その6の8 教祖の力比べ、神には倍の力論、撃剣論

 更新日/2026(平成31.5.1栄和改元/栄和8)年5.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 教祖は、老境に達してからの明治の御代、おぢばを訪れた屈強そうな男性たちに「力比べ」をもちかけては簡単に負かし、「神の方には倍の力」と説いていた。これを確認し、どう拝察すべきかを問う。

 2018(平成30).5.10日 れんだいこ拝


【「天理教教祖の抵抗暴力論」について】
 「熊おやじの日記」の2008.9.1日付けブログ「天理教教祖と<暴力>の問題系」を確認しておく。 「我々は、宗教と暴力の関係について、根本的に再考する必要に迫られている」との問題意識から、「天理教の女性教祖の言行録、特に男性信者に対する信仰指導に、宗教と『暴力の問題系』という角度から新たな光をあてよう」と試みている。この関心から、天理教の教義の基礎とされる聖典として、教祖直筆の1711首の和歌体で書かれた「お筆先」、教祖が創案したつとめの地歌としての「み神楽楽うた」、折々の伺いに対して下された教祖「お指図」の3原典に認められる暴力理論ないしは逸話を考察している。

 これに、れんだいこが対話する。理解を能くする為に文意を変えない責任に於いて一部輔弼する。意見申すべきところはその都度コメントする。もとより採り上げるということは論考を評価しているからであって、貶すことに意味を見出してはいない。より精度の高いものにする為の認識の共有を目指しているものであるので辛辣な表現のところはご容赦願いたい。

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年10.6日

【教祖の「力比べ」逸話考】
 老境に達した中山みきは、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎、おぢばを訪れる力持ち、例えば井筒梅次郎、諸井国三郎、土佐卯之介、仲野秀信らに対して「力比べ」を持ちかけている。ご自分の腕を差し出して「力の限り押さえてみよ」と仰せられ、拒むわけにもいかず握り返して反発したところ、教祖は少しもたじろがず、そればかりか教祖が少し力を入れて握り直すと腕がしびれて力が抜け降参を余儀なくされた。

 教祖は、「神の方には倍の力や」と説いて聴かせている。また「こんな事できるかえ」と仰せになって、人差し指と小指とで相手の手の甲の皮をつまみ上げるや、非常に痛くてその跡は色が青く変わるくらい力が入っていた。また背中の真中で、胸で手を合わすように正しく合掌なされたこともあったと云う。以下、「力比べ逸話」を確認しておく。
 1.井筒梅次郎との力比べ
   (教祖伝逸話篇逸話75「これが天理や」p131-132)
 明治十二年秋、大阪の本田に住む中川文吉が眼病にかかり、失明せんばかりの重体となった。隣家に住む井筒梅次郎は早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに鮮やかなご守護を頂いた。翌十三年のある日、中川文吉は、お礼参りにお屋敷へ帰らせていただいた。 教祖(おやさま)は、中川にお会いになって、「よう親里を尋ねて帰ってきなされた。一つ、私と力比べしましょう」 と仰せになった。 日頃力自慢で、素人相撲のひとつもやっていた中川は、このお言葉に苦笑を禁じ得なかったが、拒むわけにもいかず、逞しい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、ご自身の左手首を力限り握りしめるようにと仰せられた。そこで、中川は、仰せの通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議なことには、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず「堪忍してください」と、叫んだ。このとき教祖は、 「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れてきたら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」 と、仰せられた。
 2-1.諸井国三郎との力比べ
  (教祖伝逸話篇逸話118「神の方には」p198-200)
 明治十六年二月十日(陰暦正月三日)、諸井国三郎が、はじめておぢばへ帰って、教祖(おやさま)にお目通りさせて頂くと、 「こうして手を出してごらん」 と仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それで、その通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人差し指と小指とで、諸井の手の甲の皮を挟んで、お上げになる。そして、 「引っ張って、取りなされ」 と仰せになるから、引っ張ってみるが、自分の手の皮が痛いばかりで離れない。そこで、「恐れ入りました」と申し上げると、今度は、 「私の手をもってごらん」 と仰せになって、御自分の手首をお握らせになる。そうして、教祖もまた諸井の手をお握りになって、両方の手と手を掴み合わせると、 「しっかり力を入れて握りや」 と仰せになる。そして、 「しかし、私が痛いというたら、やめてくれるのやで」 と仰せられた。それで、一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれば入れる程、自分の手が痛くなる。教祖は、 「もっと力はないのかえ」 と仰っしゃるが、力を出せば出す程、自分の手が痛くなるので、「恐れ入りました。」と申し上げると、教祖は、手の力をおゆるめになって、 「それきり力はでないのかえ。神の方には倍の力や」 と、仰せられた。
 2-2.「教祖のおもかげ(その二)」。
 (「山名大教会初代会長諸井国三郎夫妻自伝」(文進堂、大正5年1月発行))
 これは私が第一回に登参した時の事であるが、教祖の前に出ると、『講元さん、こうして手を出して御覧なさい』と仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それでその通りにすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人指し指と小指とで私の手の甲の皮を挟(はさ)んでお上げになる。しかして、『引っ張って取りなされ』と仰せになるから引っ張ってみるが、自分の皮が痛いばかりで放れない。そこで、「恐れ入りました」と申上げると、今度は、『私の手を持ってごらん』と云って、手首を握らせる。そうすると又御教祖も私の手を御持ちになりて、両方の手と手をつかみ合せなさると、『しっかり力を入れてにぎれ』と仰しゃる。『しかし私が痛いと云ったら、止めてくれるのやで』と。それで一生懸命に力を入れてにぎると、にぎればにぎる程自分の手が痛くなる。教祖様は、『もっと力はないのか』と仰るが、出せば出すほど痛くなるから、「恐れ入りました」と申上げると、手をお緩めになって、『それきり力はないのかえ?神の方には倍の力や』と云ってお笑いになる。

