| 上祐史浩のパワ―スポット論その2 |
(最新見直し2010.05.19日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「上祐史浩のパワ―スポット論」を確認する。 2010.05.22日 れんだいこ拝 |
| 【奈良:大和発祥地の寺社と自然】 | |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第13回/奈良:大和発祥地の寺社と自然」。 | |
| お勧めのパワースポット・聖地の第13回は「奈良」です。奈良は、現在の天皇家にまで連なるヤマト王権が誕生した場所です。そして、日本の伝統的な神道や仏教が発達し、多くの聖地と自然に恵まれた土地といえます。そこでまず、①奈良に関する文献からそのご紹介をし、そのあとに、②2017年2月13日、私たちが実際に奈良に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③奈良を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介します。 | |
| 東大寺大仏殿●文献からの奈良の寺社のご紹介 | |
| 奈良には極めて多数の神社・仏閣がありますが、この時(2017年2月)に訪れた寺社の資料を以下に掲示します。 | |
| ●東大寺 奈良市にある華厳宗の総本山。「奈良の大仏」で知られる毘慮遮那仏(びるしゃなぶつ=ヴァイローチャナ)をご本尊とする。世界文化遺産に指定されている。聖武天皇が、幼くして亡くなった皇太子を弔うために728年に建立した寺院が起源。741年、聖武天皇は、飢饉・疫病・内乱・政変で乱れる国を仏教の力で平和にしようと考え(鎮護国家)、全国に国分寺・国分尼寺を建立する詔を発したが、東大寺はその中心となる「総国分寺」に位置付けられていった。 |
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| ◎大仏殿 743年に大仏造立の詔を発した聖武天皇は、民衆の信望を集めていた僧・行基の力を借りて、国家や民衆の総力を挙げて、752年に東大寺に大仏を完成させた。この大仏こそ、世界を遍く照らすと華厳経に説かれている毘慮遮那仏である(国宝)。毘盧遮那仏は、密教でいう大日如来である。また、天皇と民衆が力を合わせ、国家の平和を祈ったという意味で、輪と和の聖地ともいえる。 華厳経の世界観は「一即一切、一切即一」と表現される。一つのものの中に他の全てのものが影を落としている。すべてのものにはつながりがあり、しかも、お互いがお互いを支え合っているという意味である(重々無尽縁起)。一元思想を有しており、輪と和の思想の土台となる仏教思想である。大仏を安置する大仏殿も造営されたが、その後、焼失と再建を繰り返し、現在のものは江戸時代の再建による。現在、世界最大規模の木造建築物である。 |
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| ◎三月堂(法華堂) 東大寺創建時(奈良時代)の姿を残す寺内最古の建物。ご本尊である不空羂索観音(大悲の羂索〈鳥獣を捕らえる道具〉をもって一切衆生を済度するという観音)を中心に、合計16の仏が祀られている。 |
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| ●春日大社 春日大社は、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願い、茨城県の鹿島神宮から建御雷神(たけみかづちのかみ)を神鹿の背にお乗せして、勧請したのがはじまりと伝わる(現在の奈良公園の鹿は、その神鹿の子孫とされている)。建御雷神は雷の神で、よって水の神ともいえる。鹿島では、地震を抑える神、蛇・龍の神でもある。そして、大国主神に国譲りを交渉され、平和裡に治められた神でもある。若宮には、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)という正しい知恵を授ける水の神が祀られており、この神社の背にそびえる御蓋山(みかさやま)は、古代より大切にされている神山である。世界文化遺産の一つ。 |
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| ●興福寺 唯識派の思想を継承する法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。世界文化遺産の一つとして登録されている。多くの仏像が祭られているが、特に三面六臂(手が6本)の阿修羅像(国宝)が有名である。 |
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| ●法隆寺--聖徳太子ゆかりの仏教寺院(世界文化遺産) 法隆寺は、用明天皇が自らの病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願したその遺志を継いで、天皇の崩御後、推古天皇と聖徳太子が薬師如来を造ったのがはじまりであると伝えられています。(聖徳太子建立七大寺の一つ)聖徳太子は605年に飛鳥から斑鳩の地に移り住み、斑鳩宮の近くに建立されたのが法隆寺(斑鳩時)でした。もともとは、唯識思想を学ぶ法相宗の寺院でしたが、その後、聖徳太子の教えを取り入れて聖徳宗として独立しています。聖徳宗になるまでは、日本の唯識の総本山だったお寺です。 また、法隆寺は、現存する世界最古の木造建築として知られており、日本で初めて世界文化遺産に登録された世界的な仏教文化の宝庫でもあり、多数の国宝の建造物や仏像があります。法隆寺には西院伽藍と東院伽藍のエリアがあります。西院伽藍には五重塔と金堂、大講堂、中門、回廊などがあります。国宝の金堂の中には、中の間、東の間、西の間があり、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来が安置されています。五重塔は現存する世界最古の木造五重塔で、心柱の下には仏舎利が安置されています。内部は東面・西面・南面・北面に釈迦の説話に関する塑像が配置されています。大講堂には国宝である薬師三尊像と重要文化財の四天王像が安置されています。また、最近建てられた大宝蔵院殿には仏像や玉虫厨子など、数々の国宝が収蔵されています。東院伽藍は聖徳太子が住んでいた斑鳩宮があった場所で、後世に高僧である行信が建てた八角形の夢殿が有名です。中には救世観音像が安置されています。聖徳太子は推古天皇のもとで、蘇我馬子と協調して政治を行い、仏教を厚く信仰し保護しました。遣隋使を派遣し、中国の文化・制度を学び、冠位十二階や「和をもって貴しとなす」で有名な十七条憲法を制定しました。 |
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| ●中宮寺--如意輪観音の半跏思惟像がご本尊 法隆寺に隣接する、法隆寺と同じ聖徳宗(もと法相宗)のお寺です。聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇后の発願によって、太子がいた斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建されたといわれます。ご本尊の国宝・菩薩半跏思惟像は、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と並んで、飛鳥時代の彫刻の最高傑作とされています。最初は弥勒菩薩像として作られたものの、いつのまにか如意輪観音と呼ばれるようになったともいわれています。 |
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| ●大神神社(おおみわじんじゃ)・三輪山--大いなる和・「大和」の発祥の地 三輪山は、大いなる和の国、大和政権の発祥の地で、「日本最古の神社」と位置づけられているのが大神神社です。大神神社は、円錐形の秀麗な山容・三輪山そのものをご神体としているため、本殿(御祭神をお祀りする建物)を持たず、拝殿のみを伝えています。自然を崇拝する原初神道の形態が残され、その起源は弥生・縄文時代にまでさかのぼると考えられています。拝殿の奥は禁足地とされる神聖な場所で、禁足地と拝殿の間には結界として三ツ鳥居が設けられています。拝殿は鎌倉時代に創建され、現在の拝殿は徳川四代将軍家綱によって再建されています。山中には磐座(いわくら)(神が降臨する神聖な石)があり、上から奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座があり、多くの祭祀遺跡が出土しています。御祭神は、三輪山に鎮座する大物主神(おおものぬしのかみ)です。大物主神は、出雲を中心的舞台として国造りに励んだ大国主命の幸魂・奇魂(和魂=人に幸せをもたらす働きをする霊魂)とされ、縁結びの神・大国主神と同体とされます。大神神社の古い縁起書によれば、上の奥津磐座に大物主大神、中腹の中津磐座に大己貴神、麓の辺津磐座には少彦名神が祀られているそうです。「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古代より神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤く祀られました。古事記には次のように記されています。
この大田田根子は現在、大神神社の摂社大直禰子(おおたたねこ)神社に祭られています。太田田根子は三輪氏の始まりといわれています。 |
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| ●橘寺―聖徳太子誕生の地 この地に聖徳太子の父・用明天皇の別宮・上宮(かみつみや)が置かれていて、太子はここで誕生しました。本尊は聖徳太子と如意輪観音菩薩です。寺伝によると、606年、太子が推古天皇のために「勝鬘(しょうまん)経」を説いているとき、庭に蓮の花が1メートルも降り積もったり、南の山に光明を放つ千の仏頭が現れたり、太子の冠から、日月星の光が輝くなど不思議な出来事が相次いだため、天皇が仏堂建立を命じたといいます。橘寺の名前は垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来しています。 |
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| ●奈良の寺社参拝レポ:2017年7月29~30日 (※同行したスタッフのレポートです) |
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| 本日は、久しぶりに奈良にやって参りました。まずは、奈良公園から東大寺を参拝、その足で隣接する春日大社まで歩いて巡りました。東大寺の大仏さまは、やはり素晴らしい迫力と、重厚な威厳あふれるお姿でした。そして、天然痘の撲滅を祈願して、時の帝の聖武天皇から民衆までが幾多の苦難を乗り越えて建立した思いが、今もなお残っているような慈悲の空間を感じました。 大仏の台座には須弥山の彫り物もあり、華厳経の世界観を現しています。大仏殿の次は、同じく当時の中にある二月堂を参拝。これはお水取りの儀式で知られています。次に3月堂とも言われる「法華堂」を参拝しました。法華堂には名高い国宝の「不空羂索観音像」が収められています。その空間は、まさに荘厳そのもので、座って瞑想できる空間がありました。法華堂の後は、横手に若草山を見ながら、春日大社まで歩きます。付近は鹿の園です! そして、いよいよ春日大社の本殿に到着です。本殿の後は若宮も参拝しました。本殿・若宮の参拝の後は、春日大社の広大な杜を歩きました。素晴らしく清々しい空間です。さらに歩いた先の本日の終着点は、奈良仏教の法相宗の総本山としても名高い「興福寺」です。興福寺に収められている人気抜群の阿修羅像などです。久しぶりの古都を満喫。重厚な仏像や神聖な空間が印象的でした。 |
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| ●奈良の寺社参拝レポ:2019年5月6日 (※同行したスタッフのレポートです) |
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| ◆法隆寺--聖徳太子ゆかりの仏教寺院(世界文化遺産)
法隆寺は、用明天皇が自らの病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願したその遺志を継いで、天皇の崩御後、推古天皇と聖徳太子が薬師如来を造ったのがはじまりであると伝えられています。(聖徳太子建立七大寺の一つ)もともとは、唯識思想を学ぶ法相宗の寺院でしたが、その後、聖徳太子の教えを取り入れて聖徳宗として独立しています。聖徳宗になるまでは、日本の唯識の総本山だったお寺です。 また、法隆寺は、現存する世界最古の木造建築として知られており、日本で初めて世界文化遺産に登録された世界的な仏教文化の宝庫でもあります。多数の国宝の建造物や仏像があります。 |
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| ◆中宮寺--如意輪観音の半跏思惟像がご本尊
法隆寺に隣接する、法隆寺と同じ聖徳宗(もと法相宗)のお寺です。聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇后の発願によって、太子がいた斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建されたといわれます。ご本尊の国宝・菩薩半跏思惟像は、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と並んで、飛鳥時代の彫刻の最高傑作とされています。最初は弥勒菩薩像として作られたものの、いつのまにか如意輪観音と呼ばれるようになったともいわれています。 |
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| ◆大神神社(おおみわじんじゃ)・三輪山--大いなる和・「大和」の発祥の地
三輪山は、大いなる和の国、大和政権の発祥の地で、「日本最古の神社」と位置づけられているのが大神神社です。大神神社は、円錐形の秀麗な山容・三輪山そのものをご神体としているため、本殿(御祭神をお祀りする建物)を持たず、拝殿のみを伝えています。自然を崇拝する原初神道の形態が残され、その起源は弥生・縄文時代にまでさかのぼると考えられています。山中には磐座(いわくら)(神が降臨する神聖な石)が至る所にあり、多くの 祭祀遺跡が出土しています。御祭神は、三輪山に鎮座する大物主神(おおものぬしのかみ)です。大物主神は、出雲を中心的舞台として国造りに励んだ大国主命の幸魂・奇魂(和魂=人に幸せをもたらす働きをする霊魂)とされ、縁結びの神・大国主神と同体とされます。狭井神社。弁財天社。三輪山の登山口。 |
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| ◆橘寺ー聖徳太子誕生の地
この地に聖徳太子の父・用明天皇の別宮・上宮(かみつみや)が置かれていて、太子はここで誕生しました。如意輪観音菩薩を祀られています。寺伝によると、606年、太子が推古天皇のために「勝鬘(しょうまん)経」を説いているとき、庭に蓮の花が1メートルも降り積もったり、南の山に光明を放つ千の仏頭が現れたり、太子の冠から、日月星の光が輝くなど不思議な出来事が相次いだため、天皇が仏堂建立を命じたといいます。 |
| 【松島:日本三景の仏教聖地】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第14回/松島:日本三景の仏教聖地」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地のご紹介の第14回は、日本三景の一つとして名高い松島です。 |
| 松島湾に浮かぶ大小無数の島々が構成する松島の他に、類を見ない見事な景観については、もはや説明する必要もないでしょう。それに加えて、松島の名前の由来を含め、松島は古来、東北奥州の一大仏教霊場であり、東北の高野山などと言われた聖地でもあります。そこでまず、①松島に関する文献から、そのご紹介をして、そのあとに、②2015年8月22日、私たちが実際に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③ひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介したいと思います。 |
| ●文献からの松島のご紹介 |
| ●松島 海に浮かぶ緑の島々が作る自然の絶景――丘陵に囲まれたリアス式海岸に大小さまざまな260余りの島が点在する松島は、東北地方の代表的な景勝地です。「松島や、ああ松島や、松島や」という有名な句も残されただけに、訪れる人々に感銘を与え続け、古来、道を求めた修行者もその周辺に寺院を建築するなどして集ってきました。江戸時代から「日本三景」の一つともされてきました。日本三景はそれぞれ雪・月・花の名所とされますが、松島は月があてられます。 奈良時代に辺境の地であったこの地には、旅する人も少なく語れる人も稀であり、松島の美しさと珍しさは都人のあこがれとなったようで、古今和歌集などに多くの歌が詠まれました。 |
