出したのです。その夫婦神がイサナギ・イサナミで全国的に乱れた人心と食糧事情を立て直すという、重い使命を担って登場しました。議会は両神に、葦原(山陽地方)で成功している稲作技術を全国に普及させ、米を主食とする食料計画の推進を求めました。

 こうしてトとホコを神宝として授けられた両神は、議会の強力な援護のもとに、十分な調査の上で計画を立て、国家再建に向けて動き出しました。稲作の普及に併せて、人心安定のための法整備や、各種産業の振興をも行ったので、食料事情は好転し、絹などの産業も軌道に乗って、初期の目的は達せられました。すべてにおいて道理を通す政策によって、国家社会に安定をもたらしたことが、両神の最大の功績と言えましょう。

 ここで両神が天神の七代目を嗣ぐ糸口になった経歴について説明しましょう。話はクニトコタチ(常世神)にまで遡ります。常世神が東北地方で果樹栽培の事業に取り組んでおられた時、ヒのクニサツチであるハゴクニの神が生まれました。この神はクニサツチの内タカミの三人を率いて東北地方の開拓と経営に特に功績を上げました。タカマにクニトコタチを天の御中主神(みなかぬし)として祀る祭祀を創始したのはこの神です。また橘を常世の木と崇め、クニトコタチのシンボルとして栽培したのもこの神です。クニトコタチはヒタカミを手始めに、拠点を移しながら開拓の対象地域を南西に移して行きましたが、列島を八つのブロックに分け、八人の御子に分治させたので、後に日本の国は大八州(オオヤシマ)と呼ばれるようになったのです。ハゴクニの神はその中でヒタカミの統治を任されました。さて、ハゴクニの御子はヒタカミの社会基盤を更に安定させ、タカミムスビと人々から称えられました。別名を東(キ)のトコタチと言うほどこの御子は優れていたので、タカミムスビは代々世襲されるようになって、天神の後見役を担うようになりました。

 この初代タカミムスビの御子の一人アメカガミはツクシ(九州地方)に派遣され、開拓と統治を行いました。ツクシは縄文中期に鬼界カルデラの海底噴火による降灰があり、特に南部はアカホヤと言われる不毛の火山灰地が広がり、開拓には多くの困難が伴いましたが、アメカガミ神は住民の生活安定のために不屈の精神で事業を推し進め、成果をあげました。アメカガミ神には嗣子が無かったと見え、天神のウビチニは自らの御子の一人を婿養子としてアメカガミ神の後を嗣がせました。これがアメヨロヅ神で、ツクシの開拓に目途が立つとソアサ(四国地方)に渡って開拓と統治を行いました。鬼界カルデラの降灰はソアサ全体をも覆っていたので、ツクシ開拓の経験と技術はソアサの住民にも大いなる生活安定をもたらしました。アメヨロヅ神にはアワナギとサクナギの二人の御子がありましたが、サクナギはソアサに残し、アワナギをネ(日本海側)に派遣しました。アワナギはネ州を整えてシラヤマト(白山の麓)からチタル(出雲地方)までを治めるまでになりました。このアワナギ神から生まれた御子が斎名(いみな)タカヒト称名カミロギ、後のイサナギなのです。タカヒトは第五代タカミムスビである称名タマギネ称名トヨウケの姫イサコと結婚することになります。先ずハヤタマノヲが二人の縁結びを試みましたが旨くいかず、代わって解き結んだのはコトサカノヲでした。

 今しも天神の血統が絶えようした非常時に、第四代天神ウビチニの曾孫タカヒトを起用して第七代天神に即けたのは、タマギネの功績に他なりません。そして外戚から登用された両神は、乱れた日本国を整える決意の証として、ケタツボの西南に位置するツクバのイサ宮(茨城県真壁町付近)を新居と定めました。ケタツボはクニトコタチが国家創建の最初に本拠とした地であり、両神はクニトコタチへの回帰を国家再建事業の出発点にしようと考えたのです。モモヒナギ・モモヒナミの古事に倣って、両神も新婚初夜に床神酒の儀式を行いました。嗣子が無かったために、国家の乱れを招いた先代オモタル・カシコネの轍を踏まぬよう、優秀な御子を設けることは、天神に課された重要な責務だったのです。

