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この頃早くも異端が発生しており、この時に見せた教祖の対応の様が興味深い。日頃「ほこりはよけて通りや」とのお諭しされているのに似合わず峻厳であった様が伝えられている。これを見ておくことにする。見方によれば、かかる創草の時代に早くも異端が現れたということは、それ程有力な存在になっていたことを裏書きするものとも云える。大和神社の節を越えて未だ一年もならぬうちに、早くもそれ程の伸展を示していた様が窺える。
この頃「お道」は早くも東山間部にある福住村一体に広まり、続々お屋敷に参詣するものがあった。その中に針カ別所村に助造という者がおり、彼は教祖に眼病をお助け頂いてから熱心な信者になっていた。助造はお屋敷に参詣を続けていたが、急にお屋敷に来なくなったと思っていると、神仏混交的な本地垂迹(ほんちすいじゃく)説(仏、菩薩が、その本地に直接近づくことのできない衆生を済度する為に、仮に神として身を現わすという理論)を真似て、天理王命の本地は針カ別所で、庄屋敷はその垂跡であるなどと唱え始めていた。遂には、助造自ら指図を始めたり、元なる屋敷なる理の故にお出し下さる許し物等も自分の所で渡すなどと信者を惑わし、自家に引き寄せる画策をし始めた。これが「お道」最初の異端となった。
10月20日過ぎ、教祖が俄かに針カ別所に出張る旨仰せ出された。こう仰せ出されると、いささかの余裕もなくその日の中に出発となった。当時教祖は68才というご老体であり、而も30日の断食の直後である。それを四里の山路を徒歩で、その日の夜9時頃に針カ別所字岡田恒内の旅宿すみ屋(福井栄三郎経営)に着かれた。同家では長男半平の妻やいが、愛想良くみきの接待をしたと伝えられている。この時お供した人々は、飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎、岡本重治郎で、当時の重だった方々が殆ど顔を揃えていることになる。この供揃えからみて事の重大な様子が充分に伺える。
一行が針カ別所に到着したと聞くと、先方では天理王命の本地へみきがお越し下されたと勘違いでもしたものか、大いに喜んだと伝えられている。ところが、翌朝みきが、助造宅にある祀りものを「取り払うて来い」と厳然と仰せられたので、飯降伊蔵、山中忠七の両名は、早速先方へ乗り込んで礼拝の目標として祀られてあった御幣を引き抜いて、これをかまどの中へ折りくべて引き上げた。その由を教祖に報告し、「これまでにしておけばもう帰ったらどうやろう」と話し合っていると、教祖は「いぬのやない」と仰せになられた。礼拝の目標を取り払うことができたのであるから役目果たしたと思った供の者の意向に反して、教祖は寧ろこれから事件の始まることを予見していたのである。
この後の事を、「翁より聞きし咄(はなし)」が次のように記している。
| 「先方には大いに怒り、急に戻りてもらえんと申すなり。そうして岡本重治郎には山澤良治郎を呼びに帰れり。先方の意気込みは、庄屋敷へは帰さぬ。奈良へ直ぐに送ると云えり。先方はその時早不動院の部属なれば、奈良より不動院を迎えて談判せんとせり。金剛院は乗物に乗りて来る」。 |
助造側は案の定カンカンに怒り、「このままでは断じて帰すことはできん。帰すなら庄屋敷へではなく、奈良の監獄へ帰す」と息巻き始めた。助造方には一つの策があり、兼ねてより認可を得ずして人を集めることの不利を知って、既に奈良の金剛院と誼みを通じて、その部属の講社として事を進めていた。助造側は早速金剛院に連絡し、これを迎えて、その後ろ盾によって教祖方を圧伏しようと図った。これを聞いた供の者も、「断じて帰らず、白黒の決着を着けるべし」と応戦した。ところが、教祖の方は全くの無策だった。早々と金剛院の住職が乗り物に乗って威風堂々針カ別所に乗り込んでくると伝えられた。これを聞いた供の者は、教祖の理の絶対なることを信じるものの、人間思案のこととして何か対応策を施す必要を感じた。一同の心に浮かんだのは守屋筑前守であった。過日、教祖を訪れて、唯一度の面接で教祖の説く教理の尊さを知り、「私も何かの力に成りましょう」と、力強い言葉を残して帰っていった神職取締役を任ぜられているその人であった。「守屋筑前守に頼んで来てもらったらどうだろう」、「あの人なら金剛院よりは上やろう」、「けれども、かような事でわざわざこんな所まで来てくれるやろか」、「筑前守の奥さんは山沢から行っているということやから、山沢さんから頼み来んでみたら聞いてくれるやろう」、「この間は、きっと力になりますと云うて居ったやないか」。相談は一決して、「お道」側は大和一国の神職取締り役である守屋筑前守に後ろ盾を頼むこととなった。岡本重治郎が使者として山を下り山沢良治郎(良助のこと)に急を伝えた。程なく山沢良治郎が守屋筑前守の代理であるとの触れ込みで遣ってきた。都合で守屋筑前守は来ることができなかったが、代理という名目で山沢良治郎が乗り込むことは了解したものと思われる。
こうして事はますます大きくなって来た。先方は奈良の金剛院、当方は吉田神祇管領家によって許された大和一国の神職取締り役である守屋筑前守の代理という後ろ盾によって、ここで問題を一気に解決しようとの緊迫した空気が針カ別所の山村をおおった。こうした態勢の整う迄に、二、三日の日数が経過した。そして愈々信仰対決の場が設けられることとなった。面と向かいあうこととなるや、教祖は、後ろ盾の権威なぞ一向に問題とせず、自ら詢々として「お道」の「お諭し」をお説き下された。その理の前には金剛院の住職も助造も歯が立たなかった。とはいえ、慾と高慢に固まっており、又、事が針カ別所の死活問題であっただけに、なかなか素直にお言葉を受けることができなかったとみえ、この談判は3日かかったと云われている。けれども3日にわたって倦むことを知らず諄々としてお聞かせ頂くうちに、さすがに金剛院は最早反抗することのできない尊い理の力を感じることとなった。殊に助造にとっては、元々助からない重患の身をお助け頂いた親である。じっとお話しを聞かせて頂くうちにその助けられた日の喜びの様までが心に蘇ってくる。そして、この親に背き、慾と高慢から、尊いぢばの理を歪曲した罪の恐ろしさと申し訳なさにじっとしていられない心地になった。突然助造は、教祖の前にひれ伏して前非をお詫びした。そして心の底から今後共に神名を唱えることだけはお許し頂きたいとお願いし許された。こうして、前後一週間の日数を要したが遂に事件は完全に落着した。一行が山をおりる際には、土産として、天保銭で一貫目、くぬき炭一駄と、鋳物の燈籠一対あったもののうち、その片一方とを人足を雇い入れて送り届けてきた。
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