| ●瑞巌寺(ずいがんじ) 松島湾岸で随一の仏教寺院です。現在は臨済宗妙心寺派の寺院ですが、寺伝によれば、開創は、古く平安時代に天台宗開祖・伝教大師(最澄)の高弟である慈覚大師(円仁)によって行われたということです。この寺は時代の変遷とともに、衰亡と再建を繰り返していきます。その流れを受けて現存する瑞巌寺は、江戸時代の初期に伊達政宗によって復興されたものであり、伊達家の菩提寺ともなっています。 |
| ●円通院 円通院は、瑞巌寺に隣接した臨済宗妙心寺派の寺院です。伊達政宗の嫡孫・光宗の霊廟として、江戸時代に開創されました。庭園が美しく、七福神を表した庭もあり、日本庭園の粋を堪能することができます。 |
| ●五大堂 五大堂は、瑞巌寺に所属する仏堂で、海岸に近い小島に建っています。はじめ坂上田村麻呂が創建し、その後、慈覚大師が五大明王を祀ったとされることから、この名があります。現存する堂は、伊達政宗が造営した東北地方で最古の桃山建築で、国の重要文化財に指定されています。 |
| ●雄島 雄島は、「奥州の高野」と呼ばれ、かつて諸国から集まった多くの僧侶や巡礼者が修行した場所です。古くは108の岩窟があったとされ、100体ほどの仏像も祀られています。松島の仏教史上で重要な存在である見仏上人(平安時代の人物)は、この雄島で12年間の修行をしたといわれています。この見仏上人の高徳を称えた天皇から、松の苗木千本が贈られたことが、このあたり一帯の地名である「松島」の名の由来となったといわれています。 |
| ●富山観音(大仰寺) 松島湾が一望できる四大観の一つで、最も素晴らしい絶景を望めるといわれているのが富山(標高116m)です(ここからの眺めは「麗観」と名付けられています)。富山には、坂上田村麻呂が創建したという観音堂と、瑞巌寺第100世・洞水和尚が開山した大仰寺(臨済宗)があります。 |
| ●大高森 大高森は、四大観の一つです(標高105.8m)。松島湾の東端から西を眺めることができ、ここからの眺めは「壮観」と名付けられています。松島の夕陽の名所でもあります。 |
| ●松島訪問レポート:2015年8月22~23日 (※同行したスタッフのレポートです) |
| 2015年8月22日~23日は、仙台の中心街から車で1時間もかからないところにある日本三景の一つ、松島を訪問しました。この松島は古来、仏教の聖地でもあります。その丘陵に囲まれたリアス式海岸には大小さまざま、260余りの島々が点在し、国の特別名勝に指定されています。双観山からの眺め。取り囲む丘からの眺めはすばらしく、朝日・夕日に水面がきらめく様は、昔も今も人々の感嘆を誘います。松尾芭蕉の『奥の細道』の中にも、塩竈から松島へ舟で渡ったとの記述があるそうです。そして、松島湾周囲の丘や高台には「松島四大観」(まつしましだいかん)と呼ばれる景勝地が散在しています。そのいくつかをご紹介しましょう。 |
| ◆富山(麗観) 標高116mのお山で、富山観音堂には慈恵大師作の観音菩薩像が安置されており、伊達政宗の長女・いろはひめが改修したものです。上の写真が観音堂ですが、その近くには大仰寺(臨済宗)があります。茅葺き屋根も美しい本堂(下の写真)の紫雲閣には、明治天皇・大正天皇もお立ち寄りになったそうです。ここからは松島湾が一望できる絶景で、最もすばらしい四大観の一つだといわれています。松島にちなんだ有名な俳句「松島や ああ松島や 松島や」の感極まった気持ちも、ここに来れば自ずとわかるというものでしょう。心が空っぽになる感じがいたします。美しい自然と瞑想を組み合わせた禅の修行にも最適だと思いました。ぜひともここで、瞑想をしてみたいものです! |
| ◆大高森(壮観) 宮戸島の大高森。標高105.8m。松島湾の東端から西を眺める形となり、奥松島の島々、遠くは奥羽山脈が一望できます。下がその写真です。夕日で真っ赤に染まった松島の風景写真として有名です(夕日の名所)。こちらの方のサイトに美しいお写真が掲載されています。http://1ll.sub.jp/0 さて、次はいよいよ、松島の絶景を間近から観覧できる遊覧船に乗りました。この美しい海は何といっても遊覧船での観覧です。50分のコースでは、主な島々を観覧することができます。青い海と奇岩の数々。間近にカモメも見ながらあっという間に時間が過ぎてしまいます。松島の島々の間近を遊覧船が通り過ぎていきます。海水に削られやすい岩でできているため、このような奇形とも言うべき姿になったと言われています。何とも見事な自然による造形物の数々です。さて、遊覧船の乗り場近くは、松島の観光スポットが集中しているところでもあります。次にそれをご紹介しましょう。 |
| ◆瑞巌寺 瑞巌寺は、松島の中核の仏教寺院であり、仏教信仰のセンターです。828年慈覚大師によって開創されましたが、戦国の争乱で衰退。1604年、伊達政宗の尽力で復興しました。しかし、明治の廃仏毀釈で困窮。その後、天皇の仮御所となったために復興、と栄枯盛衰を繰り返しました。伊達家の菩提寺でもあり政宗の美意識が凝縮され、桃山式の豪華な建物に絢爛な襖や彫刻がほどこされていました。参道には見事な杉並木がありましたが、東北大震災の塩害により、300本近くが伐採されてしまいました。奥に門が見えますが(上の写真)、参道にはかつてあった並木はありません。伐採された木々の跡があります(下の写真)。そして、瑞巌寺には岩窟が多くあります。前に述べたように、削りやすい岩質であるため、それを利用して、仏教的な祭祀の場が作られました。岩窟の前には、観音様などの石像が祀られていました(下の写真)。これは、松島独特の仏教文化であり、なかなか他では見られないものです。 |
| ◆円通院 瑞巌寺に隣接した臨済宗妙心寺派のお寺で、伊達政宗の嫡孫・光宗の菩提寺です。 霊廟は伊達家屈指の建造物で重要文化財に指定されています。また何と言っても庭園が美しい。「天の庭」「地の庭」で構成され、松島湾に点在する七福神を表した白砂のお庭やもあり、日本庭園の粋を堪能することができます。 |
| ◆五大堂 松島湾岸にある瑞巌寺の奥の院です。坂上田村麻呂が創建し、慈覚大師が五大明王を祀り、五大堂と呼ばれるようになりました。五大堂の本堂。 |
| ◆雄島 松島はかつて「奥州の高野」とも言われましたが、その仏教修行の最大の聖地が、この雄島でした。ここは、僧侶や巡礼者の修行場・瞑想の場となっており、100体ほどの仏像も祀られている正に聖地であります。このように、、、仙台(松島)は粋の極致。遠く昔から息づいてきた奥州の文化と、先人の生き方から学び、絶景の中で静かに散策・瞑想してみたいと思っています。「なかなか東北は遠くて」とおっしゃる皆さん、松島は、掛け値なしに、日本三景の絶景であるとともに、まさに古来の霊場・聖地です。ぜひご一緒してみませんか。 |
| 【熱海:名湯・寺社・大海の自然】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第15回/熱海:名湯・寺社・大海の自然」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第15回は「熱海」です。熱海は、温泉でよく知られていますが、その根源は太平洋から富士山にまで連なる巨大な火山帯のエネルギーにあり、それだけパワーにあふれた聖地だということができます。そこでまず、①熱海に関する文献からそのご紹介をし、そのあとに、②2015年6月6日から7日まで、私たちが実際に熱海に行った時のレポートをご紹介します。そして、最後に、③熱海を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介します。 |
| ●文献からの熱海の自然や聖地のご紹介 |
| 熱海が位置する伊豆半島と代表的な神社について 熱海がその付け根に位置している伊豆半島近辺は、プレートが3つも集合していて、「世界のどこを探しても同種の例を見ない、地球上の特異点とも言える場所」とされています(伊豆半島ジオパークのHPより)。もともと伊豆半島は、本州のはるか南方にあった火山群でしたが、プレートと共に北上してきて、本州に衝突して誕生したものです。半島の形になったのは約60万年前といわれています。今でも、伊豆半島を載せたプレートは北西方向へと本州を押し続けており、それが富士山の活動にも影響を与えているということです。このように、伊豆と富士はつながっており、とても強いパワーに満ちた場所だということができます。 |
| ●伊豆山(いずさん)神社 伊豆山神社は、「伊豆」の地名発祥の地です。神社の下の方、海を臨むところに湧く「走り湯」は、日本でも珍しい横穴式源泉で、1300年前に発見された日本三大古泉の一つです。現在は、奥行5mの洞窟から、70度の湯が毎分180リットル湧き出ており(かつてはさらに大量に涌き出ていました)、源泉は神秘的な光景が広がります。山中から湧き出したお湯が、海岸に飛ぶように走り落ちる様子から、「走り湯」と名づけられました。これが神格化されたのが「走湯(そうとう)大権現」で、「伊豆」の国名は、「湯(ゆ)出(い)ずる神」に由来しています。鎌倉時代から存在する「走湯山秘訣」では、伊豆山神社の男神様と女神様が赤龍と白龍に変身し、熱海の温泉を沸かし続けていると伝わります。具体的には、「伊豆山の地下に赤白二龍交和して臥す。その尾を箱根の芦ノ湖に付け、その頭は伊豆山の地底にあり、温泉の湧く所はこの龍の両眼二耳鼻穴口中なり。」と記され(「走湯山縁起」)、「赤龍は火、白龍は水の力を掌り、二龍の力を合わせて温泉を生み出すという最強の守護神」と解されています。 神社は伊豆山の中腹に鎮座し、境内からは、相模湾に浮かぶ初島や伊豆大島を一望できます。社伝では、静岡県内で一番古い紀元前の創立ともいわれていますが、現存する木造男神像(平安時代中期、日本最大の神像)は、応神天皇の御代に相模国大磯の海に出現し、仁徳天皇の御代に日金山に飛来し祀られた伊豆大神の御神影をあらわしているともいわれています。御祭神は、火牟須比命(ほむすびのみこと)、天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)、邇邇芸命(ににぎのみこと)を合わせた「伊豆山神」とされています。 この伊豆山神社は、源頼朝が源氏再興を祈願した後に鎌倉幕府を開府したことから、歴代将軍の参詣が恒例となり、箱根権現とともに「二所権現」とよばれました。また、源頼朝を崇拝していたといわれる徳川家康も、天下獲りを祈願した後、徳川幕府を開府しました。徳川家康は、熱海を訪れ『伊豆大権現様のおかげじゃ』と温泉に浸かりながら話したと伝えられています。源頼朝と北条政子が愛を育んだことから、縁結びの神としても知られます。 本殿からさらに山道を登り、本宮社まで行ってこそ本当の参拝といわれています。本宮社は、仁徳天皇の御代に松葉仙人が、相模国に流れ着いた神鏡を崇め、最初は日金山に祀ったものの、後にこの地に移され祀られたことに由来します(さらに承和3年(836年)に今の伊豆山神社の社に移った)。本宮社に至る道中には、強いパワースポットとして知られる白山神社、縁結びの結明神(むすぶみょうじん)本社もあります。明治以前は、神仏習合の神社として、役小角や弘法大師や多くの修験者などが修行を積んだといわれる、東海第一の霊場として名高い神社でした。 前記の通り、伊豆半島のこのエリアは、3つのプレート(ユーラシアプレート、北米プレート、フィリピン海プレート)が重なり合う地球上でも極めて稀な場所であり、その強力なエネルギーが、あの富士山を生み出しました。現に、伊豆山神社も富士山信仰と深くつながっており、伊豆山神社の拝殿は富士山をちょうど背にする形で建てられています(また、伊豆山神社の拝殿と本宮社を直線で結ぶと、その延長線上に、ちょうど富士山頂が位置するように配置されています)。富士山の修験道である村山修験の祖で、初めて富士山登頂に成功して富士上人ともいわれた末代上人(1103~)も、この伊豆山で修行をしながら、富士登拝を重ねていたということで、富士と伊豆の深いつながりをうかがい知ることもできます。 |
| ●来宮(きのみや)神社 日本屈指のパワースポットともいわれ、古くからの日本の自然信仰を今に伝えています。その場所は、霊地というにふさわしく、樹齢2千年の大楠は圧倒的な存在感があります。古代において人々は、巨木、岩、滝などの自然に神が宿っていると信じ、感謝し祈りを捧げてきましたが、江戸末期まで、来宮神社は、「木の宮」と呼ばれ、「木」に宿る神々をおまつりし、木に感謝する信仰を有してきたと伝えられています。夜は、原初的な信仰の草木に宿る木霊(こだま)を約140個の明かりで表現するライトアップが行われています。御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神様)、日本武尊(やまとたけるのみこと)。社伝によれば、和銅3年(710年)熱海沖で網にかかった神像に麦焦がしを供えたところ神託が下り、それ以来この地に祀られたということです。 |
| ●熱海訪問レポート:2015年6月6~7日
(※同行したスタッフのレポートです) |
| 先週末、東京都心から近い温泉の街、古くから保養地として名高い熱海に聖地巡りに訪れました(今回初)。美しい海と絶景を眺め、パワースポットの神社を訪れ、点在する温泉を自由に散策し、浜辺で瞑想して、自然のパワーを感じながらゆったり過ごす二日間でした。ここ伊豆半島は、25のジオパーク(大地を感じる公園)の一つです。熱海エリアは噴火活動でできた山が侵食されてできた所で、海辺からせり上がったような地形となっています。地名の「熱海」は、大昔、海中から温泉が凄まじく沸き上がり海の水が熱湯になったことが語源だそうです。そしてまずは、熱海の海岸と自然を生々しく感じることが出来る真鶴岬を訪問しました。有名な三ツ石、相模湾、眼前には初島・大島、天気が良ければ房総半島まで見ることができます。ちょうど前日の雨も上がり、心地よい潮風と水平線の広がりを感じられます。岬一帯は森林浴にも最適(ちょっと屋久島を思わせる巨木の木々)でした。そして、真鶴の後は、美しい海岸線を見ながらビーチラインを熱海に向かいました。熱海中心街に入る入り口あたりには、熱海を走るように流れる圧倒的な湯水を直接感じることが出来る「走り湯」があります。 熱海は、1300年前に発見された日本三大古泉のひとつです。湯量はなんと7000トン/日!そして、この後に参拝する伊豆山神社の湯神として信仰されていたということです。海岸から急勾配の坂道を登って伊豆山神社へ向かいました。この神社は「伊豆」の地名発祥の地でもあります。その境内からは、下の写真のように、初島や大島など、相模湾が一望できます。静岡県で最も古い紀元前5世紀ころの創立といわれます。 源頼朝や徳川家康がこの神社に祈願して、幕府を開いたと伝えられ、明治以前は、神仏習合の神社として、役小角や弘法大師などが修行を積んだ、東海随一の霊場としても有名でした。 境内の奥には、白山神社などに至る山道の登り口があります。かつてはここに山岳仏教・修験道が栄えました。とても清々しく気持ちがよい場所でしたので、明日の朝に登ってみることにいたしました。 こうして伊豆の神様にお参りさせていただいた後は、熱海中心街のサンビーチへ向かいました。ヤシの並木が南国を思わせます。穏やかな海とおしゃれな浜辺。南仏やイタリアのリゾート地をイメージした作りのようです。夜はビーチがライトアップされ、100万ドルの夜景ともいわれる幻想的なムードになります。その後は、しばらく思い思いに散策し、徒歩で熱海の神社の中でもとりわけその中核をなして名高い来宮(きのみや)神社に向かいました。そのご聖木を中心としてパワースポットとしても有名です。その道すがら、熱海七湯の源泉や湯前神社にも参拝しました。熱海の温泉は徳川家康が気にいって、わざわざ湯を運ばせたそうですよ。 そして、いよいよ、日本有数のパワースポットとも言われる「来宮神社」に到着しました!江戸末期まで、この神社は「木の宮」と呼ばれ、木に宿る神様をお祀りし、木への感謝の信仰を有していたといわれています。まずは本堂を参拝しました。そして、その後に何と言っても、この神社の霊性の中核であるご聖木である大楠の木を参拝。関東で最長寿、樹齢2000年と言われます。ご聖木とその周辺の空間は圧巻!そこにいるだけで元気になる生気・霊気に満ちていました!人が触れて元気になることできる気を発するパワースポットとしては、最高級のものだと思いました。神様の数を柱を単位に数えるように、日本の古来の自然信仰の一つの核はご聖木の信仰だと思いますが、それを正に肌で感じることが出来ます。参加されたみなさんも、何回もご聖木の周りを回ったり、その近くのベンチに座って瞑想したりされていました。 その後は、神社をあとにして、近くの海岸である「長浜」に向かいました。人影もすくない静かな海岸で、それぞれ自由に瞑想しました。その後は、自由時間となり、皆さんそれぞれに、熱海の豊かな温泉をめぐったり、海岸を歩いたりしながら、過ごしました。道にはブーゲンビリヤも咲き乱れていました。 さて、夜には来宮神社のライトアップに出かけました。木に宿る木霊(こだま)を140個もの灯りでライティング。素晴らしい!神々しさと幻想的な雰囲気が見事に演出されていました。アニメの「もののけ姫」の木霊を思い出しました。こうして、熱海の聖地・自然巡りは無事終了いたしました。長い1日でしたが、大地のエネルギーを頂き体も心もリフレッシュした感じです。今日はいい夢が見られるかもしれません(笑)。 |
