第90部 1918 大正7 「ナライト事件」

 更新日/2022(平成31.5.1/栄和4)年9.13日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


1918(大正7)年

【北大教会初代会長の茨木基敬父子が正式に免職処分される】
 2.15日(1.16日?)、本部の集団的通牒で茨木基敬・基忠への免職辞令が発令され、北大教会初代会長の茨木基敬が長男の基忠と共に正式に免職された。この日をもって絶縁処分となった。この処分を下したのは、当時の最高実力者であった高安大教会初代会長の松村吉太郎。明治30年に発生した飯田岩次郎免職事件(いわゆる水屋敷事件)が尾を引いていた。天理教機関誌「道の友」大正7年2月号の松村吉太郎の「茨木父子免職の顛末」によれば、茨木基敬の天啓を封じ込める為に本部が休職を命じたのが大正6年。その際、北大教会教会長を継いでいた基敬の息子の基忠と同教会役員一同が自発的に「今後、基敬の天啓を信じない」とする詫び状を本部に提出している。但し、基敬の天啓が続き、基忠らがこれに従った為、「詫び状を無視し、引き続き天啓の降下を一層盛んに宣伝するをもって本部としても取締り上捨ておくべからざる場合に立ち至った」としている。大正6.12.5日、松村とその配下の者が北大教会信徒詰所内の茨木基敬宅へ出向き、暫くの談じあいをしている。その後、松村、梅谷、諸井が出向き、茨木父子と面会、談じあいしたが平行線をたどった。その後、茨木父子の免職処分が決定された。北大教会の後任には山中彦七が就任することになった。

 本件につき、次のように解説されている。
 「現体制を乱すとして基敬を追放した松村吉太郎は中山家と姻戚にあり、基敬を2代目本席にすれば中山家が弱体化すると恐れ茨木父子を免職したとある。 既に中山教化しているのが見て取れる。 基敬と絶縁した北大教会配下の教会が本部直轄になったのは組織の妙だ…」。
 天理教本部員・茨木基敬が天啓を取り次ぎ始め、本部は彼を一方的に罷免し放逐した。「茨木基敬が本部を去った翌日、ナライトの病気が革っている」との説があるが、どういう意味だろうか不明である。この後のナライトはいわば「押し込め」一直線の道に向かうのを見るばかりとなる。

【北大教会の土地建物その他全部の引継登記】
 3.22日、北大教会の土地建物其他全部の引継登記を茨木家から本部に完了。茨木基敬父子を本部から放逐後、後任を誰にするか(山中彦七に決まる)、教内でも大きな北大教会の建物をどうするかについて議論があった。「道の八十年」p308 が次のように記している。
 茨木さんは、おそらく建物をわたすまいと考えていた。その問題について情義をつくしていては時日が伸びるばかりである。それでは整理の意味をなさない。そう思って、数日前から弁護士を通じて差押えの手続きを用意しておいた私は、翌日、大阪裁判所へ差押への処置を取ってしまった。全く疾風迅雷と云ってよかった。事を潰すのは素よりお道の精神において好まない。さりながら、事、異端異説にかかる問題は、断行あるのみであろう。腐木は一日も早く斬らねばならぬ。
 モリジロウ「私の『茨木基敬』考…その3」(2022年8月26日)を参照する。

 北大教会は大正初期に於いて部内も多く規模の大きい大教会であった。その大教会が茨木事件がきっかけで混乱した。茨木父子が天理教教会本部から独立しすれば分派ということになるが、茨木父子は分派を避けようとした。本部は、北大教会内の部内教会に本部の直属教会としての存続案を出し、茨木父子放逐後、大教会は山中彦七に引き継がれ、北大教会の有力教会は大正14年に本部の許しを得て本部直属になっている。(天理教事典教会史編「府内大教会」の項) 北大教会から分離した教会は麹町大教会、豊岡大教会、生野大教会、岡山大教会、府内大教会、青野原分教会、細川分教会、栗太分教会、淀分教会、名張分教会、鐸姫分教会、尾道分教会等々である。分派しなかったのは直前の「朝日神社/井出クニ事件」の例に似ている。「井出クニ」は教祖30年祭の時に教祖殿に現れて、引きずり出されて、播州へ帰ってからも別教団も立てず、我が天啓信仰を貫いている。茨木事件後、茨木基敬は富雄へ移った。今日でも我が天啓信仰を貫いている。

【ナライト押し込め事件】
 3月、ナライトが突然、誰にもスフンの権限を許さないと宣言した。これにより教団内が乱れた。
 3.23日、ナライトが再び胃腸の病となり、身上お障りで「おさづけ」不能に陥る。「おさづけ」のストップで天理教本部は組織運営上、支障を来しはじめた。度々本部員会議が開かれ、平癒のお願いもされが、お運びに出ていただけない状態が続く。この間、さづけの理を待ち望む者が多数となり、その上、別科(修養科の前身)の生徒の卒業を目前にしていた。

 ナライトはその後、病気が全快した。御供の紙を折ったり、針仕事や庭木の手入れなどをして静かに暮らし、昭和12年1月12日に出直した(享年75歳)。

【ナライト押し込め事件考】
 「ナライト押し込め事件」につき、芹沢光治良著「死の扉の前で」(新潮社、昭和53年)(P75~76)は次のように記している。
 「天理時報の『教祖様』の執筆にあたり、その資料収集を紙面で依頼したところ、××大教会長から電話があり、賀川という人物を紹介される。賀川氏は東北大学で阿部次郎先生に私淑した35-36歳の青年である。この賀川氏の話として「上田ナライト」に関する話が以下のようにある」。
 「教祖様が昇天してから、飯降伊蔵先生が本席として、約二十年間、神のおさしずを取次ぎましたね。その間、初代真柱様は行政の柱として、本席は信仰の柱として、天理教を支えたが、信者は言うまでもなく先生方も、神の取次ぎ者であり信仰の柱である本席に、自然に心を寄せがちでした。教祖の孫であり、相続者である初代真柱様夫妻は、そのことがご不満であったが、教祖の定められたことですから、どうにもできなかったのでしょう。

 本席が亡くなると、また神のおさしずに従って、上田ナライトさんが「おさづけおはこび」をなさることに決まっていました。「おさづけおはこび」は、また、信仰上の中心行事であるから、信者はナライト様を本席に代わった信仰の柱と仰いだのです。それはまた、初代真柱様夫妻は喜べなくて、若様こそ行政の柱と信仰の柱とを兼ねた強い真の真柱に育てようとしたのです。

 初代真柱様が大正三年に四十九歳の若さで亡くなられると、十歳の若様が管長になったが、ご母堂様は、後見人の山沢や松村という大先生方の力を借りて、少年真柱を絶対権力をもつ真柱に成長させようと懸命でした。その手始めに、大正七年にはナライト様が狂気だとして、御母堂様が自ら「おさづけおはこび」をなさるようにしました。これで、行政の柱と信仰の柱とを、中山家の掌中におさめて、現真柱様にゆだねたという、歴史があるのです。

 大変孝心の厚い真柱様は、ご両親の口惜しさや願望をじっくり胸におさめていると思います。それ故、天理教の専制君主のような独裁者になったが、敗戦前は天理教自身が政府や軍部から弾圧を受けて、真柱様も絶対権力を振るえないで、自制していたのでしょうが、敗戦後は、信仰の自由が保証されたので、復元という美しい名目で、大っぴらに自己の復権をはかっているのです。行政面では、しきりに教規を創って、教庁機構を変え、中央集権をはかっています。信仰面では明治経典にかえて新教典を創り、正式の教祖伝を編集して、天理教の絶対権を中山家のものにしようと励んでいます。その点、真柱様は偉大な徳川家康です・・・。

 教祖傳で、教祖様を生まれながらの神としたのは、本席がお亡くなりになってから現在まで、お道の内外に、時々神がかりになって道を説く者が現れて、本部でも苦労した経験があるので、真柱様は、中山みきの場合は人間に神が降りたのではなくて、はじめから神だったとして、将来の安泰をはかっているのです。新教典も精読してみれば、中山家の天理教だと、判明します。ですから、先生にお願いするのです。真柱様を説いて、まちがったお道にするのを防いでください」。
 「先生、真柱様は教祖様の書き残された『おふでさき』と『みかぐらうた』しか、信じてはならぬと言って、教祖様がお話になったと伝えられるお言葉はすべて抹殺しました。そればかりかでなく、史料を全部掴んでいるので、『おふでさき』でも、真柱の意とする天理教に都合の悪い部分は抹殺する恐れがあります。特に本席様を通じて20年間親神様がさしずしたお言葉は(これを『おさしず』と呼んでいますが)控えていた先生方が速記して、厖大な史料として残っていますが、これを全部通読した者はいないでしょうから、都合のわるい部分を削除するのは、簡単です。

