元の理教理考、その人類史的意義考その2

 更新日/2026(平成31→5.1栄和改元/栄和8)年7.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「元の理教理考、その人類史的意義考その2」をものしておく。

 2007.12.25日 れんだいこ拝


【山名大教会初代会長諸井国三郎証言】
 「泥海こふき」(元の理)について(その一)」。(「山名大教会初代会長諸井国三郎夫妻自伝」(文進堂、大正5年1月発行)69p)
 教祖御在世中のお話と云えば、大抵この泥海中のお話が多かったが、これをお聞かせになる前には、『今世界の人間が元をしらんから、互いに他人と云ってねたみ合い、うらみ合い、我さえよくばで皆な勝手/\の心つかい。甚だしき者は敵同士になって嫉(ねた)み合っているものも、元を聞かしたことがないから仕方がない。なれどこのままにては親が子を殺し、子が親を殺し、いじらしくて見ていられぬ。それでどうしても、元を聞かせなければならん』ということをお話しになり、それから泥海中のお話をお説きになり、終いに、『こういう訳ゆえ、どんな者でも仲良くせんければならんで』と云ってお聞かせになった。

【二代真柱「ひとことはな志 その三  此世始まりのお話」証言】
 二代真柱は、「ひとことはな志 その三  此世始まりのお話」冒頭で次のように記している。
 おつとめは、よろづたすけ(万救け)のために勤められるものであり、よろづたすけとは、ひとり人間の身上ばかりではなく、農作や日本、世界の上にも及ぼされているのを申しました。言わば、人間身上なり、生活なりの上につき、あらゆるご守護を下さることをお述べ下されているのでありますが、何ゆえに、このおつとめに、このようなご守護の理をお教え下されているのでありましょう。それにはまず、この世初まりのお話を聞かせて頂くのが順序であります。と言うのは、教祖様(おやさま)は、 『おつとめによって、この世に再び人間をつくるのだ。更生さすのだ』 ということを仰せになっています。

 元初まりの親神様が、教祖様(おやさま)の口を通じて、人間創造の思召(おぼしめし)をお聞かせ下され、人間の心の掃除をして、人間創造当時と同じように、その後“ほこり”にまみれ、いろいろな勝手な“いんねん”を積んできた人間を、人間創造当時の如(ごと)き、無垢(むく)なものにつくり直す』 ことを仰せになっているのであります。 (中略) 『おつとめによって、その昔、ない人間を創造された時と同じように、この世で人間をつくり直す』、と仰せられているのであります。『心を澄まして、創造当時と同じように、“ほこり”にまみれない、楽しい人間と更生さすこと』、を仰せられたのであります。されば、おつとめの理を思案させて頂くためには、まず、この世初めのお話を聞かして頂くのが順序なのであります。

【「諸井政一集」証言】
 「諸井政一集」の後篇84p、御講話傍聴録二より 
 火は火や、水は水や。何でもないと思うていては違う。火と水とは一の神。なくてはならんものの一つ。間違うたら、どうにもこうにも人間の力で防げん。ここをよう思案せよ。 さあ、そうなってきたら、いかな強欲(ごうよく)でも、悪気者(あっきもの)でも、そんな事どころではない。何もかも忘れて、まず第一に手を合わすやろ。さあ、手を合わしたら何と言う。「なむ」という言葉が先へ出るやろがな。「南無」は親神(月日/くにとこたち・をもたりのみこと)やで。いかな大水も、大火事も、大風も、皆これ「親の意見」やから、知らず知らず、親を呼び出して頼むというは、仏法というものを、人間の心和(やわ)らげるために、教えておいたのやで』 と仰いました

【宇田川文海証言】
 「みちのとも」大正6年9月号、宇田川文海「天理教と時世」より
  (前略) 教祖はまた、この理を一層分かりよく、 『届かぬ者や、足らぬ者を、届かぬ者じゃ、足らぬ者じゃ、と言うておくのではない。届かぬ者には、届いた者から届かすようにしてやってくれ。また、足らぬ者には、足った者から足らすようにしてやってくれ』、と。