 さて、酒の醸造技術はトコヨのヰノクチ(現滋賀県今津町付近)に居られたモモヒナミの母スクナミカミが開発されたのです。スクナミカミはある時、雀がせっせと何かを竹の切り株に運んでいるのを見て、不思議の思い観察しました。雀が運んでいたのは稲籾で、切り株には雨水が溜まっていました。二ヶ月ほど経ったある日、そのことを思い出して切り株を覗いてみると、稲籾は発酵して甘い香りを放っていました。その水は適量を飲むと気分も体調も良くなり、健康が増進する薬効があることが分かりました。スクナミカミは試行錯誤の末その水を作り出すことに成功し、醸造法を普及させると共にモモヒナギ・モモヒナミの婚礼の祝いとして献上しました。

 モモヒナギはスクナミカミにササナミという称名を賜り、その水は酒(ささけ)と呼ばれるようになりました。スクナミカミがお住まいだったトコヨのヰノクチもササナミ(現酒波)と呼ばれて離宮が建てられ、お亡くなりの後はササケ山(笹ヶ峰)に祀られました。三三九度の儀式は三月三日に因んで出来た形式です。盃は逆さに写った月から名付けられました。(余談ですが、後世ヰノクチに猪口という漢字を当ててチョコと読ませたのが盃の別名になっています)この盃という洒落た名を付けられたウビチニは、ヒナガ岳(日野山)のご神体として今日も称えられ、お祀りされております。』

  参考として、「ホツマツタエ 天の巻 2アヤ、ヒナ祭りと桃の花 男雛・女雛の実名(いみな)は?」を転載しておく。 
第一話 天神四代とお雛様

 この物語は、遠い昔霧のかなたのおおよそ三千年前のお話です。 天照神の日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)オシホミミとタクハタチチ姫(伊勢外宮・豊受神の玄孫・やしゃご)の結婚の儀を間近にひかえて、宮中は支度に追われる気忙しい毎日でした。その頃、天照神はイサワノ宮(現・伊雑宮いざわのみや。三重県磯部町)に坐して、君の御心は天下あまねく照り輝き民も豊かに暮らしていました。皇子オシホミミはタカの国府(こふ、現・多賀城市)のツボワカミヤ(壷若宮)に坐して、ヒタカミノ国(日高見国、旧・陸奥)を治めていました。

 そんなある日のことです。もうすぐ君の奥方になられるタクハタチチ姫(真名スズカ姫)の兄タカギが、君に質問をしました。これは、晴れの婚礼前に緊張を少しでも和らげて一時をくつろいでお過ごしいただこうとの配慮あってのことでした。「結婚式の時、神前で新郎新婦が交す三三九度のお神酒(みき)には、一体どんな言われがあるのでしょうか」と、居並ぶ諸神の同意を得るかのようにゆっくりとお聞きになりました。これを聞いた君はにっこりと微笑まれると、臣や司を始め大勢の諸神、諸民を前にして静かに天地創造の物語から始めました。

 「それは遠い遠い昔のことです。まだこの高天原(天体)が生まれるずっと前のこと、天も地も未だ分かれていない、もちろん太陽も月も星も生まれていない前のことです。このウツホ(宇宙)の闇を支配していたのは、混沌としたアワ、ウビ(エネルギー)のようなもので、それは限りなく巡り漂って煮えたぎり、姿も形もありませんでした。それから長い時が流れて、このウツホの闇が陰(メ)と陽(ヲ)に分かれる兆しが現われ初めました。やがてその中にアメミヲヤ神(天祖神)がお生まれになり、神が最初(うい)の一息(ひといき)をウビ煮えたぎるウツホに吹き込むと、宇宙は静かにまどかに(丸く)巡り始めて、その中心に天御柱(あめのみはしら)が立ち昇り、混沌とした宇宙はやっと姿を現わし始めました。

