大平良平の本席伝関係者証言その1

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2018(平成30).4.16日 れんだいこ拝


回想の御本席(一)   永尾芳枝子 述
回想の御本席(二)   福井藤蔵
(大和国宇陀郡三本松村)
回想の御本席(三)    丸山松蔵(71才)
(兵庫県加東郡滝野村)

 回想の御本席(一)  永尾芳枝子 述
 はしがき

 本篇は某氏の筆記に係るものであるが本誌の一月号に掲載した「人が望めば神が望む」の一篇と多少重複の点がないでもないが彼に漏れた点もあるのでそのまま此処に掲載させて戴くことにした。但し標題は記者の勝手に付けたものであることをお断りしてをきます。(RO生)
 本日は御遠方の処わざわざお越し下さいまして我父の履歴を話せとの仰せでございますが別に履歴と申す程のことも御座いません。しかし先ず我飯降家の御道に引入れて頂きました当時より父の出直しになる迄の経歴を大略お噺致しましょう。  先ずこういふ道筋であります。

 元治元年の頃、私の母は流産致しました。その後は気分も進まず次第に身の自由も叶わず誠に困つて居りました処が、付近の小田中村といふ処に家伝の産薬を売る家がありますから或る日、父は之を求めに行く途中計らずもかねて知合の大工さんと道づれになりました処、その大工さんは「飯降さん今日はどちらへお越しになりますか」と尋ねますから父は答えて「実は妻が流産して近頃は少し煩つて居りますから小田中村へ産薬を買いに行く所です」と云いましたが、この時右の大工さんは 「さうですかそれはさぞかし御心配でございましょう。しかし産薬を買ふより庄屋敷に天理さんといふおびや神様がある。それへ参詣なされては如何でありますか」と云われました故父は大いに喜んで早速その足で庄屋敷へ参詣しました。これがそも/\我が飯降家のお屋敷に帰らして頂きました始めで御座います。この日父は直ちに神様に参詣して御教祖にお目見え致しました。御教祖は言葉やさしく「よう帰つてくれたな」と仰せられます。この時父は 「実は私の妻は流産の後煩いのため非常に困つて居りますのでどうかして一日も早く助けて頂きたいと思ふてお願いに参りました」と申上げました。すると御教祖は極めて口調爽かに「何も案ずる事いらん。すぐに全快するで、さあその御供(リキモツの御供)をいたゞきなされ。これは三服あるで。これを三日いいたゞくのやで。ない寿命でも心次第でふんばつてやるで」と仰せになりました。父は喜び勇んで御教祖のお言葉のまゝに帰つてこの事を母に諭されました。母は大いに安心して「さて有がたい事である。心次第でない寿命もふんばつて下さる事なら如何なる精神も定める」といつて喜びました。そして先ず頂いた三服の御供はその場で一服頂き、残る二服は二日間に頂きました。すると有がたいことには久し振りに床も離れて身の自由もできるやうになりました故その日の午後から父も母も共に急ぎお屋敷へ御礼参りいたしました。この時も御教祖は「よう帰つたおもわくの大工が出て来たと八方の神が手を拍つてお喜びになつたで」と仰せられたのであります。

 それからは間があればたえずお屋敷へ帰らせて頂かれました処がその時分には神様と云つては旧式の中山家の床に御幣一本立てゝあるばかりでありました。そこで父は「かかる結構な神様をそまゝでは余り粗末で勿体ない様に心得ますから別に神様をお祭りする所をこしらえては如何で御座いましょう。幸い私は大工の職で普請は手のものでありますから如何様にも致します」と申上ましたら、御教祖は「できる事ならこしらえて下され」と仰せになりました。それで元治元年にいよ/\普請に掛り始めました。この時御教祖様は 「これは上段の間の普請とも云えば勤め場所の普請とも云ふで。このふしんは三十年目にしかえるのやで」と仰せになりました故、我が父は必らず三十年目にはきつと建て替えさして頂きますと答えていよいよ普請に取りかゝつたのであります。その時の材木は滝本の大新といふ材木屋から又瓦は守目堂の瓦屋から買い求めたのでありますが勿論代金は借りてありましたがその年即ち元治元年の暮になつても払えません処から詮方なくお断りに行きますと神様の御用な ら結好でございますと云つて両方共心よく承知して下されました。終に棟上げの日となりましたが当時はまだ余り熱心なお方もありません。随つて棟上当日も僅か一升の酒も買い兼ねて母はたつた金六銭を持つて布留の「みあか」といふ豆腐屋を本業とし傍ら油などを売つている家へ酒を買いに行つて十五六人の手伝衆に呑んで頂きました処が、ほんの涙程の酒ですから一寸のどをしめす位で中には行き渡らないお方もあります。母は急いで再び布留の「みあか」へ買いに行きましたがその時は少しの金もございませんので 「只今余り急ぎましたからあとより直ぐに代金持参いたします」と云えば先方は「代金後なら売りません」と行つて元の酒壷へあけてしまいました。母も一時躊躇いたしましたが止むなく自分の腰の帯をとつて之を酒代持参する迄は抵当として置いて酒を持つて帰られたのであります。

