| 大平良平の教祖伝その2 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「大平良平の教理エッセイその10」をものしておく。「天理教々理より観たる人生の意義及び価値」。 2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日 れんだいこ拝 |
| 【最初の産屋助け】 |
| 産屋の理を説けば長くなるが婦人が七十五日産屋にあると云ふのは人間の母親伊邪那美命が七十五日かゝつて人間を全部生み下ろした御恩報じの為である。けれどもこの度、人間元生み下ろした元の親が表れてだめの教(世界最後の宗教)を始める証拠として七十五日の産屋の不自由を三日に縮め三日目より常の如く働かしてやると云ふのである。そう云ふ理由で初期の天理教では天理王命のことを特に産屋神様/\と云つて方々から願ひに来たものである。
凡て産屋助け計りではない。病人の救済で貧人との救済でも教祖が身自ら一度実験しないと云ふことはない。教祖が貧の谷底に陥つたのも人間は難儀不自由をして見なければ難儀不自由な人の苦労がわからぬ。難儀不自由な人の苦労がわからねば同情と云ふものがない。同情がなければ真の助けと云ふことは不可能である。それで神は教祖を一旦貧の谷底に落して貧苦の味を経験せしめ更に産屋助け病助けの実験までなさしめたのである。 第一回の産屋試しは教祖神憑後四年目自分自身に産屋試しの経験を受けられた。その時は分娩後自分で一切掃除して何時もの如く立ち働かれたのである。第二回の産屋試しは安政二年、教祖五十八歳の時、三女春子の出産の時産屋許るしをなされて安産させた。これが親戚に産屋試しの始め。第三回は安政五年六十一歳の時、隣家の百姓惣助と云ふ者の妻お雪といふ婦人に産屋許るしを与へられた。これが他人に対する産屋許るしの始まり。爾来神を信じてお願ひに来るものにはお助けがあつた。今日大和地方では未信者でも難 産の時は天理教へお助けを戴きに来る。それでも不思議にお助けを戴いて軽るきは生むと直ぐ重きは三日目より常人の如く働くことができるのである。これが為に庄屋敷の産屋神様と云ふ名が一時専ら地方に喧伝せられたのである。 |
| 【最初の病助け】 |
| 教祖が始めて病助けの霊力を天より授かつたのは天啓後十年目である。一日一家は朝来の断食の為に空腹を忍んでゐると表より杖に縋つた一人の病人が「庄屋敷のおみき様といふのはこちらで御座いますか」と云つて入つて来た。「私は人から庄屋敷のおみき様へ行つて願へば病気がよくなると云ふことを聞いて参りましたが私の病気をよくして戴けますまいか」。その頃のミキ子は未だ病人助けの経験はなかつたから、「私はミキで御座いますが、それは人違ゐで御座いませう」と云つて見たものゝ、兼ての天啓に「貧の谷底に落ち切れ。それから先は珍らしい助けをさす」と云ふことを思ひ出して「マアお上りなさい」 と云つて病人を上げ、胸に手を当てゝ考へて居ると「あしきを払ひ助け給へ天理王命とこれを三遍づゝ三遍唱へて病人の身体を撫でれば助かる」と云ふ天啓に接したので、その通りすると不思議にもその病人は即座に癒され帰る時は杖を捨てゝ帰つた。これが病助けの始めである。 |
| 【道の発展と社会の迫害】 |
