| 上祐史浩のパワ―スポット論 |
(最新見直し2010.05.19日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「上祐史浩のパワ―スポット論」を確認する。 2010.05.22日 れんだいこ拝 |
| 【上高地】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第1回/上高地 この世の聖地・日本のスイス」(2019年の9月14日から16日)参照。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第1回は「上高地」。①上高地文献、②上高地レポート、③上高地を含めたパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事を紹介します。 |
| ●文献からの上高地のご紹介 上高地は長野県西部に位置し、標高約1500mの場所にある日本有数の山岳景勝地で、「この世の聖地」、「日本のスイス」ともうたわれています。穂高連峰を仰ぎ見るその場所は、中部山岳国立公園の一部として、国の文化財(特別名勝・特別天然記念物)に指定されています。雄大な山々と透明な清流、豊かな緑と澄んだ空気に包まれた、まさに自然の宝庫ともいえ、その純粋な自然の美しさは他に類を見ない。 上高地とは、もともと「神が住む所」という意味で、「神垣内」、「神河内」と記されていたといわれ、「神が降りた地」として「神降地」という文字が当てられることもある。太古の昔、海の神である綿津見神(わたつみのかみ)の子、穂高見神(ほたかみのかみ/初代・神武天皇の叔父神にあたる。古事記では宇都志日金拆命うつしひかなさくのみこと)が、上高地から望むことのできる奥穂高岳(3190m。富士山・北岳に次いで日本で3番目の高さ)に降臨し、この地方を開拓し、祀られたことに由来しており、神々を祀るに最も相応しい神聖な浄地とされている。 |
| ●梓川と河童橋 上高地の中心を貫流する梓川は、穂高岳をはじめとする万年雪を湛える3000m級の日本アルプスの山々から流れ出た新鮮な雪解け水が、その流れをつくっている。梓川・穂高連峰・河童橋は上高地を象徴する光景の一つで、芥川龍之介が小説『河童』の中で、上高地と河童橋を登場させている。 |
| ●穂高神社と明神池 神秘的な雰囲気をたたえた明神池のほとりに鎮座するのが穂高神社の奥宮。穂高神社は、上記の綿津見神、穂高見神、そして天孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)を祀っている。平安時代の記録にも現れている古い神社である。 古代、北九州に栄え、海運を司り高い文化を誇った安曇族(あづみぞく)が豊かな資源を求めて安曇野一帯に移住し、穂高神社を創建したと伝えられている(なお、「あづみ」は、海を意味する「わたつみ」が訛ったものとされている)。 その「本宮(里宮)」は安曇野市穂高にあり、「奥宮」がこの上高地に、そして穂高見神が降臨されたという奥穂高岳の山頂に「嶺宮」が鎮座している。そこから、穂高神社は「日本アルプスの総鎮守」の通称がある。境内にある明神池は神域。池の名称は穂高大明神(穂高見神のこと)に由来している。背後の明神岳(2931m)からの伏流水が常に湧き出ているため高い透明度を誇っている。 |
| ●上高地温泉 上高地温泉は梓川の右に位置する温泉で、活火山である焼岳を源泉としている、源泉かけ流しの温泉。 |
| ●上高地訪問レポート:2019年9月14~15日 (以下は同行したスタッフのレポートです) 上高地は日本のスイスともいわれる有数の山岳景勝地。上高地河童橋。快晴の日は、真っ青な空と緑美しい穂高の山々と梓川がえも言えぬ美しさをみせる。大正池。この色!!焼岳。「この世の聖地 上高地」。上高地とは「神が住む所」という意味、その通り。清水橋の流れの美しさ。明神池を回って河童橋までの散策コース。神秘的な雰囲気の明神池に鎮座するのが穂高神社奥宮。明神岳からの伏流水が常に湧き出て小川に流れこんでいる。このあたりは明神岳のパワーなのか独特の雰囲気をたたえている。 |
| ●15日二日目 大正池散策。途中にある「田代湿原」。朝の大正池は幻想的。上高地から奥穂高岳の途中にある「岳沢」まで登拝。涼しい。苔が生き生き。植物好きにはたまらない!!いよいよ岳沢に到着!一気に日本第3位の高峰の奥穂高岳の山頂までの視界が開ける。岳沢からの奥穂高連峰。西穂高連峰。向こうに乗鞍岳、下は河童橋付近。正に雄大な景色に心が空っぽになって広がる。岳沢に別れを告げ明日は白馬に参る。 |
| ◎以上でご紹介した場所は、以下の記事でもご紹介していますので、あわせてご覧ください。 ・上高地・乗鞍高原、乗鞍岳の聖地巡り①(2018年) ・上高地・乗鞍高原、乗鞍岳の聖地巡り②(2018年) ・上高地聖地巡り 1(2014年) ・上高地聖地巡り 2(2014年) ・上高地聖地巡り 3(2014年) ・上高地聖地巡り 4(2014年) |
| 【諏訪:神秘の湖と聖木と大社】 | ||||||
| 「パワースポット・聖地ご紹介第2回①/諏訪:神秘の湖と聖木と大社」(2018年10月6日)。 | ||||||
| お勧めのパワースポット・聖地の第2回は「諏訪」。長野県の諏訪は、縄文時代からの原初的な信仰形態を今にとどめる古色ゆたかな聖地の一つでもある。①諏訪に関する文献、②諏訪レポート、③諏訪を含めたパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事。 | ||||||
| ●文献からの諏訪の自然や寺社のご紹介 | ||||||
| ●諏訪の特徴 諏訪は、地理的に日本の中心のため「日本のへそ」とも言われている。言霊では、「ス」が中心、「ワ」が輪で、「中心の輪」という意味があり輪・曼荼羅・諏訪湖が重なる。かつて天武天皇も、長野を日本の中心と認識し、長野に第二の都を造ろうとしていたといわれている。天武天皇が信じていた道教思想によれば、国土の中央は天の中央に通じるとされ(天地同根説)、天界へ登るためには国土の中央に都を造る必要があったからだという。諏訪地方を含む中部高地一帯は、縄文時代には最大の人口を持ち、諏訪湖には諏訪明神という龍神や水の神の信仰など、多重・多様な信仰がある。諏訪湖近くに四社からなる諏訪大社は、本来は基本的に拝殿しかなく、山や木や巨石などをご神体とするアニミズム的古代信仰と、古事記の神の両方をお祀りし、古層には、ミシャグチ神(みさく神)という縄文時代の精霊といわれる信仰も併せ持つ。 |
||||||
| ●諏訪大社とは 諏訪大社は、別々の場所にある4つの社から成る珍しい神社です。大きな特徴として、原初の祭祀形態を色濃く残す日本最古の神社の一つということがあります。信濃國の一之宮であり、全国各地にある諏訪神社の総本社です。御祭神は、公式には建御名方神(たけみなかたのかみ)(出雲で天孫(てんそん)〈天照大神の孫に当たる神で、天皇家の祖先神〉に国譲りをすることに反対して諏訪に流れてきたとされる神:大国主命(おおくにぬしのみこと)の御子神)と、その妃神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)とされていますが、その原初の信仰は、縄文時代にも遡るミシャグチ神という精霊だといわれています。 諏訪大社の4つの社とは、①上社 本宮(ほんみや)、②上社 前宮、③下社 春宮、④下社 秋宮です。日本において、これほど大きな4つの大社が接近して一社を成しているのは珍しく、伊勢神宮と諏訪大社のみに見られる形態であることも興味深い特徴です(伊勢神宮の場合、内宮(ないくう)は本殿と荒祭宮(あらまつりのみや)、外宮(げくう)は本殿と多賀宮(たかのみや)から成る)。 |
||||||
| ◎7年に一度の御柱祭 諏訪大社は、社殿の四隅に御柱(おんばしら)という柱が建てられていることで知られていますが、この柱の建て替え等を行うお祭りが、御柱祭(おんばしらさい)で、7年に一度行われます。直近では、昨年(2022年)4~5月にかけて、その建て替えが行われたばかりです。祭りの内容については、同社のHPに、以下の通り説明されています。 「御柱祭(おんばしらさい)は7年目毎、寅と申の年に行われます。正式名称は「式年造営御柱大祭」といい宝殿の造り替え、また社殿の四隅に「御柱」と呼ばれる樹齢200年程の樅(もみ)の巨木を曳建てる諏訪大社では最大の神事です。勇壮さと熱狂的ぶりで、天下の大祭としても全国に知られている御柱祭は、古く、804年桓武天皇の御代から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ盛大に行われる様になり、現在でも諏訪地方の氏子20万人以上と訪れる親戚、観光客がこぞって参加し、熱中するお祭です。御柱祭は上社、下社それぞれに山から直径約1m、長さ約17m、重さ10tにもなる巨木を8本切り出し、上社は約20km、下社は約12kmの街道を、木遣りに合わせて人力のみで曳き、各お宮の四隅に建てるものです」。 |
||||||
| ●諏訪大社 上社 本宮(ほんみや) 上社本宮は、原初信仰においては、守屋山を御神体とするために、本殿はなく守屋山を仰ぐ拝殿しかないとされています(ただし、原初信仰よりも新しい信仰では、守屋山を御神体としない見解もあり、ここに先史時代からの長い歴史を誇る諏訪信仰の多重性・重層性が見てとれます)。古代のアニミズム的信仰形態が、現代においても保たれている珍しい社です。境内には、諏訪七石と呼ばれる磐座(聖なる岩)のうちのいくつかがあり、特に拝殿のすぐ上にある「硯石(すずりいし)」は神が降りてくる神聖な石とされてきました。御沓石(おくついし)という磐座もあります。 |
||||||
| ●諏訪大社 上社 前宮 諏訪大社の4つの宮の中でも、この上社前宮は、諏訪大神が最初に居を構えた地といわれています。諏訪信仰発祥の地とされ、古来、祭祀の中心地でした。上社前宮付近で、ちょうど中央構造線とフォッサマグナが交差しており、その交点から湧き出るとされる「水眼(すいが)の清流」と呼ばれる清流は、古来、精進潔斎を行い、身を清める聖水として祭祀に使われてきたそうです。現在は撤去されているのですが、前宮の古い立看板には、以下の記述がありました。
ミシャグチ(ミシャグジ)神とは、謎の神で、さまざまな説があります。まず、シャクチは「赤蛇(しゃくじ)」を意味し、ご神体が蛇であることに由来するとの説もあります。上社では、地面に大穴を掘って土室をつくり、ご神体の「蛇」(藁製)ともども大祝(おおほうり)などの神官が冬場の2カ月余にわたって御室(みむろ)にこもる神事が行われていました。陰陽の理に基づき、おとろえた祭神の神威快復をはかったものということです。上社にはその御室の址があります。 また、「胎児の神」と解釈されることもありますが、仏である宇宙が、如来の胎児(如来蔵・仏性を有する)であるすべての衆生を慈悲深く育んでいるとする、仏教の胎蔵界マンダラ(後述します)の思想を思い起こさせます。 |
||||||
| ●峯の湛(みねのたたえ)(諏訪七木のひとつ) 前宮から奥山に入ると存在する、聖なる諏訪七木のうち、ただ一つ現存するイヌザクラの巨木です。古来、重要な祭祀の場でした。 |
||||||
| ●小袋石(おふくろいし) 「諏訪七石」のひとつである小袋石は、まさに何の社屋もない巨大な磐座だけがある自然の秘境です。古くからの御神石が、木が茂る小山の中にひっそりとあります。古代、諏訪大社の最高神官・大祝(おおほうり)が即位されるとき、この石の前で即位報告が行われたということからも重要な聖地だったことがうかがわれます。別名「船つなぎ石」ともいわれ、太古、諏訪湖の水がここまであり、船をつないだと言い伝えられています。この場所もたいへん瞑想に適した場所です。 |
||||||
| ●御頭御社宮司総社(おんとうみしゃぐじそうじゃ) 縄文時代から諏訪において祀られていた土着の神・ミシャグチ神を祀る社です。この社は、優しく柔らかい雰囲気のご神木がある秘境の聖地です。また、ミシャグチとは、何かを生み出す力、生命力そのものを意味すると解釈されることがありますが、この場所に豊かに優しく枝を広げるご聖木は、緑の女神・グリーンターラのようなイメージでもあり、生み出す力=女性原理の女神のイメージとも重なるところがあります。そして、「湛(たた)え」という木に降りてくる精霊ともいわれているため、この木にミシャグチ神が降りてくるとも考えられるそうです。 |
||||||
