大平良平の教祖伝その1

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日 れんだいこ拝


 【教祖の降誕】
 教祖の降誕日について今日伝はつてゐる所説に二つある。その一つは寛政十年四月十八 日説であつて、これは今日普通伝はつてゐる処の説である。もう一つは四月四日説であつて、これは古い戸籍簿によつた誕生日である。今日どうして四月十八日説が一般に用ゐられてゐるかと云へば、これは生前教祖の誕生日に就ては無頓着であつたものが、教祖歿後に至つて憶測によつて定めたものらしい。これはよくある例である。殊に戸籍法の不完全なる時代にあつてはかくの如き誤謬は往々免かれないのである。けれども私はここに戸籍によつて四月四日説をとるのである。

 凡て釈迦の誕生にせよ基督の誕生にせよ不世出の偉人の誕生には必らずや一種の奇瑞を伴ふものである。教祖の誕生にも亦この種の奇瑞を伴ふてゐる。伝説によると教祖の降誕日即ち寛政十年の四月四日の朝旭日の昇天する頃、教祖の生家なる大和国山辺郡三昧田の前川家の家根の上には五色の雲が棚引いた。それと同時に家内には赤児の泣声が聞えた。かくの如くにしてこの新時代の救世主は生れて来たのである。

 【幼少年時代の教祖】
 揺籃時代の教祖は泣いて両親を困らせると云ふことはなかつた。夜はよく眠り昼は温和しく母の懐に抱かれて只管成長を待つてゐる様であつた。普通の子供では四つになつても五つになつても汚物の世話を親にさせてゐるが教祖には二つの時からそれがなかつたといふことである。三歳にしてよく物事を理解し四、五歳の頃には生来の慈悲心が発芽して来た。即ち食物を貰つてもそれを自分で食べて了ふといふことなく、近所の遊び友達に分配してその喜ぶのを見て自分も喜んだ。七、八歳の頃には花だの蝶だの鳥だのといふものゝ形を切つて友達に与へたり、また編物や袋物を拵つて子供に与へて喜んだ。近所の母親達の忙しい時なぞには自らその子を預り、朝から晩まで色々な玩具を取り換へ引き換へて子供の守りをして遊ばせてやつた。将来全世界の母たる所謂親心は既にこの時に芽組んでゐたのである。寺小屋に通つたのは七、八歳より十一、二歳頃迄と伝へられてあるが、その頃のミキ子は他の小供の様に家を離れて遠く遊ぶといふことはなかつた。多く両親の側にあつてその細かし い用を手伝ひながら家事を見習ふのを唯一の楽みとした。かくの如くにして十二、三歳のミ キ子は裁縫にせよ料理にせよ糸機にせよ婦人一人前の仕事は充分できたといふことであ る。

 凡て一技一能の名人は早くよりその天才を顕すものであるが教祖も亦早くよりその宗教的天才を顕はしてゐる。前川家は元来浄土宗の信者であるがミキ子は早くもその浄土和讃の全文を暗誦して朝夕両親と並んで之を仏前に唱へることをこの上ない楽しみとした。それが年と共に発達して十一、二歳の頃には剃髪して尼にならうと云ふ決心を小さな唇より漏らす様になつた。

 【教祖の結婚】
 十二歳の秋、官幣大社石上神社の大祭に父-前川半七正信-に伴はれて隣村庄屋敷村の親戚中山善右衞門方へ行つた。之を機会に中山家と前川家との間に縁談が開始せられたのである。ミキ子はコの縁談に対しては敢て進んで同意するでもなかつたが、マた強ゐて不同意を表はすでもなかつた。唯「結婚後観経和讃を許されるならば」といふ世にも珍らしい条件にて両家の間に婚約が結ばれた。中山家では始めコの条件は少女の口より出た無邪気の戯談として受取つたのであるが、ミキ子にとつては決して無邪気な戯談ではなかつた。彼女にとつては真に真面目なる宗教心の要求より出たものであつた。その証拠に結婚後ミキ子は「中山家の嫁御は気が狂うたのではあるまいか」と善悪なき村の賎女の噂に上つてゐるのにも耳を傾けず朝夕の観経和讃を実行したのに徴して明かである。