| 【乗鞍岳:古来の高峰の神山】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第16回/乗鞍岳:古来の高峰の神山」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第16回は乗鞍岳です。乗鞍岳は、古来、乗鞍大権現のご神体である霊山と信仰されてきた、剣ヶ峰を主峰とする山々の総称であり、摩利支天岳、富士見岳など23の峰によって構成され、広大な裾野が広がっています。剣ヶ峰の山頂には乗鞍本宮が祀られており、仏教的信仰の神話も有する古来の聖地です。まず、①乗鞍岳に関する文献から、そのご紹介をして、その後には、②2018年9月17日、私たちが実際に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③ひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介します。 |
| ●文献からの乗鞍岳のご紹介 |
| ●乗鞍岳 乗鞍岳は、古来、霊山として乗鞍大権現のご神体の山と仰がれ、信仰されてきた山で、剣ヶ峰山頂には乗鞍本宮が祀られています。古くは、飛騨の国の国司が、「大野郡愛宝山に三度紫雲がたなびくの見たとの瑞兆を朝廷に言上した」との記述が『日本三代実録』(873年)にありますが、愛宝山とは、乗鞍岳のことです。紫雲とは紫色の雲のことで、仏様が乗って来迎する雲で吉兆とされます。 なお、「乗鞍岳」という名前は、山容が馬の鞍のように見えることからつけられたといいます。剣ヶ峰(標高3026m)を主峰とする山々の総称で、摩利支天岳、富士見岳など23の峰があり、広大な裾野が広がっています。 |
| ●乗鞍本宮 剣ヶ峰山頂にある乗鞍本宮。御祭神は、天照皇大神、五十猛大神、於加美大神、大山津見大神で、四柱を乗鞍大神といいます。11世紀に木曽義仲の臣が観察のために登山した際、社殿を創建し黄金の神像を奉安したと伝わります。このあたりの権現ケ池、大丹生ケ池、亀ケ池、鶴ケ池は霊水を湛え、雨乞祈晴に霊験があるとされてきました。これらの水が、丹生川及び阿多野川の本流となり、北流して神通川、南流して飛騨川となっています。 |
| ●乗鞍岳剣ヶ峰登拝レポート:2018年9月17日 (※同行したスタッフのレポートです) |
| 2018年9月17日に、乗鞍岳の最高峰・剣が峰(3026m)に登拝しました。この一帯は環境が保護されており、マイカーは入れませんので、専用の低公害バスに乗って入りました。途中の景色はすでに紅葉が始まっていました。そして、バスで行くことができる日本最高地点のバスターミナルの畳平(2702m)に到着しました。高山病の予防のために、慌てて出発はせず、十分に時間を取って高地に体を慣らします。その時は、かなりの霧と強風がありました。普段よりゆっくりと、ペースを崩さずに、深く呼吸しながら酸素を十分に体に取り入れながら歩きます。風で刻一刻と変わる様相が写真から分かるでしょうか。最初の30分ほどは道は平たんで、そこを歩いていくとまもなく「肩の小屋」という中継点に到着します。この後は本格的な登山道です。肩の小屋にいる間に霧が晴れてきました。霧が晴れた上空に、太陽の周りに虹の光の輪が現れました。光輪・日暈とも言われ仏教でも吉兆です。やっぱり嬉しくなりますね。これから登っていく山の姿も、はっきり見えるようになりました。 さあ、登り始めます。途中には這い松や高山植物が生えています。後方を振り返ると、一つの山の山頂に東大の観測所も見えました。剣ヶ峰は3000Mを超える高峰です。そのため、雲が眼下に見えます。ところが天候はなかなか安定せず、また霧が立ち込めてきました。しばらく上ると、やっと中間地点を過ぎました。標高3000m近い。下の写真の「馬の背」のあたりは豪風で飛ばされそう。峰線に至って山の反対側を見ると、突然眼下にハート型の「権現池」を見ることが出来ましたエメラルドグリーンで非常に綺麗。ここまで来れば、あと少しで頂上です。そして、多少霧がかかる中でついに主峰剣ヶ峰の山頂に到着です。山頂の社屋は見ることが出来ますが、霧の中で真っ白でした。こうして、乗鞍岳の剣ヶ峰、私にとっては、2年ぶりの登山でしたが、今回も無事に降りてまいりました。あれこれ考えずに、一歩一歩、登ることだけ考える。足場が悪いから、下りも一歩一歩注意して降りる。このように集中することで、自然とマインドフルネス瞑想をやっていることになります。 この日は、強風のため、一瞬で霧が立ち込めたり、晴れたり、寒さに耐えたり強烈な紫外線に曝されたり。こんな中で、人間ってちっぽけだなと感じます。山に登ると頭が空っぽになり偏った天秤が釣り合うような感じがします。3日間、大自然の中で肌で感じたことを大切にして、日々の生活にも役立てたいと思いす。今回も良く歩き、登りました。すでに筋肉痛が出ていた方もいらっしゃいましたが、最後に乗鞍の温泉に浸かって体を温めました。ご参加の皆さまには様々なご協力をいただき感謝いたします。本当にお疲れさまでした。 |
| 【「浅間山麓」聖なる火山と聖地】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第17回/浅間山麓:聖なる火山と聖地」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第17回は、長野県・浅間山麓です。アサマとは古語で火山という意味です。古くからの山岳信仰の対象である浅間山の山麓の雄大な自然や名高い観音霊場を巡ります。 この中には、観音菩薩の化身とされる聖徳太子が没してから2022年で1400年を迎えたこともあって、太子ゆかりの観音霊場も含まれています。そこでまず、①浅間山麓に関する文献からそのご紹介をし、そのあとに、②2022年10月1日、私たちが実際に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③ひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介します。浅間山の外輪山の遠景。 |
| ●文献からの浅間山麓の自然・聖地のご紹介 |
| ●真楽寺 浅間山の麓に位置する真楽寺は、聖徳太子の父である用明天皇の勅願により、浅間山の噴火が鎮まることを祈願し、587年に建立され、1400年もの長い歴史と数多の伝説が残る古刹(こさつ)です。二回の移動と三度の火災、水害に遭って現在の位置に定まったということです。仁王門をくぐると、清々しい杉の参道が続きます。その右には、静かに神秘的な様相を湛える大沼の池があります。龍に化身した甲賀三郎の伝説の発祥地であるゆかりから、口の中に如意宝珠(如意輪観音の如意宝珠) を持つ龍の像が水面から首をもたげています。 湧き出る浅間山の伏流水が池となっていて、この水は「長野県の秘水・名水15選」にも選ばれています。この湧き水は「浅間山龍神水」と呼ばれる長野の名水です。 この池には黄緑色の芹が育っているが、かつて聖徳太子がこの寺を訪れた際、池に生える見事な芹の成長に感心して引き寄せてご覧になられた「七尋芹」の伝承があります。長野県で聖徳太子伝承の残るお寺は、他になかなか耳にしません。参道を登り切ったところには、観音菩薩が祀られた厄除観音堂、そしてその右手には、樹齢1300年の神代杉のご神木があります。 寺の奥には、天皇の勅願寺であることを示す菊の紋章の明示された本堂、その横には聖徳太子の父で真楽寺を建立した用明天皇のお名前がある碑などがあります。そしてさらに上方には、建御名方神、水の神を祀る水分神社がある、神仏習合の寺社となっています。 |
| ●観音霊場:湯の道・百体観音巡り 東御市・新張から地蔵峠を越えて、旧鹿沢温泉に行く間の山道(約12km)は、「湯の道」と呼ばれる観音巡りの霊場です。道の脇には、一番から百番まで幾種類かの観音さまの石仏が1町(約110m)ごとに祀られています。「百体観音石造町石(せきぞうちょうせき)」。石仏は一体一体大きさも形も違い、10番ごとに大きく造られています。鹿沢の湯泉は大変体を丈夫にするということで、昔から多くの人々の湯治場となっていて、この峠越えの険しい山道「湯の道」を、観音さまを拝みながらそのお力にすがり、さらにお湯に入って体を丈夫にしようとしてつくられたものだといいます。 |
| ◎百番 千手観音「百番道しるべ観音」 半肉立像で規模は総高242㎝。蓮華座の花弁の浮き彫りの上に立つ観音菩薩です。明治2年(1869)に伊那の高遠の石工作。 |
| ●高峰高原・池の平湿原
標高2000m、数万年前の火山噴火口跡にできた絶景の自然が広がっています。湿原が広がり、数々の高山植物が咲き誇るっています。鏡池があり、絶景のパノラマなどを楽しむことができます。 |
| ●鹿沢温泉
鹿沢(かざわ)温泉は、標高1500mにある源泉かけ流し100%の秘湯です。多くの人がお湯の薬効を信じて険しい峠道を越えて巡った百体観音巡りの目的地は、この鹿沢温泉であり、ここに百番の千手観音が祀られています。江戸時代中期。傷ついた鹿がこの温泉で傷を癒しているところを一人の漁師が見つけ、霊場であることを知り浴舎を設け、その地を「鹿沢」と称し、鹿沢温泉となったということです。 |
| ●鬼押出し園と浅間観音堂(寛永寺別院) 過去に何度も起きた浅間山の大噴火、そしてその噴火を鎮めるために作られた祈りの場所が、この鬼押出し園内にある浅間観音堂です。ここには、大噴火の犠牲者追悼のために建てられた浅間観音堂があります。このお堂は、東京・上野の寛永寺の別院で、寛永寺伝来の聖観音菩薩がお祀りされています。そして、この鬼押出し園は、天明3年(1783)7月8日の浅間山大噴火の際に、流れた溶岩が固まってできた奇形な岩場で、「世界三大奇勝」の一つともされています。噴火の激しさを、今に伝える目に焼きつくようなその溶岩しかない景観からは、噴火当時の様子が想像されますが、火口で鬼があばれ岩を押出した、という当時の人々が見た印象から、鬼押出しと名付けられたそうです。 |
| ●浅間山麓聖地自然巡りレポ:2022年10月1日 (※同行したスタッフのレポートです) |
| 今日は浅間山山麓の自然聖地と観音霊場を巡ってきました。 まずは浅間山遥拝所(と個人的に名付けた場所)で雄大な山々と広がる景色をご覧ください。そして、その後、聖徳太子が訪問されたという伝説のある真楽寺を参拝しました。このお寺は浅間山が噴火した際に、噴火を鎮めるために、聖徳太子の父である用明天皇の勅願によって建立されました。真楽寺の山道、登ったところが観音堂。真楽寺の神の池「大沼の池」。浅間山の伏流水が湧き出ているこの「大沼の池」は、名水としても有名で、神秘的なまでに美しく、さらにいつまでもいたくなる清々しさです。聖徳太子や諏訪大社の神様にちなんだ神秘的なエピソードのある池です。 大沼の池を後にして参道の階段を上がると、観音菩薩をまつる観音堂に到着します(下の写真)。観音堂、正面から。三重塔。さらに三重塔や、水の神をまつる神社を参拝し、また、近くにある縄文遺跡(河原田遺跡)の跡も訪れました。この一帯は縄文遺跡が豊富で、縄文遺跡のミュージアムもあります。 この後、車に乗って、旧鹿沢温泉に至る「湯の道」に向かいます。こちらには、合計100体の観音様の仏像が、湯の道とされる道の脇に、百数十メーター間隔で、お祀りされています。その一番目が下の写真。一番観音さま。 そして、車の中から、百体観音を見ながら、地蔵峠を通って、そこから池の平湿原にむかいました。ここは標高2000mの湿原です。火山の噴火口跡にできた、その絶景のパノラマを見なが湿原の周りをぐるっと歩きました。景色が開けたところからは、遠方の山々を見ることができて絶景です(上の写真)。また、湿原の中に鏡池と呼ばれる、あたりの景色を映し出す池もあります。鏡池。さて、80番の観音様が祀られている地蔵峠に戻って、そこから100番の観音様が祀られている鹿沢温泉までは、車を降りて徒歩で向かいました。鹿沢温泉は泉質がよく、古来の名湯です。そのために、100体の観音様が祀られている、この温泉に至る道を湯の道と呼びます。かつて人々は、湯の道を通って温泉に浸かり体を丈夫にしたのでした。 鹿沢温泉の入浴が終わると、最後は有名な鬼押し出し園に向かいました。こちらにも、浅間山の噴火を鎮めるために建てられた浅間観音堂があります。鬼押し出し園の中の浅間観音堂は、上の写真に見える通り、上野の寛永寺の別院であり、観音菩薩がお祀りされています。下の写真がその本堂です。浅間観音堂の本堂からのあたりの自然。鬼押し出し園から遠方の山々を含めた絶景です。様々な溶岩石の岩場で三大奇勝と言われます。鬼押し出し園から見た浅間山の遠景。浅間観音堂の奥の院、観音様の石像です。ここに鬼がいるという伝説があります!味のある姿かたちです。 こうして本日は、浅間山を遥拝後、その山麓をぐるっと巡る形で、真楽寺、百体観音の湯の道や鹿沢温泉、鬼押し出し園・浅間観音堂などの観音菩薩等の仏教聖地や周辺の自然を巡りました。その中で、今の自分が、いかに恵まれているかを感じた日となりました。そして感謝の気持ちで歩き、また参拝しました。思い出深い一日でした。 |
| 【出雲大社:出雲信仰の総本山】 | |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第18回/出雲大社:出雲信仰の総本山」。 | |
| お勧めのパワースポット・聖地の第18回は「出雲大社」です。神話によれば、日本の国は、出雲系統の地上の神々=国津神が、伊勢系統の天の神々=天津神に「国譲り」を行ったことによって成立し、両者が融合・調和して形作られてきたと伝えられています。出雲大社は、そのような出雲の神をお祀りする神社として、古代から極めて篤い信仰を集めてきた聖地です。そこでまず、①出雲大社に関する文献からそのご紹介をし、そのあとに、②2013年11月3日に、私たちが実際に出雲大社に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③出雲大社を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクして、ご紹介します。 | |
| ●文献からの出雲大社のご紹介 | |
| ●出雲大社 出雲大社は、天照大神の弟神である須佐之男命(すさのおのみこと)の系譜に属し、出雲地方を中心に地上の国造りを進めたという大国主命(おおくにぬしのみこと)をお祀りする神社です。神話によれば、大国主命は、地上の国を天照大神にお譲りした後(国譲り)、ここにお祀りされましたが、これは伊勢神宮の創建に先立つ話であり、出雲大社の古い歴史を物語っています。出雲大社では、6~70年に一度の割合で遷宮が行われてきています。 |
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| ◎出雲の由来 八雲山・鶴山・亀山という幽玄な山を背景に出雲大社が鎮座しています。「八雲」とは、この出雲の地が、八つの雲がたなびく地であったことに由来し、現代でも雲のわき立つ地なのだといいます。須佐之男命が、この出雲の地で歌ったといわれる、日本で最初の歌は、出雲の特長である「八雲」という言葉で始まります。この歌を始まりとして、日本はたいへん歌の栄える国となっていきました。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」。出雲大社は、天上世界の「天つ神」に対し、地上世界の「国つ神」最大の拠点であり、八百万の国つ神をまとめる神が大国主神です。大国主神は大穴牟遅(オオナムチ・大きな穴を持つ威力ある神)のほか、多数の神名を有することからもその御神徳も多岐にわたることがわかります。『古事記』には、因幡の白ウサギを助けて病を癒す力も備え、須佐之男命の試練を智慧によって乗り越え、大国主神となり、授かった太刀、弓矢、琴を持って、智慧、力、歌の力によって出雲の国を治めたと伝えられています。 国譲りの象徴として建てられたと伝わる大社(おおやしろ)の巨大さが、その偉大さを物語っています。2000年の発掘調査により、創建当初の社殿の大きさが現在の社殿の4倍の約100㍍ほどあることが現実味を帯びてきており、それは背後の八雲山とほぼ同じ大きさであったということになります。平安時代には、現在の約2倍の大きさの48㍍あったといい、平安時代の『口遊(くちずさみ)』(今でいうギネスブック)には、「雲太」(出雲大社)が一番高く、「和二」(東大寺大仏殿)が二番目。「京三」(京都大極殿)が三番目だと記されています。 |
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| 【雲太・和二・京三シルエット】 出雲大社本殿:福山敏男監修・大林組設計、東大寺大仏殿:山本栄吾「東大寺創建大仏殿復元私考」日本建築学会論文報告書69号、平安宮大極殿:高橋康夫監修設計図面による(古代出雲文化展 http://inoues.net/study/bunkaten.html) 古代より「杵築(きづき)大社(たいしゃ)」とも称えられました。ラフカディオ・ハーンは、この出雲大社を参拝したときのことを以下のように綴っています。
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| ◎大国主命の国譲り 大国主命の治める「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国」を、天照大神は自分の子孫が治めることを提案し、何人かの神を出雲に遣わしました。何人も遣いを出したがうまくいかず、最後に遣わした健御雷神(たけみかづちのかみ)が、稲佐の浜で、大国主神の息子・健御名方神(たけみなかたのかみ)を打ち負かし、大国主命は国を譲ることを決めました。大国主命は、国を譲る交換条件として、立派な宮殿を建てて祭るよう願い出、今後幽冥の国に身を隠すことを伝えました。これが出雲大社の始まりとされています。 |
