天理教教祖の抵抗暴力論

 更新日/2025(平成31.5.1改元/栄和7)年1.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天理教教祖の抵抗暴力論」をものしておく。

 2018(平成30).4.19日 れんだいこ拝


【大塩平八郎の乱と天理教教祖】
 教祖みきが「大塩平八郎の乱をどのように見做していたのか」は興趣の注がれる設問である。
 熊田一雄氏は次のように述べている。
 稿本・天理教教祖傳が大塩平八郎の乱についてひと言も触れず、稿本・天理教教祖伝逸話篇がみきの「力比べ」について説明になっていないコメントをつけている理由は、もちろん教団が教祖の独自性を強調したかったからであろう。しかし、それだけではなく、やや挑発的な発言を付け加えるならば、これらの教典が編集されたころには、天理教の教学者たちが、みきが「引きこもり」の3年間に、当事者性をもって真剣に考え抜いたほどには「宗教と真の非暴力」の関係について深く考えておらず、天理教は常に「平和」的な(私に言わせれば「疑似非暴力」的な)教団だったと、外部社会にアピールしたかったことにもよるのではないだろうか。
 
 末尾三行目の「宗教と真の非暴力の関係について深く考えておらず」のところの「非暴力」を咎め、「教祖が指針せしめた理不尽に対する抵抗暴力称揚(少なくとも容認)論について深く考えておらず」と書き換えたなら何も言うことはない。
 大塩平八郎の乱と天理教教祖  
 みきには、「疑似非暴力状態」ではない「真の平和」を夢見た一種の女傑、「女頭目」とでも呼びたい女性という側面があったように思われる。1838年に最初の神がかりをしてからのみきの「引きこもり」の3年間は、1837年の「大塩平八郎の乱」の影響を受けて、みきが、「宗教と真の非暴力」とは何か、という問いに答えを出すまでの内的葛藤の期間でもあったのではないかと思う。「引きこもり」の3年間において、みきは、日本的な宗教文化の伝統に基づいて、「宗教と真の非暴力」について集中的に考え抜いたのだと思う。そして、教えを説き始めてからも、同じ問題を考え続けたのだと思う。
(私論.私見)
 みきが「大塩平八郎の乱」の影響を受けていることに着目するのは良い。問題は、みきの蔵こもり三年間を「みきが、宗教と真の非暴力とは何か、という問いに答えを出すまでの内的葛藤の期間でもあった」としているところにある。こういう解釈はみきの蔵こもり三年間の矮小化だろう。「宗教と真の非暴力」に関する思想について苦吟していたとしているところは、さらなる矮小化だろう。

 真意は、みき教義全般を練る期間だったことにあると解すべきだろう。よしんば、暴力論に狭めても、なぜ「真の非暴力」とするのかが解せない。「非暴力」、「無抵抗主義」、「宗教と暴力」、「抵抗と暴力」、「世直しと暴力」等々について苦吟していたと受け止めるのが普通だろう。決して「非暴力」に絞って問答していた訳ではなかろう。みきが「暴力」をどのように見做していたのかを解析するのが有益なのに、「宗教と真の非暴力」の問題とするのは評者の趣向であって、率直に言えば捻じ曲げのすり替えだろう。
 数百万人の餓死者を出した「天保の飢饉」のさなかに大阪で起きた大塩平八郎の乱は、百姓ではなく幕府の側の役人が反乱(みきの言葉では「むほん」)を起こしたということで、日本全国に大変な衝撃を与えた。ましてや、みきは大阪の近隣の奈良に住んでいたのだから、取引のあった商人のネットワークを通じて、「幕藩体制の終わりの始まり」という側面があった大塩平八郎の乱について詳細な情報を入手していたはずである。みきは、大塩平八郎の乱に両義的な感情を強くもったであろう。自分自身は奉行所の与力という社会的に恵まれた立場にありながら、弱者救済(大塩の言葉では「救民」)の「世直し」を掲げた点では、みきは大塩に強く共感しただろう。
(私論.私見)
 ここの件の記述は良い。
 しかし、現在の大阪市の約五分の一を火の海にしたという対抗暴力の「むごさ」や、武士と町人の峻別を主張する身分意識(「へだてる心」)には、強く反発しただろう。
(私論.私見)
 ここの件の、みきが「現在の大阪市の約五分の一を火の海にしたという対抗暴力の『むごさ』」に対する強い反発を「しただろう」は無責任な推測でしかなかろう。れんだいこが知る限り、みきのそういう言行は見当たらない。