【桝井伊三郎証言】
 明治10年10月25日、桝井を前にして次のようにお諭しされている。
 さあ八十の年をまちかねた/\。この話しはなあ、聞き流し説き流し、よく心に治めてくれにゃならんで。取り違えのないよう、あんな話しと思うて聞いたらいかんで。あんな話しと思うてきいたらあんな話しになってしまう。人間元の理がわからなければ何もわからん、何も知れようまい、心して聞かにゃいかん、心によう治めてくれ。
 (「おやさまのおことば」/ 目次topへ

【氏名不詳証言】
 明治10年10月28日、教祖の次のような御言葉があった。
 人間元はじまりの話し、よう心に治めねば子を育てることできようまい。子を育てることできぬようでは親の恩はかやせ(返せ)まい。子を育てゝこそ親の恩は返せるのやで。(行空き)
 お産は病いではない。だがお産から色々と病いを引き起こすような事がもしもあったなら、女として女の道がたっていないからや。

 (「おやさまのおことば」/ 目次topへ

【深谷源次郎証言】
 教祖ご自身は何と仰っておられるのか。深谷源次郎先生(河原町初代)のお話しでは、「神様(教祖)は、いつも私たちが行くと、人間を創(はじ)めた時の話をしなさる。そしてそのたびに、泣いて聞かして下さった」。(みちのとも大正10年3月号、深谷先生の御話し/深谷源次郎より)
 神様(教祖)は、いつも私たちが行くと、人間を創(はじ)めた時の話をしなさる。そしてそのたびに泣いて聞かして下さった。 『変わらぬのが天の理やで。米を植えたら米、麦を蒔(ま)いたら麦が生える。芥子(ケシ)の種には芥子の実がのる。この理をよう聞き分けておくれ。人間は、人間が産んで、独り大きいなって、偉くなれば、我が力で偉くなったように思うが、それは大きな間違いやで。人はどうでも、我さえ良くば、という心ではいかん。皆々、神様の可愛い子供や。我が身が可愛いように、人さんを可愛がってやっておくれ。我(が)があってはならんで。欲があってはいかんで。世の中に、火難に遭(お)うて裸で泣く者もある。盗難に遭(お)うて、難儀する者もある。何で、このような目に遭(あ)うか。この理を聞き分けておくれ。神は、可愛い子供に苦労さしたくない。皆の心意気が、ころっと違うからやで』と、聞かして下さった。

【「泥海古紀之訳」】
 「泥海古紀之訳」参照。次のように諭している。
 御教祖が天啓によって御話し下され筆に残って居るところの泥海古記は、理を仰せられたもので皆な悟りなり。月日が道具神を食うてしまうて仕込んだとの仰せ、この理が悟りである。あたかも日本に古事古記神代記とか種ゝなる古事伝説の不思議なる事が伝えられてある如く、これを神の恵みの説きわけとして拝する必要がある。一言説いたら百巻の書物と仰せられてある。

 泥海古紀は実に深淵なる意味の存するところにして最も重要なる宇宙の大真理が見出す根元であって、道を学ぶ者、殊に人を教導する本教教師たるものは、誠心誠意神意を悟り、深く治めさして頂くべきことが肝要である。しかしてこれはいわゆる神秘的の奥儀の存在するところ故、最も畏れ多き意味ある故、文書につづり難く、もとより真理の奥意は筆墨によりてその真味を悟ることは不可能のことに存する次第なり。

【梅谷四郎兵衛証言】
 「こふきと道の人(その一)」、昭和2年10.25日発行「洗心」第6号(天理教洗心会)より紹介。
 山田清治郎先生がお子さんの身上について案じた末、何かお諭しを頂きたいと思って、梅谷四郎兵衛先生を御宅にお訪ねになったことがある。来意を聞いて、「うん!そうか、まあこっちへお上がり」と山田先生を招じて、二時間余に亘って御こふきの御話を諄々とお説明になった。家には子供の身上が迫っているために、聞いていられた山田先生は気が気やなかった。最後まで御こふきをお話になった梅谷先生は、「御教祖がな、御古紀(こふき)を本当に受けるものでなけにゃ、お道の人やないでと仰って下さったことがある」と付け足された。御伺いした病の理に関しては一言も仰せられなかった。二時間余り聞いて帰られて見ると、御子息の御身上はケロリと忘れたように癒っていた。
 「梅谷先生より間接証言」(「天理十冊本」、昭和11年「第6回教義講習会講義録」「根の国日本」山田清治郎より)。
 梅谷先生よりお聞かせ頂きましたお話でありますが、後になれば天理十冊本というのができる。即ち”こふき”であります。それを外国に広める。外国の人はそれを見て感じるならばどんな者でも助かる。しかしこんなものという心であったら、その場で倒れる様な御守護であると聞かせて頂きました。

