ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1


 (最新見直し2009.3.7日)

 「ウィキペディアのホツマツタヱ」その他を参照する。



【ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1、東西(きつ)の名と穂虫去る紋】
 ワカ姫の恋、和歌(ワカ)初め
 御機織(みはた)の第一章 東西(南北)の名前と 穂虫去る 綾

1-1 若姫は厄祓いのために捨てられ、住吉の神に拾われ大事に育てられる(1-1~2)
1-2 立ち振る舞い(当時の風習)を若姫(子供)に教えます(1-2~4)
1-3 「あわ」の歌を教えて言葉づかいを直します(1-4~5)
1-4 「あわ」の歌を歌うと病気もしなくなり長生きできます(1-5~7)
1-5 きつさね(東西南北)のいわれを教えます(1-7~8)
1-6 太陽の動き(方角)をお米の炊き方に例えて教えます(1-8~9)
1-7 小食の薦めと穂(米)、菜(野菜)の薦め(1-9~11)
1-8 方角(方位)の持つ意味を教えます(1-11~13)
1-9 「き」「み」(男女の神)のいわれ(1-13~15)
1-10 紀州で穂虫(イナゴ)の害の訴え、「むかつ姫」が虫払いに(1-15~19)
1-11 稲虫(イナゴ)に言い聞かせる(1-19~20)
1-12 稲田は蘇えり、民は感謝のお礼をする(1-21)
1-13 「天日(あひ)前宮」と「たまつ宮」を造って感謝を表す(1-22)
1-14 「わかの歌」が「わかの国」(和歌山)の語源になる(1-23)
1-15 「わか姫」は「あちひこ」に一目惚れして、恋文を差し出す(1-23~25)
1-16 「あちひこ」は突然の告白に焦る(1-25~26)
1-17 「あちひこ」はどう返事すればよいか諸神に相談する(1-26~27)
1-18「かなざき」は、返しごとが出来ない廻り歌と知り、嵐を鎮めた自分の経験を話す(1-27~29)
1-19 二人は夫婦になりなさいと言われる。(1-29~30)
1-20 「若姫」(天照大神のお姉さん)は、ここで「下照姫」と名乗り天照神の妹に退く(1-30)
1-21 国を守るものとして檜扇が皇后陛下の持ちものに(1-30~33)
1-22 「はなきね」(そさのう)に和歌についての道を教える(1-33~36)
きつのなとほむしさるあや  東西(きつ)の名と穢(ほ)虫去る文
それわかは わかひめのかみ  それ和歌は ワカ姫の神
すてられて ひろたとそたつ  捨てられて 拾たと育つ
かなさきの つまのちおゑて  カナサキの 妻の乳を得て
あわうわや てふちしほのめ  アワウワや 長(た)ぢ初(ほ)のめ
うまれひは かしみけそなえ たちまひや  生れ日は 炊食(かしみけ)備え 立ち舞いや
みふゆかみおき はつひもち あわのうやまひ  み冬髪置き 初日もち アワ(陰陽)の敬い
ももにひな あやめにちまき  桃に雛 菖蒲(あやめ)に茅巻(ちまき)
たなはたや きくくりいわひ  棚機(たなはた)や 菊栗祝い
ゐとしふゆ をははかまきる  五歳冬 男(お)は袴着る
めはかつき ことはおなおす  女(め)は被衣(かつき) 言葉を直す
あわうたお つねにをしゑて  アワ歌を 常に教えて
あかはなま いきひにみうく アカハナマ イキヒニミウク
ふぬむえけ へねめおこほの フヌムエケ ヘネメオコホノ
もとろそよ をてれせゑつる モトロソヨ ヲテレセヱツル
すゆんちり しゐたらさやわ スユンチリ シヰタラサヤワ
あわのうた かたかきうちて ひきうたふ アワの歌 カダカキ打ちて 率き歌う
おのつとこゑも あきらかに 自ずと声も 明らかに
ゐくらむわたを ねこゑわけ 五臟(ゐくら)六腑(むわた)を 根声分け
ふそよにかよひ よそやこゑ  二十四(ふそよ)に通い 四十八(よそや)声
これみのうちの めくりよく これ身の内の 巡り良く
やまひあらねは なからえり 病あらねば 長らえり
すみゑのをきな これおしる          スミヱの翁 これを知る
わかひめさとく かなさきに ワカ姫聡く カナサキに
きつさねのなの ゆゑおこふ 東西南北(きつさね)の名の 故を請う
をきなのいわく ひのいつる かしらはひかし  翁の曰く 日の出づる 頭(かしら)は東
たけのほる みなみるみなみ   猛昇る 皆見る南
ひのおつる にしはにしつむ   日の落つる 西端(は)に沈む
よねとみつ かまにかしくは ひかしらや 米と水 釜に炊(かし)ぐは 火頭や
にゑはなみなみ にゑしつむ 煮え花南 煮え静む
ゑかひとたひの みけはこれ 回日(えか)一度(ひとたび)の 食(みけ)はこれ
ふるとしふより つきみけの ひとはもよろに 経る年古(ふ)より 月食(みけ)の 人は百万(もよろ)に
つきむけの ひとはふそよろ  月六食の 人は二十万(ふそよろ))
いまのよは たたふよろとし   今の世は ただ二万年(ふよろとし)
いきなるる みけかさなれは よわひなし 生き均るる 食重なれば 齢なし
ゆえにをんかみ つきにみけ にかきはほなや  故に御神 月に三食 苦き葉穂菜や(小笠原長弘本、にかきあほなや
みなみむき あさきおうけて なかいきの  南向き 朝気を受けて 長生きの
みやのうしろお きたといふ 宮の後を 北と言ふ
よるはねるゆゑ きたはねそ  夜は寝る故 北はネぞ
もしひときたり ことわけん あわねはきたよ もし人来たり 応(こと)わけん 会わねば北よ
あふはひて みなみにことお わきまえて 会うは日で 南に事を 分きまえて
おちつくはにし かえるきた 落ち着くは西 帰る北
ねよりきたりて ねにかえる ネより来たりて ネに帰る
きははるわかは なつあおは 木は春若葉 夏青葉
あきにゑもみち ふゆおちは  秋熟えもみぢ 冬落葉 
これもおなしく ねはきたに きさすひかしや  これも同じく ネは北に 萌す東や
さにさかゑ つはにしつくる 南(さ)に栄え 果(つ)は西つくる
をはきみの くにをさむれは ヲ は君の 国治むれば
きつをさね よもとなかなり  東西央南北(きつをさね) 四方(よも)と中なり
きはひかし はなはもみなみ 木は東 花葉も南
このみにし みおわけおふる 木の実西 実を分け生(お)ふる
きのみゆゑ きみはをめかみ 木の実故 キミは男女(おめ)神
しかるのち いさわのみやに はへるとき 然る後 イサワの宮に 侍る時
きしゐのいなた ほをむしに いたむおなけき キシヰの稲田 穢虫(ほをむし)に 傷むを嘆き
あるかたち つくるいさわの ををんかみ ある形 告ぐるイサワの 大御神 
あまのまなゐに みゆきあと 天のマナヰに 御幸(みゆき)後 
たみのなけきに むかつひめ  民の嘆きに ムカツ姫 
いそききしいに ゆきひらき 急ぎキシイに 行きひらき
たのきにたちて おしくさに 田の東(き)に立ちて 押草に
あほくわかひめ うたよみて  扇ぐワカ姫 歌詠みて
はらひたまえは むしさるお 祓い給えば 虫去るを
むかつひめより このうたお    ムカツ姫より この歌を
みそめおまてに たたつませ 三十(みそ)女を左右(まて)に たたづませ
おのおのともに うたはしむ 各々共に 歌わしむ
いなむしはらふ わかのましない   厭虫祓う 和歌のまじない
たねはたね うむすきさかめ まめすめらの 大麦小麦(たねはたね) 盛豆(うむすきさかめ) 大豆小豆(まめすめら)の 
そろはもはめそ むしもみなしむ  繁葉(そろは)も蝕(は)めぞ 虫も厭(みな)退(し)む
くりかえし みもむそうたひ とよませは 繰り返し 三百六十(みもむそ)歌い 響(とよ)ませば
むしとひさりて にしのうみ さらりむしさり 虫飛び去りて 西の海 さらり虫去り
ゑおはらひ やはりわかやき よみかえる 穢を祓い やはり若やぎ 甦(よみがえ)る
そろにみのりて ぬはたまの よのかておうる 繁(そろ)に実りて ぬばたまの 世の糧を得る
おんたから よろこひかえす  御宝 喜び返す
きしゐくに あひのまゑみや たまつみや  キシヰ国 天日(あひ)の前宮 タマツ宮
つくれはやすむ あひみやお くにかけとなす 造れば安む 天日宮を 国懸となす
わかひめの こころおととむ たまつみや ワカ姫の 心を留む タマツ宮
かれたるいねの わかかえる 枯れたる稲の 若返る
わかのうたより わかのくに   和歌の歌より 和歌の国
たまつのをしか あちひこお タマツ(タマツ宮)の御使(をしか) アチヒコを
みれはこかるる わかひめの  見れば焦るる ワカ姫の
わかのうたよみ うたみそめ 和歌の歌詠み 歌見染め
おもひかねてそ すすむるお ついとりみれは 思いかねてぞ 進むるを つい取り見れば
きしいこそ つまおみきわに ことのねの 「キシイこそ 妻を身際に 琴の音の
とこにわきみお まつそこいしき    床に吾君を 待つそ恋しき」
おもえらく はしかけなくて むすふやは  思えらく 橋架けなくて 結ぶやは
これかえさんと かえらねは ことのはなくて これ返さんと 返らねば 言の葉なくて
まちたまえ のちかえさんと もちかえり  「待ち給え 後返さん」と 持ち帰り
たかまにいたり もろにとふ タカマに至り 諸に問う
かなさきいわく このうたは カナサキ曰く 「この歌は
かえことならぬ まわりうた 返言(かえごと)ならぬ 回り歌
われもみゆきの ふねにあり 我も御幸の 船にあり
かせはけしくて なみたつお 風激しくて 波立つを
うちかえさしと まわりうたよむ   打ち反さじと 回り歌詠む
なかきよの とおのねふりの みなめさめ 「長き夜の 絶(とお)の眠りの 皆目覚め
なみのりふねの おとのよきかな 波乗(の)り船の 音の良きかな」 
とうたえは かせやみふねは  と歌えば 風止み船は
こころよく あわにつくなり  快く アワに着くなり)
わかひめの うたもみやひお かえさしと  和歌姫の 歌もミヤビを 反さじと
もふせはきみの みことのり 申せば君の 御言宣(みことのり)
かなさきかふね のりうけて めをとなるなり 「カナサキが船 乗り受けて 夫婦(めをと)なるなり」
やすかわの したてるひめと あめはれて  ヤスカワの シタテル姫と 天晴れて
そのおしくさは ぬはたまの  その押草は ぬばたまの
はなはほのほの からすはの あかきはひのて 花はほのぼの 明(か)らす花の 赤きは日の出
ひあふきの いたもてつくる あふきして ヒアフギの 板もて作る 扇して
くにもりをさむ をしゑくさ 国守り治む 教え種(くさ)
からすあふきは そふはなり 明らす扇は 十二(そう)葉なり
ひあふきのはは みなはらふ あわのよそやそ 檜(ひ)扇の羽は 厭(みな)祓う あわ(陽陰)の四十八(よそや)ぞ
またみそふ みちなわすれそ また禊(みそ)う 道な忘れそ
はなきねは ゐなにつつる おあねにとふ 花杵(はなきね、若姫の弟)は、五七に綴る(を) 姉に問う 
あねのこたえは あわのふし 姉の答えは アワ(陽陰)の節
またとふはらひ みそふなり いまみそひとは また問う「祓い 三十二(みそふ)なり 今三十一(みそひ)とは」
このをしゑ あめのめくりの みむそゐゑ この教え 天の廻りの 三六十五(みむそゐゑ)
よつみつわけて みそひなり  四つ三つ分けて 三十一なり
つきはおくれて みそたらす まことみそひそ 月は遅れて 三十(みそ)足らず まこと三十一ぞ
しかれとも あとさきかかり しかれども 後先かかり
みそふかも あるまうかかふ  三十二日(みそふか)も ある間窺(うかが)う
おゑものお はらふはうたの こゑあまる 汚穢(おゑ)ものを 祓うは歌の 声余る
しきしまのゑに ひとうまれ みそひかにかす 敷島(しきしま)の上(ゑ)に 人産まれ 三十一日に活(か)す
めはみそふ うたのかつもて わにこたふ 女(め)は三十二日 歌の数もて ワに応(こた)う 
これしきしまの わかのみちかな   これ敷島の 和歌の道かな

