天理教分派史考


 更新日/2022(平成31.5.1改元/栄和4)年9.1日

(れんだいこのショートメッセージ)
 2003年現在、日本は遂に戦後日本の象徴であった経済の道が失速し続けており、今後も再生の見込みが立たない。それは政治の貧困に規定されており、この政治の貧困を糾す国の基である国體教育が既に破綻している以上、政治の貧困からの再生も見込みが立たない。文化は既に新植民地主義的様相を示しており、これらを総合的に俯瞰すると、遂に日本は国家的に解体され、今後は祖国意識の溶解したまま流浪の民として存続していくことが予想される。神国日本が何ゆえにこのようなメに辿り着いたのか、この問いに対し貴重な示唆を与えてくれるものに天理教の研究がある。と云えば大概の方は訝(いぶか)るであろう。その訝りが正か、れんだいこのこの観点が正か、以下これを証して行きたい。参考文献として「新宗教における分派分立の研究―天理教系教団をめぐって―」、「異端・異説一覧 」、モリジロウ「私の『茨木基敬』考その1」、「カリスマの継承からみた天理教系教団の分派形成 : 場所の宗教と天啓者の宗教」その他を参照する。以下、スケッチしておく。

 2007.10.25日再編集 れんだいこ


【天理教団史と分派史】
 ここでは、天理教を現在の奈良県天理市にある天理教本部系のものと、そこから分離独立した分派系のものとを総合して天理教と見なして扱うことにする。その際、都合上、天理教本部系の信仰を本部、分派系のものを異端、れんだいこから見て本来の有るべき姿として想念できるものを「お道」として三部構成で識別していくことにする。なお、異端には数グループあり、それぞれのグループが更に異端を生み出しており、その識別は困難を極めている。では、「お道」からみて天理教正統はどのように定義できるか。れんだいこは次のように纏めてみたい。

 幕末期の規定
 天理教は、徳川幕藩体制が揺らぎ始めた頃に発生した民衆宗教の一つである。19世紀末から20世紀初顕、如来、黒住、金光、天理といった諸教団が、幕末宗教運動として誕生した。「抑圧された民衆の切実な期待に応えようとする」云々と解説されているが凡庸過ぎよう。真実は、西洋を席巻したネオシオニズムの波が世界の植民地化に乗り出し、その渦がインド、中国、その他に続いて日本をも飲み込もうとし始めた矢先、この危機に正しく対応せんとする民衆側からの日本国體護持運動を発生させたものではなかったか。

 19世紀末から20世紀初頭の近代社会の成立期に生まれた幕末創始宗教(如来、黒住、金光、天理)は、当時の世界史的事象とも云える、ネオシオニストによる世界植民地化の流れに抗する「下からの国體護持運動」とも云える社会運動的意味を背負っていた。同時に、この時代の体制的矛盾により抑圧された民衆の切実な願いとしての「下からの幕末維新」があった。幕末創始宗教はこの両面に応えようとする新しい宗教運動であった。斬新な教理と活動能力で最大の教勢を持つ新宗教教団として台頭し、近代以降の新宗教教団に大きな影響を与えた天理教教祖みきの宗教活動が厳しい弾圧を受けるようになるのも、教祖みきの教理が、当時の文明開化という名の下での西欧化、より正確にはネオシオニズム化と根底的に対立したことに起因している。

 1814(文化11)年11.11日に先行して開教された黒住教に遅れること27年、1938(天保9)年10.26日に一介の農婦であった中山みきに神懸かりがあり、以降「神一条生活」に入った。この間、1858(安政5)年、川手文治郎が神のお告げによって「金乃神下葉(かねのかみしたば)の氏子」、次いで「金神の一の弟子」と呼ばれるようになり、1859(安政6)年10.21日、天地金乃神からお告げが為され金光教を開教している。

 なかでも天理教は、第二次世界大戦後まで最大の教勢をもつ新宗教教団として、近代以降の新宗教教団に大きな影響を与えてきた。そのみきの宗教活動が後に厳しい弾圧を受けるようになる。中山みきはその後の二十数年を経て次第に教義を確立し、信者を獲得していった。この時期は、黒住教、金光教の形成期と重なっている。丁度時代は幕末動乱期にさしかかっており、これら新たに創始された民衆宗教が「下からの幕末維新」を彩っている。この「下からの幕末維新」論抜きの幕末史ばかりが横行しているが、早晩書き改められなければ不正であろう。

 明治維新期の規定その1
 1867年、徳川幕府が倒され、天皇親政の明治維新が遂行された。内戦に功のあった薩長土肥の雄藩中心による新政府により、近代帝国主義時代に照応した新国家形成政策が急ピッチで導入されていった。この間、新国家像を廻って政府部内の対立が絶えず、いわば国粋派と西欧化派が拮抗状態で暗闘していた。幕末維新の最大功労者にして国粋派筆頭の西郷らは、西南の役を頂点とする内乱を誘い込まれた。鎮圧後、大久保利通-伊藤博文ラインが指導権を獲得し、官僚主義的国家主義政策を強行的に推進していった。この体制を仮に「国際欧化体制派」と命名する。この体制が1945年の大東亜戦争の敗戦まで続く、否今日まで続くことになる。

 この間、天理教は、教祖中山みきの指針に基き、「こふきと云われる元の理話」、甘露台信仰を精華とする独特の教理、神楽つとめ儀式、さづけと云われる取次ぎ儀式、講(親子)型信者組織法を核として影響力を増していった。当初は中山みきの生活区域に限られていたが次第に教勢を押し広げていった。新興宗教各派が競うように教勢を伸ばしたが、断然天理教のそれが顕著であった。