| ●神宮寺跡・法華寺 「神宮寺」は、諏訪大社上社および下社と一体の形で建立された仏教寺院などの総称です。それぞれを「上神宮寺」「下神宮寺」ともいいます。明治の廃仏毀釈で破壊されてしまいましたが、上社の神宮寺跡には、普賢堂、大規模な五重塔、仁王門などの跡地が保存されています。神宮寺の別院の法華寺は、破壊を免れ、現在も諏訪大社上社本宮に隣接して存続しています。社伝では、空海創建と伝わっています。諏訪の誇る神秘性の根源である「歴史に消えた一大仏教センター」の跡地ということもできます。 |
||||||
| ◎諏訪湖と神仏習合 現在の諏訪は、諏訪大社を中心とした信仰構造となっていますが、明治の廃仏毀釈前の昔は、諏訪湖を「大日如来=太陽の仏の胎蔵」と見る思想(胎蔵界マンダラ)の神仏習合の聖地だったと伝えられています。胎蔵界マンダラの中心には、「中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)」と呼ばれる、真ん中に大日如来、その東西南北に4つの如来、四隅に4つの菩薩が配置されている、8つの葉の描かれた図があります(下図参照)。 |
||||||
神仏習合には、「仏」が「神」の形をとって仮に現れた(=権現)とする考え方があります。諏訪の神の本地仏は、以下とされています。
そして、大日如来の位置に諏訪湖を当てはめると、東南の方角(上社)に普賢菩薩が、西北の方角(下社)に観音菩薩がぴったりと一致します。仏教学者の宮坂宥勝氏によると、諏訪の地形に精通した密教家が、諏訪湖を大日如来に見立てて配置したと考えられるそうです(『諏訪人と風土』信濃毎日新聞社編集局編)。 このように、諏訪には、廃仏毀釈前までは、諏訪大社本宮と一体化した「神宮寺」を拠点とした、縄文時代からの精霊と伝わるミシャグチ信仰と真言密教が融合した、神仏習合の強力な神秘的信仰が存在していたのです。これらは、ひかりの輪の思想とも一致点があります。大日如来=太陽・一元思想、ミシャグチ神=クンダリニー・赤い蛇・龍。 |
||||||
| ●諏訪湖 諏訪湖は、水面標高759m、湖周15.9km、面積13.3平方kmの、長野県で最大の湖です。諏訪湖から八ヶ岳一帯は、縄文期の遺跡が最も密集しているエリアであることから、縄文人が全国でも最も多く集まって居住していたのではないかと見られています。縄文期の諏訪湖は、水面標高が今より高く、800m程だったと推測されています。今は湖畔から離れたところに位置する諏訪大社の四社も、かつては、いずれも湖に接していたといいます。諏訪大社(下社)の祭「お舟祭」は、現在では船の形をした車(山車)で春宮と秋宮の間を行き来していますが、これは、もともと舟で湖上を行き来していたことの名残といわれています。また、諏訪湖が全面結氷した時、収縮と膨張の繰り返しにより氷が割れ山脈のように連なる自然現象「御神渡り」(おみわたり)で知られています。この御神渡りは、諏訪大社上社の男神が下社の女神のもとへ通った道筋とされてきました。このように諏訪湖は、古代人の生活や信仰と極めて深い関係を持ってきた湖です。 |
||||||
| ◎《参考》諏訪の信仰について 以上のことから、諏訪の信仰は、ミシャグチ神、建(たけ)御(み)名(な)方(かた)神(のかみ)、龍神信仰、陰陽循環の思想などが複雑に入り組んでいますが、おおよそ以下のようにまとめることができます(諸説ありますが、現在の通説)。 (1)諏訪大社の神は、公式には建御名方神だが、そもそもの土着の神はミシャグチ神である。ミシャグチ神は、縄文時代の昔から祀られている、木や笹や石や、大祝と呼ばれる生き神の人間(現人神)に降りてくる精霊である。諏訪の先住民族は、洩矢神を長(始祖)とする守矢一族であり、この一族の神がミシャグチ神である。 (2)そして、この先住民族である守矢氏に対して、外部から侵入してきたのが、建御名方神である。古事記によると建御名方神は、日本の国土を開いた大国主神の国譲りの神話の中で、大国主神の次男として登場する。天照大神によって高天原から遣わされた建御雷神(たけみかづちのかみ)は、大国主神に国譲りを迫り承諾となった。しかし、建御名方神はそれに逆らい、建御雷神と力比べをしたが、投げられて負けてしまい、諏訪湖まで逃げて、そこに留まった。しかし、諏訪には洩矢神を長とする先住民族がいたため、建御名方神と戦い、守矢一族が敗れた。 (3)守矢一族は、建御名方命との戦いには負けたが、建御名方神(諏訪神) は、土着勢力を抹殺せず、守矢一族を筆頭神官(神長官(じんちょうかん))に据え、諏訪の祭祀や政治の実権をゆだねた。殺しあうより融合し、協力して新しい体制を作った。守矢一族・洩矢神は、諏訪国を譲ることで逆に、諏訪における確固たる地位を得た。諏訪の信仰は、諏訪大神を体現する「大祝」という生き神の人間(建御名方の系統)と、諏訪神の祭祀の実権を握っていた守矢一族との関わりによって支えられてきた。 (4)なぜ、諏訪神は、守矢一族の洩矢神を抹殺せず重用したのかというと、それは、洩矢神が「縄文の自然神」である、ミシャグチ神を束ねていた神だったからと考えられる。 (5)また、建御名方神は、古くから信仰されてきた諏訪湖の水の神、タケ(尊称)+ミナカタ(水潟 ※潟=諏訪湖のこと)とも考えられていて、雨や風を司る龍神信仰と合わさり、農業の守護神として信仰されてきた。 (6)そのほかに、諏訪明神の信仰がある。諏訪明神は、水の神、蛇・龍の神で、甲賀三郎伝説が残されている。甲賀三郎は、ひかりの輪の小諸施設近くの真楽寺(長野県御代田町)の龍神が祀られる池から龍の姿となって、諏訪湖にやって来て、のちに諏訪明神として祀られるようになったという。 |
||||||
| ●諏訪訪問レポート:2018年10月6日 (※同行したスタッフのレポートです) 爽やかな季節になってまいりましたね。先日2018年10月6日は、諏訪湖周辺の聖地巡りに行ってまいりました。古代信仰である、山や石、木に神として大切にしてきた日本人の精神性を感じる場所がたくさんあります。当日は早朝に出発。途中高速の一ノ宮辺りで綺麗な二重の虹が現れました。素晴らしく鮮やかで見事でした。 諏訪に着いたら、まずは現地の「諏訪博物館」で諏訪の歴史や文化を学びました。そして、当地の名高い「諏訪大社」の「上社本宮」を参拝。多くの諏訪神社の中の総本社です!4本の御柱の 一の柱。諏訪大社は守屋山をご神体とするために本殿はなく、山を仰ぐ拝殿しかありません。古代のアニミズム的信仰形態が保たれている社といえます。また、境内には、諏訪七石と呼ばれる磐座(イワクラ・聖なる岩)があり、拝殿のすぐ上にある硯石は神が降りる神聖な石とされています。そして、もう一つのご神石が「沓石(くついし)」です。近くまで行くと神聖なエネルギーを感じることが出来ます! さて、諏訪大社上社本宮の後は、御頭ミシャグチ総社に参拝しました。ここは、縄文時代ともいわれる古来より諏訪において祀られていた土着の神・ミシャグチ神を祀る社。ミシャグチは「蛇」を意味し、ご神体が蛇であることに由来するとの説があります。 廃仏毀釈前までは、諏訪大社本宮と一体化した「神宮寺」を拠点とした、縄文時代からの精霊と伝わるミシャグチ信仰と真言密教が融合した、神仏習合の神秘的信仰が存在していました。 ひかりの輪の思想とも一致点があります。大日如来は太陽の仏様であるとともに、世界の万物が根元仏の大日如来の現れと見る一元思想の仏様です。さらに「みしゃぐち」は赤い蛇の意味があり、ヨーガで赤い蛇とも解釈されるクンダリニー信仰のシャクティ神と、意味もその音もよく似ています。そして、この神社の中でなんとも素晴らしいのは、その非常に優しく柔らかい波動をもったご神木です。とても素晴らしい波動を発しています。ここで静かに瞑想してみました。ご神木のかやの木には実がなってたくさんの種が落ちていました。 次に、諏訪大社の「上社前宮」を参拝しました。この上社前宮は、諏訪大神が最初に居を構えた地といわれています。諏訪信仰発祥の地とされ、古来、祭祀の中心地でした。また、上社前宮付近で、ちょうど中央構造線とフォッサマグナが交差しており、その交点から水が湧き出ているそうです。「水眼(すいが)の清流」と呼ばれる清流では、古来、精進潔斎を行い身を清める聖水として祭祀に使われてきました。まさにパワースポットです!上社前宮の本殿。上社前宮の御柱。水眼の清流です。次に、小袋石(おふくろいし)を訪問しました。これは大変な巨石ですが、諏訪七石(諏訪のご神石)の一つとされます。ここは小山の奥にある静かな場所にあり、神聖な波動を放つ古代の重要な祭祀の場所だとされています。そして、今なお諏訪七石として大切にお祀りされている神聖なイワクラです。ところで、途中で、「赤い蛇」とのいわれもあるミシャグチとシンクロしたかのように、小さな綺麗な赤い蛇が現れて皆びっくり!そして小袋石に到着。巨石の前はとても静かで落ち着く空間です。 次は、諏訪仏教の発祥地の真言宗の寺院である仏法紹隆寺を参拝。 ご本尊として、空海作の大日如来、諏訪大社上社の神宮寺(上神宮寺)にあった普賢菩薩像(諏訪大明神の本地仏〈神の元の姿の仏〉とされる)・大日如来が祀られています。ご住職さまが丁寧にお堂やお庭の説明をしてくださり、諏訪の廃仏毀釈を経た歴史がよくわかりました。こちらのお寺では破壊された仏像を丁寧に修復してお祀りされていらっしゃり、そのお心に感動いたしました。 |
| 【諏訪:神秘の湖と聖木と大社②】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第2回② /諏訪:神秘の湖と聖木と大社」。 お勧めのパワースポット・聖地の第2回は「諏訪」です。今回は、諏訪のご紹介の【後半】にあたります。 |
| 仏法紹隆寺を後にした私たちは、下諏訪にある諏訪大社の下社・春宮に参拝しました。この諏訪大社の下社春宮は上社の神体山に対し、下社は御神木をご神体とし、古代祭祀の形式を今に残しています。春宮では杉の木をご神木としています。
そして、境内から歩いて数分の場所に有名な「万治(まんじ)の石仏」があります。石仏は阿弥陀如来とされ、高さ2mほどの半球状の自然石に頭が載ったユニークな石仏です。そして「よろずおさまりますように」と念じながら周ると良いとされています。この近くには気持ちの良い清流と河原があります。両側を川が流れて浮島のような形の場所で、私たちは禊をして瞑想などして過ごしました。川の流れからか、気の流れがよく、いつまでもいたくなるような場所でした。 最後に、諏訪の自然のシンボル「諏訪湖」を訪問しました! 日ごと木々の紅葉が進んで美しい湖面と綺麗なコントラストを見せていました。夕陽を受けながら湖畔を歩きました。そして、本日の解散直前に、またもや「鮮やかな虹が出ました。最後は、諏訪の自然の恩恵の下諏訪温泉で疲れを癒しました。今日は良く巡り歩き学びました。神秘的な生きた聖地諏訪を感じました。ご参加の皆さまお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。 |
| 【戸隠:霊気の山と古来の寺社】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第3回/戸隠:霊気の山と古来の寺社 」。 |
| 長野県・戸隠は、その雄大な戸隠山を中心に、自然信仰、神話の伝承、戸隠修験、観音信仰などの多様な信仰の折り重なる、古くからの神仏習合の聖地です。そこでまず、①戸隠に関する文献からそのご紹介をし、そのあとに、②2018年8月16日、私たちが実際に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③ひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介します。 |
| ●文献からの戸隠の自然や聖地のご紹介
|
| ◆戸隠神社 奥社 戸隠は、なんと言っても、奥社が最高の聖地と思われます。大木の杉並木の参道の霊気は、これ以上の濃密な霊気の場所があるかと思われるほど濃密で、心身が元気になると評判です。 戸隠神社の社伝によると、戸隠の名は、古事記、日本書紀にある天の岩戸神話に由来します。天照大神が、弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴を怒り哀しみ、天の岩屋にお隠れになり、世界が暗く災いに満ちた時、天の岩戸をお開きになり、その岩戸を放り投げた天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を、戸隠山の麓に奉斎したことが戸隠神社の起こりだと伝えられています。その岩戸は、日本のだいたい真ん中に落ちたといわれ、その岩戸が「戸隠山と伝わります。 |
