「泥海こふき」(元の理)教理考、その人類史的意義考
教祖が泥海こふき(元の理)を説かれた理由考

 更新日/2026(平成31→5.1栄和改元/栄和8)年8.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「泥海こふき(元の理)教理考、その人類史的意義考」をものしておく。

 2007.12.25日 れんだいこ拝


【天理教教理の格考】
 教祖みきは、過ぐる「堪能の日々」において、家族の「談じ合い、心の練りあい」を殊のほか重視していた。この頃のみきの教理の骨格を確認しておきたい。みき教理は究極「泥海こふき」(元の理)に辿り着き、これを逆に言えば「泥海こふき」(元の理)より全ての教理が汲みだされると云うことにもなり、「おつとめ」の所作、作法も生み出されていくことになる。この次第を見ていこうと思う。

 付言すれば、小滝透氏は、著書「天理教QアンドA」の末尾で次のように述べており、絶賛を惜しんでいない。
 まとめますと、天理教の教えは、その根源にある人間存在への肯定を基本にして、現代世界の最も解決すべき環境の問題、戦争の問題、労働の問題等に大きな貢献を為す可能性を秘めたものと考えられます。天理教は個人個人のたすけはもとより、思想やシステムとしての世界救済論をも併せ持っているのです。

 植田義弘氏は、著書「理の研究」のはしがき文中で次のように述べている。れんだいこも実に実にと思う。
 概要/復元が叫ばれてから三十数年を経て、形の普請は立派に建ち並んでも、心のふしんの土台は据えられないままになっている。教理を研究しなくとも教祖にもたれて通っていれば間違いないと反問する人は、原典の神意は一切の立場や私心を捨て人間思案を忘れなければわかる筈はないこと、親の思いが分からないままに親にもたれ切っているのは幼児の姿に他ならないことを自分に問い直していただきたいのです。

 2003.8.24日再編集 れんだいこ拝

【「泥海古記」(元の理)とは】 
 天理教開祖中山みきは、折に触れ「泥海こふき」(元の理)を筆に認(したた)め、あるいは口伝してきた。みきは、「み神楽歌が作られる前には、教祖は元初まりのお話ばかりをされていた」と古い人達が伝えているように、その教義の中核に次のような説話「泥海こふき」(元の理)を語っていた。

 「こふき」が「古記」なのか「口記」なのか定かではない。「泥海古記」(元の理)の由来も定かではない。教理的には、「神の社(やしろ)」として貰い受けされた教祖に、元の神、実の神が啓示した天地創造譚であり、人類誕生と歩みの真実の実話とされる神話であり、且つ神楽つとめの台として拝受されている。この教理は教内的には呑み込めようが、教外の者が鵜呑みできるかどうか。れんだいこ的には、半ば呑み込め半ば鵜呑みできず、むしろオリジナルテクストのようなものがあるのではないかとの関心を湧かせたまま今日に至っている。

 1881年(明治14年)4月、教祖がお筆先第16号を執筆された頃、官憲の禁圧は最も強まっていた。教祖は、これに抗するかのように、この頃から頻りに側近の高弟達に、「『こふき』をつくれ」と指図し始め、「こふき」をまとめるようお急き込みされるようになった。それまでも折に触れ「こふき」をお筆先に記されていたが、このたびは高弟の手を借り、各自の悟りに応じて纏めるよう指図していることに特徴があった。ちなみにお筆先は1882(明治15)年に終筆している。これに立て合うかのように「こふき」の執筆を促したことになる。これを思えば、「こふき」こそいよいよみき教理の集大成であったと云えよう。

 かくて、「お道」の高弟による「こふき」の執筆が始まった。「天理教教典  第三章 元の理」冒頭で、「元の理」の意義と意味について次のように記している。
 親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろ(社)として、この世の表(おもて)に現れた、奇(く)しき因縁(いんねん)と、陽気づとめの理を、人々によく了解させようとて、元初(はじま)りの真実を明かされた。

 「おふでさき註釈」は次のように記している。
 神楽づとめの理を明らかにし、親神様の、この世人間創造のご苦心をお教え下さるために、元初まりのお話を詳しくお説き下されている。

 「天理教教祖伝第八章親心、元の理」が冒頭で次のように記している。
 かくて教祖は、つとめの完成を急き込み、その根本の理を諭す上から、元初まりの理を、人々の心の成人に応じて、理解し易(やす)いように、順序よく述べられた。

