元の理教理考、その人類史的意義考その2

 更新日/2018(平成30).4.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「元の理」を論評する。

 2007.12.25日 れんだいこ拝


【門外不出の「元の理」考】
 大正14.11月、奈良県丹波市町(現在の天理市)の天祐社から「非売品」、「門外漢に禁ず」として「泥海古記」が刊行された。同書の序には次のように述べられている。
 御本席より河原町初代会長深谷大先生が頂き、その高弟たちに分かちた、原本をそのまま印刷したもので金の力で容易くも求めることのできない、実に大切な我が御道の生命とする極めて尊い宝典であります故よく研究して待つ大の家宝として保存せられんことを。

 天理教本部は、この秘本を悦ばず、後に信徒達から回収し焼却処分している。教祖の教義の要である「天地人間創造の元初まりの理話し譚」(「泥海こふき」とも云う。以下、単に「元の理」と記す)が何ゆえ、天理教本部から隠されたのか。ここに「元の理」の凄みがあると窺うべきだろう。

 2007.12.25日 れんだいこ拝

【「元の理」とは】
 「中山みき教理の歴史的高み」について、れんだいこに云わせれば、中山みき教理は、国内諸宗との対比を越えて世界宗教として登場しており、世界宗教の三大精鋭であるユダヤ、キリスト、マホメット教と互角以上に教義問答し得る稀有な事例となっている。このことに「中山みき教理の歴史的高み」がある。かく確認しておきたいのだが、天理教本部教理の理解は、敢えてそうしているのかどうかまでは分からないが、「中山みき教理の歴史的高み」にまでは迫っておらず、その分だけ皮相的なように思われる。

 みきは、その教義の中核に次のような説話「元の理」を語った。お道教学では「こふき」とも命名されている。「元の理」の由来は分からない。オリジナルテクストのようなものがあるのかどうか、それも分からない。教理的には、「神の社(やしろ)」として貰い受けされた教祖に、元の神、実の神が啓示した天地創造譚であり、神話であり実話であり、且つ神楽つとめの台として拝受されている。

 天理教事典(天理教道友社)は「元の理」を「元初(始)まりの話」と言い換えた上で次のように記述している。
 教祖(おやさま)が、人間救済の目的で、元初まりの真実、すなわち、『元の理』を示すために明かされた、人間世界創造の説話である。『元初まりの話』には、天理教の根本教義が集約されているので、このお話を、一般の神話としてではなく、人間救済のために人間世界創造の元を明らかにされた真実の話として、受け止めることが大事である。

 その内容は、大きく見て三部作(段落)と看做すことができる。まずは、人間創造の意味と、その為の雛型道具引き寄せ譚。続いて、体内宿し込みの試作譚、最後が、八千八度の生まれ代わり成人譚である。但し、最後の八千八度の生まれ代わり成人譚は「こふき」諸本では語られているが、お筆先には記されていない。即ち、専ら口伝として御話しされていたのではないかと思われる。この「元の理」の中で、天理教教義全般が語られており、いわば円環的な教理体系となっている。且つ、概要「(この話は、)学問にない、古い九億九万六千年前のことの、命の元真実、本真実を語るものであり、同時に天地開闢世界創造の元真実、本真実神話である。それを世界へ教えたいとして明らかにされた」という構図になっている。

 中山みき教理の国内諸宗との相違の最たるところは、日本神道が依拠する記紀神話の天地創造譚とは別系の「元の理」を通して天地創造神話を説き明かしているところに認められる。天地創造神話が何故重要かというと、天地創造神話の説き分けとして教理が生まれているという元の親的地位を占めるからである。もっとも、これを持つことの良し悪しは別の問題である。仏教、儒教が持たないからといって遜色(見劣り)する訳ではない。

 「元の理」の諸内容は天理教独特のものであると同時に、それがかなり精緻にして説諭力のあるものとなっている。そういう創造説話を持つことにより、世界に伍して競える宗派としての格を持ちえており、このことが天理教に偉大さを備えさせている。世に同種の神話があるとすれば、ユダヤ、キリスト、マホメット教圏内が崇めるユダヤ教聖書の天地創造譚が筆頭に挙げられる。その対抗としてギリシャ神話、日本の記紀神話などが挙げられよう。が、れんだいこの見るところ、中山みき教理の方が断然秀逸と悟らせていただく。ここに「中山ミキ教理の歴史的高み」がある。これについては、「セム系一神教(ユダヤ、キリスト、イスラーム)の天地創造説との比較」で概述する。