| ◆水の神・九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ) 多くの水源地の山がそうであるように、戸隠山の奥社のもう一つの社「九頭龍社」には、天の岩戸神話が戸隠に習合される以前の原信仰である九頭龍大神がお祀りされています。竜神は、命の源を司る水の神であり、降雨の神であり、治水の神であり、農業の神であり、九頭龍大神は、戸隠の地主神として信仰され、人々はその恵みに感謝し、五穀豊穣を祈ってきました。もともとは戸隠の険しい山容が、九つの頭を持つ龍のように見えたことからその信仰が起こったともいわれています。 |
| ◎戸隠と仏教・修験道 戸隠は、修験道の開祖・役行者の弟子である学問行者が、戸隠で、観音菩薩を感得した後に、戸隠山を山岳仏教の聖地として開いたと伝わります。鎌倉時代には、神仏習合の「顕光寺」として全国にその名を知られ、修験道場として、比叡山、高野山に匹敵する一大霊場に数えられるほどの信仰を集め、その三つの霊場は「三千坊三山」と呼ばれるほどだったそうです。浄土真宗の開祖である親鸞聖人も戸隠で修行したと伝わります。明治時代の廃仏毀釈運動により、顕光寺は寺を分離して戸隠神社となりましたが、奥社内には、多くの仏教遺跡が残され、その痕跡をうかがい知ることができます。 |
| ◆宝篋印塔 奥社の参道から少し脇の奥まったところに、「宝篋印塔」という仏塔が祀られた広場がある。ここは観音菩薩が祀られる霊場で、神聖な雰囲気がある。近くには御神水も流れ、大きな巨木のある水と森の聖地。お寺だったときの観音堂の跡地で、鎌倉時代の高僧・法燈国師(ほっとうこくし)の母の供養塔が建てられている(国師は母が観音堂に祈願し授かった子)。 |
| ◆戸隠神社 中社 ご祭神は、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)。素戔嗚尊の度重なる非行に天照大神が天岩戸にお隠れになった時、岩戸神楽(太々神楽)を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったという神。学業成就・商売繁盛・開運・厄除・家内安全に御神徳がある。境内には、パワースポットとして評判の滝や、樹齢700年を超えるご神木、樹齢800年を超える三本杉がある。 |
| ◆戸隠神社 宝光社 ご祭神は、天表春命(あめのうわはるのみこと)。圧倒されるような杉の古木と石段は270段。社伝は、神仏習合時代の面影を残す荘厳さをたたえている。ご祭神は中社祭神の御子神様で、開拓学問技芸裁縫の神・安産の神・女性や子供の守り神として御神徳がある。 |
| ●戸隠訪問レポート:2018年8月16日 ※以下は同行したスタッフのレポートです |
| 長野三大霊場のうちの戸隠と善光寺の聖地巡り。戸隠は修験道の聖地として大変栄えていた場所で、その後、長い間廃れて今は僅かな当時の足跡が残るだけとなっている。十年ほど前から、パワースポットブームで再び息を吹き返し、人気の場所となっている。早朝に出発し関越道の嵐山辺りで雨の中、立ち上がるような虹が見えた。二重のアーチの虹。さて、戸隠最高の聖地・奥社への参拝から。鳥居の向こうは聖域。大木の杉並木の参道の霊気は格別。いるだけで心と体がリフレッシュされるように感じる!随神門。途中には飯縄権現をお祀りするお社。奥社下の聖水。 |
| ※戸隠神社の社伝によると、戸隠の名は古事記、日本書紀にある天の岩戸神話に由来する。天照大神が弟のスサノオノミコトの乱暴を怒り哀しみ、天の岩屋にお隠れになり、世界が暗く災いに満ちた時、天の岩戸をお開きになり、その岩戸を放り投げたアメノタジカラノオノミコトを戸隠山の麓に奉斎したことが戸隠神社の起こりだと伝えられてる。その岩戸は、日本のだいたい真ん中に落ちたといわれ、その岩戸が「戸隠山」であると伝えられている。 |
| 九頭龍社
戸隠は、上祐代表らスタッフが、オウム脱却が始まった2005年の真冬に初めて戸隠奥社を参拝し、その後オウム・アレフを離脱した「原点」ともいえる場所。個人的には、善光寺内陣で、仏の胎内=仏母の慈悲を感じたことがあり、大変思い出深い場所。 |
| 【善光寺:神秘の霊験の絶対秘仏】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第4回/善光寺:神秘の霊験の絶対秘仏」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第4回は「善光寺」。善光寺は、日本最古の仏像であり、様々な神秘的な説話・霊験のエピソードを持つ絶対の秘仏「一光三尊阿弥陀如来像」をご本尊とする名高きお寺。その仏像は日本三大如来の一つとされ、日本最高とも言われるこのカリスマ仏像に対する信仰によって、宗派に属さない単立寺院でありながら年間参拝客600万人を誇り、現在の長野市も善光寺の門前町の繁栄によって発展してきた一面がある。①善光寺に関する文献紹介、②実際に行った時のレポート。③パワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事。 |
| ●文献からの善光寺のご紹介 |
| ◆善光寺――日本最古・絶対秘仏のご本尊 伝説によれば、善光寺は、6世紀半ばに朝鮮半島からもたらされた日本最古級の仏像である阿弥陀如来像をご本尊としているとされ、「絶対秘仏」とされ、これまで一度も開帳されたことがなく、古代から篤い信仰を集めてきた。ご本尊は、阿弥陀三尊像で、霊験あらたかとして、数多くの救済譚が生まれ、日本中にその信仰が広まった。人々は、「一生に一度は善光寺参り」ということで、苦心して巡礼資金をため、資金がたまらなければ、次世代に引き継いでまでお参りを行ったという。善光寺は、現在でも、年間巡礼者が650万人にものぼるとされる日本有数の仏教寺院となっている。万人を受け入れる信仰にふさわしく無宗派の寺院で、他宗派の天台宗と浄土宗が共同管理するという珍しい形態がとられている。 |
| ◎聖徳太子とのご縁 伝説によれば、このご本尊は、飛鳥時代に、崇仏派の蘇我氏によって奈良・飛鳥の向原寺に祀られたが、やがて廃仏派の物部氏によって池の底に沈められた。後に、聖徳太子がご本尊を引き揚げようと池のほとりに立ったところ、ご本尊は一度水面に浮上し、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ」と述べ、再び水底に姿を隠されたという。そして、池のほとりを通りかかった信濃の国の本田善光が、ご本尊の意向を受けて、ご本尊を信濃にお連れし、善光寺の建立に至ったとされていう。また、聖徳太子は、このご本尊を信仰し、ご本尊との間で手紙のやりとりをしたとも。 |
| ◎親鸞聖人とのご縁 阿弥陀如来と聖徳太子を信仰していた浄土真宗開祖・親鸞は、越後への流罪の後、関東へ向かう折、善光寺に立ち寄り修行をしていた。善光寺本堂に向かって左側には親鸞の像が建てられており、また、親鸞が石に爪で彫ったとされる「爪彫如来像」も境内に安置されている。 |
| 善光寺レポート:2018年8月16日
(※同行したスタッフのレポートです) |
| 善光寺は日本最古級の仏像である阿弥陀如来像をご本尊とし、古代から篤い信仰を集めてきた日本有数の寺院。まず本堂の外でお香の供養。いよいよ本堂の中に入る。秘仏を納める厨子の前にある内陣に入り、善光寺如来にお焼香させていただくとともに、しばし瞑想をした。素晴らしい空間。残念ながら秘仏はおろか内陣も写真撮影は禁止で、写真でご紹介することが不可。その後、「お戒壇めぐり」をして、ぞの厨子の錠前を触れることで「絶対の秘仏」とご縁を結ばせていただく儀式を行った。その後は本堂から出て、境内にある経蔵や、善光寺如来像と縁がある聖徳太子の石碑などを参拝した。経蔵。これは、親鸞聖人が石に爪で彫ったとされる「爪彫如来像」。善光寺には何度も来ているが、個人的には、善光寺内陣の参拝の時に、仏の胎内=仏母の慈悲を感じたことがあり、大変思い出深い場所。 |
| 【日光:名高き寺社と山湖の自然】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第5回/日光:名高き寺社と山湖の自然」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第5回は「日光」。栃木県にある、美しい山と湖からなる日光は神が鎮まる霊峰、山岳信仰、修験道の聖地として古代から尊ばれてきた。特に日光山開山の祖である勝道上人によって観音菩薩の聖地となった。 その後、江戸時代に至って、東照大権現として神格化された徳川家康を祀る東照宮が造営されるにともない日光は栄華を極め、比叡山・高野山に並ぶ信仰のセンターとなるとともに、「日光を見るまでは結構と言うな」という言葉で有名。①日光に関する文献紹介、②日光レポート。③日光を含めたパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事紹介。 |
| ●文献からの日光の自然や寺社のご紹介 |
| 日光といえば徳川幕府ゆかりの日光東照宮が有名で、江戸時代のはるか以前から美しい山と湖からなる日光は神が鎮まる霊峰、山岳信仰、修験道の聖地として大切にされてきた。その古代からの歴史の流れの中で、神道の神・仏教の仏も祀られ、神仏習合の修験道の修行の地となり、観音の浄土とも称えられ、江戸時代には徳川幕府の重要な聖地となり、現代ではユネスコの世界遺産にもなっている。 |
| ●日光の歴史及び二荒山(ふたらさん)神社 古代からの聖地の一つが、日光東照宮に隣接する二荒山神社。二荒山神社は、3つの山を合わせて「二荒山大神」としてお祀りしている、原初の山岳信仰を守る社。この社の創始は、8世紀後半(766年)に日光開山の祖・勝道(しょうどう)上人がこの地に紫雲立寺(しうんりゅうじ)寺を建て、その翌年に二荒山の神を祭る祠を建てたのが始まりと伝わる。 原初の山岳信仰の山とは、二荒山(2486メートル・男体山(なんたいさん)、女峰山(にょほうさん)(2464メートル)、太郎山(2368メートル)の三山で、この山々は神体山、神奈備(かんなび)と考えられ、二荒山神社などの神社では神として、輪王寺(りんのうじ)(東照宮に隣接:勝道上人が開創)などのお寺では仏として祀られている。山の名前からもわかる通り、これらの神々は親子と考えられている。伝説によれば、9世紀初頭(820年)、弘法大師・空海が日光に入山して修行し、女峰山の女神である田心姫命(たごりひめのみこと)を感得してお祀りし、それが現在の滝尾(たきのお)神社(東照宮の北部に鎮座する神社)となっている。また、天台宗の高僧・円仁が訪れ、輪王寺の伽藍が整備されるとともに、鎌倉時代には将軍・源頼朝の寄進などが行われ、日光は関東の一大霊場として栄えた。 なお、日光で祀られている、大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)は、「因幡の白兎」のケガを癒し、病気平癒と関係する温泉を各地で開いたとされる神様で、さらには、第10代・崇神天皇の時代の疫病を終息させたといわれる神様でもあり(奈良県・大神(おおみわ)神社の祭祀につながる)。 |
| ●「日光」の名の由来 日光の名は、中禅寺湖畔にそびえる二荒山(ふたらさん)(男体山)に由来がある。勝道上人は、男体山登拝を成し遂げ、日光を開山した。そして、男体山の地にて観音菩薩を感得した。そこで、インドの仏典では観音菩薩の聖地はポータラカと記され、漢訳仏典では補陀落(ふだらく)と音写されることから、男体山に二荒(ふたあら)山と名付け、宮を立て、神仏習合の霊場として栄えることになった。その「二荒」山が、弘法大師・空海によって二荒(にこう)と音読みされ、日光(にっこう)という漢字が当てられるようになったという。 |