 清く軽く巡れるものは陽(ヲ・男)となって、左巻に廻り天となり太陽が生まれました。重く濁れるものは、右巻に巡り陰(メ・女)となり、このクニタマ(地球)となり、後に月を生みました。さてこの地球に最初にお生まれになられた神のお名前を、クニトコタチと申し、花タチバナの木を植えて理想郷トコヨの国を建国しました。クニトコタチは八人の御子を産んで、その御子達を世界の八方に派遣し、それぞれの国を建てて治めさせたので、この八人をヤモヤクダリ(八面八降)の御子といいます。後にこのヤミコ(八御子)はそれぞれの国の国王の先祖となりました。この二代目の世嗣(よつぎ)の八御子を総称してクニサッチといいます。そのいわれは、クニトコタチは始め自分同様サギリ(厳選)の道を以て全世界を一人に統治させようとしましたが、各々譲り合ってお互いを立てたので、やむなくサッチ(分割)の道で国を与え治めさせました。ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの八御子の名は、各々クニサッチの神の頭文字を表わし、たとえばトのクニサッチ、ホのクニサッチ、カのクニサッチ。。。のように呼びました。このようなわけで、この国では八(ヤ)という言葉にはたいへん尊い意味があり、ヤモトカミ(八元神)とも言って、世界の大元はこの八柱により支えられています。後にこのトホカミエヒタメの八神は、各々五人ずつ子供をもうけました。

 次に、この八面(ヤモ・世界)を嗣いで治めた三代目の神の名をトヨクンヌといいます。トヨクンヌは天命を受けて、神の子孫を君、臣、民(きみ、とみ、たみ)のミクダリ(三降・三階級)に分けて各々の役割を定めて国を治めました。この神の弟君にウケモチ(保食)という神がいました。ウケモチの神は、何とか民を豊かに繁栄させたいと望んで、ある日天にましますアメミオヤ神に一心に祈ったところ、ついに御心が通じて天からヒヨウル種(太陽と月の精気を含んだ種)が落ちてきました。この種を水辺に蒔いたところ、ウル田(水田)のゾ苗(水稲・うるち)となって、八月一日(旧暦)には稲穂もあつく実って大豊作となりました。ウケモチはこの悦びを先ず兄トヨクンヌに報告して、八房(やふさ)に実った稲を献上しました。

 大変喜んだトヨクンヌはこの稲穂をアメミオヤ神とアメミナカヌシ神に捧げて、先ず感謝のお祭をして、各々県主(あがたぬし)に分け与えて国に籾(もみ)を持ち帰らせて、順次民に分け与えて広めたので、稔りの秋祭を皆が楽しめるようになりました。この時から民の糧も増えて暮しも豊かになり国の平和が永く続くようになりました。諸民は、ウケモチの神をイナリ神(稲荷)と称えて、後の世まで感謝の心を伝えました。これにより八月一日には親しい人を招いてご馳走をふるまい、お互いに贈り物をして楽しむ風習が始まりました。これを八朔(はっさく・八月一日)の祝といいます。

 さて話を元に戻して、トヨクンヌの神は男女合わせて百二十人もの御子に恵まれましたが、各々がお一人でお暮らしになり、男女が一緒に暮らす夫婦(めおと)の道はまだ定まっていませんでした。こんな訳で、三代目までの神様を独神(ひとりかみ)といいます。丁度、天の真榊木(まさかき)を植え継いで、五百本目になる頃のことです。四代目を嗣いだ男神の名前をウビチニと言い、この神はスビチニと言う女神と初めてご夫婦になられて最愛の妻としました。この両神(ふたかみ)の美しい物語が雛祭の由来となり、男女の結婚制度の始まりともなりました」。

 君はここまで一気にお話になると、一息つかれて、間もなく迎えるタクハタチチ姫との生活(くらし)に思いをいたし、大層和まれたご様子でした。

 「むかし昔、コシの国(越前)のヒナルノ岳(現・日野山、越前富士)の神の宮(日野神社、福井県武生市)で、木の実をお持ちになってお生まれになった男女の御子がありました。その種を庭に植えておいたところ、三年目の三月(やよい)の三日に、百(たくさん)の美しい花が咲いて初夏になると香りの良い実が百(たくさん)なりました。花も果も百(モモ)に付いたので、この花をモモの花と名付け、実をモモの果と呼び、モモの木といいました。