 これらの動きは国際欧化体制派式に改造された天皇制イズムと衝突し、為に政府は各宗派に天皇制との融和を押し付けることになった。他の宗派が一様にこれを受け入れたのに対し、天理教教祖中山みきはこれを拒否し続けたまま教勢を全国へ伸ばしていった。新政府は天理教の動きを早くより注視しており遂に弾圧の挙に出ることになる。

 明治維新期の規定その2
 この時、みきはあくまで教義通りの道を指針させた為、教内は三派(教理派、応法派、中間派)に分かれた。教祖は80歳を過ぎた身で十数次にわたって拘引され獄舎入りを余儀なくされている。「最後のご苦労」は89歳の時であり、厳寒の最中を12日間拘留されている。この時の伝聞として官憲の苛酷な取り扱いによる教祖の悲鳴と毅然とした態度が残されている。釈放後、病床に伏すことになり、翌年逝去する。この間壮絶とも云える問答が為されている。この問答も日本宗教史上の財産となっている」。

 教祖没後の動き
 天理教は、教祖没後は本席・飯降伊蔵を天啓指図者、外孫・中山真之亮を真柱とする二頭立て体制で教団運営していくことになった。実質的に見て近代日本における最大の新宗教教団となっていく。
 以上は、幕末創始宗教の政治意味を問うた解析であるが、以下、衣装として纏った宗教的意味を評しておく。幕末創始宗教には新しい世界観の提示を始めとする幾多の共通性がみられる。いずれも、社会的経済的に弱者であった階層の人々の信仰を集め、病気治しなどの御利益を契機にして信者を獲得して行った。既成の宗教では解決されない時代的宗教的課題を担い、民衆に対して新しい世界観を啓示しつつ時代を牽引した。この高い能力が幕末創始宗教の特徴であった。

 幕末創始宗教の教祖にはいずれも神がかり現象がみられる。日本宗教史上、巫女、 シャーマン、修験者を通して神懸かりする宗教現象はそれほど珍しいものではなく、民俗宗教の伝統との連続線上において考えることができる。幕末創始宗教もまた、民衆救済者として立ち現れた宗教的指導者としての教祖とその教祖を渇望する教祖崇拝、生神思想とも言うべき信仰を命脈としていた。但し、生神的な教祖による指導であればあるほど、カリスマ教祖が死を迎えたとき教団には深刻な後継事態を生じさせることになるのは致し方なかろう。

 幕末創始宗教はそれぞれに、民衆を直援的に救済する救いの手段を持っていた。強い直接性を含んだ救いの技術(それはしばしば呪術的なもの)を持ち、民衆のニーズに応えていた。教団の最初期の活動においては、これらの救済技術の実践を通して信者が獲得された。幕末創始宗教は、その時代における民衆の苦しみ、悩みを解決し、民衆が切実に生きるための問いに対して真撃に応えようとしたからこそ教勢を拡大し得た。信徒たちの共同体の中心には必ず教祖がおり、指導を仰いだ。それぞれの宗教活動の展開と共にそういう枠の中にはまりきれない新しい宗教的志向性を有していた。これらが幕末創始宗教の特徴であった

【天理教分派考】
 天理教分派を列挙すれば次の通りである。
「天輪王教会」、「大道教」、「朝日神社」、「ほんみち」、「世界心道教」、「赤坂神様の家」、「ほんぶしん」、「修養団体誠会」、「天理三輪講」、「神一条教」、「(財)モラロジー研究所」、「太道教」、「自然真道」、「日月教」、「八楽会教団」、「神光苑」、「天真教真祐殿教会」等々。多数の天理教分派が生み出されていることが判明する。天理教は、後の大本教の分派も含めて、近現代新興宗教を次々と生み出す国産系の母胎(ぼたい)となっているといっても過言ではない。

 天理教分派を俯瞰すれば、天理教直系教団、ほんみち(天理三輪講系)教団、天理神之口明場所系教団の三つの教団群に分けることが可能である。分派時期は教祖存命期、教祖没後の明治、大正、昭和のそれぞれの期に分けることができる。いずれも終末論的性格を孕んだ世界救けイデオロギーを内包している点で共通している。直接的かつ具体的な救済論は各派様々である。更に云えば、共に霊的神秘的な直感を重視しており、この霊的神秘的な直感をバネに天理教本部の教団体制を批判する傾向が認められる。特に明治、大正期の天理教では教祖が再生するとか、教祖と本席を継いで新たな天啓者が登場するとも解釈できるような伝承が残されており、この教義的な間隙が分派する際の大きな立脚点となった。その際、どれだけ教祖、本席の示した伝統に忠実であるかが自らの正統性を証明する争点となった。この発想は、直接天理教から分派した教団以外にも引き継がれ、母教団への批判と天理教に対する批判が常に重なっている。
 教祖(中山みき)亡き後、天啓者としての地位が本席(飯降伊蔵)に受け継がれた。本席は、上田奈良糸(ナライト)に天啓者の地位を譲った。そのナライトは職を全うできずやがて押し込められる。教理的な天啓者はここで絶える。以降は天啓者なきままの真柱を筆頭とする本部主導の教団運営に入る。他方、天啓者不在の教団に批判的な動きが生まれ、自分に天啓が下ったとして教祖、本席の地位に就こうとする者が現れるに至る。これが茨木基敬(もとよし)、井手クニ、大徳寺昭輝(てるあき)へと繋がる。この歴史を否定的に語る必要はない。これはむしろ他の団体でもそうだが活力の現われであり、その証明と考える余地も残しておかねばなるまい。これを逆に言えば、分派が現れない組織も考えものということになる。仮に或る組織が百年も千年も万年も一糸乱れぬ一枚岩の満場一致体制で健在し続けたとするなら、それは評価半分、お笑い半分にしかならぬ決して誇るべきことではないと思う。世の評価の物差しがどうかは知らぬが。