 真柱様は本席の存在をも抹殺したいらしく、本席様の話をしても不機嫌になるので、本部の先生方はたがいに本席様のことは禁句だといっておりますし、本席様の子孫は本部で重要に扱われていません。そんなことはともかく、親神が教祖様を通じて語られたお言葉も、本席を通じての『おさしず』も、中山家のものではなくて、人類のものとして、すべて永久に伝えるべきではありませんか…、それ故、また、先生に真柱様の友達になって、真柱様が史料を廃棄なさるのを、とめて頂くか、それが不可能ならば、廃棄なさった史料について、将来のために記録して頂きたいのです」。
 「ナライト様のことも、一般の教会長や信者には、すでに完全に抹殺して全然知られていません、私など、発狂したと聞かされて信じていたが、最後までナライト様に仕えていたという婦人が、随筆で晩年のことを書いていたけど、立派なお方のようですよ。昭和12年の1月に75歳で亡くなられたが、その朝、正装し、威容を正して机に向かい、立派に松竹梅の絵を描き、それに辞世の詞・・・「松竹梅でおさめまいらせ候」と、たしかこんな詞をみごとな手蹟で書き加えて「おばあさまのところへ参ります」と、その婦人に話して、掌をあわせてそのまま静かに息を引き取ったそうです。私は感動してその婦人を詰所にお訪ねして、お話を聞こうとしたが、お話しすることは他にないからと拒否されました。真柱様からお咎めがあったのでしょうね・・・・先生が真柱様の友達になったら、こうした新しい史実も掘り出されて・・・神様が約束したことはすべて守られたと実証できるのですけれど、お願いします」。(77‐79頁)

 
芹沢光治良著「死の扉の前で」(P200~203)は次のように記している。
 三十年祭の二、三年前に早稲田大学の漢学者の教授で広池千九郎が入信すると、天理教では大袈裟に本部に迎えて、天理中学校長にして、熱心に布教宣伝にあたらせたが、三十年祭が終わると、博士はいつのまにか天理教を去ったが、その理由も期日もとどめていない。

 三十年祭の二年前(大正三年)には、教祖殿も本部神殿も落成して、信者は勇んだと誌しているが、その年の十二月三十一日に、初代真柱が四十九歳の若さで死去したね。翌四年に十一歳の嗣子正善が真柱に襲職したが、その後見人として本部で最重要な大黒柱である松村吉太郎が私文書偽造容疑で奈良監獄に、翌年まで収容された。その私文書偽造容疑が、どういうことか明瞭でないんだ。

 大正五年の一月に教祖の三十年祭が執行されて、八月「播州の井出くにむほん」とあるが、その前年四月一日、当時お地場で最も求道的な知識人だと評された大平良平が「新宗教」という個人雑誌を創刊して、若い天理教人を勇気づけたものの、三十年祭が終わって、井出くにのむほんとある月、八月に、十九号で廃刊した。

 この年本部員の増野正兵衛の息子、道興が弱年二十六歳で、異例にも本部員に抜擢されて、道友社の編集主任になり、天理教の機関紙「みちのとも」に、はじめて青年信徒の魂を奮起させる随想を多く発表して、自らそれを実践するために大教会長となって信仰活動を始めたが、間もなく死亡した。

 上田ナライトさんの事件の後、本部では、真柱中心にすんなりし信仰の灯火を輝くようにはかったのだが、突然のその若い真柱が三十年祭直前に亡くなったし、ナライトさんは狂人だと噂が流れて、福井氏のような青年達は、天理教の危機感におののいていたそうだ。その危機感のなかで、親神の約束どおり、三十年祭に神がおもてに現れるという希望が、若い人々の胸に蘇って、密かに心の準備をしようと、心掛けたそうだ。大平良平の「新宗教」も、増野道興の感動的活動もその準備の一つだそうだ。

 三十年祭は一月二十六日に行われて、いつ神が現れるか、若い人々は期待と不安をもって毎日待望したそうだ。
 芹沢光治良「死の扉の前で 二代真柱(正善)と上田ナライト」(74頁16行-79頁2行)。
 「先生、今までのお話でよく判りました。真柱様は先生に一目おいていられるのですな」。
 「どういうことですか一目おいてるとは-」。
 「尊敬しているのでしょう……真柱様は先生に理想の真柱像を見せようと努力しているのです。田園調布の若様のお宅で先生に話された教理、岳東大教会で大教会長に代って先生に謝罪した話、ほんとうに感動的ですね。これは真柱様が先生を尊敬して、懸命にご自分のよさを示して、先生との関係を深めようと努力しているのです……それを知って、うちの会長もそして私も、先生にお願いがあるのです。そのお願いのために、このように参上しているのです」。
 私はその物々しい言葉に戸惑って、彼の顔を見た。全く真剣そのものだった。
 「先生、真柱様の友達になって下さい」。
 「え、友達だって-」
 と、可笑しさがこみあげた。
 「友達にならなければ、真柱様は先生にご自分を示さないし、お考えも伝えません。先生、友達になって、真柱様がお道を復元すると信じて、実はとんでもないお道にしてしまうことを、防いで下さい。活字別の『稿本天理教祖伝』の草案の一部をご覧になっただけでも、とんでもない教祖伝を創ろうとしていることが、おわかりでしょう。真柱様に都合のいい教祖伝にして、それを信者に押しつけようとしています」。
 「真柱に都合のいい教祖伝つて-」。
 「根本的なことは、教祖ははじめから神で、人間ではないとしています。先生の親様は、一人の心優しい農村の主婦が、神がかりがあってから、神の思召(おぼしめ)しに添おうと五十年間超人的なご苦労をして、ようやく神の社(やしろ)となりますね。それが教祖の実像です。決してはじめから神ではなくて、人間であって、ただ神に近づこうと精進なさった。だから、教祖の雛型(ひながた)をふむという教理も成り立ちます。教祖が生れながらに神であるならば、雛型として人間は従えません」。
 「教祖が生れながらに神である方が、どうして真柱に都合がいいの」。
 「教祖様(おやさま)が昇天してから、飯降伊蔵先生が本席として、約二十年間、神のおさしずを取次ぎましたね。その間、初代真柱様は行政の柱として、本席は信仰の柱として、天理教を支えたが、信者は言うまでもなく先生方も、神の取次ぎ者であり信仰の柱である本席に、自然に心を寄せがちでした。教祖の孫であり、相続者である初代真柱様夫妻は、そのことがご不満であったが、教祖の定められたことですから、どうにもできなかったのでしょう。本席が亡くなると、また神のおさしずに従って、上田ナライトさんが『おさづけおはこび』をなさることに決っていました。『おさづけおはこび』は、また、信仰上の中心行事であるから、信者はナライト様を本席に代った信仰の柱と仰いだのです。それはまた、初代真柱様夫妻は喜べなくて、若様こそ行政の柱と信仰の柱とを兼ねた強い真の真柱に育てようとしたのです。初代真柱様が大正三年に四十九歳の若さで亡くなられると、十歳の若様が管長になつたが、ご母堂様は、後見人の山沢や松村という大先生方の力を借りて、少年真柱を絶対権力をもつ真柱に成長させようと懸命でした。その手始めに、大正七年にはナライト様が狂気だとして、御母堂様が自ら『おさづけおはこび』をなさるようにしました。これで、行政の柱と信仰の柱とを、中山家の掌中におさめて、現真柱様にゆだねたという、歴史があるのです。大変孝心の厚い真柱様は、ご両親の口惜しさや願望をじっくり胸におさめていると思います。それ故、天理教の専制君主のような独裁者になったが、敗戦前は、天理教自身が政府や軍部から弾圧を受けて、真柱様も絶対権力を振えないで、自制していたのでしようが、敗戦後は、信仰の自由が保証されたので、復元という美しい名目で、大っ平に自己の復権をはかっているのです。行政面では、しきりに教規を創って、教庁機構を変え、中央集権をはかつています。信仰面では明治教典にかえて新教典を創り、正式の教祖伝を編集して、天理教の絶対権を中山家のものにしようと励んでいます。その点、真柱様は偉大な徳川家康です……教祖伝で、教祖様(おやさま)を生れながらの神としたのは、本席がお亡くなりになってから現在まで、お道の内外に、時時神がかりになって道を説く者が現れて、本部でも苦労した経験があるので、真柱様は、中山みきの場合は人間に神が降りたのではなくて、はじめから神だったとして、将来の安泰をはかっているのです。新教典も精読してみれば、中山家の天理教だと、判明します。ですから、先生にお願いするのです。真柱様を説いて、まちがったお道にするのを防いで下さい」。
 「そのような危惧の念を抱くのは、君や君の大教会長ばかりではないだろう。本部の偉い先生方が、なぜ真柱に説いて、それをしないのですか」。
 「それは不可能です。真柱様は神の代理者です。その言葉は神の言葉として、教会長も信者も絶対に従い守らなければならないことに決っています。まして真柱様を説得するなどとは、理の上(教理上)で絶対にできないのです。ですから、信者でなくて、真柱様が一目おく先生に、お願いに上ったのです」。
 「それなら、彼が尊敬する大学の先生か学者に、適任者が幾人もいるではありませんか」。
 「それが、本部にお出掛けになる学者先生を考えると、半分は真柱様から物質的な援助を受けているので、その資格はありません。他の半分の学者先生は、天理教やお道の信仰が、どうなろうと関心がない方々ですから、頼んでも無駄ですが……先生は『教祖様』を読んでも、お道に対して深く理解と愛情を持っていますし、ご尊父の信仰からしても、お道に認識がおありなので、それに加えて、現に『教祖様』をお書きになっていて、真柱様も愛読しているのですから、説得力があります。先生お願い申します。真柱様の友達になって下さい-」。
 「友達になれ、なれと、言われても、たがいに子供ではなし、簡単に友達にはなれんよ。無理だなあ」。
 「先生、真柱様の場合は容易です。権力をもつ独裁者には、一つの盲点があるものです。あらゆる場合、すべての物を独占したいという慾求が、本能になっています。換言すれば、慾深ですから、それを満足させればいいのです」。
 私は呆然と答えようがなくて黙ってしまった。
 「先生、真柱様は教祖様の書きのこされた『おふでさき』と『みかぐらうた』しか、信じてはならぬと言つて、教祖様がお話しになったと伝えられるお言葉はすべて抹殺しました。そればかりでなく、史料を全部掴んでいるので、『おふでさき』でも、真柱の意とする天理教に都合の悪い部分は抹殺する怖れがあります。特に本席様を通じて二十年間親神がさしずしたお言葉は(これを『おさしづ』と呼んでいますが)控えていた先生方が速記して、厖大(ぼうだい)な史料として残っていますが、これを全部通読した者はないでしようから、都合のわるい部分を削除するのは、簡単です。真柱様は本席の存在をも抹殺したいらしく、本席様の話をしても不機嫌になるので、本部の先生方はたがいに本席様のことは禁句(タブー)だといっておりますし、本席様の子孫は本部で重要に扱われていません。そんなことはともかく、親神が教祖様を通じて語られたお言葉も、本席を通じての『おさしづ』も、中山家のものではなくて、人類のものとして、すべて永久に伝えるべきではありませんか……それ故、また、先生に真柱様の友達になって、真柱様が史料を廃棄なさるのを、とめて頂くか、それが不可能ならば、廃棄なさつた史料について、将来のために記録して頂きたいのです」。
 「そうした史料は保存し、特別の施設をもうけて、図書館や参考館のように、一般に公開すべきでしょうね」。
 「全くそうです。そうしたことも、友達になられれば、真柱様に忠告できますでしょう。ナライト様のことも、一般の教会長や信者には、すでに完全に抹殺して全然知られていません、私など、発狂したと聞かされて信じていたが、最後までナライト様に仕えたという婦人が、随筆で晩年のことを書いていたけれど、立派なお方のようですよ。昭和十二年の一月に七十五歳で亡くなられたが、その朝、正装し、威容を正して机に向い、立派に松竹梅の絵を描き、それに辞世の詞……松竹梅でおさめまいらせ候と、たしかこんな詞をみごとな手蹟で書き加えて、教祖様(おばあさま)のところへ参りますと、その婦人に話して、掌をあわせてそのまま静かに息を引きとったそうです。私は感動してその婦人を詰所(つめしょ)にお訪ねして、お話を聞こうとしたが、お話しすることは他にないからと拒否されました。真柱様からお咎(とが)めがあったのでしょうね……先生が真柱様の友達になったら、こうした新しい史実も掘り出されて……神様が約束したことはすべて守られたと実証できるのですけれど、お願いします」
 と、賀川氏は改めて畳に両掌をついた。
 「天理の霊能者 上田ナライトより一部掲載」。
 身心の異常が激しくなり ついに霊統が途切れる…