 当時の教祖様の御艱難御苦労は並や大抵ではなかつた事は今更申すまでもございませんが又皆さんの中にも山中忠七さんなどは普請中毎日/\白米二升なり三升なりを持参して下されそれが普請中は一日として欠けた事がなかつたのであります。処がその普請が落成せぬ中に計らずも大和神社の神官のために道に節が入つて信徒はいづみ、道はあたかも火の消えたやうなものでために誰一人も寄りくるものもないと云つてもよい位でありました。父はそれでも只一人でもふんばらして頂くと云つて満九ヶ年間櫟本村と御屋敷と双方掛け持ちで働かして頂いたのです。又母は絶えずお屋敷でつとめさして頂きました処が明治五、六年頃よりはあちこちと力を入れてくれる人もおい/\できて来ましてだん/\と結構になつて参りました。

 明治六年、私の八歳の頃には御教祖様のお言葉に基づき窓なしの倉と教祖様の御居間とをお拵えになりました。その時教祖様は 「凡そ倉といふものは何処の土地でも皆な窓があるなれどもこの倉は窓なしにしておけ。末では七十五人の人衆の生姿を蔵める所やで」と仰せになりました。この倉は今尚存在して只今の炊事場の南に移転してあります。これより引つゞ上段の間の御普請と二階建が一棟できたのであります。又秀司先生の依頼によつて空風呂も拵らえ尚続いて内倉一棟を建てる事になりました。一寸申上げておきますが、かくて数度の普請を致しますにも今とは違つて多くの大工を召集するやうな事はできません。只父とその弟子達の僅かの人数でこしらえたのであります。この普請中にも教祖様は我父にしばしば温きお言葉で「一日も早くこの屋敷へもどつて来い。わしが独りで困るから早く帰つてくれ」と云つてこの結好なおやしきへ引入れてやると云ふ御慈悲の御言葉がありました。処が櫟本には沢山の得意先がございますから彼処からも普請此処からも来てくれといふ矢の如き催促であります故おやしきへ引移る折もなくつい/\心ならずも馳せる月日に任せてその日/\を送つておりました。そうこうしている中遂に明治七年には長男政治郎が迎え取りになりました。それがため一時は父母も非常に落胆してその揚句凡そ年余といふものは両親共に身上勝れずぶら/\暮して居りました処が或る日おやしきへ帰りましたら教祖様には「何も政治郎がなくなつたからとて心配する事はいらんで。今度は二月の木の芽のふく如くにかやすで。さき名前つけとくで。木ではじんほどかたいものはないで政靭とつけてお くで」と仰せられましたが果せる哉ぶら/\煩つて居る間に与えて頂いたものと見えまして目出度翌年二月に男子が生れました。直ぐに御礼参りせられましたら教祖様は「男やらうがな、さきに名前をつけてあるで」と有りがたいお言葉を頂戴したのでございます。それからもまだ一日送りに櫟本に居りましたが、計らずも父の眼の障りとなり一夜の中に両眼の玉は丁度梅干の様に真赤になりましたで直ちにおやしきへ帰つて教祖様にお伺しますと「何も案じる事はいらん、すぐなおるで、一日も早くこのやしきへ帰る心にさえなれば何も云ふ事いらん」と仰せられました。父も母も一度ならず二度三度も大決心して家族諸共おやしきへ引うつる精神は定めて見まするが扨人情は又格別なものであります。得意先の人々からはいろ/\親切に云ふて止めてくれますので今であれば神様のおさしづであると云つても人が信用してくれましょうがその時分にはなか/\そんな事位では承知してくれませんから止むを得ず一時逃れに「何分家族が多いので家が狭くて困るし又金銭にも不自由であるから行く」と申しますと人々からは「永年住みなれた櫟本をたつて庄屋敷あたりへ行く事いらん。あんな庄屋敷みたいなつまらぬ所へ何しに行くのや。あんな所へだまされて行く事いらん。金が入用なら金も出してやる。家が狭ければ材木もいくらも出してやる。必ず庄屋敷へなど行くな」といろ/\と親切に云ふてくれます。そこでせん方なく遂に神様の御指図であるからと申しますと「どうでも行くなら乞食する覚悟でゆかねばならぬ」と尚もいろ/\と止めてくれます。これが義理と人情のしがらみで一旦精神定めたものゝ又そのままに櫟本に住むことになりました。

