渡辺優/氏の「泥海古記」の想像力

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「渡辺優/氏の「泥海古記」の想像力」考をものしておく。

 2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年1.8日 れんだいこ拝


【渡辺優/氏の「泥海古記」の想像力
 〔要旨〕 天理教教祖・中山みきによって語り出された人間世界創造の説話「泥海古記」は、どのように解釈されてきたのだろうか。「民俗的想像力」を鍵概念に,その成立から現代までの解釈史を概観するとき、天理教研究あるいは民衆宗教研究の新たな論点が浮かび上がってくる。解釈史上の分水嶺となったのは、二代真柱・中山正善による 「こふき」研究であり、「元の理」の裁定であった。本稿の目的は、教祖の教えと民俗信仰を切断する従来の研究によって見えにくくされた、泥海古記に遍在する融通無碍な 「裏守護」の語りと想像力を掬い出すことにある。異質な宗教伝統を結びつけて抱擁する泥海古記のものがたりは,新たな民衆宗教像を提示するとともに、天理教と他宗教との関係という教学上の問題にも示唆を与えるだろう。
1.問題への出発――「泥海古記」解釈史概観
 今日「泥海古記」を読みなおす、その意義はどこに,どのように認められるだろうか。この問いの意味と射程を明らかにするためには、泥海古記と呼ばれる説話がどのように生成し、受容され(あるいは排斥され)、研究されてきたのか、広義の解釈史を概観することからはじめる必要がある。以下、1)「泥海古記」の成立、2)明治・大正期から戦前まで、3)「元の理」の裁定、4)解釈の展開(1960年代後半以降)、の4つの段階に整理して解釈史を概観しながら,問題の所在を明らかにしてゆこう。

 その過程で,本稿が「元の理」や「元始まり の話」ではなく,今日では天理教内でも使われることの少ない泥海古記という名称にあえてこだわる理由も明確にされるだろう。 本稿の第一のねらいは,泥海古記がそこから生成し、あるいはそのなかで展開してきた 「民俗的想像力」を,それによって可能にされた融通無碍な語りの創造性とともに掬い出すことにある。

 ここでいう「民俗」とは、具体的な水準では、幕末の大和地方の農村を中心に伝承されていた風俗や習慣を指す。しかし、「想像力」の次元で問われる「民俗」は、ちょうど安丸良夫の民衆宗教論を批判的に読みなおしつつ永岡崇が捉えようとするところの,近代的・道徳的な「論理」を脅かす不定形な民衆の「活力」をも含意している。

 民衆宗教・新宗教と民俗信仰との構造的連関とは,1980年代の民衆宗教研究によって主題化された論点であるが、今日でも古びていないばかりか、いっそう重要な課題になっている ように思われる。とりわけ天理教研究においては,島薗進の先駆的な問題提起にもかかわらず、おそらくは近代主義的な教学による教理の体系化の堅牢さゆえに、教祖中山みきの教えと民俗信仰を積極的に結びつけようという機運が高まることはなかった。しかし、本稿で明らかにするように、泥海古記にはまさしく不定形な「活力」としての民俗的想像力が漲っている。この想像力の掬い出しの試みは、「様々な宗教が出会い、再構成される歴史的な〈場〉」として民衆宗教を捉えなおそうとする、日本宗教史研究の新たな転回とも呼応している。他方、教学においては、この試みは天理教と他宗教との関係性を問いなおすことを促すだろう。このような見通しのもと、以下ではまず泥海古記の解釈史を概観する。
1)泥海古記の成立
 天理教教祖中山みきは,1881(明治14)年頃から,自らを慕い来る人びとのなかでもとくに信仰熱心な者たちに「こふきを作れ」と促すようになった。とくに,1882(明治15)年に 「おふでさき」の執筆を終えてから,1887(明治20)年に「現身を隠す」まで,教祖は折にふれて繰り返し一群の話を説き出した。その大半は、神による人間世界創造の経緯をものがたる 「元初まりの話」である。教祖によって口述された「こふき話」を筆録したものが「こふき本」と呼ばれる。明治14年から明治20年にかけて作成された,およそ40の写本が残存する。重要なのは,教祖のものがたりをそばの者が筆記するというかたちでテクストが生成した,という事実である。

 次に引用するのは、教祖の高弟の一人、高井猶吉の述懐である。
 〔明治〕十四五年頃だつたと思ふ。教祖様は、〔山澤〕良介さんと〔仲田〕佐右衞門さんと自分と三人に、こふき話を書いて出せといはれた。良介さんは教祖様のお話の如く和歌態にして出された。仲田さんは話態に出された。が何れも教祖様の思召には添はなかつた。その差出した書き物を下げて頂いたか否かは覚えてない。又教祖様の親しく筆とつてお書きになつたどろうみこふきはあらへん、第六号〔明治7年執筆の『おふでさき』〕や其他に ちぎれちぎれ断片的に出てあるやろ。教祖様は、どろうみこふきのお話を、ずっとつゞけてされたのやな い。時々仰言つたのを取次の者がまとめたのや。
 高井の証言によれば,教祖は自ら筆を執ることなく,人びとが筆記したどのテクストに対してもついに「これでよし」とは言わなかった。その理由は判然としない。いずれにせよこのこ とは,残されたテクストの扱いを容易ならぬものにした。とくに,まずは原本を確定すべきとする実証主義的・文献学的なアプローチに対しては,上記の高井の証言は,残された諸写本の原理的な限界を突きつけるのである。

 泥海古記の名称がいつ,誰によって用いられはじめたのかも定かではない。しかし,高井もこの名称を用いているように,「こふき本」に記された教説全体が「どろうみこふき」として,すなわち泥海古記として。明治20年代から信者たちのあいだに広まっていった。明治22,23年に別席制度が生まれ、取次による9回の教話を聞いた者が「さづけ」(人びとの救済のために授けられる力)を与えられることなったが、この教話の内容は「こふき話」と「ひながた」(信仰の手本となる教祖の生涯)に基づいていた。「こふき話」の語り出しの多くが 「この世の元初まりは泥海であった」とあることから泥海古記と通称されるようになっていったと推察される。初期(明治20年代)の信仰者たちにとって,「泥海」という言葉が持っていた特異な響きを想像するために,それが一種の終末観と結びつくことがあったという事実を知っておくことは有益だろう。
 岐美大教会史によれば,1891(明治24)年,おそらく9月と推定されるが,岐阜県安八郡下宿村(現在の大垣市墨俣町)の在住で,のちに岐美支教会(現大教会)の初代会長となる石原政治が、駒野村の水谷盈進から次のような話を聞いたという。
 「石原さん、近頃大和の方に天理教という宗教ができて、その言うことには、今にこの世は泥海となり、世の立て替えが行なわれるそうなから、その時たすかるように、一つ天理教に入って信仰したらどうですか」。

 「世の立て替え」を字義通りに解釈し,「この世は泥海になる」という破局的な終末観に結びつけるとは、岐阜地方のみならず、当時の信者間に流布していた教説であったらしい。

 石原がそのような話を耳にした同じ年の10月28日、濃尾地震が発生。死者7千人以上、被害家屋14万戸以上という大災害となった。一種の予言的中が布教を後押しし、「岐美の道」が伸 びるきっかけとなったわけだ。しかし、ここで重要なのは、「泥海」という言葉が当時の信仰者たちのあいだに終末と救済のイメージを喚起していたという史実である。

  本稿はこれ以上この問題には立ち入らない。しかし,この事例は、天理教研究にとどまらず、民衆宗教・新宗教と民俗信仰の連続性の探究という、民衆宗教論・新宗教論の古くて新しい課題にとっても示唆的である。幕末期の民衆宗教運動に噴出した「世直り」ないし「世直し」といった変革の意識、その根底にある終末への意識が、いかに民俗信仰の世界に根ざしたもので あったかを論じたのは宮田登である。近年この問題は、朴炳道によってさらに掘り下げられようとしている。天理教史に内在しながら泥海古記のものがたりを支えていた民俗的想像力への回路を探る本稿もまた、広くはこのような研究の潮流に掉さしている。
 2)明治・大正期から戦前まで

 「こふき本」と呼ばれる文献群は、信仰共同体内に流通するのみならず、まだ「天理教」と いう教団名が成立する以前から、中山みきの教えを端的に表明した教義書として、対社会的にも使用されてきた。しかし、世のはじまりは混沌とした泥海であり、人間は皆平等に「どじょう」から創造されたと説く泥海古記は、古事記と日本書紀を国家制定の正典として天皇中心の国家神道体制を確立していった明治政府との摩擦を生みだす要因ともなった。近代国家の法的規範に応じ、教団として公認を得ることを優先するなか、泥海古記を積極的に表に出すことは困難な状況が続くことになる。ようやく1908(明治41)年に果たされることになる一派独立のため、1903(明治36)年に編纂された天理教教典(いわゆる明治教典)は、泥海古記に関する教説を一掃するいっぽう、天皇崇拝と国家主義を前面に押し出し,記紀の神名を用いたのだった。

 他方、大正期から昭和初期にかけて、泥海古記に言及するさまざまな書籍が出版され、広くその存在を世間に知らしめた。たとえば,大平良平が1916(大正5)年に刊行した 『天理教の新創世説の解説並に批判』が挙げられる。雑誌『新宗教』に発表された論文を訂正増補して刊行されたこの書物は、1919(大正8)年に木下正太郎によって再刊行され、版を重ねた。大正末には、国語教育の先駆者として知られる関時発の『天理教泥海古記釈義』、法曹家であり衆院議員も務めた神崎東蔵と高橋蘭花の共著『天理教創世記(泥海古記)眞髄』も出ている。1928(昭和3)年には、泥海古記をテーマとした最初の教学的研究といわれる岩井尊人『泥海古記附註釋』が出版された。相次ぐ出版は、泥海古記への関心の高まりを示すものといえよう。ただし,これらの書籍は、いずれも天理教本部によってオーソライズされたものではなかった。

 『みちのとも』誌上での泥海古記の初出は1916(大正5)年12月号であるが、泥海古記が天理教本部から初めて公然と打ち出されたのは、1922(大正11)年3月28日から4 月2日にかけて本部で開催された教会長講習会における山澤為造の講演,「地場の真義」においてであったと考えられる。1928(昭和3)年10月には、「おふでさき」講習会が本部で開催され、ここでも泥海古記に関する詳細な説明がなされた。注目すべきは、後に中山正善が退けた泥海古記、「どろうみこふき」という名称が積極的に用いられていることである。名称のみならず、教理としての「どろうみこふき」に与えられている重要性は、その後の教理の重心の変遷を考えさせずにはおかない。

 全17号の「おふでさき」のうち、「どろうみこふき」に関わる教祖の歌が最もよく集まっているのは明治7年に執筆された第6号であるが、この号を扱う講習の冒頭には次のようにある。
 本号のみならず他の号におきましても、此『どろうみこふき』に関する御教理を充分はつきりと悟得してゐなければ、其御歌の眞の御精神を諒解させて頂くことの出来ない箇所があつちこつちにあることは、皆様の既に御気付のことだらうと存じます。例へば今までの号にも時々出てまゐりました『ようきづとめ』或は『かぐらづとめ』の御歌に致しましても、此 『どろうみこふき』の御話がわからなければ、充分に其真意を悟ることは困難であります。 又『ぢばの理』にしましても『御教祖の魂の因縁の理』にしましても、どうしても此『どろ うみこふき』を中心としなければ其眞の意義を悟らせて頂くことは出来ないのであります。

 この頃になると、泥海古記は一般信徒のあいだにも天理教の最重要教義として伝わっていたようだ。1929(昭和4)年に刊行された天理教綱要では、泥海古記は4種類の 「天理教基本教義書」の筆頭に置かれた。1935(昭和10)年の秋季大祭の神殿講話で、中山正善は「此世はじまりのお話」との題目でその大綱をまとめている。しかし、戦争の時代に突入し、当局の思想統制が激しさを増すなか、泥海古記を公に語ることはいよいよ難しくなっていった。1938(昭和13)年12月26日に発表された「諭達第8号」では、第一綱領に「教義儀式及行事は総て教典に依據し、泥海古記に関聯ある一切の教説は之を行わず」と掲げられた。以後敗戦に至るまで、いわゆる「革新」の時代が続くなか、泥海古記を表立って語ることはできなくなる。
 3)「元の理」の裁定

 1949(昭和24)年、中山正善の主導のもと、天理教教典(いわゆる復元教典)が新しく公刊された。従来、泥海古記や「元初まりの話」といった名称で呼ばれてきた文書群は、その骨子を簡潔明瞭化するかたちで、第3章の「元の理」というひとつのテクストにまとめなおされた。本部によってオーソライズされたこのテクストは、天理教独自の人間世界創造の説話の標準形として、以後現在に至るまでの研究の枠組みを規定することになった。