 大正時代に入ると、身心の異常の度合いが激しくなった。これは大正三年の大正普請と呼ばれる膨大な費用をともなった天理教施設の竣工、第一次世界大戦の勃発や真柱中山真之亮の出直(病死)などが関係していたと思われる。同五年には教祖三十年祭が執行され、生前の教祖同様、拙絆などの下着をすべて赤衣(神が着る衣装とされる)に変えてつとめを行っていたナライトであったが、大正六年初夏に胃腸障害となる。この時は二週間の療養で回復。しかし翌年の大正七年三月二十三日にまたもや胃腸障害で病床に臥すようになった。日に日に重体となり、天理教本部では神の重大な警告として受けとめ、全快のためのつとめが行われた。 一か月後に床の上に起き上がれるまでによくなったが、足が不自由となり、立ち上がったり、正座ができないために、「おさづけ」を渡すことができなくなってしまったのである。ナライトは本席のように言葉による神示がほとんどなかった。そのため、その身体上に現れた障りを含む身振りや動作で神意を悟らなければならないのであるが、当時の天理教本部の中にはそれを解読できるような者はいなかった。

 このときの病気の要因は甥の楢太郎が天理教関係者の借金の肩代わりをして、それがもとで破産に追い込まれたことが関係していたといわれる。が、それ以上に茨木基敬の問題(茨木事件)が絡んでいたことは間違いない。ナライトの病気が革ったのは、茨木基敬が本部を去った翌日からなのである。茨木基敬は天理教の本部員で、天啓を取り次いでいたが、本部は彼を一方的に罷免し、放逐したのであった。「おさづけ」のストップで天理教本部は組織運営上、支障を来しはじめた。そこで本部員会議を招集し、同年七月十一日から教祖の孫に当たる中山たまヘ(中山秀司と松枝の一子で、真柱中山真之亮の妻)がナライトの代理として「おさづけ」を渡すことが決定されたのである。中山たまヘは、みきによれば人間の創造に関わる深い魂の「いんねん(因縁)」の人とされるが、いわゆる天啓者ではなく、彼女が渡す「さづけ」も儀礼的なものにすぎなくなった。同時にナライトはその死まで二度とさづけを渡すことはなかった、本部におけるナライトの公的な役割は終わったのである。つまり、中山みき⇒飯降伊蔵⇒上田ナライトとつづいてきた天理教の霊統は、大正七年の段階で途切れてしまったわけである。以後、ナライトの霊統問題に正面切って触れることは本部では事実上タブー視されるようになった。

 大正十三年に教祖四十祭の拡張工事にともない、ナライトは現在の和楽館の建物に移転した。不自由だった両足はすでに治り、太り気味たった体の肉は落ち、細くなった。ほとんど家にいて、神に供える紙を折ったり、針仕事をしたり、畑仕事をしていたが、時には石上神宮や故郷の園原の方ヘ散歩をすることもあったという。昭和二年頃には天理教内の一部にナライトに天啓が降りてくるのではないかと期待する向きもあったようである。というのはその頃、精神的に非常に安定した生活を送り、機嫌がよかったからである。好物は葡萄と抹茶で、茶は側の者に自ら煎てたりもした。また昼夜を問わず入浴した。これは世の中の一切の汚穢が絶え間なく自分の心に移ってきて溜まるので、それを入浴によって祓い清めて浄化していたともいわれる。あまりにも頻繁に入浴するため、ナライトに仕えていた宇野たきゑが「なぜそんなにたびたび入浴されるのですか」と聞くと、「心が濁るからや」と答えている。ナライトにとって入浴は神聖な神事であった。時として啓示のような霊的な閃きをかいま見せてもいる。たとえば、ナライトの家の桜が見事に開花したときのこと。通りかかった親類が、門の近くにいたナライトに向かって「きれいに咲きましたなあ」と挨拶がてらに声を掛けると、「根を見よ」とだけいって、家に入ってしまったという。一見、華やかに見える現象には、すべて目に見えない根があり、その不可視の根の部分のほうが実は肝心要なのだというたとえである。それにしても何とも意味深い言葉ではないか。
 1907 (明治40)年に伊降伊蔵が亡くなると、2代自の本席となった上田ナライトは事実上神意を取り次ぐことができないものとし押し込められた。名実ともに2代目真柱中山正善が教内の実権を掌中に収めた。この結果、教内にはもはや神意を直接取り次ぐことができるものがいなくなった。天理教の生神教祖=天啓者を中心とする宗教性そのものが危機に曝されていくことになった。教担の死後に起こってきた教団の変容は、自ずと教団の宗教的求心力を弱めることになるが、このような折に教内に新しい生神的な天啓者への待望感が生まれてきたとしても不思議はない。特に教祖の定命が115才であると考えられていたこともあり、その継ぎ目にあたる1913 (大正2)年に、教祖の後継者が誕生するのではないかという待望感が教内に生まれていた。大西の宗教運動が生まれてくるのは、このようなまさに天理教が危機に瀕していた時であった。

 4月、後の二代真柱が天理中学校に入学した。


【初代真柱夫人たまえがナライトの後継で「おさづけのお運び」】
 7月11日、本部員会議を招集し、初代真柱夫人たまえ(中山秀司と松枝の一子で、真柱中山真之亮の妻。管長公未亡人と呼ばれていた)がナライトの後を継いで「おさづけのお運び」をすることが決定された。たまえがおさづけを渡す。