【アナーキズム的暴力論と天理教教祖】
 「教祖みきがアナーキズム的暴力論をどのように見做していたのか」は興趣の注がれる設問である。
 4.「暴力のアート」としての「力比べ」
 私は、アナーキストの向井孝にならって、「暴力」概念を、1.対話を拒否して、2.加害の意志をもって、3.物理的力を行使すること、と極めて抽象的に定義する。こう定義すれば、現在我々がイメージしている「平和」状態とは、江戸幕府や近代国民国家が、軍隊や警察という形で「暴力」を独占していることの「効果」としての「疑似非暴力」状態にすぎず、「真の平和」ではない。誤解を招かないように言っておくが、私は、国家や国家暴力が悪だとか、廃絶すべきだと言いたいのではない。軍隊も警察ももちろん必要である。「国家=悪」と言いたいのではなく、いったん「暴力」概念を抽象化することで、社会現象の分析に新たな角度から光をあててみたいのである。
(私論.私見)
 この件の全体の趣意が今一つ分からない。アナーキストの「暴力」概念を持ち出すなら、もう少し説明を要するのではなかろうか。
 みきは、国家暴力と対抗暴力の無限連鎖からの解放(みきの言葉では「むほんの根(ねへ)を切る」こと)を、経験に基づいて日本の民俗宗教的な「親神の力」に求めるようになったのではないか。
(私論.私見)
 ここの件はこれで良いのだろう。
 「疑似非暴力状態」ではない「真の平和」を実現するためには、かつてのマルクス主義のような「暴力革命か絶対平和か」という単純な二分法に依拠することなく、人間は「暴力の大好きな生き物」(みきの言葉では「あざない」(思慮の浅い)者であることを直視して、「暴力の制御可能性」を生活のさまざまな側面とリンクさせながら高めていく「暴力のアート(術)」が必要である。みきの場合、そうした暴力のアートのひとつが、稿本・天理教教祖伝逸話篇に5編も似たような話が記録されている、男性たちとの「力比べ」だったのだと思う。

 少なくとも老境に達してからの明治時代の中山みきは、自分のもとを訪れた男性たちに、「力比べ」をもちかけて、簡単に負かしては、「神の方には倍の力」と説いていた。稿本・天理教祖伝逸話篇に、同じような話が複数記録されているのはこの「力比べ」の逸話だけであることから考えて、老境に達した明治期には、みきは自分のもとを訪れる男性に頻繁に「力比べ」を持ちかけていたのだろう。天理教の原典(教典)であるお筆先の、みきが77才となった明治7年に書かれた部分である第3号第84首でもこう説かれている。教団外部の自然科学者なら、男性たちはみきのカリスマ性を前にして暗示にかかったのだ、と説明するだろう。