 ミキ子と善兵衞氏との正式の結婚は或は十三歳とも云ひ或は十五歳とも云はれてゐるが当時両家の縁談を立ち聞きしたミキ子は母に漏らした言葉に「嫁なら行くし子なら行かぬ」と云つたと云ふ言葉より推測して見ると両家の間には一、二年の間は養女として貰ひ受け、改めて一定の年齢に達してから正式に結婚をさせやうと云ふ下相談があつたらしい。ソれを聞いてミキ子はコの言葉を母に対して漏らしたものと思はれるが、兎に角十三歳の時中山家に行く時は養女として行つたものではなく嫁として五荷の荷物をもつて行つたことは明か なる事実である。 (大和地方では嫁の身分を示すに荷物の荷数によつて定める習慣がある。五荷の荷物と云へば上の部である)

 【花嫁時代の教祖 】
 教祖は元来蒲柳の質であつたがソれにも係らず中山家に嫁してよりは朝は家族に先つて起き、夜は家族に遅れて寝、暫時も身体を遊ばせてをくと云ふことはなかつた。往々内の雇人等が眼を醒して起き出やうとすると「お前さん達は昼の働きで疲れて居るからもつと休んでお居でなさい」と云つて休ませて自ら焼火から朝飯の用意をするを常とした。また夜休む時は一同を寝せてから自分は家人の気附かぬ様に起き出でゝ昼仕残した仕事をした。殊に常人にできない事はその臥床前の三十分乃至一時間は両親の身体を按摩せずに床に就いたことはなかつたといふことである。

 後日教祖が人に語つた言葉に教祖のしなかつた仕事は荒田起しに溝掘り。この二つを除く外の仕事は何んな仕事でも手にかけない仕事は一つもないと云ふことである。而かも一旦仕事に従事するや天性の器用と生得の熱心とは常に常人の二倍の仕事をしたといふことである。両親を始め夫善兵衞氏は余りに教祖の過激なる労働をするのを見て屡々それを止めたが、教祖は常に之に向つて「身体は使ふ為に神様がお貸し下されたのを今迄は余り大事にされ過ぎた為に却つて弱かつたが、これから確つかり使はして戴かうと思いまして」と答へるのを常とした。

 かくの如く彼女が両親や夫を始め下女下男に対する態度が何処一つとして非点の打ち所のない鮮かな勤め振りであつたから結婚後五年即ちミキ子十七歳の時両親より一家の世帯を任せられた。もつて彼女が尋常一様の婦人でなかつたことを知ることができる。

 【主婦としての教祖】
 庄屋敷では安達金持ち善右衛門様地持ちと云はれた程の豪農であつたから召使の者も一人や二人ではなかつた。ミキ子がそれ等の雇人を使ふ方法は世間の所謂使へば使へ得と云ふが如き無法の使用法ではなかつた。使ふ時は充分使つてもいたはることも亦充分にいたはつた。殊に祭日とか休日等には弁当迄持たせて遊びに出したといふことである。