 上村福太郎「潮の如く上」P178(1959.道友社)が次のように解説している。
 去る明治40年6月より、飯降本席様のあとを受けられ尊いさづけの理を渡されてい た上田ナライト様には、お身上となられ、この大正7年3月下旬以来夏に至るも、ずっとお運びがなかった。本部にあっては、一刻とてゆるがせに出来ない世界たすけの上から、いろいろと決議の上、親神様に右の事情を申し上げ、御守護を頂くべくひたぶるの祈願をこめられたのであるが、容易に御平癒の様子は見られなかった。本部にあっては、更に熟議の結果、ナライト様のお身上御全快まで、おふでさきの上から思案させて頂いても、その他、すべての点で尊くあらせらるる初代真柱奥様が、お運 び下さることになったのである。初代真柱奥様には、同年7月11日夜よりその第1回の授訓をお運びなされている。

 この時の「おさづけの継承」は、「おさしづ」時代の終焉を象徴し、それまでのように「おさしづ」に基づくものではなく「本部員会議」によった。中山たまヘは、みきによれば人間の創造に関わる深い魂の「いんねん(因縁)」の人とされるが、いわゆる天啓者ではなく、彼女が渡す「さづけ」も儀礼的なものにすぎなかった。ナライトはその死まで二度とさづけを渡すことはなかった。これにより、本部におけるナライトの公的な役割は終わった。

 中山みき⇒飯降伊蔵⇒上田ナライトと続いてきた天理教の霊統は大正七年の段階で途切れた。これにより天啓制が否定され、本部員会議の決定事項こそ「ぢばの声」となった。ここに中山家制天理教が完成したことになる(「天理教の世俗化が決定した」と受け取る説もある)。以後、ナライトの霊統問題に正面切って触れることは本部では事実上タブー視されるようになった。これらの背景で、茨木基敬お機械様が本部員を罷免され地場を追われ「離れ座敷」に移られた。

 9月、別科21期生入学(男11名、女40名)。
【諭達第9号】
 9.5日、諭達第9号。シベリア出兵にあたり戦時協力につとめる。

【天理教青年会創立】
 10.25日、既に明治43年に発足した婦人会の十年後、天理教青年会が創立された。初代会長に山沢為造(60歳)が就任した。桝井伊三郎、喜多治郎吉、中山為信氏が青年会理事に任命された。

 【本部】この頃、毎年春秋大祭とおせち期間中、本部境内に提灯が立てられていた。


 (お道の教勢、動勢)
 6.22日、諸井国三郎が出直し(亨年79歳)。1840(天保11)年、7.20日、遠江国山名郡広岡村下貫名(現・静岡県袋井市広岡)生まれ。1882(明治15)、諸井家に寄留していた吉本八十次が、織物教師・井上マンの歯痛をお助けしたのがきっかけで匂いがかかる。1883(明治15)年、子供の病から夫婦で信心の心を定め、この年初参拝。1888(明治20)年、7.14日、本席よりおさづけ。山名分教会(現大教会)初代会長。葬儀で、先妻の娘婿で二代会長の清麿と、後妻の娘婿の戸主の慶五郎が、互いに譲らず喪主が二人並び立つと言う、異例な継母継子騒動が勃発し「教統問題」が起きている。
 6.27日、松田音次郎が出直し(亨年75歳)。弘化1年(1844)2月1日、河内国若江郡刑部村‐(現・大阪府八尾市刑部)生まれ。明治10年(1877)、長患いをご守護頂いた同村・山田長造(稿本天理教教祖伝逸話篇58「今日は河内から」)のみかぐらうたに感銘したのが入信のきっかけとなる。『稿本天理教教祖伝』では明治13年(1880)入信。

 (当時の国内社会事情)
 第三期国定教科書( 公民道徳・国際協調) 。大学令。ロシア革命でトルコ系ロシア人渡来。

  (宗教界の動き)
 満州社寺規則制定。
 日本ハリスト正教会独立。東女大( 新教6派)。
 官幣大社男山八幡宮を石清水八幡宮と改称。吉野宮吉野神宮に改称。
 この年、大本教で、なおの死去によりすみが二代教主となる。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1919(大正8)年

 1.25日、【本部】婦人会役員会で天理女学校設立を決議。


 1.27日、 【本部】天理中学校新設運動場で天理教青年会発会式。5会場で記念の大講演会。


 4.27日、【本部】天理教婦人会第7回総会。 (この年から4月は婦人会(従来は10月27日)、10月は 青年会の総会開催(昭和9年まで)となる。


 7.20日、諭達第10号。大戦後の民力を涵養すべく思想善導の講演会を開く。


 授訓者が中山家の人間になった。「授訓者」としての正当な継承理由があるかないか如何が問題になった。この問題をどう解決するか、そこに登場するのが、明治8年の「教規講義」にある 「教義の淵源たる唯一最後の道場たる 教会本部長(教祖の遺したまへる御命名に従えば『屋敷の真柱』)」。


 大正8年7月、2年前に東京帝国大学法科を卒業した31歳の諸井慶 五郎が教校において「教規講義」をしています。諸井慶五郎は山名大教会初代会長諸 井国三郎の娘婿という形で天理教に 入ってきます。もともと天理教に関わり があったのかどうかは手元に資料がなく 分かりません。ただ、非常に優秀であっ たので国三郎が取り立てたのだろうと思 います。 慶五郎は大正12年に山名の3代会長 になり、大正14年に創設された史料集 成部員にもなっています。

 その主要部分が右に 引用したところです。天理教は明治21年に神道天理教会として認可さ れ、明治41年「天理教」として独立します。独立以前というのは21年以 降41年までということで、その時代は「教務上の権限」と「信仰上の権 威」は神道天理教会の長である「教長」に集中されていた、具体的に いえば中山新治郎のことです。ところが一派独立後は「教務上の権 限」である管長と、「信仰上の権威」である本部長に分かれてしまっ たというわけです。ただ、実態としては、教祖が身を隠された後、本席 が「信仰上の権威」として明治40年まで存在します。それゆえに本席 の口述記録である「おさしづ」が三原典の一つとされるわけです。この 点が右の文章では無視されています。 そもそも明治期の宗教公認において、教務上の権限と信仰上の権 威は並び立たない。ですから、教祖亡き後の天理教は本席飯降伊蔵 と教長中山新治郎の並立状態で動いていくことになりました。しかし 大正8年の段階ではその歴史が無視されています。 ただ、「信仰上の権威」を担うためには、その根拠が必要になります。 その根拠として「おふでさき」にある「真柱」が持ち出されています。教 長、管長である中山新治郎を教祖が「おふでさき」の中で「真柱」とし て道の後継者に指定していたとすればこの問題は解決します。この 解決法を提示したのが右の引用部分の主旨ではないでしょうか。
 教規制定前即本教の独立以前に於て、教長と云ふ 御名前で前管長公の御一身に蒐中せられたる教務 上の権限、並に部属一般教信徒に臨まれたる信仰 上の権威と云ふものは、此教規の制定によりて少 なく共形の上には二分せられたものと観念せなけ ればなりません。即一は行政的教務の首班たる地 位に立つべき管長として、一は教義の淵源たる唯 一最後の道場たる教会本部長(教祖の遺したまへ る御命名に従えば『屋敷の真柱』)としてゞあり ます。如斯(かくのごと)く我が中山家の御当主は、教 規上の資格に於て別個の異りたる二つの地位に立 たれるのでありまするが、元々両資格は只御一人 の兼ね有せらるべきものでありまして、他の冒す 事を得ざる所に属しまするから、我々教徒の仰で 以て帰敬を捧ぐるの道に於て迷ふところはなく、 要するに『真柱』としての本質に些の軽重を加ふ る事とはなりませぬが、国家法制の確立して厳存 する以上、直接其支配の下に立つべき一派独立の 許可と云ふ行政行為の結果、最早従前通りの慣行 を固守すると云ふ事は不可能となりまして、どう しても国家の制度に準拠しなければならぬ必要上、 各般の制度に付大に改廃しなければならぬ場合に 立至たものが少なくないのであります。 (「教規講義」諸井慶五郎.P32.1919-大正8(1919)年7月27日~8 月2日に教校で開催された「第1回講習会講義録」)

 8.2日、諭達第11号。文部大臣の訓令を受け食料問題の解決につとめる。


 10.27日、【本部】天理中学校北側大運動場で天理教青年会第1回総会。参加者約8000人。山辺郡長、 丹波市署長、三島区長らも参列。3会場で記念講演会。


 (お道の教勢、動勢)  
 5.29日、梅谷四郎兵衛が出直し(亨年73歳)。弘化4年(1847)7月7日、河内国古市郡東坂田村(現・大阪府羽曳野市東阪田)生まれ。浦田家の養子 勝蔵から四郎兵衛に改名。浦田家から離籍、梅谷に戻る。明治14年(1881)、佐官業の弟子の父親から話を聞き初参拝。教祖より赤衣(明治16年)・本席より息のさづけ(明治20年)。船場分教会(現大教会)初代会長。妻たね、三男・梅次郎(2代会長)。(稿本天理教教祖伝逸話篇106「蔭膳」)
梅谷四郎兵衛・井筒五三郎出直し

