「古記」か「口記」か二代真柱・中山正善のこふき研究考

 更新日/2026(平成31.5.1栄和改元/栄和8)年7.30日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「二代真柱・中山正善のこふき研究考」をものしておく。

 2011.04.13日 れんだいこ拝


【「こふき」の漢字当て字は「古記」か「口記」か考】
 二代真柱は、「こふきの研究」で、「古記」とみなすよりも、「教祖直伝の口授の記」と云う意味での「口記」とみなすべきとの見解を打ち出している。但し、これで決着した訳ではない、むしろ決着つけ難しではなかろうか。人類のはるか昔の創造譚とすれば「古記」であろうし、教祖直伝の口授の記とすれば「口記」であろう。

(私論.私見) 二代真柱の姉崎正治教学の薫陶考
 二代真柱は、東京帝国大学で姉崎正治に師事して宗教学を修めている。姉崎正治教学の薫陶を受けていることを意味する。これを平易に理解すれば、「正善教学が、いかに近代的学知の影響下にあったか」ということであり(これについては、島薗進、幡鎌一弘、永岡崇らによってすでに重要な批判的研究が積み重ねられてきている、とある)、歯に衣を被せず言えば「ユダヤ教―キリスト教圏の教学」に染められ、天理教理をユダヤ教―キリスト教教理に合わせて改造したということになろう。

【二代真柱・中山正善のこふきの研究】
 二代真柱・中山正善氏の「こふき論」は次の通り。これを転写しておく。※原文の旧字体は、すべて新字体に書き換えている。  

 『こふきの研究』の序には次のようにある。
 従来のように、“こふき”を“古記”と当て、“どろうみ古記”即ち“此世元始まりのお咄”と解釈しますと、所謂“こふき”諸写本中に綴り込まれている節々は、漸次、雑話が混入したと考えなくてはならなくなり、どうも“古記”と限定は出来ないと、気付いたのであります。つまり、「こふき」がもっぱら「泥海古記」を指すものとすると、「こふき本」に含まれているそれ以外の話が「雑話」になってしまう。それを避けるためには、「こふき」を「口記」 と解釈すればよい。そうすれば「“こふき”は教義伝達の口授手記という一形式ということになり、“雑話混入”という考えから、“種々なる御話”という事になり、所謂“此世始まりのお 咄”以外の説話が“こふき”話の中に含まれていても、その解釈ができる」というわけである。
 「こふきの研究」より(その一)
 昭和三十一年五月二十七日から約半年にわたって、〝こふき〟についてのお話を続けて参りました。“おふでさき”や“おさしづ”の中にあります〝こふき〟の言葉から、〝こふき〟と称えられて来た写本の幾つかを紹介して来ました。十四年本の和歌体から、十四年本、十八年本等を見て参ったのですが、その結果、次のような事が、おわかり頂けたと存じます。

 先ず第一に、〝こふき〟の内容は、
(イ) “おふでさき”で窺(うかが)いましたように、“かんろだいつとめ”に関係あることでありまして、これは、“陽気くらし”への“たすけ一条”に関係あることを意味されています。言い換えますと、“かんろだいつとめ”の完成されることが、〝こふき〟の完成であり、末代の“たから”であると、仰せられているのであります。
(ロ) 次に、〝こふき〟と称えられる書き物についてみまするに、年代と共にその内容には、多少の別はありますが、概(おおむ)ね、
 一、この世初まりのお話。二、人間身の内の御守護。三、“いんねん”と“ほこり”の話。四、“をびや”の話。五、教祖(おやさま)。六、神道見立(みたて)。七、仏教見立等になってありまして、“おつとめ”の意義の説明から発して、信仰するものの態度にまで及び、その節、その節のお話のあやと思われる説話にまで含まれているのであります。つまり、“つとめ”の理の解き明(あか)しに始まるお話が、それを聴いた人々の執る態度にまで、説明が加わってありまして、年代のすすむにつれて、説明が詳細に渡り、本質的な筋に、種々の粉飾と思われる説話が、増しているように思われます。

 第二に、〝こふき〟の目指されている目的ともいうべき廉(かど)を窺ってみますと、〝こふき〟の内容を、単に発表されているばかりではなく、〝取次〟養成を意図されているのであります。“たすけ一条”の成就を、独り教祖の努力のみに依るのではなく、助手ともいうべき〝取次〟の手によってもすすめられるべきであり、その〝取次〟養成の為に〝こふき〟が物され、又、その〝こふき〟により、取次が教祖の助手たるの立場、用木の御用が果されるように考えられるのであります。かかる意味から、〝こふきを作れ〟との意味は、〝“つとめ”を完成せよ〟との意味から、〝取次たるものの心得台本を作れ〟という意味に転じているかの如く思われるのであります。当初、“おふでさき”に感ぜられたが如き、〝“つとめ”の完成〟には取次たるものの話の台本、心の定規を作れという具合に感得され、処理された如く思われるのであります。(つづく、以上153~156頁より)