 ミキ子が中山家の主婦となつた二年目即ちミキ子十八歳の時、一夜中山家の綿倉に一人の綿盗人が入つた。が幸か不幸かその盗人が綿を一荷ウンと盗み出さうとした処を内の下男に発見せられた。盗人はそこに荷物を投げ出して心得違ゐを詫びたが、中山家の隠居善右衛門氏は将来の為、代官所へ引き出す様にといふことを下男に命じた。そこへミキ子が出て「この盗人も貧の盗みで腹からの盗人ではなからうと存じます。ここでこの人を代官所へ出せば罪人となつて一生人中へ出られない人間となります。将来の為、心得違ゐの所は充分申し聞かせますから、この度は私に免じて免るして戴きたい」と願つた。善右衛門氏もミキ子の殊勝な心掛けに感じて之を免るした。そこでミキ子は盗人に向つてその不心得を説き聞かした上更に一重の綿を添へて「サアこれをお持ちなすつて下さい。これは何代か以前の内の先祖が貴方に借をして置いたものですから遠慮なく御持ちなさい。又この綿は之は利息だと思つて持つて行つて之を資本にして堅気の商売をして下さい。これが私の頼みで御座います」 と詫びられる人が却つて詫びて傷を附けずにその盗人を帰した。それから再び両親の前に出て「誠に今程は有難う御座いました。就ては誠に御両親に申訳のないことを致しました」と云つて盗人の盗んだ綿と尚ほその上に綿を添へて帰したことを述べ「その代り私は木綿物は一生着るだけ内から貰つて来て居りますからそれで通らして戴きますから」と云つて両親に謝した。両親もミキ子の英断を賞讃して 「それは良い事をなさつた。今後も決して心配に及ばんから内のものを使つて下さい」と云つてその場は首尾能く治まつた。その後二、三日経つと前の盗人がボテ振りになつて来て 「私もあれを資本にこう云ふ商売を始めましたから今の後共に宜敷く御願致します」と云つて礼に来たといふことである。この真心をもつて人を愛するこれが彼女の一生を通 じて変らない唯一の感化法であつた。

 その頃孫見たさの両親の寝物語に「内の嫁は申分のない良い嫁だけれども何分子供がなくて困る」と語り合ふ声がミキ子の耳に入つた。ミキ子も成る程子供がなくては先祖に申訳がない。これは剃髪して尼となつて衆生済度の傍、この家を立てる様にと決心してその意志を近隣のある懇意なお婆さんにほのめかした。お婆さんはミキ子に向つて「貴女マアそう短気をお出しになるものではない。十九や二十で子供のあるもないもありません。マアもう暫時お辛抱をなさつたが良う御座いませう」と云つて止めた。ミキ子もその言葉に力を得て出家を思ひ止まつたといふことである。こう云ふことが動機になつてミキ子は益々仏法に親しむ様になり遂に文化十三年二月、勾田様の善福寺で五重相伝を受ける様になつたのではないかと思はれる。それにミキ子をしてもう一つ仏法を頼らしむるに至つた他の動機があつた。それは夫善兵衛と下女かのとの不正の関係である。

 【妻として耐へ難き苦痛の経験】
 或る書では夫善兵衛とおかのとの関係を中年の恋の様に書いてあるが、あれは誤つてゐる。この二人の関係は善兵衛氏とミキ子との間に子のない間而かも両親在世中の出来事である。ミキ子はこの両人の間の不正の関係を知りつゝも決して世の常の婦人の如く嫉妬に気を狂はして常規を逸した醜態を演ずるといふことはなかつた。否寧ろその反対に二人の関係が密なれば密なる程皆なこれ自己の不徳の致す処と足納して静かに両人の迷夢の醒めるのを待つていた。然るに凡婦の浅ましさにはおかのは教祖が柔しくすればする程増長して教祖殺害の悪心をおこし一夜教祖を刺さんとして果さず、更に毒殺せんとしてこれも失敗 した。本人の教祖はかのの悪計によつて一旦毒は嚥下したが幸ひ吐瀉して了つたので身体には 何の障りもなかつた。その時周囲の人々はこれをかのの悪計と知り表向きの沙汰にせうとしたが、教祖はこれを止めて「これはかのが悪いのではない。私に何か心得違ゐの処があるから神様が私の腹の中を掃除して下すつたのだ」と云つて、二人に対する態度は聊かも従前と異る処はなかつた。凡婦には出来難いことであ る。