| ●日光東照宮 日光東照宮は、江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康(1543-1616)をご祭神としている。家康は、自らの遺言に従ってこの地に葬られ、その後、現在にまで伝わる華麗な社殿が造営された。家康に仕えた天台宗の高僧・天海(てんかい)の説(山王一実神道)に基づき、家康は、本地仏(本体である仏)を薬師如来とし、神号を東照大権現とする神として、神仏習合の形態で祭られている。それまでの戦乱の世を鎮め、世界史上類例のない長期にわたる泰平の江戸時代を築いた家康は、平和をもたらした神として位置付けられている。戦争や内乱を鎮めて社会の安定を実現するといわれる薬師如来が家康の本地仏とされている理由はそこにある。 東照宮内に彫られた数々の生き物――例えば眠り猫や、猿、獏(ばく)等は、いずれも平和を象徴している。2017年に「平成の大修理」によって約40年ぶりの修理が終わった陽明門をはじめとする建築物や彫刻の多くは一段と輝きを増して光彩を放っている。 上記の通り、家康は、約260年の「太平の世」を築いたので薬師如来の化身とされるが、薬師如来は、疫病のみならず、飢饉(貧困)や戦争などの国家的災難をも救う。新型コロナウイルスの健康問題に限らず、現在悪化している世界規模の景気後退・失業自殺・人種差別と暴動・各国間の緊張対立=戦争の恐れといった国内外の諸問題の解消を祈願したいところとなっている。 |
| 【日光東照宮とひかりの輪との不思議な縁】 家康は遺言を残したが、それは、遺骸は久能山(現在、久能山東照宮となっています)に納め、葬礼は増上寺に申しつけ、位牌を三河の大樹寺に立て、1周忌も過ぎた頃、日光山に小さな堂を建てて勧請せよ、関東八州の鎮守になろう、というもの。「日光の地に自分を神として祭れ、そして私は平和の守り神となろう」という趣旨の家康の遺言は、天の中心である北極星を背景にして、真南にある江戸を守護するために、江戸の真北にある日光の地をあえて選んだと考えられている。つまり、以下のような位置関係となっています。 〔北〕北極星(天の中心) ↓ 日光東照宮(神とされた家康) ↓ 〔南〕 江戸(現在の東京) 上記の通り、家康は北極星を背後にして日光から真南に位置する江戸を守る意思を示した。興味深いことに、日光を象徴する豪華絢爛な陽明門と、その背後にある拝殿・本殿から、ちょうど真南に約120キロ南下した場所にあるのは、ひかりの輪本部が入居するマンション・GSハイム烏山(東京都世田谷区南烏山6-30-19)。具体的には、東経139度35分56秒の線上に、北から日光東照宮の本殿、拝殿、陽明門、そしてGSハイム烏山が寸分の狂いもなく一直線に並んでいる。ひかりの輪本部内の上祐代表の部屋は、家康の墓所である「奥の院」の真南に位置している。このように、家康が守護を意識した東照宮の真南に、ひかりの輪本部が存在するという不思議な縁がある。 |
| 【参考資料:徳川家康 遺訓】 人の一生は重荷を負(おひ)て遠き道をゆくが如しいそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし こころに望(のぞみ)おこらば困窮したる時を思い出(いだ)すべし 堪忍(かんにん)は無事長久の基(もとゐ)いかりは敵とおもへ 勝事(かつこと)ばかり知(しり)てまくる事をしらざれば害(がい)其身(そのみ)にいたる おのれを責(せめ)て人をせむるな 及ばざるは過(すぎ)たるよりまされり |
| 【参考資料:天海大僧正が説いた長寿の秘訣】 「長命は、粗食、正直、日湯(毎日風呂に入ること)、陀羅尼(お経)、時折、ご下風(屁)あそばさるべし」 「気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ」 |
| ●二荒山神社 二荒山神社の解説については、最上部の記載をご覧ください。 |
| ●常行堂 慈覚大師・円仁が、843年に、比叡山の二堂(常行三昧堂と法華三昧堂)にならって建立したことに始まる。五智五宝冠の阿弥陀如来を本尊として、後堂に摩(ま)多羅(たら)神をお祀りする常行三昧の道場。常行三昧とは、「90日を一期として、阿弥陀仏像のまわりを歩き回りながら口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念ずるもので、昼夜続けるので〈常行〉の称があり、この三昧が成就すると諸仏をまのあたり観ずることができるので〈仏立三昧〉ともいう」(岩波仏教辞典より)というもの。 |
| ●三仏堂 三仏堂がある輪王寺は、奈良時代に勝道上人によって開創されたと伝わる。後に、天台宗の高僧、慈覚大師・円仁が来訪し、三仏堂や常行堂などの伽藍を建立した。一時衰退したものの、東照宮を造営した天海(てんかい)が住職となってからは復興していき、天台宗の寺院として隆盛を極めた。三仏堂の内陣には、日光三社権現の本地仏である千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音が祭られている。 |
| ●中禅寺湖 中禅寺湖は、海抜高度1269mという日本屈指の高さにある湖。周囲約25km、最大水深163mで、およそ2万年前に男体山の噴火による溶岩で渓谷がせき止められ、原形ができたとされている。 |
| ●千手ヶ浜・千手堂 中禅寺湖の西の端にある、南北2kmにわたる美しい浜が千手ヶ浜。勝道上人がこの近辺で千手観音を感得したといわれ、最近まで784年に上人が建立したとされる千手観音堂跡地を残すのみとなっていた。開山1250年を記念して2017年7月12日、輪王寺により50年ぶりに「千手堂」が再建された。お堂には、千手観音菩薩がお祀りされている。日光は勝道上人が観音菩薩を感得したことから「観音の浄土」といわれるようになっていったという意味で、観音浄土としての日光の発祥の地ともいえる。 |
| ●中禅寺 日光の開祖・勝道上人が、男体山山頂をきわめた後、中禅寺を建立し、修行の場としたのが寺の創始とされる。ここには、勝道上人が湖で感得した、湖の中から出現した金色の千手観音の姿を彫ったと伝わる立木観音が祀られている(千手観音は男体山の本地仏。神道では大国主命)。この立木観音は、創建当時は二荒山神社中宮祠近辺にあった中禅寺に祀られていたが、明治の大津波で中禅寺湖に沈んでしまった。しかし立木観音は、奇跡的に現在の地に浮き上がったので、この地が観音さまのいらっしゃりたい場所だろうということで中禅寺とともに現在の地に移されることとなった。「立木観音」の名は、根がついたままの立木の状態で彫られたことに由来している。 |
| ●二荒山神社 中宮祠(ちゅうぐうし) 二荒山神社中宮祠は、二荒山(男体山)の中腹1200m、中禅寺湖畔に鎮座する社で、男体山の山頂にある二荒山神社奥宮と、日光市街にある二荒山神社本社の中間にあるので中宮祠と呼ばれてる。山頂を極めた勝道上人がここに社殿を建てたのが始まり。この中宮祠には、男体山への登山道の入口があり、山岳信仰、神道、仏教、修験道と多様な宗教が融合している。開山の夏の季節には全国からの数万の登拝者で賑わう。 |
| 日光訪問参拝レポート: 2018年6月2日(※同行したスタッフのレポートです) |
| 美しい山と澄んだ湖をたたえる日光は、古代より神が鎮まる信仰の聖地として大切にされ、観音の浄土としても篤い信仰に支えられてきた。有名な日光東照宮は、江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康をご祭神とし、家光の手により豪華絢爛な社殿が造営された。世界史上類のない長期泰平の世だった江戸時代。東照宮に彫られた数々の生き物、眠り猫や、猿、獏(ばく)等は、いずれも平和を象徴している。 獏と象。三猿(悪いものは)見ざる、言わざる、聞かざるの教え。眠り猫:警戒心の強い猫が眠るのは平和の象徴。40年ぶりの大修繕が終わった陽明門などは一段と豪華で息をのむような美しさ。奥の院には家康のお墓がある。落ち着いた厳かなたたずまい。日光東照宮の最も聖なる空間として大切にされてきた。日光東照宮に隣接する日光山の仏教信仰のセンターである輪王寺を参拝。阿弥陀如来や観音菩薩がご本尊。次に、江戸時代に家康を祀る東照宮が造営される前まで日光山参詣の中心であった滝尾神社を参拝。弘法大師空海がこの地で修行し田心姫命(たごりひめのみこと)を感得されたという場所で、「日光の聖地」と呼ばれ称えられてきた。ご神木 三本杉。空海が修行されたという清々しく素晴らしい場所。精気があふれている。中禅寺湖の千手が浜。湖の西にある美しい浜。非常に美しい自然の地である同時に、日光山開山の祖である勝道上人が千手観音菩薩を感得したと言われる最大の聖地でもある。勝道上人がこの近辺で千手観音を感得したといわれ、以前は近くに上人が建立した千手観音堂の跡が残っていたが、2016年11月に立派な千手堂が再建された。日光輪王寺の千手観音像が収められている。日光は、この地において勝道上人が観音菩薩を感得したことから観音の浄土といわれるようになった。日光に来たら、ここに行きたいという人は多い。また、この千手が浜までの散策路にはクリンソウが咲き乱れ、浄土のような美しい。この千手ヶ浜に来た時に毎回立ち寄るのが「仙人庵」。奥日光の湯元温泉に一泊。 |
| 【富士山:雄大な霊峰と山麓の寺社】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第6回/富士山:雄大な霊峰と山麓の寺社」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第6回はいよいよ「富士山」。富士山は、日本最高峰にして縄文時代からの信仰の山であり、平安時代以降は山岳仏教の聖地としても栄えて「霊峰富士」と称えられてきた、聖山の中の聖山。①富士山麓に関する文献紹介、②レポート紹介、③パワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事。 |
| ●文献からの富士山麓のご紹介 |
| ●河口浅間(あさま)神社 富士山が歴史的な大噴火を起こし甚大な被害を与えた864(貞観6)年の翌年、富士山の北麓では最初に建立された神社。見たことがないほどの見事な杉の巨木が立ち並ぶ参道に足を踏み入れると、その威厳に圧倒される。天を突くように伸びる七本の大木は、どれも40mを超え巨大な根回りは30mある。長年の祈り・信仰の強さと、この土地のパワーが感じられ、近くの川からの水流とともに、周囲の空間はとてもすがすがしく、素晴らしいエネルギーで心身が浄化される場所。 |
| ●北口本宮冨士浅間(せんげん)神社 富士山の北東に位置する社で、吉田口の登山口にもなっている。「富士山本宮浅間大社」は山の南西、表富士を望む「陽」の地に。この北口本宮冨士浅間神社が対角線上の北東に位置し、「陰」の地に建てられている。その霊気・精気が満ち満ちている感じがする場所で、参道を歩くと身心がリフレッシュされる。ご神木の大きさにも圧倒される。 |
| ●富士吉田口五合目 富士山五合目付近まで車で行ける4つの登山ルートの一つが、富士吉田口。富士山頂が間近に迫る富士吉田口五合目(標高約2300m)には、10世紀初めに創建された小御嶽(こみたけ)神社が鎮座し、富士信仰の拠点として崇敬を集めている。「小御嶽」は、富士山より先に出現し、五合目付近が山頂であった山の名前で、現在の富士山は、古富士と小御嶽を土台に噴火が繰り返されてできた山とされている。 |
| ●御中道(おちゅうどう) 本来、富士山の五~六合目付近を一周する道で、かつて富士講信者の修行に使われた道。役(えんの)行者が始めた「御中道巡り」が始まりと伝わり、富士講信者の間では3回以上の富士登山の経験と誓約書などがないと通る許可が下りなかったといわれている。現在は、富士吉田口五合目を起点に、全体の4分の1ほどしか歩くことはできないが、歩道は歩きやすく整備されており、見晴らしも絶景の聖地。 |
| ●河口湖(小海公園~シッコゴ公園付近の湖畔) 河口湖は富士五湖の一つ。「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として、世界文化遺産に登録されている。水面の標高は833 mで富士山を望む景勝地。湖の南側に位置する小海公園からシッコゴ(アイヌ語で「湿原」の意味)公園までの湖畔の遊歩道。 |
| ●冨士御室浅間神社 河口湖のほとりに位置し、戦国時代には甲斐の武田家に三代に渡り崇敬された、富士山に関連する神社で最古の社(最初は699年に富士山2合目に創始)。4回の大改修を経て1973年に富士山2合目から里宮に移築された。近くの湖畔には「精進場」という、日本武命(やまとたけるのみこと)が御東征の帰路に立ち寄り身のけがれを浄めたと伝えられる場所がある。 |
| ●富士山世界遺産センター 世界遺産としての富士山の歩みや構成資産の詳細な解説を学ぶことができる。写真の富士山の山容を再現したオブジェは和紙で作られ、さまざまに色が変わりとても美しくて必見。 |
| ●富士山麓の訪問・参拝レポート (※同行したスタッフのレポートです) |