 或る日の事に櫟本に神田武三郎さんの普請している時どうしたのか父がいつものやうに手斧で木を削つて居りましたその木屑が飛んで来て右の足の親指の肉と爪との間へ立つて五分程も這入りました。それで直ちにお屋敷に参り教祖様に御願いすると 「案じる事はいらんで。すぐなおるで。一日も早く家族諸共戻つてくれ。わし一人に任せてどうするか。早く帰つてくれ」と仰せられて足の木屑を引出して下さいますとそのまま少しの痛もなく又疵もつかずに助けて戴きました。この時も父母も大決心しておやしきへ帰らして頂く積りでありましたが色々の事情のためつい又々一日延しになつていました処が又或日の事に櫟本の高科といふ処の藍屋の普請の時に父が不思議にも足場を踏みはずして地上にころげ落ちました。尚不思議な事には僅かの普請に木積りが間違つて失敗いたしましたので御座います。思ふて見れば 僅かの普請に失敗するも亦足場から落ちて腰が抜けて自由叶わぬやうになるのも正しく神様の御手引でございましたのでしょう。そこで父を戸板にのせて直ちにお地場に帰りましたら教祖様は「何も案じる事はいらん。早くこの屋敷へ帰りさえすればよいのやで。わし一人に任せて捨てゝおいてくれては困るで。こんどは是非皆なつれて帰つてくれ」と申されました折から妹政枝は風眼といふ眼の病いのお障りを受け弟政甚も七日程もの云ふ事のできないあたかも唖のやうなお障りを受けました。それは間もなく二人共助けて頂きましたがその後もこの二人の弟妹にいろ/\とお手入を頂きました。或る日母は二人の子供をつれてお屋敷へ帰らして頂きますと教祖様は「お里さん(母の名)政治郎の事を知つているか」と申されました。母は「はい承知して居ります」と答えましたら教祖様は「政治郎の事を知つて居ればよい。けれどもこの後もしつかりしいや」と仰せられました。母は 「一日も早くお屋敷へかえらして頂きたいのは山々でございますが何分櫟本の人達は余り惜しがつてくれますからその親切を振り離す袖が御座いませず止むなくお道の事をおもい つゝも日を過して居る様な次第で御座います」と申上ましたら、教祖様は 「人がすくから神もすくのや。人に惜しがられる間は神も惜しがる。人からあれは手寄りやよけいものやと云われるやうになれば神にものぞみはない。人の好む間は神も楽しみ」と仰せられました。母は重ねて「何分子供がありますから子供の成長するまでおまち下され」と申せば教祖様は「子のあるのが楽しみやで。親許りでは楽しみがない。早く引上げて帰つてくれ」と仰せ下されました。然しながらその時分は世の中の反対にかてゝ加えて時の政府の干渉も烈しいので止むなく秀司先生は人間業とは知りながら大和国金剛山に慈福寺といふ寺がある、この寺の住職日暮宥貞を社長として秀司先生は副社長と成りて一の仏式教会を設けられ明治十三年旧八月廿六日に社開きとして門内ではごま焚きを行い屋内では御神楽をしたのであります。一時はこれがために少しは反対も穏かになりましたが又いろ/\の節から反対圧制をせられます故今度は宿屋営業を始められました。素より教祖様の本意ではありませんがしかしながら何事にもその災難が教祖様御一人の御身を救い出そうとせられた結果であります。ここに於て両親も大に決心いたしまして父が母に向つて云われますには「とても櫟本に居つては教祖様の御身を保護する事が覚束ないからせめてはお前だけなりともおやしきに常詰さして頂け」との事に遂に母も大決心を以て明治十四年の十一月に妹政枝と弟政甚とを連れてお屋敷に帰る事となり父と私とは当分櫟本に居りましたのでございます。なれども父は我一家のためばかりに働いて居たのではありません。すこしのひまでもあれば父もやはりお屋敷につとめさして頂いたのであります。かくして父は心ならずも櫟本に居つてお屋敷を保護して居りましたがいよ/\明治十五年二月八日にすつかり櫟本を引き払ふてみな/\お屋敷に移らして頂いたのでございます。

 その夜教祖様は 「お里さんへ伊蔵さんへもうこれからは一つの世帯一つの家内人やで。何に又誰にも遠慮一つもいらんで」と仰せ下されました。その後松枝さんの采配で世帯を北と南とに分けましたがそれについて教祖様の仰せられるには 「一つの家内一つの世帯といふて連れてもどりしに南と北と家内を分けたんが神の残念であるわい。この残念を何うしてはらそうか。宿屋も空風呂もすつきりやめてしまえ。どう してもきかんければ入込でさああいづ立合/\」と仰せになりました。これより先き宿屋と風呂屋とは中山家の営業でありましたが遂に明治十五年四月一日を以て我飯降家に引つぎとなりました。ここに不思議な事には始め私共のおやしきへ引移ら して頂きます時に家族は五人でありましたのにこの時教祖様は 「五人の家内かと思えば六人の家内でふせ込むで」と仰せになりました。この時は父も母も私も不思議におもふて居りましたが後に至つて果してこのお言葉の通りになりました。と申しますのは私共が家族諸共お屋敷へ引移らして頂きます時には何日迄も大工する積りはありませんから弟子共にはそれ/\暇を出して別れてしまい又教祖様は 「道具は何もいらん。皆な人にやれ。道具はやしきに何もかも拵えて神の方に待つているから今迄の道具は皆な人にやれ」と仰せになりますから大抵のものは弟子に分配してやりましたのでございますが音松といふ弟子だけは是非世話せねばならぬやうな事情になりましたので一所に連れて帰りましたら教祖様は左の様「五人かとおもえば六人の家内でふせ込むで」と仰せられましたのであります。実はこのお言葉を不思議におもふてもしや子供でも授かるのではあるまいかと申して居りましたが遂に事情やむなく右の音松をひきつゞき世話する事となつたのであります。