【(れんだいこ訳)東西の名と穢虫去る文】
 「ホツマツタヱ1、アのヒマキ(天の巻)1、東西(きつ)の名と穂虫去る紋」を説き分ける。原文は和歌体により記されている。
 さて、和歌の道はワカ姫の神によって究められた。ワカ姫は、捨て子は育つという言い伝えに従い幼児の折に捨てられ、後に住江(スミヱ)の翁と称えられることになる重臣のカナサキに預けられ、その妻の乳により慈しみ育てられました。「あわうわや てふちしほのめ」
 (注、以下に続くワカ姫の育てられ方、成長過程を見ることで、日本に於ける子育ての風習、儀式を知ることができる。日本が昔から子供を大事にしており、嬰児の頃より格別の愛情を注いでいることが分かる)

 他人の子であろうとも生まれことを聞くと、赤子の顔を覗きに来てみんなで祝います。誕生日には赤飯を供えて祝います。赤子がハイハイから伝え歩き、伝え歩きからバランスを取って「立ち舞い」し始めると、大人たちは「立った立った」と大喜びをして囃し立てます。三度目の冬には髪を整え児童の仲間入りすることになります。この頃から無事の成長を祈って次のような年中行事を行います。元旦には餅を供え天地自然の神を敬います。女の子なら三月三日に桃の花を飾り、可愛らしく育つようにとの願いを込めて雛祭りを行います。男の子なら五月五日に菖蒲を飾り、威丈夫に育つようにとの願いを込めて粽(ちまき)を供えます。七月七日は七夕(たなばた)祭りを行い、九月九日は菊と栗の祝いをします。五年目の冬の(十一月の祝いには男子は袴、女子は被衣(かつき)を着て正装しまする。この頃から幼児言葉を改め大人言葉に切り替えることになります。(注、この風習は今日でも七五三の行事などに残っている)

 次に、アワ歌の意味を確認します。子供教育はアワ歌を教えて常に歌わせることから始まります。「アカハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ モトロソヨ ヲテレセヱツル スユンチリ シヰタラサヤワ」。このアで始まりワで終わる四十八音のアワ歌をカダガキという楽器を打ち、琴を弾いて合わせ歌うことで、自ずと発音が明瞭になり言葉を正確に覚えるようになります。更に言霊(ことだま)が五臟六腑や身体各部の隅々にまで作用し、四十八声が身の内の廻りを良くさせ、健康が増進し、病気を寄せつけず、長寿が得られることになります。アワ歌の一音一音が意味を持っており、これに神が宿っております。この言語教育が自ずと情操教育に通じております。アワ歌は、そういう按配(あんばい)になっておりますので、子供の頃から躾けねばなりません。