【天理教分派史年譜】
1 1865 本部系 今井新治郎
慶応元 転輪王教会(奈良県)
2 1866 本部系 今井惣治郎
慶応2 転輪王教会(奈良県)
3 1888 本部系 奥六兵衛
明治21 神習教天輪王明誠教団(横浜市)
教祖没後の翌年、奥六兵衛らが天輪王明誠教団を立教している。
4 1896 本部系 飯田岩治郎
明治29 大成教大道教(奈良県)
5 1907 本部系 井出クニ
明治40 朝日神社(兵庫県三木市)
6 1911 本部系 茨木基敬
明治44 茨木一派(奈良県)
(真道会とも称す)
7 1913 本部系 大西愛治郎
大正2 ほんみち(大阪府高石市)
8 1926 本部系 廣池千九郎
大正15 公益財団法人モラロジー道徳教育財団
9 1929 ほんみち系 出居清太郎
昭和4 修養団捧誠
10 1931 ほんみち系 勝ひさの会
昭和6 天理三輪講
1933 ほんみち系
昭和8
11 1934 ほんみち系 渡辺よそ
昭和9 天理神の打開場所/政子甘露台
12 1937 ほんみち系 石々川駒吉
昭和12 三理三腹元
13 1937 ほんみち系 山田梅次郎
昭和12 天理神之口明場所
14 1938 ほんみち系 会田ヒデ
昭和13 世界心道教(愛知県豊川市)
15 1938 本部系 中村しげ、中村政道
昭和13 太道教(東京都杉並区)
16 1941 出井清太郎
昭和16 修養団捧誠会
17 1941 天理神乃口明場所系 岡本ツエ
昭和16 日の本神誠講
18 1942 本部系 前島麗祈
昭和17 自然真道
19 1942 本部系 前田トク
昭和17 日月(ひかわ)教
20 1942 ほんみち系 米谷くに
昭和17 神一条教(大阪府東大阪市)
21 1942 ほんみち系 上野のぶ子
昭和17 天理甘露台(奈良県大和郡山市)
22 1946 天理神乃口明場所系 山田金次
昭和21 神和教会
23 1946 天理神乃口
明場所系
江上寿胤
昭和21 おうかんみち
24 1946 天理神乃口明場所系 佐田ヤエ
昭和21 聖正道教団
25 1946 本部系 松木天村、松木草垣(そうえん)
昭和21 神光苑
26 1946 本部系 前田トク
昭和21 日月(ひかわ)教
27 1946 小川耕一郎
昭和21 本部系 八楽精神修養道場(八楽会教団)
28 1947 本部系 嘉納寅三
昭和22 日月(ひかわ)
29 1954 天理神乃口明場所系 谷喜三
昭和29 月日教おうかんみち教会
30 1955 天理神乃口明場所系 深沢まつ枝
昭和30 月日大還道
31 1955 天理神乃口明場所系 山田そめ
昭和30 月日三世の道
32 1958 本部系 神出房江
昭和33 天真教真祐殿教会
33 1960 天理神乃口明場所系 浅野博
昭和35 甘露台
34 1962 ほんみち系 大西玉
昭和37 天理みろく会→ほんぶしん
(岡山市)
35 1963 若林神風
昭和38 宗教法人明誠教団(天輪王明誠教団)
36 1965 ほんみち系 斎藤正吾
昭和40 ほんみち(岐阜)
37 1975 天理神乃口
明場所系
斎藤年男
昭和50 甘露台霊理斯道会
38 1976 ほんみち系 渡辺秀子
昭和51 神之打分場所
39 1985 天理神乃口
明場所系
伊藤幸長(大徳寺照輝)
昭和60 天命庵
40 1987 本部系 八島英雄
昭和62 櫟本分署跡保存会(陽気づくめ教会)
41 2001 本部系 福留修司
平成13 おみち
42 2001 メンタルヘルス
平成13
43 2006 本部系 山田博明
平成18 天理教豊文分教会
 などの宗教団体がある。