 これがやがて後に至つて一つの節となりました。それは追々申し述べますがここに明治十五年急九月十六日さきに認可せられた仏式教会なるものをにわかに政府より解散を命ぜられ出張せる警官の申すには「天理王命といふ神はいよ/\ない神である。故に今後はどこまでも圧制して倒して終えとの政府の命令であるから十分圧制する」と云つて遂に当日即九月十六日教祖様を奈良監獄に拘引して十日の拘留に処したのであります。そしてその後は毎夜/\警官が止宿人取調べに出張して居ります。然るに御教祖様が御帰りになる前々夜の事ですが折も折とて弟子の音松が客人と同じ室で寝て居りました処が警官が之を認めて止宿人記入漏れであると云いますから「これは内の弟子でございます」と説明いたしましたがどうしても聞き入れてくれません。遂に翌日即九月廿四日に警察から我父に差紙がつきましたので父は急いで出張いたしましたが夕方になつても戻りません。ために家内は一方ならぬ心配して直ちに丹波市分署に尋ねて行きましたら既に監獄へ送つたとの事でした。越えて廿五日この日は教祖様が目出度お帰りになる日でありますので私もお迎えに行きましたが計らずも奈良監獄の前で向ふから腰縄付にて警官に送られて来るのが紛れもなき我父でありました。この時の驚きは今申上げやう言葉もありません。この時梅谷さんは 「芳枝さん。御父さんに会わして貰えるやう警官に頼んでやる」と申されました。しかし余りの悲しさ懐しさのために私は物も云えませんでした。この時父は只一言 「音松をすぐよそへ預けてしまえ」と申されました。考えて見れば前夜の止宿人取調べの際に記入漏れと云われた罪のためである事が覚りました。廿四日に父が差紙に基き警察へ出張致しまして家族は夜の目も眠らず心配して居りましたがその夜は帯解で拘引せられたのだそうでございます。翌廿五日奈良へ送られて監獄へ入つたのは教祖様の御帰りの日と同じ日で教祖様は午前九時に出られて 父は少し早く九時迄に這入つたのでございます。つまり教祖様と入れ違いになつたのであります。父も矢張十日の拘留でございました。

 これよりさき益々警察の臨検甚だしくなつて昼は空風呂に薬を入れるや否やの取調べ烈しく夜は止宿人の取調に絶えず出張して居ります。この廿五日お屋敷では教祖様のお帰りを今か/\と早くから待ち焦れて居られましたが既に教祖様の御迎えもすんで一同安心いたしました。この日参拝者の一人が空風呂に這入りました処が非常に薬の香いがいたしましたから驚いて早速その湯を捨てゝしまいました。その後やゝ一時間程もたつてから私服二名制服二名の警官が出張して直ちに湯場を検査 しました処が案に相違したやうな顔付をしていました。思えば先に密かに薬を入れておいて後再び検査して空風呂の営業に何故薬風呂を炊くかと難題を吹かける積りでありましたのでしょう。処が神様のおかげで早くも悟つて風呂を中止したので警官は今更あきれて「今日は婆さんが帰る日であるからさぞ忙しいだらう」と揶揄つて立ち帰りました。先ずこの日の大災難も免れて結構ですがこの後は如何なる手段を以つて否かる圧制を加えるかも知れませんから今日のこの節を幸いこれ限り思い切つて空風呂も廃業いたしたのであります。けれども本教を誤解している人達はある事ない事種々警察に讒訴致しますからその後も地方の反対攻撃は素より時の政府にもしばしば教祖様や我父を監禁拘留して大いに苦しめたのであります。この時分の反対は思い返せば「ようまああんな中通りぬけた事やなあ」と思います。

 時には夢に見て泣いた事さえありました位です。既に十五年の十月頃からは益々反対が烈しくなつて秀司先生の令閨松枝さんの亡くなられた時などは又々警官が出張して家族の取調べをいたし中山家の家族と飯降家の家族との外は一人も滞在を許さなかつたのであります。この日は前管長様の兄上なる梶本松次郎さんも来て居られましたが警官に「汝は何者であるぞと尋ねられて松次郎さんは「私は櫟本の親類の者で松枝の葬式に来ています」と答えましたら警官は「葬式すめば用はあるまい。直ぐ帰れ」と云います。松次郎さんは又「御承知の通り飯降さんは監獄に拘留せられ家は女子供ばかりですから留守をしております」と答えられましたためやつとの事で無事で滞在する事ができました。次にお久さんに「汝は何者?」と尋ねられる。同じく「松枝の葬式に来ました。私は松次郎の妹でございます」と答えられましたら警官はまた「葬式すめば用はあるまいから早く帰れ」と云われてお久さんはやむを得ずその場で立ち帰られました。お政さんは教祖の娘たる事を説明して滞在せられ重吉さんは当家の百姓男と答えて滞在せられました。何しろ当時は中山家と飯降家との外は一人も出入させませず滞在などは勿論できなんだのであります。