 「泥海古記」から「元の理」への変貌は、たんなる名称の変化以上のことを意味している。詳しい考察は次章に譲るが、解釈史の分水嶺となるこの出来事は、原典に対する中山正善の徹底的な実証主義的態度なしには起こりえなかったということを、まずは強調しておきたい。天理教教典第3章の「元の理」は、天理教立教の由来や「つとめ(救済儀礼)」の意味合いを教える説話として提示されている。本文の前に置かれている次の一節は、そのような解釈の方向性を定めるものである。
 「親神は,陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた。奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた」。

 西山輝夫がいうように、「おつとめが主で、元の理はその背景」というわけだ。この「元の理」は、1955(昭和30)年には別席台本に加えられ、1956(昭和31)年刊行の稿本天理教教祖伝にも収録されて、教団内に定着していった。二代真柱として「元の理」を裁定した中山正善は、同時にこのテクストの解釈をも決定的に規定した。

 なかでも重要なのは、1946年に出版された『ひとことはなし(その三)』および1957年に出版された『こふきの研究』である。これも詳しくは次章で検討するが、まず注目すべきは、「こふき」という教祖の言葉を、従来のように「古記」とするのではなく、「口記」と解するべきと主張した点である。

 正善はまた、なにより書誌学的・文献学的な分析を重視した。彼は、「こふき」のテクストに教祖の真筆は存在せず、周囲の信者たちの写本しか存在しないこと,教祖の言葉を伝えるはずの写本も断片的で不確実なものが多く、年代が下るにしたがって粉飾が増すことを繰り返し指摘している。「おふでさき」、「みかぐらうた」、「おさしづ」という今日の天理教三原典の序列は、教祖直筆の書物である「おふでさき」を「原典中の原典ともいうべき根本の一番中心となる、元となる書き物」として最重要視する二代真柱の教学によって確立された。

 戦前には第一の教義書の地位を与えられていた泥海古記は、 「口記」あるいは「元の理」と姿を変えつつ、文字通り「背景」に退いたといえる。今日では、泥海古記という言葉が日常的な信仰の場で聞かれることはむしろ珍しくなっている。正善の文献学的実証主義は、戦後天理教学の基本として受け継がれた。たとえば、正善と同じく東京帝国大学宗教学研究室に学び,のちに天理大学宗教学科初代主任を務めた諸井慶徳は、 「古記の正当な取扱いの手順」を次のようにまとめている。
 「まず第一に写本の考証すなわち 諸写本の比較校合の上,標準たるべきものを作成ないし推定すること。第二にそのテキストに よる意味解釈,それには(イ)字義の当時におけるこの説話を聞く対者に即した意味検討 (ロ)更にその奥に流れている神の理念の探求。かく,おおよそ,この三段階を経なければならない」。

 諸井のいう「写本の考証」とは、ほかならぬ正善のそれを範としているわけだが、諸井自身が文献学的考証をそれ以上進めたわけではない。彼にとっては天理教教典第3章 「元の理」が最終決定版だったといえる。 「元の理」解釈本として現在まで信者たちのあいだで最も読まれたのは、おそらく深谷忠政の『教理研究 元の理』である。諸井とともに戦後の教学を牽引した深谷は、京都帝国大学でドイツ哲学を修めた俊英だった。教典第3章「元の理」についての逐語的な釈義には、ヘーゲルの弁証法を援用した哲学的思考も垣間見える。しかし、深谷の解釈の特徴は、「元の理」に語られる人間の創造と成人(成長)を象徴的に捉え、現在に生きる信仰者の求道と成長に引き寄せて実践的な悟りの契機としたところに認められる。自らの布教体験も随所に織り込みつつ、深谷は「元の理」を「死んでいる話ではなく、生きている話」として読もうとした。諸井同様、深谷にとっても「元の理」のオーソリティは疑いえない前提だった。

 ただし、深谷の解釈は、厳密には「元の理」にのみ基づいているわけではない。「元の理全文及解義」の最後、「十柱の神の守護の理」を詳説するにあたり、深谷は「こふき本」(十六年本)を参照して、それぞれの神の形象や、いわゆる「裏守護」にも言及している。裏守護とは、狭義には、十柱の神のはたらきを従来の神仏に見立てて語ること(神仏見立て)であるが、より広義には、 「人間の日常生活や年中行事、禁忌、方位、暦法などの各方面」に十柱の神のはたらきを結びつけることをいう。

 たとえば,「くにとこたちのみこと」については次のように語られる。
 天にては月様なり。男神にして、御姿は、頭一つ尾一筋の大竜なり。この世界、国床を見定め給う。国を定め給う故、くにみさだめのみこととも申す。(空間の守護) 人間を宿し込みの時の「つく息」の理をもって、月様と申す。月様が先に立ち給う故、日月と言わず、月日という、また三十日を一月という。 人間身の内にては、眼うるおいの守護の神なり。即ち、眼に湿いはこの神よりの借物、又 水はこの神の守護にて、この世の一の神なり。仏法にては、釈迦如来と現われ、法を授け給 う。又、先に出て法を説く理をもってせ ん じ  ゆ  (千手)という。

 りのはなし

 裏守護という言葉の淵源は不明であるが、諸井政一『正文遺韻』所収の「理能波奈志」 に「うらのみちにつきてのはなし」という項目があり、「こふき本」にもみられる融通無碍な語り(本稿第3章で考察する)が展開している。天理教事典には,「親神が表に顕れる以前の神仏の守護を、裏の道と称したとも考えられる」とある。裏守護にせよ裏の道にせよ、民俗信仰と絡んでいることは明白だが、天理教教典の「元の理」には一切言及がない。また,次章で考察するように、裏守護の問題は中山正善の教学ではほとんど等閑視、あるいは排除されている。『正文遺韻』からも大きな影響を受けた深谷の「元の理」の実践的解釈は、オーソライズされた「元の理」の枠を逸脱しているといえるかもしれない。この点につ いては本稿第3章で改めて検討したい。
 4)解釈の展開(1960年代後半以降)
  「元の理」の裁定は。泥海古記という名称を過去のものとするとともに、オーソライズされた単一のテクストを画定して、教学に明確な「場」を与えた。「元の理」はまた、西山輝夫が指摘したように,「つとめ」の縁起譚を語るテクストとして位置づけられ、結果として 「つとめ」の背景に退くことになった。西山は、しかし、「元の理の意義は、はたしてそれだけのものであろうか。もっと独立した体系を含むものではなかろうか」と問う余地があると述べ、次のような異議申し立てがありうると書いている。
 「宗教的解釈そのものに対しては異論はない。しかしそれのみで完成、完結したものとするならば、元の理の世界的展開というものに限界ができてくる。元の理の精神が、天理教信者のワクを越えて世界に受容されてゆくことは困難ではなかろうか」。

 「宗教的解釈」とは別様の解釈の可能性が想定され、要請されている。教学者としての慎重さゆえであろうか、西山はけっしてそう書いてはいないが、これは彼自身に発する問いかけであったとみるべきだろう。もっとも、西山が「一つの宿題」として提起したこの問題に応答するような研究は、彼の問いかけに先んじて、1960年代後半以降、すでにいくつか現れていた。重要な研究を二つ挙げておく。 第一には、民俗学の知見を大胆に導入して日本古代文学研究史に画期をなした国文学者、益田勝実の研究である。1968年に出版された『火山列島の思想』において益田は、古事記に語られた創成神話の最古層に躍動する想像力を掘り起こした。それは、具体的で生き生きとした大地創造のプロセスを語ることばによって喚起される、民俗的想像力である。益田の議論によれば、古事記の神統譜にあるウマシアシカビヒコジ、ウヒジニ、イクグイ、オモダル、アヤカシコネといった神格は、それぞれに自然創造の具体的な営みを表すことば、あるいは生成する大地の様子をイメージ豊かに歌い上げることばである。これら「原始の詩情」を湛えた神々は、しかし、大和朝廷の手で祭られた痕跡がほとんどなく、後代の記紀の伝承のなかにも二度と現れない。原始的想像力のエネルギーは、古代権力による神話の体系化の過程で道具化され、忘却されてしまった。だが、と益田はいう。この創世神話は、「天理教の創始者中山ミキの体内において」、形を変えつつふたたび蘇ってきたのではないか、と。

 「近代宗教学的に教理を再編成しつつある現代天理教」による「元の理」解釈に満足せず、「教祖中山ミキの『こふき』の内容そのものがじかに語りかけてくるものの方から、強い衝撃を受ける」という益田の洞察は、むしろ泥海古記の文学性に目を向けさせる。益田はそこに、ただ「語るために語る」ことで新しいことばの地平を拓き、非日常的な想像力を喚起する「原始の詩情」の痕跡を認めている。益田の議論は、管見のかぎり、これまでの天理 教学ではまったく参照されていない――この点、次に挙げる蔵内の研究とは異なる――ようだが、本稿はそれを、近代主義的・実証主義的天理教学の枠組みを突破する新たな可能性を示すものとして継承したいと考えている。

 第二に、社会学者の蔵内数太による研究が挙げられる。彼の泥海古記解釈は天理教内でもかなり積極的に取り上げられた。1979年には,『泥海古記――中山みきの人間学』が大阪教区教学部によって刊行されている。蔵内は、東西の哲学、宗教文化についての豊富な学識 を駆使して、泥海古記に隠れている体系的な思想を大胆に読みだしてみせる。注目すべき は、「元初まりの話」は「一つの孤立した思想として見られるべきではなく、日本の長い精神史の中で位置づけられなければならない」という主張である。神道、仏教、儒教、朱子学、陽明学、易、石門心学など、天理教立教以前の諸宗教伝統・民俗信仰が、中山みきの教えのなかに流れ込んでいるというのである。

 泥海古記を、さまざまな東洋思想を統合した「天理教哲学」として解釈しようとする蔵内の関心をとりわけ惹きつけたのは、「半牧の御筆先」と呼ばれる小さなテクストである。和讃体で歌われるこのテクストについては、石崎正雄『こうきと裏守護』といった例外を除き、これまでの天理教学でもほとんど蓄積がない(その原因については次章で考察する)。しかし、 「こふき」十八年本である「小松本」(『神之古記』)の末尾にもあるように、「おふでさ とどき」を締めくくる「十七号の止メ」として、少なくとも昭和初期まで、信者たちのあいだに膾炙し、本部でも認められていた。「小松本」にある歌と、蔵内による釈義を併記しておく。
 このよふは、もんぢゆ、ふげんを、はじめとし、みよな、りゆじんも、てんじんも、なんがく、てんだい、よふめへも、これ、ぢよどと、ごしたもう、いわんや、われらおろかなる、いかにねがわにありぬべし、さんぜんせかいを、おほいでぞ、たしかに、しよぢよ、みさだめて、こゝろぢがいの、ないように
 この世は文殊、普賢を始めとし、妙な竜神も天神も、南学、天台、陽明も、これ浄土と期マ マし給ふ。況や吾等愚かなる、如何に願はに(?)ありぬべし。三千世界を仰いでぞ、確かに 生所見定めて、心違ひのないように。

  「半牧のお筆先」は、それぞれ若干の文言の違いを示す複数のテクストによって伝えられているが、釈義にもかなりの幅がある。実のところ蔵内の釈義もひとつの釈義に過ぎないのだが、今はこの問題には踏み込まない。ここで確認しておきたいのは、蔵内にしろ、益田にしろ、泥海古記が根ざしている民俗信仰の伝統・伝承を探ろうとしているということだ。こうした解釈の方向性は、「元の理」を裁定した中山正善の教学の方向性とは、好対照をなしている。

 さて、「元の理」に独自の体系を探る研究は、80年代から90年代にかけて目覚ましく進展した。なかでも、1985年7月に創刊された月刊誌『G-TEN』は、「元の理」研究のプラットフォームとして重要な役割を果たした。1991年3月に休刊するまで全60号が刊行された。天理教事典によれば、執筆者総数327名、うち海外39名とある。『G-TEN』と並行して「講座 「元の理」の世界」シリーズが企画され、1987年から1997年まで7巻が刊行された。象徴や神話、コスモロジー、人間と環境、科学と宗教などが頻出テーマである点、文理融合の学際的アプローチが試みられている点など、いわゆる「ニュー・アカデミズム」の思潮とも呼応していたとみえる。

 執筆者には、加地伸行,大林太良,河合隼雄,中村雄二郎,湯浅泰雄,岩田慶治,吉野裕子,山折哲雄,荒俣宏,鎌田東二,三木成夫など、錚々たる論客が名を連ねている。森井敏晴,塩沢千秋,松本滋,石崎正雄といった教学者たちも健筆をふるった。彼らの「元の理」論は、1989年に創刊された「教養ブックス」シリーズ(1999年までに16巻が出ている)にも収められている。 こうした出版活動を軸とする「元の理」研究の活況は、天理やまと文化会議の事務局長として、頻繁に開催された国際シンポジウムも含め諸々の企画・編集を主導した井上昭夫の力によるところが大きい。井上自らも精力的に「元の理」研究を進めた。その解釈は一貫して文明論的な水準で展開されており、現代世界の危機を超克する「グローバルな思想」を「元の理」から取り出そうと試みるものである。80年代以降の解釈は、概して、益田や蔵内が端緒を開いたような歴史的伝承あるいは民俗信仰の地平に内在する方向性よりも、古今東西の宗教文化との比較をも視野に入れた象徴論的解釈が優勢となる。
 また、天理教外の知識人によるバラエティに富む解釈が花開いた反面、 「つとめ」や「たすけ」という信仰の論理を前提とする「宗教的解釈」との乖離が懸念される こともあったようだ。「元の理」をめぐる1954年の座談会での諸井慶徳の発言が、教団内で繰り返されることもあったと想像される。
 「むしろ起源的なこととして,しかも単なるそれを象徴とか,シンボリズムの物語として,ないしは単なる神話ないしミソロジーとして対するというのが今のインテリ信者の態度だろうな」。