【天理教分派史概要】
1 転輪王教会/今井新治郎(助造)
1865(慶応元)年、みきの弟子の一人、今井新治郎(助造)が、彼が住む針ケ別所が本地で、ぢばが垂迹とする本地垂迹説を唱え、天輪王教会を設置し活動し始めた。
(初の異端の出現、助造事件)
 天理教ではこれを助造事件と称している。これが最初の分派である。分派史上は「天理教直系の分派教団」になる。翌年、新泊郎の弟、今井惣治郎が分家し、転輪王教会を設立している。
2 転輪王教会/今井惣治郎
1866(慶応2)年、今井新治郎の弟が分家し造反。
3 天輪王明誠教団/奥六兵衛(横浜市)
1888(明治21)年、みきの死の翌年、天理教本部に造反。明誠講社が教派神道神習教天輪王明誠教団として独立した。1940年の宗教団体法施行に際し、神習教から独立するか残留するかをめぐって二派に分裂した。
(「この頃の講元の動きと説法」)
井出クニの朝日神社、茨木基敬の分派、大西愛治郎のほんみち開教が大正初年に起こっている。これは大正五年の教祖三十年祭前後に天理教内で生じた天啓者待望を背景にしている。
4 大道教/飯田岩治郎(奈良県)
 1896(明治29)年、天理教の本部准役員・飯田岩治郎が神憑って大通教を設立、同所の井戸から汲んだ「水の授け」による救済の秘儀を行い始めた。天理教本部ではこれを深刻な異端としてとらえ、水屋敷事件(安堵事件)と呼んだ。1900年、飯田岩治郎が教派神道神道大成教大道教会として独立。戦後大成教から独立している。
(「飯田岩治郎氏の水屋敷事件」、「御水屋敷並びに人足社略伝」  
5 朝日神社/井出クニ(兵庫県三木市)
 1907(明治40)年、本席が死去した年、井出国子の井出クニの神がかりにより独立、天理教本部に造反した。「播州の親様、二代教祖」を名乗った。朝日神社を創立した。当時、天理教内には天啓者の出現を待望する空気があり、ク二は「播州の親様」とも称された。(井出くに考)
6 茨木派/茨木基敬(もとよし)(奈良県)
 1911(明治44)年、天理教北大教会初代会長の茨木基敬が天啓を受けたとして取り次ぎを行い始め、天理教本部に造反。教団を追われるかたちで分派し独自の活動(真道会)を行った。
(「茨木基敬略伝」)
 大正5年、教祖三十年祭前後に天理教内に天啓者待望が醸成された。
7 天理研究会-ほんみち/大西愛治郎(大阪府高石市)
 1913(大正2)年、大西愛次郎「甘露台人の理」を唱え天理教本部に造反、天理研究会として独立した。天理教の最大の分派となった。大西は、天理教の教師資格者であったが、1913(大正2)年、自らが天理教の霊統の継承者であると自覚し、「甘露台人の理」を説き、自身が「人間甘露台」(天啓者)であると主張し始めた。天理教は大西の主張を否定し、教師資格を剥奪。そこで大西は1925(大正14)年、天理研究会(ほんみちの前身)を発会し独立した。
(「ほんみち派の第一次不敬事件、第二次不敬事件」、「ほんみち派不敬事件」)
 大正末から昭和10年代前半、天理教分派が集中している。これは、この時の分派教団が多かれ少なかれ終末論的性格を分け持っており、これが決起的布教のバネとなったことによる。こうした性格ゆえにいずれも治安維持法や不敬罪で関係者が検挙されている。昭和10年、12年の教祖五十年祭、立教百年祭の年限にも何らかの意味を感じ取った信者たちの動きがあった。
8 モラロジー研究所/廣池千九郎 
 1926(大正15)年、天理教教育顧問・天理中学校校長だった廣池千九郎が天理教本部に造反し、独立してモラロジー研究所を立ち上げた。
(廣池千九郎考)
9 修養団捧誠会/出居清太郎
 1929(昭和4)年、ほんみちに造反(東光会)。ほんみち事件に連座後、天啓を受けて創設した。
10 天理三輪講/勝ひさの()(安子甘露台)
 1931(昭和6)年、勝ひさがほんみち事件を契機ほんみちに造反。1933(昭和9)年、天理三輪講を立ち上げ、天変地異の予言や唯一絶対の天啓者による「甘露台世界」の実現などを精力的に説いた。その影響によって出現した教団には石々川駒吉の三理三腹元、渡辺よその天理神の打開場所(政子甘露台)、会田ヒデの世界心道教、米谷くにの神一条教などがある。

 勝ひさのは、自分を愛治郎の後を嗣いだ甘露台であるとみなし、自らこう書いている。
 弥勅菩薩、甘露台、ヨハネの三者は異名同人にして、〝勝ひさの″が今日(仏教・天理教・基督教の)三教の教典を開き、神通自在を受得する迄に符号せられた名前であった。是よりは天命に依り(自分の)呼名を甘露台と改め、世界大救済の大道に立って月日(親神のこと)の実在の世を示し、神風豊かなる極楽世界を築く。(「神通開闢」)
11 天理神の打開場所/渡辺よそ
 1934(昭和9)年、天理三輪講系から造反。渡辺よそが自ら甘露台と称して神がかり、天草天理神の打開場所を開いた(政子甘露台、名古屋市)。山田梅次郎の長男の山田広一と成立させた。天啓により昭和12年より40年まで活動停止していた。
12 三理三腹元/石々川駒吉
 1937(昭和12)年、天理三輪講系から造反。
13 天理神之口明場所/山田梅次郎
 1937(昭和12)年、山田梅次郎が天理三輪講/天理神の打開場所を経て、天啓により中山みきの夫の善兵衛の生まれ替わりの天啓者「根株(梅の木)甘露台」を名乗り、甘露台であると表明し、天理神之口明場所を立ち上げた。その後、おうかんみちの教祖にもなった。

 梅次郎は1899(明治32)年に病気を契機として天理教に入信し、その後天理教の教師も務めたが、1912 (大正元)年に突然の神懸かりをし霊力を得たとされる。この頃から梅次郎は根株(梅の木) の言葉が得られるようになり、梅次郎の天啓を求めて人々が参集して来るようになる。

 梅次郎は天啓により、信者に「甘露水さづけ」と呼ばれる救済の秘儀を行ない、あわせて当時すでに天理教内において公式には廃止されていた「扇のさづけ」、「息のさづけ」による直接的な癒しを行なっていた。「さづけ」は「つとめ」と共に天理教において「たすけ一条の道」と呼ばれる特別な救済の手段であった。