| 富士山とその山麓の寺社巡り。まずは、富士五湖の一つの河口湖の近くにある河口浅間(かわぐちあさま)神社を参拝。富士山の神様を祀る浅間神社の中で、最も生気あふれるパワースポット。富士山が歴史的な大噴火を起こし甚大な被害を与えた864年の翌年、富士山の北麓では最初に建立された神社。御祭神はコノハナサクヤヒメ女神。富士山の噴火の怒りを鎮めるためにお祭りされた。境内には、見たことがない程の見事な杉の巨木が立ち並んでおり、その周辺はとても強い生気・パワーを感じる。
下の写真は、根本が富士山を思わせるような形をしていて、その上に天を突くように真っすぐに幹が伸びている。この神社の七つの杉の御聖木の中の筆頭格で「天壌杉」と言う。高さは40mを超え、根回りは30mもある。まさに御聖木の王様の風格。富士山が噴火して、噴煙が天に立ち昇ったら、こんな形になるのかなと思う。ご聖木と本殿をはじめとする社殿の周辺には近くの川からの水流も巡り、周囲の空間はとてもすがすがしく心身が浄化される場所。長年の祈り・信仰の強さと、この土地のパワーが感じられる
さて河口浅間神社の次は、これまた霊気あふれ威厳に満ちた「北口本宮冨士浅間神社」に向かう。この神社の第一の特徴は精気にあふれる杉並木の参道。ここを歩くと身心がリフレッシュされる。参道の両側はちょっとした杉の森のような感じで聖なるパワーを感じる。参道の正面に本殿がある。ここは、富士山の北東に位置し、富士山に登る吉田口の登山口にもなっている。こちらがその参道の入り口にある社殿。陰陽の理論に基づき、富士山の浅間神社の総本社である「富士山本宮浅間大社」は山の南西、表富士を望む「陽」の地に。この北口本宮富士浅間神社が対角線上の北東に位置し、「陰」の地に建てられ、富士山周辺を守護している。ご神木の大きさにも圧倒される。水の聖地でもある。富士山からの聖水。紅葉も見ごろ。杉並木の参道などでしばし散策。
次は、富士山の吉田口の五合目に向かう。富士山頂が間近に迫る五合目。真近で山頂が見える。真近な富士山は見たことがないようで、その神々しく雄大な姿に歓声があがる。五合目には「小御嶽(こみたけ)神社」が鎮座し、登山の安全無事をお祈りする。 次に富士山の五合目から六合目付近をぐるっと横に一周する道で、富士山の山岳仏教信仰・修験道において「聖なる道」とされる道に向かう。御中道(おちゅうどう)! これは、かつては富士講信者の修行に使われた道で、3回以上の富士登山経験と誓約書がないと通行が許されなかった。富士山から遠方の山々を見下ろす形の見晴らしが絶景で、その反対側には、まさに富士山山頂が間近に見えるという絶景。林の中から出て、右手には雲海を下に見て、向こうに南アルプス、眼下には西湖が見下ろせる。まさに「頭を雲の上に出し、四方の山を見下ろして」という富士山の歌そのものの景観!間近に見える巨大な富士山の山頂にはまだ雪が残っており、その上に光り輝く太陽の光を反射して光り輝いている。思わず手を合わせたくなるような神聖な気持ちになる。雄大な自然の中で心を大きく広げて、仏教的な悟りの瞑想をみんなで行う。御中道の入り口がある吉田口の五合目は最も観光客が多い場所で、御中道の中に入ると殆ど人もいなくて全くの別世界。観光的に一つの穴場、秘境に聖なる世界。その後は、スバルラインを車で下って再び河口湖に向かう。その湖畔にある小海公園からシッコゴ公園まで小一時間ほど歩行瞑想。豊かな景色が広がる。シッコゴ公園近くの御室浅間神社に参拝し、かつての修行者が禊をおこなった「精進場」という場所に行き、しばし瞑想。古来の禊の場だとされている。この湖畔からも綺麗な富士山を見ることができる。言葉では表せない雰囲気、エネルギ-、気の存在。空や大地の広大さに改めて気づいたり、普段、思いめぐらすだけでは決してわからないことを体験させていただく。 |
| 【富士山:雄大な霊峰と山麓の寺社】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第7回/出羽山:今も息づく東北修験の聖山 」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第7回は「出羽」です。山形県にある「出羽三山」は月山・羽黒山・湯殿山の総称であり、日本有数の修験道の聖山。①出羽に関する文献紹介、②出羽レポート、③出羽を含めたパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事。 |
| ●文献からの出羽のご紹介 |
| ◎出羽三山について 出羽三山は、月山・羽黒山・湯殿山の総称で、古くから東北を代表する聖地として、日本屈指の霊場として知られたとびきりの聖地。日本には古より山、川、木、石、動物などを神仏と考えお祀りするなどして大切にする考えがある。特に高くよい形の山はいのちの源であると同時に、魂の静まる場所、神聖な場所として敬われてきた。東国33国の総鎮守として、九州の英彦山、熊野三山と並び称された修験道の伝統を持っている。中世には「西の伊勢参り、東の奥参り」とうたわれ、全国から多くの人々が集まった。そして、いま現在も、羽黒山修験道の山伏の修行の地として、多くの修験者、参拝者を集める生きた聖地。出羽三山を巡る修行は、古来より、死と再生、生まれ変わりの行とされてきた。 |
| ◎羽黒山 正観世音菩薩=観音浄土:現世の浄土を表す。標高418m。山頂に鏡池があり水の湧く聖地。天然記念物に指定されている樹齢数百年の杉の生い茂る森は霊気あふれ、とても清々しい心持ちがする。蜂子神社、巨大なかやぶき屋根の三神合祭殿があり、羽黒山(稲倉魂命)、月山(月読命)、湯殿山(大山)の出羽三山の三つの山の神がお祭されている。羽黒山では、とそう行を行う。 |
| ◎月山 阿弥陀如来=阿弥陀浄土:過去の浄土を表すとされる。標高1984m。月山は、古来、朝廷をはじめ幅広く庶民に篤い崇敬を集めてきた霊峰。高山植物や池などの風景のとても美しい山で、月山では、八合目より、とそう行を行う。古くから、うさぎは月山神のお使い・月の精とされ、悪運から逃れる力があると伝えられており、月山入り口には大きなうさぎの像がある。月山にお祀りされている、月を象徴する神「月読命」は、天照大神の弟神で、夜、海、魂や死後(命の再生や蘇り)の世界を司り、天下泰平、国土安穏、産業発展、五穀豊穣、大漁満足に霊験あらたかとされている。死後の世界を司るところから、祖霊の鎮まる山としても崇敬を集めている。 |
| ◎湯殿山 大日如来=寂光浄土:未来の浄土を表すとされる。標高1500m。中世に、出羽三山の「総奥の院」(最も大切な場所)とされ、古より「語るなかれ、聞くなかれ」と守られてきた神秘のご神体がある。想像を絶する存在感がある。湯殿山では例年滝行を行う。 |
| 出羽山レポート:2017年7月29~30日 ※同行したスタッフのレポートです。 |
| 山形県の出羽三山の修験道修行に参加。羽黒山、湯殿山、月山で構成される出羽三山には、聖徳太子の時代に発祥したとされる羽黒山修験道(山伏修行) があり、その現地の先達(指導者)の方の下で、修験道の研修を行う。それは、聖山の自然の中に朝から晩まで没入する大変濃密な体験。まず、先達の引率の下で、羽黒山の参拝に向かう。山の麓にある杉並木の石畳を登って山頂に向かう。爺杉。ここが山頂。様々な社屋がある。三神合祭殿と、その前の鏡池。羽黒山開祖の蜂子皇子(はちこのおうじ・はちこのみこ)のお廟。般若心経を唱えながら参拝。ご神体の鏡池。三神合祭殿。続いて、出羽三山開祖の「蜂子皇子」のお廟へ向かう。お廟前で読経。その後、羽黒山を後にして、出羽三山の一つ「湯殿山」へ向かう。湯殿山の入り口の山門。湯殿山の中には、滝場がある。その滝場で、滝行の禊(みそぎ)をする。この滝場・滝行の特徴は水の勢いが非常に強いこと、そして東北ですから水が冷たいこと。良い修行になる。滝行の後、いよいよ湯殿山の中核である御神体に向かう。その御神体は、滝行の冷水とは正反対に、暖かなお湯が噴き出す赤い巨石の岩によるもの。この湯殿山から、人は生まれて来るという思想が伝えられている。正に大自然の子宮のようなイメージ。こうして今日の巡礼・修行が終わると、修験道専用の宿である「宿坊」に戻る。そこで出たお食事は、修験道の教えにしたがったもので粗食。そして、夜もなってまた、夜間「とそう行」という歩く修行を行う。般若心経の読経。途中、蛍の乱舞する田んぼと夜空の月星が美しく心が空っぽになる。金の糸が蛍の光。実際はもっと光っていて綺麗。翌日早朝から、出羽三山の一つで、もっと長時間の登山となる「月山」への登拝。その八合目の様子。八合目の中宮と呼ばれる宮にて。月にちなんで大きなうさぎ。八合目にある入口の山門・鳥居。九合目に到着したところに「仏生池」がある。「行者返し」という険しい道。遠方の山並みまで見渡せる絶景!ここまでくるとかなり肌寒い中、残雪も見ながら登り続ける。遂に山頂に到着! 以上、出羽三山・羽黒山修験道の研修体験のレポート。修験道(の研修)では、頭で考えるのではなく、山に入って、自然に浸る中で、その人が「感じ取る」ことが重要とされるため、先達の先生から、言葉による詳しい説明は殆どない。この修行は実際に参加してみないとわからない部分が多い。私は自然の音、色、あるがままの営みにとても新鮮なものを感じた。現代人に欠けがちなものを再認識できる非常に貴重な機会だと思う。 |
| 【伊勢神宮:名高き日本神道の総社 】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第8回/伊勢神宮:名高き日本神道の総社 」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地のご紹介の第8回は伊勢神宮。神道の中心的な神であり、皇祖神である「天照大神」信仰の総本社であり、神社の中の神社、日本神道の総本社とも言うべき神社。神道の公式の見解においては最高の聖地。①伊勢神宮に関する文献紹介、②レポート。2013年は、20年に一度の伊勢神宮(三重県伊勢市)の式年遷宮と、60年ぶりの出雲大社(島根県出雲市)の大遷宮という二大神事がど重なる年にあたり、60年に一度の稀な機会に参拝させていただいた。③パワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事。 |
| ●文献からの伊勢神宮のご紹介 |
| ●伊勢神宮 「日本人の心の故郷」ともいわれる伊勢神宮は、まさに太陽の国・日本の祖神であり天皇家のルーツに当たるとされる太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする、我が国で最高の格を誇る神社。内宮(ないくう)と外(げ)宮の二つのお宮(正宮)をはじめとする125のお宮によって構成されている。 |
| ◎内宮 内宮は、まさに太陽の国・日本の祖神であり天皇家のルーツに当たるとされる太陽神・天照大神をお祀りしている。神宮の由緒は、第10代・崇神天皇の時代までさかのぼる。それまでの天皇は、天照大神の孫にあたる邇邇(にに)芸(ぎの)命が地上に降臨(天孫降臨)する際に大神から与えられた「八咫鏡」(大神と一体とされるご神体で、皇位の印である「三種の神器」の一つ)を宮中で奉祀していたが、崇神天皇は神様の意を慮って、宮中の外に奉祀し始めた。その後、ご神体は、丹波国(丹後の元伊勢・籠(この)神社付近)をはじめとする各地を巡りながらお祭りされ、最終的に、第11代・垂仁天皇の時代に、大神の意を受けて、この伊勢の地に奉祀されるようになった。これが伊勢神宮の内宮の始まり。 |
| ◎外宮 外宮には、天照大神の御饌(みけ)(お食事)を司る神、豊受大神をお祀りしている。第21代・雄略天皇の時代に、天照大神によって、丹波国に祭られていた豊受大神を近くに召したいとの神慮が示され、内宮の近くに豊受大神がお祭りされるようになった。これが伊勢神宮・外宮の始まり。 |
| ●伊勢神宮参拝レポート:2013年11月2日 (※同行したスタッフのレポートです) |
| 2013年の式年遷宮が行われた伊勢神宮参拝。建て替えられたお社は檜の色も美しく、大変清々しい。20年に一度の遷宮の年ということで、大変な参拝者。列に並んでの参拝となった。内宮の入り口、正門にある鳥居の様子。この先に、五十鈴川を渡る橋がある。早朝の宇治橋。 |
| 五十鈴川。五十鈴川で禊ぎ。天照大神が祀られている内宮の本社参拝。伊勢神宮内の最高の聖地、いや神道の公式見解としては神道の最高の聖地!さらに、その周辺の様々な社殿、別宮を巡って、参拝。御稲御倉(建物の様式がよくわかります)荒祭宮。神楽殿。内宮に引き続いて次は外宮。外宮は、内宮と並ぶ伊勢神宮の二大聖地の一つであり、豊受大神が祀られている。ここもまた、建て替えられたお社の隣には、今までのお社がならんでいる。20年の歳月の重みを感じさせる。さらに外宮の別宮と呼ばれるお宮を参拝。外宮の別宮の一つの多賀宮です。一説によれば、伊勢神宮一のパワースポットともいわれる。神様に捧げる供物を作るための井戸。 |