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| ●稲佐の浜(国譲りの地) ◎神迎祭(かみむかえさい) :大国主命の国譲りが行われたと伝わる浜です(上記「出雲大社」の項目参照)。この浜にて、神迎祭が行われます。大社に集まられた神々は、さまざまな縁、地域の縁、親子の縁、男女の縁結び、農作物の豊作、そして天候についてまでも神議りされるといわれています。 ◎補陀落渡海(ふだらくとかい) :16世紀には、この浜より補陀落渡海に出かけた記録が残されており、当時十万人がこれを見送ったという。(※補陀落渡海とは:海の遙かかなたにある補陀落=西方極楽浄土を目指し、小舟で乗りだす捨て身の行) |
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| 出雲大社参拝レポート:2013年11月3日 (※同行したスタッフのレポートです) |
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| 2013年の11月3日は、平成の大遷宮が行われた出雲大社にお参りしてまいりました。出雲は「雲出ずる」と書くように、この地は雲がたなびき、雨も多いのですが、昨日は、朝から小雨混じりでした。日本一の大鳥居がお出迎え。勢溜(せいだまり)の鳥居。出雲大社を前に嬉しそうな上祐代表。前回訪れたときは、遷宮のために覆いがかかっていた本殿も、今回は修復が完成し、荘厳で重々しく、一種の神秘性をも感じさせる雰囲気でした。大国主命とその荒御魂。出雲大社の神楽殿、とりわけ太いしめ縄。しめ縄は日本一の大きさとも言われます。神楽殿の遠景。おびただしい数のおみくじは縁結びの神で名高い本社を参拝する人の願いが感じられます。重厚な本殿のお社です。日出ずる伊勢神宮と、日沈みの出雲大社は、それぞれ、とても好きなのですが、今回は死というものを強く感じました。宮司さんの祝詞の一節からそう感じたのですが、悲壮ではなく、大きな営みの中の死、とでもいいましょうか。幻想的な風景、黄泉を思わせます。それと、人や自然を含む、森羅万象を包みこむ大いなる存在としての神を感じたといいましょうか。うまく表現できませんが、いろいろな気づきを頂きました。人の幸福と社会との縁を結ぶ神議が行われる「上宮」。神迎えの神事が行われる稲佐の浜です。日本の国は、国譲り神話の天津神と国津神の大和合から生まれました。 http://www.izumo-kankou.gr.jp/1033 その和合の精神は、まさにひかりの輪が目指す和の原点でもあります。こうして、伊勢と出雲の遷宮が重なる今年、私たちも輪と和の精神を心に刻んで参りました。ご参加の皆さまには、いろいろなお手伝いをいただき、大巡礼がつつがなく終了いたしました。心から感謝いたします。 |
| 【天橋立:天地の架け橋の聖地】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第19回/①天橋立:天地の架け橋の聖地」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第19回は「天橋立」です。言わずと知れた日本三景の一つですが、同時に非常に重要な寺社のある地域でもあります。そもそも、天橋立自体が、神話の上では、天と地の架け橋であったとされています。そこでまず、①文献から天橋立の自然・寺社・聖地のご紹介をし、その後に、②2020年1月13日に、私たちが実際に天橋立に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③天橋立を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクして、ご紹介します。 |
| ●文献からの天橋立の自然・寺社・聖地のご紹介 |
| 天橋立を中心とする丹後地方は、日本の創世と深い関わりがあると見られています。現に、この地方のことを別名で元伊勢(もといせ)といいますが、日本人の心の故郷ともいわれる伊勢神宮のある伊勢の「元」は、まさにここにあったのであり、日本の根源に関わる極めて重要な地方であったことがわかるのです。 |
| ●天橋立 天橋立は、日本三景の一つとして知られている名勝です。全長約3.6kmの細長い砂浜に約5000本もの松が生え、白砂青松の美しい地形で、あたかも天に架かる橋のような形をしているので「天橋立」といわれるようになりました。地元の伝説(風土記)では、日本の「国生み」をした神・伊邪那岐(いざなぎ)が天に渡るための橋を架けたものの、寝ている間に倒れてしまって今の姿になったといわれています。また、伊邪那岐が「国生み」をする際に「天の浮橋」に立ったという『古事記』の記載もあることから、この地域が、「国生み」つまり古代日本の創生にあたって、大きな役割を果たしたのではないかと考えられています。この美しい松林の海上回廊ともいえる天橋立を、南から北まで歩いて渡っていきます(天橋立の途中にある天橋立神社にもあわせて参拝します)。 なお、この天橋立は、この先にある「元伊勢 籠(この)神社」へ至る参道として位置付けられてきましたので、参拝に向かう気持ちで歩んでいただきたいと思います。 |
| ●「元伊勢」籠(この)神社・真名井(まない)神社 伊勢神宮に祀られている天照大御神(あまてらすおおみかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)が、現在地に遷座される前に、一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所を「元伊勢」と呼びます。特に、伊勢神宮の内宮に祀られている天照大御神は、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)と倭姫命(やまとひめのみこと)により、90年かけて二十数か所を転々と移動されました。 籠神社は、その元伊勢の一つにあたります。主祭神は、彦火明命(ひこほあかりのみこと)で、またの名を「天火明命(あめのほあかりのみこと)」、「天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」ともいうとされています。 また、伊勢神宮の外宮の豊受大神は、籠神社の奥宮である真名井神社から遷座されたという伝承があります。よって、ここは、伊勢神宮の内宮・外宮の両方にとって「元伊勢」に当たるという大変珍しい神社であって、それだけに特別な聖地ともいえます。現に、籠神社の本殿の5色の座玉(すえたま)は、伊勢神宮とここにしかない特別なものです。 |
| ◎豊受大神はユダヤ由来の神様との説 そして、古代日本創世の謎のヒントともいえる存在が、籠神社の奥宮・真名井神社のご祭神である豊受大神です。豊受大神は、現在は、前記の通り、日本で最高の社格を持つ伊勢神宮の外宮に、食をつかさどる神様としてお祀りされています。しかし、この神様のことは、古事記に少し書かれているだけであり、官撰の公式な歴史書である日本書紀においては、全く記載されていません。つまり、古代から最高レベルの神様として大変尊重されてきたにもかかわらず、なぜか正体が全くといっていいほどわからない謎の神様なのです。 伊勢神宮にお祭りされる前は、元をたどれば、前記の通り、籠神社の奥の院である真名井神社にお祭りされていました。そして、この真名井神社の紋章は、ユダヤの象徴である籠目紋だったのです(以前は真名井神社に籠目紋が刻まれていましたが、現在は事情により消されてしまったそうです)。また、真名井神社の名前の一部である「マナ」とは、困窮したユダヤ人に対してユダヤの神・ヤハウェが天から降らせて与えた「聖なる食物」として旧約聖書に記されているものなのです。豊受大神が、食物を司る神とされている由来は、ここから生じているとも考えられます。 豊受大神を祭る伊勢神宮・外宮の社家である渡会家は、豊受大神こそが始原に現れた根源的な神であるとする独自の「伊勢神道」を成立させ、その後の神道界に大きな影響を与えました。戦後日本の新宗教の母体となった大本教の指導者・出口王仁三郎も、豊受大神は根源的な神である国常立尊(くにとこたちのみこと)と同じであると唱えて、最高神に位置付けていました(なお、籠神社も公式に、豊受大神は根源的な神である天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同神という見方があるとの見解を示しています)。 また、「世界最高の超能力者」としてソ連科学アカデミーから認められていたブルガリア人女性ベラ・コチェフスカ氏が1992年に来日した際は、伊勢神宮外宮を参拝し、神秘体験に打たれ、「豊受大神はヤハウェである」と語ったりしています(来日の詳細は1993年3月号の『文藝春秋』誌に掲載)。そもそも、籠神社の「籠(この)」とは、「籠(かご)」にほかなりませんが、ユダヤの紋章が籠目紋(かごめもん)であったことからして、ユダヤとの関連がよりうかがわれるところです。こうしたことからも、古代ユダヤ人は、かつてこの丹後地方に上陸し、ユダヤ教の信仰を伝え、ヤハウェ(=豊受大神)崇拝の伝統を残したのかもしれないと考えられているのです。実際、この丹後地方は、古代においては大陸の玄関口であり、文化が発展した国際色豊かな地域でした。南洋方面からでも海流に乗って対馬海流に沿えば、ちょうどこの地方に漂着しうることから、古代ユダヤ人のみならず南洋の人々もこのルートでこの地に漂着した可能性が指摘されています。 |
| ◎「もう一つの天孫降臨伝説」を秘めた海部氏の家系 こうした、歴史の表には公式には出てこない海外からの渡来神をお祭りし続け、その秘密を守り続けてきたと見られるのが、籠神社の社家である海部(あまべ)氏です。海部氏は、代々、世襲によって宮司職を継承し、現在の宮司は82代目にあたります。その歴史は極めて長く、2000年以上にも及んでいるとされています。それを裏付けるように、海部氏の家系図は、現存する日本最古の家系図として、国宝に指定されています。平安時代に作成され、当時の官庁の公認を受けた信頼性の高い内容とされています。そして、その家系図の注釈書に、天祖から与えられたと記載されている宝物の鏡2枚も、現在まで大切に海部氏に伝承されており、約2000年前の中国・漢の時代に作られたものであることが科学的に明らかになっています。通常、これだけ古い鏡は、遺跡や古墳の中から出土されるケースが多いのですが、代々伝えられてきた鏡(伝世鏡という)としては、日本最古となります。家系図や宝物とともに、これだけの古い家系を誇っている海部氏の始祖は、家系図によれば、籠神社のご祭神である天火明命(あめのほあかりのみこと)という神様になっています。天火明命とは、ひかりの輪でも2011年に巡礼した九州・高千穂に降臨した天照大神の孫(天孫)邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄弟神にあたります(古事記の記載による)。 現在の天皇家は、高千穂に天孫降臨した邇邇芸命の子孫とされていますから、海部氏の存在は、歴史には記されていない「もう一つの天孫降臨」があり、その子孫が今でも続いているということを物語ることになります。こうした事実が明らかになることを防ぐためか、海部氏の家系図は、長年にわたって「人に見せてはいけない」として非公開とされてきました。それだけに、近年になって家系図や鏡が公開されたときは、大きな衝撃をもって受け止められました。そして、この海部氏の始祖神である天火明命も、謎に包まれた神とされてきました。伝説によれば、天橋立の沖合に浮かぶ二つの島(冠島(雄島)と沓島(雌島))に降臨したと伝えられ、冠島には天火明命をお祭りする神社があります。その一方、この二つの島には、豊受大神と同じとされる根源神・国常立尊が3000年にわたって幽閉されてきたとして、表にお出ましいただくための重要な神事(島開き)を、出口王仁三郎が明治33年に行っています。 以上の通り、海外から渡来したユダヤの神と思われる豊受大神、そして「もう一つの天孫降臨」として天降ってきた(おそらく海外からやってきた)アメノホアカリノミコトの二柱の神には、共通点があり、両者は一体、または深い関連性があると考えられます。約2000年の長きにわたって、天火明命を始祖神とし、豊受大神をお祭りし続けてきた籠神社の海部氏は、こうした謎を秘め続けてきたと見られますが、21世紀を迎えた今、徐々に謎が明らかになってきているように思えます。それによって、日本と世界との深いつながりが再確認される時代が到来するのかもしれません。 |
| ●智恩寺 天橋立を挟んで籠神社の反対側(南側)に位置しているのが、智恩寺です。寺伝によれば、808年(大同3年)に、平城天皇の勅願寺として創建され、現在は臨済宗の寺院です。ご本尊は文殊菩薩で(秘仏)、「日本三文殊」の一つとされる文殊菩薩の霊場です。智恵を授けてくださる文殊さんとして、受験生などが多く参拝に訪れるといいます。境内には、「輪」を3回くぐれば文殊様の智恵を授かるという「智恵の輪灯籠」があります。天橋立を歩く際に、あわせて参拝させていただきます。 |
| ●成相寺 天橋立を北から見下ろす山腹に位置するのが、707年(慶雲元年)に真応上人または聖徳太子によって開基されたという成相寺です。西国三十三箇所第28番札所で、真言宗の単立寺院。古くから修験道の修行者が修行してきました。日本全国の「聖の住む所」の5本の指に入るほど信仰されてきました。ご本尊は、身代わり観音、美人観音ともいわれる聖観世音菩薩で、33年に1度だけ開扉される秘仏です。身代わり観音の由来は、一人の僧が雪山のこの寺で修行中、餓死寸前になったとき、観音菩薩に食べ物を懇願したところ、観音菩薩が傷ついた鹿となって現れ、その鹿の肉を食べて飢えを凌ぐことができたという話にあります。ここから、願うことが成り合うので、成合(相)寺と名前がついたそうです。また、御伽草子の梵天国王の姫君が姿を変えられた観音様だといわれているそうです。拝む人は美しい人になるという美人観音としても有名です。 |
| ●パノラマ展望台 成相寺の本堂から1キロ登った山上に位置するパノラマ展望台からは、天橋立の全景はもちろん、天候が良ければ、はるか能登半島や北アルプスの白山まで見渡すことができます。また、丹後地方に最初に「元初の神」が天降ったとされる最重要の聖地・雄島(冠島)と雌島(沓島)も、若狭湾上に見ることができます。 |
| ●冠島(かんむりじま)・沓島(くつじま) 冠島は別名を大島、雄島(おじま)、常世(とこよ)島、竜宮島ともいい、沓島は別名を雌島(めじま)または小島、鬼門島ともいいます。籠神社の御祭神、天火明命と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が降臨したとされ、籠神社の奥宮といわれています。籠神社の神域でもあり、天橋立が見渡せる傘松公園にも、冠島と沓島の遥拝所が設けられています。 |
| ●由良の浜 由良川の河口付近に広がる、約2㎞にわたって続く広大な遠浅の白い砂浜。冠島・沓島を望む絶景のビューポイントです。団体で毎年行う出羽三山の修験道修行は、今年2020年で10回目を迎えます。一説によると、出羽三山の修験道の開祖・蜂子皇子(はちこのみこ)ゆかりの場所が、由良川・由良の浜にあります。蜂子皇子は、都から由良川を下り、日本海の山形は由良の浜に出、北上して出羽三山付近で三本足の烏に導かれ、羽黒山に入り、羽黒修験を開いたと伝えられています。 |
| ●如意寺 由良神社の別当寺。聖徳太子の弟である麻(ま)呂(ろ)子(この)皇(み)子(こ)創建と伝わる古寺。現在でも出羽三山と交流が続くといいます。地蔵堂には、京都府指定文化財・鎌倉時代の仏師・快慶作の地蔵菩薩坐像がお祀りされています。「身代り地蔵」とも呼ばれ、「山椒太夫」の物語の中で、太夫に捕らわれていた安寿と厨子王の姉弟が逃げようとした際、焼印を当てられたが、一夜明けると姉弟の傷は癒え、この地蔵菩薩像に焼け跡がついていたという伝承があります(地蔵菩薩像には実際に右肩に焼き印を押されたような跡があるという)。 |
| ●由良神社 ご祭神は、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、櫛御気命(くしみけぬのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)。古くは由良ヶ岳中腹に鎮座し、熊野十二社大権現や熊野三所権現と称していました。もともとの社殿は上の宮、中の宮、下の宮の3社でしたが、18世紀初頭、中の宮にまとめられ、熊野三所とし、東側の社殿を下社、熊野九所としました。 |
| ●天橋立訪問レポート:2020年1月13日 ※以下は同行したスタッフによるレポートです |
| 2020年1月13日に天橋立を中心とする自然とその地域の聖地を巡りました。 天橋立を中心とする丹後地方は、日本の創世と深い関わりがあると見られます。この地方のことを元伊勢(天照大神と豊受大神が伊勢神宮に遷座される前に一時的に祀られたという伝承を持つ場所を呼ぶ)といいますが、丹後地方の籠(この)神社が元伊勢にあたります。今回は元伊勢とイザナギの国創り伝説の地などを巡りました。そして、まずは、智恩寺に参拝させていただきました。これは天橋立の南側に位置します。臨済宗のお寺です。ご本尊は文殊菩薩で「日本三文殊」の一つとされる文殊菩薩の霊場です。智恵を授けてくださる文殊さんとして、受験生などが多く参拝に訪れるといいます。祈願がたくさん。「輪」を3回くぐれば文殊様の智恵を授かるという「智恵の輪灯籠」。くぐるのはちょっと無理ですね。次に、智恩寺さんから天橋立を渡ります。 |