「甘露水さづけ」は甘露水という聖なるものを授け渡す秘儀式で、扇を通して水を飲ませる儀礼を通じて、直接神の意志を取り次ぐことにより、救いを求める人々に対し、より直接な救済を可能とした。「甘露水さづけ」を受けたものは、修業と心がけ次第で神意がわかるようになり、「扇の伺い」ができるとされた。このグループには、山田そめの月日二世の道真知岳(みちまちだけ)本部、斎藤年男の甘露台霊理斯道会、深沢まつ枝の月日大還道などがある。基本的に中山みきの言動などを崇拝し、神秘的な直感を重視する傾向が強いようである。(天理神之口明場所、おうかんみち/考)

 開教期の天理教においては「扇の授け」を初め、*****が存在していた。教祖在世中は教祖、教祖の死後は本席からこの神意の取次が信者に対してなされていた。しかし本席死後、教内にはもはや神意を取り次ぐことのできるものはいなくなり、これらの「さづけ」は最も形式的な「あしきはらいのさづけ」を除いでほぼ全面的に禁止されてしまった。梅次郎は、みきが初期に行っていた扇で神意を伺う秘法「扇の伺い」や息を吹きかけて治す「息の授け」などの霊的秘儀の神秘的な呪法を昭和に復活させた。親神との霊的交流ができる秘儀の伝授や、病気治しを行う霊能者の育成などの活動に熱心に取り組んだ。そうした霊能者が増えることにより親神の理想世界が築かれていくという思想がみられる。

 1938(昭和13)年に天理神之口開場所関係者の検挙・結社禁止処分、及び1941(昭和16)年の梅次郎の死によって教団は壊滅的な打撃を被ることとなった。
14 世界心道教/会田ヒデ(愛知県豊川市)
 1938(昭和13)年、神がかりにより天理三輪講系から造反。大阪・西淀川で月読之命、国狭土之命が教祖の体に天下って世界心道教を立教した。
15 太道教/中村しげ、中村政道 (東京都杉並区)
 1938(昭和13)年、中村しげが神がかり天理教本部から造反し、太道教々檀として独立した。
 ほんみち―天理三輪講系の分派運動の展開は大正末から昭和10年代前半に集中している。この時の分派教団は多かれ少なかれ終末論的性格を分け持っているところに特徴がある。15年戦争や国際社会での日本の孤立化といった危機的状況を背景に、いずれも治安維持法や不敬罪で関係者が検挙されている。ここでも昭和10年・12年の教祖五十年祭・立教百年祭の年限に何らかの意味を感じ取った信者たちの動きがあった。
16 修養団捧誠会/出居清太郎
 ほんみち系の修養団体として、出居清太郎の修養団捧誠会がある。出居がほんみち事件に連座後、天啓を受けて1941年に創設した。
17 日の本神誠講/岡本ツエ
1941(昭和16)年、天理神乃口明場所系から造反。
18 自然真道/前島麗祈
1942(昭和17)年、天理教本部から造反。
19 日月教/前田トク
1942(昭和17)年、天理教本部から造反。
20 神一条教/米谷くに神一条教(大阪府東大阪市)
 1942(昭和17)年、天理三輪講系から造反。天理教本席、飯降伊蔵の妻の再生と唱え人間甘露台と自認し、大阪府布施市の自宅で「神一条打明場所」の名で開教した。1946(昭和21)年、大自然神一条教と改称。1952(昭和27)年、神一条教として宗教法人認可を受け現在に至る。教義として天理三輪講の教義を継承し、仏教、キリスト教、天理教をひとつのものとしてとらえる独特の教義を持つ。
21 天理甘露台/上野のぶ子(奈良県大和郡山市)
 1942(昭和17)年、天理三輪講系から造反。
 梅次郎から「甘露水さづけ」を受け 「扇の伺い」ができるようになっていた有力信者や梅次郎の子供らが、それぞれ独自に活動を再開させていった。戦後、それぞれが教団を設立し分立、再結集し、現在天理神之口開場所教団が十数教団ある。それらの教屈の多くは梅次郎を教祖または開祖として位置付け、それぞれ梅次郎による天啓や遺言遺品などをもとに梅次郎の後継者としている。これにより「自称甘露台」が数多く現われたことになった。この背景には、世界の全人類の救世者、この世における唯一の天啓者よりも、日常生活の中で生起してくる個人的な問題を伺えば応えてくれる霊能者の方が民衆にとってより必要とされていたという事情があった。今や甘露台霊理斯道会のように最初から天啓者によらず、むしろ天啓者不在を説くいたり、天啓者の存在を明確に否定する天理教系の教団も現れわれてきている。
 天理神之口明場所系の分派分立が昭和20年代から40年代初頭にかけて起こっている。この時は天啓者待望も終末論的性格も確認することはできず、むしろ神秘的、呪術的な癒しを執り行う霊能者的人物の輩出とその制度化が特徴である。
22 神和教会/山田金次
 1946(昭和21)年、天理神乃口明場所系から造反。
23 おうかんみち/江上寿胤(えがみとしたね)
 1946(昭和21)年、天理神之口明場所系から造反。(天理神之口明場所、おうかんみち/考)ひょうたんの木甘露台。
 江上は酒田市出身。本名は江上庚之助。農家の四男として生まれる。1928(S3)年、天理教に入信。翌年、天理教布教師の江上まちに懇望されて同家の養子となる。天理教の布教師として単独布教に全力を尽くしたが、やがて天啓者不在の天理教の信仰に疑問を抱くようになった。1936年、名古屋市で山田梅次郎が「甘露水授け」を行っているのを聞く。山田毎次郎が天理教祖予言実現の天啓者「人の甘露台」であることを知り参集。1937.8.19日、「甘露水」を拝戴し、梅次郎から「ひょうたんの木」名を授かる。同年、梅次郎による天理神之口明場所の結成に参画する。彼は一信者であると問時に「梅の木甘露台」の後継者、次なる「人の甘露台」になるべき人間であるとの神言を受けていた。同教団の治安維持法違反事件、梅次郎の死去等により活動が頓挫する。

