教祖の世直し論その5、教祖の平野楢蔵抜擢登用考

 更新日/2026(平成31.5.1栄和改元/栄和8)年5.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖の平野楢蔵抜擢登用考」をものしておく。「天理教教祖の侠気について」がある。

 2018(平成30).5.10日 れんだいこ拝


【「天理教教祖と『暴力』の問題系」考】
 熊田一雄氏の「天理教教祖と『暴力』の問題系」(The Founder of Tenrikyo and Problems of Violence)が次のように記している。
 この論文の目的は、日本の初期新宗教である天理教の女性教祖である中山みき(1798-1887年)の男性信者に対する信仰指導を再検討することにある。老境に達した中山みきは,自分のもとを訪れる男性たちに対して、しばしば『力比べ』をもちかけて、簡単に負かしては『神の方には倍の力』と説いて聴かせていた。中山みきは、『世直し』という当時の時代風潮の中で、国家に対する対抗暴力(「謀反」)や妻に対するドメスティック・バイオレンスのような男性信者による暴力を制御する(「手綱をさばく」)可能性を,親神に対する信仰に基づいて高めようとした実践した無抵抗・不服従の宗教家であった。
(私論.私見)
 上記の観点は基本的には鋭く正しい。疑念は、末尾の「無抵抗・不服従の宗教家であった」で、教祖の御教えを「無抵抗・不服従思想」と断定しているところにある。私論は、教祖の谷底救済の世の立替、世直し思想の裡には必ずしも「無抵抗・不服従思想」では括れない「不服従抵抗思想」を内包していたとみなしている。れんだいこは追々、この見地からの論考をものしてみようと思っている。

 2018.5.12日 れんだいこ拝

【教祖の平野楢蔵抜擢登用考】
 教祖みきが平野楢蔵的暴力論をどのように見做していたのか、は興趣の注がれる設問である。
 このれんだいこ理解の方が、元「やくざの大親分」にして天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843年-1907年)伝説が生き生きとしてくる。国会図書館にマイクロ・フィッシュの形で保管されている1920(大正9)年出版の、平野楢蔵伝記「道すがら」には、「それが事の善悪に拘わらず、苟(いやしく)も事実の真相はできる丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)というだけあって、教団初期の雰囲気が迫力をもって描かれている。

 平野は、入信前まで、大和、河内、摂津、伊賀の四ヶ国中一帯で「恩地楢」と一目置かれていた侠客の大親分であった。この時代の平野楢蔵の悪行について、「こんな(註/喧嘩の)場合に幾人の人命が彼の不当な欲望の犠牲になって居るかわからない」(同上、p9)と書かれている。その平野が「重い神経病」(幻覚と幻聴)に罹り、お道により「ない命を助けられ」たことにより天理教信者になった。以来やくざ稼業から足を洗い信心に打ち込むようになった。平野が始めて参詣して来た時、高弟の人達は恐れていた。すると教祖は、『これは神がひきよせて使うのや』と諭されている。教祖のこの度量に目を見張るべきだろう。
 その平野が、教団に暴徒の乱入が及んだ際に対抗暴力に訴え手際よく撃退した。教祖伝逸話篇188「屋敷の常詰」は次の通りである。これを確認する。
 明治19年8月25日(陰暦7月26日)の昼のこと、奈良警察署の署長と名乗る、背の低いズングリ太った男が、お屋敷へ訪ねて来た。そして、教祖にお目にかかって、かえって行った。その夜、お屋敷の門を、破れんばかりにたたく者があるので、飯降よしゑが、「どなたか」と尋ねると、「昼来た奈良署長やが、一寸門を開けてくれ」と言うので、不審に思いながらも戸を開けると、五、六人の壮漢がなだれ込んで来て、「今夜は、この屋敷を黒焦げにしてやる」と、口々に叫びながら台所の方へ乱入した。よしゑは驚いて、直ぐ開き戸の中へ逃げ込んで、中から栓をさした。この開き戸からは、直ぐ教祖のお居間へ通じるようになっていたのである。彼らは台所の火鉢を投げ付け、灰が座敷中に立ちこめた。茶碗や皿も、木葉微塵に打ち砕かれた。二階で会議をしていた取次の人々は、階下でのあわただしい足音、喚き叫ぶ声、器具の壊れる音を聞いて、梯子段を走って下りた。そして、暴徒を相手に命がけで防ぎたたかった。折しも、ちょうどお日待ちで、村人達が近所の家に集会していたので、この騒ぎを聞き付け、大勢駈け付けて来た。そして、皆んな寄って暴徒を組み伏せ、警察へ通知した。平野楢蔵は、6人の暴徒を旅宿「豆腐屋」へ連れて行き、懇々と説諭の上、かえしてやった。この日、教祖は、平野に、「この者は度胸を見せたのやで。明日から、屋敷の常詰にする」との有難いお言葉を下された。
(私論.私見)
 教祖みきが、乱入して来た暴徒に懇々と説諭した平野に対して、「このものゝ度胸を見せたのやで」と褒め、「明日から屋敷の常詰とする」(「道すがら」p59)と最大級に称賛している。事実、これより教祖の護衛に任命し一躍幹部に抜擢している。ここに、みきの対抗暴力論が垣間見えている。この逸話から、教祖みきは、官憲であれ民間であれ理不尽な暴力に対して毅然と立ち向かう、この場合は平野のような人物を欲していたと窺うべきだろう。「教祖の平野楢蔵抜擢登用」は、教祖が理不尽暴力に屈しない抵抗暴力を称賛(少なくとも容認)していたと受け止めるべきではなかろうか。

 平野楢蔵伝記「道すがら」p80は次のように評している。
 これ等の出来事に現れた平野会長の行動を只その表面からのみ看た人びとは、或いはその暴挙に、あるいはその残忍に、或いはその蕃行に呆れ戦慄くかも知れないが、一度それらの行動をなすに至らしめた会長の心情に漲る『道思ふ』てふ精神、『我命は道に敵たる何人の命と共に捨つるも快なり』てふ精神に味達するに至ったならば、何人かよく感泣せずに居られるものがあろうか。

【「天理教教祖の侠気」考】
 諸井国三郎(山名大教会初代会長)の長男にして天理教の知識人信者であった諸井政一(1877(明治10)年―1903(明治36)年)が、教祖についての伝承を明治時代に記録した「正文遺韻抄」には、次のような伝承が記録されている。「天理教教祖の侠気」を次のように記している。
 教祖様が聞かせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親方親方といはれているものがあるやろ。一寸聞いたら悪者のやうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有るところのものをとりて、難儀な者や困る者には、どんゝやってしまう。それで難渋が助かるやろ。そやって、身上(註/健康状態のこと)もようこえて、しっかりした借り物やろがな』と仰有りました。
(諸井1970、p259)。

 熊田一雄氏は云う。
 知識人であった諸井政一をして、このような伝承に対して、『ほんまに、それに違いございません』(同上)と納得させる雰囲気が、ある時期までの天理教教団にあったことは確かであろう。『道すがら』や『正文遺韻抄』は、『谷底せりあげ』(社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。
(私論.私見)
 そう、この理解で何ら問題ない。教祖が、「民衆宗教のなかの、弱きを助け強気を挫く『侠気』の伝統観」をそのまま持っていたことが分かろう。




(私論.私見)