 しかし、見方を変えれば、このような懸念を 生じさせること自体、「元の理」ないし「泥海古記」というテクストの特徴ともいえる。さまざまな読み方を許容するこのテクストは、宗教的学知と世俗的学知の線引きを問いなおすものであるかもしれない。前世紀末の活況に比べれば、今世紀に入ってからの泥海古記研究は下火になっている感が否めない。むろん、みるべき研究がないではない。たとえば、「元初まりの話」に登場する水棲生物の特定を目指した佐藤孝則の研究は、農民の生活世界に根ざした泥海古記への想像力を喚起するにも重要な研究と思われる。また、想像力の喚起という点では、絵画、彫刻、絵本、漫画などの視覚的表象を考察することで「元の理」研究に新たな可能性を開こうと 試みた井上昭洋の論文が重要である。さまざまな表象を分析しつつ井上が強調するのは、そうした表象を生みだす想像力の創造性であり、想像力ないし創造力の源泉としての「元初まりの話」である。「再想像の可能性のない神話は死にかけた神話である」という井上の解釈の態度は、「死んでいる話ではなく、生きている話」として「元初まりの話」を読もうとした深谷忠政のそれに通じる。なかでも、教典「元の理」に対する井上の次の批判は、おそらく,これまでの教学研究において初めて正面切ってなされたものであり、注目に値する。

 天理教教典で編述されているテクストは天理教の創造説話の要旨であって、編集の過程で「こふき本」の「元初まりの話」に関する記述内容の取捨選択がなされている。例えば、 「頭一つ尾一條の大龍」と「頭十二、三條の尾に剣のある大蛇」といった創造神(「くにと こたちのみこと」と「をもたりのみこと」)の泥海の中での姿、人間の顔をして鱗のない 「うを(魚)」と人間のような肌をした白い「み(巳)」といった「雛型」となる生き物の描写、創造神が人間を産み下ろした場所、神道見立て・仏教見立てによる解説など、必ずしも軽んずることのできない内容が削り落とされている。誤解を恐れずに言えば、オリジナルの 創造説話の持つ19世紀後半の日本の農民文化の想像力を想起させるディテールがサニタイズ (無菌化)されたものが天理教教典の「元の理(元初まりの話)」なのである。

 この批判は、想像力をこそ「元初まりの話」の生命とする信念に支えられている。「元初まりの話」は,読み手によって「常に解釈され想像され続けること」を求めてやまないが、裏を返せば、それは読み手の想像力が枯渇した暁には「死んだ神話」となってしまうということだ。本稿も井上と同じ問題意識を共有している。現代に泥海古記を新しく読みなおすことは、「19世紀後半の日本の農民文化の想像力」あるいはそれ以前にも遡る民俗的想像力を何がしか想起することでもあるはずだ。それは泥海古記を生きたものがたりとして読むことに通じる。まずは「元の理」の裁定という「サニタイズ」が、なぜ、どのように行われたかを省みることからはじめなければならない。次章では、泥海古記解釈史上の分水嶺となった 中山正善の研究を再検討する。
 2.中山正善と「こふき」
 昭和期に加速した天理教の近代化に二代真柱・中山正善が果たした役割の決定的重要性は繰 り返すまでもない。とくに、1949年の天理教教典の刊行、1956年の稿本天理教教祖伝の刊行は、戦後の天理教学発展の礎となるとともに、原典の解釈に強固な枠組みを与えることになった。東京帝国大学で姉崎正治に師事して宗教学を修めた正善の教学が、いかに近代的学知の影響下にあったかということについては、島薗進,幡鎌一弘,永岡崇らによってすでに重要な批判的研究が積み重ねられてきている。文献学的実証主義を第一とする正善の教学は、必ずしも文字として書き留められることなく人びとのあいだに語り継がれ、記憶されてきたものがたりを忌避する一面をもっていた。彼の教学を貫いていたのは、「月日のやしろ」としての教祖像の構築、すなわち中山みきの神格化というベクトルだった。 このベクトルは、彼の泥海古記理解にも変わらず見いだせるだろう。すでに述べたように、天理教教典第3章「元の理」の裁定は、少なくとも天理教教団内における泥海古記解釈史上の――これ以後はそもそも泥海古記という名称そのものが使われなくなってゆくわけだが――転機となった。このことを前提に、本章で明らかにしたいのは、泥海古記に対する正善の解釈が、どのような動機に裏打ちされていたかである。あらかじめ言っておけば、「泥海古記」から「元の理」へのサニタイズは、絶対的で純粋な真理としての「だめの教え(究極の教え)」を説いた天啓者であるところの教祖像の構築と表裏一体だった。さらにいえばこの問題は、天理教学と民俗信仰論の隔たりという別の問題に通じている。正善の解釈を批判することは、塞がれてしまった民俗的想像力への回路をふたたび開こうとすることにほかならない。
 1)「古記」から「口記」へ

 先に述べたように、中山正善『こふきの研究』は、「こふき本」の内容を解釈するよりも、「こふき」という言葉の「正しい音義」を探ることを主眼としている。彼は、「こふき」は 「古記」ではなく「口記」であると主張した。「こふき」とは教祖が口述した話を手記した書物一般を指し、「おさしづ」もそこに含まれる。従来はもっぱら創世説話たる泥海古記として解釈されてきた「こふき」だが、それは古事記などの字義に引きずられてしまった結果であり、本来の用法を極端に限定した誤用であるというのである。ところで、そもそもなぜ正善は「古記」という言葉を問題視し、「口記」という言葉を採用するに至ったのか。『こふきの研究』の「序」には次のようにある。
 従来のように、“こふき”を“古記”と当て、“どろうみ古記”即ち“此世元始まりのお咄”と解釈しますと、所謂“こふき”諸写本中に綴り込まれている節々は、漸次、雑話が混入したと考えなくてはならなくなり、どうも“古記”と限定は出来ないと、気付いたのであります。つまり,「こふき」がもっぱら「泥海古記」を指すものとすると,「こふき本」に含まれているそれ以外の話が「雑話」になってしまう。それを避けるためには,「こふき」を「口記」 と解釈すればよい。そうすれば「“こふき”は教義伝達の口授手記という一形式ということになり,“雑話混入”という考えから,“種々なる御話”という事になり,所謂“此世始まりのお咄”以外の説話が“こふき”話の中に含まれていても,その解釈が出来る」。

 というわけで ある。しかし、この点を確認するだけでは十分でない。正善自身が述べる論理を辿るだけではなく、その論理が依拠している思考の枠組みそのものを吟味するために、彼の研究の動機をいま少し丹念に洗ってみる必要がある。『こふきの研究』の「緒言」の冒頭部分にはこう語られている。
 私がもの心ついた頃には、既に、 “どろうみこふきは荒唐無稽である” とて、その筋より干渉を受けた話が語り伝えられていましたが、話ばかりではなく、その後も同じ問題で、種々な事情を起し勝ちでもありました。

 東京帝大在学中に正善が身近に経験した「事情」の具体例として、1928(昭和3)年に出版された岩井尊人の『泥海古記附註釈』が挙げられている。正善は、天理出身で東京帝大の先輩でもある岩井とは親しい間柄だった。二人には教学の未来に対する思いにも共通するところがあったようだ。「泥海古記は支離滅裂だから問題を起こすのだ。今のうちに整文しておかねばいつまでもその禍根が絶たれない」という岩井の言葉が共感的に引かれている。ところが、その岩井も度々取り調べを受け、『泥海古記附註釈』は発禁処分を受けてしまった。この事件は、若き天理教管長の脳裡に深く刻み込まれたようである。続けて語られる当時の回想は、その後の彼の解釈の方向性を考える上で、きわめて重要である。


 その頃から、私は、“教祖のお話に矛盾のある筈はない、それらは何らかの誤解から来るのだ。例えば、伝承中の誤字、遺漏とか、解釈上の誤解とかあるのではなかろうか、それをただしたい”と考えまして、先ず“原本”なるものをつきとめようと努力しました。留意すべきは、「どろうみこふきは荒唐無稽である」とか「支離滅裂である」とかいう当時の評価そのものは、否定されていないということだ。それはむしろ正善自身の評価でもあっただろう。原本も定かならぬまま、「折釘流に誌された、読み難い写本」で信徒たちに膾炙している泥海古記を、彼は苦々しい思いで見つめていたのだろう。それらは、教祖が著したであろう「原本」、つまり完全で純粋な本来の教話からの一種の堕落の産物であり、誤った教えをまき散らしているばかりか、世間からのいわれなき悪評を買ってしまう元凶なのだ。

 かくして彼は、「原本」を求めて、中山家はじめ諸家秘蔵の「こふき本」の収集と照合に着手する。40ほどの写本を検討した結果、明治14(1881)年の写本が最も古いということまでは判明した。しかしながら、原本を求めての彼の丹念な文献考証は、まもなく乗り越えがたい限界に直面することになる。元来、その最大の問題は、教祖は“こふき”を作れと御命じになった山澤〔良助〕氏が筆を執ってお目にかけたが、それでよい、とは御受納にはならなかった、と申し伝えられています。その点から考えますと、たとえ、良助筆十四年本が探ね得た最古の“こふき”話であったにしろ、それが“こふき”話の基準であられるが、教祖のもとめられる“こふき” であるとは、申し得ないのであります。又、“それでよい”と仰せにならなかった点が、その何れにあったのかも不明でありますので、お話全体が間違っているのか、部分的に思召に叶わなかった点があるのか、それも不明なのであります。

 ここで研究上の「最大の問題」といわれている教祖の態度は、本稿第1章1節で引用した高井猶吉の述懐に基づいている。教祖は自ら筆を執ることなく、そばの者に口述したものを手記 させることで「どろうみこふき」を紡ぎだした。しかも、そうやって手記させたテクストのいずれについても、とうとうよしとはしなかった。残された写本から可能なかぎり原本に接近しようとした正善も、原理的な不可能性を認めるほかなかったのである。

 教祖が望んだ「こふき」が未完成のテクストであるということは事実である。しかし、この未完成性をどう評価しうるかという問題については、複数の可能性がありうる。正善は、教祖が「それでよい」としなかった事実を、もっぱら否定的に解釈している。「お話全体が間違っているのか、部分的に思召に叶わなかった点があるのか」。しかし、たとえば次のような解釈も可能なはずなのだ。「元初まりの話」は中山みきがみずから書いたものではなく、身近にいた人の聞き書きに由来するものです。語り手が聞く相手に応じて語った内容です。教祖はその書かれたものを見て、「これでよいとは言われなかった」と言いますが、しかしそれで悪いと言ったのでもなかったようです。このことから考えますと、元初まりの話は、相手によって、時代によって、表現が変わって来る本質のものであり、或は内容が永久に展開して来るものであるかも知れません。


 蔵内数太によるこの解釈によれば、教祖の語りの未完成性は、何かが欠如しているというふうに否定的に受け取られるべきものではない。むしろそれは、将来の展開可能性として、もっといえば真理の開放性として、肯定的に語られうる事態なのだ。蔵内の解釈と照らし合わせてみると、正善の解釈の基盤となっている暗黙の前提がはっきり浮かび上がってくるように思われる。すなわち、教祖直筆の原本、つまり「月日のやしろ」たる絶対的天啓者によって著されたひとつのテクストをこそ「真のテクスト」とみなすという前提である。「こふき」を「口記」と解釈すべきという主張が、完全純粋なテクストとしての原本を希求しつつ、そのような原本確定の原理的不可能性が認識されたところから立ち上がってくるという点、ここに注目したい。

 正善にとって原本確定の不可能性とは、きわめて厄介な事態であったにちがいない。彼にとってそれは、「伝承中の誤字、遺漏とか、解釈上の誤解とか」をついに解消することができないということを意味したからである。だからといって放置することもできない。原本を確定するのとは別の合理的な説明が要請されたはずだ。つまるところ、「こふき」を「口記」と音写することが、この困難を打開する合理的な説明を提供したのではなかったか。注目すべきは、正善が、「口記」を「書記」と区別しつつ連関させて捉えているという事実である。結論を先にいえば、「こふき=口記」説は、教祖自身の真筆であるという意味で紛れもない「書記」であるところの「おふでさき」と、教祖の教えの口述筆記であるがゆえにさまざまな「誤り」を不可避に含む「こふき」との違いを鮮明にしつつ、しかし「こふき」を――「おふでさき」に従たるものとして――「おふでさき」と連続した地平の上で捉えることを可能にしたのである。