 「こふきの研究(その二)

 かくて、教祖は、日々にお話あり、それを取次たる者をして、筆に誌せしめられたのであり、皆、取次にお聞かせ下さるのであります。又、“おふでさき”の終わった頃から増える刻限話や、錦の仕事場たる本席の刻限話等も、〝こふき〟に関係あるものと考えられ、〝こふき〟方法にて、取次をお仕込み下されていることと、察せられるのであります。又、観点を替えて、〝こふき〟と称せられる写本の現れ初める頃は、丁度、“おふでさき”の停った頃であります。忘れるから筆に誌しておいたとお教え下され、親しくお筆をおとり下された“おふでさき”は、教祖の八十四、五才たる明治十四、五年頃に停り、その頃から、〝刻限話〟が増してくること、並びに、聴聞の信者層にも、筆の執れる人が増してきたこと、等から推量して、〝こふき〟は“おふでさき”に次いでなされた〝教話伝達〟の方法と考えられるのであります。

 従来〝こふき〟に対しては、〝古記〟の文字を多く用いられて来ました。しかし、この文字は、当初から使われていたのではなく、寧ろ、後年になってから、使われ出したと思われる節が多く、必ずしも、〝こふき〟のお言葉は、〝古記〟と当てるとは、限らないと思うのであります。〝此世始まりのお話〟が〝こふき〟話の初めにある所から、その頃の信者中の有識者が、〝古事記〟等の連想より、〝古記〟との文字を当て、その文字によって、〝こふき〟話が代表称名とされて参ったように思われるのでして、十八年本の小松本に使われていた当字(あてじ)に、〝明治二十年以後ノ古記ヲ貫書(ぬきがき)ス〟とありましたように、明かに、古記は〝古い記〟というよりも、〝こふき〟の音を写したものであり、写音の当字にすぎないと、考えられるのであります。

 以上のような諸要件から、私は、所謂〝泥海古記〟は、〝此世始まりのお話〟を指すという、従来からの常識なり、今日迄の私自身の解釈に、あきたらぬものを感じたのであります。これは、〝古記〟の文字にとらわれ、その字義にとらわれて〝こふき〟の語義となした憾(うら)みを感じたのであります。〝こふき〟の音を〝古記〟の文字に写したという事よりも〝古記〟の文字にとらわれて、〝こふき〟の意味を極限したと考えるに至ったのであります。そして、〝古記〟は〝こふき〟の写音であり、文字には大した意味を考えぬ方が本来の意味を生かすものであり、先にのべた〝こふき〟の内容なり、対象を〝取次の仕込み〟において考えるとき、寧ろ、〝こふき〟は口で述べられたお話を〝記(しる)〟された書き物を意味し、“おふでさき”に対しての〝こふき〟、即ち、教祖の親しく筆を執られた書物に対して、教祖が口で述べられ、取次を仕込む上から、筆執り学人(ふでとりがくにん)として、一は取次に筆を執らしめ、一は取次の話の台本とされたものと考えられるのであります。即ち、親しく誌された“おふでさき”に対して、口授(こうじゅ)して書き取らしめられた〝記(き)〟を〝こふき〟と呼ばれたものであり、強いて字を当てれば、〝口記〟の方が寧(むし)ろ、本来の意味を写す文字ではないかと考えるのであります。

 以上、半年にわたりました〝こふき〟についての叙述は、この字義を探ろうと考えたからなのであります。そして、〝口記〟に及び、教理説述の方法として、〝口に、筆に、或は行いに〟と述べてあります教典の説明に、更に加えて、〝口授されて書き取らされた〟〝こふき〟の一方法が考えられ、かく考えますと、“おさしづ”も亦(また)、〝こふき〟の一つであると考えられるに至ったのであります。(後略)

 中山正善「〝こふき〟の研究 成人譜その三」(153~159p昭和三十二年七月発行)

 従来のように、“こふき”を“古記”と当て、“どろうみ古記”即ち“この世元始まりのお咄”と解釈しますと、所謂“こふき”諸写本中に綴り込まれている節々は、漸次、雑話が混入したと考えなくてはならなくなり、どうも“古記”と限定はできないと、気付いたのであります。つまり、「こふき」がもっぱら「泥海古記」を指すものとすると、「こふき本」に含まれているそれ以外の話が「雑話」になってしまう。それを避けるためには、「こふき」を「口記」 と解釈すればよい。そうすれば「“こふき”は教義伝達の口授手記という一形式ということになり、“雑話混入”という考えから、“種々なる御話”という事になり、所謂“この世始まりのお咄”以外の説話が“こふき”話の中に含まれていても、その解釈ができる。