| 【高野山:日本密教の象徴霊場 】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第9回/高野山:日本密教の象徴霊場」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第9回は高野山です。高野山は、弘法大師空海が開いた高野山真言宗の総本山であり、日本の密教を象徴する聖山です。中国で真言密教を学んだ空海が、9世紀の初めに、高野山の最大の拠点として、日本に初めて本格的に密教を導入して以来、天台宗の比叡山と並んで、日本仏教の最大の聖地の一つです。 そこでまず、①高野山に関する文献からそのご紹介をし、そのあとに、②2015年3 月22日、私たちが実際に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③ひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介します。 |
| ●文献からの高野山のご紹介 |
| ●高野山(金剛峯寺)――空海が開いた真言宗の聖地 高野山は、海抜約1000メートル、周囲を山に囲まれた東西5.5キロ、南北2.3キロの山上盆地です。816年、弘法大師空海は嵯峨天皇にこの地の下賜を申し出、勅許を受けると、真言密教の本拠地として整備を始めました。この地を空海が選んだのは、空海が若い頃に修行をしていた場所だからだとされていますが、地元の神々等による導きがあったとの伝説が伝えられています。空海は、周りを取り囲む山々を八葉蓮華の花びらと見立て、山上にマンダラ世界を作ろうとしたともいわれています。 |
| ◎奥の院(弘法大師御廟) 奥の院には、空海の御廟がある。ここは高野山の中でも最も聖なる場所とされている空海入定(にゅうじょう)の地です。真言宗では、空海は亡くなったのではなく、今でもこの地で瞑想に入っているとされています。それを物語るものとして、御廟の建物の入口には、空海の遺言とされる言葉――「肉身に三昧を證して、慈氏の下生を待つ」、すなわち、弥勒菩薩が下生される未来の時まで、この地で三昧(深い瞑想)に入って待っている――という意味の言葉が大きく揚げられている。空海は、自らこの地を入定の場所として定めたといいます。 |
| ◎壇上伽藍 壇上伽藍は高野山の中心であり、密教教理によって作られた真言宗修行の根本道場と位置づけられています。ここには、以下のような建物等があります。 |
| 【金堂(別名 薬師堂)】 壇上伽藍のほぼ真ん中に位置します。 高野山全体の総本堂にあたり、本尊として薬師如来像が祀られています。 【根本大塔】 御堂の中には、中心に大日如来、その周囲に諸仏・諸菩薩が配置され、マンダラが立体的にあらわされています。大日如来をはじめとする諸々の仏像や仏画は、荘厳かつ圧倒的な迫力があります。 【御影堂(みえどう)】空海の御影(肖像画)が祀られています。もともとは空海の持仏堂だったことから、最も尊厳を尊ぶ御堂とされています。 【金剛峯寺】金剛峯寺は、もともとは高野山全体をさす総称だったとろ、明治以降に真言宗総本山の寺院の名称となりました。蟠龍庭 (ばんりゅうてい)という日本最大 の石庭や阿字観道場などがあります。 |
| ●高野山参拝レポート:2015年3月22日 (※同行したスタッフのレポートです) |
| 2015年3月22日は、比叡山と並び称される高野山に参拝いたしました。数年ぶりです。大阪市内から車で2時間15分くらい。やはりここは遠いですね (^^;) 東京からだと8時間は見ておかないと。。ですからそう頻繁に訪れることはできません。「なかなか行く機会がないけれど絶対に行ってみたい」 と、東京から一日参加された方もいらっしゃったくらいです。 さて、そういう気持ちと関係があるなしはわかりませんが、なぜかこの街に近づくと気持ちがうきうき?明るく弾んでくるのはなぜでしょうか。あくまで個人的感想ですが、比叡山とはまた違った風情と感覚を感じます。 高野山の第一の特徴は、標高約800mの山上に真言宗の一大都市が築かれている点だと思います。麓から急な山道を登ると突如現れてくる光景。100を超える寺院が密集し、コンビニ、土産物屋さん、宿坊と、何でも揃い、何とガソリンスタンドまであります。 山上盆地ならではの、日本では他に例を見ない宗教都市なのです。よって、「天空の聖地」と呼ばれています。弘法大師 空海が開山し、真言密教の本拠地として修行にいそしんだ地といわれています。 数々のお堂に国宝・重要文化財・仏教美術品などの文化財を有しますが、空海は、周りを取り囲む山々を八葉蓮華の花びらと見立て、山上にマンダラ世界を作ろうとしたともいわれています。詳しいご説明はこちらをご覧ください。 http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html まずは奥の院の弘法大師御廟(こうぼうだいしごびょう)へ。奥の院入り口。お遍路さんもたくさん。ここは高野山の中でも最も聖なる場所とされている空海入定(にゅうじょう)の地です。空海自らこの地を入定の地と定めたといわれています。そして、空海は(死んだのではなく)弥勒菩薩が下生される未来まで、この地で三昧(深い瞑想)に入っているとされています。この参道にはあらゆる階層・時代の人々のおびただしい数の墓碑が建立されています。密教の宇宙観を表した五輪塔。ここから先は撮影禁止の最聖地区。奥のお堂の奥に御廟があります。 御廟前では途切れることなく参拝者が訪れます。お経を読む人、香や灯明の供養をする人、目を閉じて座る人、様々です。特にこの場所は、きらきらした、例えるなら金粉舞い降りるかのような明るい空間に感じられました。解放された明るい「喜」の空間です(あくまで個人的意見です m(_ _)m) お廟の内陣には、孝女てるが髪を売って献じた「貧女の一灯」、白河上皇が献じた「白河灯」が、今も絶やすことなく灯し続けられています。この内陣の灯籠堂の詳細はこちらまで。 http://www.iwasaki.co.jp/projects/examples/ detail.php?EID=scds15&cat=5 空海は、入定前、「未来永劫に人々を救い続けます」との誓願のもと、入定されたとされています。平和で豊かな現代日本に生きている有り難さと、弘法大師はじめ多くの僧侶、人々の精進のおかげで今があることへの感謝の気持ちがわいてきました。とても落ち着いた清々しい気持ちで、奥の院を後にし、壇上伽藍に参りました。次に、奥の院をあとにして、壇上伽藍に参ります。壇上伽藍は高野山の中心であり、密教教理によって作られた真言宗修行の根本道場と位置づけられています。ここには、以下のような建物等があります。 |
| 【金剛峯寺】 もともとは高野山全体をさす総称でしたが、明治以降に真言宗総本山の寺院の名称となりました。蟠龍庭(ばんりゅうてい)という日本最大の石庭や阿字観道場などがあります。四季折々の風景が壁いっぱいに描き出された素晴らしい襖絵やお庭。拝観後には、休憩所でお茶とお菓子をいただき、尼僧(珍しい)の機知に富んだお話を拝聴しました。両界曼荼羅はなんと切り絵!素晴らしい!美味しかった。。比較せずに おのれを活かせ!とのお話。さて、金剛峯寺の後は、歩いて壇上伽藍へ移動しました。お日柄もよく気持ちいい。蓮池。 |
| 【金堂(別名 薬師堂)】 壇上伽藍に着くと、そのほぼ真ん中に位置するのが金堂です。高野山全体の総本堂にあたり、本尊として薬師如来像が祀られています。 |
| 【根本大塔】 お堂の中には、中心に大日如来、その周囲に諸仏・諸菩薩が配置され、マンダラが立体的にあらわされています。大日如来をはじめとする諸々の仏像や仏画は、荘厳かつ圧倒的な迫力があります。その中は、色彩鮮やかな素晴らしい密教芸術の結晶です。詳しくはこちらをご覧ください http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/ nagomi/web/nagomi12/essay/ |
| 【御影堂(みえどう)】 ここには、空海の御影(肖像画)が祀られています。もともとは空海の持仏堂だったことから、最も尊厳を尊ぶ御堂とされています。 |
| 【三鈷の松】 御影堂の前に生えている松の木です。高野山開創の伝説に由来するもので、空海が唐から帰国する際、密教流布の地を選ぼうと唐の国から両端が三つに分かれた金銅の法具「三鈷杵」を投げたところ、高野山のこの地のこの松に届いたと伝えられています。御影堂と三鈷の松。普通、松の葉は2本または5本なのですが、三鈷の松は3本あります。法具の三鈷杵の先は3つに分かれています。この三鈷杵が掛かった松は、偶然に三葉であったという不思議。 http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/garan/ maisyo/sanko/05.htm みなさん、三鈷の松の葉を探していらっしゃいましたね。けっこう見つかったようですよ!(^^)!このヴァジュラは先が九つある 九鈷杵(こしょ)最後に霊宝館を見学して、一日たっぷりの高野山巡礼は終了しました。とても一日で体験できるものではありませんが、脈絡と続く修行の伝統と、未来永劫人々の幸せを願い続けるという弘法大師空海の誓願は今もしっかりと息づいていることに感銘をうけました。私達も少しでもその心に近づけるよう精進したいと思います。 |
| 【比叡山:日本仏教の母胎の聖山 】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第10回/比叡山:日本仏教の母胎の聖山 」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第10回は「比叡山」です。京都から滋賀にかけて横たわる比叡山は、伝教大師最澄を開祖とする名高い「比叡山天台宗」の総本山です。開山以来多くの傑出した僧侶や仏教宗派の開祖を輩出したために、日本仏教の母胎とも言われる一大聖地です。それではまず、①比叡山に関する文献からそのご紹介をし、その後に、②2015年3月21日に私たちが実際に行ってきた比叡山のレポートをご紹介します。そして、最後に、③比叡山を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介します。 |
| ●文献からの比叡山のご紹介 |
| ■比叡山:延暦寺 ――最澄が創建した日本仏教の母体 比叡山は、京都側、琵琶湖側の双方において、ちょうど比叡山を正面に拝する山麓から、縄文時代の遺跡が発掘されたことから、縄文時代からの神山であったと思われる山です。東に日本最大の湖・琵琶湖を望み、西には古都京都を見晴らす位置にあり、太古の樹海に抱かれ、都人に「都の不二」と詠まれた秀麗な山容です。 比叡山には「延暦寺」という堂塔はなく、標高848mの比叡山そのものが延暦寺を表しています。伝教大師最澄(767-822年)は、日本の国の安泰と、国民の幸福を祈り、日本人に合った仏教として平安時代初期、天台宗を比叡山に開かれました。 その教えの根本をなすものは、『個々が思いやりの心をもって一隅を照らす人になる』すなわち、一人ひとりが相手の立場に立って考え、自分のできることを精一杯行うことが、周りがよくなっていくことにつながるという教えです。 比叡山は、弘法大師空海の高野山と並び称されて、きわめて豊かな歴史を持ちます。比叡山からは、その歴史の中で多くの高僧・名僧が生まれました。最澄自身だけでなく、慈覚大師円仁をはじめ、智証大師円珍、慈恵大師・元三大師良源、恵心僧都源信、徳川幕府に仕えた天海大僧正などが生まれています。また、平安末から鎌倉時代にかけて、臨済宗・栄西、曹洞宗・道元、浄土宗・法然、浄土真宗・親鸞、日蓮宗・日蓮など、各宗の祖師は、すべて比叡山で修行をされました。まさに日本仏教の母体、日本仏教発祥の聖地といえましょう。そして、近年でも千日回峰行満行となった僧が存在し、1200年経った現在も、千古の伝統を誇る修行や法要が行われ続けています。延暦寺は3つのエリアに分けられますが、ひかりの輪の聖地巡りでは、東塔と西塔の2つのエリアを巡りました。 |