【山田清治郎証言】
 「こふきと道の人(その二)」、昭和32年1月第9号「みちのだい」「対談 山田清治郎先生にきくー親心についてー」より。
 どの子であったか忘れたが、子供が病気で熱が出て下らない。いろいろさんげしたが御守護頂けないので、梅谷四郎兵衛先生にお諭しを頂きに行った。ところが、お話し下さるのは泥海古記のお話しで、なかなかおやめにならない。そのお話しなら、自分も知っているので、ついうっかり聞いていると、だんだん眠くなって来て、どうにもならない。膝をつめったり、手をつめったり、やっとやっと目を開いて聞いていた。お話しがすんだ時先生は、「どんな話も聞かしておけ、どんな話も聞いておけ、まさかの時にはどんな理も浮かばしてもらう、と聞かして頂いている。あんたは今日はそんな話を聞きに来たのやない、と思うやろう。わしも、こんな話をしようと思うたのやない。これは神様が浮かばせて下さったのや、とわしは悟る。あんたは今日こんな話を聞きに来たのやなかろうが、この話を聞けとおっしゃっている、と思うて聞いてもらわねば何にもならぬ」とおっしゃった。実に耳が痛かった。甘露台へお参りして、心から自分の不心得をお懺悔して、今日のお話し、どろうみ古記をしっかり心におさめさせて頂いて帰って来たら、子供の熱はすっかり引いて御守護を頂いていた。人間思案を捨て、理屈抜きで、神一条に徹しきらねば、本当の神様の御守護は頂けないとつくづく悟った次第である。

【山田伊八郎証言】
 「この元なるはどろの海 」。次のお話は「山田伊八郎伝」の編集主任・山本徳雄さんが教義及び史料集成部の史料担当者会総会において、”『山田伊八郎伝』について”と題して昭和50年2月27日に講話されたものです(史料掛報214号より)。
 (前略)伊八郎先生は山中忠七先生の一人娘を嫁に貰われましたために想像外、教祖に非常に接近させて頂かれて、少々無理な時でも休んでおられる時でも、側へ行って話を聞かして頂いておられるんであります。奥さんがそうした立場であったために、山中忠七先生に連れられては気安く、お側にお伺いされているのであります。嫁入って来られる前、最後の三年間はお膝元でお仕込み頂いた、そのこいそ様の婿であるという立場でもあったんでしょうが、いろいろ遠慮なくお話し聞かせ下さっております。そのお話は大体八割、九割までは元の理のお話であります。どんな身上・事情でお伺いせられても、元の理の話をあちらこちらから角度を変えてお話下されています。こうして、教祖が伊八郎先生に数多くお仕込み下さいましたが、その重要なお仕込みの中の最後のお言葉が、私非常に気になるのであります。それは、明治十九年十月三日(旧九月十六日)のお言葉であります。その時の聞き書きを拝読さして頂きますと、