 というわけである。しかし、この点を確認するだけでは十分でない。正善自身が述べる論理を辿るだけではなく、その論理が依拠している思考の枠組みそのものを吟味するために、彼の研究の動機をいま少し丹念に洗ってみる必要がある。『こふきの研究』の緒言の冒頭部分にはこう語られている。
 私がもの心ついた頃には、既に、 “どろうみこふきは荒唐無稽である”とて、その筋より干渉を受けた話が語り伝えられていましたが、話ばかりではなく、その後も同じ問題で、種々な事情を起し勝ちでもありました。
 次のように解説されている。
 二代真柱は、冒頭で、こふきという言葉にはどんな漢字をあてるのが相応(ふさわし)いかについて述べられている。まず教祖御在世(ございせい)当時、お傍(そば)の高弟(こうてい)が記されたものは「泥海古記」と〝古記〟と記されていた。古事記、日本書紀のいわゆる記紀神話、ユダヤ―キリスト教圏の聖書に記されているアダムとエバ(イブ)の創世記と匹敵する。〝古記〟は他にも光輝、功記、後記という文字をあてられた例も見受けられる。これらのことを踏まえて、教祖が誌(しる)されたお筆先、口授(こうじゅ)口伝を踏まえて冊子として書き著された記(き)が〝こふき〟であり、「強いて字を當(あ)てれば、〝口記〟の方が寧(むし)ろ本来の意味を寫(うつ)す文字ではないかと考えるのであります」と述べられた。

(私論.私見) 「泥海古記」か「泥海口記」か考
 中山正善二代真柱は、「こふきの研究」で、「古記」とみなすよりも、教祖直伝の「口授の記」と云う意味での「口記」とみなすべきとの見解を打ち出し、「泥海古記」はむしろ「泥海口記」と解すべしとしてその為の考証をしている。案外そうかも知れぬと思う。人類のはるか昔の創造譚とすれば「古記」であろうし、「古事記」から発想して「古記」としたとする説もある。教祖直伝の口授の記とすれば「口記」であろう。但しどちらの説も半面の真理に過ぎないとも思うので決着つけ難しではなかろうか。故にどちらでも良い、両面で受け取るべしではなかろうか。これが、れんだいこのこの問題での第一スタンスとなった。

 但し問題は残る。れんだいこは、「古記」か「口記」の二択で選べと言われたら「古記」説を採りたい。なぜならば、「こふき」が伝えられ説かれてきた経緯に於いて、「こふき」は単に教祖「口記」ではなく、はるか昔の人類創世譚から説き起こす「元始まり話」(〝此世始まりのお話〟)として位置づけされており、その意味で「古記」と理解して何ら差し支えないように思う。「古記」には人類創世記の真実神話としての意味が乗せられていたと思えるからである。これが、れんだいこのこの問題での第二スタンスとなった。

【「効記説」考】
 「こふき」参照。
 「こふき」というと、「古い記」で「古記」(泥海古記のこと)。「この世元はじまりの話」、「元の理」とも云う。これをもう少し広げると効能、功績の「効」で「効記」もあり得る。
何事も 月日の心 思うにわ
日本にこふき 欲しい事から  
十号87
日本にも こふきを確か こしらへて 
それ広めたら 唐(から)ハまゝなり 
十号88

【「鴻基説」考】
 「こふき」は「口記」、「古記」の他に「鴻基」(物事の根本)とする説もある。以下、「『こふき』は鴻基-物事の根本」を参照する。おふでさきを長年研究されてきた芹沢茂氏は、「こうき」について、次のように述べている。(原文の不要と思われる『』を省く)
 こうきとは何かを考えると、まずその意味であるが、例の如く、古記、綱紀、功記、口記、光輝……様々の言葉が思い浮かぶ。なかでも鴻基という言葉は、日本の古典でまず挙げられる古事記の序文の結びで用いられている。古事記に述べることこそ、日本の国が治まっていく根本原理ともみられることを、『王化の鴻基』と言っている。にほんのこうきとは『日本の鴻基』ということではないのか。

 風 “にほんというのは、日本国という意味だけではないことは、学んでいるでしょう。/からは殼、にほんは実ということも学んだ筈です。本道に出て学ぶことは、正に、しんということです。自然の摂理や神の働きなどについて教えられる真実を、しっかりと心に納めていくことが、誠の道を実践していくものの鴻基ではありませんか。/なににても神一条を知りたなら からに負けそなことはないぞや(第四号三十二)/と言われていたでしょう。神一条を知るには、正にこうきの学びこそが大事なことになるのです”。