 (当時の国内社会事情)
大正8年  スペイン風邪の流行

  (宗教界の動き)
 朝鮮に朝鮮神宮(官幣大社)を創建した。祭神を天照大神と明治天皇にした。官国幣社9、以下60余社が造られた。
 松下松蔵祖神道( 人の道) 開教。
 妹尾義郎新興仏教青年同盟結成。関東学院( 新教)。
 ローマ教皇使節館設置。イムマヌエル綜合伝導団設立。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1920(大正9)年

 1.6日、【本部】一般おせちが座食となる。


 1.25日、諭達第12 号。平和条約公布に際し質実剛健に励み健全な思想を養う。


【若き本部員増野道興氏が山澤摂行者に代わって天理教校長に任ぜられる】
 1月、若き本部員増野道興氏が山澤摂行者に代わって天理教校長に任ぜられた。その頃の別科生は一期二、三百人にすぎなかったが増野氏の時代になって激増し、おぢばが別科生の波に埋まるという盛況になって行く。増野氏が校長に任ぜられた六年間に、合計三万三百七十八人という別科生が、氏の息吹のもとに育った。また増野氏の別科生に対する講話がまとめられ、『講壇より』とか『教館の日』という本となって道友社から出版され、それが記録破りに売れていった。その影響のもとに、多くの人が四十年祭の奉仕に従事し、布教に挺身(ていしん)した。大正九年には教師の数は約二万七千ぐらいであったのが、大正十五年には倍の五万四千になっている。男の教師のほうがはるかに多く、二万七千の中で女の教師はわずか千三百くらいにすぎなかったが、大正十五年には女の教師が一万一千以上になり、男五人に女一人の割合になっている。

 2.24日、天理教本部が教学部を新設した。増野道與を校長に任命し、教校の拡充強化に取り組んでいくことになった。


 3.18日、 【本部】財団法人天理教教会本部となる。
 4.25日、【本部】天理女学校開校式。5.1日、【本部】天理教校予習科始業式。


 6月、大西の「甘露台古記」に感銘した天理教琵琶支教会の役員・堤寅吉が磐城小学校の宿直室に大西を訪ね、ほんみち最初の信者となった。

 9月、別科27期生として1,306名が入学する(これまで500名以下)。


 この年、天理教の一番教会である郡山大教会の初代教会長・平野楢蔵(1843年-1907年、「恩地楢」と河内・大和の国中一帯で一目置かれていた元やくざの大親分にして、教祖の警護的常詰めしていた)が、伝記を含む「道すがら」を出版している。「それが事の善悪に拘わらず苟も事実の真相は出来る丈け赤裸々に書くように書く事に努め、大抵の出来事は之を漏らさぬように注意しました」(天理教郡山大教会1920、p3)とある。教団草創期の雰囲気が迫力をもって描かれている。

 おじばに通い始めた平野は、教団に暴力を用いた迫害が及んだ場合には対抗暴力に訴え、処理した。教祖は、「このものゝ度胸を見せたのやで」、「明日からは屋敷の常詰とする」(「道すがら」p59)と、これを評価している。平野はこうして、教祖の晩年、「屋敷の常詰」となった。

 諸井政一(1876年―1903年)の「正文遺韻抄」には、次のような伝承が記録されている。

 教祖様がきかせられましたが、『世界には、ごろつきものといふて、親 方々々といはれているものがあるやろ。一寸きいたら、わるもの々やうや。けれどもな、あれほど人を助けてゐるものはないで。有る處のものをとりて、なんぎなものや、こまるものには、どんゝやってしまう。それでなんじゅうが助かるやろ。そやつて、身上もようこえて、しっかりしたかりものやろがな』と仰有りました(諸井1970、p259)

 「道すがら」や「正文遺韻抄」は、「谷底せりあげ」(=社会的弱者の救済)を目指した初期の天理教が、民衆の対抗暴力(「謀反」)と紙一重の際どいところにあった宗教運動であったことをよく示している。(熊田一雄「天理教教祖と<暴力>の問題系」)


 10.2日、【本部】中山玉千代様、分家し山澤為信と結婚。


 この年末、天理教教会数が4066(4925)ケ所。この年、路傍宣伝講演会盛んになる 。


 (お道の教勢、動勢)

 11.28日、木村八十八(後の深川大教会初代会長)が出直し。


 (当時の国内社会事情)
 10.1日、第1回国勢調査が実施される(内地の人口は5596万3053人)。
 東京帝大文学部神道・法学部憲法第二講座設置。

  (宗教界の動き)
 明治神宮創建 明治帝 ( 勅祭社 )。神社規則・寺院規則・布教規則( 樺太庁)。「カトリック」誌創刊。聖心愛子会秋田。所得税法社寺等民法34条法人免税。賀川豊彦『死線をこえて』。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1921(大正10)年

 1.26日、【本部】教祖40年祭の日取り発表。教祖40年祭へ向けて 「教勢倍加」打ち出し。1.27日、教会本部が、直轄教会長を集めて、来る大正15年1月に教祖40年祭を執行すると発表した。


【松村吉太郎主導の倍加運動】
 この年、松村吉太郎の教会を増やせ!教徒を増やせ!教師を増やせ!兎にも角にも教勢拡大を信仰の最優先事項とし、倍化運動が行われ、一気に分教会数が増えた。
 四百万ある信徒を倍の八百万にし二十万の教徒を四十万にしッ二万の教師を四万にしッ四千五百の教会を九千にするのでありますッすべての面で勢力を二倍に同化しようというのでありますッ
 『劇画 教祖(おやさま)物語』
 おさづけをいただきながら、おたすけができぬようでは道の落第者である!!みなさんは道の落第者にならぬように心がけねばならぬ!!
 『劇画 教祖(おやさま)物語』

 みかぐらうたは真実者の行進曲であり勇ましく手踊りを舞い進むところに陽気ぐらしが実現するのでありますッ天理教布教師はこぞって街頭に立てッ巷にいでよッそしてその声を高くして天理の神名をとなえよッ
 『劇画 教祖(おやさま)物語』

 日本国民八千万人全部をおさづけ人としてしまおうではありませんか!本教には一万人の教会長と二十万人のおさづけ人がいるッこれが月に一人ずつ別席人をこしらえれば決して難しいことではない!
 『劇画 教祖(おやさま)物語』

 また、この頃からハッピを着ることが広がったようである。「迎合派」の完全勝利であり、勢いに任せて今の体制に続く組織の骨組みが固まった時期でもあるように感じる。4年後には大正期が終わり、昭和元年に教祖四十年祭、二代真柱の東京帝国大学入学となり、現在の天理教に続いていくことになる。

【第1次大本事件】

 ここまで、大本教が教勢を拡大させていた。1919年には亀山城を買収し、従前の綾部に並ぶ本拠地とする準備に入った。また1920年には大阪の有力新聞だった大正日日新聞を買収して言論活動にも進出し始めていた。有力信者・浅野和三郎を中心とする大日本修斎会の一派が独走し、「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱え、社会体制の変革を主張し始めていた。

 2.12日、大本教が弾圧され、京都府綾部の本宮山神殿が破壊された。出口王仁三郎以下の幹部が不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、大正日日新聞社の社長室にいるところを検挙された。王仁三郎は126日間の未決生活の後で6.17日、保釈された。8.5日、京都地方裁判所は「不敬罪」で懲役5年の判決、直ちに控訴。裁判は大審院まで争われ、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した。再審理中の1926年(大正15).12.25日、大正天皇が崩御し、免訴となる。

 なお王仁三郎は保釈の後、秋頃の10.18(陰暦9.18)日から「霊界物語」の口述を始めている。また、この事件を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後浅野和三郎は心霊科学研究会を、谷口雅春は生長の家を興している。

 出口王仁三郎は責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6人とともに大日本帝国を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する。同年6月パインタラにて張作霖による危機もあったが、7月に帰国している。裁判は大審院まで争われたものの、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した。再審理中の1926(大正15).12.25日、大正天皇が崩御し、免訴となる。


 10.10日、諭達第13号公布。教祖40年祭を提唱し、教祖四十年祭に向けて信徒が奮起することを促す。


 10.25日、【本部】『御教祖四十年祭』の冊子を一般教会に配布(教勢倍加をうたう)。


 11.14日、本部員解任後もおぢばに留まっていた北大教会初代会長の茨木基敬がおぢばを去り、奈良県生駒郡富雄村(現在の奈良市二名平野)に移転した。茨木基敬は、本部の「離れ屋敷」としていた。


 (お道の教勢、動勢)
 3.22日、中川よしが出直し(亨年54歳)。3.25日、葬儀は、松村吉太郎の斎主のもと盛大に行われ、遺骨は染井墓地に葬られた。


 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 鈴木大拙『Eastern Budist』→1931。第一次大戦戦没者靖国神社合祀。大本教出口「立替説」不敬罪で有罪→24控訴審有罪→27大赦。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1922(大正11)年