 1941.12.15日、中山みきが夢枕に立ったのをはじめ次第に天啓が示されるようになる。江上は 中山みき、大西愛治郎の両者の声を開くとした神秘体験により、自らが「ひょうたんの木甘露台」であるとの自覚を得、梅次郎の死後、新たな天啓者として教団を降立していく。

 戦後1946.4.18日、「甘露水授け」を開始し、梅次郎の行っていた秘儀継承を宣言する。これを「理の世襲」とよんでいる。教団を再建する。その後も、中山みきやほんみち創始者大西愛治郎が夢に現れたといい、また天啓を神より受け続ける。没後の1959年、教団での位置づけが教祖から教主へ変更された。
24 聖正道教団/佐田ヤエ
 1946(昭和21)年、天理神乃口明場所系から造反。
25 神光苑/松木天村、草垣(そうえん)
 1946(昭和21)年、天理教本部から造反した。
26 日月(ひかわ)教/前田トク
 1946(昭和21)年、天理教本部から造反した。
27 八楽精神修養道場/小川耕一郎
 1946(昭和21)年、八楽精神修養道場。後に八楽会教団。
28 日月(ひかわ)神一条/嘉納寅三
 1947(昭和22)年、天理教本部から造反した。
29 月日教おうかんみち教会/谷喜三
 1954(昭和29)年、天理神乃口明場所系から造反。
30 月日大還道/深沢まつ枝
 1955(昭和30)年、天理神乃口明場所系から造反した。
31 月日二世の道真知岳(みちまちだけ)/山田そめ
 1955(昭和30)年、天理神乃口明場所系から造反。
 昭和20-30年代、天理神之口明場所系からの分派分立が頻出している。天啓者待望、終末論的性格も確認することはできず、むしろ神秘的、呪術的な癒しを執り行う霊能者的人物の輩出とその制度化が特徴である。その背景には日々の悩み事や病気を霊能者によって解決してほしいという広範な民衆の希求が横たわっていた。
32 天真教真祐殿教会/神出房江
 1958(昭和33)年、天理教本部から造反した。
 大西愛治郎の娘大西玉が1958(昭和33)年のほんみちの祭典時に、自分は中山みきの再生者であり真の天啓者であると宣言。
33 甘露台/浅野博
 1960(昭和35)年、天理神乃口明場所系から造反した。
34 ほんぶしん/大西玉(大西愛治郎の娘)(岡山市)
 1962(昭和37)年、大西玉が、結局「ほんみち」の主導権を得ることはできず、天理みろく会(ほんぶしんの前身)を組織して独立した。
35 宗教法人明誠教団、後に天輪王明誠教団と改称/若林神風
 1963(昭和38)年8.26日、京都明誠社の教勢が東京、横浜、川崎、千葉方面へと広まり、若林神風を初代管長として「宗教法人明誠教団」の認証を受け一派独立を為している。昭和58年2.6日の本部役員会議で、明誠草創の精神に則り、元に復する意味を以って「明誠教団」の上に「天輪王」の神名を冠して「天輪王明誠教団」と改称することを決定し、文化庁及び神奈川県に申請し9.26日に認証され今日に至っている。
36 ほんみち(岐阜)/斎藤正吾
 1965(昭和40)年、斎藤昭吾が自ら「人間甘露台」を称してほんぶしんから造反。(大阪府高石市のほんみちとは別)
37 甘露台霊理斯道会/斎藤年男
 1975(昭和50)年、天理神乃口明場所系から造反。
387 神之打分場所(小牧市)/渡辺秀子
 1976(昭和51)年、渡辺よその天理神の打開場所(政子甘露台、名古屋市)系から造反。魂は弥勒、体は甘露台とする。
398 天命庵/伊藤幸長(大徳寺照輝)
 1985(昭和60)年、天理神乃口明場所系から造反、「天命庵」を立ち上げた。
40 櫟本分署跡保存会/八島英雄
 1987(昭和62)年、天理教本部から造反した。
41 おみち/福留修司
 1987(昭和62)年3月、4代に亘る天理教信者の福留修司(お社様と呼ばれている)が「お道を慕う会」を設立。8月、公認され「おみち」と改名。1990(平成2)年、「宗教法人おみち本部」(奈良県北葛城郡河合町)。本部に巨大パルテノン神殿や古代ギリシアの壁画を建立している。
42 メンタルヘルス/
 2001(平成13)年。
43 天理教豊文分教会/山田博明
 2006(平成18)年、天理教本部と対立する櫟本分署保存会系に同調し造反、独立した。
「人間甘露台」

【モリジロウ氏のれんだいこ「天理教分派史考」紹介】
 モリジロウ氏が、「私の『茨木基敬』考その1」の中で、れんだいこ「天理教分派史考」を紹介してくださつている謝謝。これを確認しておく。
 明治40年の本席出直しから、天啓は完全にナライトに引き継がれたわけではなく、神の啓示を受けたという者がどんどん出てきて、これらは認められず、異端ということで分派も増えていったわけである。この辺の分派を詳しくまとめたサイトがあるので、紹介しておく。