 次に、方位方角の謂れを確認します。養父カナサキは、ワカ姫にアワ歌を徹底的に仕込みました。ワカ姫は幼い頃から才気煥発で聡明な御子でした。或る時、ワカ姫は、カナサキに東西南北(キツサネ)の名の由来を尋ねました。翁はワカ姫に次のように説明しました。毎朝お日様が出て昇ります。お日様が姿を現す方角が日頭(ひがしら)ですので東と云われるようになりました。お日様は昇り、すべてのものを明るく照らし出すますので皆が物を見ることができるようになることから、その方角が南と云われるようになりました。お日様はやがて煮えたぎるような夕日を残して沈んで行きますので煮え沈むが詰まって西と云われるようになりました。

 翁は続けます。お日様の例えのみならず火でも説明することができますよ。お米と水を釜で炊く時、初めはぼうぼうと火頭が立つので東と云います。煮えると煮え花がなみなみと立ちますので南と云いいます。火を弱めると水気が少なくなり段々と煮え沈みますので西と云います。ちなみに、昔は良き日に一回、ご飯を炊いて食べました。大昔より月に三回の米食をする人の寿命は百万才、月に六回米飯を取る人の寿命は二十万才、今の世の人は一日一回米飯の食事をしますので二万年しか生きられなくなってしまいました。相応しい食をすれば長命、逆は短命になります。故に、御神になるような人は、月に三回の米飯を心掛けて、その上チヨミ草という苦菜の葉や穂菜を食べるのが良いのです。そうすればお日様が南に達したときのように明るくなり、更に朝の精気を受ければ長生きすることができるのです。

 この原理を踏まえて宮は南向きに建てられています。宮の後ろの方角を北と云います。夜になると北の間で寝るのが宜しく、故に北をネとも云います。もし、人が来て会わねばならない時には北の時刻を避けねばなりません。会うならば日中の南の時分にするが良いでせう。落ち着くならば西の頃が良いでせう。帰るならば北です。北より来たりて北に帰るので北と云います。

 今度は方位を木に例えてみます。木は春になると若葉、夏になると青葉、秋に熟え紅(もみぢ)となり、冬落葉します。一年のサイクルは同じで、寝るのは北の通り休みます。日が差し始めるのは東です。春になって生命の伊吹を萌すのが東です。夏には高く昇ったお日様の光を一杯に受けて葉を茂らせますので南が栄えます。秋になってそれが尽きるのが西です。「央」(を、中)は君の坐します地で、治む地は東西央南北(キツヲサネ)に分かれます。即ち、方角は四方(ヨモ)と中(ナカ)よりなります。国と方位も深い関係で結ばれていると云うことです。木は東、花葉は南、木の実は西となります。実は一度に実らず時節を分けて生えます。木と実の関係は、木が男(お)神、実が女(め)神と云うことになります。

 次に、虫封じの謂れを確認しませう。その後、ワカ姫は成人してイサワの宮(現三重県志摩郡)にお仕えしていました。この時、キシヰ国(和歌山地方)の稲田でホヲムシ(いなご)の大発生があり、稲穂の生育が悪くなりました。嘆き悲しんだ農民の使者が、その状況を告げるためにイサワにやって来ましたが、あいにくイサワの大御神は天(アマ)のマナヰ(京都府宮津)に行幸された後でした。代わって被害の状況と民の嘆きをお聞きになった正后ムカツ姫は、ワカ姫を伴って急ぎキシヰ国に行き、古の教えにしたがって田の東に立って押草を桧扇(ひあふぎ)で扇ぎながら、ワカ姫が祓いの歌を詠みました。するとホヲムシが徐々に稲を放れ始めました。ムカツ姫は三十人の侍女を田の左右に立たせ、ワカ姫の詠う歌を一緒に歌わせました。これが稲虫を祓うまじない歌です。「タネハタネ ウムスキサカメ マメスメラノゾロハモハメソ ムシモミナムシ(田の種、畑の種の大麦(うむ、うむぎ)、小麦(すぎ、すむぎ)。盛豆(さかめ))。大豆(まめ)、小豆(すめら)の繁葉(ぞろは)も蝕めそ 虫も厭(みな)む退(し)む」(田圃や畑地の大事な種の大麦、小麦、盛豆、大豆、小豆が豊かに実ろうとしているに、虫さんよ、大事な葉を食べつくしてしまってはいけません。ほどほどにして退散しなさい)

 歌を繰り返すこと三百六十回、声を合わせ大声で歌わせ響(とどろ)かせたところ、虫は西の海の方へ飛び去って行きました。その飛んでいく有様は砂塵が舞うごとくでした。こうして穢(え)を祓ったところ、稲は生気を取り戻して元のように若々しくよみがえりました。その年の稲はたわわに稔り、大いに収穫できヌバタマの世の糧を得ました。これが、古来からの「稲虫を祓うワカのまじない歌」で、効能あらたかでした。ワカ姫の祓いの呪力が試され、霊能者としての評判が立つことになりました。

 キシヰ国には天照大神の天日宮(アヒミヤ)が置かれていましたが、前宮としてタマツ宮(玉津島神社)を造営してクニカケ(国懸)としました。名声を高めていたワカ姫が招かれ住まうことになりました。ワカ姫は、枯れた稲を若返らせた和歌の国のワカ姫と讃えられ、この故事によりキシヰ国は和歌の国と云われるようになりました。

 次に、ワカ姫の恋の話をお伝えします。ワカ姫は、タマツ宮にお住まいの時、恋をしました。相手の方は、イサワから度々勅使として遣わされていたアチ彦でした。ワカ姫は一目惚れし、思いは日毎に募まり、或る時、和歌を詠んでウタミ(短冊)にしたため手渡しました。アチ彦が目を通すと、歌文には「キシイこそ、妻を身際に琴の音の、床に吾君を待つそ恋しき」(去年、このキシヰ国で初めて貴方様にお会いした途端に、琴の音のように胸は高鳴り、床に着いても寝付かれず、いとしい貴方様をお待ちしています、それほどに恋い焦がれています)。大胆直情な愛の告白でした。

 アチ彦にとって、ワカ姫は二人と居ない素晴らしい女性でありましたので願ってもない恋文でしたが、仲人を立てずの求愛であった為、それと直ぐに返す言葉が見つからなかった為、「待ち給え、後に返さん」(待って下さい。後日、必ずお返事をします)と述べ、ウタミを持ち帰りました。イサワの宮に帰り着いたアチヒコは、タカマ(高間)で諸神に相談しました。この時、最長老でワカ姫の養父でもあるカナサキが、ウタミを見て言いました。「ワカ姫ほどの者を恋焦がらせるアチ彦殿はよほど幸せ者です。ところで、アチ彦殿のお気持ちはどうなのですか」。アチ彦は「願ってもないこと」と伝えました。これを受けてカナサキが云いました、「しかしながら、この歌は容易には返言できぬ上から読んでも下から読んでも同じ回り歌になっております。回り歌には回り歌で返さねばなりません。かといって、かなり難しい技です。宜しければ、私がかって行幸の随行で舟に乗っていたとき、風が激しく波が荒くなって危険が迫ったのを何とか打開せんと願って詠んだ歌があります。それは、『長き夜の、絶の眠りの皆目覚め、波平り船の音の良きかな』です。この歌を詠んだところ風は止み舟は快適に進んで無事に阿波に着くことができましたので目出たい歌です」。