 そういう「元の理」に対する称賛の仕方が、天理教本部教理では、創造説話があること自体の称賛、それに続いて、「元の理」が奇妙なほど現代科学の成果とも符合しているところへと向かっている。しかし、そういう評価は「元の理」を扁平にしていないだろうか。「元の理」が「泥海古記」と称されて道人のバイブルになっていたお道初期の時代に於いては、「元の理」の説き分けそのものに対する感動、それより発する諭し話しに対する深い味わい、人の生き方としての助け合い、その必然的発展形態としての講の結成こそにドラマがあったのではなかろうか。しかも、他の神話が、時の支配者の支配の正統性を裏づける為の教話になっているのに比して、それを否定しむしろ「金持ち後回し、谷底救済」による助け合い共生社会の創出へ向けての世直し、世の立替教として位置していることが勇気を凛々とさせたのではなかろうか。これらのことに「元の理」の値打ちが認められるのではなかろうか。このような天地創造神話を持つ中山みき教理は、日本は無論のこと世界の諸宗教との理論的競合に於いて怯むものは何もない。ここが素晴らしいのだ。


【「こふき」の漢字当て字は「古記」か「口記」か考】
 二代真柱は、「こふきの研究」で、「古記」とみなすよりも、「教祖直伝の口授の記」と云う意味での「口記」とみなすべきとの見解を打ち出している。しかしながら決着つけ難しではなかろうか。人類のはるか昔の創造譚とすれば「古記」であろうし教祖直伝の口授の記とすれば「口記」であろう。れんだいこは、「古記」説を採りたい。なぜならば、「こふき」と書かれてきた経緯に於いて、「こふき」は「古記」の意味であったと思えるからである。
 「こふき」は「口記」、「古記」の他に「鴻基」(物事の根本)とする説もある。以下、「『こふき』は鴻基-物事の根本」を参照する。おふでさきを長年研究されてきた芹沢茂氏は、「こうき」について、次のように述べている。
 「こうきとは何かを考えると、まずその意味であるが、例の如く、古記、綱紀、功記、口記、光輝……様々の言葉が思い浮かぶ。なかでも鴻基という言葉は、日本の古典でまず挙げられる『古事記』の序文の結びで用いられている。『古事記』に述べることこそ、日本の国が治まっていく根本原理ともみられることを、『王化の鴻基』と言っている。にほんのこうきとは『日本の鴻基』ということではないのか。風 “にほんというのは、日本国という意味だけではないことは、学んでいるでしょう。/からは殼、にほんは実ということも学んだ筈です。本道に出て学ぶことは、正に、しんということです。自然の摂理や神の働きなどについて教えられる真実を、しっかりと心に納めていくことが、誠の道を実践していくものの鴻基ではありませんか。/ なににても神一条を知りたなら  からに負けそなことはないぞや (第四号三十二)/と言われていたでしょう。神一条を知るには、正にこうきの学びこそが大事なことになるのです”」。

 「鴻基」につき、古事記に記述されている。これを確認する。(岩波文庫版P15の訓み下し文、現代語訳)。
 「ここに天皇詔りたまひしく、『朕聞きたまへらく、“諸家の□る帝紀及び本辞、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふ”といへり。今の時に當たりて、其の失を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り實を定めて、後葉に流へむと欲ふ』とのりたまひき。時に舎人ありき。姓は稗田、名は阿禮、年はこれ廿八」。
 「(飛鳥の清原の宮で即位した)天武天皇が仰せになりました。『伝え聞くところによれば、“諸氏族が持ってる帝紀と本辞は、もう真実から遠く離れて、勝手に嘘を加えたりしている”と言う。今、これらの間違いを正しておかなければ、数年後には真実がわからなくなってしまうに違いない。帝紀と旧辞はそもそも国家組織の根本にもあたり、政治の基礎である。そこで帝紀をまとめ旧辞を調べて間違いを正し、真実を後世に伝えようと思う』。その時ある舎人がおりました。姓は稗田、名前は阿礼といい、年令は28才」(「邪馬台国大研究・ホームページ /記紀の研究/ 古事記・日本書紀の成立過程」より)。

これを踏まえると、「こふき」は「口記」、「古記」よりも「鴻基」の方が正鵠を射ているのではあるまいか、と云う。これは卓見であるようにも思える。


【「こふき」御執筆史考】
 1881(明治14)年から1887(明治20)年にかけて32種以上の筆録本が作成された。内訳は、1881(明治14)年、12種類。明治15年、明治16年、8種類。明治17年から20年にかけて12種類、合わせて32種類となって伝存していると云う。これらの筆録本には和歌体と説話体とがあり、内容もそれぞれ特徴があり一様ではない。明治16年本からは説話体ばかりとなる。このうち、教内に広く普及したのは、160首からなる「泥海古記」の題名の「明治14年和歌体本」である。別に161首からなる「明治14年3月これを記す、山沢良助」の表記のある山沢本があり、中山正善の「こふきの研究」(天理教道友社、1957年)に復刻されている。