 天理教事典(天理教道友社)は、「泥海こふき」(元の理)を「元初(始)まりの話」と言い換えた上で次のように記述している。 
 教祖(おやさま)が、人間救済の目的で、元初まりの真実、すなわち『元の理』を示すために明かされた、人間世界創造の説話である。『元初まりの話』には、天理教の根本教義が集約されているので、このお話を、一般の神話としてではなく、人間救済のために人間世界創造の元を明らかにされた真実の話として、受け止めることが大事である。
 「AI による概要」が次のように解説している。
 天理教の『泥海古記』(どろうみこうき)は、世界と人類の始まりを独自の神話で描く、非常にユニークで深みのある物語です。ただの古い言い伝えではなく、生命の進化や助け合いの心を伝えるメッセージが込められています。

【教祖が「泥海古記」(元の理)を説かれた理由】 
 教祖は、何故ゆえにこの世の元初まり話し「泥海こふき」(元の理)を聞かせて下さったのだろうか。これにつき確認しておく。お筆先が、元の理を説かれた理由を次のように記している。
今までに ない助けをば するからハ
元を知らさん 事にをいてわ
九号29
今までも 知らぬ事をば 教へるハ
元なる親ふ 確か知らする
九号30
元なるの 親ふ確かに 知りたなら
とんな事でも 皆な引き受ける
九号31
月日にわ 世界ぢううを 見渡せど
元始まりを 知りたものなし
十三号30
この元を どふぞ世界へ 教えたさ
そこで月日が 現れて出た
十三号31

 人間を創造したのは誰なのか。何のために人間造られたのか。どのようにして造られたのか。人間とは何かを、造り主自らが根源から説き明かす体裁で、ユダヤ-キリスト教圏の天地創造に比して遜色ないどころか、別系にして更に詳細な「泥海こふき」(元の理)が説かれている。

【A氏の「」説き分け】
 ブログ「天理教教理を学び神意を悟る」氏を仮にA氏とする。 A氏が「」を次のように説き分けしている。
教祖が元を説かれた理由 ②
教祖が元を説かれた理由 ③
教祖が元を説かれた理由 ④
教祖が元を説かれた理由 ⑤
教祖が元を説かれた理由 ⑦
教祖が元を説かれた理由 ⑧
教祖が元を説かれた理由 ⑩

【お筆先の「泥海古記」(元の理)記述】
 「泥海古記」(元の理)につき、お筆先で次のように語っている。
 この世の 人間始め 元の神 
 誰も知りたる 者はあるまい
三号15
 この世を 始めた神の 真実を 
 説いて聞かする 嘘と思うな
三号68
 今までも 心学こふき あるけれど 
 元を知りたる ものはないぞや
三号69
 はや/\と 思案してみて 急き込めよ
 根へ掘る模様 なんでしてでん  
五号64
 この世うの 真実根えの 掘り方を 
 知りたる者は 更にないので
五号65
 この根へを 真実堀りた ことならば
 ま事頼もし 道になるのに
五号66
 この道を 掘りきり通り 抜けたなら 
 上下共に 心勇むで
五号67
 今までに ないことばかり 云いかけて 
 よろづ助けの つとめ教える
六号29
 この世ふを 創(はぢ)めだしたる 屋敷なり
 人間始め 元の屋敷なり
六号55
 月日より それを見澄(みす)まし 天降り 
 何かよろづを 知らしたいから
六号56