 これより益々参拝厳禁せられて古い先生方や熱心な人達は絶えず逃げかくれして御屋敷に詰められたのであります。一番心配なのは毎日毎夜参拝して詰めている人を隠すのが何よりの心掛けでありました。それがために中川勘兵衞さんと清水さんとは丁度その家が御屋敷裏門を出た処の裏と表になつて居りますから警官が取調べに来た時は直ちに右の熱心な人達をこの両家にかくもふて誰も参拝のないやうに粧ふたのであります。こういふ風でありますから何か一言話すにも小声でさゝやくやうに成るべく内はひつそりとしてあたかも人なきが如くにしたのであります。この当時に於ける有様は実に何とも申されぬ程でありま した。越えて十六年四月廿六日の御命日に父は丹波市分署に出張して「本日は御命日でありますからひょつとすると参拝者があるかも知れません故出張して下さいますか」と願い出した。すると直ちに制服巡査一名出張して表門で参拝者が門内へ立入らぬやう見張をしておりました。その折柄三四名の和服巡査が滝本紡績より酒に酔ふての帰り掛けに立寄つて上段の間に自分等が一銭金をおきながら之を拾つて「この賽銭ある限りは必定今日は参拝者を引入れたに違いない」と云つて怒鳴り散らして遂に御供に封をつけ、その上当時教祖様の御住宅新築中の壁土の中へ捨てゝ三宝などを火鉢の中で焼き捨てあまつさえその火鉢を戸外に投げ捨てたのであります。母と政子さんとは余りの事に警官に向い「この火鉢は 困窮人飯降の後にも前にもたつた一つの大切な火鉢であります。これを割られては跡にかけ替えがありません。どうして下さいます。余りの無法ではありませんか。この事を警察へ訴えるから名前を聞かして下され」と云いましたら流石乱暴極まる警官も無言のまゝ立ち去つたのであります。然しその始めは御供に封を付けて「警察から取りに車でこの御供を障る事ならんぞ」といかめしく云ふて居りましたが酒の上とは云いながら余りの乱暴し過ぎた事に気が付いたかその後いつまでたつてもその御供は取りに来ませんでした。又何事もなかつたのであります。こういふやうな次第で実に命じ十五年から廿一年に至る六ヶ年間といふものは御供や御守や又参拝者をかくして警官にうそを云ふのが仕事でした。そして警官は毎日毎晩時を選ばず何時でもやつて参りますから実に心のやすまる間は一時もないやう な有様でございました。夜深になどやつて来ますと寝て居らいでも寝て居る風に見せて暫く戸を開けずその間に御供を隠したり参拝者でとま寝て居る風に見せて暫く戸を開けずその間に御供を隠したり参拝者で泊つている人をのがしたりしましたのでございます。尚又明治廿一年一月廿六日教祖様一年祭の時なども祭官が付けて今や式にとりかゝるといふ段になつて警官のために妨げられとう/\一年祭も勤まらずじまいになつたやうな次第であります。