| ◎東塔 延暦寺発祥の地です。総本山・根本中堂(国宝)があり、秘仏・薬師如来(最澄作)の宝前に、1200年間その灯明が守り継がれている「不滅の法灯」があります。大講堂には各祖師像が安置されています。 |
| ◎西塔 美しい木立と静寂な空気につつまれた場所です。最澄御廟である浄土院(最澄作 阿弥陀如来)、釈迦堂(最澄作 釈迦如来)、常行堂・法華堂などがあります。 |
|
●比叡山参拝レポート:2015年3月21日 (※同行したスタッフのレポートです) |
| 比叡山は、縄文時代からの神山であったと思われる山です。東に琵琶湖を望み、西に古都京都を見晴らす位置にあり、太古の樹海に抱かれ、都人に「都の不二」と詠まれた秀麗な山容です。
伝教大師最澄は、国の安泰と国民の幸福を祈り、日本人に合った仏教として比叡山で天台宗を開きました。比叡山は、弘法大師空海の高野山と並び称されて、きわめて豊かな歴史を持ちます。 比叡山からは、多くの高僧・名僧が生まれました。最澄のみならず、慈覚大師円仁をはじめ、智証大師円珍、慈恵大師・元三大師良源、恵心僧都源信、徳川幕府に仕えた天海大僧正など。 また、平安末から鎌倉時代にかけては、臨済宗・栄西、曹洞宗・道元、浄土宗・法然、浄土真宗・親鸞、日蓮宗・日蓮など、各宗の祖師は、すべて比叡山で修行をされました。 こうして、まさに日本仏教の母胎、日本仏教発祥の聖地といえます。 そして、まず比叡山の「西塔地区」を参拝しました。 静寂なたたずまいと、どこからともなく香る木々の匂い。浄土院、釈迦堂、常行堂・法華堂などがあり、参拝しました。釈迦堂です。法華堂です。 次に向かったのが、比叡山の中でも最も神聖な場所の一つとされる開祖伝教大師最澄の御廟(浄土院)です。浄土院です。 仏教の象徴の法輪。浄土院の後は、いよいよ延暦寺発祥の地である東塔地区へ向かいました。そこには、総本山・根本中堂(国宝)があり、秘仏・薬師如来(最澄作)の宝前に、1200年間その灯明が守り継がれている「不滅の法灯」が安置されています。 残念ながら根本中堂を含めてお堂の中は撮影禁止ですが、根本中堂は、漆黒の大宇宙のような深さの中に、衆生済度の慈悲心が満ちたような空間でした。襟を正したくなるような重厚さです。他に類を見ない素晴らしい空間です。 世情不安定だった時代の僧侶たちの祈りにも思いを馳せました。くしくも地下鉄サリン事件20年忌を迎えたばかりのこの日、それぞれのお寺で、慰霊の祈りを捧げさせていただきました。 |
| 【京都:永遠の都の寺社と聖地】 | |||||||||
| 「パワースポット・聖地のご紹介第11回①/京都:永遠の都の寺社と聖地」。 | |||||||||
| お勧めのパワースポット・聖地の第11回はいよいよ「京都」です。京都は、それ自体が日本文化の代名詞ともいえる存在であり、日本の伝統的な宗教・文化・芸術などを1000年以上にわたって生み出し、育み続けてきた都であり、数多くの聖地に彩られています。 そこでまず、①2014年と2019年にそれぞれ、私たちが様々な京都の寺社・自然を巡った時のレポートをご紹介します。その後に、②文献に基づいた京都の寺社の紹介をします。最後に、③京都を含めたひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良いヨーガ歩行瞑想に関する記事等をご紹介します。 | |||||||||
| ●京都寺社巡りレポート:2014年3月21日 (以下は同行したスタッフのレポートです) |
|||||||||
| 2014年の3月21日の早朝に、私たちは、東京を出発し、京都の聖地巡りに向かいました。その日は渋滞にはまって、さらに雪に降られ、あられまで降ってきましたが(-_-)、目まぐるしく変わる天候に翻弄されつつも、まずは石清水八幡宮を参拝しました。 石清水八幡宮は京の都を守護するために、都の裏鬼門(南西の方角)に作られた重要なお宮です。ここは何とも例えにくいですが、キリっとした清々しさにあふれた神社です。その展望台からは京都の町並みと、向こうには比叡山が見えます。 石清水八幡宮の後は、護国鎮護のために建てられた東寺、千体の千手観音像が圧巻の三十三間堂を参拝しました。東寺は、真言宗の総本山であり、平安京を守護するために、今は存在しない西寺と共にたてられたお寺です。時の天皇によって弘法大師に与えられました。この近くには、平安京の南玄関である羅城門がありました。東寺の伽藍の配置は、そのまま曼荼羅の密厳浄土を表します(密厳浄土とは、大日如来の浄土だが、この世界がそのまま密厳浄土と真言宗は説く)。 | |||||||||
| 弘法大師空海は、ここを鎮護国家の道場として伽藍を整備し、山奥にある高野山で得られた智恵を都の中で実践に移す修行をされていたそうです。次に、三十三間堂を参拝しました。千体の観音仏像は荘厳にして圧倒的な迫力で神聖な空間を作っていました。その後、平安京の大極殿を模した平安神宮をお参りしました。大極殿とは、都の中で天皇が政務を行う中心の場所です。平安神宮は、今は無き平安京の大極殿の建物を再現したものです。夕方からは、東山地区に移り、いずれも名高い八坂神社、円山公園、知恩院、清水寺を参拝しました。上の写真は夕方近くの八坂神社の正門の様子です(昔は神仏習合の聖地でした)。その後は、夜の東山を色々と巡りました。ライトアップされた夜の八坂の塔です。美しい!そして、名高い清水寺も、ライトアップされた中を参拝しました。観音菩薩を祀り、清水の舞台が有名なお寺です。清水寺の門。ライトアップされた清水の舞台 夜景も幻想的。大変な人出でしたが、ライトアップされた町並みは素晴らしく、いっそう京都風情を盛り上げていました。ともあれ、無事今日の巡礼がおわりました。早朝から夜遅くまで、よく動きました(笑)。みなさまお疲れ様でした。 | |||||||||
| 京都聖地巡り2日目(3/22) 昨日の心地よい余韻で朝もすっきり。今日は、名高い銀閣寺の参拝からスタートです。これらの寺院は皆、京都の世界遺産の構成要素になっています。砂を綺麗に整えていらっしゃいます。足利義政が、その美意識の全てを賭けて造った東山文化の粋の極み。お山はもちろん富士山を、砂地は水の流れを意味します。そのわびさびの妙に、言葉を失うくらいの素晴らしさでした。 |
|||||||||
「パワースポット・聖地ご紹介第11回その2/「京都」永遠の都の聖地と聖地」。 |
|||||||||
| さて、次は下鴨神社を参拝しました。都の東北に位置し、都を鬼門から守る役目を果たしてきたお社です。 賀茂川と高野川の合流地点にあり、広大な「糺(ただす) の杜」が広がっています。ここからは、縄文時代の祭祀具や遺跡もみつかっており、古代から聖地であったところです。また、古代からの原生の植生がそのまま残る貴重な森としても保護されています。 ほんとうに清々しい! ここは、方丈記の鴨長明の出生地でもあります。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず.」無常の仏教の教えですね。二条城 (世界遺産)。次に二条城を訪問しました。徳川家康が、京都御所の守護と、将軍上洛の際の宿泊所として、造営し、家光によって完成されました。桃山時代の書院造りで、襖絵や彫刻がよく保存されています。まさに江戸時代の幕府と朝廷の関係を現す遺産です。ここは幕末に徳川の栄華が終わって、徳川慶喜による大政奉還が行われて、江戸幕府の始まりと終わりを見守った場所でもあります。武士達は何を思い、栄枯盛衰をどう受け止めたのでしょうね。その後は、平安京の大極殿の中心部だったと考えられる場所を徒歩で回りました。その当時の平安京の大極殿の建物を再現したのが、昨日行った平安神宮でした。平安神宮:平安京の大極殿を模した建物。この季節、花々が華々しく咲き誇っています | |||||||||
| 「パワースポット・聖地ご紹介第11回その3/「京都」永遠の都の聖地と聖地 」。 | |||||||||
| 京都聖地巡りの3日目(3月23日)、最終日は古くから有名な観光地である嵯峨嵐山周辺を徒歩で巡るコースとなりました。 | |||||||||
| 嵐山 この嵐山の象徴は渡月橋です。亀山上皇が橋の上空を動いていく月を見て「くまなき月の渡るに似る」と述べられたことから、この名がついたそうです。昨年大水によって一帯が水浸しになったのは記憶に新しいところですが、まだ岸の工事が一部続いていました。上流には愛宕山や小倉山、下流には比叡山が見えます。うっすらと比叡山が見えます。 |
|||||||||
| 天龍寺(世界遺産) 次に、渡月橋から歩いてもすぐの所にある天龍寺を参拝しました。京都五山第一の寺格を誇る臨済宗の禅寺です。後醍醐天皇の菩提をとむらうために、足利尊氏が夢想国師を開山として建立しました。座ってお庭を見ていると心の雑念がなくなっていきますね。それにしても広くて美しいお庭です。春のお花が咲き乱れ、お花の香りが香しい! |
|||||||||
| 嵯峨野の散策
天龍寺参拝の後は、嵯峨野路を歩いて回りました。この一帯は、風光明媚なために、古くから天皇や貴族の行楽地となり、別荘や寺院などが多数建てられました。竹林(ちくりん)の道の途中の野宮神社にお参りしました。伊勢神宮にお仕えする齊王が、お仕えする前の一年間の間、身を清めるための聖なる場所でした。そして、常寂光院、落柿舎、二尊院を通り、清涼寺に向かいました。 |
|||||||||
| 大覚寺 弘法大師空海を祖とする真言宗大覚寺派の本山です。嵯峨天皇ご成婚の際に建てられた離宮が大覚寺の前身で、嵯峨御所とも呼ばれています。明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院です。いけばな嵯峨御流の家元でもあり、美しい庭園は時代劇のロケ地としてもよくつかわれています。 |
|||||||||
|
広隆寺 |
|||||||||
| これにて、今回のプログラムは終了いたしました。歴史背景を学びながら、先人の足跡をたどる旅。その知恵を現代生活にも通ずる教えを日々生かしていけるといいですね。楽しいながらも一日フル稼働なのが私たちの巡礼ですね・・・やっぱり(笑)。みなさん、良く学び、良く歩かれました。また、皆さんの大いなるお手伝いをいただきながらの巡礼でもありました。ご参加の皆さま大変お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。 | |||||||||
| ●京都の寺社参拝レポート:2019年4月15日 (※同行したスタッフのレポートです) |
|||||||||
|
2019年4月15日は、京都のお寺をめぐる聖地巡りに行ってまいりました。そして久しぶりに、三十三間堂、知恩院、永観堂を参拝させていただきました。 |
|||||||||
|
三十三間堂
まだ少し肌寒く、桜はだいぶ散ってはいましたが、可憐な花を愛でることができました。まず参拝したのは三十三間堂です。残念ながら撮影禁止のために写真はご紹介できませんが、三十三間堂が誇る千体の観音さまは、やはり圧巻でした。また、ご本尊の千手観音さまの威厳に満ちたお姿には改めて感動いたしました。三十三間堂の外観。三十三間堂の周りの庭園。 |
|||||||||
| その後は、浄土宗の総本山の知恩院を参拝しました。正門には、新年号の「令和」のお祝いの五色の布が飾ってありました。 山門を通って登っていった境内には大きな「御影堂」があります。こちらは経堂、お経を修めているお堂です。阿弥陀如来の脇侍の菩薩である勢至菩薩を祀る「勢至堂」です。そして次がいよいよ、浄土宗開祖の法然上人の御廟となります。法然上人のお廟です。法然上人の信条(許しと衆生すべてに仏教を広める)に思いをはせながら、上人の教えである「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えて瞑想させていただきました。 | |||||||||
| 知恩院の後は、「永観堂」を参拝しました。「もみじの永観堂」で知られ、古くから学問(論議)が盛んな寺院です。ここのご本尊の「見返り阿弥陀さま」は、修行する永観の前に現れて、「永観おそし」とおっしゃったという言い伝えがあり、頭が左を向かれている珍しい仏像です。遅れてくる人への慈悲のお心を現した仏像だと信じられてきたそうですが、とても心打たれる素晴らしい仏さまで、対面していると、仏さまの慈しみの波動のようなものを強く感じます。
|
|||||||||
| 「パワースポット・聖地ご紹介第11回その4/「京都」永遠の都の聖地と聖地」。 | |||||||||
| ●文献からの京都の聖地のご紹介 | |||||||||
| ●石清水八幡宮――王城の守護、国家第二の宗廟 | |||||||||