 天理教教団は、他のいかにも宗教家らしい逸話とはやや異質なこうした「力比べ」の逸話に、「教祖はみずからが月日のやしろに坐しますことを示されたのである」と特別にコメントを加えている(「稿本・天理教教祖伝逸話篇」)。しかし、自分が生き神であることを示す方法なら他にいくらでもあったはずで、事実、「病気治し」を代表として、そうした逸話は数多く残されている。天理教教団のコメントは、説明になっていない。
(私論.私見)
 ここの件はこれで良いのだろう。
 みきは、男性信者たちの暴力を制御する可能性を、親神(天理王命)に対する信仰に基づいて高めようとしたのではないだろうか。
(私論.私見)
 この件の推理は、「宗教と真の非暴力」として理解しようとするのと同じ構図の「捻じ曲げのすり替え」だろう。
 天保の飢饉の時代から、全国の百姓一揆は「世直し大明神」を掲げることが増えた。大塩平八郎も、世直し大明神のひとりとして位置づけられた。それに続く「世直し」という時代の風潮や、明治初期の自由民権運動や不平士族の反乱による騒然たる世相の中でみきの元を訪れた男性たちの中には、「生き神」の噂高いみきに、百姓一揆のような国家に対する「対抗暴力」の運動(みきの言葉では「むほん」)の指導者を期待する「血気盛んな」男性も少なくなかったのではないか。
(私論.私見)
 そうこの件の理解で良い。
 そうした男性たちに、「力比べ」を持ちかけて簡単に負かして「神の方には倍の力」と説くことによって、みきは、「暴力に訴えることの空しさ」を暗にさとし、「力任せ」の心理を挫折させて、血気盛んな男性たちをたしなめたのではないか。
(私論.私見)
 この件の解釈は馬鹿げていよう。
 みきの「力比べ」に対して、みき教理に基づく信仰は神の道であり、明治政府の弾圧は人の道のものであるから心配するに及ばないということを「神の側には倍の力がある」例証として「力比べ」をして見せ、動揺する信者を鼓舞するのに効果があった云々。
(私論.私見)
 この解釈も、みき教理の「悪しき捻じ曲げのすり替え」である。みきが、「暴力に訴えることの空しさを暗にさとした」言行は見当たらない。もとよりみきの暴力論はマルクス主義的な革命論に基づく攻勢的暴力論ではない。この時点で認められるのは、権力の弾圧にひるむな、毅然として抵抗せよの域の論である。ここではこの程度のことはみきが諭していたことを確認すべきで、「みきが暴力に訴えることの空しさを暗にさとしていた」と受け取るのは逆行だろう。

 「道すがら」や「正文遺韻抄」は、「谷底せりあげ」(社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。
(私論.私見)
 そうこの件の記述の理解で良い。著者はこの件の記述を紹介したくて、それまでの記述を意図的に穏和にカムフラージュしていたのかも知れんなと思う。
 みきの「力比べ」を見聞した男性たちは、親神の前では人間の暴力など無に等しいことを知り、それからはもはや、江戸幕府や明治国家に対する対抗暴力はもちろん、妻に対するドメスティック・バイオレンスを含めて、力任せに暴力に訴えることができにくくなったであろう。みきは、「力比べ」によって社会の底辺に生きる「荒くれ男」たちの手綱を見事にさばいて見せたのだと思う。「真の非暴力」の教えを我が身でもって具体的にわかりやすく説いたのが、みきの「力比べ」だったのではないか。みきは、近代日本において、日本的な「無抵抗・不服従」運動を最初に行った宗教家(たち)の少なくともひとりだったと思う。
(私論.私見)
 ここの件の記述は駄文である。引用先の「みきは、近代日本において、日本的な『無抵抗・不服従』運動を最初に行った宗教家(たち)の少なくともひとりだったと思う(池田2007)」と評するのは愚昧である。「日本的な抵抗・不服従」運動を最初に行った宗教家(たち)の少なくともひとりだった」と云うのなら分かる。

【宗教と「暴力の問題系」 と天理教教祖】
 教祖みきが宗教と「暴力の問題系」 をどのように見做していたのか、は興趣の注がれる設問である。
 6.おわりに―宗教と「暴力の問題系」
 「はじめに」で述べたように、現在、宗教と暴力の関係を根本的に再考することが、地球規模で要求されている。この論文では、「暴力か平和か」という単純な二分法を離れて、人間は暴力が大好きな生き物であることを直視し、生活のさまざまな側面とリンクさせながら暴力の制御可能性を増大させていく「暴力のアート」が重要であり、天理教教祖の場合は、神(親神)に対する信仰に基づいた「力比べ」がそうした暴力のアート(手綱さばき)のひとつだったのではないか、と主張した。