【【本部】教会長講習会開催】

 3.28-4.2日、【本部】1926年の教祖40年祭に向けて全国の教会長約5千名を招集して教会長講習会開催。松村吉太郞が、「現在20万の教徒を40万に、4500の教会を9000にしよう。決して不可能なことではない」と倍増計画を発している。この時、山澤為造の講演「地場の真義」で、泥海古記が天理教本部から初めて公然と打ち出された。天理教教会本部編「教祖四十年祭講習会録」(天理教道友社、1922年1―23頁)。この講習会の様子については、『みちのとも』第365号、1922(大正11)年4月100頁(「地場通信」)を参照。


 4.1日、大阪電気軌道株式会社が「天理駅」開設。(平端ー天理間が開通し、大阪・上本町6丁目ー天理間が直通電車で65分、65銭)


 明治22年6.18日、お指図。 

 松村吉太郎、前日実父、祖母身の障り願いし処、大層のようおさしづに預り、これは両人共安心の道を運ばねばならぬか、押して願い。
 さあ/\区域分かろうまい。指図しよう。長らえて年を取り、一時は大層である。経って了うてから、どうも仕様がない。この理を分かれば、何も彼も速やかと分かる。内の処こちらの内は、昔からやと思う心が身に障る。昔からやと思う心除けて了うて、世上見てたんのう一つの理を定め。何かの処、一つたんのうの心を治めにゃならん。世上見て身は一つたんのうをせねばならん。これだけ尽し思うのに、何で身が悩むと思う、日々に思う心が身に障るのや。誠真実定まれば身は速やかという。
 押して願い。
 さあ/\一時の処、大層という理を聞き分け。大層と言えば、大層だけの理を運ぶ。大層は大層の理だけ運ばにゃ、世界というものがある。これだけの理を分からにゃ、どうも仕様が無い。さあ/\一時の処、大層という理を聞き分け。大層と言えば、大層だけの理を運ぶ。大層は大層の理だけ運ばにゃ、世界というものがある。これだけの理を分からにゃ、どうも仕様がない。

 7.8日、【本部】天理高等女学校設立認可(大正12年4月開校)。


 (お道の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)

 1922年、治安警察法第5条(女子の政治集会参加禁止)を削除する。全国水平社結成。


  (宗教界の動き)
 坂本健一「コーラン」日訳。カトリック名古屋司教区設置。谷口雅春大本教脱退。
 大正11年、河野は、「国学院雑誌」誌上で連載後のこの時、大正11年11月から翌年2月まで、全国神職会の会報「皇国」に「神道教派概要」と題して、教派神道各教団の成立、管長、教旨、主神、布教方法、現況について連載している。大正14年刊行の「神道大綱」(誠之堂書店)に改定の後に転載され、全128ぺ-ジ中78ぺ-ジを教派神道に充てている。次次項目ぺ-次五ペ-次

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1923(大正12)年

 5月、【本部】天理教館、婦人会・青年会本部竣工。教館の両翼に青年会(東側)、婦人会(西側)両本部ができる。


 8.1日、本部教義批判を開始していた大西愛治郎が、甥の小浦芳雄ら4名を天理教本部へ派遣し、教理問答を仕掛ける。これが口伝で教内に広まり始め、大西の下へ来訪者が相次ぎ始めた。この年の12月、名古屋の天理教信者・鈴木代蔵が全財産を整理して入信した。


 9.1日、関東大震災が発生する。9.3日、【本部】関東大震災の救済事業に関する諭達第14号公布。関東大震災の救済事業に関して関東大震災の臨時救済本部を設け、義捐金を募集する。


 9.14日、【本部】別科の2部授業始まる。(第31期の入学者が4000人を 超えたため。2部授業は第35期まで)


 【教祖30年祭執行】
 教祖30年祭執行。

 30年祭の時、井出国子が世界助けを始める。概要「生前のみきの予言にもかかわらず、天理教本部は慾と高慢から、神意をたしかめることなく、存命のみきを井出国子とともに腕力で教祖殿から引きずりだして怪我をさせた」云々と批判し、邪道であると教団に通告した。


 12月、非信徒で天理教研究者の田辺要蔵が、天理教同志会を出版元として飯降家に保存されていた「百日指図」を刊行した。2年後に開催される教祖40年祭に向けて、大教会長クラスの幹部信徒用に私的に出版されたものと思われる。


 この年末、天理教教会数が5258ケ所。


 (お道の教勢、動勢)
 5.1日、松尾はる(ハル)が出直し(亨年89歳)。天保6年(1835)9月15日、(大和国平群郡若井村(現・奈良県生駒郡平群町若井)生まれ。慶応2年(1866)、入信。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』
 18「理の歌」 25「七十五日の断食」 26「麻と絹と木綿の話」 27「目出度い日」)
 10.17日、深谷源治郎本部員・河原町大教会長が出直し(亨年81歳)。天保14年(1843)2月17日、京都市東山区古川町三条下る進之町)生まれ。明治14年(1881)、富川久吉の手引きで入信。おさづけ(明治20年9月9日)。河原町分教会(現大教会)初代・3代会長。妻・ハナ。
 11.25日、仲野秀信が出直し(亨年72歳)。嘉永5年(1852)、大和国添下郡小泉村(現・奈良県大和郡山市小泉町)生まれ。明治18年(1885)、梶本松治郎に頼まれ眞之亮の柔剣術の指導に当たる。明治19年(1886)、教祖と力比べで神の存在を見せられ心を定め信仰する。天理中学校開校時に柔道・剣術・体操の教師となる。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』174「そっちで力をゆるめたら」)
 この年、関根豊松が麹町分教会理事、及び大森町支教会の二代会長に就任している。


 (当時の国内社会事情)

  1923年、[各府県に特別高等課設置]される。国民精神作興の詔勅。


  (宗教界の動き)
 この年、国民精神作興に関する詔が出されたが、教化団の活動などを通じて、「国民精神」、「皇国精神」作興運動が展開される。満州事変以後は国体明徴運動となり、国家神道の教説にも一層の増幅がはかられた。各地でも昇格県社が増加し、供進金も飛躍的に拡大された。協賛金方式による神社の巨大工事が相次いで敢行された。八絋一宇」、「祭政一致」などのスローガンが唱えられ、歴史や修身の授業は国家神道の教義に近似して行った。
 本願寺僧有志宗門改革運動。神仏道教会所規則。
 山室軍平日本救世軍。
 カトリック広島司教区設置。本聖公会東京・神戸教区設置。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1924(大正13)年

 2月、【本部】新別席場竣工(6棟、現在の修養科鳴物教室)


 1924(大正13).2.2日、天理教本部が、大西愛治郎の教師資格を剥奪した。3月末、大西は岩城小学校教員を退職し、信仰活動に専念することになった。この頃、大西の下へ投ずる天理教信者が続出し始めた。


 4.26日、【本部】本部の専用電話開通(親里の敷地が広がったため、各 詰所・学校・本部員住宅などを結ぶ)


 5.20日、【本部】教祖四十祭の拡張工事にともない、本部前広場地上げの土持ちひのきしん始まる。南屋敷といわれた飯降本家、分家、永尾家(三軒三棟)が移転する。


【上田ナライト宅その後】

 上田ナライト宅も後の和楽館の建物に移転した。不自由だった両足はすでに治り、太り気味たった体の肉は落ち、細くなった。ほとんど家にいて、神に供える紙を折ったり、針仕事をしたり、畑仕事をしていたが、時には石上神宮や故郷の園原の方ヘ散歩をすることもあったという。


 7.27日、【本部】中山こかん様50年祭。


 8月末、木下直進堂から「御筆先」が刊行されている。


 10.26日、秋季大祭。管長職務摂行者・山沢為蔵が制服着用の教会長ら約3000名を従え、神殿に向う。


 10.27日、【本部】真柱中山正善様(19歳)が青年会長に就任する。


 11月、【本部】教祖40年祭の日取り決定。混雑を避けるため、大 正15年1月15, 20, 25日の3回に分けて行うことを決める。


 (お道の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)

  1924年、逓信省放送用私設無線電話監督事務処理細則制定される。


  (宗教界の動き)
 2月、大本教の出口王仁三郎が、責付出獄中に植芝盛平をはじめ日本人6名とともに密かに大日本帝国を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい・馬賊の頭領)とともに活動する。同年6.21日、パインタラにて銃殺の瀬戸際に立たされるが窮地を脱する。7月、帰国。責付を取り消され、再び大阪刑務所北区支所に収容される。11.1日、保釈許可となり帰綾。12.15日、再び「霊界物語」の口述を始める。
 田中逸平メッカ訪問。関西の神道系新宗教の徳光教を受けついで、禅僧出身の御木徳一とその子徳近がひとのみち教団を開教した。信者100万。ひとのみちは,天照大神信仰に立ち、「教育勅語」を教典として、実利的な生活訓を説いたが、不敬罪で弾圧され禁止されることになる。