 『こふきの研究』の結論部を引用する。
 “古記”は“こふき”の写音であり、文字には大した意味を考えぬ方が本来の意味を生かすものであり、先にのべた“こふき”の内容なり、対象を“取次の仕込み”において考えるとき、寧ろ、“こふき”は口で述べられたお話を“記”された書き物を意味し、おふでさきに対しての“こふき”、即ち、教祖の親しく筆を執られた書物に対して、教祖が口で述べられ、取次を仕込む上から、筆執り学人として、一は取次に筆を執らしめ、一は取次の話の台本とされたものと考えられるのであります。即ち、親しく誌されたおふでさきに対して、口授して書き取らしめられた“記”を“こふき”と呼ばれたものであり、強いて字を当てれば、“口記”の方が寧ろ、本来の意味を写す文字ではないかと考えるのであります。

  「こふき」/「おふでさき」のコントラストが、「口 記」/「書 記」のそれとして際立たせられるのと同時に、「口記」もまた二次的な「書記」として、「おふでさき」の延長上にあるスクリプチャー 「記」として捉えられている。

 『こふきの研究』の「序」において正善は、発見されたこふき本の最も古い写本が明治14年のものであり、この明治14年がちょうど「おふでさき」擱筆の時期にあたることから、「“こふき”は“おふでさき”に継ぐものではないか、と気付いた」と述べていた。この「継ぐ」 は、時間的な順序(継起)を意味するばかりでなく、「原本」という真理の頂からの遠近(序 列)を意味してもいる。次の引用は、1956年,稿本天理教教祖伝刊行を目前に行われた第16回教義講習会第1次講習会における正善の発言である。
 どうも私は、いわゆるこふきと言われているものの現れ方、その内容、しかも現在残っておるものは、教祖からはそれでよいのだ、というお許しがなかったという話などから思案いたしまして、自ら筆をお執りいただいたことに対して、今度は口で言うことを書き取れ、それをこふきとおっしゃったのではないだろうか、かような気がしております。人間だけの思案で、はなはだ割り切れないのではありますが、もうすでにこの時、八十四歳におなりであります。人間だけの能力、人間だけのわれわれの思案から申しましても、それだけから申しますならば、六十や五十や七十の時と、筆の動き方も違ってくるのは当然のような気がするのであります。かような人間の思案でものを考えるのは、当てはまりはいたしませんが、そんな気持ちでわれわれはうかがわせていただいた時に、これもひとつ、うなずけるのであります。

 慎重な言い回しで包まれてはいるが、言わんとするところは明らかだろう。84歳、つまり明治14年の教祖が始めたと思しき「こふき」の口述は、やむをえないことだったというのである。本来であれば自ら筆を執るべきところ、老いてそれが叶わなくなったために、教祖はそばの者に代わりに書かせた。それが「こふき」の意味合いだというのだ。望ましくない事態であったとまではいわれなくとも、教祖直筆の「おふでさき」と「こふき」のあいだの優劣関係は自明視されている。と同時に、「こふき」は「口記」と解釈されることで,いわば「記」のヒエラ ルキーのなかに組み込まれてもいるのだ。「こふき」が不可避に孕んでしまう「荒唐無稽さ」や「支離滅裂さ」も、「おふでさき」という真理の書からの距離によって計測することが可能になるのである。
 2)「半牧のお筆先」をめぐって

 すでに指摘されているように、原典研究においても教祖伝研究においても、「書かれたもの」を第一とする中山正善の教学にとって、史料としての「伝承」は基本的に警戒すべきものであり、往々にして排除すべきものだった。この姿勢は、「こふき本」諸写本を照合して 「原本」への接近を図ろうとする『こふきの研究』にも垣間見える。検討対象となる「こふき本」は、まず、最も年代が古い明治14年の3種,すなわち①和歌体 十四年本(山澤本)、②説話体十四年本(手元本)、③説話体十四年本(喜多本)である。次いで、④十六年本(桝井本)が紹介され、最後に⑤十八年本(小松本)が取り上げられる。第一に取り上げられる十四年本3種について、正善の関心はやはり「原本」に最も近いテクストを見極めることにあった。結局のところ明確な結論は下されないものの、仮説としては②の手元本、つまり中山家所蔵本(初代真柱中山眞之亮によるものと考えられている)が最古のものではないかという見通しが示される。②および③の説話体本は、①の和歌体本より後に発見されたものだが、それ以前には、「おふでさき」と同じスタイルで著わされた①が最古の 「こふき本」と考えられていた。 ①については「明治十四年三月」、③については「明治十四巳八月一日」の日付があるが、当年 ②については、本文中に教祖の齢「とふねん八十四才」とあることから明治14年ということはわかっても、具体的な日付は不明である。とすれば、①よりも②がより古いと正善が考える根拠は何だろうか。それは、①よりも②のほうが「お話の筋が簡明直截」という理由による。人間創造のお話、特に道具衆をお集めになるについても、泥海中のお姿も、方位も誌されてなく、従って“貰ひ受ける”とか、“承知をさせる”とか、“心味わう”とか、“約束する”等の細かい所が省かれてあり、人間創造の本筋だけが拡大されてあります。……他の本 に見られるような、天体見立、仏法見立は一切誌されてありません。 ①,②,③の比較対照を終えた後にも,同様の分析が繰り返されている。姿から申しますと、和歌体が、おふでさきに類しているところから、おふでさきに次いで のもののように考えていたのですが、内容から思案しますと、他の二つの説話体本よりも詳細多岐に亘っているのであります。内容から申しますと、“手元本・二”の説話体本が、最も簡明であり、しかも修飾された点がありません。よりシンプルなものが,より真理に近い。正善の解釈を貫いているのはこの信念である。裏を返せばそれは、時が経ち、伝承を重ねる度に、純粋な真理には何か余計なものが混入してしまうという信念でもある。④十六年本の検討に際しても、彼の目的は「十四年より十六年と年を追うに従って、分量や説き方が増していること」に読者の注意を促すことにある。ところでそれは「だんだん内容が粉飾されてゆく様子」を確認させることに同じなのだ。あえて言えば、『こふきの研究』の読者は、ページを手繰るごと、「こふき本」の年代が重なるにつれて、ますます酷くなる粉飾の過程を追体験させられるような読みを、それと知らず促されている。そのような読みの果てに現れるよう配置されているのが、⑤十八年本(小松本)であり、小松本の末尾に付された「半牧之御筆先之解」である。蔵内による釈義とともに本論第1章4節に引用したこの和讃は、「こふき本」に遍在する裏守護の語りを凝縮したようなテクストである。すでに述べたように、この和讃は「おふでさき十七号の止メ」として広く信者間に伝わっていた。小松による注記に「阿弥陀和讃ノ中程ニ有リタリ」とあるように、民俗信仰的な由来が推測される。管見のかぎり、なお確かな出所は明らかにされていないようだが、石崎正雄も「この和讃は当時流行していたものであり、それを教祖が解釈されたのではないか」と考えている。しかし、正善はこの歌を一顧だにしない。このお歌は、人々の口によく伝えられるもので、“十七号の止メ”と云われるものですが、事実はありません。口伝えでありまして、どうも本当に伝わったものではなく、何処かで伝え違いをされたものと考えられるのであります。
 ぬきがき

 彼はとくに,「教祖御帰幽後ノ古記ヲ貫書ス」という小松本の記載に注目する。「半牧のお筆先」は、教祖が現身を隠した明治20年以後に記録された伝承である。であれば、それが教祖自身による歌とは考えられないというわけだ。かかる話ぶりなり、話題なりは、教祖におたずねした人にお話になりそうな筋ではありますが、その口調や語尾には、万全が期しがたく、その上、教祖のお教の本筋から逸脱していると思われる点が多いのであります。だが,果たしてこの批判はどれだけの説得力をもっているだろうか。種々の「こふき本」に繰り返されている「裏守護」の語りを考えれば、教祖自身が「半牧のお筆先」と呼ばれるような和讃を歌ったとは十分考えられることではないか。それが明治20年以後の伝承であるという理由だけで排除してしまうのはいかにも乱暴ではないか。正善自身、形式的にも内容的にも、「教祖におたずねした人にお話になりそうな筋」があることを認めているではないか。ところが、つまるところ「教祖のお教の本筋から逸脱していると思われる」というただ一点によって、「半牧のお筆先」は一蹴されてしまうのである。この性急で主観的な判断がかえって考えさせるのは、「半牧のお筆先」と呼ばれるテクストが正善の教学にとって帯びていた他者性である。
 3)裏守護の語りと「だめの教え」
 『こふきの研究』で最も多くの紙幅が費やされている「こふき本」諸写本の検討が、「半牧のお筆先」批判で締めくくられていることそれ自体、検討されるべき事柄である。「この小松本は段々と年が下るにつれて、教祖のお話との陰にかくれて、種々な余雑部が混入し、却って御主旨を乱して了う憾(うらみ)のあるよい例」とあるように、「半牧のお筆先」は、「こふき」に後から混入した「余雑部」の極みとしてやり玉に挙げられているのである。問われるべきは、「人々の口によく伝えられるもの」、「教祖におたずねした人にお話になりそうな筋」と自身も認めていたこの和讃を、中山正善はなぜ切り捨てなければならなかったのか、である。

 この問いは、「だめの教え(最後の教え)」という言葉の理解に関わってくる。あるいは、天理教教典第3章にある言葉、「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点」という言葉の解釈に関わってくる。つまり、先行する諸宗教伝統と、教祖中山みきによって1838(天保9)年10月26日以後に啓示された教えの関係をどう考えるかということである。 「こふき本」に満ちており、「半牧のお筆先」に凝縮されているような裏守護の語りは、「九つ」のものと「最後の一点」がいかなる関係を結びうるかという問いを先鋭化させる。教団や教義の差異を越えて、さまざまな教えを屈託なく結びつけ、こだわりなく実践していくような裏守護の語りは、民俗信仰や伝承と不可分に結びついている。

 他方、近代以降「啓示宗教」として自己規定してきた天理教学は、天啓者としての教祖の絶対性・独自性を主張し、民俗信仰や伝承との断絶を強調してきた。泥海古記、「半牧のお筆先」、そして両者のうちに響く 裏守護の語りが、天理教学にとって厄介な他者となった理由――正善が「半牧のお筆先」を切り捨てなければなかった理由――の根は、このあたりに認められよう。そこにはまた、泥海古記を「元の理」にサニタイズし、民俗的想像力への想像力を鈍らせる契機も認めなければならないだろう。仮に、これからの天理教学の可能性がこの民俗的想像力の再評価にあるとすれば、啓示宗教と民俗信仰の分断も架橋されなければならない。それは「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点」の解釈を拡充することでもあるはずだ。

 問いの枢要点を明らかにするために、ひとつの興味深いやりとりを引いておこう。1986年、 『G-TEN』誌は特集「蔵内「元の理」学」を組んだ。その誌上、蔵内数太と教学者の飯田照明との対談が行なわれている。本稿第1章4節でみたように、蔵内の「泥海古記」論は,教祖中山みきの教えのなかに流れ込んでいるさまざまな宗教伝統・伝承に注意を促すものだった。このことを想起しつつ、両者の対話を読んでみたい。
蔵内 飯田先生は、教祖の歴史的文化的背景というものをいろいろ説明していただいております。伝統的な思想も見られるということは、けっして多くのものの折衷されているという意味ではなく、また古い素材を集めてきたということではなしに、新しい理念の開示のもとに過去の伝統的な思想が生きかえり、新しく意味づけられたと理解させていただいてよろしいわけですね。 それは、だめの教えというものがいろいろなものを含んできたという抱擁性がゆる されている気がするんです。
飯田 十のものなら九つまで教えてきたと言われていますから、当時のものや、さらに古くからの伝統的なものもおつかいになって、何とか早く人間に納得させたいとご腐心くださ れました。したがって伝統的な文化も、じつは教祖の教えの一部であり、だめの教えの前の教えであるということでしょうか。
蔵内 時間的に最後というのではなくて、いろいろなものがそこに入るということだと思います。