 カナサキとアチ彦遣り取りをお聞きになっていたアマテル神は勅を発せられました。「カナサキも乗り気のようだし、この際カナサキの出した助け舟を乗り受けて、夫婦になったら良いではないか」。こうしてアチ彦は晴れてワカ姫と結婚し、ヤスカワ(滋賀の近江)に新居を構えることになりました。二人は新婚生活を始めました。その様子が和歌で語られています。「その押草はぬばたまの、花はほのぼの 明らす花の 赤きは日の出」。二人共々の国の治め様子が和歌で語られています。「ヒアフギの、板もて作る 扇して、地守り治む 教え種(くさ)」。檜扇(檜の板で作られた)を扇ぐことで、虫を追い払い国を守り治めました。「あわ」の歌の四十八種の教えを守り禊の道を務めました。

 最後にもう一つ、和歌の道をお伝えします。その後のワカ姫は既に立派な大人に成長し、和歌の第一人者にもなっていました。ある時、ワカ姫の弟のハナキネ(花杵)が、文章や和歌を五七に綴るのはなぜかを問いました。ワカ姫は、「あわ(陽陰)の節」の理に従っているのです、扇十二葉の五七調が日本固有のリズムに合うからです」、「扇の羽は厭祓いであり、陽陰の四十八に通じているのですよ」と簡潔に答えられました。

 ハナキネ(花杵)は質問を続け、「祓いの歌は三十二音のはずなのに、いま三十一音の歌が多く詠まれるのはどうしてですか」と問いました。ワカ姫は今度は懇切丁寧に答えました。「天の廻り(地球の公転周期)は365日です。これが春夏秋冬の四季に分かれています。四季はそれぞれに三つ(上旬、中旬、下旬)に分かれます。そうすると一月は31日になります。但し、月の満月から満月迄の満ち欠けの周期は30日足らずです。本当は31日なのです。この一日の違いは太陽と月の運行の差によるものです。後が先にかかると時に32日になることもあります。この辺りは微妙な問題です。

 ところで、問題は女性の月経リズムが月の支配を受けていることにあります。女性特有の汚穢物を祓う歌は32音では声が余るのです。敷島の人は皆、太陽の運行に従って31日周期の生命リズムで生きています。但し、女性は32音の歌をもって穢(え)を祓います。お宮参りの日を男は31日目、女は32日目とするのは、この生命リズムに従っているのです。和歌は、地球を取り巻く天体の回転運動に和しているのです。これが敷島の和歌の道なのです」。
 和歌の道は日本文化の粋とも云うべきもので、ワカ姫の神によって究められた。そのワカ姫の生い立ちから、育てられ方、成人後の活躍の様子が記されている。この下りで、日本に於ける子育ての風習、儀式を知ることができる。日本が昔から子供を大事にしており、嬰児の頃より格別の愛情を注いでいることが分かる。和歌は、天地自然の理を踏まえた「アワの48音」からなる日本言語を自由自在に五七調で詠うものであり、歌であると同時に思想であり感情表現であり御教えになっている。ホツマ伝えは、このことを最初に説いていることになる。後段の和歌の道の下りによると、日本がこの時既に正確な暦を持っており、しかも太陽暦であったことが分かる。


 参考として、ホツマツタヱ御機の初 東西(キツ)の名と穂虫去るアヤを転載しておく。

  

 日本文化の結晶ともいうべき和歌。和歌の道はワカ姫の神によって確立された。ワカ姫の名に因んで「ワカの歌」と名付けられたが、単純化して「ワカ」と呼ばれるようになり、漢字伝来以降「和歌」の漢字が当てられて今日に至ったのである。ワカ姫は、第七代天神イサナギ・イサナミの第一子として、ツクバのイサ宮(茨城県真壁郡付近)でお生まれになった。この時父は四十才、母は三十一才で、共に天の節(アメのフシ厄年)に当たっていたので、両親に降りかかる災厄がワカ姫にまで及ぶのではないかと心配され、両神は満三才に満たないワカ姫をお捨てになった。捨て子は育つという言い伝えに従われたのである。ワカ姫を拾ったのは重臣のカナサキだった。カナサキの妻も自分の乳を与えて可愛がり、二人して宝物のように慈しみ育てたので、ワカ姫は幸福にスクスクと育っていった。ワカ姫が拾われた宮は広田神社、養育された宮は西宮戎(えびす)神社として、共に兵庫県西宮市に現存する。

 さて、日本には子供の成長を祝う数々の風習が伝えられてきた。現代における一般的な風習の多くは、縄文後期に当たるこの時代既に一般化されていた。話はワカ姫から暫らく離れるが、この時代における子供の成長を祝う一般風習に触れておこう。情操は嬰児の時身に着くものである。嬰児に注ぐ愛情は過ぎることがない。日本人は見ず知らずの他人の子であろうとも、嬰児をあやして喜ばせる行為を自然に行ってきた。アワワとかチョチチョチとか、あやし言葉を掛けたり、手を打って顔を近付け、目を細めて見せる。目が見えるようになったばかりの嬰児は、大人から受ける愛情を本能で知り、安心と喜びと幸福を感じ取るのである。一年目の誕生日には赤飯を供え、離乳食から一般食へ切り替えのお祝いをする。そして箸を使って自分で食べる訓練を始める。この前後に、伝い歩きから、話した手を振ってバランスを取るようになる。この「立ち舞い」と言われる仕草を初めてみせると、大人たちは「立った立った」と大喜びをして囃し立てる。いよいよ幼児の仲間入りである。三度目の冬には神を整えて、今度は児童の仲間入りである。大人たちは児童の健やかな成長を祈って年中行事を行う。まず元旦には餅を供え天地自然の神を敬う。女の子なら三月三日に桃の花を飾り、雛祭りを行う。男の子なら五月五日に菖蒲を飾り粽(ちまき)を供える。また、七月七日はタナバタ祭りを行い、九月九日は菊と栗の祝いをする。五年目の冬の祝いには、男子は袴、女子は被衣(かつき)を着て正装する。少年少女は一歩大人に近付いたことを認めるようになる。この風習が多少の変化を遂げて、三千年余りを経た今日も、七五三の行事などに残っているのである。縄文後期の子供教育は、アワ歌を教えて常に歌わせることから始まる。

 アカハナマ イキヒニミウク  フヌムエケ ヘネメオコホノ  モトロソヨ ヲテレセヱツル スユンチリ シイタラサヤワ 
 アで始まりワで終わる四十八音のアワ歌を、カダガキという楽器を打ち、琴を弾いて合わせ歌うと、発音も発声も良くなって、身体各部の働きは増し、頭脳は発達し、神経系の応答も良くなる。子供のみならず、アワ歌を歌えば健康が増進し、病気を寄せ付けず、長寿が得られるのである。日本語は単音語で、一音一音が意味を持つと共に、一音一音に神が宿る。アワ歌を歌わせることは言語教育であり、また天地自然の神を敬う教育の始まりでもある。この教育原理に長じているカナサキは自ら実践して長寿を保ち、住江の翁と称えられた。さて、ワカ姫は幼い頃から賢く、アワ歌を覚えると間もなく、養父カナサキに東西南北(キツサネ)の名がどうして付けられたのかを尋ねた。翁はワカ姫に次のように説明した。『毎朝お日様が出て昇っていきますね。お日様が姿を現す方角を日頭(ひがしら)と言って、その言葉が詰まって東と言うようになったのです。そしてどんどん昇っていったお日様は、すべてのものを明るく照らし出すので、皆が物を見ることが出来るのです。お日様が一番高く昇った時が最も明るいのでその方角を皆見(南)と呼ぶのです。南を過ぎてだんだん落ちていったお日様は、燃えたぎるように煮え沈んでいきますね。煮え沈むが詰まって西と呼ぶようになったのですよ』。