 (当時の対外事情)
 1924年4月、アメリカ議会で移民禁止のいわゆる「排日移民法案」が可決され、7.1日より施行される。新規の移民は一切禁止となる。ハワイにおいては、この頃はまた、プランテーションで働く日系人が減り、彼らがホノルルなど都市部に集中してくる時期でもある。

 (当時の海外事情)

1925(大正14)年

 1月、ほんみち派が、磐城村竹之内に600坪の土地を手当し、「天理研究所」を設立、「天理研究会」を発足させた。これに対し、天理教本部は、信徒を足止めし、「天理研究会」と天理教の関係の否定を喧伝した。


 2.11日、【本部】天理教学生連盟結成(のちの天理教学生会)。


 2.17日、天理外国語学校設立許可。四十年祭の前年に当り、天理外国語学校の設置が青年会事業として立案され、認可された。当時としては珍しい男女共学制を採用していた。

 3.2日、【本部】婦人会により天理教託児所開設。


 3.3日、管長就職奉告祭執行の達を出された。「通達第六拾七号/部下一般 天理教管長中山正善殿本年四月丁年ニ達セラレ就職相成候ニ付同月二十三日就職奉告祭執行候条此旨相達候事 大正十四年三月三日」。


 3.26日、中山正善管長が月次祭に初めて祭主を務める。


 4.1日、【本部】天理尋常小学校開設。


 4.10日、【本部】教義及史料集成部創設。


【二代真柱・中山正善が成人に達し管長に就職】
 4.23日、二代真柱・中山正善が成人に達し、2代管長に就任。管長就職奉告祭執行。諭達1号公布。「世界六踏論」を宣べる。

 天理教管長中山正善職務摂行者山沢為造(大正14年教規では「本部長ハ信徒ニ対シ授訓ヲナス」とある)
 (中略)管長御就職奉告祭は、真柱様の御誕生日である花曇りの四月二十三日、午前九時より、実に厳かに執り行われた。即 ち、式は、午前七時三十分の、第一号砲で以て、教師集合所へ参集、同八時三十分の第二号砲で以て、教師祭場へ登 場、午前九時、鈴木奈良県知事外数多来賓着席に次いでくりひろげられたのである。(『潮の如く.上』P228)
 二代管長に就任したばかりの中山正善主導のもと、天理教本部に教義及史料集成部が開設された。これを受け、同年6.5日刊行の『みちのとも』には今後の教学上の課題を指摘する論客たちの声がまとめられている。増野道興(鼓雪)が「泥海古記」について「徹底的な解釈を施す必要」を訴えているほか、深谷徳郎が「本教の根本教理である泥海古記に就ても異説異本が多くて、正本といふべきものがない」と指摘している。中山正善の教学研究の基本的問題関心は大正末期のこのような雰囲気のなかで培われた。
 大正14年に中山正善が管長に就任する。この時、教規が変わり、「授訓者」は明治41年の「管長」から「本部長」になる。 「行政的教務の首班たる地位に立つべき管長」から「教義の淵源たる唯一最後の道場たる教会本部長」になった。こ の時、実際の授訓者も「たまゑ」から正善に替わったと思われる。

【「統制」と「教理」を廻る天理教と金光教の相似と差異考】
 明治から昭和20年までの時代、国家が「神」を規定したためにそれ以外の独自の神を主張することは困難になりました。その宗教統制の方法としての管長制-国家が直接宗教を支配するかわりに、各宗教に管長という責任者をおかせ、間接に宗教を 支配する-は国家が宗教を統制する機能を代行する仕組みでした。 国の管理代行者としての管長に対して、その宗教独自の教理もあり、教団の中にそれを継承する部分も存在しました。その 二つが教団の中に並立していれば当然教団運営で対立することになります。それを解決するには二つの役割を同一人が担う ことで、両原理のはたらきを調整することが現実的な解決法になります。金光教も天理教もその方法を取りました。

 この二つの 役割を簡単に「統制」と「教理」という言葉で表現すれば、金光教は「教理」が「統制」を取り込みました。対して天理教は、「統 制」が「教理」を取り込みました。その過程で、金光教は「教祖直筆(「金光大神御覚書」)」の中に《「教理」が「統制」を取り込む》ことの正当性を見出しました。それが「立教神伝」と呼ばれるものでそこに出てくる「取次ぎ」は「本教至高ノ聖務」であるとし 「取次ぎ者」が管長も兼務しました。それを実現可能にしたのは「教理」も「統制」も教祖の血統者が引き継いでいたということも 要因の一つであったと思えます。

 対して天理教は、「教理」の後継者(おさづけを授ける者-授訓者)は教祖の血統を引き継ぐものではありませんでした。教祖 の後は飯降伊蔵-本席という高弟であり、その後は上田ナライトという40歳を過ぎた女性が本席が亡くなる直前に本席から指 名されました。ところが明治41年に天理教が一派独立した時の教規には授訓者は管長と記されています。天理教団という大きな組織に対してナライトはあまりに非力でした。実際の授訓者に関係なく書類は作られたわけです。ここには教団指導部にとっ て「教理」の後継者も中山家の人間にしたい、なければならないという願望が読み取れます。大正14年、新治郎の息子の正善が2代管長に就任した時、教規も変更され「授訓者」は管長から本部長〈「教義の淵源たる唯 一最後の道場たる教会本部長」(教祖の遺したまへる御命名に従えば『屋敷の真柱』)(「教規講義」P32)〉になりました。これと前後 して「新治郎=真柱」説を正当化する作業も進行していたと思われます。それは「教祖直筆(おふでさき)」の中に初代管長中山 新治郎を教祖は道の後継者として指名したという解釈を施すことでした。それが「発見された真柱」です。史実をそのまま認め たのではその正当性を見出せず、そのため、教祖口伝という偽文書を作り、「真柱」に関する物語を作り上げたのです。それは 昭和3年に『おふでさき附釈義』が公刊された時に完結します。しかし、その代償として、天理教は史実に基づく「教祖伝」を語る事が出来なくなってしまいました。また教祖伝研究、教理研究は「発見された真柱」像が虚構であることを白日の下にさらされる 可能性を秘めることになりました。この延長線上に現在の天理教は位置しています。

 この頃、本部員本部在籍者から神様、祖霊を引き上げる。
 (「天理教罪悪史」)。


 5.17日、六踏園調布農場開設(東本)。
 6月、【本部】東講堂竣工。
 8月、【本部】天理図書館設立。


 11月、奈良県丹波市町(現在の天理市)の天祐社から「非売品」、「門外漢に禁ず」として「泥海古記」が刊行された。同書の序には次のように述べられている。
 御本席より河原町初代会長深谷大先生が頂き、その高弟たちに分かちた、原本をそのまま印刷したもので金の力で容易くも求めることのできない、実に大切な我が御道の生命とする極めて尊い宝典であります故よく研究して待つ大の家宝として保存せられんことを

 天理教本部は、後に信徒達から回収し、焼却処分した。


 12月、【本部】天理教教庁印刷所竣工。


 大正14年時点で、満州、朝鮮に百数ヶ所の教会が設置され、数百名の教師が活躍していた。


 この年、中山たまへ真柱夫人の命により、各直属教会から派遣のひのきしん青年の雅楽修得が促された。


 (お道の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)
 3月、治安維持法(国体および私有財産制度への批判禁止、最高懲役一〇年)成立、公布される。国体を変革せんとする者は有期刑に処せられることになった。昭和3年、死刑になる。活動フィルム検閲規則制定される。

  (宗教界の動き)
 1925(大正14)年、6.10日、井出クニが渡仏する芹沢光治良夫婦を神戸に見送る。
 この年、大本教がパリに進出、中国大陸では紅卍会と共同戦線を張り、機関紙として人類愛善新聞を発行、北京に世界宗教連合会を設立、海外での活動が盛んな一方、国内でも千数百の支部、6千名の布教師を抱えていた。王仁三郎は自らを天皇のような至高の存在になぞらえ、白馬にまたがって教団の土地を巡視してまわり、周囲には近侍として多くの女性を置くなどしていた。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1926(大正15、昭和元)年

【教祖40年祭執行】

 1.15日、20日、25日、教祖40年祭が三日間(15, 20, 25日の3回)に分けて執行された。かぐら面新調。参拝帰参者65万人を超す。

 四十年祭は、大正14年までは松村吉太郎氏と増野道興氏によって進められ、教会も教師も信者もすべて倍増させようという「倍加運動」がその栄誉を飾った。提唱前年の大正9年の教会数は4925ヶ所であったのが、昭和元年末には1万278ヵ所に増大した。新設教会数は、大正10年-219ケ所、同11年-602ヶ所、同12年-761ヶ所、同13年-1095ヶ所、同14年-2187ヶ所、同15年-489ヶ所。