| これ等が原因となつて元治慶応にかけてはボツ/\信者ができて来た。それと同時に神官僧侶の間に反目嫉視するものができて一難去れば一難来る、教祖の一身は全く火中に包まれる様の悲境に陥つたのである。殊に明治七、八年より明治二十年教祖昇天に至る迄の間は官憲の圧迫甚しく一人の信者でも屋敷の中へ引き入れゝば直ちに罰金もしくば拘留に処せられたのである。その為に一時は宿屋兼空風呂の鑑札を受けて信者の便宜を計つて居たがどこ迄も教祖を誤解して居る官憲はその空風呂の中に薬品を投じて迄罪に陥れんとした、そればかりでない御簾を飾れば御簾を取つて行く鏡を飾れば鏡を取つて行く、これを今日より論ずれば当時警官が天理教に対して用ゐた法の乱用は随分問題になるのであるが如何にせん当時の天理教は四面楚歌の中にあつたので如何ともすることができなかつた。 巡査が拘引に来ると教祖は「サア/\又来たで/\子供にやどうも仕様ない」と云つてサツサと仕度をして何処かへ客にでも行くかの様にイソ/\として出て行くを常とした。警察や監獄へ行つても警官や獄吏に対すること子供の如くであつた。最後に櫟本署に十五日間の拘留に処せられた時の如きは巡査の苦労をいたはる為、表を通る菓子屋を呼び入れて買つてやらうとして付添人に注意せられ始めて警察署なることに気附いた様であつた。彼女に取つては至る所これ我が家逢ふ人これ我が子であつて人の様に自他の区別はなかつた。唯監獄もしくば警察の飯のみは不浄の飯だと云つて一粒も口にしなかつた。その間の飲食物と云つては唯水あるのみ。 当時官憲の彼女に加へた暴行は随分甚しいものであつた。或る時は頭より水をかけたり或る時は親指と親指とを縛つて天井に釣るして拷問したことさへある。而かも如何なる暴行を加へられるも神色自若として毫も動ずると云ふことはなかつた。かくの如くにして彼女が警察もしくば監獄に監禁もしくば拘留せられること前後十八回罰金もしくば科料に処せられたこと数を知らない。 |
| 【昇天と昇天の理由】 |
| 今日の天理教界では彼女の長男秀司氏も末女小寒子も共に一身を捧げて教祖を助けた様に云つて居るけれども実際はそうではなかつた。成る程末女小寒子のみは身装も構はず母を助けて神に仕へたが、それも晩年には教祖の止むるをも聞かず梶本家へ嫁入して死んで了つた。秀司は始めの程は善かれ悪かれ教祖と生活を共にして来たが、晩年松枝子を娶つてからは両人共教祖に反対して余程彼女をして苦境に陥らしめた。殊に松枝子(松枝子は明治十五年教祖に先つこと六年前に死んだ)の欲深い歪んだ性質は事毎に教祖の感情を害する事多く、為に五十年の後半生中真に一日と雖も心の休まつたと云ふ日に逢はずに明治二十年正月二十六日、百十五歳の定命を二十五年縮めて昇天した。これについては色々の不審を抱くものがあるが彼女が定命を縮めて昇天を急いだのは「何時迄こうして居ては傍も分らん。世界も分らん。助け一条遅れて了ふ」と云ふにあるのである。宜なるかな彼女の昇天と共に世界の天理教に対する圧迫も止み翌年二十一年には教会を設置して公然布教ができる様になつた。 |
| 【教祖の降誕日と昇天日とに就て】 大平隆平(元77年1月14日) |
| 教祖の誕生日に就いては今日の処二説ある。その一つは四月十八日説にして他の一つは四月四日説である。四月十八日説は天理教祖を始め天理教祖真実伝、天理教祖観の如き今日一般に伝つてゐる誕生日であつて、四月四日説は一部の篤志研究家の外知らない説である。前説の出所に関しては今日正確のことを知ることができない。けれども後説の出所には明きらかに戸籍が残つてゐるのである。それで今この二説の中何れが正確なものであるかと云へば、私は四月四日説をもつて正確な誕生日であると信ずる。然らば何故四月十八日説の如き根拠のない空説が生れたかと云へば、私の想像する処によればこれは教祖の昇天日二月十八日(一説二月十九日)の十八日と混同視したものと思はれる。これより外に四月十八日説を確める何らの根拠がないのである。