「天理教分派史考」れんだいこ
nakayamamiyuki
/omithisonogoden/bunpashico.htm

 
 この「れんだいこ氏」のサイトは時々、拝見させていただいているが、本当に勉強になることが多い。緻密に調べ上げ、うまくまとめられているといつも感心する。
 2022.9.7日付け「ジロウ閑話休憩…8」は次の通り。
 驚きました。「れんだいこ氏」が見てくださっていたとは…。こちらが、いつも勉強させてもらっているような立場なのに、恐縮してしまう。かなり前から、拝見させていただいていたが、本当にニュートラルな目線で文章をまとめられ、そこから、ご自身の考察をまとめられていて、凄い方だと思っていただけに、偶然とはいえ、サイトを訪問中に「うっ!ええ…?」となってしまった。

 ちょうど茨木基敬のことをまとめている時に、分派のことについても書かなければと思い、れんだいこ氏のサイトを紹介するのが、一番、わかりやすくていいと思い、リンクを貼り、紹介させていただいた。れんだいこ氏のサイトは本当に情報が多く、Googleで、天理教関係の何かのキーワードで検索をかけると、引っかかってくるので、それだけ、多くの方が見られているのかと思う。

 文献などは引用する場合、出典を明らかにするのがルールだと思う。論文だったら、できれば著者にも連絡し、引用させてもらうことを伝えたり、ご意見をいただいたりもするものなのだろう。ネットの場合、公開されている記事でもあるから、出典を明らかにしておけば、基本的には引用したり、紹介したりは、著者に許可を取らなくても、法的には問題はないはずだが、やはり引用し、紹介させていただいたのだから、メールなり、送っておくべきだったかとの思いもあった。誌面(Note)をおかりして、謝辞を述べることにする。「れんだいこさん!ありがとうございます。これからも研究をお続けください。また拝見させていただきます。モリジロウ
 モリジロウ様へ、引用、転載についてのれんだいこの考えは次の通りです。
 文意的に原文通りのものを紹介し、著者、出典元を明記する場合には、無通知無承諾のまま相互に自由に引用、転載し合えると云う体裁にしないと堅ぐるしいものになってしまう。通知、承諾はした方が良いが義務のものではないと考えております。実際にしてみれば分かりますが、通知する場合もされる場合も相手が何者か、その意図、掲載されるサイトの趣向等々を詮索せねばならずで、これがかなり厄介で、その可否に気を使います。いっそのこと不要とした方がよほどスッキリします。バトル的な議論などの場合、反論しようとして相手の発言を載せようとしたら、その前に相手の了解が必要などというのはお笑いでしかありません。そういう歯抜けのような議論をして、私たちはこれほどまでに著作権を守っている優等生ですと胸を張る掲示板に出くわしたことがありますが、失笑するしかありませんでした。余りに長いタイトル名なので文意を的確に踏まえて要約したものにしてコメントしていたら、著作権法の題号改変違反などと云われたことがあります。以来、そういうことをマジ顔で云う者の界隈には近寄らないようにしております。お互いに良いものを見つけ出して引用、転載するのは善の動機です。その者が文意的に原文通りのものを紹介し、著者、出典元を明記する場合には、された側は謝謝することあっても、無通知無承諾だとして叱るなどというのはよほど気難し過ぎます。良いものを見出して世に広めるのも助け合いの一種で盛んにすべきです。ゴンドラの歌に「命短し恋せよ乙女、紅き唇褪せぬ間に」とありますが、その通りだと考えております。人生を心身ともに瑞々しくして生きるべきで、干からびたものにしてはなりません。私どもの実働人生は五十年ほどの僅かなものでしかないというのに、その期間をあれするなこれするなで規制し合って生きようとするのは馬鹿げています。そういう規制好み、著作権好み者に碌なものがおりません。良いものはなべてそのもの自体が通行往来を求めており、だとすればこれを手助けするのが素直で、押しとどめる側に立つのは邪です。昔、ある弁護士さんに著作権の気になる処について尋ねたことがあります。その弁護士さんは「私は著作権には関わらんことにしております。著作権の事は法理的によう分らんのです」とおっしゃつておりました。立派な見識だと思います。著作権で護るべきものは内容の正確な保護保全、著作者の確認であり、自分が気に入ったら口コミに廻るのが自然なところ通行往来阻止に立ち働くようなことは知の逆態と考えております。目下の著作権派は交通往来の見返りとしての課金制に目が眩んでおります。もう一つの理由として、利用に際して通知承諾許可制にしているのは、それの真の狙いは情報統制にあると考えています。というようなことを言い始めるとエンドレスになりますのでこれぐらいで止めときます。モリジロウ様、今後とも宜しく。