 然るに善兵衛もおかのもこれによつて自分等の関係が道ならぬ関係であつたことを自覚し遂に教祖の前に今日迄の罪を謝するに至つた。その時の教祖は弥陀の精神そのまま両人の心よりの懴悔を納受し、おかのには尚ほ半年の間行儀作法等仕込んだ上、嫁入の仕度迄して相当の家に嫁せしめた。この敵も味方も一視同仁の教祖の至誠に感応して今迄仇敵であつたかのは改つて教祖の無二の味方となり終生中山家に出入したといふことである。

 これ等は教祖ミキ子が青春の色香もさめぬ新妻時代に残した世にも貴き不滅の足跡であるが、ここに止まつて暫時考へなければならぬことは、教祖ミキ子によつて示された絶対道徳と世間一般の相対道徳との区別である。

 【絶対道徳と相対道徳】
 今日の一般の婦人の道徳は夫夫たらざれば妻妻たらず、夫夫たれば妻妻たることである。(男子の場合も同じ)即ち相手の態度の善悪によつて自己の去就を決するのが今日一般に行はれてゐる婦人道徳である。けれどもミキ子の通つた絶対道徳は夫夫たらずとも妻妻たり、夫夫たるも妻妻たり と云ふのである。即ち相手の態度の如何に係らず終始一貫真実をもつて貫く、ここに絶対道 徳の権威がある。前者の道徳即ち相対道徳は一見合理的の様に思はれる。けれどもそれは真に自己並びに社会を治める所以の道ではない。何故なれば他人が我に向つて善をなしたるが故に我も亦他人に向つて善をなし、他人が我に向つて悪をなしたるが故に我も亦他人に向つて悪をなすならばこの世界には悪の亡ぶる時がない。この欠陥を救ふものが天理教の所謂絶対道徳である。凡て凡夫凡婦の手にて授けられたる瓦は聖者の手より再び凡夫凡婦の手に帰る時は既に玉と変じてゐるのである。而かもこの真実自然の絶対道徳は一身の利害を中心として進退を決するものにとつては不可解の道徳である、けれどもこの不可解の道徳を万人に理解せしむるのがミキ子の使命である。

 【母としての教祖】
 文政三年に隠居の善右衛門を失つた中山家は翌年の七月二十四日に長男善右衛門(後秀司と改む)を挙げ、ミキ子は始めて人の子の母となつた。これで結婚後長い間教祖の胸を痛めて居た子供の問題は解決せられたのである。之れより先き夫善右衛門氏を失つた善兵衛氏の母(姑)は大病で五体の自由を失つたが教祖は妊娠中に係らず之れを負ふてその好む所へ行つた。

 【教祖の精神】
 蓋し教祖の精神を解剖すれば、彼女には人を喜ばせる人を楽ませると云ふより外何物もなかつた。従つて人を喜ばせ、人を楽ませる為には自分は如何なる難境に立つも敢て辞する 処がなかつた。これが真実の愛である。この真実の愛は後に我が二人の寿命と我が寿命迄天に捧げて人の子を救ふ大慈大悲の善行功徳とはなつたのである。

 【教祖が一生の中に経験した最大の愛】
  教祖は文政四年に長男善右衛門を挙げてから同じく八年に長女政子を挙げ、同じく十年に二女安子を挙げた。教祖は出産の度毎に乳が沢山あつたから隣家の足達源右衛門の息照之丞の乳の不足なるを憐れみ引き取つて養育してゐたが、文政十二年の四月に疱瘡にかゝつて十日目には黒疱瘡に変じた。近所の医者と云ふ医者にかけて見たが何れも皆な匙を投じて了つた。それで教祖は最早や人力の如何ともすることのできないことを悟り、一夜氏神に詣で 「もし照之丞の生命をお助け下さるならば長男を除いて二人の子供の寿命を捧げます。もしそれで足らない様ならば我が寿命迄も捧げます」と云つて一心篭めて祈願した処、忽ち霊感あつて、さしも危篤と伝へられた黒疱瘡が薄紙を剥 ぐ様に本復した。この事あつて以来間もなく二女安子は歿した。それから天保二年に三女春子を挙げ、四年に四女常子を挙げたが、これも三年目即ち天保六年に歿した。最後に生れて来たのが末女小寒子である。