 「鴻基」につき、古事記に記述されている。これを確認する。(岩波文庫版P15の訓み下し文、現代語訳)。
 ここに天皇詔りたまひしく、『朕聞きたまへらく、“諸家の□る帝紀及び本辞、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふ”といへり。今の時に當たりて、その失を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故にこれ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り實を定めて、後葉に流へむと欲ふ』とのりたまひき。時に舎人ありき。姓は稗田、名は阿禮、年はこれ廿八。
 (飛鳥の清原の宮で即位した)天武天皇が仰せになりました。『伝え聞くところによれば、“諸氏族が持ってる帝紀と本辞は、もう真実から遠く離れて、勝手に嘘を加えたりしている”と言う。今、これらの間違いを正しておかなければ、数年後には真実がわからなくなってしまうに違いない。帝紀と旧辞はそもそも国家組織の根本にもあたり、政治の基礎である。そこで帝紀をまとめ旧辞を調べて間違いを正し、真実を後世に伝えようと思う』。その時ある舎人がおりました。姓は稗田、名前は阿礼といい、年令は28才(「邪馬台国大研究・ホームページ /記紀の研究/ 古事記・日本書紀の成立過程」より)。

これを踏まえると、「こふき」は「口記」、「古記」よりも「鴻基」の方が正鵠を射ているのではあるまいか、と云う。これは卓見であるようにも思える。お筆先三号148、149の「こふき」に合うようにも思われる。

 高山の 説教聞いて 真実の
 神の話を 聞いて思案せ
三号148
 日々に 神の話を 段々と 
 聞いて楽しめ こふきなるぞや
三号149

但し、「鴻基」表記が一般的には難解な文字であり、教祖の平仮名の教えに馴染まない。そもそも教祖が「鴻基」的認識をしていたとは思えない。これが、れんだいこのこの問題での第三スタンスとなった。


【「講記説」考】
 2026.7.29日ある着想を得た。「こふき」の真意は本来は「講記」ではないのか。「講」は講話、講釈、講義、講演の講、「記」は記録、書記又は古事記に倣っての記である。要するに、中山みき教祖の「この世の元始まりの話」口述を記したものとしての「講話記録」、約(つづ)めて「講記」が正しい受け止めなのではなかろうか。それを、平仮名の教えを基調とする天理教教理に於いては漢字表記「講記」は似合わぬ為、敢えて平仮名表記の「こふき」にして伝えていたのが真相なのではなかろうか。それを「こふき」の人類創世記譚に合わせて「古記」と記したところ、これが受け入れられて「古記」として通用して行くことになった。しかしながら、二代真柱・中山正善氏の「こふき」研究により「口記説」が登場して以降、厳密には「こふき」の根柢の意味解明が喫急の課題になった。その後、二代真柱の権威により、「口記説」を否定するような教内での究明がされにくくなった。僅かに在野的な研究が続けられたが、それは渡辺優/氏の「泥海古記の想像力」に詳しい。これを踏まえて今、れんだいこが「『こふき』の真意は『講記』ではないのか」との解を得てここに発表した。この着想は手ごたえを感じる。天理教研究史に遺る宜しき解を得たのではなかろうか。これが、れんだいこのこの問題での第四スタンスとなった。

 そして、お筆先三号148、149の「こふき」に接して、「高貴」も合うようにも思われる。これが第五スタンスとなった。この第五スタンスは第四スタンスに被る。よって、「こふき」は「高貴な講記」の約(つづ)まりとなる。
 高山の 説教聞いて 真実の
 神の話を 聞いて思案せ
三号148
 日々に 神の話を 段々と 
 聞いて楽しめ こふきなるぞや
三号149

 今、お筆先十号87、88の「こふき」に接して、やはり「古記」が合うように思った。これが第六スタンスとなった。ここでは、古事記、日本書紀に対抗する「記紀」という意味合いになる。この第六スタンスは第五スタンスに被る。よって、「こふき」は「高貴な古記講記」の約(つづ)まりとなる。
 何事も 月日の心 思うには
 日本にこふき 欲しいことから
十号87
 日本にも こふきを確か こしらえて
 それ広めたら 唐はまゝなり
十号88
(私論.私見)
 れんだいこの考究は、二代真柱・中山正善氏の「口記説」が成り立たないとの結論になった。これは中山正善氏の評価を貶めるものではない。中山正善氏の真剣な問いとその考証があればこそ誘因された学的営為であって、その触発的功績が評価される。思えば、ひながた論もそうだった。れんだいこの解は中山正善氏のそれとは違う結論に導かれるが、「中山正善氏の真剣な問いとその考証」あればこその賜物だった。中山正善氏の問いは、天理教教理の不可知な面に対する正々堂々たる究明にあり、その意義は高い。しかし何がしかユダヤ教的教理になぞらえて解こうとしている傾向が垣間見られるので、この辺りの呪縛からの剥離が必要かもと拝させていただく。




(私論.私見)