 2022.9.14日 れんだいこ拝

【「新宗教における分派分立の研究―天理教系教団をめぐって―」】
 「新宗教における分派分立の研究―天理教系教団をめぐって―」に触発参照。
 天理教は昭和20年代まで、近代日本における最大の新宗教教団であった。昭和三年には教会数が1万を越えて10342となり、信者数もすでに明治末から400万台といわれていた。その天理教は多くの分派を生み出したことでも知られている。これらを天理教系教団と呼び、母体となった教団に注目し、これを天理教直系教団、ほんみち―天理三輪講系教団、天理神之口明場所系教団の三つの教団群に分ける。
 中山みき在世中から大正初年までの天理教系教団では、みきと彼女の後継者である飯降伊蔵が死去したことにより、天啓の継承をめぐって天理教内で動揺と混乱が生じ、これを背景に分派教団が発生した。天理教系分派教団の中で最も規模の大きいのはほんみち。そのほんみちより大正末から昭和前期まで数多くの分派が発生している。
 天理教から直接分派した直系の教団の成立時期は分散しているが、母教団に衝撃を与えた大西愛治郎、井出クニ、茨木基敬の分派は大正初年に起こった。これらは大正5年の教祖三十年祭前後に天理教内で生じた天啓者待望を背景にしていた。次いでほんみち―天理三輪講系の分派運動があり、その展開は大正末から昭和10年代前半に集中している。その背景には深まりゆく十五年戦争や国際社会での日本の孤立化といった危機的状況があるほか、ここでも昭和10年・12年の教祖五十年祭・立教百年祭の年限に何らかの意味を感じ取った信者たちの動きがあった。天理神之口明場所系の分派分立は昭和20年代から40年代初頭にかけて起こっている。
 天理教はその規模と社会的な影響力から、宗教史研究の中でこの教団に関する研究は相当の厚みをもっている。また、天保九年の立教になる天理教は、同時期に創唱された黒住教や金光教とならんで、その史料的蓄積から幕末維新期の代表的な宗教運動として研究の対象とされてきた。特に宗教史研究の中でも民衆宗教史と呼ばれる分野では天理教への言及は多い。これらの研究の多くは教祖の思想性と天理教の発生過程という教団草創期に、もっぱら関心が向けられていた。本論文で扱ったような明治から昭和前期までの天理教は、国家神道体制化に組み込まれ、権力に妥協していく過程としてしか論及されないことが多く、こうした研究の中で、分派分立の問題に触れられることは稀であった。村上重良、梅原正紀、宮地正人のように、国家権力によって弾圧された民衆宗教という視点からほんみちを個別に取り上げる研究はあっても、分派分立の全体像を天理教との関係の中から論じる研究はほとんどなかったいうことができる。

 その意味で、本論文によって明らかにされた分派分立の歴史的事実と、天理教、ほんみち―天理三輪講、天理神之口明場所といった主要な母教団とその子教団との影響関係を分析の俎上に乗せたことは、近代日本宗教史の間隙を埋めるものであるといえる。戦前の民衆の信仰生活に対する天理教の影響力や浸透度を考えると、分派分立の全体像を提示し、その広がりを論じたことは決して無駄な作業ではなかったといえる。
 従来の内在的理解の方向は島薗進の天理教・金光教研究に代表されるように、教祖の信仰世界に注目することで新宗教の民俗宗教との連続性を解明することに力が注がれてきた。そこでは、それまでの突発的発生論を退けつつ、宗教運動の発生基盤を山伏・先達・御師などの民間宗教者の指導のもとに展開した民俗宗教に求め、教祖は自らの苦悩を宗教的な問いかけへと発展させ、民俗宗教との交渉のなかから新しい宗教性を生み出していく過程が論じられている。

【天理教とその分派に関する若干の考察】
 2019.1.23日、クマッピー氏の「天理教とその分派に関する若干の考察」参照(読み直しながら簡便に書き直した)。
 天理教の分派に関する研究では、哲学者から新宗教研究に入られて、日本宗教学会理事である弓山達也先生の博士論文から出版化された『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』(地域社会研究所,2005年)が参考になる。分派として最大勢力となった教団として「ほんみち」が有名。その他、神一条教、ほんぶしん・・・その他たくさんある。詳しくは、以下のサイトにも記述があります。

 rendaico.jp/nakayamamiyuki/omithisonogoden/
bunpashico.htm
 


 こうした分派の特色は、教祖(おやさま)の教えを色濃く踏襲しながら、それぞれが独自性を加味しつつ、それぞれが独自の宗教教団として独立して分かれたことです。
分派した理由として、元々の天理教の教理を継承しながらも、天理教教会本部がある地場の理を否定していることが一番大きいと思う。屋敷の理とか地場の理というある固有な土地が人間世界の創造の原点があり、その地場から天啓者として教祖が出現したことが教祖の教えから説かれている。陰陽の二原理が創造原理だとしても、その創造原理は地場の理から生み出されたものであることが、教祖と本席によって説かれてきた。それ故に、お地場帰りという帰参行事もある。(み神楽歌略)


 天理教の分派した方々は、一様にこの「地場の理」を否定している。教祖時代の助造事件、本席時代の「水屋敷事件」などはこれに相当している。大正期にも天啓再来の待望の中で、井出くにの天啓事件、大平良平の『新宗教』雑誌の頒布などの不穏な扇動がある中、茨木事件というものがあった。それは本部の中で「お詞の御用」が始まり、それを当時のご母堂様や松村吉太郎が最終的には拒絶したことで異端化されたものである。北大教会の信徒詰所で啓示が始まり、一つの軍艦として北部内では大変なお助けがあった。

 

 茨木事件の真相、その御用された「お詞」とは何か、その衣鉢を継ぐ裏の道、天啓継承の道とは何か、それがこのブログの唯一の特殊性となる。地場から追放された元本部員の茨木基敬は、亡くなるまで「地場恋しい」といって出直された。そこには地場を否定する本心はどこにもなく、神様の御用に、そして教えに殉じた魂の強さを感じる。天啓とは存命の教祖の心を表明したものとすれば、本部は目に見えない教祖を追放してしまった。ここに片便りの天啓不在の真柱ワントップ体制が生まれる。真柱に権威が一元化した。とは言え、存命の教祖の体現として、本席様のおさしづがあっ。じつはそれ自体が十分に受け取れず、軽くされていたこと自体にもともとの道の失敗の原因が始まっていた。






(私論.私見)