| 全長約3.6kmの細長い砂浜に約5000本もの松。白砂青松の美しい地形で、あたかも天に架かる橋のような形をしているので「天橋立」といわれるようになりました。伝説(風土記)では、日本の「国生み」をした神・伊邪那岐が天に渡るための橋を架けたものの、寝ている間に倒れてしまって今の姿になったといわれています。この美しい松林の回廊を南から北まで歩いて往復しました。天橋立の途中にある天橋立神社にもあわせて参拝。天橋立の中にある 磯清水:周りが海なのに真水がわき出ています。砂浜に出ると真っ青な空と静かな海、陽の光も美しく爽快感に浸りきりました。向こうに雄島(大島、冠島)雌島(小島、沓島)も見えました。両方とも神の島と言われています。特に、雄島は、籠神社の御祭神、天火明命と市杵島姫命が降臨したとされ、籠神社の奥宮といわれています。左が雌島、 右が雄島です。 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第19回その2/「天橋立」天地の架け橋の聖地」。 |
| 天橋立を渡りきると、北側にはフェリー乗り場などがありました。間もなく、元伊勢である籠神社があります。伊勢神宮の内宮に祀られている天照大神は、90年かけて二十数か所を転々と移動されました。 籠神社は、その元伊勢の一つにあたります。また、伊勢神宮の外宮の豊受大神は籠神社の奥宮である、真名井神社から遷座されたという伝承があります。この神社にはユダヤ文化とのシンクロニシティが強く感じられます。よって、ここは、伊勢神宮の内宮・外宮の両方にとって「元伊勢」に当たるという大変珍しい神社であって、それだけに特別な聖地ともいえます。真名井神社のご祭神である豊受大神は謎に包まれた神さまで、ヤハウェ=豊受大神か?というユダヤ教とのつながりも指摘されているそうです。丹後地方は、古代において大陸の玄関口であり、文化が発展した国際色豊かな地域だったことから、古代ユダヤ人や大陸からが様々なものが伝えられた可能性はありますね。さて、天橋立を往復した後は、成相寺を参拝しました。成相寺は、西国三十三箇所第28番札所で、真言宗の単立寺院。古くから修験道の修行者が修行してきました。日本全国の「聖の住む所」の5本の指に入るほど信仰されてきました。
さて、成相寺さんからは山の頂にあるパノラマ展望台へ。全景です。雨が降り、眼前に美しい虹が立ち現れました。前回、2012年に天橋立の聖地巡りを行った時は、由良の浜で二重の虹が出ましたので、今回も、、ということで、皆さん興奮ぎみ。。。
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| 2012年11月11日の由良の浜での虹は ↓ ↓ ↓感動を胸に由良の浜へ向かいます。由良の浜は、由良川の河口に広がる広大な白い砂浜です。冠島・沓島を望む絶景のビューポイントです。雄島と雌島が見えました! |
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<団体で毎年行う出羽三山の修験道修行との関わり>
由良神社と如意寺にも参拝させていただきました。由良神社。如意寺。由良神社の別当寺。聖徳太子の弟である麻呂子皇子創建と伝わる古刹です。現在でも出羽三山と交流が続くといいます。 |
| 【立山:浄土と地獄の神の山】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第20回/立山:浄土と地獄の神の山」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第20回は「立山」です。立山は古来、神の住まう霊峰とされ、富士山と共に日本三霊山の一つとして尊ばれてきました。近年は日本で唯一の氷河が発見されて、昔からも、天上界のような山々に加え、地獄界を思わせる火山活動や風雪の強さなどの多様な自然から、山岳仏教・浄土思想や修験道の聖地でした。こうして、他に類を見ない自然・宗教・文化を育んできた自然の聖地です。それではまず、①文献から立山の自然・思想・宗教・文化などをご紹介し、その後に、②先ほどお話しした立山の自然の多様性も含めてよく理解いただけるように、2012年8月22日の晴天の日と、2013年9月16日の台風が接近した日にそれぞれ、私たちが実際に立山に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③立山を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクして、ご紹介します。 |
| ●文献からの立山の自然・信仰・文化のご紹介 |
| 立山は、富士山・白山と並び日本三霊山(三名山)の一つで、古くから、神住まう霊峰として敬われてきた聖地である。「立山」は、富山県は北アルプス北部の立山連峰に位置し、雄山(おやま、標高3,003 m)、大汝山(おおなんじやま、標高3,015 m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、標高2,999 m)の3つの峰の総称である。 立山はその雄大さ・多様さ・個性において、これほどインパクトのある聖地は初めてと思わせるほどすばらしい。特記すべきこととして、昨年11月に、なんと日本初かつ世界で最南端の「氷河」が発見された山でもある。雄大かつ強烈な個性を持つ大自然。天上界のような山々から、地獄をもイメージさせる強烈な火山・地震・風雪など、かつての自然活動の痕跡。それを背景に広がった江戸時代の仏教・修験道の一大聖地としての歴史文化。今回はこうした自然を仰ぎ見ながら、さまざまに学ぶ歩く巡礼となる。 |
| ●室堂平(立山黒部アルペンルート上) 「立山黒部アルペンルート」という北アルプスを貫く山岳観光ルートを、バスで「室堂平」まで登るが、そこが目的地だ。室堂平に一歩足を踏み入れると、すでに眼前に3000メートル級の山々が雄大にそびえる標高2400メートルの世界である。ここからは、立山三山や、峻厳な剱岳を望むことができ、さまざまな印象的な風景が広がる場所。 |
| ●雄山(3,003 m)・剱岳(2,999m) 雄山は、立山最大のシンボルで、雄山の山頂には、雄山神社の本宮があり、立山信仰上の最大の聖地とされる。剱岳は、その名と風貌の通りもっとも険しい山。一年中解けることのない日本三大雪渓を有する。ここ雄山と剱岳が、日本で唯一、氷河が存在する山だ。 |
| ●氷河 2011年11月に、なんと日本初の氷河が発見されたという新聞記事が出た。氷河(山をはうようにして流れる巨大な氷のこと)は、科学的な計算上4000メートル以上の山にしかできないはずで、日本一高い富士山にもできない。しかし、最近になって、最新技術で調べたところ、立山連峰の雄山と剱岳の中で、合計三カ所も氷河が発見されたのだという。氷河の長さは最大で1000メートル余りある。万葉の歌人、大伴家持は、「立山(たちやま)に 降りおける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし」と、夏でも解けない万年雪を見て、神さまのような品格があると詠んだが、夏でも解けない大量の万年雪。そして険しい山の斜面に雪が積もる。立山連峰は、氷河が誕生する条件を兼ね備えていたといえる。 |
| ●石仏群 信仰の山であった名残として、立山室堂の周辺には人々から寄進された石仏がたくさん残されている。 |
| ●立山の開山 「白鷹伝説」に残されているが、立山の開山の伝説がある。白鷹、熊に導かれた一人の人物が、立山の洞窟で、熊が変化した阿弥陀如来に、開山の啓示をうけたと伝わる。 |
| 「文武天皇の夢の中で「騒乱の越中国を、佐伯有若に治めさせよ」との神のお告げがあった。越中国司に任ぜられた有若が、加越国境の倶利伽羅山にさしかかったとき、一羽の美しい白鷹が舞い下り、有若はこれを国を治める象徴として善政を行った。有若にはなかなか子供ができず祈り続けていたところ、ようやく神のお告げのとおり男子が誕生したので有頼と名付けた。16歳になった有頼が父の大切な白鷹を無断で持ち出し狩をしに出かけたところ、白鷹は急に舞い上がり飛び去ってしまった。あちこち探し回り、道に迷いながらもさらに行くと、ようやく一本の大松に止まっている白鷹をみつけた。白鷹が有頼の手にとまろうとした一瞬、竹やぶから一頭の熊が現れた。鷹は驚いて再び大空に舞い上がってしまう。有頼が矢で熊を射ると、熊は血を流しながら逃げていった。血の跡を追って山に分け入ると、三人の老婆に出くわし、「白鷹は東峰の山上にいるが、川あり坂ありの至難の道であり、勇猛心と忍耐心が必要である。嫌なら早々に立ち去るがよい。」と諭された。それでも勇気をふりしぼってさらに何日も進んでいくと、ようやくこの世のものとは思えない美しい山上の高原にたどり着いた。ふと見れば白鷹は天を翔け、熊は地を走り、ともにそろって岩屋へと入っていった。中に入ってみると、なんとそこは光り輝き極楽の雰囲気が漂っており、奥に不動明王と矢を射立てられ血を流している阿弥陀如来とが立ち並んでいた。有頼は驚き、己の罪の恐ろしさに嘆き悲しみ、腹をかき切ろうとしたところ、阿弥陀如来は、「乱れた世を救おうと、ずっと前からこの山で待っていた。お前の父をこの国の国司にしたのも、お前をこの世に生み出したのも、動物の姿となってお前をこの場所に導いたのも私である。切腹などせず、この山を開き、鎮護国家、衆生済度の霊山を築け」と告げた。立山の為に生涯を尽くすことを誓った有頼は直ちに下山し父にこの事を告げ、父とともに上京して朝廷に奏上した。文武天皇は深く感激し、勅命により立山を霊域とした。有頼は出家して名を慈興に改め、立山開山の為に尽力した。(ウィキペディアより)」 |
| ●立山玉殿のわき水 室堂ターミナル前の広場にあり、雄山直下から湧き出ている地下水。水温は2~5℃と冷たく、名水百選にも選ばれている。 |
| ●室堂展望台 室堂ターミナルへの登山道登ったところにある室堂山展望台。立山カルデラや五色ケ原など、 荒々しくも美しい風景が目に飛び込んでくる。 |
| ●ミクリガ池、ミドリガ池 多くの池の中でも、ミクリガ池の青く美しいさまは神々しいほどだ。ミクリとは、神の厨房という意味で、この池の水は神様に捧げる食事を作るために使われた御神水だという。ミドリガ池は透明度が高く、エメラルドグリーンが際だっている。水の深さは約1.6m。 |
| ●地獄谷・血の池 ミクリガ池などと正反対の様相が慈母管に。立山は古代においては火山で、この池はその名残の火山湖である。現代の今でも、沸騰した水と毒性のガスを放ち、近辺は全く緑のない白く暗い岩肌でまさに地獄の様相。実際に近くは、危険のため立ち入り禁止となっている。その近辺には血の池と呼ばれる地のように赤い色の池もある。 |
| ●温泉 標高2410メートルの、日本一高所の温泉が近くにわいていて、疲れた体を癒してくれる。 |
| ●強烈な自然活動 このように、他に類をみないほどに、強烈な個性を持った山や池の数々がある。これが立山の自然の特徴で、室堂に登るときも、バスからは、日本一の落差の滝や、杉の巨木、大規模な浸食や地震の痕跡のある山肌、立山カルデラと呼ばれる地帯などがある。地下からの強力なマグマ・火山活動に加えて、古来雨や雪が多く、その恵みとともに、洪水の被害も多かったとされる。火と水の双方の自然の力が非常に強力に現れた場所だ。 |
| ●弥陀ヶ原 標高約1,600~2,100m、東西9km、南北3kmに広がる高原。木道が敷かれた湿原には「餓鬼の田」と呼ばれる池塘(ちとう)が点在し、カルデラ展望台などがある。 |
| ●立山信仰 そして、非常に重要なこととして、この立山は、古来から、富士山、白山とともに、日本三大霊山とされて、神の山とされてきたが、この立山信仰は、仏教の浄土思想や修験道の成立と共に、おそくとも平安時代には成立していたという。そして、その信仰の特徴は、立山の自然からイメージされる浄土と地獄、天国と地獄の二面性です。すなわち、立山には、この世の地獄と浄土の双方があるとされた。 地獄谷や血の池は、地獄の灼熱の池、峻厳な剣岳は、地獄の針の山と見なされた。雄山は、阿弥陀の浄土だろうか。立山の開山は、前述のように、阿弥陀仏の化身である熊によるという伝説があある。 そして、立山は、衆生済度の聖地であった。悪業を積んで地獄に落ちる運命の人も、立山に参拝し、悪業を浄化すれば、極楽に生まれ変われるとされてきた。 修験道は、山を仏と見て、山に入って一度死に、自己を浄化し、生まれ変わって下山するという死と再生の思想があるが、立山は、山に存在する地獄を見て悪業を浄化し、浄土に至るという、まさに死と再生の聖地といえる。 また、霊力を磨いた行者が、地獄に落ちた死者と会うことができ、死んだ親族を救済できる場所とも信じられていたという3000mの高山に篭もって修行する行者には、神秘体験・霊的体験が多かったのかもしれない。様々な神秘的な伝説があり、これも、立山の信仰文化を形成したとされる。 さらに、女人救済の伝統も特徴がある。修験道の聖地は、女人禁制が多いが、この立山信仰では、女性を救済するため の特別に工夫された儀式が、雄山神社芦峅寺(あしくら寺) を拠点として行われ、それも信仰が広がった理由だったという。こうした思想からは、どんな者もすべからく救う、阿弥陀仏や 観音菩薩の平等救済の精神が感じられる。 |
| ●立山訪問レポート:2012年8月23日
昨日は、名高い富山県の立山(連峰)を巡礼しました。一言で言えば、これほど、インパクトのある聖地は初めてでした。雄大且つ強烈な個性を持つ自然。天上界のような山々から、地獄をもイメージさせる過去の強力な火山、地震、雨雪といった自然活動の痕跡。それを背景にした、江戸時代の仏教・修験道の一大聖地としての歴史文化。専用バスで、立山巡礼・登山のステーションである室堂(むろどう)に入ると、そこは既に標高2400M以上の世界で、眼前には3000M級の山々が雄大にそびえていました。※室堂からの立山連峰。その近くには、仏塔や石仏、そして、立山開山の伝説の残る洞窟も。 なお、立山は一つの山ではなく、連峰の総称です。この日は、天候に恵まれ、立山の最大のシンボルである雄山(おやま)を初め、立山三山や剣岳がくっきりと見えました。特に雄山の雄大さと、剣岳の峻厳さが印象的。この雄山の山頂には、雄山神社の本宮があり、立山信仰上の最大の聖地。※右が雄山。※奥が剣岳です
そして、非常に重要なこととして、この立山は、古来から、富士山、白山と共に、日本三大霊山とされて、神の山とされてきたことがあります。この立山信仰は、仏教の浄土思想や修験道の成立と共に、おそくとも平安時代には成立していました。
また、その信仰の特徴は、立山の自然からイメージされる浄土と地獄、天国と地獄の二面性です。すなわち、立山には、この世の地獄と浄土の双方があるとされたのです。
地獄谷や血の池は、地獄の灼熱の池、峻厳な剣岳は、地獄の針の山と見なされました。そして、雄山は、阿弥陀の浄土でしょうか。立山の開山は、阿弥陀仏の化身である熊によるという伝説があります。
そして、立山は、衆生済度の聖地でした。悪業を積んで地獄に落ちる運命の人も、立山に参拝し、悪業を浄化すれば、極楽に生まれ変われるとされました。修験道は、山を仏と見て、山に入って一度死に、自己を浄化し、生まれ変わって下山するという死と再生の思想がありますが、立山は、地獄を見て悪業を浄化し、浄土に至るという、まさに死と再生の聖地です。
また、霊力を磨いた行者が、地獄に落ちた死者と会うことができ、死んだ親族を救済できる場所とも信じられました。3000Mの高山に篭もって修行する行者には、神秘体験・霊的体験が多かったのでしょう。様々な神秘的な伝説があり、これも、立山の信仰文化を形成しました。 さらに、女人救済の伝統も特徴です。修験道の聖地は、女人禁制が多いのですが、この立山信仰では、女性を救済するための特別に工夫された儀式が、雄山神社 芦峅寺(あしくら寺)を拠点として行われ、それも信仰が広がった理由でした。どんな者もすべて救う、阿弥陀仏や観音菩薩の平等救済の精神が感じられます。 ※当時の様子を再現した布橋灌頂会イベントと立山曼陀羅など。 http://www2.ocn.ne.jp/~tomoya1/ 女人済度の儀式で使われた布橋。※うば堂の基壇 女性はここから立山を遙拝した。 現在の価値観から見れば確かに非科学的・非合理的ですが、信仰文化として見るならば、これほどに興味深く、多面的な内容をもったものは、滅多にないと思います。明治時代に破壊されるまでは、立山曼荼羅(まんだら)とも言われる、立山の壮大な信仰世界があったのです。
※立山曼陀羅 http://www.geocities.jp/hmatsuw3/tate/mandara.htm
巡礼が終わるころには、当然それなりに疲れたものの、心身が非常に浄化されたように感じ、とても充実感に満ちた気持ちになりました。色々なところに巡礼に言っていますが、一日にしては、かつて無いほど、手応えのある巡礼だったと思います。
先日の日記で紹介した上高地と比較して表現すれば、上高地は、日本有数の山岳景勝地と言われるように、山・川・森・池など、何をとっても非常に純粋で美しく優しく、道も平坦であり、誰もが巡礼・観光しやすい、まさに優れた聖地という感じがします。慈愛の聖地というイメージ。
それに対して、立山は、非常に強烈なインパクトを持った、手応えのある、心身を引き締めて、浄化する聖地という感じがしました。まさに、死と再生の聖地というイメージ。その意味で、ご機会があれば、皆さんも是非、巡礼・観光されることをお勧めします。 |