 この前後から海外布教に力を入れる方針を打ち出す。

 甲賀は、それまでの教会数が三百五十くらいのところ四十年祭の当日までに六百五十余りまで増大している。
 教祖が亡くなった段階で教祖派と神道天理教会派があり、それぞれで教えや伝える内容が違っていたが、公認化で双方が追い風を受け、天理教の強勢を伸びいていった。大正から昭和初期には7~800万人にもなったと伝えられている。奈良県の寒村で産声を上げた宗教が、10~20年の間に当時日本最大の宗教団体に成長し、実に日本人の1割もの人たちが信者になっていたことになる。

 2.8日、【本部】年祭終了にあたり諭達第2号公布。教祖四十年祭終了後の巡回講習会開催。


【松村吉太郎の警告】

 松村吉太郎が、「道の八十年」334P-336Pで次のように述べている。「第八回青年会総会でのスピーチ」の一節。

 「本席様がお出での間は天啓の中継者として、お指図を下さっていたので、親神様-神霊を中心とする思想と、おじばを中心とする思想とが混流しておった。(本部の人々は何かにつけて、この間に立って苦労したものだった。私も、独立請願中この為に、どれほどの心労をしたか知れない) 

 本質的には当然、一つであらねばならぬこの二つのものが、二つに流れていたのである。本席様がお出直しになると、自ずから、ぢば中心の思想と信仰とが残り、これが唯一絶対の信仰のようになった。初信者の如きは、ぢばを知っていても、お指図、お筆先による神意など、まるで知っていないではないか。

 ことに四十年祭を転機として、天理教は物質方面には驚くほどの進歩を遂げたが、精神面は必ずしもそれに伴うていない。今日の行き詰まりが、それを明らかに語っている。教祖様の頃は、霊的躍動に終始した。そこに自ずから奇蹟があり、信仰が生き生きと生きておった。だが今日では、この霊的活躍が鈍っているのである。眼前の仕事にばかり捉われて、本質的なものの探究を忘れ、霊界の開拓を忘れてしまったのだ。今日の行き詰まりの原因はここにあるのだ」。
 「組織せられた教会や眼前のおたすけなどをもって最高の仕事であるが如く考え、もっと根本的な、もっと本質的なこの神霊に対する考えを忘れているが如く観ぜらるるのは、何としても遺憾にたえないところであります」。
 「教祖様のお隠れ後、ようやく四十年あまりにしかならぬ。それが早くも教祖立教の精神を忘れて、ただ教派の宗政面にばかりとらわれたり、安易なその日その日を過ごして、その安易さを親神様のお恵みだと考えていた日ごろが恥じられてならなかった」。

 3.30日、2代真柱が天津教会ご参拝【京城年譜】。


 4月、真柱・中山正善が東京帝国大学文学部に入学。直後、朝鮮、中国、満州に巡教に出かけている。真柱としては、初めての海外巡教であった。その後も、頻繁に海外を訪れることになった。


 4.10日、2代真柱が関東教会ご宿泊【京城年譜】。
 4.11日、2代真柱が沙河口教会はじめ在大連教会ご参拝【京城年譜】。


 5.27日、【本部】本席飯降伊蔵20年祭。


 この頃、天理研究所が落成し、天理研究所の存在は、天理教内に全国的な規模で知れ渡り、教教が日増しに進展していき、約4千の信徒数を数えるに至った。


 7.27日、【本部】教会長第1次講習会。


 8.10日、真柱が中国大陸、朝鮮半島方面巡教視察。
 8.13日、真柱が京城支教会にお入り込み。


 8.31日、【本部】天理教外国語学校校舎落成。


 9月、【本部】外語校舎内に天理図書館開設へ。11.10日、天理図書館を開設。


 11.11日、【本部】満洲宣教所設立。


 11月、本部より「おさしづ」公刊(昭和5.10月完了)。


 12.25日、大正天皇崩御(47歳)。裕仁親王践祚し年号が昭和に改元された。諒闇中おつとめの鳴物停止。


【廣池千九郎が造反する】 
 この年、 法学博士(東京帝国大学)として著名であった廣池千九郎(1866~1938)は、神道史研究の過程で現代神道の一教派である天理教に関心を抱き、1909年、学術調査のため天理教本部を訪れ、翌年に入信。天理教教育顧問・天理中学校校長を務める。初代真柱と親交を深めていたが、真柱没後本部と対立し造反した。

 後に、「総合人間学」(財団法人Moralogy、モラロジー)を創立した。以来、倫理道徳の研究と、それに基づく「心の生涯学習」を提唱・推進する文部科学省所管の社会教育関係団体として、一貫して道徳性・人間性を育てる研究活動・生涯学習活動・出版活動を展開した。モラロジーの語源は、道徳を表すモラル(moral)と学を表すロジー(logy)による。人間、社会、自然のあらゆる領域を研究対象とし、人間がよりよく生きるための指針を探求し提示することを目的とした。(「廣池千九郎と諸岡長蔵」)(「廣池千九郎考」)

 (お道の教勢、動勢)
 大正末には、国語教育の先駆者として知られる関時発の『天理教泥海古記釈義』、法曹家であり衆院議員も務めた神崎東蔵と高橋蘭花の共著『天理教創世記(泥海古記)眞髄』も出ている。
 1月、関根豊松が愛町分教会の前身となる愛町宣教所を設置する。2月、教会を名古屋市中区宮前町に移転する。


 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 天台宗大・豊山大(真言宗) ・宗教大(浄土宗) →大正大 3宗連合。明石順三エホバの証人灯台社創設。赤松智城宗教研究会「宗教研究」創刊。宗教制度調査会官制公布( 宗教界反発)。
 1926(大正15)年、4.17日、井出くにが「みのこころゑのはなし」を発刊する。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)

1927(昭和2)年

 4月中旬、2代真柱、京城支教会にお入り込み。


【おふでさき公刊】
 4.26日、おふでさき公刊。

 4.28日、【本部】支教会以上の教会長講習会を天理教館で開催。


 9.26日、【本部】各府県に教務支庁を置くこととなる。


 10月頃、大西が、「研究資料」の執筆に入る。幹部の中井銀次郎と中川喜六が分担執筆し、年末に一応の完成を見ることになる。


【アメリカに初の教会設立】
 11.3日、アメリカ初の教会をサンフランシスコに設立(サンフランシスコ教会)。続いて同年、香川県の本島教会(初代教会長・片山好造)の系統がハワイのホノルルに教会を設立している。ハワイの布教に関しては、「天理教ハワイ伝道史」の中に詳しい。各教会が単独布教者をハワイに送り、教会設置に熱意を示した賜物であった。片山は、1927年から5年間に、福岡出身の上野作次郎ら23名の布教師をアメリカ本土、ハワイへと送り出し、13の教会を設置した。(天理教事典の「本島大教会」の項)。1931年には、ハワイの四つの大きな島(ハワイ島、カワイ島、マウイ島、オアフ島)それぞれに本島系統の教会が設立される。こうして、ハワイ布教の先頭を切ったのは本島系統であるが、周東系統(山口県)、防府系統(同)、天元系統(奈良県)、尾道系統(広島県)などが続いた。このうち、周東系統の太平洋教会(ホノルル)を開いた三国又五郎は、「ハワイ伝道の先駆者」とも呼ばれ、実質的には、最も最初期に布教活動を始めた一人である。各教会の布教競争は次第に激しくなり、1929年から38年までの約10年間に、21の教会がハワイにできている。

 11.27日、海外伝道に関する諭達第3号公布。教庁内に海外伝道部が設置され、海外伝道規定、伝道庁規定が公布された。


 11.27日、【本部】教規改正。一般教会を大教会、中教会(教会を改称)、 分教会、支教会、宣教所と改め、海外教会は単に教会と称する。


【本部がお指図全36冊を刊行】
 11.27日、【本部】お指図1・2巻公刊。昭和6年6月26日、全33巻完了。(本部が全36?冊を刊行)

 11.28日、【本部】本部神殿でおたすけの取り次ぎ開始。


 12.9日、【本部】専門学校令による天理外国語学校設立認可。


 昭和2年頃、天理教内の一部にナライトに天啓が降りてくるのではないかと期待する向きもあった。この時期、精神的に非常に安定した生活を送り、機嫌がよかった。好物は葡萄と抹茶で、茶は側の者に自ら煎てたりもした。また昼夜を問わず入浴した。これは世の中の一切の汚穢が絶え間なく自分の心に移ってきて溜まるので、それを入浴によって祓い清めて浄化していたともいわれる。あまりにも頻繁に入浴するため、ナライトに仕えていた宇野たきゑが「なぜそんなにたびたび入浴されるのですか」と聞くと、「心が濁るからや」と答えている。ナライトにとって入浴は神聖な神事であった。

 (お道の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)
 紀元節以下祭日を休日・明治帝誕生日→明治節 11.3。7/24 芥川龍之介自殺。金融大恐慌。

  (宗教界の動き)
 1927(昭和2)年、仏教界、宗教法案に反対。宗教法案審議未了。カトリック福岡・鹿児島司教区設置。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)





(私論.私見)