 この若い両神(ふたかみ)の名前もモモの木と実にたとえて、男神の名をモモヒナギと名付け、女神の名はモモヒナミと名付けました。因にヒナ祭のヒナの意味は一(ヒ)から七(ナ)までで、まだ人(成人、一から十、ヒからト)になる前の若者のことです。 君と呼ぶのは、桃の木(キ)と実(ミ)のことで、この時から男神の名前には木(キ)、女神には実(ミ)と付けるのが習わしになりました。(例:イサナギ、イサナミ)

 モモヒナギとモモヒナミが人(ヒト)として立派に成人されたある年の弥生三日のことでした。この時初めて御神酒(おみき)を造り両神に奉りました。このお酒を造った神はイノクチという所のスクナミ神で、庭の竹株に雀がたくさん集まって籾(もみ)を入れるのを見ているうちに、ふと閃いて、籾を醸してにごり酒を造り、桃雛木(モモヒナギ)と桃雛果(モモヒナミ)神に、竹筒に入れて献上したところ、モモヒナギの神は大層このお酒をお誉めになり、スクナミ神にササナミという神名を新たにくだされました。このササナミ神は後にササケ山に祭られて、サケの語源となりました。この両神に捧げたお酒を、桃の木(キ)と実(ミ)にちなんでお神酒(ミキ)と名付けました。

 時は春、満開の桃の花の下で盃に酒を酌み、先ず男神が女神にすすめて女神が先に、逆さに写った月影をそおっと飲み、後に男神が飲んでお二人は床に入られ交わりました。これを、トコミキ(床神酒)と言います。お二人の愛の交わりは大層熱く、室に閉じ籠ったまま三日目の朝ようやく姿を現わしました。たぎりつきせぬ情熱を冷まそうと清流で寒川(さむかわ・氷川)を浴びた時、二人の情熱は完全に燃えて昇華していきました。その折に、袖を大(ウ)そう濡らしてしまわれたのが男神、少(ス)々濡らされたのが女神。それ以来、男神の名をウビチニ(大きくちびる)、女神をスビチニ(少しちびる)と名付けました。このウビチニとスビチニ神の愛の炎は高く天に昇って、これも古い伝えにある天地創造の頃のウビが煮えたぎる様を彷彿させるものでした。

 この様に多い(ウ)少ない(ス)を表わすウ・スのお名前の両神の美しいお姿は、男神は冠(かむり)をかぶり大袖を召し、袴をはいていました。女神は小袖に上被衣(うわかつぎ)を召して、二人立ち並ぶお姿(立ち雛)は雛形(ひながた)として、永く今日まで伝えられています。この時、両神にならって八十人の有力な神様達も皆妻を娶り、結婚式を祝うようになりました。この後、諸民も皆妻を定めて夫婦となり、この時結婚の風習が天下の法(のり)と定まりました。

 三年後の弥生の三日を記念して、ここに三三九度のしきたりがうまれました。この日の宵に花の下でお神酒を酌み交わした盃に、月が逆さに写り映えるのを楽しんで飲みほしたところから盃(さかずき・逆月)の言葉もうまれました。人々はこのサカズキを生んだ両神をヒナガ岳の神として末永く称えました」。君はこの後、五代、六代、七代の天神のお話に移っていきました。

 第二話 少彦名(スクナヒコナ)と雛祭り

 大国主の本当のお名前をヤシマシノミノオオナムチといいます。生まれながらにして、優しい性格の持ち主で、人々の信望も厚く、国土経営にも優れた手腕を発揮しました。雨の多い冷害の年も、台風による被害にも、日照り続きの乾ばつにも人々を飢えから守るための倉には、備蓄米が満ち満ちて国は平和を謳歌していました。