※以下は同行したスタッフのレポートです。 |
| 昨日までとは打って変わり、やはり台風は北陸地方には相当の風雨をもたらすとの予報。今日の立山聖地巡りをどうするか迷ったのですが、まずは、芦峅寺の雄山神社に参拝させていただきました。そして、閻魔堂や、女人済度のための布橋や立山遥拝所を拝見しました。閻魔様の像。
※女性が一歩一歩踏みしめながら渡った布橋。108枚の板でできています。 ※ミクリガ池です。 |
| 【鹿島神宮/香取神宮:建国の功労神】 | |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第21回/鹿島神宮、香取神宮:建国の功労神」。 | |
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お勧めのパワースポット・聖地の第21回は「鹿島神宮・香取神宮」です。鹿島神宮と香取神宮の神様は共に現在の日本の国の源である大和の国の建国に深いかかわりがある国譲りの神話に登場する、いわば建国の功労神であり、古くからこの神々を祀られる鹿島神宮と香取神宮はパワースポットでもあります。 |
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| ●文献からの鹿島神宮・香取神宮のご紹介 | |
| ■鹿島神宮(茨城県鹿嶋市) ◎諏訪大社とのつながり 鹿島神宮の御祭神は、建御雷神(たけみかずちのかみ)です。高天原の天照大神の命令を受けて、地上にあるこの国を治めるために遣わされ、初めて国を譲らせることに成功した、大変力の強い武神であると『古事記』に伝えられています。地上に降りてきた建御雷神は、出雲の国を治めていた大国主神(おおくにぬしのかみ)と交渉し、その過程で、国を譲ることに異を唱えた大国主神の息子である建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いで勝利を収めました。そして、諏訪まで追われて負けた建御名方神は、諏訪大社に祭られることとなり、建御雷神はその後、この鹿島神宮に鎮座したと伝わります(創建は神武天皇の御代と伝えられます)。 その諏訪大社へは、ひかりの輪でも参拝させていただきましたが、さらに鹿島神宮を参拝する流れとなり、諏訪の建御名方神、鹿島の建御雷神と、国譲り神話に関連する旅となっています。しかも鹿島神宮は、諏訪大社のご神体である守屋山のちょうど真東に位置しているという不思議な関係にあり、ここでも、鹿島と諏訪のつながりが感じられます。 また、諏訪を通っている中央構造線は、この鹿島にもつながっているとされており、そこからも諏訪大社と関連しているといえます(※下図参照:大鹿村中央構造線博物館HPより転載)。 |
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| ◎鹿島神宮の神鹿 本殿に参拝し、参道をさらに奥に進むと、左側に鹿園があり、たくさんの神鹿がいます。建御雷神は、この地が藤原鎌足(天智天皇に仕えた、大化の改新を断行した中臣鎌足)の故郷であることから、藤原氏の氏神として奈良の春日大社に分霊されました。その建御雷神のご神体は、鹿の背に載せられて運ばれたと伝えられ、実際に、その神鹿の子孫が、奈良の春日大社に生きていると伝わっています。 |
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| ◎神仏習合と親鸞上人 鹿園の脇には、かつて鹿島神宮が神仏習合であったことを偲ばせる石碑があります。鹿島神宮には、茨城県中部の稲田に草庵を結んだ親鸞上人がしばしば訪れたそうで、仏教の聖典も豊富に納められていたと伝えられています。 |
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| ◎要石(かなめいし) 参道の奥に鎮座する奥社を参拝し、さらに奥に進むと、「要石」という石が祭られています。この石は本来、神が降臨する磐座(いわくら)だったと考えられ、また、この石が地震を起こす鯰の頭を押さえているといわれています。鹿島の神は、地震の神でもあります。 参道の辻には、鯰を押さえた建御雷神のお姿が掘られた大きな石碑があります。 |
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| ◎水の神としての建御雷神 神域の一番奥には、御手洗(みたらし)池という清らかな水の湧く、神秘的な雰囲気の池があります。この池は、古来より、大人が入っても子供が入っても乳を越えることはなく、干ばつにも涸れたことのない霊泉であると言い伝えられています。古くは、ここが鹿島神宮の参道の起点とされており、参拝者はこの池で禊ぎをした後、参拝に臨んでいました。この池は、この地方では、飲用できる水の湧く唯一の場所であり、このあたり一帯は利根川や霞ヶ浦、鹿島灘など水に恵まれた水郷でもあるので、この鹿島信仰の根底には、水の神の信仰があると考えられています。 |
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| ◎蛇神の本質を内在させながら、雷神として知られてきた 建御雷神は、その名にある通り「雷」の神として知られていますが、以下の通り、その本質が蛇の神であるという興味深い見解も示されています。
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| ■香取神宮(千葉県香取市) 鹿島神宮・息栖神社と共に「東国三社」の一つを構成する神社です。創建は神武天皇の御代と伝えられます。ご祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)で、鹿島の神(建御雷神)と共に大国主神と交渉して円満に国土を平定、日本建国の基礎を築かれたとされています。一説では「フツ」とは刀剣でものを切るときの音で、フツヌシとは刀剣を神格化したものとされます。そのため香取神宮は鹿島神宮と並んで武神として崇敬されてきましたが、現在ではスポーツなどの勝負事の神としても信仰されています。香取神宮にも鹿島神宮と同じく、地震を抑える働きをするとされる「要石」が祭られています。 |
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| ■息栖神社(茨城県神栖市) 鹿島神宮・香取神宮と共に「東国三社」の一つを構成する神社です。ご祭神は、久那戸神(くなどのかみ)で、鹿島・香取の神と共に先頭に立って国土の経営にあたられたと伝えられています。また、相殿に祭られている天鳥船神(あめのとりふねのかみ)は、鹿島の神の先導を務められたとされています。神社の創建は、応神天皇の御代と伝えられます。境内正面から約100メートルに位置する一の鳥居の両側に二つの鳥居がありますが、この中から清水が湧いていて、日本三所の霊水といわれています。社前の川一帯が海だった頃から清水が湧き出てきて、潮の中にあって真水が出てくることから、忍潮井(おしおい)と名付けられました。 |
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| ●鹿島・香取神宮の参拝レポ:2013年6月29日 ※以下、同行したスタッフのレポートです。 |
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| はや7月に入りましたね。梅雨の最中ですが、若干 雨が少ないのでしょうか・・・。皆さん、お健やかにおすごしですか。さて、6月29日(土)は講話会に先立ち、千葉・茨城の聖地巡礼を行いました。朝方まで小雨が残っていましたが、巡礼をすすめるうちに、どんどん天気が回復して、最後は真夏日のような日差しになりました。爽やかな新緑と涼やかな神社の森の散策で「ああ~、気持ちいい!」という声も。 まずは、何度か巡礼させていただいている、鹿島神宮へ。ご祭神は建御雷神(たけみかずちのかみ)。高天原から天照大神の命で遣わされ、戦って国譲りを成功させた武神です。 国を譲った神さまは諏訪大社にお祀りされている建御名方神(たけみなかたのかみ)で、この鹿島神宮は諏訪大社のご神体・守屋山の真東に位置しています。諏訪大社は毎年参拝に訪れており、不思議な縁を感じます。 2011年東北大震災により、大鳥居が完全に崩落したのは記憶に新しいところですが、この鳥居はまだ復旧できていません(来年立て直される予定だそうです)。鳥居崩落は人々の身代わりとして倒れたという碑があり、感じ入りました。6月は夏越しの大祓いとして、神社には茅の輪が設置されていますので、皆さん一緒にくぐってお祓いしていただきました。 ここには春日大社から移された神獣・鹿が多数います。しかし、最近心ないいたずらのため、何頭もの鹿が死んでしまい、以前は自由に餌をあたえられたのが、厳重な二重の柵で覆われていました。奥宮の奥には、神が降臨する磐座(いわくら)だった「要石」が地震を起こす大ナマズの頭を押さえているといわれています(鹿島の神さまは地震の神でもあります)。手前の小さな凹型の石が要石の頭です。広大な鹿島の杜はうっそうとした原生林と巨木が生い茂り、市民の憩いの場ともなっています。本当にすがすがしい生気あふれるところです。 鹿島神宮一番のスポットは御手洗(みたらし)池です。参拝者はここで禊ぎをしてから参拝しました。霊水のご神水も湧き出ており、水郷でもあるこの地方には水の神の信仰があるそうです。 ここでしばし休憩。名物みたらし団子はこんなに豪華。そして、近くの下津海岸へ。白い砂の美しい海です。視界一杯の水平線でこころ広がります。続いて、「東国三社」の一つである息栖神社へ。ご祭神は久那戸神(くなどのかみ)で、鹿島・香取の神さまと共に国土の経営にあたられたといわれています。境内から100mのところに二つの鳥居がありますが、この中から日本三所の霊水がわいています。海の中にあって真水がわいていることから、忍潮井(おしおい)と名付けられています。いよいよ、鹿島神宮・息栖神社と共に「東国三社」の一つの香取神宮へ。ご祭神は、鹿島の神と共に国土を平定した経津主神(ふつぬしのかみ)。こちらの香取神宮にも要石が祭られていました。鹿島神宮の要石は凹型、香取神宮の方は凸型です。大ナマズの頭を押さえて地震を防いでいる。 観福寺は真言豊山派のお寺です。弘法大師が布教の折りに立ち寄られお堂を建てたのが起こりだそうです。堂々とした北総の名刹で観世音菩薩がご本尊です。大変美しい景観でも有名で、NHKの大河ドラマ「八重の桜」など、数々のロケ地としても使われるそうです。本堂。観音堂。墓域には、日本で初めて正確な地図を完成させた伊能忠敬のお墓もありました。クリックプリーズ。 最後の巡礼地は、ご祭神が建御名方神(たけみなかたのかみ)である、諏訪神社へ。伊能忠敬の大きな像もありました。 この日の東国三社巡りは、江戸時代には「お伊勢参りの禊ぎの三社参り」として大変篤い信仰を集めたもので、神宮という名の格式高い神社と、国譲りの神と建国の神の双方を参拝することもでき、たいへん有意義な一日となりました。ご当地近くから参加された方もいらっしゃり、新しい出会いもあり、楽しかったです。参加された皆さま、お疲れさまでした。また、ご一緒したいと思います。 |
| 【東海の聖地:名高い古来の寺社】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第22回/東海の聖地:名高い古来の寺社」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第22回は「東海の聖地」です。ここでは、古来の名高い東海地方の寺社・聖地として、久能山東照宮、小国神社、砥鹿神社、鳳来寺山、熱田神宮、日泰寺などをご紹介します。それではまず、①文献からこれらの東海の寺社・聖地のご紹介し、その後に、②私たちが実際に、これらの東海の寺社・聖地を参拝した時のレポートをご紹介します。そして最後に、③東海の聖地を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクして、ご紹介します。 |
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●文献からの「東海の聖地」のご紹介 |
| ●久能山東照宮 久能山東照宮は、徳川家康を東照大神として祀る神社です。元和2年(1616年)4月17日家康は亡くなると、遺言に従って、その日の夜のうちに久能山に遺体が埋葬されました。二代将軍徳川秀忠は久能山に家康を祀る神社を造営することを命じ、最初の東照宮が建立されました。全国にある東照宮の大元です。その社殿は国宝で、日光東照宮にも優るほどに実に美しく鮮やかです。家康の墓のエリア(神廟)は、非常に神聖な空間で、さらには、「金の成る木」の味わい深い智恵の教えもあります。久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成された山で、推古天皇(592- 628年)の頃、久能寺が建立されて以降、奈良時代の行基を始め多くの名僧が往来し隆盛を極めました。戦国時代には武田信玄が久能寺を移し久能城を築きましたが、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入りました。家康は駿府(今の静岡)に居城していた当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、重要な地であると考えていたといわれています。 |
| ●小国神社(おくにじんじゃ) 小国神社は、遠江国(とおとうみこく)の一宮で、古代の森といわれる格式高い荘厳なお社と広大な敷地(約30万坪・東京ドーム21個分)を誇ります。御祭神は大己貴命 。特に夕刻に神社の横を流れる宮川の自然の雰囲気が素晴らしく、必見の自然です。社の始まりは、6世紀中頃、現在の場所より数キロ離れた本宮山に神霊が現れ、勅命により社殿が造営されたと伝えられています。創建以来、徳川家康をはじめとする数々の武将や、土地の人々から「遠江国の守護神」として信仰を集めてきました。 |
| ●鳳来寺山 鳳来寺山は、中央構造線上に位置する貴重な聖地の一つです。約680mの小峰ながら、切り立った崖の岩肌や複雑な地形は、人を寄せ付けない空気感の漂う霊山で、山全体が、国の名勝・天然記念物に指定されています。飛鳥時代に、利修仙人が文武天皇の病気平癒祈願のために鳳来寺山を開山し、加持祈祷を行ったところ快癒したと伝わり、鳳来寺は病気快癒祈願・薬師信仰の寺として栄えました。また、徳川家康の生母が、ここで子授けを祈って山に籠もったところ、願いが叶って家康を授かったことから、徳川幕府より熱い恩顧を受け、鳳来山東照宮が建立されました。 |
| ●砥鹿神社(とがじんじゃ)奥宮 砥鹿神社は、古代より聖山として、そして現在も三河一宮として東海地方の人々の信仰を集める社です。里宮と奥宮があり、奥宮は、海抜789メートルの本宮山(ほんぐうさん)と呼ばれる神代より神の鎮まる霊山にお祀りされています。本宮山は、その姿の秀麗さと東三河平野のどこからでも拝することができることから、古代の人々の崇敬の対象とされてきました。山中には、磐座(いわくら)・磐境(いわさか)が鎮座し、樹齢1000年の杉のご神木などが存在しています。この山から流れ出るいくつもの渓流は、古来、貴重な水源として尊ばれてきました。こうして、山、水、岩、木といった自然をお祀りする古代信仰を肌で感じることができる場所です。 |
| ●熱田神宮 熱田神宮の創建は古く景行天皇の御代で、ご祭神は熱田大神です。ご神体として、「三種の神器」のうちの「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」がお祀りされています(なお、熱田大神とは、この草薙剣を御霊代(みたましろ)・御神体としてよらせられる天照大神とされています)。 伊勢に次ぐ高い御神格があるとされてきた熱田神宮は、国家鎮護の社として信仰を集めてきました。「熱田」の名の由来は、宮簀媛命(みやずひめのみこと)による神社建立の際、亀卜(きぼく)をしたところ、一本の楓が自然に発火、水田の中に倒れたものの、光が消えず田が熱くなったという伝承が残されています。 昔から雲見山(くもみみやま)・蓬莱島(ほうらいのしま)の名で知られ、自然豊かな広大な境内(約6万坪、東京ドームが4~5個分入るほど)は「熱田の森」と呼ばれ、市民に親しまれています。樹齢1000年の楠が数本もあり、弘法大師・空海お手植えと伝わる樹もあります。 なお、草薙剣がこの神宮に祀られるまでには、多くの出来事がありました。草薙剣は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、その尾から出てきた剣で、天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上され「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と名付けられました。天孫降臨のとき、天照大神より邇邇芸命(ににぎのみこと)に与えられ、神武天皇以降、宮中で継承されていましたが、崇神天皇の御代に笠縫邑に祀られ、崇神天皇の御代に倭姫命により伊勢神宮にお祀りされました。そして景行天皇の御代に東征に向かう日本武尊に与えられ、その剣により平定がなされ「草薙剣」と名付けられました。日本武尊が病で亡くなった際、草薙の剣を預かっていた妻・宮簀媛命が、草薙剣を祀る熱田神宮を建立しました。 その後、天智天皇の御代に盗まれ、幸い発見されてから皇居にお祀りされたものの、天武天皇の御代、天武天皇が病気になったとき、占いにて剣の祟りの病と判明、天武天皇の命により熱田神宮に奉還され、現在に至ります。 |