 「稿本・天理教教祖傳」が大塩平八郎の乱についてひと言も触れず、「稿本・天理教教祖伝逸話篇」がみきの「力比べ」について説明になっていないコメントをつけている理由は、もちろん教団が教祖の独自性を強調したかったからであろう。しかし、それだけではなく、やや挑発的な発言を付け加えるならば、これらの教典が編集されたころには、天理教の教学者たちが、みきが「引きこもり」の3年間に、当事者性をもって真剣に考え抜いたほどには「宗教と真の非暴力」の関係について深く考えておらず、天理教は常に「平和」的な(私に言わせれば「疑似非暴力」的な)教団だったと、外部社会にアピールしたかったことにもよるのではないだろうか。

 <註>
(2)島薗は、「みきは生涯強い父の面影を追っていた」と解釈しているが、この説は実証的根拠に欠ける(島薗1977)。
(私論.私見)
 みきが生家の父と強い信頼の絆で結ばれていたのは事実であるが、「みきは生涯強い父の面影を追っていた」と評するよりも、「みきが、父が垣間見ていた世の中や歴史、宗教の世界をさらに突き進め、かの教理の水準まで高めた」と評する方が自然だろう。
(4)池田士郎は、教祖・中山みきだけではなく、教祖の夫・善兵衛や長男・秀司を含めて、教祖の一家全員を「ひながた」(信仰の模範)とみなす解釈を提出している(池田、同上)。
(私論.私見)
 もし、そのような説を唱えているとするなら愚昧である。

【天理教教祖の抵抗暴力論の形成考】
 みき教理は、「宗教活動を護持する側の抵抗暴力の創造」に苦吟していた形跡が認められる。みき教理のそもそもは、抵抗暴力も含めて暴力そのものを忌避させ、万事紛争事態に至るものからの「埃を避けよ」と指針し、まともに取り合わないのを良しとした。「反対する者も可愛い我が子」と受け止め、「節から芽が出る」とポジティブシンキングさせている。その上で、「どうせこうせこれは言わん」、「無理に来いとは言わん」、「高山の説教聞いて 真実の神の話しを聞いて思案せ」と分別諭しをしている。

 しかしながら、みき教理は情況に応じて進化する。明治政府の理不尽な天理教弾圧、度重なる理不尽な検束に遭って、最初の「埃を避けよ」の御教えから転じて、次第に抵抗姿勢を生み出して行く。この頃の御教えは「節から芽が出る」だった。これは、「理不尽に対する抵抗精神の涵養指導」だった。これにより、初期の天理教教団には、お筆先の一節「いかほどの がうてき(「剛的」、力の強い者)あらばだしてみよ 神の方には 倍の力や」と口ずさむ雰囲気があったと云う。やがて「講を結べ」に転じる。

 教祖みきは、強まる弾圧の結節点として、明治15年5.12日(陰暦3.25日)、二段まで出来まもなく完成しようとしていた矢先の官憲による甘露台倒壊を境に、指針を大転換させている。もはや、従順なる子羊の域から脱し、「残念」、「残念はらし」、「かやし」(報復)等の言葉を発し始め、抵抗暴力論創造の入り口辺りまで辿り着く。

 みきは、多くの信者がお上の取締りに対して容易に腰砕けするのに際し、弾圧に屈しない教理の創造に勤しみ、御意の同志信者を求め始めた。こう受け取るのが素直だろう。史実は、みきの廻りに次第に元やくざの親分、豪の者、剣士が引き寄せられつつあり、教祖の身辺警護にあと一息のところまで堅塁ができ上りつつあった。

 長女のおまさの教祖護衛もその例証である。おまさは嫁入り先から出戻って中山家のすぐそばに一軒家を建てて暮らし始めた。「お屋敷」での信仰生活に参加するでもなく、しょっちゅう酒を飲んで中山家に入り浸っては、信者にカラむようなことを繰り返していたが、いざ弾圧が始まると誰よりも体を張って母親を守り、巡査もひるむような迫力で官憲につかみかかっていったということが伝えられている。みきがおまさの抵抗を嗜(たしな)めた伝聞は聞かない。