 胎内ゑ 宿し込むのも 月日なり
 生まれだすのも 月日世話どり

六号131
 今までも 今がこの世の 始まりと 
 云うていれども 何のことやら
七号35
 この世ふを 一列なるに 真実を
 助けたいから 知らしかけるで
九号28
 今までに ない助けを するからは 
 元を知らさん ことに於いては
九号29
 今ゝでも 知らぬ事をば 教えるハ
 元なる親ふ 確か知らする
九号30
 元なるの 親ふ確かに 知りたなら
 とんな事でも 皆な引受る
九号31
 この世うの 元しっかり 知りた者 
 どこのものでも 更にあるまい
十号47
 真実に この元さえ しっかりと 
 知りたるならば どこへ行ったとて
十号48
 この話し 何と思うて 聞いている 
 これ取次に 仕込みたいのや
十号49
 どのような ことを月日の 思うには
 人間元をこれ 世界中へ
十号50
 早々と この真実を 一列に 
 知らしたるならば 話し掛かるで
十号51
 いかほどに 話しを説いて 聞かしても
 元を知らして おかんことには
十号52
 元さいか しっかり云うて おいたなら
 何を云うても 皆な聞き分ける
十号53
 この世うの 地(ぢい)と天とは 実の親
 それよりでけた 人間である
十号54
 これからは 唐も日本も 知らんこと 
 ばかり云うぞや しかと聞くなり
十号55
 どのような ことも知らんと 云わんよう
 皆な一列に 仕込みたいから
十号56
 日々に 月日の心 思うには
 多くの人の 胸の内をば
十号57
 この心 どうしたならば 分かるやら
 どうぞ早くに これを分けたい
十号58
 世界中 真実よりも 胸の内
 分かりたならば 月日楽しみ
十号59
 それからは 一列なるの 胸の内
 分かりたならば 月日それより
十号60
 段々と 日々心 勇めかけ 
 陽気づくめを 皆なに教えて
十号61
 世界中 多くの人の 胸の内
 皆な澄ましたる ことであるなら
十号62
 それよりも 月日の心 勇み出て
 どんなことでも 皆な教えるで
十号63
 どのような ことでも月日 真実に
 皆な一列に 教えたいのや
十号64
 真実の 心が欲しい 月日には
 どんなことでも 仕込みたいから
十号65
 この話し 何を仕込むと 思うかな
 これから先の よろづ道筋
十号66
 何事も 月日の心 思うには
 日本にこふき 欲しいことから
十号87
 日本にも こふきを確か こしらえて
 それ広めたら 唐はまゝなり
十号88
 この話し 何と思うて 皆なの者
 日本のものは 皆な我がことや
十号89
 それ知らず 何と思うて 上たるは
 胸が分からん 月日残念
十号90
 このところ どのよなこふき したるとも
 これは日本の 宝なるぞや
十号91
 一列の 心定めて 思案せよ
 早くこふきを 待つようにせよ
十号92
 真実の こふきがでけた ことならば
 どんなことでも 月日広める
十号93
 月日より 広めをすると 云うたとて
 皆なの心は 承知でけまい
十号94
 それ故に 取次よりに しっかりと
 頼みおくから 承知していよ
十号95
 この日柄 刻限来たる ことならば
 なんどき月日 どこへ行くやら
十号96
 日々に 取次の人 しっかりと
 心しづめて 早く掛かれよ
十号97
 この道は どういうことに 皆なの者
 思うているやら 一寸に分からん
十号98
 月日には 何でもかでも 真実を
 心しっかり 通り抜けるで
十号99
 この道を 上へ抜けた ことならば
 自由よう自在の 働きをする
十号100
 月日より この働きを 仕掛けたら 
 いかな強敵 来たると云うても
十号101
 心より 真実分り 澄み切りて 
 どんなことでも 親にもたれる
十号102
 この先は 世界中は どこまでも
 陽気づくめに 皆なしてかヽる
十号103
 この者に 月日よろづの 仕込みする
 それで珍し 助けするのや
十一号31
 このことは 一寸のことやと 思うなよ
 これは日本の こふきなるのや
十一号32
 月日には 今までどこに ないことを
 ばかり云うぞや 承知しておけ
十一号61
 このような ないことばかり 云うけれど
 先を見ていよ 皆な誠やで
十一号62
 なにぶんに 珍しことを するからは
 いかな話しも ないことばかり
十一号63
 どのような ないことばかり 云うたとて
 先を見ていよ 見える不思議や
十一号64
 今なるの 悩みているは 辛けれど
  これから先は 心楽しみ
十一号65
 このような 話しくどくど 云うのもな
 これは末代 こうきなるのや
十一号66
 月日より このたびここで 表われて
 どんなことをも 話しするのは
十一号67
 どのような ことも段々 知らしたさ
 日本のこふき 皆なこしらえる
十一号68
 この世うを 初めてからに ないことを
 どんなことをも 教えたいから
十二号138
 この世うの 本元なるの 真実を
 しっかり承知 せねばいかんで
十二号139
 この元を しっかり知りて いる者は
 どこの者でも 更にあるまい
十二号140
 このたびは 本真実を 云うて聞かす
 何を云うても、しかと承知せ
十二号141
 月日には 世界中を 見渡せど
 元始まりを 知るたる者なし
十三号30
 この元を どうぞ世界へ 教えたさ
 そこで月日が 現れて出た
十三号31
 月日にハ この真実を 世界中へ
 どうしてなりと 教えたいから 
十三号33
 世界中 一れつは皆な 兄弟や
  他人というは 更にないぞや
十三号43
 この元を 知りたる者は ないのでな
 それが月日の 残念ばかりや
十三号44
 高山に 暮らしているも 谷底に
 暮らしているも 同じ魂
十三号45
 それよりも だんだん使う 道具はな
 皆な月日より 貸し物なるぞ
十三号46
 それ知らず 皆な人間の 心では
  何ど高低 あると思うて
十三号47
 月日には この真実を 世界中へ
 どうぞしっかり 承知さしたい
十三号48
 これさいか 確かに承知 したならば
 謀反の根は 切れてしまうに
十三号49
 月日より 真実思う 高山の
 戦い災禍 治めたるなら
十三号50
 この模様 どうしたならば 治まろう
 陽気づとめに 出たることなら
十三号51
 これからハ 心しいかり 入れかへて 
 陽気づくめの 心なるよふ
十四号24
 月日にわ 人間始め かけたのわ 
 陽気遊山が 見たいゆえから
十四号25
 世界にハ この真実を 知らんから
 皆などこまでも いつむばかりで
十四号26
 この世うの 人間始め 元なるを
 どこの人でも まだ知るまいな
十六号10
 このたびは この真実を 世界中へ
 どうぞしっかり 皆な教えたい
十六号11
 明治3年頃「よろづよ八首」が作成されているが、このお歌の中で次のように諭されている。
1首  よろづ世の 世界一列 見晴(みは)らせど 
 胸の分(わ)かりた ものはない
2首  その筈や 説いて聞かした ことはない 
 知らぬが無理でハ ないわいな
3首  このたびは 神が表へ 現われて 
 何か委細(一切)を 説き聞かす
4首  この所 大和の地場の 神館(がた)と 
 いうていれども 元知らぬ
5首  この元を 詳しく聞いた ことならば 
 いかなものでも 恋しなる
6首  聞きたくば 訪ねくるなら 云うて聞かす 
 よろづ委細(一切)の 元なるを
7首  神が出て 何か委細(一切)を 説くならば 
 世界一列 勇むなり
8首  一列に 早く助けを 急ぐから 
 世界の心も 勇さめかけ