| ●日泰寺 お釈迦様の遺骨は、歴史上、死後一度だけ898年に北インドで発掘されました。日泰寺は、その仏骨がタイの国王より日本に寄贈される際、仏骨をお祀りするために、日本仏教の全宗派が協力して明治37年に建立したお寺です。宗派がなく、仏教全宗派のお寺というたいへん貴重なお寺です。たいへん素晴らしい波動を感じるところです。 |
| ※以下、日泰寺HPより 「釈尊」の実在が立証される。19世紀東洋史上の一大発見。 チュラロンコン国王像1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウイリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蝋石の壺を発見した。その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである」と記されてあった。これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、遺体を火葬に付し、遺骨を八つに分けてお祀りし、その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置したとある記載が事実であったことを証明するものである。当時19世紀の西欧の学者の間では、佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまいという見方が一般的であって、一部の学者にいたっては釈尊信仰を太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。そうした状況がこの発掘によって一変し、「釈尊」の実在が立証され、まことに19世紀東洋史上の一大発見となった。その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、釈尊の御遺骨についてはこれを佛教国であるタイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎はバンコクに於いてこれを見聞し、羨望にたえず、日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。 |
| ●東海の聖地のレポ:2017年11月11~12日 ※同行したスタッフのレポートです |
| 2017年の11月11日と12日は、東海地方(静岡・愛知)の聖地の中から精選した「ベスト聖地」を巡りました。まず11日は富士山本宮浅間大社や白糸の滝を巡った後に、久能山東照宮を参拝しました(富士山本宮浅間大社や白糸の滝については、富士山の聖地のご紹介の回のレポートをご覧下さい)。 |
| ◆久能山東照宮
久能山東照宮は、徳川家康を東照大神として祀る神社です。元和2年(1616年)4月17日家康は亡くなると遺言に従って、その日のうちに久能山に遺体が埋葬されました。二代将軍徳川秀忠は久能山に家康を祀る神社を造営することを命じ、最初の東照宮が建立されました。全国にある東照宮の大元です。 |
| 参道からの駿河湾。社殿は 国宝。日光東照宮にも優るほどに実に美しく鮮やか。家康の墓のエリア(神廟)は、非常に神聖な空間。聖地から大自然のパワーを感じ、神社の変遷や歴史を学び、程よい散策もありいい汗をかきました。素晴らしい一日でした。皆さまお疲れさまでした。さて、続く11月12日は、東海の西部にある小国神社、鳳来寺山、熱田神宮、日泰寺など、いずれも歴史が深く、名高き寺社を巡りました。 |
| ◆ 小国神社(おくにじんじゃ)
小国神社は、遠江国(とおとうみこく)の一宮で、古代の森といわれる格式高い荘厳なお社と広大な敷地(東京ドーム21個分)を誇ります。御祭神は大己貴命 。家康のように何度も立ち上がる、にちなんだ「立ち上がり石」。特に神社の横を流れる宮川の自然の雰囲気が素晴らしく必見です。 |
| ◆ 砥鹿神社(とがじんじゃ)奥宮
砥鹿神社は、古代より東海地方の人々の信仰を集めるお社です。奥宮は、海抜789メートルの本宮山(ほんぐうさん)と呼ばれる、神代より神の鎮まる霊山にお祀りされています。この山から流れ出るいくつもの渓流は、古来、貴重な水源として尊ばれてきました。こうして、山、水、岩、木といった自然をお祀りする古代信仰を肌で感じることができる場所です。山中には、磐座(いわくら)が鎮座。 |
| ◆ 鳳来寺山
680mと小峰ながら切り立った崖の岩肌や複雑な地形は、人を寄せ付けない空気感の漂う霊山で、山全体が、国の名勝・天然記念物に指定されています。鳳来寺山は、中央構造線上に位置する貴重な聖地の一つです。鳳来寺山。紅葉まつりも。徳川家康の生母が、ここで子授けを祈って山に籠もったところ、願いが叶って家康を授かったことから、徳川幕府より熱い恩顧を受けた鳳来寺山東照宮。名作 寅童子(おきあがりこぼし)。 飛鳥時代に、利修仙人が文武天皇の病気平癒祈願のために鳳来寺山を開山し、加持祈祷を行ったところ快癒したと伝わり、鳳来寺は病気快癒祈願・薬師信仰の寺として栄えました。 |
| ◆ 熱田神宮
熱田神宮の創建は古く景行天皇の御代で、ご祭神は熱田大神です。ご神体として、「三種の神器」のうちの「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」がお祀りされています。自然豊かな広大な境内(約6万坪、東京ドームが4~5個分入るほど)は「熱田の森」と呼ばれ、市民に親しまれています。 |
| ◆ 日泰寺
お釈迦様の遺骨は、歴史上、死後一度だけ898年に北インドで発掘されました。日泰寺は、その仏骨がタイの国王より日本に寄贈される際、仏骨をお祀りするために、日本仏教の全宗派が協力して明治37年に建立したお寺です。宗派がなく、仏教全宗派のお寺というたいへん貴重なお寺です。たいへん素晴らしい波動を感じるところです。 |
| 二日間、富士山周辺から東海地方へと一ノ宮などを巡りながら、その素晴らしいパワーを感じることができました。皆さん心身共にリフレッシュされたようです。これからも各地の聖地巡りは続きます。また皆さんとご一緒したいと思います。ご参加の皆さま、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。 |
| 【福井の聖地:雪国の名高い寺社】 | ||||||||||||||
| 「パワースポット・聖地ご紹介第23回/福井の聖地:雪国の名高い寺社」。 | ||||||||||||||
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お勧めのパワースポット・聖地の第22回は「福井の聖地」です。ここでは、古来の名高い福井の寺社・聖地をご紹介ます。まず、①文献からこれらの福井の寺社・聖地のご紹介し、その後に、②私たちが実際に、これらの福井の聖地を参拝した時のレポートをご紹介します。そして最後に、③福井の聖地を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクして、ご紹介します。 |
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| ●文献からの福井の寺社・聖地のご紹介 | ||||||||||||||
| ◆気比神宮(けひじんぐう) 気比神宮は、福井県敦賀市に鎮座する、北陸道総鎮守・越前國一之宮。敦賀は、朝鮮半島・中国からの玄関口、畿内への入口という要衝の地であることからも、気比神宮は重視された。 社殿建立は702年であるが、創祀は2000年以上前の神代に遡り、当初は現在の「土公(どこう)」の地で祭祀が行われたという。「土公」は、神宮の北東部にあり、気比大神が降臨した地とされ、気比神宮鎮座にかかわる聖地である。古代の祭祀の形態は、大きな岩や大木を中心とした山や森など自然を損なうことなく祭祀が行われた。この「土公」は、そのような古代の祭祀の形態を遺す地である。 御祭神は、7柱をお祀りしている。
主祭神の伊奢沙別命は、御食津(みけつ)大神(おおかみ)・気比大神とも称し、食物を司り、海上交通、農漁業、衣食住の生活全般を護り給う神として崇められている。 高さ約11mの大鳥居(重要文化財)は春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つ。 |
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| ◆仏性寺(黒谷観音) 807年に、平城天皇の夢のお告げによって京都黒谷から移転された。黒谷観音として有名でその十一面観音は33年に1度ご開帳される秘仏となっている。この十一面観音は、京都・清水寺の千手観音、奈良・橘寺の如意輪観と同じ霊木から作られたものとされる。裏山には整備された八十八カ所巡りがあり、石仏巡りができる。仏性寺は、深山幽谷で、道元禅師の詠んだ「山深き 御寺のうちにいるほどは われもしばしの 仏なりけり」を思わせるお寺。 |
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| ◆平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ) 平泉寺は717年に泰澄によって開かれた。ここにある御手洗池(平泉寺由来の池)で、白山の女神にお告げを受けて、泰澄は白山に登り、修行した。山岳信仰で有名な白山は、富士山、立山と並ぶ三霊山の一つで、平泉寺白山神社は、その白山に登拝する拠点として栄えた。ここには泰澄大師の御廟もある。最盛期には社堂四十八社三十六堂六千の僧坊があったという一大宗教都市であった。1084年に比叡山の末寺となり、僧兵集団として有名になり、8000人もの僧兵がいたという。しかし、1574年、一向一揆によって、全山焼失してしまった。その9年後に顕海(けんかい)という僧侶が平泉寺の復興にあたり、秀吉は平泉寺を保護する禁制を出した。その後、1868年、明治政府による神仏分離令によって、平泉寺から白山神社となった。白山平泉寺は、1574年の焼失で多くの史料をなくし、神仏分離で仏教的建物を失った。平成になってから、発掘調査がはじまり、石畳や石垣、僧坊後が発見され、その規模の大きさがわかってきた。これらの白山の自然・歴史・文化を美しい写真や映像で紹介する観光センター(まほろば館)もあり、その壮大さは曹洞宗大本山の永平寺に決して劣らない重要性を感じる。 |
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| ◆永平寺 1224年道元が開いた曹洞宗(禅宗)の大本山。杉の古木が林立するなか七堂伽藍が並んでいて、幽玄というにふさわしい雰囲気。禅の修行道場として今も200名ほどの僧侶が厳しい修行に明け暮れている。洗面、掃除、食事など、生活すべてが修行と位置づけられていて、作法に則って行われている。 曹洞宗の座禅は只管打坐(しかんたざ)(ただひたすら坐ること)の実践で、そのひたすら座る姿こそが仏であると道元は言う。道元は、幼児期に両親を亡くし、14歳のときに比叡山延暦寺に出家。天台の教えでは、本来人は生まれながら悟っているというのに、なぜ、修行する必要があるのか、という疑問を道元はもった。その疑問を当時の高僧たちに訪ねても、納得する答を得ることができず、その答を得るために、真の仏法を学ぶ必要があると考え、そのためには中国(当時は宋)に渡ることだと考え、宋に渡った。宋では、如浄禅師について修行し、その法灯を受け継ぎ帰国する。帰国後、京都で禅の道場を作ったが、比叡山からの迫害に合い、越前の地に永平寺を開いた。道元は、時の権力者に近づくことをたいへん嫌い、弟子にもそのことを強く戒めていた。 永平寺では「七堂伽藍(がらん)」を巡拝する。「七堂伽藍」とは、山門、仏殿、僧堂、庫院(くいん)(台所)、東司(とうす)(トイレ)、浴室、法堂(はっとう)のこと。また、承陽殿(じょうようでん)と呼ばれる道元の御廟には、道元の遺骨が安置されている。 |
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| ◆若狭彦神社(上社)・若狭姫神社(下社) この2つの神社合わせて若狭一宮。若狭彦神社は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)(山幸彦(やまさちひこ))がご祭神、若狭姫神社は豊玉姫命(とよためひめのみこと)(乙姫)をご祭神としている。この2柱の神は海幸彦・山幸彦の神話の神で、海幸彦・山幸彦の神話は浦島太郎の昔話の原型と考えられる。海幸彦・山幸彦は、天孫降臨した二ニギノミコトの子供で、海幸彦が兄で、山幸彦が弟。 簡単に神話を説明すると、弟の山幸彦が、兄の海幸彦から借りた釣針をなくしてしまい、海幸彦は怒って元の釣針を返せと言うが、釣針は見つからない。山幸彦は困って海岸にいるところへ、シオツチカミと名乗る老人が現れた。老人は、山幸彦から事の次第を聞くと、竹の籠で作った舟を山幸彦に与え、この舟で海に出て行けば綿津見の宮に着くから行くことをすすめる。山幸は舟に乗って海にでると、綿津見の宮に着き、歓待を受け、そこの姫である豊玉姫と結婚した。3年の月日が立ち、兄の釣針を持ち帰った、というもの。社伝では、二神(山幸彦と豊玉姫)は遠敷郡下根来村白石の里に現われたといい、714年に両神が現われた地に上社・若狭彦神社が創建された。715年に現在の地に遷座した。前の鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社がある(現在の若狭彦神社から車で10分ほどのところ)。下社・若狭姫神社は、721年に上社より分祀して創建された。若狭姫神社には、立派なご神木の千年杉がある。 |
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| ◆小浜(おばま)の寺院 小浜は、「海のある奈良」あるいは「小京都」と呼ばれる。奈良時代から朝廷に海の幸を納めていた地で、中国・朝鮮と奈良・京都を結ぶ玄関口であった小浜は、仏教文化が伝わった土地で、今でもお寺が130余りもある。小浜全体が、自然のなかにある落ち着いた雰囲気の町で、今回は小浜の八ヶ寺といわれるなかから、4つのお寺を選んで参拝・瞑想する。 |
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| ◆萬徳寺 高野山真言宗の寺院。1265年の記録には存在が記されている古刹。枯山水庭園は国指定の名勝。本尊の木造阿弥陀如来坐像は、檜のたいへん美しい仏像で、平安後期12世紀の作、像高141.5㎝、国指定重要文化財になっている。 |
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| ◆明通寺(みょうつうじ) 真言宗御室派の寺院。寺の略縁起によると、この山中に棡(ゆずり)の大木があり、その下に不思議な老居士が住んでいた。たまたま坂上田村麻呂が、ある夜、霊夢を感じ老居士の命ずるままに天下泰平、諸人安穏のため、806年、堂塔を創建し、老居士が棡の木を切って、薬師如来、降三世(ごうざんぜ)明王、深沙(じんじゃ)大将の三体を彫って安置したという。その三体は、国指定の重要文化財になっている。薬師如来は本尊。本堂と三重塔は国宝に指定されている。 |
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| ◆神宮寺
天台宗の寺院。714年、若狭彦・姫神社の神願寺として、白山を開いた泰澄の弟子の滑元により創建された。東大寺二月堂への『お水送り』が行われる寺として有名。鎌倉時代には、七堂伽藍二十五坊を要したが、豊臣時代に寺領を没収、さらに明治の廃仏毀釈によって衰退した。薬師如来座像が国指定の重要文化財である。
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| ◆妙楽寺
高野山真言宗の寺院。本尊の千手観音像を719年行基が彫り、空海が再興したと伝えられている。本尊は、24面を持つ珍しい木造千手観音菩薩立像。檜で、10~11世紀の作。本堂は、国指定の重要文化財で若狭における最古の建造物である。
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| ●福井聖地の参拝レポート:2016年2月 ※以下は同行したスタッフのレポートです。 |
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| 立春はすぎたとはいえ、まだ寒いこの頃、皆さまいかがお過ごしですか。さて、本日は北陸福井の聖地自然巡りに参りました。まずは福井県小浜市(若狭)へ。小京都と言われるくらい寺社が多く(130社あまり)、国宝級の美しい仏像も多数あり、じっくりまわってみたいところです。何より奈良を思わせる風情ある町の佇まいが心安らがせ素晴らしいと感じました。小雪ちらつく中、寺社を拝観させていただきました。 | ||||||||||||||
| 若狭彦神社 上社・下社の2社からなり、上社を「若狭彦神社」、下社を「若狭姫神社(わかさひめじんじゃ)」といいます。 |