 天保九年に教祖に神憑があつて刻限/\のお話に「この世に何が可愛いと云つても我が子程可愛いものはない。それを二人迄も天に捧げ尚ほその上に我が寿命迄も上げて人の子を助ける精神と云ふは元人間を生んだ伊邪那美命の魂であるから。それを天より見澄して天降り万人助けの道を授けるのである」と。また二女安子の死について、「いかに覚悟の前とは云へ一時に二人の子供を引き取つては気の毒故、一旦安子一人を引き取りそれを常子として生れさせてこれも引き取り、それで二人の寿命を天が受け取つた」といふ天啓があつた。この常子の魂が生れて来たのが後に「若い神様」と云はれた末女小 寒子である。

 ここに吾人々類が心を鎮めて学ばなければならぬのは教祖の絶対無限の愛と云ふことで ある。世人は往々愛と欲とを混同視して愛即ち欲欲即ち愛と思つてゐるけれども、その間には天地の区別があるのである。欲とは取ることである。愛とは与へることである。教祖の愛には欲はない。唯純粋無垢の愛がある計りである。而かも我が子二人の寿命を与へ尚ほその上に我が寿命をも与へると云ふことは愛の極致である。

 凡そ大なる価値を得んと欲せば大なる犠牲を払はなければならない。教祖に神憑があつたのも偶然ではない。誠やこの絶対無限の愛なればこそ今日並びに今日以後万人の母として尊敬せらるゝのである。天啓の声に 「サア/\これを良ふ聞き分け。価と云ふもの与へる心なくばならん。与へのない処へ何も価はあらせん。これだけ心にもつてくれにやならん」。我に与へる心あつて天に与へる心あり、我に施す心あつて天に施す心あり。価は即ち与へである。与へ即ち人に慈悲善根の愛がなくば天の価は決して我に下ることはない。「我が身捨てゝも構はん。身を捨てゝもと云ふ精神もつて働くなら神が働らく」のである。教祖九十年の生涯その間有形無形の所有物を人に施与した慈悲善根は数へるに遑がない。けれどもこの眼目はと云へば我が子二人の寿命を与へ尚ほその上に我が寿命迄も与へた偉大なる愛に如くものはない。この一事は実に教祖伝中の花であり、実であり、核である。

 【神憑り】
 教祖に神憑があつたのは天保九年十月二十三日、教祖四十一歳の時である。この日麦蒔きに畑に出て居た長男の秀司が小昼過ぎに足が痛いと云つて畑から帰つて来た。中山家では人を長滝村の修験者市兵衛の元へ走らせたが市兵衛は恰度中山家の隣家の乾家に亥の子に招ばれて来て留守であつた。それで使を再び隣家に走らせて市兵衛が来て祈祷の用意に取り掛つた。それが恰度二十四日の夜明前であつた。(秀司氏にはこれまで七、八回も同じ様のことがあつた。その度市兵衛に祈祷を頼んで全治した。今度市兵衛を頼んだのもそれが為である)然るにその日は何時も市兵衛の加持台に立つ勾田村のおそよと云ふ巫女が矢張り亥の子に招ばれ出て行方不明であつたので臨時にミキ子を加持台に直して祈祷に取り掛つた。暫時するとミキ子の容貌態度が一変すると見るや一人の神が降つた。市兵衛下つた神を尋ると「我は天の将軍である」。市兵衛もこれまで色々の神に接したが天の将軍と云ふのは始めてゞあるから「天の将軍とは何方様で御座います」と尋ると、「天の将軍は月日じや」 、「根の神実の神である」、「この屋敷は世界始めの元の地場世界一列助けに天降つた。皆が心得よ」。その音声と云ひ態度と云ひ恰かも三軍を叱咤するの漑があつた。そこに居合せたる人々はその威厳に打たれて思はず平伏して居ると神はその宣言を水の流るゝが如くに述べて行く。「よつてミキの身体は神の社と貰ひ受ける。異存はあるまい」。善兵衛を始めそこに居合はせたる人々は余りに思ひ掛けぬ突然の要求なので返答に困つてゐると、「今云ふたこと異存はあるまい。今云ふたこと不承知あるまい。主人返答は何んとある?」。そこで善兵衛より「ミキを神の社とすると仰せられても彼女は五人の母でありますから差上かねます」と云ふことを申上ると、「神の云ふこと聞き入れぬとあらば家は断絶。当屋敷を一夜の中に黒焦にする」と云ふ強硬な宣告である。