 これを解説すれば、概要次のように云われていることになる。
 広い世間を見晴らせど、本当の真実を分かった者はいない。それも道理で、神はこれまで真実を明かされなかった。このたび神が現れて、この世の仕組み、人の在り方の元真実、本真実について教えることになった。神が現れたここ大和の地場は神の館である。但し、誰も神館の元真実、本真実を知らない。この話を聞けば聞くほど誰も皆なもっと聞きたくなる。神の話を聞きたければ訪ね来るが良い。一から十まで何なりとたっぷり十分に聞かせよう。神が出て神館の元真実、本真実を説くならば、世界中の人が皆な勇むことになる。神は、世直し、世界の立て替えを心の底から願っているから、世界の人々を勇まそうとしている。(この神の思いを受け止めて広宣流布に列なりなさい)

【「泥海こふき」(元の理)の意義と意味考】
 教祖の御在世中の御話しと云へば、大抵この泥海中のお話しが多かつた。教祖は、これをお聞かせになる前には、大抵次のようにお話しされ、終いに、「こういう訳ゆえ、どんな者でも仲良くせんければならんで」とお諭しくだされた。
 今、世界の人間が、元をしらんから、互に他人と云つてねたみ合ひ、うらみ合ひ、我さへよくばで、皆な勝手/\の心つかひ、甚だしきものは敵同士になつて嫉み合つてゐる。それも、元を聞かしたことがないから、仕方がない。なれど、この儘にゐては、親が子を殺し、子が親を殺し、いぢらしくて見てゐられぬ。それで、どうしても元をきかせなければならん。

 「世界をろっく(平ら)の地に均す」のは、元はじまりの話しによってなのだと聞かされている。
 「こふき」の意義が、お筆先に次のように語られている。
 高山の 説教聞いて 真実の
 神の話を 聞いて思案せ
三号148
 日々に 神の話を 段々と 
 聞いて楽しめ こふきなるぞや
三号149
 今までハ この世始めた 人間の 
 元なる事を 誰も知ろまい
十六号1
 この度は この元なるを しっかりと
 どうぞ世界へ 皆な教えたい
十六号2