 在来の伝統との連続性を指摘する蔵内に対して、教学者である飯田は、あくまでも教祖の教えの新しさを確認しようとする。飯田にとっては、裏守護の語りなども、文字通り「最後」に来る教祖の教えを納得させるための手段にすぎない。それに対して蔵内は、「だめの教え」の抱擁性を指摘する。蔵内にとって重要なのは、ひとつところにさまざまな差異をゆるす開放性である。彼が、「こふき」の未完成性を――中山正善の否定的解釈とは対照的に――将来の展開可能性、真理の開放性として肯定的に捉えていたことも思い起こそう(本章1節の引用)。 二人の対話は明らかに噛み合っていない。蔵内の解釈を飯田が受け容れることはなかっただろう。この平行線は、「蔵 内  「元の理」学」という特集号のタイトルに暗示されている。つまり,蔵内の泥海古記解釈には、最初から、教外者の私的解釈という留保が付されているのだ。しかし、より創造的な解釈の可能性は、この留保を外すところに生まれてくるのではないか。
 3.「泥海古記」の抱擁性――融通無碍な語りと想像力
 中山正善の教学の方向性は,これまでの天理教学を根本的に規定してきた。だからこそ,その厄介な他者であった「泥海古記」,「半牧のお筆先」あるいは「裏守護」の研究は,天理教研究に新しい地平を拓きうる可能性を秘めている。益田勝実や蔵内数太,また裏守護研究の先鞭をつけた石崎正雄らの知見に学びつつ,別様の解釈の可能性を具体的に提示してみたい。

 1973年に刊行された山田伊八郎文書には、1882(明治15)年筆録の「こふき本」と考えられる文書が収められている。正善が『こふきの研究』を執筆した時点では未発見だった十五年本の空白を埋める新文書である。この文書の価値は、しかし、何よりも教祖中山みきの生き生きとした語り口を留めている点にある。山田伊八郎による筆録の特徴を、金子圭助はこう評している。
「教祖のお話しぶりを、口調もそのままに筆記したものである。筆者は寡聞にしてこのような教祖の「元初まりの話」のなまの声の筆録を見たことがない」。

 さらに、本稿にとっての山田伊八郎文書の価値は、そこに「半牧のお筆先」の教祖自身による釈義と思しき語りが収められていることによっていや増す。教祖様御言葉として筆録された当該文書は2種類あり、ひとつは1885(明治18)年4月3日のもの、もうひとつは年月日不明の筆録である。前者を引用しておこう。
 一、このよふハ、もんじゆふとハ、たべもん きもの。ふげんをとハ、風 人間いき。はし は めとしみよふなりうじんもとハ、りゆけの事。なんがくとわ、火なん水なん風なん病なん。 だ は う は てんたいとわ天がだい。よふめいもみなこれ。しよどごしたもとわ、世界中 百姓一れつに 火なん水なん風なん病なん、なしにして、年々に豊作ヲとらせ。亦人間も出生してから、ほ う へう は ふそ、はしかせんよ、病なしにして百十五歳迄、極楽じょどいつれてとふりたい。其上ハ、 つ う わ は けゑこふとおもうなら、百五十が二百三百までも、ふんばりきる。ゆハんやわれらわをろかなる。 いかにねがわにありぬべし。は 言 言 は 三千世界をとわ、人間のおもう事ハ、口でゆふ。口でゆふ事ハ手でする。 う 是が三千世界とゆふ。おいでぞ。 清 浄 たしかに しょじふ みさだめて、心ちがいのないよ(う)に。

 これが,教祖の言葉は一言も聞き漏らすまいとした山田によって筆録された言葉であるという事実は強調されてよい。石崎も指摘しているが、山田伊八郎による筆録は、1885(明治18) 年3月28日、およそ1年ぶりに教祖の口述に接して以降、いっそう熱心に行われたという。 だとすればなおさら、このテクストを出所の不明な「口記」として片づけるわけにはいかない。年月日不明の筆録と重ね合わせ、また、石崎の研究を参照しながら現代語訳すると、おおよそ次のような話が説かれたことになる。
 この世は、文殊とは、食べ物、着物。普賢は、風、人間の息のこと。これをはじめ、妙な る(珍しい)竜神とは、立毛のこと。南学(もしくは南岳大師か)とは、火難、水難、風難、病難など万の難のこと。天台とは、すべてこれら世の中のことは天が台だからこそ可能だということ。陽明、すなわち「よう見える」もみなこのこと。浄土にごしたもうとは、世界中の百姓たちにはみな火難、水難、風難、病難なしにして毎年豊作をとらせるということ。また人間も出生してから、疱瘡、麻疹にかからぬよう、病なしにして115歳まで長生きさせ、 極楽浄土へ連れて通りたい。その上は、結構と思うならば、150から200、300歳までも神は 踏ん張り切る。いわんやわれらは愚かなるとは、神が言わなかったから(教えを伝えなかったから)人間は愚かな状態にあった。いかに願わにありぬべし(いかに願わにや、ありぬべ し)とは、願わない者は、いくら神がたすけたくても、たすけられない。三千世界とは、人間は心で思うことを口で言う、口で言うことを手で行う。心、口、手の三つだから三千世界である。たしかに清浄みさだめてとは、天から人間心を見定めて、神にしてやろうとのこと。 心ちがいのないようにとは、だから心違わないようにしてついてこい

 というのである。 「150から200,300歳までも神は踏ん張り切る」、「心、口、手の三つだから三千世界である」、「天から人間心を見定めて、神にしてやろう」など、現在の教義本にはみえない教えにも驚かされるが、いま注目したいのは、教理的内容ではなく、その語りかたである。 「半牧のお筆先」、あるいはその釈義にみられる裏守護の語りを前にしたとき、私たちは当然、まずそこで何が語られているかを理解しようとする。なればこそ、上記のような現代語訳を試みもするわけだ。「りうじん」は「竜神」、「なんがく」は「南学」(蔵内説)あるいは「南岳」(石崎説)、「よふめい」は「陽明」というように、音節文字である仮名に可能なかぎり表意文字であるところの漢字を当てようとする。しかし、そのようにして「意味」を読み取ろうとする試みが、かえって見失ってしまう言葉の次元がある。 「何が」語られているかをみようとする眼差しが見落としがちなもの、それは、「どのように」語りが展開しているかということである。山田伊八郎文書に残された教祖の声は、「り りゅうけい なん うじん」を「立毛(大和地方の言葉で農作物を意味する)」、「なんがく」を「難」,「よふめい」を「よう見える」と語っている。要するに,語呂合わせであり、ことば遊びである。「元の理」の象徴的解釈や意味論に傾注してきた従来の研究では、粗野で単純素朴ともみえるこの語りの形式は、等閑視されがちであった。しかし,この融通無碍な語りかたは、泥海古記の想像力と分かちがたく結びついている。さまざまな差異をゆるす泥海古記の抱擁性も、この語りかたに注目することによって、より動態的に捉えられるはずだ。

 「小松本」所収の「半牧之御筆先之解」には、山田伊八郎文書とはまた異なる釈義があ る。こちらの釈義は教祖自身の言葉そのままではないことは明らかだが、いまそのことは重要ではない。他の「こふき本」にも息づいている語りの融通無碍さに注目したい。
 いわんやわれらはおろかなるトハ教テ被下ラネバ愚カナ人間ト成ルトノ事也。いかにねが わにありぬべしトハ誠ノ心テ有ルナレバ我身ノ事ハ願ガワイテモ御助被下ルトノ事也。

 正しく意味を踏まえるなら、「まして我らは愚かなのだから、どんな者も神仏に願わずには いられない」となるはずのところ、小松本の釈義では「神様が教えて下さらなければ愚かな人間になる、誠の心であれば我が身のことは願わなくともお助け下さる」となる。まさしく「奇想天外な」解釈というほかないが、このような解釈のアクロバットを可能にしたのは、 「いわんや」を「言わなければ」、「ねがわにありぬ」を「願わなくとも」とする(してしま う)語呂合わせ的な読みである。

 ここでの言葉は、「正しい意味」の制約を離れ、意味に奉仕することをやめている。ここでの言葉は、まずは音であり、意味に頓着せず、リズムに戯 れている。言葉と意味の常識的な結びつきがほどけ、音として舞う言葉は、別の意味を大 胆に招き入れる。かくして、「願わずにはいられない」を意味するはずの言葉が、まったく新たに「願わなくともお助け下さる」を意味するようになる。意味の差異を軽やかに越え、本来異なるものを大胆につなげてゆくこの語りの動態の糸口と なりうるのは、音の重なりだけではない。形や,動きの類似がきっかけとなって、換喩的に連想が広がってゆくような語りもまた泥海古記に遍在している。

 一例として「をもたりの みこと」をめぐる語りを取り上げよう。「人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理」と説かれ、天では「日様」と現れるとされる親神の女性的神格「をもたりのみこと」は、泥海中では頭12,剣をもつ尾3筋の大蛇として語られる。音や形や動きを取り掛かりとして、文字通り時空を縦断して広がってゆく語りの融通無碍さを確認しよう。以下は、「こふき本」十六年本 (桝井本)からの引用である。
 この神様わ人間やとしこみたもふ後わ、日々にみがおもくなるゆゑに、おもたの命とゆう。理増故 尾剣故此理 日々にりをますゆに日輪様とゆう。をうに三ッのつるきあるゆゑに、このりをあ(し)きな女蛇剣(邪険)。今云頭 頭 間 わじやけんといまにてもゆうなり。かしら十二ある壹つのかしらにて、十二月のあいた、壹頭代 守護代守護頭代月づ〻かしらかわりてしゆうごを事。日〻かわりてしゆうこう。又、十二時つゝかしらかわ 守護 故 定 時云りて、目を壹時とすしゆうごうあるゆゑに壹ケ年を十二月とさゝめ、壹日を十二ときとゆう。方頭取巻あ守護理云十二支のほふかしらをとりまきかりてしゆうごうあり。このりをもつて十二支とゆうなり。ふつほふにてわ三づんのみだによふらい、また、こゝろすんだるりをもつて、せいしくわん音大見故寛大云観音云同理おん、おふきみゑるゆゑに、くわたいともゆう。くわんおんとゆうもをなじりなり。人間の身内温守護温此みのうちぬくみのしゆうごうの神、又ぬくみわこの神様のかりものなり。

 融通無碍な語りと想像力とが,互いに互いを喚起しながら運んでゆくさまが認められる。泥海古記に繰り返されるこの語りの動態は、サニタイズされた「元の理」裁定後には、ますます見えにくくなったといえるかもしれない。 しかし、見えないことは失われたことを意味しない。本稿第1章3節で言及した深谷忠政の 「元の理」解釈は、裁定された「元の理」を逸脱する側面を示していた。じっさい、彼の解釈には、随所に泥海古記の融通無碍な語りと想像力の動態が顔を出す。たとえば、「その後、人間は、虫,鳥,畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残った」という「元の理」のよく知られた一文についての解釈に、それは鮮明に窺える。
 めざるは、つなぎの道具神、くにさづちのみことの理である。猿を去るに語呂を合わせ、去ったが残ったという言葉より、つなぎの意味を表しているとも悟られる。少しこじつけに過ぎるかも知れないが、めざるとは“滅せざる意なり”という説もある。……田舎に行くと道路の三叉路に、猿にちなんだ石柱が立っているが、これは、猿田彦神が、天孫降臨の際、天孫の先頭に立って道案内をしたという故事による。猿と道祖神(道路を守りて旅人の安全を得しむる神)との関係より、このめざるに、爾後の人間生活発展の母胎という意味をこめているとも悟られる。「元の理」を解釈する深谷だが、彼の語りかたには泥海古記のそれがたしかに反響している。彼の語りは、語呂合わせを駆使し、民俗信仰(道祖神,猿田彦信仰)を抱擁し、抱擁することによっておのれの語りと想像力に新たな推進力を得るのである。深谷にとって「月日のやしろ」たる教祖中山みきは絶対的神格であり、彼女によって創立された啓示宗教たる天理教は、民俗信仰とは区別されるべき超歴史的教えだった。その彼のテクストに響いている泥海古記の融通無碍な語りは、教義の言葉が啓示宗教/民俗信仰のあいだに引いたはずの境界線を闊達に横断してゆく、泥海古記の想像力のよき証しであるように思われる。
 4.課題と展望
 泥海古記の想像力を喚起することを求めながら、結局のところ本稿は「想像力への想像力」の喚起に終始した感がある。泥海古記の想像力の世界により深く分け入るためには、とりわけ、初期の信仰共同体において泥海古記がどのように語られ、人びとにどのような想像力を喚起していたか、史料の発掘と収集からはじめて、さらなる研究が求められよう。その場合、本稿では暗示するにとどまっている当時の民俗信仰の諸実践(たとえば阿弥陀和讃など)に接近する試みも必要だろう。また、教学的な議論、知識人たちの解釈のみならず、日常的な信仰生活や一般信徒たちのあいだに泥海古記の想像力がどのように息づいてきたのか、近代化とそれにともなう民俗の抑圧など、歴史的背景の変遷も視野に入れつつ探究することは今後の課題である。

 しかし、たとえなお「想像力への想像力」の喚起にとどまっているとしても、従来の研究、とくに天理教学ではしばしば看過されてきたと思われる泥海古記の想像力という問題を――そもそもなぜ看過されてきたのかという問題を含めて――問いとして掬い出したところに、本稿の最大の意義は認められよう。本稿は、さまざまな神仏、あるいは方位や暦法や天体までをも抱き込んで展開する泥海古記の抱擁性、またそこに遍在する語りと想像力の融通無碍なる動態を論点化した。そしてそれは、「十のものなら九つまで教え、なお、明かされなかった最後の一点」という言葉の解釈を拡充する可能性をもつ論点であることを提起した。