刊行はされてゐないが長らく本部にゐて研究せられた故諸井政一氏(諸井国三郎氏の長男)の著「教祖みちすがら」には明きらかに四月四日としてある。これは戸籍を調べてもそうである。明治十一年以後ならば或は新暦と旧暦とによつて多少の相違を生ずるかも知らないけれども、それにしても唯つた十四日の差と云ふことはない。これ等の点を総合して見ると四月十八日説は全然虚説にして四月四日説が最も信ずべきものであることが分かる。それから昇天日であるがこれも二月十八日説と二月十九日説とある。中山家の菩提寺善福寺の過去帳(愚かなる前管長は先祖の位牌と共に過去帳も焼いて了つたから中山家には 何ら信ずべき記録はない)によれば二月十九日と書いてあるが天理教祖の年表は二月十八日とある。けれどもこれは旧暦より繰つて行けば明治二十年の旧正月二十六日は新暦の何日に相当するか古い暦を調べれば直ちに判明することであるから、これは後日の問題として残してをく(今手元に暦がないから調べることはできない) 次に教祖の年齢であるがこれは伝説によつても天啓によつても戸籍によつても九十歳になるのであるが善福寺の過去帳には八十歳十一ケ月と書いてある。これに就いて善福寺の主張する処は当時戸籍法の完全でなかつたことを唯一の論拠としてゐるが、これは役場の通知書に落ちたか善福寺で落したか分らぬが兎に角八十九歳十一ケ月の九を脱落したものであることは明きらかである。これは善福寺で如何に主張してもこっちにはそれ以上の有力なる証拠があるから深い議論を要しない。兎に角教祖昇天後二十年や三十年にこの様な異説が生ずる様では百年千年の後には教祖だの伝記だの歴史だのについてどんな異説が生ずるかも知らない。これ今日の天理教研究者の最も注意して精確な調査をしてをかなければならぬ所以である。 之は序だから云つてをくが仏教でも基督教でもその他の宗教でも教祖の降誕を盛大に紀念するが、天理教では立教日と昇天日とを紀念するばかりで降誕日といふものを全然記念しない。これは決して謝恩の真義に叶はぬ。宜しく降誕祭を規定して教祖の降誕日を祝福しなければならない。これを特にこの祭に於て云つてをく。 |
| 【天理教祖の理想】 |
| 天理教の理想は「谷底をせり上げ高山を見下し世界を直路に踏み平らす」といふことにあつた。之を詳し く云へば、今日の世界は上流下流の区別があるが将来は人類の人格的価値を向上せしむると共にその生活の程度も向上せしめて人類間に上下の区別を根絶せんとするのである。この理想を具体的に表現したものが地場中心主義である。地場中心主義とは御神楽歌の十下り目に示されてゐる「一ツひのもとしよやしきの かみのやかのぢばさだめ 二ツふうふそらうてひのきしん これがだいゝちものだねや 三ツみればせかいがだん/\と もつこになうてひのきしん 四ツよくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる」の所謂人間始め世界始めの元の地場大和庄屋敷天理教本部甘露台霊地を中心として不老不死無病息災の道徳的理想の世界を実現せんとするのである。この理想の世界を称して甘露台世界と云ふ。その時来れば全世界には一つの歴史一つの地場一つの風俗一つの習慣一つの言語一つの文章一つの宗教一つの政治に統一せられるので ある。而してこれを統一するのは実に日本人ー神の長子ーの先天的特権である。「日本見よ 小さい様に思たれど 根が表れば恐れ入るぞや だん/\と何事にても日本には知らん事をばない」と云ふ様に、「今迄は唐(外国)や日本と云ふたれどこれから先は日本ばかりや」。 |
| 【信ずべき人格と信ずべき宗教】 |
| 世間では天理教と云へば愚夫愚婦を迷はす愚民の宗教の如く信じ天理教祖と云へば愚夫 愚婦を迷はす妖婆の如く信じてゐる。けれどもそれはそう信ずる人自身に真に宗教に対する批判力人格に対する批判力の欠けたることを証明するものである。天理は明きらかに愚民を迷はす愚夫愚婦の宗教ではないのである。もし天理教を利用して愚