 そんなある日、オオナムチが農業指導のために大国の郷(さと、現・豊郷、愛知川町付近、滋賀県)を巡視していた折、湖の彼方から鏡を舳先(へさき)に付けた舟が近ずいてくるのに出合いました。オオナムチが供の者に、「あれは何者か」と、聞きますが誰も答えられませんでした。その時一人クエヒコ(大神神社、摂社クエヒコ神社、奈良県)という者が進み出て申し上げるには、「あの者は、カンミムスビ(タカミムスビ六代目、白山神社祭神)の千五百人もある御子の中でどうしようもない落ちこぼれの、教えの指をもれ落ちたスクナヒコナでございます」と、答えました。これを聞いたオオナムチは思うところあって、スクナヒコナを丁重に迎えると手厚く恵んで、供に力を合わせて一緒に諸国を巡り国民の糧となる水田開発に努め、養蚕や裁ち縫いの技術を女性達に教え広めて国土経営に尽くしました。又、病める者のためには薬草を栽培して、時には人間にとどまらず鳥や獣の病気も治して愛情を注ぎました。ある時は、稲子(いなご)の大量発生の報を聞くとどんな遠方へも一緒に馬で駆けつけて、オシ草(玄人)と言う薬草で虫祓いをして民の糧を守りました。この様に、一見順風満帆の二人の国造りにも、満れば欠けるのたとえがあるように、暗い人生を暗示するかのような、むら雲がおおい始めるのを誰が知りえたでしょうか。

。。出雲の国譲り。。

 ついに、オオナムチは、いわれなく諸悪の根源として宮中から攻撃され、国を追われて最北の地、津軽に追放されてしまいました。この事件があってからのスクナヒコナは一人オオナムチと離れて、アワ国(現・滋賀県)に伝わるカダの楽器を一心に習得すると、あまりにも献身的に、あまりにも国に思いを託した自分の生き方をすべて捨て去り、心の苦しみを背負ったまま諸国流浪の行脚に身をやつしました。津々浦々を巡り歩いてカダ楽器で弾き語る物語は、いつも決まって人の心が美しく優しく輝いていた天神四代のヒナ祭りの物語でした。人々が忘れ去っていたヒナ祭りの物語を全国に教え広めて、やがて年老いるとついに和歌の国のカダの浦に一人至り、ウビチニ・スビチニの微笑む雛の国へと神上がりました。

 今日でも人々は、あまりにも一途で、あまりにも壊れやすかったスクナヒコナの人柄を知ってか知らでか、アワシマ神(注・アワの国に出現した神)としてご当地の淡島神社(別名 加太神社、和歌山市)にお祭りしています。毎年弥生の三日になると、全国各地から持ち寄った雛人形を社前に奉納し、雛流しの神事を盛大に祝ってスクナヒコナを偲んでいます。

 第三話 結婚三日目朝の祝い歌

 これはヒコホホデミとトヨタマ姫の鹿児島宮(現・鹿児島神宮祭神カモハデズミ)で結婚式後の三日目朝のお話しです。

 トヨタマ姫の兄トヨズミヒコ(弟タケズミヒコは下鴨神社祭神、京都)は、今回新たに定まった六人の局(つぼね)達に、各々桃の花をあしらった揃の玉笠をかぶらせ、皆の手には木の玉椀(たままりも)に水を張って持たせると、いよいよ結婚三日目の朝、新婚ホヤホヤの二人が部屋から出てくるのを待ちました。やっと手を取り合って先に現われたヒコホホデミに、六人の局達は一斉に水を降り注いで声をそろえて歌いはやしました。

 モモヒナギ  交合(まじばい)後の  三日の日の川水浴びて  ウビチニの  上(神)から下(シモ・民)へ 花婿(はなむこ)に水  まいらせう  まいらせう

 この時、九州の三十二県の県主達(あがたぬし)も諸民と一緒になって声を揃えて、この祝い歌を唱いはやして、ついには万歳万歳(よろとし、よろとし)の喜びの声が輪となって国中に広がってゆきました。













(私論.私見)