 『明治十九年旧九月十一日ヨリ食ジ、平日ノ通とハ沢山たべ、その後十五日迄腹がツカイ、同十五日、相成候得ハ母が亦、腹がツカイ、同十五日夜 相成候得ハ、亦ムメ女(二女)がむりヲゆい、同十六日、幾栄(長女)が亦、腹がイタミ、同十六日、神様へ参詣致す。神様二度御噺しにヲデマシ。その御噺にハ』(山田伊八郎文書196頁)として教祖のお言葉を書いておられるのです。この『神様二度御噺しにヲデマシ』、一度は山田伊八郎が来ているから、話をしてやろうと思ってお出まし下さったようでありますが、何とも仰せられずにお入りになって、それでも帰らずに待っておられたんであろうと思いますが、二度目またお出まし下さってお話下さったお言葉が、簡単な一言であったんです。重要なお仕込みとしては、これが最後になっているんですが、これまでに十分いろいろお話下さっている。最初出て下さってお入りになり、二度目出て下さってこの一言をお話下さるということは、私拝察させて頂きますのに、これまでのようにいろいろと話してやろうか。しかしあまり話してやるのもいいやら、話しないのもいいやら、どうしようかと思って、ご思案して下さっていたのではなかろうかと拝察するんです。そして二度目にたった一言おっしゃったのが『残念/\。この元なるハどろの海。それをしりたる者ハ更になし』。これだけおっしゃってまたお入りになったんです。『これだけの御噺し。午後三時頃ヨリ帰村いたし』。これだけの話で到頭終わって、それから伊八郎先生はどれだけの時間お屋敷に置いて頂いておられたのか、ご思案しておられたのかわかりませんが、午後三時頃から自分の村へ帰って来たと書いておられるんです。

 ただ簡単にこれだけなんですが、拝察さして頂きますのに、これは教祖の重要なお仕込みであったと思うんであります。私よく元の理についていろいろ僭越な考え方をしたり、いろいろさせて頂きますのも、実はこのお言葉が元になっているのでありまして、伊八郎先生が生涯何の身上や事情のお助けに出られても、必ずこの元の理の話(当時は泥海古記とおっしゃった)をせられんことは一度もなかったというのであります。お助け頂いた人達の話を聞いてみますと、それで不思議に良くなったというのです。山田伊八郎先生も教祖にいろんな身上や事情のお話、身上お知らせ頂いて参拝なされ、そしてお伺いされたら元の理の話を聞かして下さる。それで帰ってみたら御守護頂いているということばかりをほとんど続けておられるんですが、伊八郎先生も生涯元の理を説いて、身上や事情の諭しもなかなか大したお方であったようです。この方の五人の弟子と言われた人が、身上や事情の諭しでは有名な先生になられたのであります。それだけに伊八郎先生も大したものでありますが、しかし元の理の話をせられないことはなく、必ずその話をなされたというのです。それで教祖のお心、思召をしっかりと心に治めておられたようであります。特に、最後の明治十九年三月十三日の教祖が二度もお出まし下さって、ただ一言『残念/\。この元なるハ泥の海。それを知りたる者ハ更になし』とおっしゃってお入りになった。これが最後のお言葉であったということが、特に厳しく伊八郎先生の胸に打っているのではなかろうか。お悟り下さっていたように思うのです。(後略)」。

【その他間接証言】
 神さまは、どうして、こんな形の生物世界のしくみをお創りになったのであろうかと思う。これが分らない。教祖はこのことについて、どうお話になったであろうか。私が教祖にお会いした人々から聞いた話の中には、それに対する話はない。誰も質問しなかったものであろうか。あの当時の人々は、それは当り前のことで、世の中の当然の仕組みとして疑問に思わなかったらしい。「人間はどうして水を呑まないと死ぬのでしょうか」、「人間はどうして息をしないと死ぬのでしょうか」と質問した人の話も聞いていない。当時は当り前と信じ切っていたものと思う。もっとも、教祖は、『この世に当り前ということはないのである』と仰せになっていたそうだ。そうするとそれに対するお応えもあったものと思う。だが伝わらなかったか、誰も質問してくれないので、お話するきっかけがなかったものか。またお話があったものと思うが、聞き手の方が直接生活に関係がないので、忘れられたのでないか。奥野道三郎氏のお話では、塩は月さまの心とおっしゃったそうだ。
 (「当り前ということは 」、昭和61年12月発行、高野友治著「創象38」(天理時報社)2~3pより)。

【お指図証言】
 人間々々元が分かろまい。世界中皆(みな)神の子供。難儀さそう、困らそうという親はあるまい。親あって子がある。この理を聞け。憎い可愛(かわいい)の隔てない」(明治20.12.9日補遺)。