 後者の問題について、最後に若干の考察を付しておく。 「九つのもの」すなわち従来の諸宗教伝統と、「最後の一点」すなわち天理教との関係性をめぐっては、東馬場郁生の論考が啓発的である。東馬場は、教学者として,天理教信仰の独自性と究極性の確信の上に立ちながら、現代世界の宗教的多元性に投げ込まれた状況のなかで他宗教との関係性をどう捉えるべきかを問う。キリスト教神学の成果を範としつつ、「十のものなら九つまで」の言葉を議論の軸として、天理教独自の応答が試みられる。他宗教(九つのもの)との連続性に軸足を置く包括的啓示論も検討されるが、東馬場が一貫して強調するのは、啓示の媒介者としての「教祖の特殊性」であり,それゆえの他宗教との「絶対的な質的断絶」である。「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え」という教祖のことばにしても、教祖の教えが「他宗教にはない特異な実効性を含むこと」に力点を置いて解釈されている。結論として東馬場は、他宗教に対する天理教の自己認識は「包括主義的絶対性」なる概念で捉えられるという。本稿での考察を経て東馬場の論考を読みなおすとき、或る種の「固さ」が気にかかる、と言っておこう。この固さは、絶対性/相対性、排他性/包括性、特殊性/普遍性など、さまざまな概念分節の固定性に由来すると思われる。これらの二項対立的分節は、つまるところは天理教/諸宗教、すなわち「一」/「九」というそもそもの分節に連なっている。東馬場にとって、 「九つのもの」と「最後の一点」は最初から質的に厳密に区別されている。言いかえれば、 「最後の一点」は最初から 「最後の一点」なのである。しかし、泥海古記の抱擁性、融通無碍な語りと想像力の展開は、このような二項対立的分節の固定性をほぐし、教祖の独自性、あるいは「一」と「九」の関係性を、別様に、よりしなやかに捉えることを許すだろう。あえて言えば、泥海古記における「一」は、先行する 「九」によってはじめて「最後の一点」となりうる「一」である。「一」と「九」のこの関係性は、蔵内との対談で飯田が主張していた「一による九の新たな意味づけ」には還元できない (本稿第2章3節を参照)。「一」は最初から「最後の一点」なのではない。「一」が「十」と して十全に開花するためには「九」なしにはない、と考えることもできよう。このように考えることは,東馬場の議論とは逆に、「一」と「九」の連続性を強調することを意味しよう。だが、それは「一」を「九」との同質性のなかに解消することと同義ではない。 「一」と「九」の「質的断絶」があるとして、その断絶は、語られた内容にのみならず、語りかたに探られるべきではないだろうか。石崎が見抜いていたように、泥海古記の諸写本に窺える教祖の語りには、「従来常識的に使われている考え方をひっくり返して独自の解釈を展 開する」という特徴が認められる。教祖の独自性、新規性、あるいは絶対性を主張しようとする教学は、教祖のことばを超歴史的なものとしてはじめから伝統の外に置きがちだ。しかし、「常識をひっくり返す」教祖のことばの新しさは、むしろ旧来の 伝統の新たな解釈の仕方、同じ言葉の別様の語りかたとして現れることがある。じっさい、教祖のことばの新しさは,超自然的な神の啓示を通じてのみならず、人びとと共通の日常生活のなかに、柔らかに輝いている。泥海古記の想像力の世界も、人びとの生活世界に息づくことばの語りなおしによって開拓され、創造されていったのだった。
 本稿は JSPS 科研費 JP18H00612の助成を受けたものである。
 註
 引用文中の傍点および傍線強調部は,断りのないかぎり,原文通りである。また,原文の旧字体について,適宜新字体に改めたところがある。
(1) 解釈史の基本的見通しについては,西山輝夫「「元の理」の研究史概論」『G-TEN』第1 号,1986年,56―68頁(『「元 の 理」の人間 学』天理やまと文化会議,1987年,13―36頁 に 再 録);同「「元の理」研究の系譜」『G-TEN』第27号,1988年,71―79頁(『「元の理」と原典』 天理やまと文化会議,1997年,9―25頁に再録)がたいへん参考になる。また,天理教事典 第3版,天理大学附属おやさと研究所,2018年;深谷忠政『教理研究元の理 改訂新版』道友社新書,1980年,26―32頁も参照。
(2) 永岡崇「近代日本と民衆宗教という参照系――安丸良夫における「論理」と「活力」」『日本史研究』第663号,2017年,42―62頁を参照。
(3) 島薗進「民衆宗教か,新宗教か――二つの立場の統合に向けて」『江戸の思想1救済と信仰』 ぺりかん社,1995年,158―169頁;桂島宣弘「民衆宗教研究・研究史雑考」『日本思想史学』第 34号,2002年,27―35頁を参照。
(4) 島薗進「天理教研究史試論――発生過程について」『日本宗教史研究年報』第3号,1980年,70―103頁,とくに87頁以降を参照。
(5) 拙論「教学と宗教学の幸福な結婚?――天理教二代真柱・中山正善における教祖論をめぐっ て」天理大学学報第71巻1号,2019年,1―23頁を参照。ただし,高野友治の教学のような 「例外」もある。
(6) 石原和「民衆宗教」『日本宗教史のキーワード』大谷栄一,菊池暁,永岡崇(編),慶應義塾 大学出版会,2018年,234頁。
(7) 天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝』天理教道友社,2016年,157―158頁。
(8) 中山正善『ひとことはなし(その三)』天理教道友社,1965年,61―62頁。なお,高井自身は 文字を知らぬ人であったため,教祖の要請に応えられなかったということになる。このこと自体興味深い問題である。
(9) 『天理教事典』,854―855頁(別席台本)。
(10) 『岐美の道』天理教岐美大教会,1971年,8頁。『岐美の道』は西山輝夫によって執筆された。
(11) 滋賀県発祥の甲賀大教会の山田太右衞門初代会長も同様の話を説いていた(同書9―10頁)。南濃分教会(現岐阜県大垣市墨俣町下宿)初代会長河合藤太郎氏が聞いたものとして次のような話も残っている。「この世の中は,神様がおつくり下さったが,人間が神様の思召を悟らず,我がまま勝手な心を遣っているから,このたび元の神様が直々に表に現われて,二世の世とお立て替えになる。みな一れつは,この神様の御教を信仰すれば,どんな者でもたすかるが,今に天火,火の雨,地震,大津波がある。その時,信仰している者は助けて頂ける。この神様の御教を信仰する者は,ますます神様の御教を心に治めて,御恩返し,因縁はたしに人たすけをせねばならぬ」(同書,10―11頁)。
(12) 宮田登『終末観の民俗学』弘文堂,1987年,第2章「「世の終わり」の伝統」。「民衆の宗教的 エネルギーの基底部としての民俗信仰の機能を積極的に評価する視点をはっきり提示したのは 「泥海古記」の想像力 41 Page 63 ※リュウミンL・カ 宮田登である」(新宗教研究調査ハンドブック/雄山閣,1981年,48頁)という評価を強調し ておこう。
(13) 朴炳道「近世災害における「世なおし」の呪文と「泥の海」の終末――1662年の京都大地震 と『かなめいし』」『東京大学宗教学年報』第33号,2016年,47―64頁。
(14) 本格的な教会設置運動の機運が高まるなか,1885(明治18)年に大阪府知事宛に提出された 文書には4冊の教義書が添付されていた。十二下りのお歌1冊,「おふでさき」第4号および第 10号,そして「この世元初まりの話」1冊である(『稿本天理教教祖伝』2016年,278頁)。
(15) 1884(明治17)年,教祖は奈良監獄所に12日間拘留されたが,教祖の高弟の一人鴻田忠三郎 が「古記」と称する手記本があったことが理由の一つになった(同書,270頁)。1886(明治 19)年,神道官長代理として古川豊彭(富岡八幡宮司)の取り調べを受けた際,教祖側近の者たちは「五ヶ条の請書」を提出した。最初の三条にはこうある。 一 奉教主神は神道教規に依るべき事 一 創世の説は記紀の二典に依るべき事 一 人は万物の霊たり魚介の魂と混同すべからざる事(同書,301―302頁) また,1887(明治20)年,教祖が現身を隠す直前の緊迫したやりとりのなか,中山眞之亮が発した次の問いかけなどにも,「こふき」の教えに対する当時の禁圧の厳しさが窺える。「この 屋敷に道具雛型の魂生まれてあるとの仰せ、この屋敷をさして、この世界初まりのぢ ば ゆえ天降り、無い人間無い世界こしらえ下されたとの仰せ、上も我々も同様の魂との仰せ、右三ヶ条 のお尋ねあれば、我々何と答えて宜しく御座りましょうや、これに差し支えます。人間は法律 にさからう事はかないません」(同書,320頁)。
(16) これらに先んじてというべきか,1903(明治36)年に神代古記出版所編『天理教創世記教理 淵源神代古記』が出ている。冒頭の「本書出版の由来」によれば,著者の貞木天涯は,神道天 理堺支教会所に入り,教会本部で教祖の高弟たちから繰り返し教理を説かれ,教導職に任命さ れた人物。出版に至った経緯については次のようにある。「神代古記と云ふ秘書を発見し一読するに古今未聞の事多く同時に疑問百出し実に了解に苦む事多く、斯道の先生に就て質すも毫も 要領を得ず止を得ず活版に附して大方識者の判断を請はんと欲す本書出版に付ては天理教本部 より干渉やら示談やら結局出版中止の請求もありたれど、予は燈を燃して斗の下にをく者なし 燭台に置て家に在るすべての物を照さんと云ふ、格言を引て之に對へ遂に即ち出版する事とはなれり」(2―3頁)。
(17) 大平隆平(良平)『天理教の新創世説の解説並に批判』新宗教社,1916年。やはり『新宗教』 の論文をまとめるかたちで前年に刊行した著書でも,大平は繰り返し「泥海古記」に言及している。大平良平『天理教々理より観たる人生の意義及び価値』新宗教社,1915年,25―26頁など。
(18) 『天理教創世説 古紀話研究』木下眞進堂,1919年。筆者が所有しているのは,1925(大正 14)年発行の第9版。
(19) 関時発『天理教泥海古記釈義』泥海古記釈義刊行会,1926年。
(20) 神崎東蔵・高橋蘭花『天理教創世記(泥海古記)眞髄』眠獅子窟,1926年。高橋蘭花なる人 物については詳細不明。
(21) 岩井尊人『泥海古記附註解』天理教道友社,1928年。本稿第2章1節でも述べるように,こ の書は発禁処分を受けた。岩井には『天理教祖の哲学――みかぐらうた新研究』(一成社,1915 年)の著書もある。
(22) 1925(大正14)年,二代管長に就任したばかりの中山正善主導のもと,天理教本部に教義及 史料集成部が開設された。これを受け,同年6月5日刊行の『みちのとも』には今後の教学上 の課題を指摘する論客たちの声がまとめられている。「泥海古記」については,たとえば増野道 42 天理大学学報 第72巻第2号 Page 64
)※リュウミンL・カ 興(鼓雪)が「徹底的な解釈を施す必要」(3頁)を訴えているほか,深谷徳郎が「本教の根本 教理である泥海古記に就ても異説異本が多くて、正本といふべきものがない」(29頁)と指摘し ている。次章で検討する中山正善の研究の基本的問題関心は,大正末期のこのような雰囲気の なかで培われたといえる。
(23) 橋尾徳仁「「泥海古記」の輪郭について――特に『みちのとも』(明治24~昭和20年)に表れ た「泥海古記」をめぐって」『天理教校論叢』第37号,2004年,51―85頁,とくに58―59頁。橋尾 の論文は,『みちのとも』誌上で「泥海古記」に言及した記事を丹念に拾い出したもので,天理 教内の基礎資料の収集にも便利である。同様の論文として,福岡毅「『みちのとも』(昭和21年 ~同31年)の記事にみる「元の理」の理解――特に,「元の理」と「こふき」の関係をめぐっ て」『天理教校論叢』第42号,2012年,23―56頁も参照。
(24) 天理教教会本部編『教祖四十年祭講習会録』天理教道友社,1922年,1―23頁。教祖40年祭 (1926年)に向けて全国の教会長約5千名を招集したというこの講習会の様子については,『み ちのとも』第365号,1922(大正11)年4月,100頁(「地場通信」)を参照。山澤の講演につい ては次のようにある。「人類創造の古紀話、人類再生の授訓のことに説き起こして地場の絶対的 崇厳霊異なる所以を説述」。
(25) 「おふでさき講習会録」として刊行された『みちのとも』1928(昭和3)年11月20日号を参 照。この講習会は,『おふでさき』1号から17号まで,5日間にわたり講義を行うものだった。 6ヶ所の講習会場に分かれていたが,原稿は統一されていた。
(26) 同,85―86頁。
(27) 「泥海古記」,「みかぐらうた」,「おふでさき」,「おさしづ」の順。『天理教事典』,636―637頁 (『天理教綱要』)を参照。
(28) 『みちのとも』1935(昭和10)年11月20日号,2―9頁を参照。