 作成次第を確認しておく。中山正善「ひとことはなし その三」に書かれてある高井猶吉の追懐談は次の通りである。
  「十四五年頃だったと思ふ。教祖様は、良助さんと佐右衞門さんと自分と三人に、こふき話を書いて出せといはれた。良助さんは教祖様のお話の如く和歌態にして出された。仲田さんは話態に出された。が何れも教祖様の思召には添はなかった。その差し出した書き物を下げて頂いたか否かは覚えていない。又教祖様の親しく筆とってお書きになられた泥海こふきはあらへん。第6号やその他に断片的に出てあるやろ。教祖様は、泥海こふきのお話を、ずっと続けてされたのやない。時々仰言ったのを取次の者がまとめたのや」。

 これによると、山沢良次郎、仲田佐右衞門、高井猶吉の三名に「こふき話」の筆記要請が出され、山澤良治郎は和歌体で、仲田佐右衞門は説話体で教祖に提出されたとある。但し、山澤良治郎本は現存し、仲田佐右衞門は不明である。

 1881(明治14)年、秀司の協力者として働く山沢良次郎が、和歌体の「この世始まりのお話控え」(「山沢本こふき」)160首又は161首をまとめている。これが最初のものと思われる。しかし、それは日暮れゆう貞の影響があり過ぎており、教祖が良しとするものではなかった。

 1883(明治16)年、桝井伊三郎が散文体の「桝井本こふき」をまとめている。しかし山沢本の影響を残したもので、教祖はこれも良としなかった。よって定本の地位を獲得したものはない。

 後に、「中山眞之亮のこふき本」(「明治14年本説話体/中山眞之亮 題名なしの泥海古紀」)」が纏められている。これについて、次のような「高井猶吉の伝」とされる「高井家資料38P」が遺されている。
 「元始まりの話は、人間の造った話は、一ツもない。わしの話さしてもらうのも、わしの考えは一ツもない。御教祖様に聞かしてもろうた事、そのままや。われわれ人間がどうして考えて、話出来るものか。この間管長様から、見せて下さった古記やなあ、少し違う処があるからなあ」。 

 「元の理」の定本はない。教典第三章「元の理」が定本の如く扱われているが、これを定本と呼ぶことはできない。その内容が「こふき話」全体に比してあまりにも簡略すぎている。もとより口伝も含めて諸本の裏守護の話し等々のどこまでが、教祖のお話し下されたものか、後の高弟の任意な付け足しなのか、判じ難い具合にはなっている。そういう訳で、今日に至るまで、「定本めいたもの」が登場しているが、定本とは云い難い。これが、「元の理原文」に対する正当な受け止め方であろう。ど、教義上での位置を確定しなければ、荒唐無稽とも思われる話がある。

【「こふき」諸本リスト】
 確認されている「こふき」本は、1881(明治14)年、12種類。明治15年、明治16年、8種類。明治17年から20年にかけて12種類、合わせて32種類となって伝存していると云う。その詳細は不明である。判明次第に、以下に書き込みしていくことにする。

1881年
(明治14)
山沢良次郎 「この世始まりのお話控え」 和歌体
仲田佐右衞門 説話体
高井猶吉
明治15年 山田伊八郎 「古記」(「聞問記」) 説話体
明治16年 桝井伊三郎 桝井本A「神代の古記」 散文体
桝井本B「神の古記」
上田 「神の古記」
梅谷 「神の古記」
「當神古記」
杉田 「神の古記」
今村 「神之古記」
喜多  「神乃古記」
江本   「神乃実古記認文」
宇野 「おはなし」
永尾楢治郎十六年本
不詳本A 「神の古記」
不詳本B 「神之古記」
明治17年 前川  「神之古記」
今村 「神之古記」
増井 「神之古記」
井筒  「神代古記写」
明治18年 松尾  「神之古記」
明治19年
明治20年 鴻田   「神之伝里記」
年不詳 木村 「神之古記」

 他にも公開されているものとして、「日本無双書物」、「この世始まりのお噺(はなし)控え」、「神の古記」、「古記」、「天輪王命」等の題名を付した諸本が作られている。梅谷文書、高井家資料、山田伊八郎文書、松永好松遺稿が言及している。(村上重良「ほんみち不敬事件」34P参照、詳細は別章【お道の理論研究】の「別章【元の理】」に記す)。

 まだ公表されていない鴻田忠三郎文書、木村家文書など、書き残されて保存されている貴重な「こふき諸本」がある。「仲田儀三郎版こふき」も焼却とされているが保存されている可能性もあろう。桝井本に欠けていて、意味が通じ難い箇所につき、上田本、宮森本、梶本本、喜多本等がある。