 これによれば、「高山の説教に抗するための元始まり話」として「こふき」が位置付けられていること、「人間の元なる事」のこの話を明らかにするので、これを「段々と聞いて楽しめ」との思いから指図したことが分かる。ならば、道人は教祖の思いのままに受け取るのを了とすべきであろう。

【「泥海古記」(元の理)の特徴、その歴史的意義】
 れんだいこ理解によれば、「泥海こふき」(元の理)には次のような特徴が認められる。
 「元の理」は世界の他のどの教説に比しても遜色のない人類創造譚となっている。ユダヤ教-キリスト教聖書の七日間で成し遂げられた創造神話が世界的に流布されているが、「泥海こふき」(元の理)はこれに唯一匹敵する、あるいはそれ以上の説話になっている。これが第一の特徴と思われる。
 その教説に於いて、生物が登場するが、その働きを形容する文言が、それぞれ独特な象徴的な表現になっており、その表現の中に理話しが説かれており、普遍の真理が汲み出せるよう説話されている。これが第二の特徴と思われる。
 記紀神話と同じ神名が登場するが、記紀神話の模倣ではなく一線を画し、発想と主題、展開の仕方と表現のことごとくが類例のないオリジナル性に貫かれており、人間誕生までの気が遠くなるほどの雄大なプロセスを諭している。これが第三の特徴と思われる。
 世界始まりの原基を「泥海」としており、その中に生物の存在を説いている。ユダヤ-キリスト教の聖書の天地創造譚は無(真空)からの天地創造であり、天理教の有(泥海)からの天地創造の方が実際的ではないかと思われる。これが第四の特徴と思われる。
 親神としての月日二神が登場し、天地と人類創造の思惑を語る。親神としての月日二神は、ユダヤ教-キリスト教的エホバ一神と鮮やかな対比となっている。これが第五の特徴と思われる。
 ここで、人間の存在に対する、生活の目的に対する「理説き解答」が示されている。人類としての人間の生命の在り方を問題にしており、民族神話、国家神話とは異なる汎人類的救いになっている。これが第六の特徴と思われる。
 親神の人類創造思惑を披歴しており、これにより被創造物である人間の生きる目的が明かされている。それによると、親神は被創造物である人間が生き生きと生きる様を見て共に楽しみたいとしている。これを「陽気づとめ」ないしは「陽気暮らし」と云う。人間の生きる意味をかく説いた教説は珍しい。これが第七の特徴と思われる。
 元始まりの紋型ない泥海から始まり、生命(いのち)の源流になるいろいろな道具が寄せられ、十全の守護によって丹念に人間が創造されていく。その過程が身近な生き物の働きの例え語られ、他のどの創造譚に比較してみても詳しく、これを聞く者をして得心のいくものになっている。これが第八の特徴と思われる。堅苦しい神話とは一味違う、ユーモアに溢れた気づきの語りが聞く者の心を惹きつけてやまない。
 生命の進化論的変遷を説いている。鉱物、植物、動物に分けられ、動物はアメーバから脊椎動物まで12種類に分岐し、脊椎動物は、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類の5種に分岐する。脊椎動物の一番最初の魚類にドジョウがいて、終わりの哺乳類の中に猿を経由して人間に至るとする「進化論的な創造神話」を唱えている。

 元の理によれば、人は全ての生物類と生命的に繋がっており親近関係が示唆されている。今日の生物分子学は、生物と無生物の間を別種とせず、本質的なつながりで見ようとしており、生命を同根であるとする点でも妙に科学性が認められる。これが第九の特徴と思われる。
10  人間の生成過程が実に長い時間をかけてのものであり、並々ならぬものであったこと。その生成と立てあうかのごとく天地の変成が為されたことが教えられている。これが第十の特徴と思われる。
11  「人間は生まれながらにして罪人である」という「A poison in the blood」とするユダヤ-キリスト教的原罪意識や、仏教的業因縁が説かれておらず、代わりに「借り物教理、埃教理」が説かれている。罪と罰思想がなく底抜けに明るい。これが第十一の特徴と思われる。
12  続いて「たすけの理話」が説かれている。その諭しは、民衆救済の強靭な論理を含意している。これが第十二の特徴と思われる。
13  後の西田哲学の「一即多」、「多即一」との相似性が認められる。その弁証法的構造も注目される。これが第十三の特徴と思われる。