 元やくざ親分の平野楢蔵大抜擢登用譚もその例証である。これについては「教祖の世直し論その5、教祖の平野楢蔵抜擢登用考」に記した。こういう見地からのみき教理の抵抗暴力論が究明されていない。究明しようともしていない。

【教祖の抵抗暴力論を廻る教祖と本席の違い考】
 お指図には、教祖の抵抗暴力論に相当する諭しは見当たらない。この辺りが、教祖と本席の違いだろう。

【ドメスティック・バイオレンスと天理教教祖】
 教祖みきがドメスティック・バイオレンス的暴力をどのように見做していたのか、も興趣の注がれる設問である。
 5.天理教教祖とドメスティック・バイオレンス
 庶民の生活の生々しい苦難に関わる現世救済の宗教である新宗教にとって、信者の中でも数が多い主婦たちが被害を被っているドメスティック・バイオレンス(夫または恋人からの身体的または精神的な虐待)の問題にどう対処するかは、極めて切実な問題である。天理教のように「夫婦関係」を人間関係の基本(「ひながた」)と考えるならば、ドメスティック・バイオレンスの問題にどう対処するかは、なおのこと切実な問題である。

 稿本・天理教教祖伝逸話篇には、中山みきのこの問題に対応する姿勢を窺わせる逸話が2編収録されている(<資料3参照>)。逸話一三七「言葉一つ」では、男性信者に対して、「いくら外面が良くても、家で女房にガミガミ腹を立てて叱ることは絶対にしてはいけません」とピシャリと叱りつけている。「腹を立てて叱る」だけでも絶対にしてはいけないというのだから、みきは、妻に対する身体的暴力などは言語道断、と考えていたのだろう。現在の天理教では、信者の女性がドメスティック・バイオレンスの被害にあっている場合は、妻を決して責めないように細心の注意を払いながら、夫婦それぞれにカウンセリングを行い、夫婦が話し合っても解決がつかない場合は「神にお詫びした上で離婚するように」と説いている(天理やまと文化会議(編)2004)。しかし、中山みきが存命の頃の天理教信者同士の夫婦の場合、夫が妻に対して身体的暴力を振るうことは、そもそもありえない話だったのではないだろうか。

 現在の天理教は、「決して被害者女性を責めないように」としているが、その一方で稿本・天理教教祖伝逸話篇の逸話三二「女房の口一つ」を典拠として、「夫を立てるように」と主婦の信者に信仰指導することもあるようである。しかし、この逸話「女房の口一つ」におけるみきの言葉に対するこうした近代的な解釈には、疑問をさしはさむ余地が大いにある。

 高野友治が、古老からの聞き書きをまとめた労作「ご存命の頃」には、この逸話に登場する明治初め(明治元年から明治10年頃まで)の教祖について「乾やす談」(p214-222)が収録されているが、逸話三二に登場する「やすさん」は、天理教がまだ世間の嘲笑を浴びていた頃「熱心な信仰一家」に育った人である。その頃の「貧へ落ちきり」(貧乏に落ちきること)を「ひながた」(信仰の模範)とする天理教の信仰は、特に男性信者に関しては、世間の嘲笑を呼ぶものであった。教祖みきの夫・善兵衛、長男・秀司をはじめとして、みきについていく男性信者は、世間に「阿呆」と嘲笑されていただろう。逸話三二は、世間の男性の基準(「男の中の男」のイメージ、専門用語を用いれば覇権的男性性、近代の日本人男性の場合は「集団主義」と「意地の系譜」を特徴とするから、信心に打ち込むことによって亭主が「ドロップアウト」していくのを励ましなさい、というアドヴァイスだったのではないだろうか。その逸話が、いつの間にか文脈から切り離されて、教祖の死後、明治30年代に良妻賢母規範が普及する頃に、中山みきが説いたように「夫婦が立て合い助け合う」のではなくとも、言い換えれば夫の方がどうであっても、「妻の方だけは夫を立てなければならない」という教えとして曲解されるようになり、今日にまで至っているのではないか。





(私論.私見)

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