【「仲田儀三郎版こふき」考】
 興味深いことは、数ある教弟の中でも取次第一と云われた教理派で、伊蔵と共にみきの教えを説き続けようとした第一等の人だった仲田儀三郎の「こふき」の内容と行方である。仲田は「教祖の最後のご苦労」を共にし、いちのもと分署での過酷な取調べに遭い、出獄後も死の床に就いていた。その仲田は、死の床にあ って、「教祖のお待ちくださる『こうき』をまとめてから死にたい、どうか増野はん、わしが話すから筆をとってくれないか」と、「こうき」を書きあげることに執念の人となった。増野正兵衛は、元長州の萩藩の士族で、教弟の中ではもっとも筆達者と云われていた。増野は、仲田の口述を筆記しながら、「こうき」の内容が今までのとは大きく違うことに当惑し、伊蔵のお指図を仰ぐこととなった。伊蔵は、「『こうき』は、いろいろな者がまとめているが未だ完全なものはない、急いでやってくれ」(「兵神版おさしず」)と指図した。

 こうして、1886(明治19).4.9日、「仲田版こふき」が書きあげられることになった。6.22日、ほぼ書きあげられたと同時に仲田は息を引き取った。享年56才だった。「仲田版こふき」には後日談がある。仲田の死の直後、長男の岸松が、その「こふき」を読んだところ、「こんな恐ろしいものがあったら大変や、どんなわざわいが及んで来るやらしれん」と、父の棺の中へ埋葬してしまったと云う。

 一体、「仲田版こふき」の内容はどのようなものであったのか。数ある「こふき」物とは画然別のものだったと証言されているが、であれば余計に知りたくもなる。れんだいこは、教祖の真意に最も叶っていたものであった可能性があると推理している。残念ながら、「お道」の理論家は陸前と続いているが、こういうところへの関心は向かわない。

 その後、応法の理の時代に入り、教団は自ら進んで「こふき」の廃棄の道へ踏み入った。復活するのは戦後になってであり、1949(昭和24)年に天理教教典が裁定された際に第三章で「元の理」として登場している。しかし、この「天理教教典式元の理」が定本の地位を獲得し得るものかというととても心もとない。当人が云うのは変だけれども、「れんだいこ式泥海こふき」の方がまだしもの感がある。
 「仲田本の派生本」(写本)らしきものがある。天研第13号の井上護夫氏の研究ノート「木村林蔵の五種のこふき関連文書」中の「三、神之古記 明治拾六未歳 四月上浣書之」の項に次のように記されている。
 「問題は、誰の写本を写したのかということであるが、諸井慶一郎氏は、高井猶吉の説き分けと思われる守屋久兵衛の写本との比較から、遠州布教に関わりを持つ仲田佐右衛門の写本であった可能性が高いと述べている」。

 次のように解説されている。
 「木村本『神之古記』は確かに『蜂八万寄ルはをそろしく』の記述が、高井先生の口述記と合致しますし、また『名はたまへ 当未の七年にて存命なり』と、14年本にしか見られない『魂のいんねん』の記述が16年以降本に唯一書かれてある『こふき本』とされる事からも、14年頃の話態で出された仲田本の写本である可能性は十分考えられますね」(2015年11月10日付「『取次人』仲田佐右ヱ門について その一」)。

【蔵内数太「泥海古記について 中山みきの人間学」】
 著者の蔵内数太(1988年、享年**歳)氏は天理教の人ではない。大正から昭和時代の高名な社会学者で、多くの大学の教授を歴任する傍ら多くの論文や著作を残している。その高名な社会学者が、どうして「泥海古記について 中山みきの人間学」(発行者/天理教大阪教区教学部、発行所/天理教大阪教区赤心社、発行日/昭和54年5月26日)を著したか。天理教本部の出版物や個人の発行ではなく大阪教区で発行されている。検印も定価もない。大阪教区に招かれての講演、道友社の『ムック』に『元の理』についての寄稿、天理教本部での講演をまとめてこの冊子にしたものと思われる。冊子の最後には当時の表統領/中山慶一の「蔵内数太先生の二回にわたる講演を拝聴した。教外の学者で、蔵内先生ほどまともに『元初まりの話』に取り組まれた方を知らない」とお礼の言葉を寄せている。蔵内氏は、ご自身が興味を持っていた『人間学』という学問について考えていく中で、元の理の内容が無視できないモノであると思ったと述べている。蔵内先生ほどの学者が無視できない程の人間学の理論体系や研究テーマになり得る内容を含んでいる、という。




(私論.私見)