 かくの如く警官の圧制が烈しいのに尚その上又暮し向きにも非常に困窮しまして大分よくなつた明治十五年からこちらへでも尚神様に御供えいたします御酒などは日々少々の賽銭をためておいて毎朝おみき徳利を一対もち僅 か五銭のお金をふところにして清水利與門さんの家へ買いに参る様な次第でございました。問 御本席公の大工仕事は何時頃おやめになりましたか?  ハイ、父の仕事の仕おさめですか? それは教祖様の御居間を建てたのが最後でした。この建物は前にも申しました通り教祖様の休息所とも云えば遊び場所とも云ふでと仰せら れたもので、これは父と弟子の音松とが建てたのでございます。これやがて父の大工仕事の仕おさめでありました。壁は梅谷四郎兵衞さんが左官の事ですから引き受けて自分の弟子をひきつれてひのきしんなされたのであります。これは十五年の冬より始まり十六年の冬に落成して教祖はこゝに移られたのであります。この建物は今は新築の御教祖殿の北に移してあります。これより先、中山家では祖先伝来の田地八反計りを一時は困難のため抵当とも致してありましたが当今では無事に取り戻して之を他人に小作に充てゝありましたが幸い明治十六年より父がこの地所を引受けて暇さえあれば勿体ないと云つて働きました。然しこれは教祖様の本意ではありませんからしばしばお止め遊ばされますが何分事情のある事でございますから心ならずも暑さ寒さの厭いなく野に立つて働いたので御座います。或る時などは身を切らるゝやうな寒い日にその上一時間もたゝぬ中に三四回も便所に通ふ御障りを頂きながらそれでも尚休息せずに畑で仕事をして居りました。そして近所の井口さんといふ家の便所へ一鍬しては走り又一鍬しては走りますから井口さんは見兼ねて申されるには「飯降さん時もあらうに今日の様な達者な者でも耐え切れぬやうなこんな寒い日に具合のわるいのに仕事を無理にせんでも又明日といふ日があるのやからまあ今日はゆつくり休んで薬風呂でも入りなされ」と言葉優しく云ふてくれましたが父は「いや/\人を満足さし人を喜ばすためなら寒さ暑さの隔てありません」と云つて働きました。今申し上げると少し愚痴の様ですが道の始め理のわからん間は先ずこんなものであります。実はおやしきに詰めて居る人の中にも「飯降の家内は多人数でとりわけ女子供の食いつぶしが多い」とか「毎日遊んでいる」とか口やかましく云い噺す人もあります。それがため「父は人をふそくにさしては教祖様に申訳がない、又天に不孝である」と云つて身上 障り頂いても休まずに野に立つて寒さも厭わず働いたのであります。然しいろ/\ほこり 事をいい散らした人達は教祖様御存命中に道に離れた人もあり又亡くなつた人もあります。こういふ風で父は成るべく人に不足さゝぬやう又満足与えるやうと如何なる日も野に立つて働いて居ります。しかしながら一方教祖様に於かせられては父の働く事は本意であ りませんために教祖の御身が時々迫る事がございます。云いかえれば教祖様は神様であり ますから父の仕事しているのは身を労するよりも心の苦労が多い事をよく御察しでござい ます。それゆえ御教祖様の御身が時々迫るのであります。迫つて参りますと直ちに「伊蔵さんを呼んでくれ」と仰せになつて扇の伺を仰せ付けられます。そして教祖様は又「さあ仕事をやめ何もする事いらん。今日限り仕事をやめてくれ。そんな仕事をして居つては神の 用事の邪魔になる。早くやめてくれ」と仰せになつて御身はたちまちにして元の通り御全快となります。しかしお屋敷の人達の人情止むなくその後も昼は百姓をする。あまつさえ夜はお家形を拵えると云ふ風でありました。ここに扇の伺と云ふ事に就て一言申添えてあきます。この扇の伺はお道のごく最初の時でありましたが当時は三十三名ゆるされたのであります。皆な一名一人限りと仰せられましたにも拘らず人間はあざないものでありますから遂々人から頼まれるにつれて人の事までも伺ふ様になります。それゆえに神様の御守護がございません。既に人間の伺となりますからたとえば東に指すべきを西に指し南に行くべきを北に行くと云ふ風で丸で間違つてしま いますために折角ゆるされた扇の伺もここに教祖様はお取り上げとなりましたのでございます。問 御本席とおなり遊ばした理由をお聞かせ下さい。父が本席と改めて頂きました事ですか? 何分天にも地にも便りにすべきは教祖様ただ独りであります。その慕わしき懐かしき教祖様には計らずも明治二十年一月廿六日正午に御昇天坐しましてここに悲しき別れを致しました。当日の模様を申して見ますとその朝父は内倉に這入り扇の伺をいたしましたがその時のおさしずには「本づとめせえ/\してもか ゝるせいでもかゝる」と仰せ下さいました故つとめすれば警察行かとおもいおなじかゝるのなら勤めをしてかゝらうと申しまして甘露台の処へあらむしろをしきまわしそれより本勤に取りかゝりましたが警察行どころではなく丁度つとめのしまい方に教祖様がお迎え取りになりましたやうな有様でございます。時はあたかも正午十二時でございました。その後、父は同年旧二月十七日午後からお障りを受けてこの月の三十日迄寝付きました。その間の苦しみやうは非常に甚だしいものでございました。殊に熱が烈しいので玉の如き汗が拭ふ間も ない程流れ出て大変苦しがります。その有様は実に見て居られぬ位でした。神様が入り込んで「早く真柱を呼べ。すぐ真柱をこゝへ連れて来い」との御指図であります。即真柱と申しますれば前管長様の事です。さりながらどういふ訳か管長様はお越しになりません。何分又父のお障りは熱計りではありません。父が申しますには「あばらの骨が一本づゝブチ/\と折れて行く、その又次の骨が折れて行く迄に煮え湯がわいて暫くじつとするとおもふと又次の骨がブチ/\と折れてゆく。こうしてすつかりと折れてしまつた。それからは又コ チ/\と音がして一本づゝはまつて行つた。又つゞいて片一方のあばらの骨が同じく一本づゝ折れて云つて又元の通りに一本づゝはまつて行つた」と申されました。そうこうする 中にもまた神様が入込になつて御指図があります。その御指図は「これまではほこりの仕事場であつたで。席と改め名を付けて綾錦の仕事場所にするで。今は屋形の真の骨を入れかえたで」と仰せになりました。続いて又次の如く「これから先は黒着をきせて五人居ても六人居てもどれが席やら分らぬやうにして働くで働かすで」といふ御指図がありまし た。既に廿三日の夜の如きは非常なる障りでありましてお指図に「どうしてもいかんこうしてもいかんと云えば赤着二つ並べてしまふ」と仰せられました。この廿三日の夜は母と私と只々心配でなりませんから石西さんの湯を貰ふと云つて密かに二人は家を出て石西さ んの湯場の隅で泣く/\大決心をいたしました。父はあの通りに身が迫つてとても三日の日も続くまい。真柱はお越し下されずもしもその中に父が亡くなつたら残る家族はどうすれ ばよからう。今更櫟本村へは帰る事は出来ずいつそ親子四人手に手を携えて河内国方面へ落ち延び乞食するとも大和の国には居らぬと云つて母子は涙と共に語りつゝ悲哀の情に迫つた事がありました。かく申上ますと如何にも弱き精神の様でありますが何分御屋敷の事情もありますし又永の年月教祖様を頼りとして只事は一つの理を命の綱とも頼んで来たその教祖様は今日この世のお方ではありません。続く不幸の昨日今日又かゝる悲境に陥りましたのでございますから実に私共の心の苦しみは一通りではなかつたのでございます。しかしこの時の有様をくわしく云えばあたかも人を恨むやうに当りますからくわしき事は削き ますが先ず当時は泣くに涙さえないと云ふやうな有様でございました。それからも時々神様が入り込んで「早く真柱を呼べ」と仰せられますが御越がございません。遂に辻さんと 桝井伊三郎さんのお二人は思い迫つて真柱を呼びに行かれます。余り幾度も度重ねての催促に真柱もやう/\三十日に至つて御越しになりました。その時のお指図「さあ/\席と改めて神の社ともらい受けたで。さあ承知出来たか出来ぬか返答せ」。真柱の答え「をじのからだを天にさしあげ飯降の家族をわしの家族として引き受けますから安心し て下され」。再びさしづ「さあ人は変つても理は変らん。理は一つやで。これからは別火別鍋!」と仰せになりまして父も直ちに身上元の通りに全快いたしたのでございます。今より四十 年の昔を思い返せば父もいろ/\の道をつれて回られたのであります。既に明治十五年二 月八日にお屋敷へ引越さして頂いてから今も申上げた二十年に本席と直らして頂く迄は一 日の日も長い着物を来た事などはありません。勿論三度の食事に高い膳に据えられた事も ありません。まる六年間はたゝみの上ですわつてたゞの一度もおはしをもたれました事は御座いません。いつもくどのかた(竃の上)で立ちながら食事をせられたのでございます。そののおかげで残るわれらは今日では第一神様のおかげ教祖様のおかげ且は父のおかげによつて誠に結構さして頂いて居るやうな次第でございます。それゆえいつもながら時 と折には教祖様や父上の事を思い出して喜んで居ります。