 その次には背中で合掌に組んで、背向きになって御示しになり、『こうしてごらんなさい』と仰せられるから、そうしてみても中々出来ない。それでこれも「恐れ入りました」と申上げると、『誰にでもできるのやがな』と仰せになって笑っておいでになったが、徳がそこまで進んでいないからどうしてもできない。これは今から考えて見ると、神の自由用を実地に御示しになったものと恐察するのである。それからもう一つ、直接聴かして戴いた御言葉の中で有難い御言葉は、『道について来ても足場になるなよ。足場というものは普請ができ上がれば取り払うてしまう。何でも国の柱となれ』とお聴かせ下すった御言葉である。
 3.土佐卯之介との力比べ
  (教祖伝逸話篇「逸話152、倍の力」p254-256)
 明治十七年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばに帰っても、教祖にお目にかからせていただける者は稀であった。そこへ土佐卯之介は、二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が「阿波から参りました」と申し上げると、教祖は、 「遠方はるばる帰ってきてくれた」 と、おねぎらい下された。続いて、 「土佐はん、こうして遠方からはるばる帰ってきても、真実の神の力というものを、よく心に治めておかんと、多くの人を連れて帰るのに頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん」 と仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅を、ご自分の親指と人差し指との間に挟んで、 「さあ、これを引いてごらん」 と差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、どうしても離れない。すると、教祖は笑いながら、 「さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで」 と仰せになった。土佐は、顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引いた。けれども、どんなに力を込めて引いても、その手拭は取れない。土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であった。が、どうしても、その手拭が取れない。遂に「恐れ入りました」と頭を下げた。

 すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、「もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごらん」 と仰せになるので、「では、御免下さい」と言って、恐る恐る教祖のお手を握らせて頂いた。教祖は、「さあ、もっと強く、もっと強く」 と仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛くなるばかりであった。そこで、遂に土佐は兜を脱いで、「恐れ入りました」とお手を放して平伏した。すると、教祖は、 「これが神の、倍の力やで」 と仰せになって、ニッコリなされた。
 4.高井直吉、宮森与三郎との力比べ
  (稿本・天理教祖伝逸話篇131「神の方には」p220-222)
 教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森与三郎などの若い者に、「力試しをしよう」 と仰せられ、ご自分の腕を、 「力限り押さえてみよ」 と仰せられた。けれども、どうしても押さえきることができないばかりか、教祖が、少し力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕がしびれて力が抜けてしまう。すると、 「神の方には倍の力や」と仰せになった。又、 「こんなこと出来るかえ」 と仰せになって、人差し指と小指で、こちらの手の甲の皮を、おつまみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい力が入っていた。 又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なさったこともあった。 これは宮森の思い出話である。
 5、上田民蔵との力比べ
 (植田つる (上田民蔵の娘、本部婦人) 手記「力くらべ」)
 父(上田民蔵/たみぞう)の十八才の時だったと思います。教祖のお齢(よわい)は、聞いたように思いますが、忘れました。父の母(上田いそ)と一緒にお屋敷へ帰らせて頂いた時のこと、教祖が、『民蔵さん、私とおまはんと、どちらが力強いか、力くらべをしよう』と仰って、教祖は、昔のお祀り所の上段の板間の下から、ほんのわずかの高さですが、一、二、三のかけ声で、お手を取って、引っ張り合いをすることになりました。『わしは一生懸命ひっぱった。男の十八、やぶ力というて、思いきり、えらい力を出したのに、教祖がお勝ちになった。ビクともお動きにならへん。教祖、お齢を召しておられるのに、力のお強いこと!わしはもうビックリしてしもた』。
 6.仲野秀信との力比べ
  (教祖伝逸話篇174「そっちで力をゆるめたら」p288-289)
 もと大和小泉藩でお馬廻役をしていて、柔術や剣道にも相当に腕に覚えがあった仲野秀信が、ある日おぢばに帰って、教祖にお目にかかった時のこと、、次のような逸話がある。教祖は、「仲野さん、あんたは世界で力強やと言われてなさるが、ひとつ、この手を放してごらん」 と、仰せになって、仲野の両方の手首をお握りになった。仲野は、仰せられるままに、最初は少しずつ力を入れて、握られている自分の手を引いてみたが、なかなか離れない。そこで、今度は本気になって、満身の力を両の手に込めて、気合諸共ヤッとひきはなそうとした。しかし、ご高齢の教祖は、神色自若として、ビクともなさらない。 まだ壮年に仲野は、今は、顔を真っ赤にして、何んとかして引き離そうと、力限り、何度も、ヤッ、ヤッと試みたが、教祖は、依然としてニコニコなさっているだけで、何んの甲斐もない。 それのみか、驚いたことには、仲野が、力を入れて引っ張れば引っ張る程、だんだん自分の手首が堅く握りしめられて、ついには手首がちぎれるような痛さをさえ覚えて来た。さすがの仲野も、ついに耐え切れなくなって、「どうも恐れ入りました。お放し願います」と言って、お放し下さるように願った。すると、教祖は、 「何も、謝らいでもよい。そっちで力をゆるめたら、神も力をゆるめる。そっちで力を入れて来たら、神も力を入れるのやで。これが天理や。神の方には倍の力や。この事は、今だけの事やない程に」 と、仰せになって、静かに手をお放しになった。
 7.「力だめしの話」
 「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)138-140p。
 教祖様は、御老年に及びても、お弱り遊ばされず、時々御前へ伺う人々に対して、力だめしを遊ばさる。或る時、力士詣でければ、上段の間の御座より、腕引きを成されたるに、力士は、下より上段の方へ、引っ張られければ、大いに恐れ入りたる事ありしと。されば、通常の百姓、町人は云うまでもなく、如何なる剛の者といえども、神の方には、敵一倍、皆なこの通りやとお聞かせ下された。これ教祖様、御自身の力にあらず。正しく神様の入込み給う事を示し給うなり。又手の甲を出さしめて、御自身の人差し指と、小指とにて、皮を一寸はさみ給うに、痛さ身に沁みて堪えかね、恐れ入らぬ者はなかりしと。
 そこで、今日は、神さんがな、今日の日を待ちかねたのやで。もう八十過ぎた年寄りで、それも、女の身空であれば、何処に力のある筈がないと、誰も思うやろう。ここで力を現わしたら、神の力としか思われようまい。よって、力だめしをして見せよと仰るでな、おまえ、ワシの手を持ちて、力限り引っ張って見なはれ』と仰せられましたので、梅谷様、血気盛りの頃なれば、力まかせに引きたれども、たちまち引き上げられる様になるので、恐れ入りました、と申し上ぐると、『人さんがおいでるとな、神さんが、手なぐさみをして見せよ、と仰るから、してみせるのやで』とお聞かせ下されたりと。又仰らるゝに、『年の寄るのを、待ちかねると云うは、一つには、四十台や、五十台の女では、夜や夜中に男を引き寄せて、話を聞かすことはできんが、もう八十過ぎた年寄りなら誰も疑う者もあるまい。また、どういう話も聞かせられる。仕込まれる。そこで、神さんはな、年の寄るのを、えろう、お待ちかねで御座ったのやで』と聞かせ給う。もっともの事にこそ。

(私論.私見) 教祖の力比べ逸話考
 「教祖の力比べ逸話」は存外と興味深い。天理教本部教理は、この逸話に対しても、「教祖はみずからが月日のやしろに坐しますことを示されたのである」とのコメントを加えているとのことである。「この天理教教団のコメントは説明になっていない」(熊田一雄「天理教教祖と<暴力>の問題系」)とするのは良しであろう。問題はどう拝するべきかであろう。

 熊田一雄氏の「天理教教祖と<暴力>の問題系」は、「みきは、男性信者たちの暴力を制御する可能性を、親神(天理王命)に対する信仰に基づいて高めようとしたのではないだろうか」と云う。私は真逆に受け取りたい。「教祖の力比べ逸話」は、明治新政府による天理教弾圧に対し、教内が内も外も従順応法しつつある局面に於いて、「理不尽に抗する抵抗精神の涵養」を説く為に、わざわざに興じられたお諭しの一種だったと拝する。

 よって、熊田一雄氏が「明治初期の自由民権運動や不平士族の反乱による騒然たる世相の中でみきの元を訪れた男性たちの中には、生き神の噂高いみきに、百姓一揆のような国家に対する対抗暴力の運動(みきの言葉では「むほん」)の指導者を期待する血気盛んな男性も少なくなかったのではないか」と問うのは真っ当である。