 こう云ふ問答が神と人との間に続くこと二昼夜。その間ミキ子は水一滴飯一粒口にしな い。その様子を見るに見兼ねて漸く二十六日の朝に至つて承知の旨を申上げると 「満足/\」の二語を残して神は退参になつた。これが天理教の立教日である。

 【天理教成立の由来 】
 ここに注意してをかなければならぬことは天理教成立の由来である。天理教々典には人間の徳が進歩して所謂、霊淵に一瑣滓なきに至れば神明之に授くるに救世の大任を以つてすと云ふ様なことを云ふて居るが、天理教の成因と云ふものは徳さへ積めば誰でも済世救人の大任を授けられる、そんな単純なものではない。屋敷に人間始め元の地場と云ふ深い因縁あり、教祖に人間最初宿し込んだ元なる親と云ふ切つても切れぬ因縁あり、旬刻限(時節)と云ふものがあつて始めて天理教と云ふ世界最後の宗教が成立したのである。従つてこれを以つて在来のありふれた宗教と同一視することはできないのである。この点に於て天理教々典の如きは全然天理教の立場を誤解して居る。

 【天理教々祖としての中山ミキ子】
 世間では今日の天理教は始めより今日の如きものであつたと考へる人があるかも知らない。また天理教の教祖も始めより晩年の教祖の如く神秘不可思議な天啓人であつた様に思ふものがあるかも知らない。けれどもそれは皆な誤つてゐる。天理教は始めより三百万四百万の信徒を有した天理教でもなければ天理教祖は始めより晩年の教祖の如き精神内容をもつたものでもない。皆な小より及ぼして大に至つたのである。お言葉に「道の発達は世界の発達」と云ふお言葉があるが初期の天理教はそうではない。寧ろ、道の発達は教祖の発達 と云つて良かつたのである。天啓後の教祖は凡そ二期に分つことができる。第一期は物質的救世主としての教祖である。第二期は精神的救世主としての教祖である。第一期の物質的救世主としての教祖は四十一歳に天啓があつてから以後夫善兵衛氏の帰幽後迄約二十年の間であつて、この間は専ら物質をもつて社会を救済した。教祖の言葉によると六十になつて始めて神の世帯をもつたと云はれてゐるが、真の意味の救世主としての活動は六十歳以後である。それで天啓以前の教祖を救世主として第一期の準備時代とすれば 天啓後六十歳迄は救世主としての第二期の準備時代と見ることができるのである。真の意味の救世主としての活動は晩年の三十年である。