 ワカ姫は目を輝かせて翁を見上げ、一心に聞き入っていた。翁は続けた。『お米と水をお釜に入れて炊く時に、初めはぼうぼうと火頭が釜を包むほど火を強くしますね。煮え立って、煮え花がなみなみ(ミナミ)と立ってくると火を弱めます。そして水気が少なくなってだんだんと煮え沈むのです。何事もなく平和な時には一日一回ご飯を炊いて食べますが、これも東西南北の名の元になっているのです。大昔には二回だったのが、一と月に三回の米飯をするようになると、人の寿命は百万才になり、一と月に六回米飯を取るようになって二十萬年の寿命になりました。そして今の世は一日一回米飯の食事を取るので、二萬年しか生きられなくなってしまったのです。美味しいからと食欲に任せて、米飯ばかりしていると長生きすることが出来ません。だから天神(あまかみ)になるような人は、一と月に三回の米飯を心掛けて、その上チヨミ草という苦菜の葉や穂を食べるのです。そうすればお日様が南に達したときのように、またご飯が煮え立ったときのように、いつも快活に生きる事が出来るのです。

 そして天(ア)の精気を受けて長生きする事が出来ます。そのような生き方をしたいと願って、宮は南向きに建てるのです。南向きに建てた宮の後ろの方角を北と言います。夜、お日様が地面の裏側の北を通っているとき、人は寝るので北をネとも言うのです。ものごとの状態はすべて方角に例える事が出来ます。これを方位と言いますが例えば、もし訪ねて来た人と口喧嘩をしてしまったとしましょう。もう会わないぞと思うと、心が寝てしまったようなもので、それは北の方位です。反対に、自分も言い過ぎたと反省して、また合おうと思うとそれは日の出で、会おうとお互いの心が通って、お日様が南に達したように道理が通って、旨くいくようになるのです。活気に満ちて心が昂ぶるときは、南向きの状態ですが、それが過ぎ去ると、心の昂ぶりが収まって落ち着いてきます。このように落ち着いた状態が、西向きの状態といえます。そしてお客様は帰って行きますが、そのときの状態を方位に例えると北です。

 このように人の心の状態も、お客の来訪も北に始まって北に終わります。言い換えると、ものごとはすべて「北(ネ)より来(きた)たりて寝(ネ)に帰る」のです。今度は方位を木に例えてみましょうね。木は春に若葉を出して、夏には青々と茂ります。秋には燃え立つような煮え紅葉となり、冬はその葉も枯れて落ち葉となります。さっき、人の心に例えたのと同じで、冬枯れの木は寝(ネ)ているのです。春になって生命の伊吹を兆すのが東です。そして夏には最も高く昇ったお日様の光を一杯に受けて、葉を茂らせ栄えますが、秋になってそれが尽きるのが西です。このように、季節の移り変わりも方位に例える事が出来ます。央(ヲ)は君(天神)が坐します場所で、国の中心の地点です。そこにいらっしゃって国を治められるので、東西央南北(キツヲサネ)は四方(ヨモ)と央(ナカ)、つまり君がお治めになっている国全体を指す言葉なのです。このように国と方位も深い関係で結ばれています。

 キツヲサネはまた、天上で方位を司る五臓神(ヰクラカミ)という神様なのですが、それはもっと大きくなってからお勉強しましょうね。さて、木は東で花と葉は南、そして木の実は西に例える事が出来ます。木の実は結んで、その実が元の木から分かれて芽を出し、そうやってその種を増やしていきます。人の世も木の実が分かれるのと同じく、子の身を分けて子孫繁栄をします。だから君という言葉は木の実の関係に例えて、夫婦神(ヲメカミ)のことを言うようになったのです。これで東西南北の名について、由来の話はおしまい。分かりましたか』。

 後年、ワカ姫がイサワの宮(現三重県志摩郡)にお仕えしているとき、キシヰ邦(クニ・和歌山県地方)の稲田でホヲムシ(いなご)の大発生があり、稲穂の生育が悪くなった。嘆き悲しんだ農民の使者が、その状況を告げるためにイサワにやって来たのだが、あいにく天照大御神な天(アマ)のマナヰ(京都府宮津市)に行幸された後だった。大御神に代わって被害の状況と民の嘆きをお聞きになった正后ムカツ姫は、ワカ姫を伴って急ぎキシヰ邦に行啓された。二人して田の東側に立ち、古の教えにしたがって桧扇(ひあふぎ)で扇ぎながら、ワカ姫が祓いの歌を詠むと、ホヲムシは徐々に稲を放れ始めた。そこでムカツ姫は三十人の侍女を左右つまり田の南北に立たせ、この歌を、声を合わせて歌わせた。それは稲虫を祓うワカのまじない歌である。

 タネハタネ ウムスキサカメ マメスメラノゾロハモハメソ ムシモミナムシ
 (訳一)田圃や畑地に生うる大麦小麦等の穀物や、稲の穂も葉も食べつくしてしまってはいけない。虫だって皆んな同じものを食べている仲間ではないか。
 (訳二)田や畑の土壌を良くしてより多く収穫しようと、耕したり懸命に働いている女達の、稲穂や葉を盗み食いしてはいけない。虫でもそれくらいの良心は持ち合わせているだろう。

 この歌を繰り返し三百六十回、声を合わせ大声で歌わせたところ、稲虫は西の海の方へ飛び去って行った。その飛んでいく有様は砂塵が舞うごとくであった。こうして穢(え)を祓ったので、稲は生気を取り戻して、元のように若々しくよみがえった。その年の稲はたわわに稔り、大いに収穫できたことは言うまでもない。キシヰ邦の農民たちにとっては、稔りもさることながら、政事が民衆の方を向いて行われているのを知ったことが、より大きな収穫であった。人々はこの喜びを素直に返した。

 キシヰ邦には天日宮(アヒミヤ)という御用邸が置かれていたが、その前に天日の前宮(日前ひのくま神宮)を建造して奉り、別にタマツ宮(玉津島神社)を新築してワカ姫に暫らくのお住まいを願った。天日宮は御用邸としての用途がなくなったので、イサワの出先政庁として使われ、クニカケ(国懸神宮くにかかす)と呼ばれるようになった。タマツ宮は後の世までずっと、ワカ姫の事績を人々の記憶にとどめ、枯れた稲を若返らせたワカ姫の歌に因んで和歌の浦となった。今ではキシヰの名は貴志川の河川名と貴志川町の町名にわずかに名残が認められるだけである。

 さて、タマツ宮にお住まいのワカ姫の元には、イサワから度々勅使が遣わされた。ワカ姫は勅使のアチヒコに一目惚れし、思いは日毎に募っていった。母イサナミの兄神皇産霊(カンミムスビ)ヤソキネの長男だから、アチヒコはワカ姫の従兄弟にあたる。募る思いにワカ姫はワカの歌を詠んでウタミ(短冊)にしたため、思案の末思い切ってアチヒコに手渡した。アチヒコは何気なく受け取って目を通すと、びっくり仰天した。

 キシヰコゾ ツマオミキワニ コトノネノ トコニワキミオ マツゾコヰシキ
 (訳)去年このキシヰ邦で初めて貴方様にお会いした途端に、琴の音のように胸は高鳴り、床に着いても寝付かれず、いとしい貴方様をお待ちしている、それほどに恋い焦がれています。

 アチヒコは思った。自分が仕えている君主天照大御神の姉君から、仲人も立てずの求愛である。日本中に二人と居ない素晴らしい女性だから、願ってもないことだが、英明をもって鳴るアチヒコも、突然のことで狼狽してしまい、必死に考えたけれども言葉が見付からず、とうとう返事を待ってほしいと言ってウタミを持ち帰った。イサワの宮に帰り着いたアチヒコは、タカマ(高間)での御前会議の場で、参議の面々に相談した。最長老でワカ姫の養父でもあるカナサキが、ウタミを見て言った。『この歌は、上から読んでも下から読んでも同じ回り歌です。回り歌には、言葉を返すことも、変えることも封じて、読み手の願い事を叶える呪力があります。私も以前、行幸の随行で舟に乗っていたとき、風が激しく波が荒くなって危険が迫ったのを、何とか打開したいと願って歌を詠んだのです。