【「泥海こふき」(元の理)の異色性その1】
 みきは、その教義の中核に次のような説話「泥海こふき」(元の理)を語った。単に「こふき」とも命名されている。ここで、「泥海こふき」(元の理)の異色性と歴史的高み」とについて言及しておく。ここではその1として、日本国内諸宗との対比に於いて、なぜ中山みき教理だけが創世記を持っているのかに着目してみたい。実際には、記紀神話が世界に冠たる創世記を持っているので、中山みき教理だけのものではない。だがしかし、中山みき教理の「泥海こふき」(元の理)のみが「創世記中の創世記」とも云うべき「人類誕生の偉業の記述」を持っており、その差に於いて、中山みき教理だけが創世記を持っていると断ずることができる。このことが、「泥海こふき(元の理)の異色性その1」になる。これを確認する。

 天理教は幕末創生宗教と云われる。その中でも、「幕末三大新宗教」が黒住教、金光教、天理教であり、共に仏教色より神道色を濃くしている。但し、仔細を観察すれば、教理的に共通するところもあれば異なるところもあり、中でも天理教だけが創世記たる「泥海こふき」(元の理)を持っており、それが異色となっている。

 中山みき教理の国内諸宗との相違の最たるところは、日本神道が依拠する記紀神話の天地創造譚とは別系の天地創造神話を説き明かしているところに認められる。天地創造神話が何故重要かというと、天地創造神話の説き分けとして教理が生まれているという元の親的地位を占めるからである。もっとも、仏教、儒教が創世記神話を持たないからといって遜色(見劣り)する訳ではない。これを持つことの良し悪しは別の問題である。

 そこで、「泥海こふき」(元の理)がどのようなものか確認する。天理教事典(天理教道友社)は「泥海こふき」(元の理)を「元初(始)まりの話」と言い換えた上で次のように記述している。
 教祖(おやさま)が、人間救済の目的で、元初まりの真実、すなわち、『元の理』を示すために明かされた、人間世界創造の説話である。『元初まりの話』には、天理教の根本教義が集約されているので、このお話を、一般の神話としてではなく、人間救済のために人間世界創造の元を明らかにされた真実の話として、受け止めることが大事である。

 みきは、その教義の中核に次のような説話「泥海こふき」(元の理)を語った。単に「こふき」とも命名されている。その内容は、大きく見て三部作(段落)と看做すことができる。まずは、人間創造の意味と、その為の雛型道具引き寄せ譚。続いて、体内宿し込みの試作譚、最後が、八千八度の生まれ代わり成人譚である。但し、最後の八千八度の生まれ代わり成人譚は「こふき」諸本では語られているが、お筆先には記されていない。即ち、専ら口伝として御話しされていたのではないかと思われる。続いて教祖魂のいんねん、屋敷のいんねん、貸しもの・借りもの、一列兄弟、心のほこり、つとめの理、をびや、お守り、赤衣、親里詣り、かんろ台、出直し、心の入れ替えなどが諭されている。

 この「泥海古記」(元の理)」教理の中で、天理教教義全般が語られており、いわば円環的な教理体系となっている。且つ、次のような構図での教理として打ち出されている。
 概要/(この話は、)学問にない、古い九億九万六千年前のことの、命の元真実、本真実を語るものであり、同時に天地開闢世界創造の元真実、本真実神話である。それを世界へ教えたいとして明らかにされた。

  中山みき教理の「泥海こふき」(元の理)の秀逸さはその二でも言及するが、出来栄えが能く、世界に冠たるものになっている。このような教理を、天理教教祖中山みきがよくぞ伝え遺したことよと感嘆させられる。

 「泥海こふき」(元の理)の諸内容の由来は分からない。教理的には、神の社(やしろ)」として貰い受けされた天理教教祖中山みきに、元の神実の神が啓示したものを、教祖中山みきが自動書記的に書き綴り又は口述したものを側近が筆記したことになっている。この天地創造譚は神話であり実話であり且つ神楽つとめの台として拝受されている。