 回想の御本席(二) 大和国宇陀郡三本松村 福井藤蔵  
 藤蔵氏は御本席の大工友達である。私共(永尾正信氏と自分)の尋ねた頃は氏は病床に臥し危篤の噂さえあつたが再三の懇請により病躯を起して面談してくれた。左の談話は即ちその吐く息引く息の苦しい中より特に私共のために語つた談話である。
 伊蔵さんは私よりも一つ若かつた。大工を習いに行つたのは十五か六の頃で車屋の多重郎と云ふ大工に習つた。その頃は大工仲間で交際もしていたが櫟本へ行つて天理さんのお婆さんの世話をする様になつてからは私も彼の人を見たい、彼の人も私を見たい位の心はあつても互いに打ち寄つて話すといふことは能うせん。その中に彼の人はズン/\出世する。私は詰らぬことになつたから行きさえすれば友達だからもてなしてもくれるであらうが私が不自由して暮らしているから遂いその後は逢わない。子供の時分も伊蔵さんの内と私の内とは離れているから遊んだことはない。寺小屋へは三年位行つたと思ふがハテナ師匠様は誰であつたらう。多分幸田様の息子様の啓次郎様と云ふ御医者様だと思ふが………… 大工は二十位迄親方について直ぐ櫟本へ行つた。剽近(大和方言ひやうけん)なことを云つたけれども正直な男であつた。出世する様な人間は何処か違ふ。その頃は彼の人も若い多重郎(本席の親方)とは従兄弟同志であつた。この多重郎つて人は長瀬の安兵衞つて人ーこの人は此処の正浄寺を建てたーに習つたが腕は私の親方の方がズーッと良かつた。マア折角お出で下すつたが私も老耄れになつて一寸に話せない。兎に角彼の人は仕合せな人だ。私なぞは仕合せが悪くつて大工も止めて詰らぬことをし ていますが………… 兎に角偉い人が出来たものだ。まあ何んでも伊蔵さんのさしつたことは拝み奉つて聞きなされ。その上のことは御座りませぬ。何処へ行つたことは何処へ行かさつても親の事を尋ねて大切にしなされ。私も共に涙をこぼします。………………………………………………折角お出で下すつたからそれじゃもう一つお話しますがきこの宮さんから上へ新池と云ふ池が出来ました。その池に何じゃ土堰を伏せに行つたことがある。私と大工は銀三郎と伊蔵とそれから惣治さんと。それに人足も役人も行つた。皆な昼寝をしました。その間チョット蕨取りに私と銀三郎と伊蔵と三人で山のテッペンに行きました。しこうすると不思議な事があつて伊蔵さんが山鳥の卵を五つ計り取つてその卵を手拭に包むと山鳥が飛びくさつた。チョット迎えに行くとバタ/\と行く。又た抑えに行くとバ タと行く。而して遂々伊蔵さんを山の谷へ連れて行きおつた。而して伊蔵さんが帰つて来んと云つて騒いだ。そうする中に何処を何う歩いたか知らんが帰つて来た。家の人達が迎えに来て水をふくませて連れて行つたが彼れだけの汗を見たことがない。それは何う云ふ訳かと云ふにその山鳥を追つて行き/\する中に遂々道を失つてしまつ た。それで彼地へ行き此地へ行きしている中に年老の老人が来て「お前行く所が分らなければ教えてやる。これを行くとお前の友達の働いている処に出るから」と云つて道を教えてくれた。全く私の働いていた方角であつた。それからヤイ/\云つて連れて返つたがそれが元となつて四五日休んだ。その中に仕事はなしになつた。それは十七八の頃であつた。そう云ふ剽近な人であつたが出世しなさつた。気立てはごくサッパリした人であつたぜ。(了)