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| 若狭姫神社 いわゆる龍宮城伝説の山幸彦と乙姫さまをそれぞれお祭りしています。神樹木・千年杉は見上げてパワーをいただくのだそうです。 |
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| 明通寺 坂上田村麻呂が創建の真言宗のお寺です。本堂と三重塔は国宝。ご本尊は薬師如来。広い境内はたいへん静かで落ち着きます。 |
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| 萬徳寺 高野山真言宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。天然記念物の大山モミジや名勝枯山水庭園が有名。左右には両界曼荼羅。お堂はどこも落ち着いていて、いつまでもいたくなります。小浜のひなびた風景が個人的にはとても好きです。 さて、続いて、敦賀市へ。 |
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| 越前国一宮の氣比神宮(けひじんぐう) 北陸道から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国への玄関口にあたる要衝であったため 「北陸道総鎮守」 と称されて特に重視された神社でした。 |
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| 金崎宮と金崎城跡 南北朝時代、後醍醐天皇の二人の皇子である尊良親王と恒良親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場で、両親王が祀られています。後に織田信長がこの地における戦で窮地から脱した場所。その際、秀吉や家康が大きな武功をあげ出世していくことになった重要な場所です。金崎宮の境内の大部分は金ヶ崎城の旧跡で、現在は花の名所として市民の憩いの場となっています。 |
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| さて、福井の聖地の2日目です。この日は、福井県永平寺周辺を巡りました。まずは、大野市の国生山佛性寺(黒谷観音)へ。夜から降り始めた雪が積もって、あたりは真っ白。雪にはまらないよう慎重に車を走らせます。観音さまもむしろを巻かれていました。 | ||||||||||||||
| 佛性寺は、平城天皇の夢のお告げで、京都黒谷から大野の黒谷に移転されました。本尊の秘仏・十一面観世音菩(黒谷観音)は、京都清水寺本尊の十一面千手観音、奈良橘寺の如意輪観音と同木で制作されたと言われています。こちらで「四国八十八か所巡り」ができるよう88体の仏像が安置されています。 奥深い幽谷の地。静かに瞑想したくなるところでした。 | ||||||||||||||
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◆ 平泉(へいせん)寺白山神社
室町時代に入ると一向一揆が起こり、平泉寺は焼亡。その後、秀吉の加護を得て再興されました。これら、平泉寺の歴史は、歴史探遊館 「まほろば」 で詳しく学べます。必見!この平泉寺は、福井県側からの白山登拝口ともなっています。参道。拝殿です。こちらが本殿です。雪よけでみえませんね。この深山幽谷の霊気と静けさは戸隠にも似ているように感じました。福井県出身の泰澄大師のお廟もありました。
雪のない季節の苔むした神秘的な様子はこちらを。http://heisenji.jp/gallery/1/ |
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| ◆ 永平寺 道元禅師が開山した曹洞宗の大本山(大本山は二つあり、そのひとつ)です。修行の疑問を解決するため中国に渡り禅の修行を持ち帰り、日本に広めました。当時はかゆをすすって修行し、数々の迫害にもあわれています。道元導師の修行の変遷はこちらを。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B
立派な七堂伽藍のいくつかをご紹介します。回廊は毎日のお掃除で美しく保たれています。法堂(はっとう)。日々のお勤めが行われる。承陽殿(道元導師の霊骨が安置)。雲水さんが生涯に二度しか通らない「山門」 を中から。多数の参拝者が訪れる環境で、修行を続けるのも修行なのでしょうが、雲水さんたちの修行が進みますように思念いたしました。こちらでは、やはり座って静かに瞑想したいですね。唐門前にて。 |
| 【秩父三社:秩父古来の霊地】 | |||||||||
| 「パワースポット・聖地ご紹介第24回①/秩父三社:秩父古来の霊地 」。 | |||||||||
| お勧めのパワースポット・聖地の第24回は「秩父三山」です。秩父の古来の名高い3つの神社をご紹介します。まず、①文献からこれらの秩父の寺社・聖地をご紹介し、その後に、②私たちが実際に、これらの秩父の寺社・聖地を参拝した時のレポートをご紹介します。そして最後に、③秩父三社を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクして、ご紹介します。 | |||||||||
| ●文献からの秩父三社のご紹介 | |||||||||
| 秩父神話の聖地・秩父三社と自然を巡る 埼玉県・秩父は、神話の昔から、独自の精神文化を培ってきた、聖地と自然に恵まれた緑豊かな地域です。古事記・日本書紀に記された英雄・日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征伝説に起源を持つ神社や、「秩父三十四所」といった観音霊場など、山々に囲まれた風土の中で、独特の神道・仏教文化が形成されてきました。 今回は、その中でも、秩父を代表する3つの神社――「秩父三社」を中心に巡っていきたいと思います。 |
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| ●宝登山(ほどさん)神社 秩父三社の一つ、宝登山神社。ふもとにある本殿と、ロープウェイで登れる山頂近くにある奥宮に参拝します。 |
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| ◎ご由緒 伝説によると、今から1900年以上の昔、第12代・景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の際に宝登山に登った際、山火事が発生し、進退窮まった際、どこからともなく大きな犬が現れ、火を消し止めて尊を無事に救いました。そして山犬たちは、尊一行を頂上まで案内すると姿を隠してしまいました。尊は、山の神がご眷属の山犬(オオカミ)を遣わし、自分たちを救ってくださったのだと悟り、山頂に神籬(ひもろぎ=臨時に神様を迎えるための依り代)を立て、尊の祖先にあたる神武天皇と、山の神である大山祇神(おおやまづみのかみ)、火の神である火産霊神(ほむすびのかみ)をお祀りしました。この「火を止めた」故事にちなんで、山の名が「火止山(ほどさん)」となり、火難・盗難除けに霊験あらたかとされてきました。後世、弘法大師が、宝珠が山上に翻るのを見て、宝が山に登ったことから「宝登山(ほどさん)」と改名されたということです。 ◎ご祭神
◎ご眷属(ごけんぞく) 宝登山神社のご眷属(神様のお使いのこと)は、日本武尊を助けた山犬とされ、大口真神(おおくちまがみ)と呼ばれています。宝登山の山頂の奥宮の前で、石像を見ることができます。大口真神への信仰は、後記の三峯神社でも行われ、「お犬さま」として江戸時代に信仰が広まりました。 ◎ご社殿 江戸時代~明治初期に作り替えられた本殿・幣殿・拝殿の三棟から成る権現造り。欄間には、「二十四孝」や出世を意味する「登竜門」など多くの彫刻が施されています。 ◎日本武尊みそぎの泉 本殿の御垣内にあり、日本武尊が宝登山に登る際に身を清めたと伝えられています。この泉は「玉の泉」とも称し、日照りの続く時や雨の降り続く時でも一定の水位を保ちながら湧いています。 ◎奥宮 宝登山の頂上(497.1m)に奥宮が祀られています。頂上からは秩父方面一帯を見渡すことができます。 近年では、宝登山神社は、ミシュラン・グリーン・ガイド・ジャポンで、埼玉県初の一つ星として紹介され、注目を集めました。 |
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| ●長瀞(ながとろ) 宝登山近くを流れる荒川がもたらした渓谷の自然美に彩られた景勝地です。 海の底から隆起した結晶片岩が浸食されて、畳を重ねたような形になったのが「岩畳(いわだたみ)」で、国の天然記念物に指定されています。地層の様子をうかがうこともできる、地学上も貴重なエリアです。 |
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| ●秩父神社 秩父三社の一つ、秩父神社は、その名の通り秩父を代表する神社で、秩父の国の総鎮守です。 ◎ご由緒 平安初期の典籍によれば、第10代・崇神天皇の御代、知知夫国(ちちぶのくに)の初代国造に任じられた知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、祖神である八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)をお祀りしたことに始まるとされています。 ◎ご祭神
◎ご社殿 現在の社殿は徳川家康公によって寄進されたもので、本殿・幣殿・拝殿の三棟から成る権現造り。埼玉県の重要文化財に指定されています。極彩色の彫刻群に覆われた豪華な造りとなっており、彫刻群の中でも特に知られるのが「お元気三猿」。徳川家康公を祀る日光東照宮では「見ざる、言わざる、聞かざる」とされる三猿も、この秩父神社では「よく見て、よく聞いて、よく話す」元気な姿で彫刻されています。 |
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| ●三峯(みつみね)神社 秩父三社の一つ、三峯神社は、良い「気」が集まるパワースポットとして知られ、企業家や著名人、芸能人、格闘家なども多数参拝に訪れています。 |
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| ◎ご由緒 景行天皇の御子・日本武尊が、この地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本の国をお生みになったことを偲ばれ、お宮を造営して二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られたのが、この神社の始まりとされています。その後、当山が三山美しく連なることをお聞きになった天皇により、「三峯山」と名付けられ、神社には「三峯宮」の称号が与えられたということです。 |
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◎ご祭神
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| ◎ご社殿 現存する本殿は1661年、拝殿は1800年に建立されました。全体に漆が塗られ、色鮮やかな多数の彫刻を見ることができます。また、本殿・拝殿の横には、三峯神社にゆかりのある全国の神々を奉った23の摂社と末社が並んでいます。 |
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| ◎歴史 国中に悪病が流行した聖武天皇の時代には、病気平癒を祈って、勅使が遣わされ、大明神の称号が奉られました。文武天皇の時代には、修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)が、伊豆から三峯山に来訪して修行したとも伝えられ、この頃から三峯山に修験道が始まったと考えられています(後に天台聖護院派の修験道場として隆盛)。さらに淳和天皇の時代には、勅命によって、弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建てて、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂とするなど、徐々に仏教色を増し、神仏混淆の神社となっていきました(明治の神仏分離により寺院を廃して、三峯神社と改称)。江戸時代には、徳川将軍家をはじめ武家の崇敬もありました。 現在では、「関東屈指のパワースポット」として、人気を集めています。 |
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| ●秩父三社参拝レポート:2018年5月6日 ※以下は同行したスタッフのレポートです |
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| 昨日2018年5月6日は埼玉県の秩父を代表する秩父三社の聖地巡りに参りました。 古事記・日本書紀に記された英雄・日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征伝説に起源を持つ神社や観音霊場など、山々に囲まれた風土の中で、独特の神道・仏教文化が形成されてきました。まずは長瀞(ながとろ)の岩畳へ。荒川がもたらした渓谷の自然美に彩られた景勝地です。 海の底から隆起した結晶片岩が浸食されて、畳を重ねたような形になったのが岩畳(いわだたみ)で、国の天然記念物に指定されています。 地層の様子をうかがうこともできる、地学上も貴重なエリアで、ポットホール(水の流れにより石が岩を丸くくり貫いたような形)や 赤い岩などもありました。 |
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◆宝登山(ほどさん)神社
弘法大師が、宝珠が山上に翻るのを見て、宝が山に登ったことから「宝登山(ほどさん)」呼ばれるようになったそうです。多くの彫刻が施され大変美しい。木々の緑が眩しい。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が宝登山に登る際に身を清めたみそぎの泉。稲荷社のあたりはとても清々しかったです。そして、ロープウェイで登り、奥宮のある山頂に向かいました。宝登山神社のご眷属(神様のお使いのこと)は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を助けた山犬(狼)とされ、奥宮の前で見ることができます。山頂からは秩父方面一帯を見渡すことができます。中央は武甲山です。 |
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| ◆秩父神社
その名の通り秩父を代表する神社で、秩父の国の総鎮守です。 http://www.chichibu-jinja.or.jp/ 社殿は徳川家康公によって寄進されたもので、重要文化財に指定されています。極彩色の彫刻群に覆われた豪華な造りとなっており、特に知られるのが「お元気三猿」。日光東照宮では「見ざる、言わざる、聞かざる」とされる三猿も、秩父神社では「よく見て、よく聞いて、よく話す」元気な姿で彫刻されています。人生100年・高齢化社会を笑顔で元気で長生きするためのご利益があるとのことで、直近のセミナーで詳しく解説されてきた内容とぴったりリンクしているではないですか !(^^)! |
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| 「パワースポット・聖地ご紹介第24回その2/秩父三社:秩父古来の霊地」。 | |||||||||
| ◆三峯神社
秩父三社の一つで、良い「気」が集まるパワースポットとして知られ、企業家や著名人、芸能人、なども多数参拝に訪れ、関東屈指として人気を集めています。
http://www.mitsuminejinja.or.jp/saijin/index.htm
その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、この地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本の国をお生みになったことを偲ばれ、お宮を造営してこの国が永遠に平和であることを祈られたのが始まりとされています。三つの峰々がそびえています。
役小角(えんのおずぬ)によって三峯山に修験道がもたらされたと言われています。その後、弘法大師が十一面観音を刻み、三峯宮の脇に本堂を建てて天下泰平・国家安穏を祈ったということです。三つ鳥居です。山犬(狼)の狛犬。こちらも狼。一帯が独特の神聖さを漂わせ、見るものを圧倒するご神木と社殿。氣のパワーをいただく。全体に漆が塗られ、東照宮のように色鮮やかな多数の彫刻を見ることができます。また、本殿・拝殿の横には、三峯神社にゆかりのある全国の神々を奉った23の摂社と末社が並んでいます。そのから少し歩くと展望地。ご眷属(お使い神:山犬)を祭る遠宮。遥拝所。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の像。秩父三社と長瀞。どこも自然のパワーと芸術、信仰の息づかいが感じられる素晴らしい聖地でした。大自然の氣をいただきリフレッシュさせていただきました。ご参加の皆さまお疲れさまでした。ありがとうございました。 |
(私論.私見)