 続けての受け取り様が合点し難い。次のように述べている。
 そうした男性たちに、『力比べ』を持ちかけて簡単に負かして『神の方には倍の力』と説くことによって、みきは、『暴力に訴えることの空しさ』を暗にさとし、『力任せ』の心理を挫折させて、血気盛んな男性たちをたしなめたのではないか。みきの『力比べ』を見聞した男性たちは、親神の前では人間の暴力など無に等しいことを知り、それからはもはや、江戸幕府や明治国家に対する対抗暴力はもちろん、妻に対するドメスティック・バイオレンスを含めて、力任せに暴力に訴えることができにくくなったであろう。みきは、『力比べ』によって社会の底辺に生きる『荒くれ男』たちの手綱を見事にさばいて見せたのだと思う。みきの『力比べ』が『暴力のアート』のひとつ、『荒くれ男たちの手綱さばき』であったという私の解釈を裏付ける有力な証拠である。
 池田氏は次のように述べているらしい。
 『真の非暴力』の教えを我が身でもって具体的にわかりやすく説いたのが、みきの『力比べ』だったのではないか。みきは、近代日本において、日本的な無抵抗・不服従運動を最初に行った宗教家(たち)の少なくともひとりだったと思う(池田2007)。
 大正12年12.5日号みちのとも「初代管長公の青年時代~追憶に任せて」(道友社刊)50pの永尾芳枝「初代真柱と撃剣」が次のように記している。
 (前略)又撃剣(剣術)は中野さん(※仲野秀信さんの事と思われる)に就いて、少し習われたのであります。教祖は撃剣をする事を余り御機嫌よくは思っておいでなかったのでありますが、それでも初めのうちは黙ってにこ/\笑って御覧になって居られました。けれども少し御熱心におやりになるようになってから、『この道は人をなでてやるのやで。人をなぐるのとは違うで』と仰って撃剣をする事をお止(と)めになった。それから管長様(初代真柱・中山眞之亮)も好きな撃剣もピッタリとお止(や)めになったのであります。こういう風で、管長様はお若い時分から物事に非常にご熱心でした。そうして一度やりかけた事は、どこまでもやり通すという堅い御気性の方でありました。(後略)。
(私論.私見)
 これらの受け取りはいただけない。逆ではなかろうかと思う。私の見解によれば、教祖は明治新政府の政治全般に対して、直接的には天理教弾圧に対して、ひれ伏すばかりではなく敢然と切り返す勇士を教内に求めていたのであり、恭順するしか能のない信徒に対して、「神の方には倍の力」を見せつけることで、「恐れることはない」、「教祖の示す道に真一文字に怯まず進め」と説いていたと伺いたい。よって、この部分につき、熊田一雄氏、池田氏、永尾芳枝氏と反対の見立て、結論になる。

【「天理教教祖と『暴力』の問題系」考】
 熊田一雄氏の「天理教教祖と『暴力』の問題系」(The Founder of Tenrikyo and Problems of Violence)が次のように記している。
 この論文の目的は,日本の初期新宗教である天理教の女性教祖である中山みき(1798-1887年)の男性信者に対する信仰指導を再検討することにある。老境に達した中山みきは,自分のもとを訪れる男性たちに対して、しばしば『力比べ』をもちかけて、簡単に負かしては『神の方には倍の力』と説いて聴かせていた。中山みきは、『世直し』という当時の時代風潮の中で、国家に対する対抗暴力(「謀反」)や妻に対するドメスティック・バイオレンスのような男性信者による暴力を制御する(「手綱をさばく」)可能性を,親神に対する信仰に基づいて高めようと実践した無抵抗・不服従の宗教家であった。
(私論.私見)
 上記の観点は基本的には鋭く正しい。疑念は、末尾の「無抵抗・不服従の宗教家であった」で、教祖の御教えを「無抵抗・不服従思想」と断定しているところにある。私論は、教祖の谷底救済の世の立替、世直し思想の裡には必ずしも「無抵抗・不服従思想」では括れない「不服従抵抗思想」を内包していたとみなしている。れんだいこは追々、この見地からの論考をものしてみようと思っている。

 2018.5.12日 れんだいこ拝

【「みきの力比べの意図」考】
 みきの「力比べ」が「暴力のアート」のひとつ、「荒くれ男たちの手綱さばき」であったという私の解釈を裏付ける有力な証拠である。
(私論.私見
 「みきの力比べが荒くれ男たちの手綱さばきであった」との解釈はいわば勝手だが、私は、「みきの説く神の道への信仰の精進に向けての断固たる決意へと導くエールであった」と拝する。





(私論.私見)