 回想の御本席(三)  丸山松蔵(71才)
              (兵庫県加東郡滝野村之内高岡村二百八番地)
 本人は若き時から高松一流の蝶浮節(ちょんがりぶし)を以て世に立ち、明治七年この当時はチョンガリと云ふ字が鑑札が下らないものだそうだが高松氏は自ら郡役所に乗込み係員に面会して堂々と一時間に余てチョンガリの由来を物語つた結果、蝶浮節と云ふ新たの字を係員と二人で作つて願出で、兵庫県第一号の鑑札を得たと云ふ豪の者で、兵庫県下では高松一流と云えば永年その名を轟かした者で、常に御道の心があるお蔭で、芸が教訓的でなか/\面白く、殊に先天的の滑稽家でものゝ一時間も同席していやうものなら臍の掛替を用意して置かねばならん様な面白い人物で、又なか/\お道には熱心で長らく青野原分教会の世話係を勤めて居る、今は隠居の身分でその日を楽しく暮らしている。
 私は明治二十二年から御道の信仰をさして戴きお蔭で其日を楽しく喜ばしく結構に送らして頂いて居りますが、別にどうした有り難い因縁か、私は子供上りから道楽者で蝶浮節を渡世に致して居ります上から、明治二十五年正月十六日大阪北分教会の開講式の際、広岡会長(青野原分教会の前会長)の御手引でその時御臨場の御本席公の御前で桜川五郎蔵の角力場一席を演じ御慰に預りましたのを手始めと致しまして、それから一方ならぬ御寵愛を蒙りました者で、その後御慰に預りました事は何度あつたか確かに記憶に残つては居りま せんが何んでも二十六年十二月の一日から五日間御屋敷の御宅や高井先生の御宅等で御本席様の御注文で昨日面白かつたから今一度桜川をやれとの御命で桜川を初めとして八代騒動大久保彦左衞門、忠臣義士、越後伝吉等の御慰みに預りました。又その翌年十月の御大祭 の夜、琴平霊験記を演じさして頂きましたし、何日か年月を忘れましたが、何んでも御屋敷で招魂祭の執行なつた時であります。その夜は御宅で水戸黄門記の御慰に預り、それから御席様の御在世中には私の御屋敷へ帰らして頂く度に色々の御慰に預つて何時も満足したよ/\との有難い御言葉を頂いたものでありますが、私が今尚その当時の嬉しかつた事のどう しても忘れる事の出来ぬのは丁度招魂祭の時でした。私は御屋敷へ帰らして頂詰所へ落付て、それからすぐ会長の御供をして甘露台へお礼に参らうと御本部の門を入りまするとその所に競馬の馬小屋があつて、その前を通りかゝると、御席様には四五名の御供と馬見物に御出で遊ばして御座つて私の姿を見て下されたと見えまして、恐れ多い事ではありませんか、「高松さんではないか、ようお帰りになつた。明日是非遊びにお出よ」と御言葉をお掛け下されたので、私はふつと振り返つて見ますと何時ものニコ/\したお顔で私を見て下さつて居られたので私も一時嬉しさの余りお返し致す言葉も知りませずただ嬉し涙を以てお答した事もありました。又その後何年だつたか覚えませんが大祭に帰らして頂き例によつて一般と共に御前へお礼に出ました時に私は一般信徒の席の中程から少し前の方で御拝致して居りますと、御席様は御礼の済むとすぐその御高席から「おゝ高松さん、お帰りになつたか遊びに御出よ」と実に身に余る有難い御言葉を賜りましたので、御同席の御本部員様初め一同の方々もあつけにお取られなすつたこともありました。兎角容易ならぬ身に余る御寵愛を蒙つたもので、何時も御慰に預る度に多大な結構な下 賜物を頂き別て中には御自分其場で「寸志、飯降」と一封に御書き下されて御贈恵下された事もありますが、私はこれを記念として子々孫々に残して我家重代の宝に致したいと思ふて居ります。尚私は朝夕大神様に礼拝した後で御席様の御神霊を礼拝致しますがその時には何時も何んとなく御姿が目の先に拝せられるやうな気が致しますが、御命日には心だけの御祭をして御後をお忍び申して居ります。又私は有難い事には故管長公にも御慰に預つた者で最近ではあの明治四十五年五月十八日北大教会の移転奉報告祭の夜、水戸黄門記を一 席演じて御機嫌を伺いました。、私は何んと結構な事か、世の中には同商人も数あらうが、かゝる徳のお高い理の結構なお方のお気に入り何度もお慰みの光栄を得ましたのは私一人であらう。で、私は日本一の蝶浮節屋とは私の事であらうと常に独り誇りと致して居ります。                                  
 (大正四年八 月二十日)





(私論.私見)