夫愚婦を迷はすものがあらばそれは天理教そのものが悪いのではなく天理教を利用して邪欲を充さんとする教師が悪いのである。この二者の区別を明かにしなければならない。 次には教祖の人格である。古来何時の世にか生命土地財産名誉を捨て更にその上に最愛の夫に反き最愛の子供を 捨てゝ迄万人の為を計つた悪人があるか? もしそれをしも悪人と云ふならば、この世に善人と称すべきがあるであらうか? 吾人は未だ曾つてそう云ふ者のあつた例を聞かない。天理教をもつて愚夫愚婦を迷はす妖婆の如く毒言するものは正にこの種の黒白顛倒論 者である。何故なれば、人は皆な日の寄進をなさゞるべからず、人は皆な互ひ助け合ひをなさゞるべからず、人は皆な朝起きをせざるべからず、人は皆な正直ならざるべからず、人は皆な働かざるべからず、と教へ且つ自らこれを実行した彼女の思想生活はこれ天理であり、天理に合した生活であつて些の非点を打つべき性質のものではないからである。否な/\今後の人類は是非共か くの如き思想を有しかくの如き信仰に生きざるべからざるからである。 |
| 【教祖の降誕日と昇天日とに就て】 大平隆平(元77年1月14日) |
| 教祖の誕生日に就いては今日の所二説ある。その一つは四月十八日説にして他の一つは 四月四日説である。四月十八日説は天理教祖を始め天理教祖真実伝天理教祖観の如き今日一般に伝つてゐる誕生日であつて、四月四日説は一部の篤志研究家の外知らない説である。前説の出所に関しては今日正確のことを知ることができない。けれども後説の出所には
明かに戸籍が残つてゐるのである。それで今この二説の中何れが正確なものであるかと云へば私は四月四日説をもつて正確な誕生日であると信ずる。然らば何故四月十八日説の如き根拠のない空説が生れたかと云へば私の想像する処によればこれは教祖の昇天日二月十八日(一説二月十九日)の十八日と混同視したものと思は
れる。これより外に四月十八日説を確める何等の根拠がないのである。 刊行はされてゐないが長らく本部にゐて研究せられた故諸井政一氏(諸井国三郎氏の長男)の著教祖「みちすがら」には明きらかに四月四日としてある。これは戸籍を調べてもそうである。明治十一年以後ならば或は新暦と旧暦とに依つて多少の相違を生ずるかも知らないけれども、それにしても唯つた十四日の差と云ふことはない。こて等の点を総合して見ると 四月十八日説は全然虚説にして四月四日説が最も信ずべきものであることが訳る。 それから昇天日であるが、これも二月十八日説と二月十九日説とある。中山家の菩提寺善福寺の過去帳(愚かなる前管長は先祖の位牌と共に過去帳も焼いて了つたから中山家には何等信ずべき記録はない)によれば二月十九日と書いてあるが天理教祖の年表は二月十 八日とある。けれどもこれは旧暦より繰つて行けば明治二十年の旧正月二十六日は新暦の何日に相当するか古い暦を調べれば直ちに判明することであるからこれは後日の問題として残して置く(今手元に暦がないから調べることはできない) 次に教祖の年齢であるが、これは伝説によつても天啓によつても戸籍によつても九十歳になるのであるが、善福寺の過去帳には八十歳十一ケ月と書いてある。これに就いて善福寺の主張するところは当時戸籍法の完全でなかつたことを唯一の論拠としてゐるが、これは役場の通知書に落ちたか善福寺で落したか分らぬが、兎に角八十九歳十一ケ月の九を脱落したものであることは明きらかである。これは善福寺で如何に主張してもこっちにはそれ以上の有力なる証拠があるから深い議論を要しない。 兎に角教祖昇天後二十年や三十年にこの様な異説が生ずる様では百年千年の後には教祖だの伝記だの歴史だのについてどんな異説が生ずるかも知らない。これ今日の天理教研究者の最も注意して精確な調査をしてをかなければならぬ所以である。之は序だから云つてをくが仏教でも基督教でもその他の宗教でも教祖の降誕を盛大に紀念するが、天理教では立教日と昇天日とを紀念するばかりで降誕日といふものを全然記念しない。これは決して謝恩の真義に叶はぬ。宜しく降誕祭を規定して教祖の降誕日を祝福しなければならない。これを特にこの祭に於て云つてをく。 |
(私論.私見)