 ナカキヨノ トオノネフリノ ミナメザメ ナミノリフネノ オトノヨキカナ
 長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り舟の 音の良きかな

と歌ったところ、風は止み舟は快適に進んで阿波に着くことができました。ワカ姫の歌にも、アチヒコの心を捕らえて、逸らすことを許さない、呪力が込められているのです』。カナサキの説明をお聞きになっていたアマテル神は、勅を発せられた。『カナサキも乗り気だし、この際カナサキの出した助け舟に乗り受けて、夫婦になったら良いではないか』。こうしてアチヒコは晴れてワカ姫と結婚し、ヤスカワ(滋賀県野洲町付近)に新居を構えた。ワカ姫はシタテル姫の名を賜り、アチヒコは先の一件によってオモイカネという神名でよばれるようになった。

 ここで一旦話を戻し、ワカ姫が稲虫を祓った呪いの背景にある、古来からの教えについて説明しよう。ヌバタマはヒアフギとかカラスアフギとも呼ばれるあやめ科の多年生植物である。ヌバタマの葉は、扇の要部分のように、茎を中心にして左右対称に重なり合って出る。その花はほのぼのとした紫色の花弁で、その実は赤く、四つに割れて中から真っ黒の種が顔を 覗かせる。古来ヌバタマには災厄を祓う呪力があると言われる。ヌバタマの種は夜を、花は夜明けを、結実は日の出を象徴し、その実は太陽のように真っ赤に染まり、熟し切ると色褪せて中に夜を宿すようになる。桧扇(ひあふぎ)は桧の板を薄く削って作った扇のことである。ヌバタマが葉を広げた形状は桧扇に似ているので、同じ名で呼ばれることもあるのだ。そして桧扇も、ヌバタマの葉の数と同じ十二枚で作り、同じ呪力を持つものとされた。すなわち桧扇はヌバタマのモノザネとして考えられていた。国を守り治める者は桧扇にお日様の図柄を入れて(日扇)身に着け、それで扇げば枉事(まがこと)を祓い天が晴れる(アッパレ)と言い伝えられてきた。桧扇の十二枚が持つ呪力に、アワ歌の四十八音が持つ言霊の力を合わせると、その威力は倍増する。そして言霊の力を引き出すのは、三十二音のワカの歌なのである。ワカ姫がその威力を実証した三十二音の和歌の道。あなたは決して忘れてはならない。

 さて、ワカ姫には上からワカヒト(アマテル神)、モチキネ(ツキヨミ神)、ハナキネ(ソサノヲ尊)の三人の弟がある。ある時、末弟のハナキネがワカ姫に、文章や歌を五七に綴るのはなぜかを問うた。ワカ姫は、五七調が日本固有のリズムにピッタリと合うからだと簡潔に答えた。するとハナキネは質問を続け、祓いの歌は三十二音のはずなのに、いま三十一音の歌が多く詠まれるのはどうしてかと問うた。ハナキネの向学心を感じ取ったワカ姫は、今度は懇切丁寧に答えた。『地球の公転周期は三百六十五日余りです。これを四季に分け、春夏秋冬をさらに三つずつ分けると三十一日弱。人の生命リズムは太陽と月の運行の支配を受けています。月も公転しているので、地球から見ると太陽の運行より遅れて見えます。月の満ち欠けの周期は三十日足らずですから、三百八十四日程で太陽より一周遅れます。この日数を同様に四つ三つに分けると、三十二日になります。この一日の違いは太陽と月の運行の差です。特に女性のリズムはつきの運行から受ける支配が強く、この一日の差の間隙に汚穢物(ヲエモノ)が入り込もうと狙っているのです。その汚穢物を祓う歌は三十二音で声が余るのです。この地球上で栄えある日本の国に人として生まれ、皆太陽の運行に従って三十一日周期の生命リズムで生きているのですが、女性特有のリズムは三十二日周期です。お宮参りの日を男は三十一日目、女は三十二日目とするのは、この生命リズムに従っているのです。そして女性は三十二音の歌をもって穢(え)を祓い、地球を取り巻く天体の回転運動に適応しているのです』。

 ワカ姫が説明した内容は、まさに縄文日本の思想の根本であり、その中心に和歌の道があったのである。

 参考として、「1 東西(キツ)の名と穂虫(ホムシ)去るアヤを転載しておく。  
 イサナミの父トヨケ(伊勢外宮祭神・豊受大神)は、天神六代目のオモタルとカシコネの両神(フタカミ)に世嗣(よつぎ)の皇子(みこ)が無いのを大変心配しておりました。この神々は八洲(やしま)をくまなく巡って新田開発を進め、民の暮らしを豊かにし国の統一を計りました。しかし嗣子(つぎこ)に恵まれないばっかりに、両神亡き後、国は再び千々に乱れて民は土地を離れてさまよい、物乞や盗みが横行して巷には餓死者があふれていました。良き君を失った民の心に暗雲がたちこめ、皆病に苦しんでいました。

 事ここに極まった時、トヨケは一大決心をします。自分の娘のイサコを、先祖の遠戚に当たるタカヒトと結婚させ七代目の皇位を嗣がせることにします。本家筋のトヨケの願いとはいえ、イサコはヒタカミの国(旧、陸奥)で育ち、タカヒトはネの国(北陸)の出身です。若い二人とはいえ、言葉や習慣の違いを乗り越えるのには時が必要でなかなか同意しませんでした。二人の仲を最初に取り持ったのはハヤタマノオですが、結果を急ぎすぎて失敗に終わってしまいました。次に仲人を買って出たコトサカノオは、じっくりと事の大切さを解いて聞かせた甲斐あって、やっと橋渡しに成功して二人は一緒になることに同意しました。

 イサコの慣れ住んだ仙台地方と、タカヒトの育った金沢からお互いに歩み寄ったツクバに二人のために新しい宮を建てることになりました。この宮はイサ川(現・桜川)から少し離れた台地に造られたので、イサ宮の離宮と呼ばれました。新築なったイサ宮でタカヒトとイサコは、お互い心を開いてうなずき合い、生涯一緒に国の再建に身を尽くすことを誓い合いました。この日以来、タカヒトはイサナギを名乗り、イサコはイサナミを名乗って七代目の天神となりました。

 イサナギとイサナミがツクバのイサ宮で新婚生活に入った時のことです。コトサカノオがお二人になんとか打ち解けてもらいたいと考え、床入りのササ神酒(みき)をお進めしました。先ず男神が女神に進めて、女神が先に呑んだ後男神に進めて呑みました。この後、男神が女神の体調を尋ねると、イサナミが答えて、「私には備わっていますが、何かが足りない女陰(メモト)というものがございます」。イサナギも答えて、「実は私には余りある物があります。お互いを和合(アワ)させて子供を産みましょう」と言って二人は床入りし、情熱のおもむくままに交わって子供を孕(はら)み、誕生した女の子の名前は昼に生まれたのでヒルコと名付けました。

 しかしながらヒルコが生まれた年は、父イサナギ40歳、母イサナミは31歳で、2年後には男42歳、女33歳の天の節で大厄に当たります。運悪くこの節目に悪霊(あくりょう)が宿れば、女の子は父の汚(けが)れに当たり、男の子は母の災いとなるといいます。ヒルコは両神の慈しみを一身に受けて育てられ、まだ三年にも満たないというのに、親の元から引き離されて岩樟船(イワクスフネ)に乗せ捨てられました。下流でカナサキ(住吉神)が拾い上げて、妻のエシナズの乳を得て何不自由なく我が子同様に育てられました。実はこの時、妻エシナズは不幸にも我が子を失ったばかりでしたので、それはもう我が子に再開したような喜び様でした。