 この説明は教内では拝受され首肯されている。但し教外には通じがたい。れんだいこは半ば教内、半ば教外なので、教内的首肯も理解できるし教外的疑問にも首肯する。そういう立場からかどうか、天理教教理に触れほぼ全貌を確認しえた頃よりずっと、伏線的なオリジナルテキストのようなものがあるのかどうか、その存在に関心を持ち続けている。但し未だ見えていない。

【「泥海こふき」(元の理)の異色性その2】 
 次に、「泥海こふき(元の理)の異色性その2」を言及する。これを確認する。「泥海こふき」(元の理)の諸内容は天理教独特のものであると同時に、天地創造譚の文量が恐らく唯一無比の精緻にして説諭力のある長大文になっている。天理教は、「泥海こふき」(元の理)という天地創造譚を持つことにより、世界に伍して競える宗派としての格を持ちえており、このことが天理教に偉大さを備えさせている。付言しておけば、天地創造譚を持つことの良し悪しは別の問題である。仏教、儒教、その他の教説が持たないからといって教説の評価が落ちる訳ではない。

 世の天地創造神話評は、ユダヤ、キリスト、マホメット教圏内が崇めるユダヤ教聖書の天地創造譚が筆頭に挙げられる。その対抗としてギリシャ神話、日本の記紀神話などがある。世界にはまだまだ他にもあるだろう。が、れんだいこの見るところ、中山みき教理の「泥海こふき」(元の理)の方が断然秀逸と悟らせていただく。「泥海こふき」(元の理)を持つ天理教教理は、国内諸宗との対比を越えて世界宗教として登場しており、世界宗教の三大精鋭であるユダヤ教、キリスト教、マホメット教圏創世記「ヤハウェYahweh)の七日間天地創造」説に対置させて何ら遜色のない天地創造譚になっており、互角以上に教義問答し得る稀有な事例となっている。ここに「中山ミキ教理の歴史的高み、それも世界史的な高み」がある。これについては、「セム系一神教(ユダヤ、キリスト、イスラーム)の天地創造説との比較」で概述する。

 「泥海こふき」(元の理)は、教祖中山みきが口述し、一部はお筆先にも認められているが、親神の天地創造意思を契機としてはるか大昔よりの、泥海中で始まった有性生殖史を説いている。その際に働きされた十柱の神々の守護の様子が瞠目すべき示唆に富むものとなっている。生命の進化の経緯や、生命の同根諭し、互い助け合い諭しが秀逸で、人類の在り方に対しての警鐘と人類更生の導きになっている。

 かく確認しておきたいのだが、天理教本部教理の理解は、様々な事由で敢えて辞を低くしているのかどうかまでは分からないが(そういう見立てもできる)、「泥海こふき」(元の理)に対する称賛の仕方が、創造説話があること自体の称賛、それに続いて、「泥海こふき」(元の理)の諸内容が奇妙なほど現代科学の成果とも符合しているという二面からの称賛に止まっている。そういう評価は「泥海こふき」(元の理)評価を扁平にしていないだろうか。「泥海こふき」(元の理)の歴史的高みにまで迫っておらず、というか迫ろうとしておらず、「天理教独自の天地創造譚」の枠内に納めようとしているように思われる。しかし論より証拠で、読み解けば説くほど、人類史上の最高財産としての「泥海こふき」(元の理)が本来の評価を求めて止まないだろう。このことをはっきりさせておきたいので主張しておく。

 「元の理」が「泥海古記」と称されて道人のバイブルになっていたお道初期の時代に於いては、「元の理」の説き分けそのものに対する感動、それより発する諭し話しに対する深い味わい、人の生き方としての助け合い、その必然的発展形態としての講の結成、世の立替、世直しに向かうドラマを生んでいたのではなかろうか。

 神話の多くが、時の支配者の支配の正統性を裏づける為の勝ち馬教説になっているのに比して、「泥海こふき」(元の理)はそういうものとは馴染まない世のあるべき姿を模索する構図を据えている。「金持ち後回し、谷底救済」による助け合い共生社会の創出へ向けての世直し、世の立替教として位置している。このことが信者に活力を与え、布教の勇気を凛々とさせ、故に教勢を伸ばし続けていたのではなかろうか。それらの大元、始原に「泥海こふき」(元の理)があり、そのことに値打ちが認められるのではなかろうか。中山みき教理はそういう意味合いの「泥海こふき」(元の理)を持つことにより、日本は無論のこと世界の諸宗教との競合に於いて怯むものは何もない。ここが素晴らしいのだ。




(私論.私見)