【門外不出の「元の理」考】
 大正14.11月、奈良県丹波市町(現在の天理市)の天祐社から「非売品」、「門外漢に禁ず」として「泥海古記」が刊行された。同書の序には次のように述べられている。
 御本席より河原町初代会長深谷大先生が頂き、その高弟たちに分かちた、原本をそのまま印刷したもので金の力で容易くも求めることのできない、実に大切な我が御道の生命とする極めて尊い宝典であります故よく研究して待つ大の家宝として保存せられんことを。

 天理教本部は、この秘本を悦ばず、後に信徒達から回収し焼却処分している。教祖の教義の要である「天地人間創造の元初まりの理話し譚」(「泥海こふき」とも云う。以下、単に「元の理」と記す)が何ゆえ、天理教本部から隠されたのか。ここに「元の理」の凄みがあると窺うべきだろう。

 2007.12.25日 れんだいこ拝

【岩井尊人「泥海古記附註釈」】
 泥海古記は御教祖に初天啓 (御年41歳、天保9年西暦1838年) 下りて、文字どほり『元、実たるの神』様の御体、 御屋代となり給うてより46年後(御年86歳、明治16年西暦1883年)の御口授であります。即ち『元、実の神』さまの天啓のまにまに記されたるもので『ない世界、ない人間を創造』下されたる神さまの御話であります。実に天理教の発祥の大理たると共に宇宙創生の一大哲学であります。神話でありますから凡て分りよき様に譬喩話になっていますが、玄妙の天理、実たるの親としての神様の慈愛と御守護の程、拝すれば拝するにまさりて身にしみます。御本部の正冊を台として重複、脱筆、前後しているところ、併せて文体も談話体に統一いたしました。かく整理して之を文章 に編み下に補註をつけて之を掲げることにいたしました。そして泥海古記の本幹を成す大系は『古記はなし』といふ通称を藉りて第一章として示します。十柱の御守護は第二章として納めましたが、所謂『古記はなし』の本文の中に御口授正冊に挿入せられてある。それで之を抜き出しました。『天理王命』(第三章)、『病は埃』(第四章)、『神楽つとめとよろづ救け』(第五章)との三章は正冊の順序のまゝであります。尤も中には編整上パラグラフによっては入れかへた所もありますが、かく区切った題目を設けることによって一層よみものとして分りやすくなると考へたからで有ます。 御本部の原本を正冊と申しまして、その他御教祖の高弟『とうりよう』先生方の各写本と称せられてゐるものを一括して外冊 と申しました。外冊の用語は中々味のある称呼だと考へます。この名称は教内でふるくより用ひられてゐると現真柱さまより 承りました。
 (岩井尊人『泥海古記附註釈』(道友社、昭和3〈1928〉年11月5日発行)

【蔵内数太「泥海古記について 中山みきの人間学」】
 著者の蔵内数太(1988年、享年**歳)氏は天理教の人ではない。大正から昭和時代の高名な社会学者で、多くの大学の教授を歴任する傍ら多くの論文や著作を残している。その高名な社会学者が、どうして「泥海古記について 中山みきの人間学」(発行者/天理教大阪教区教学部、発行所/天理教大阪教区赤心社、発行日/昭和54年5月26日)を著したか。天理教本部の出版物や個人の発行ではなく大阪教区で発行されている。検印も定価もない。大阪教区に招かれての講演、道友社の『ムック』に『元の理』についての寄稿、天理教本部での講演をまとめてこの冊子にしたものと思われる。冊子の最後には当時の表統領/中山慶一の「蔵内数太先生の二回にわたる講演を拝聴した。教外の学者で、蔵内先生ほどまともに『元初まりの話』に取り組まれた方を知らない」とお礼の言葉を寄せている。蔵内氏は、ご自身が興味を持っていた『人間学』という学問について考えていく中で、元の理の内容が無視できないモノであると思ったと述べている。蔵内先生ほどの学者が無視できない程の人間学の理論体系や研究テーマになり得る内容を含んでいる、という。





(私論.私見)