 カナサキはいつも優しい潮の目でヒルコを目守ってやり、「アワウワヤ」と手拍(てうち)をしてあやしていました。ヒルコの誕生日には炊きごはんを神様に供え、初めて食事のとり方を教えて、立居振舞も手を取って習わせました。三年目の冬には髪置(かみおき)と言って、幼児が初めて髪を伸ばす儀式も済ませました。新年元旦は餅をつき天神地神に供えてから、親族が集まって新年を祝いました。三月三日の桃の節句には雛祭をして遊び、五月五日は菖蒲(あやめ)を飾って粽(ちまき)を食べました。七月七日は七夕(たなばた)祭で、九月九日は菊の花と栗を供えるお祭です。

 五年目の冬には男子は初めて袴(はかま)をはいて、女子は被衣(かずき)を着ます。又5歳からは常にアワ歌を教えて言葉を正します。

 アカハナマ  イキヒニミウク
 フヌムエケ  ヘネメオコホノ
 モトロソヨ  ヲテレセエツル
 スユンチリ  シヰタラサヤワ
 この様な年中行事を経たヒルコ姫は、今では美しい乙女に成長しました。厄もきれいに川の水に流された今、再び両親の元に呼び戻されて、兄の天照神の妹(イロト)として復活し、ヒルコの名もワカヒルメと変わりました。

 先にイサナギ、イサナミはツクシ(筑紫)に行き、ツキヨミ(月読)を産み育てました。ツキヨミは日の光を受けて輝く月として、兄天照の政務を助けるようにと、後に宮中に上がりました。その後両神は、ここソサ(現・熊野)に来(キ)たりて宮殿を建造して静(シ)かに居(イ)ましたので、この地方をキシイ国(紀州)と言いました。

 ここでもイサナギは、クニトコタチ(国常立)の常世(とこよ)の花である橘樹(たちばな)を植えて国造りをしてトコヨ里と呼びました。先に捨てられたヒルコ姫も、今は母とともに睦まじく生活(くら)しました。頃は春、花の下(もと)で歌を教えてもらっている最中に母が出産し、男の子を産んだので名前をハナキネと付けました。成長して後のソサノオ(須佐之男)です。

 ここソサ(熊野)で成長したハナキネは、母譲りの美貌と歌の才に恵まれた姉に、歌について質問をしました。「和歌はなぜ五・七調に綴るのですか」。姉は、「それは天地(アワ)の節(ふし)です」と答え、又ハナキネが問うて、「それでは何故、祓(はら)いの歌は三十二文字で、一般には三十一文字なのですか」。すると姉は、「和歌の三十一文字は大変理にかなっていて、天を巡るこの地球(クニタマ)の公転(メグリ)は一年を三百六十五日で回ります。この一年を四季に分け、又、上旬、中旬、下旬に分けると、約三十一となりますが、月の方は少し遅くて三十足らずです。しかし真(まこと)は三十一日です。五月から八月の間は約三十一日強となり、後が先に掛かるので三十二日にもなります。この変則の間(ま)を窺(うかが)う汚(けが)れや、災いを祓う歌の数が三十二です。美しく四季られた敷島(しきしま)の上に人として生を受けた私達は、男子は三十一日目に産土神(うぶすな)にお礼参りをし、女子は三十二日目にお礼参りをするのも、この地の恵みに感謝するためです。これにより敷島を和歌の道と言います」。

 その後、時移りアマテル神(天照神)がイサワの宮(伊雑宮)に坐して政治(まつり)を執っておられる時の事です。キシイ(紀州)の国から矢継早に伝令が飛びきたり、「キシイの稲田(いなだ)にホオムシが大量発生して、稲が大被害を受けました。一刻も早くオオン神(天照神)の御幸(みゆき)をお願いして、稲虫祓いをしてください」と繰り返し願い出ました。運悪くその時オオン神は、トヨケの神の亡き後を継いでアメノマナイ(真奈井)に御幸(みゆき)後の事でした。民の嘆きを聞いたムカツ姫(中宮・セオリツ姫ホノコ)は、何とかして民の嘆きに答えたい一心から、とりあえずワカ姫共々現地に馳せ参じて、行動を開始しました。

 ワカ姫は先ず、田の東に立ってオシ草(玄人)を片手に持ち、もう一方の手に持つ桧扇(ひおうぎ)で扇ぎたてて、即興の歌を詠みながらホオムシを祓いました。すると虫が飛び去ったのを見たムカツ姫は、三十人の姫達を二手(ふたて)に分けて田の左右に佇(たたずま)せて、皆一緒にワカ姫の作った稲虫祓いの和歌の呪(まじない)を歌わせました。くりかえし、繰り返しして三百六十回歌い続けて、最後にオシ草と桧扇(ひおうぎ)を皆が一斉にどよませ大声を上げれば、虫はザラッと一気に西の海の彼方へと飛び去り、稲田は元の様に鎮(しず)まりました。これが稲虫祓いの和歌の呪(まじない)です。

 稲種(タネ)・畑種(ハタネ) 大麦(ウム)・小麦(スキ)・大触豆(サカメ)・大豆(マメ)・小豆(スメラ)のゾロ(稲)葉(は)も喰(は)めそ虫(むし)もみな鎮(し)む

 このワカ姫の歌により無事災いは祓われて、再び稲は元通りに若やぎ、蘇(よみがえり)りました。

 秋にはゾロゾロと稲穂も揃って実り、暗い鳥羽玉(ぬばたま)の夜が明けます。この秋、民百姓は大豊作を迎え、豊かな糧(かて)を得て喜び祝いました。民の顔も明るく晴れて、お二人への返礼として感謝の心をこめアヒノマエ宮(天日前宮)とタマツ宮(玉津宮)をお造りいたしました。アヒノマエ宮は中宮ムカツ姫のご滞在になられた宮で、タマツ宮はワカ姫のために捧げられた宮です。後にムカツ姫はイサワノ宮にお帰りになられたので、アヒ宮をクニカケ(国衛)として残し、ムカツ姫の御陰(みかげ)を世々に伝えました。(現・国懸神社)

 ワカ姫の歌の御霊(みたま)を留め置くのがタマツ宮です。枯れたる稲を歌の力で若返らせた心意気を残そうと、この国の名を和歌の国と名付けて今日まで伝えています。善良で気持ちの良いキシイの民は、ワカ姫を心から歓迎してお仕えしました。ワカ姫も又、民の心ばえに良く応えて、この美しい和歌の浦に一人留まり、民の心を和して政(まつり)を執り静かな時を過ごしました。

 そんなある日のことです。アマテル神のオシカ(勅使)としてタマツ宮に遣(つか)わされたアチヒコ(阿智彦)に会ったとたん、ワカ姫は恋焦(こいこが)れてしまい、苦しい女の胸の思いに耐え兼ねて和歌の歌を詠み、歌冊(ウタミ)に染めて思わずアチヒコに進めてしまいました。アチヒコも何気なくつい手に取って見れば、

 キシイ(紀州)こそ 妻を身際(みぎわ)に 琴の音(ね)の 床(とこ)に我君(わぎみ)を 待つぞ恋(こい)しき

 「紀州にいらっしゃい。私は貴方の妻になっていつも御身(おんみ)の近くで琴を奏(かな)でてさしあげましょう。寝床ではいつも我君(わぎみ)を恋しい思いでお待ちしています」。

 これを見たアチヒコは突然の恋の告白にたじろいで、思えば仲人(ハシカケ)もなしにどうして愛を結ぶことができようか。と、何とか返歌せねばと思えば思うほど焦りが先にたってついに返せず、言葉(コトノハ)に詰まって、「待って下さい。後日必ずお返しします」と言うや、その場を何とかつくろって持ち帰り、宮中に走り至ると諸臣(もろとみ)に相談しました。何しろアマテル神の美しい妹に恋されたのでは、うれしいやら困ったやらで戸惑いを隠せません。