(29) 『みちのとも』1939(昭和14)年2月号を参照。
(30) 天理教教会本部編『天理教教典』天理教道友社,2006年,25頁。
(31) 西山輝夫「「元の理」の研究史概論」,62頁。
(32) 註39も参照。 (33) 深谷忠政『教理研究 元の理 改訂新版』,28頁。
(34) 『稿本天理教教祖伝』,214―226頁。 (35) 中山正善『ひとことはなし(その三)』天理教道友社,1946年,52―89頁。このテクストの初 出は,『天理時報』における連載「ひとことはなし」(1936年10月11日号~同年11月29日号)で ある。
(36) 中山正善『こふきの研究』天理教道友社,1957年。このテクストの初出は,『天理時報』での 連載「成人譜」第169~194(1956年5月27日号~同年11月18日号)である。 (37) 中山正善「おふでさきに拝する教祖の立場」『みちのとも』1961(昭和36)年10月号,7頁。
(38) 諸井慶徳「教義学概論(二)」『復元』第12号,1948年,60頁注1;同『天理教神学序章』(諸 井慶徳著作集第6巻)天理教道友社,1971年,108頁注1。
(39) 1954年から1956年にかけて『天理教学研究』誌上に掲載された「座談会 元の理」では,現 在に至るまで天理教学に多大な影響を及ぼした三人の教学者が,それぞれの立場から「元の 理」を検討している(諸井慶徳・高野友治・深谷忠政「座談会 元の理(教典第三章)」『天理 教学研究』第9号,1954年,62―95頁;同(その二)第10号,1955年,38―47頁;同(その三) 第11号,1956年,70―90頁;同(その四)第12号,1956年,42―51頁)。座談会の冒頭,写本考証 の問題が提起されるのだが,結局『天理教教典』第3章に限定して議論することが望ましいと 結論される。三人のなかでも,とくに諸井にこの姿勢が顕著である。「私はやはり教典を中心にしたいと思う。そしてなぜというと、十四年本十六年本といろいろあるけれども、それぞれが 必ずしもオーソライズされていません。そういうものを Comparative Study すなわち比較検討 してそして真柱様の名において、恐らく始めて裁定されたのが教典の第3章でしよう。これが 初めてです。だからこれをやつた方がよいと思う」(第9号、62頁)。また、諸井の次の証言は、 「元の理」をあくまでも「つとめ」との関連で理解すべきとする中山正善の立場を確かめさせ る。「これについて真柱様のいわれたのは非常にはつきりしているんです。常にいわれており、 教校〔天理教校〕本科の講義でもいわれていますが、元始りの話すなわち泥海古記というもの については、それだけが独立の一つの教説のように思つているが、そのようなものではない。 よふきづとめの理というものを了解させようという上から話されたもんであるのだと、おつし やるのです」(同書,65頁)。
(40) 深谷忠政『教理研究 元の理』天理時報社,1958年。本稿では次の改訂新版を参照した。『教 理研究 元の理』道友社新書,1980年。
(41) 「悪い ん  ね  ん  の、いわばどろ海の中より、い ん  ね  ん  を納消して、陽 気  ぐ  ら  し  という人間の真 プロセス 実の生活の出来るようにして行く、信仰的成長の過程、すなわちた す  け  一  条  の道すがらを、象 徴的に示されたものが元 の  理  であるといえるであろう」(同書,48頁)。
(42) 同書,119頁。
(43) 石崎正雄『こうきと裏守護』天理やまと文化会議,1997年,312―313頁。
(44) 深谷忠政『教理研究 元の理』,133―134頁。
(45) 諸井政一(諸井慶徳,深谷忠政にとっては伯父にあたる)が教祖の高弟たちから聴取した教 話を修正したもの。初版は1937年,改訂版は1953年に出版。本稿では,『改訂正文遺韻』天理教 山名大教会史料部,2014年を参照した。
(46) たとえば、「な む  あ  み  だ  ぶ  つ  といふは、くにことたちのみことさまより、たいしよくてんのみ ことさまにいたるまで、なゝはしらのかみさまをいふ事にて、すなわち、な は、くにとこたち のみこと、む は、おもたるのみこと、あ は、くにさつちのみこと、み は、つきよみのみこと、 だ  は、くもよみのみこと、ぶ は、かしこねのみこと、つ は、たいしよくてんのみことさまな り」(同書、236頁)。次の説かれ方は、方位の神とも生まれ年の守り本尊とも取れるが、定かで はない。「ね 〔子〕は、せんじゆう〔千手〕。う し  と  ら  〔丑寅〕にては、こくうざう〔虚空蔵〕 や。う 〔卯〕は、もんじゆ〔文殊〕。た つ  み  〔辰巳〕、ふげん〔普賢〕。う ま  〔午〕、せいし〔誓 至〕。ひ つ  じ  さ  る  〔未申〕は、だいにちによらい〔大日如来〕。に し  〔西〕、ふどう〔不動〕。い ぬ  ゐ  〔戌亥〕、はちまん〔八幡〕。これみなかみがみさまの、ほとけとあらはれたまふところな り」(同書,237―238頁)。
(47) 『天理教事典』,88―89頁(裏守護)。
(48) 石崎正雄『こうきと裏守護』を参照。 (49) 『教理研究 元の理』のなかで深谷は,昭和12(1937)年春に『正文遺韻』の編集にあたっ た際,「元の理と対決した」と回想しているが(105頁),ここで「元の理」といわれているのは, 『正文遺韻』には「古記」(其の一から其の三まで)として収められている文書(明治30年頃筆 録されたと考えられる)のことである。そのうち,とくに「古記其の一」と「其の三」は,裏 守護の語りに満ちている。思想統制の強まりを受けてか,初版では割愛され,改訂版に挿入さ れた。
(50) 西山輝夫「「元の理」の研究史概論」,63頁。
(51) 本稿では次の版を参照した。益田勝実『火山列島の思想』講談社学術文庫,2015年。
(52) 同書,43―62頁。 わか あしかび
(53) たとえば『古事記』に「国稚く浮きし脂の如くして、くらげなす漂へる時、葦牙の如く萌えあがる物によりて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神」とあるウマシアシカビヒコジに ひこぢ ついて、益田は書く。「ウマシは讃美のことば、ヒコジは男性の長老への敬称「彦舅」、だから、 最初のウマシアシカビヒコジの神にしても、「葦牙のごとく萌えあがる物によりて」できたので はなく、実は角ぐむ葦の芽、アシカビそのものの神格化以外のなにものでもないことがわかる。 「天地のはじめ、陸地がまだ若く、くらげのように漂っていた時、一本の葦の芽の神が頭をも たげたよ」――そういう原始の自然物に神を見る心、国土の草創期を早春の水辺の姿で夢みる、 幻視者の眼の所産といえるのではなかろうか。それを、その眼を失った古代の史家が、「葦芽の ごとく萌えあがる物によりて成りませる神」と解釈したのであった。そういう新解釈以前にも どそう。赤児の脂のようなういういしい葦の角のもたげ、原始の詩情がそこに息づいているの ではないか」(同書,45―46頁)。
(54) 同書,54頁。
(55) 益田勝実『秘義の島』筑摩書房,1976年,21―24頁も参照。
(56) 同書,54頁。諸井慶徳『天理教教義学試論』が参照されている。
(57) 同書,55頁。
(58) 蔵内は『ムック天理 II 人間誕生』(天理教道友社,第2号)に執筆した1978年,天理教よの もと会本部主催の第1回教理講座「元の理について」(6月17日)で講師を務めた。「「元初まり の話」について」と題されたこの時の講演録は同年の『みちのとも』(11月号,50―56頁;12月 号,44―51頁)に掲載されている。
(59) 蔵内数太『泥海古記について――中山みきの人間学』赤心社,1979年。 (60) 同書,95頁。
(61) 「半牧御筆先ノ事ハ教祖ハ拾七號ノ御筆先ノ止メトゾ仰セラレキ、又此ノ解ハ后御本席様ガ 教祖御在世ノトキ、御説キ被下レタリト被仰テ、御解キ被下坐タ、又、仰ニ世上ノ理ニモ有ト、 (不肖取調ヘシニ、阿弥陀和讃ノ中程ニ有リタリ)」(中山正善『こふきの研究』,150頁)。ただ し,ここでいわれている「阿弥陀和讃」の存在は確認されていない。石崎正雄『こうきと裏守 護』,68―69頁を参照。
(62) 諸井政一『正文遺韻』にも同様の言葉が収録されている。「このよふは、もんじゆ、ふげんを はじめとし、みよなりうじんも、てんしんも、なんがくてんだいよふめへも、これみなじよふ どふごしたまふ、いわんやわれらのおろかなる、いかにねがはずありぬべし、さんぜん世界お ふいでぞ、たしかにしよふ 〴 〵みさだめて、こゝろえちがいのなき様に」(258頁)。註釈によれ ば,「是は御休息所出来、御出ましの後、間もなき頃、御筆におつけ被遊たる所也」とある。教 祖が御休息所と呼ばれる建物に移ったのは1883(明治16)年陰暦10月26日のことである(『稿本 天理教教祖伝』,266頁)。 増野道興は「おふでさき」について書くなか,教祖が「明治十七年に一寸一筆お書き下され」 た、「よくお話に聞かして頂きます所の」歌として次を掲げている。「このよふは、もんじゆふ げんをはじめとし、めうなりりうじんも天神も、なんがくてんだいようめいも、みなこれじよ うどこしたまふ、況んやわれらはおろかなり、いかでねがはでありぬべき」(『増野鼓雪全集』 第5巻,1929年,198頁)。 天理教本部で開催された「おふでさき」講習会でも公に言及されている。「御教祖のお言葉に 「この世は文殊普賢を始めとし」といふ事がありますが、文殊は食物を司られ、普賢は着るこ とを司られる方でありますから、人間がこの世へ生れたならば先ず最初に必要なことは、食ふ ことゝ着ることであります」(『みちのとも』1928(昭和3)年11月20日号,112頁)。 高野友治の『天理教小史』にも言及がある(著作集第5巻,天理教道友社,1980年,76―77 頁)。高野は,おそらく明治33,34年頃とされる辻忠作の解釈を紹介している。それによれば,「たしかしょじょふ(証誠)みさだめて」の一句は,「九十歳にお成り遊ばした教祖の御心」に ついていわれた言葉であり,「その御心を見習うて、心違いのなきようにとの事なり」と解釈さ れる。 安井幹夫は,明治期に尾張・美濃・飛騨地方に流通し,布教者個人の教理文書として所蔵さ れた「おふでさき」写本群に「十七号留筆」として「半牧之御筆先之解」が存在することを確 認し,その一部を翻刻している(『天理教教理の伝播とその様態』天理大学おやさと研究所, 2008年,34頁)。 しかし,史料として最も信頼に値するのは,『山田伊八郎文書』(敷島大教会編,1973年)に 記録された教祖の言葉だろう(74頁,258頁)。山田本については本稿第3章で詳述する。
(63) 中山正善『こふきの研究』,148頁。
(64) 蔵内数太『泥海古記について』,91頁。
(65) 註62を参照。
(66) 『天理教事典』,683頁(天理やまと文化会議)。
(67) 井上昭夫『現代・思想・元の理』天理教道友社,1990年;同『「こふき」のひろめ――「元の 理」天理教学研究の展開』善本社,2006年;同『中山みき「元の理」を読み解く』日本地域社 会研究所,2007年。
(68) 「「元の理」は,究極の知恵の仕込みとして人類に親神から啓示された,グローバルな思想を 築き上げるもととなる道具である」(「「グローバリゼーション」と「元の理」」)『天理大学おや さと研究所年報』第6号,2000年,28頁)。
(69) 松本滋の「元の理」論が代表的である。『天理教の信仰と思想』全3巻,天理教道友社,1987 年;『たましいの物語としての「元の理」』天理教道友社,1991年。また,荒川善廣の「元の 理」論も参照。『「元の理」の神学』善本社,1993年;『「元の理」の探究』天理大学附属おやさ と研究所,2004年。
(70) 西山輝夫の次の文章は,そうした懸念を端的に表明したものとして読めるだろう。「最近にな って天理教以外の方が、それぞれの専門分野から「元の理」に関心を示し、さまざまな意見を 発表される傾向が強まっています。……自分の研究分野が主で「元の理」が従であるというこ とになろうかと思います。それが宗教上、天理教上、どういうことになるのかと言えば、さま ざまな広がりがあるにしても、どうしても我田引水的な性格があります」(『G-TEN』第27号, 1988年,77―78頁)。
(71) 「座談会 元の理(教典第三章)」『天理教学研究』第9号,71頁。
(72) 佐藤孝則「「元初まりの話」に登場する動物たち」(全39回)『グローカル天理』第184号 (2015年4月)~第232号(2019年4月)を参照。
(73) 井上昭洋「「元初まりの話」の表象論――「元の理」文化研究の素描として」『天理大学おや さと研究所年報』第16号,2010年,1―30頁。
(74) 同論,25頁。