 【貧のドン底 】
 天啓後間もなく教祖の受けた天啓は「世界助けの為、谷底に落ち切れ。そこから本道が見えて来る」と云ふことであつた。それで教祖は先づ自分の手廻りの物から施こしを始めたのである。その施こしをなすにも教祖の施こしは世の所謂慈善家と異つてゐる。彼女は先方より襤褸を纏ふた寒相な人間が来ると先づその人の行く先きに廻つて着物を置いて置く。その人が正直な人なればこれは内のものではないかと云つて届けて来る。その時教祖は「これは内のものではありません。それは貴方へ授かつたのだから遠慮なくお持ちなさい」と云つて持たせてやる。その人が「それを有難う御座います」と云つて持つて行けばその後姿を見送つて手を合せて「御苦労様」。こう云ふ風に食ふ物がなければ食ふ物を持つて行つてやる。着る物がなければ着る物を持つて行つてやると云ふ風に成らん者不自由なものに施して自分の実家から貰つて来た五荷の荷物は忽ちの間に施して了つた。それから段々中山家の金銭米穀を施してやる。それも限りあるものであるから何時かは尽きる。今度は田地田畑に手を附ける。それを拒めば直ちにミキ子の身体は病気になつて了ふ。止むなく夫の善兵衛も黙つて見て居たが段々内の財産が減つて行くにつけて世間では色々の噂さも立つ様になり親類よりも注告されるので神に誓つた誓言も忘れて一夜教祖を先祖の位牌の前に座らせて来し方往く末のことを語り聞かせた上、もし狐狸の業ならばこの止め度もなき慈善を止めてくれ、止めぬとあれば先祖への申訳にお前の生命を貰はねばならぬと云つて先祖伝来の刀に手を掛けて迄嘆願したが教祖はこれに対して「貴方の仰せは尤もでは御座いますがもう暫時の御辛抱を願ひます。神様は一粒万倍にして返して下さるから」と云つて手をついて夫の前に謝した。夫も人に物を貸しても催促もし得ない様な善人であるからその場はそれで治まるがそれも永くは座視するに忍びない。それで度々異見もし反対もした。この間にあつてミキ子の経験した精神上の苦痛は善兵衛の経験したそれよりもより以上に深刻なものであつた。即ち神の云ふことを通さうとすれば内々の者が反対する。内々のものゝ云ふことを通さうとすれば神の言葉を無にする様になる。遂に煩悶の結果死を決すること前後三度、その度に彼女の耳に聞ゆる神の声「短気を出すな。今暫時の辛抱」。強ゐて決行せうとすれば五体が縮つて動くことができない。それで仕方なく思ひ返して自分の不心得を神に謝すると再び身体が動く様になる。

 こう云ふ具合で天啓後の中山家は一家の心が個々別々で統一と云ふものを失つて了つた。従つて傍の見る眼は随分哀れに陰気なものであつた。けれどもそれにも係らず神の思はくは着々実行されて天啓後十年には中山家の財産は殆んど施して了つた。けれども神はそれでは満足しない。更に家を毀つて施せと云ふ神命であつた。その家を毀つ時には人は中山家の零落するのを気の毒がつたが一人教祖のみは大勇みで「サア/\皆さん祝つて下さい。これから世界の普請にかゝるのだと云つて神様は大喜びで御座います。何もないけれども祝つて下さい」と云つて手伝に来た人達に酒肴の御馳走をしてその労をねぎらつた。

 ここに教祖の偉大なる精神が遺憾なく発揮せられてゐる。天啓の声に 「天理王命と称する源由は元無い人間無い世界を拵へた神である。サア神の社になることは小さい百姓家より大きな百姓家へ来た様なものである」 と云ふ言葉があるが、この時の教祖は最早やどこから観察しても中山家の主婦中山家の母ではない。世界の主婦万人の母である。彼女が自分の家の毀されるのを見て大勇みに勇んだのは彼女にとつては最も自然な行為である。

 【夫の死】
 中山家が毀たれた屋敷の跡に雑草が生えるのを見て夫の善兵衛は亡くなつた。それが嘉永六年、教祖天啓後十六年目である。その頃の中山家は貧の谷底に落ち切る真最中であつて一家族が塩と水とで通る様なことも往々あつた。その間にあつて教祖は道を宣伝する傍賃機を織つたり賃糸をとつたりして衣食の資を得、長男の秀司は薪や青物を町に売つて生活を支へて居た。また末女の小寒子は仕事の傍母を助けて布教に従事した。(この頃は二人の女は既に他に嫁してゐた)この二人の兄妹が神命を奉じて始めて大阪に布教に出たのもこの年である。





(私論.私見)