 と、一部始終を聞いていたカナサキ(住吉神)が静かにお話しを始めました。「この歌は、受けたからにはもう絶対絶命、返事(カエゴト)ができない上から読んでも下から読んでもグルグル巡りの回文歌(マワリウタ)です。私もアマテル神の御幸(みゆき)のお供で船に乗っていた時のこと、暴風が激しくて波が高いのを打ち返そうと回文歌(マワリウタ)を詠み、

 ながき夜(よ)の 遠(とお)の眠(ねぶ)りの 皆目覚(みなめざ)め 波乗(なみの)り船(ふね)の 音(おと)の良(よ)きかな

 と詠ったところ、やがて風が止んで波は静かになり、船は心地よくアワ(阿波)の湊に着きました」と話されました。しかしそれを聞いても、アチヒコの心は未だに乱れて落ち着きません。「ワカ姫に返歌をしなければ。愛にどう答えればよいのでしょうか」と、又聞けば、ここでアマテル神の詔がありました。「今こそ、カナザキの船に乗り受けて夫婦(メオ)となるなり」。この後、アチヒコとワカ姫はカナサキの船が縁をとりもち、今はヤス川(野州・やす)辺に宮を造り、名もアマテル神の妹シタテル姫となり幸せに暮らしました。

 この頃、中宮のセオリツ姫は伊勢のオシホイ(忍穂井)の耳(みみ・縁)に産屋(うぶや)を造って日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)を無事出産されました。オシホイに因(ちな)んで真名(イミナ)をオシヒトとつけ、称名(タタエナ)をオシホミミと聞こし召しました。イサナギ存命中はタガ(多賀)の若宮で育てられましたが、いよいよイサナギ臨終の時に及び、君はオモイカネとワカ姫に養育を託されました。

 今はアメヤスガワ(天野州川)辺で、オモイカネとヒルコ姫は皇子(みこ)オシヒトを守り育てられながら、ネ(北陸)とサホコチタルクニ(山陰)を同時に治めて、伊勢(男女の絆)を結んで夫婦協力し政(まつり)を執っていました。この時期に誕生した男子の真名(イミナ)をシズヒコと言い、称名(タタエナ)はタジカラオ(手力男)です。

 宮中では、日増しに激しさを増すソサノオ(須佐之男)の乱暴狼藉にホトホト手を焼いていました。ソサノオはアマテル神の后の一人を過失とはいえ死亡させるという取り返しのつかない罪を犯して、今度ばかりは宮号(みやごう)も剥奪されて、下民(したたみ)として宮中を追われてサスラオに身をやつしさまよい歩きました。さすらいの苦しい日々にいつも思い出すのは、唯一やさしかった姉のワカ姫です。せめて一度だけ会いたいとの願いがやっと許され、ヤスカワ辺へと向いました。

 ソサノオがヤスカワの宮に近ずくと大地は踏み轟(とどろ)いて鳴り動き、驚いた姉のワカ姫は、最近のサスラオが狂暴で危険なのを以前から聞き知っていたので、宮の戸を固く閉ざして中に入れませんでした。「弟(オトト)の来るのは、良いことなどありえない。たぶん父母がソサノオに遺言した任命(ヨサシ)の国、ネ(北陸)とサホコチタルクニ(山陰)を取ろうと窺(うかが)いに来たに違いない」と、言い放ちました。

 この時のソサノオの風体(ふうてい)は、揚巻(あげまき)をして裳裾(もすそ)を束(つか)ね袴(はかま)とし、大きな身体(からだ)に五百個の玉を巻き付けて、腕には千本入りの靫(ゆき)と五百本入りの靫(ゆき)を両肘にくくり付け、弓弭(ゆはず)をブンブンと振り回しながら、片手に剣を持って突っ立っています。ソサノオいわく、「何を恐れているのだ。昔、遺言によりネ(北陸)に行けとあったではないか。姉に目見(まみ)えてから後に行こうと、遠路はるばる会いに来たのだ。疑わずに善意を見せてくれ」と。姉いわく、「真意(サゴコロ)は何(なに)」ソサノオ答えて、「ネ(北陸)に着いた後に子をつくり、もし女子(メ)ならば我が身の汚(けが)れ、男子(オ)ならば潔白なり。これ誓いなり」と言い残して立ち去りました。

 実はワカ姫には、弟ソサノオの仕業(しわざ)の真意を質(ただ)すべき心のわだかまりがありました。それはアマテル神の后の一人コマス姫ハヤコと弟との密通事件です。姉が唯一心を痛めるのは、この不祥事の後にハヤコが産んだ、まだいたいけな三人の女の子の行く末でした。 アマテル神は后と弟の情事を知ってからも、この子達は自分の宝であるとは言ったものの、結局はツクシ(九州)のウサ(現・宇佐八幡)に遠流(おんる)と決まりました。

 ハヤコとハヤコの姉モチコ及び三人の女児の5人は、不承ながらも中宮ムカツ姫の説得を受け入れてツクシに下りました。しかし、中宮の決定を怨んだモチコとハヤコは、三児をウサに置き去りにしたまま故郷に逃げ帰ります。そして弟ソサノオの名を語って、「功をたてれば国神(くにかみ)にとりたてよう」との流言を流し、アマテル王朝への反乱を計り、この後八年間に及ぶ内乱の苦しみの淵へと国中が呑み込まれていきました。

 又ある日ある時、クシキネ(大己貴)が諸国を巡って農業指導をしている時のことです。災害で食糧の乏しい村民の訴えに、つい誤って獣の肉食を許してしまいました。と、天罰が当たりその年の秋、村の稲田に稲虫が大量に湧き出て葉を食い荒らしてしまいました。驚いたクシキネはシタテル姫の坐すヤスカワに馳せ参じて、稲虫祓いの教え草を習い覚えて急ぎ帰り、オシ草(玄人)を持って扇(あお)ぐと、やはりホオムシは去って稲は若やぎよみがえりました。その秋豊作となったので、喜んだクシキネは、自分の娘のタカコ(高子)をシタテル姫の元に奉りました。

 その報を聞いたアマクニタマ(天津国玉)も感激のあまり、娘のオグラ姫(小倉姫)をこれも捧げて仕えさせました。シタテル姫は二若女(フタアオメ)を召して八雲弾琴(ヤクモウチコト)の音(ね)を二人に教えて楽しみました。後にワカ姫が日垂(ひた)る時(臨終)に、ヤクモ(八雲弾琴)とイススキ(五弦)とカダガキ(三弦琵琶)の奏法をタカ姫に免許皆伝し、タカテル姫の名前を新たに賜わりました。又和歌の奥義を記したクモクシ文(雲奇文)は、オグラ姫に捧げて、なおも自分と同じシタテル姫を襲名させ、神上(かみあ)がってから後に、和歌国(わかくに)のタマツシマ(玉津島)に祭られてトシノリ神(歳徳神)と称えられました。

 アマテル神は自ら日の輪(太陽)にお帰りになることを決心され、諸臣、諸民を集めて、后(きさき)のムカツ姫に遺し法(のこしのり)をされました。「私の亡き後、ヒロタ(現・広田神社)に行ってワカ姫と供(とも)に余生を過ごし、女意心(イゴコロ)を守り全うしなさい。私もトヨケ埋葬のこの地マナイガ原でサルタに穴を掘らせて罷(まか)ろうと思う。我はトヨケと男(オセ)の道を守らん。これ伊勢(いせ)の道なり」と、のたまい洞(ほら)を閉じさせました。













(私論.私見)
 
 http://bravenewclimate.files.wordpress.com/2011/03/fukushima_explained_japanese_translationv3.pdf