(75) 同論,10頁。 (76) 同論,25頁。 (77) 島薗進「天理教研究史試論――発生過程について」;幡鎌一弘「『稿本天理教教祖伝』の成 立」『語られた教祖――近世・近現代の信仰史』法蔵館,2012,193―240頁;永岡崇『新宗教と総 力戦――教祖以後を生きる』名古屋大学出版会,2015年(とくに第2章「戦前における中山正 善の活動――宗教的世界の構築とその政治的位置について」)。以上3者による中山正善批判を 踏まえた上で教学展開の可能性を論じたものとして,拙論「教学と宗教学の幸福な結婚?―― 天理教二代真柱・中山正善における教祖論をめぐって」を参照。
(78) 中山正善『こふきの研究』,「序」,2頁。
(79) 中山正善は,「こふき本」は概して次の内容を共通してもつと整理している。(同書,154頁)。 1.この世の初まりのお話 2.人間身の内の御守護 3.い ん  ね  ん  とほ こ  り  の話 4.を び  や  の話 5.教祖 6.神道見立 7.仏教見立
(80) 同書,「序」,3頁。
(81) 同書,4頁。
(82) 同書,5頁。
(83) 同書,3頁。
(84) 同書,10頁。
(85) 蔵内数太『泥海古記について』,60―61頁。
(86) これは,「こふき」のスタイルの問題として別に考えなければならない問題である。そもそも, 中山みきの教えの説きかた(スタイル)は,「つとめ」の手ぶりの教示,「ぢば定め」,あるいは 「存命の理」にしても,「終わり(結び)」と「始まり(開き)」とが錯綜する構造をもっている。 この点については,幡鎌一弘「だいくのにんもそろひきた(十二下り目)」『「みかぐらうた」の 世界を味わう』天理大学おやさと研究所,2011年,209―223頁,および拙論「教祖の身体――中 山みき考」『共生学』第10号,2014年,6―44頁を参照。教えを説く教祖のスタイルは,「おふで さき」の独白には還元されない。むしろ,他の人びととの交わりのなかにこそ教祖は教祖とし て現れる側面がある。だとすれば,「『おふでさき』は語るべきことを語りおえて第十七号で完 結したわけではなく,根源的真理の開示という課題は『おふでさき』以外の文書,すなわち 『こふき』に委ねられたのである」(島薗進「新宗教の宗教意識と聖典――『おふでさき』の文 体について」『日本人の宗教の歩み』大学教育社,1981年,305―306頁)という指摘を,「おふで さき」から「こふき」へのスタイルの転換に注目して,再検討する余地があると思われる。
(87) 拙論「教学と宗教学の幸福な結婚?」を参照。中山正善の「おふでさき」重視の意味につい ては,永岡崇『新宗教と総力戦』,第2章を参照。
(88) 中山正善『こふきの研究』,158頁。
(89) 同書,「序」,2頁。
(90) 『第十六回教義講習会第一次講習抄録』天理教道友社,1956年,299頁。
(91) 「こふき」を「おふでさき」に従属させる解釈は,中山正善や諸井慶徳の薫陶を受け,戦後 天理教学の泰斗として活躍した中島秀夫にもはっきり継承されている。「こふき本」の標準本確 定の問題について,彼はこう書いている。「これら写本の成立の経緯を考えた時、その中には本 質的内容と副次的内容とが混合されていることが推測され、更に言うと、筆写した人の悟りと 思われる節のあることも指摘された。そうした点にかんがみ、更に内容の考証と整理の必要さ が理解せられる。かかる場合、われわれとしては、常に最も正しい根拠である「おふでさき」 に帰つて考えるのでなければならない」(中島秀夫「天理教學講座(3)」『天理教学研究』第11 号,1956年,168―169頁)。
(92) 拙論「教学と宗教学の幸福な結婚?」を参照。中山正善のそうした姿勢は,彼の教祖伝研究 のマニフェストともいうべき次のテクストに鮮明に表れている。「教祖伝研究上の一私見」『火 水風――二代真柱教義講話集』天理教道友社,1977年,121―128頁(初出は『三才』新第4巻第 4輯,1932(昭和7)年10月。『みちのとも』1932(昭和7)年11月20日号,78―84頁に再掲)。
(93) 中山正善『こふきの研究』,79頁。
(94) 「こふき本」諸写本を概観した山澤為次は,次のような見通しを与えていた。「「此世始まり の御話」(真柱様のご呼称に倣ふ)の筆写本は、大体二種類に大別することが出来る。その一つ は和歌体のものであり 今一つは散文体のものである。……なお 更に詳しく申せば、この和歌体と散文体との中 間  的  な  も  の  もあるが、それはどうやら明治十四年乃至十五年頃に書かれた ものらしい。そして是等のものを比較し対照しつゝ一読した私の印象を申すならば、最初の “和歌体のもの”から“中間的なもの”が出来、更にそれを整備して“散文体のもの”が出来 たのではなかろうかと思われる」(「和歌体“此世始まりの御話”控え対照表」『復元』第14号, 1948年,52頁)。
(95) 中山正善『こふきの研究』,86頁。
(96) 同書,103頁。
(97) 同書,141頁。
(98) 同書,107頁。
(99) 石崎正雄『こうきと裏守護』,47頁。
(100) 中山正善『こふきの研究』,150頁。
(101) 同書,151頁。
(102) 同書,152頁。
(103) 『天理教教典』,33頁。
(104) この傾向は,早くは中山慶一の研究に典型的である。彼が東京帝国大学宗教学研究室に提出 した卒業論文は,天理教も含め幕末維新期の教派神道の興隆の背景を,江戸時代における諸宗 教の停滞とそれによって促された民間信仰の伸長に求めたもので,草創期の日本の宗教学にと っても重要な成果となった。ところが彼の議論は,とくに天理教については,結局のところ教 祖の啓示の超歴史的絶対性を強調して終わる。「天理教を育てたものは其他にもあらうが之等各 宗教の真主張を探究し、其総和を以てしても天理教の全体は決して釈明されない。真の天理教 は教祖の絶大神格の思想より流露された新しき未到のものである。此意味に於いて天理教の発 生も歴史的継承的のものであるより、寧ろ独創的天啓的のものであると言はなければならな い」(中山慶一『教派神道の発生過程』森山書店,1932年(島薗進・高橋原・星野靖二(編) 『シリーズ日本の宗教学5 宗教学の諸分野の形成 第9巻』クレス出版,2007年所収),110 頁)。
(105) 『G-TEN』第14号,1986年,86頁。
(106) 『山田伊八郎文書』天理教敷島大教会編,1973年。
(107) 『天理王命』および『聞問記』に,いずれも「古記」として所収されている。
(108) 金子圭助「本書を読まれる人のために」『根のある花・山田伊八郎』道友社新書,1982年, 8頁。
(109) 『山田伊八郎文書』,74―77頁(写真版)。明治18(1885)年6月29日の『御教祖様御言葉』 文 殊 とは 普 賢 息 筆録にも「もんじゆふトハ、たべ物、着物。ふげんトハ人間のいき。」とある(105頁)。
(110) 「先生は教祖のお話を聞かれた時、教祖が何度も同じことを言われるので要点だけを記され ていたそうです。すると教祖の言葉が下がらなくなってしまった〔明治17年4月9を最後に中 断〕。そこで先生は、自らの心得違いを深く反省され、〔明治18年3月28日に再開〕以後、教祖 の語られる言葉は逐一書き留めるようにされたと言われています。ですから、山田文書には同 じような文書が多いのですが、確かな教祖のお言葉がここには残されているように思います」 (石崎正雄『こうきと裏守護』,42頁)。 う は 普 賢王 は 息 は 息
(111) このよふハ、もんじゆとハ、たべもん。ふげんを、とハいき。風。風ハいき、はじめとし。 う う やろう みよふなとハ、めづらし事を、みよふなといゆふヤロヲ。 う は よろづ の う りうじんもとハ、りゆふけの事。なんがくとハ火難、水難、病難、 万の難ヲ事(を)ゆふ。 う うみえ てんだいとハ、天がだいとの事。 よふめいもとハ、よふめへるとの事。 じよど い みな是じよどごしたも とハ,世界人間をしよとの人げんにしてやりたさ。ゆわんや われらわ、おろかなる とハ、ゆわだんだで 人げんおろかなる。 う いかにねがわにや、ありぬべし。とハ、ねがわぬものハたす(け)とふても たすけられん。 うう う 三千世界を とハ、心でおもう事 口にてゆふやろ。くちでゆふ事ハ 手でするやろふ。是三 う 千世界とゆふ。 う げ おふいでぞ、たしかに しよ(う)じ(よ)ふ みさだめて とハ、天からにんけん心みさだめて、 う う 神にしてやろふとの事。心ちがいのないよふに、とハ、心ちがわぬよふにして ついてこいと の事。(『山田伊八郎文書』,258―261頁(写真版)。)
(112)同書,51―54頁,68―71頁。
(113)もっとも,この点について本稿の指摘はまったく新しいというわけではない。たとえば澤井 義次は,「元の理」の象徴的解釈に比重を置きながらではあるが,次のように指摘している。 「日常的言語やふだん見慣れているイマージュを使いながらも、それらをメタファーとして使 うとき、それらには新たな意味が込められます。教祖は人間存在の本質的なあり方を暗示され るのに、「見立て」を使われました。日常的、常識的な意味世界では、一見したところ、無意味 のようにみえたり、あまり重要でないと思われるもの、あるいはイマージュも、それらのなか に新たな意味が込められると、わたくしたちの意識ははぐらかされます」(「「元の理」と「見立 て」――宗教学の観点から」『「元の理」と原典』天理やまと文化会議,1997年,149頁)。また, 新宗教における語呂合わせなどのレトリックの重要性については,『新宗教辞典』弘文堂,1990 年,301頁を参照。
(114) 石崎正雄『こうきと裏守護』,51頁。
(115) 中山正善『こふきの研究』,149頁。
(116) 石崎正雄『こうきと裏守護』,50頁。
(117) そもそも「こふき話」は教祖の声によって口述された話である。あるいは節をつけて,ある いは高低をつけてものがたられることもあっただろう。やはり「語りかた」に関わるこの問題 は,「泥海古記」解釈にとってきわめて重要な問題と思われるが,「こふき」を「口記」として 結局のところ「記」のヒエラルキーに組み込んでしまう解釈からは逃れる問題である。
(118) 数多の例のうちのひとつとして,『正文遺韻』所収の「古記其の三」から一節を引く。「十二 支といふハ,頭々の名前と聞せられまして,子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥と,これ十二の頭につ けてある。かよふの名をつけるといふは,「ね をう し  なうても、と ら  ハれんう んをひらいてた つ  てゆく、そのみ う  ま  れてくるほどに、ひ つ  ねんせざ る  な、と り  てもい ぬ  でゐ る」という理であ ると聞かせられます」(143頁)。
(119) 中山正善『こふきの研究』所収,117―118頁。
(120) 深谷忠政『教理研究 元の理』,114―115頁。
(121) 深谷忠政『天理教の根本教義について・教祖』道友社新書,1982年。
(122) 在来の宗教伝統と教祖の教えとの違いを強調する従来の教学研究は,後者のなかに現れてい る前者の存在を,あくまで「聞く者に都合よく解らせる為の手段」(中山正善『おふでさき概 説』天理教道友社,1965年,237頁)と説明し,結局は「教祖の篤い親心(わかりやすく説く配 慮)」を確認するに終始してきた。この解釈ではやはり、教祖の教えに息づくことばや想像力の 創造性そのものは見え難くなる。同時に、教祖のことばがそれを受けとる信者たちによって左 右される可能性も、問いの外に置かれる。本稿は、高野友治や早坂正章と同じく「教祖の教を 受ける人々の信仰的基盤」を強調し、「教理は与えるものと、与えられるものとの関係に於いて 理解されねばならない」と考え、まさにそのような関係の産物として「泥海古記」を捉えよう とする試みであったともいえる(高野友治「教史研究の宿題」『天理教校論叢』第7号,1966年, 17頁;早坂正章「十柱神考」『天理教学研究』第18号,1968年,40頁を参照)
(123) 東馬場郁生「天理教の「諸宗教の教学」への試み」『天理大学学報』第56巻1号,2004年, 85―100頁。
(124) 『稿本天理教教祖伝逸話篇』170「天が台」,天理教道友社,1976年,283頁。
(125) 石崎正雄『こうきと裏守護』,108頁。
(126) たとえば私は、「四日 仕合わせようなる」、「九日 九がなくなる」、「十日 十ぶん」、「二 十日 十分たっぷりたっぷり」、「三十日 十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり」という具合に、 「語呂合わせ」あるいはリズムの戯れによって「一年中一日も悪い日はない」ことを教えた教 祖のことばを思い浮かべる。『稿本天理教教祖伝逸話篇』173「皆,吉い日やで」,285―287頁




(私論.私見)