| ◎御神徳 創建以来、都の裏鬼門(西南の方角)を守護する王城鎮護の神、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟として皇室の御崇敬特に厚く、また武運長久の神として清和源氏をはじめ全国の武士が崇敬を寄せてきました。とりわけ厄除開運の御神徳は古来名高く、今も男女を問わず厄年にあたる人々をはじめ、事業の繁栄・安全を祈る企業や団体、学問・技術の向上を願う青少年など、八幡大神の御神徳を慕う多くの人々の熱心なお参りが絶えません(以上、同宮パンフより)。 |
|||||||||
◎ご祭神
|
|||||||||
| ◎由来など 創建は清和天皇の御代、平安時代初期(859年)にさかのぼります。奈良大安寺の僧・行教が、「吾れ都近き石清水男山の峰に移座して国家を鎮護せん」と、宇佐八幡大神から託宣を受け、その翌年に建立されました。創建当初から特別扱いを受け、天皇や上皇による参拝は約250回におよぶそうです。鎌倉の鶴岡八幡宮も、ここから分霊を勧請して造られましたが、以後、全国各地の武士が八幡神を勧請して祀るようになった源流はここにあります。9月15日の石清水祭は、賀茂祭・春日祭とともに三大勅祭と称されています。 |
|||||||||
| ◎エジソンとの縁 白熱電球の発明家として知られるエジソンは、電球のフィラメントに用いるのに適切な素材を世界中から集めて試行錯誤を繰り返していましたが、やがて、この八幡の地の竹「八幡竹」が最も適していることを知り、電球の実用化にこぎつけました。このことを記念して、境内にはエジソン祈念碑が建てられ、エジソンの誕生日(2月11日)には毎年エジソン生誕祭が行われています。 |
|||||||||
| ●東寺(世界遺産)――宇宙的スケールの立体曼荼羅 | |||||||||
| ◎平安京を守護するため建立 東寺は、東寺真言宗の総本山で、正式名称は「教王護国寺」といい、世界遺産です。平安建都の際、平安京を守護するために、今は現存しない西寺と、セットで建立されたお寺です。平安京のメインストリートである朱雀大路は、南玄関の羅城門(らじょうもん)から大内裏まで一直線に伸びている巨大な道でしたが、その入り口に、朱雀大路をはさんで東西に建てられていたのが、東寺と西寺だったといいます。現在の京都は、平安京の時代に比べて、御所をはじめとして大部分が東方へずれていますが、東寺の配置は当時のまま残る貴重なものです(一級史蹟に指定)。 造営当初の平安京では、僧の政治干渉を排除するため、お寺は東寺・西寺の二つの建造しか許されていなかったそうです。 東寺の伽藍は、南大門を入って金堂・講堂、食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配置され、塀で区別された境内は、そのまま曼茶羅であり密厳浄土を表現しています。 |
|||||||||
| ◎真言密教の根本道場・利他行実践の寺 9世紀初頭、東寺は弘法大師空海に授けられると、真言密教の根本道場として、また鎮護国家の道場として、新たに栄え、伽藍が次々と整備されました(そのため真言密教は「東密=とうみつ」とも呼ばれます)。空海が高野山を自らの修禅の場として開いたことは有名ですが、東寺では、高野山で得られた智慧を利他行として実践したといわれています。 |
|||||||||
| ◎毎月21日は空海の命日 中世以降には、弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになりました。 現在も「弘法さん」という縁日が21日に毎月行われ、千軒以上の露店が並び、20万人以上の人出でにぎわうさまは、大師に寄せる民衆の信仰の深さを表しています。 |
|||||||||
| ◎国宝などの伽藍 ・講堂:大日如来を中心に21体の仏が立体曼荼羅を構成するよう安置され、空海が理想とした密教世界が現出。通常は絵画で表現される曼荼羅世界を体感しやすいよう、空海は仏像を立体的に配置して密教の宇宙観を表現したという。・金堂:国宝。ご本尊は薬師如来。・五重塔:高さ57メートル。現存する木造の古塔では日本一の高さ。大日如来に見立てた「心柱(しんばしら)」と金剛界四仏、八大菩薩が安置されている。 |
|||||||||
| ●三十三間堂(蓮華王院・国宝)――圧倒的スケールの観音菩薩像群 三十三間堂(正式名称は蓮華王院)は国宝のお堂です。中央にある一番大きな像(中尊・国宝)の左右に、それぞれ五百体の像(重要文化財)が位置し、約120メートルの堂内に、1001体の観音像が並び立つ荘厳さに、思わず息を呑むことでしょう。それぞれの観音像は、正式には「十一面千手千眼観世音」といい、このように千の手を持ち、千の眼を持つ(と観念される)観音像が、実際に千体も存在しているところは、他に類を見ません。不思議と会いたい人の面影に似た観音像が必ず一体は祀られているといいます。 なお、この「千」という数字は、千の手段、すなわち無数の手段をもって衆生を救済する観音菩薩を象徴し、また、「三十三間堂」という建物の名称も、観音菩薩が衆生済度のために、相手の機根にあわせて三十三の姿に変化することに由来しています。その三十三の姿は、仏教修行者が目にするありとあらゆる仏や神、人などの姿であることから、仏教修行者は、その出会うすべての神仏や人々を観音様の化身と見て、尊重すべきだ、という考え方も生まれました。このように、三十三間堂は、広大な慈悲と救済の象徴である観音菩薩の世界観を、まさに目に見える形で現実に現したものといえます。 |
|||||||||
| ●平安神宮――造営当初の平安京、大極殿を再現 平安神宮は平安遷都1100年の記念事業として、明治28年(1895年)に、第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。桓武天皇は、794年に平安京に遷都を行い、その後の国の発展の基礎を築いた天皇です。以後、平安京は1000年以上にもわたって国の都となりました。さらに、昭和15年(1940年)には、平安京における最後の天皇で、明治維新への道を開いた第121代孝明天皇を新たなご祭神としてお祀りしました。平安神宮は、平安京における政治の中枢であった朝堂院が8分の5の規模で再現されています。天皇の玉座・高御座があり、国家の重要な儀式が行われた「大極殿」も再現されており、平安京造営当初の雰囲気を感じることができます。大極殿の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来するとされます。そして太極は、陰陽の「二元」が生じる以前の根源状態を意味します。なお、実際に大極殿があった場所には、翌日(22日)に訪問します(当初は、実際の場所に再現する計画だったそうです)。また、平安神宮の祭りである時代祭は、葵祭や祇園祭と並んで、京都三大祭の一つとして知られています。 |
|||||||||
| ●京都東山花灯路――幻想的な夜間ライトアップ 今回の期間は、ちょうど、「京都東山花灯路」という夜間ライトアップの催しの最中にあたり、その幽玄な世界を散策することができます。そのパンフレットには、以下のようにあります。
散策路(京都東山花灯路)には、多数の名所があります。 |
|||||||||
| ●八坂の塔(法観寺)――東山のシンボル 京都東山一帯のシンボルとなっている五重塔のあるお寺です。寺伝によると、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げによって五重塔を建立し、仏舎利三粒を納め、法観寺と名付けたと伝わります。 |
|||||||||
| ●八坂神社――祇園祭の神社 祇園一帯の守り神として親しまれている、素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神をお祀りする神社です。社伝によれば、7世紀に八坂氏の祖である伊利之(いりし)が高麗より来朝し、新羅国牛頭山の素戔嗚尊の神霊を遷しお祀りしたと伝えられています。八坂神社は、祇園社とも呼ばれ、祇園祭で有名ですが、その祇園の名は、牛頭天王(素戔嗚尊)が、祇園精舎の守護をしていたという故事からそう呼ばれるようになったといいます。また、古来厄除けの神としても貴族から民衆までの多様な人々の信仰を集めました。 |
|||||||||
| ●清水寺(世界遺産)――京都を代表する光景 清水の舞台で有名な寺院です。自然豊かな小高い丘にある境内には、音羽の滝から霊水が湧き出しています。この霊水はご利益があると有名で、参詣者が絶えません。奈良時代末期、坂上田村麻呂がこの地で修行中だった、清水寺の開祖・延鎮と出会い、千手観音をお祀りしたのがはじまりと伝わるお寺です。その後、田村麻呂が征夷大将軍となって後、桓武天皇の時代に、国家鎮護の道場となりました。西国観音霊場33カ所の一つでもあります。平安時代には観音霊場として多数の参詣者で賑わうようになり、そのさまは『枕草子』などの書物に描かれています。その後、衰えたものの、徳川時代に再建され現在にいたります。 |
|||||||||
| ●銀閣寺(世界遺産)――東山文化の粋 金閣寺と同じ臨済宗相国寺派の寺院です。正式名称は東山慈照寺。1482年、室町幕府8代将軍・足利義政が、平安時代に創建されたものの荒廃していた浄土寺の後に「東山殿」という山荘を築いたのが前身です。政治には無関心だったものの、芸術に強い関心を示した義政が、その美意識のすべてを傾けて造っていった隠居所ですが、その完成を見ずに義政は亡くなりました。義政の死後は、その遺言によって禅寺となりました。なお、銀閣寺のシンボルといえる国宝・観音殿(銀閣)は、その名称にかかわらず銀箔は貼られていません。国宝・東求堂は、義政が思いを込めてつくった書院造の持仏堂です。その建物や庭園の配置の妙は、東山文化の粋を伝えているといわれています。 |
|||||||||
| ●下鴨神社(世界遺産)――伊勢神宮に次ぐ格式の、京都最古の神社 都の東北に位置する下鴨神社は、都を鬼門から守る役割を果たしてきた社です。京都は、鴨川を中心に町づくりがなされており、「鴨」川の「下」流に祀られているお社というところから「下鴨さん」とか「下鴨神社」と親しみを込めて呼ばれています。ちょうど賀茂川と高野川の合流する糺の森(ただすのもり)に鎮座されています。正式名称は「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」。賀茂神社は、上賀茂神社とこの下鴨神社の二社で成り立っており、両社とも天武天皇の御代に創建されたと伝えられます。御祭神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)は、上賀茂神社の賀茂別雷神(かもわけいかずち)の母と祖父にあたります。水の神、農耕神、導きの神としての性質を持っています。 古代京都の森を連想させる糺の森では、1990年以降の発掘調査において、石器時代から縄文、弥生などの遺跡と祭祀具が発掘され、いずれも森林と水の流れを背景とする祭りの庭跡だったことから、この地は、古代から聖地として存在し続けてきたと見られています。また、古代の山城原野の植生の残る貴重な森として保護されています。 境内摂社の河合神社は、この地の地主神で、鴨長明が生まれた地として有名です。鴨長明といえば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。・ ・・」ではじまる有名な『方丈記』を著した人物です。 |
|||||||||
| ◎祭祀者 この社の最初の祭祀者は、「賀茂県主(かものあがたぬし)」を筆頭とする賀茂氏であり、その始祖が、ご祭神である賀茂建角身命となっています。賀茂建角身命は、神武天皇が大和政権を樹立する際に、八咫烏(ヤタガラス)に変身して、天皇を大和国に先導したといわれている神です。 その後平安京遷都の際、桓武天皇の行幸があり、下鴨神社は、賀茂氏の氏神から、国家鎮護の神となりました。それ以来ずっと、この社では国家国民の安穏と世界平和の祈願が行われ続けています。要は、旧石器時代から現在まで、祭祀が行われ続けている聖地です。 この社は、平安京においては皇居のすぐ近くに座し、当時、斎王という皇族の巫女が奉仕する伊勢神宮と賀茂神社にしかない制度があったことなどからも、伊勢神宮に準じる朝廷・平安京において、非常に重要な神社であったことがわかります。 |
|||||||||
| ◎神話 また、興味深いものとして、賀茂神社の御祭神・賀茂別雷神の誕生譚で、賀茂川を丹塗りの矢が流れてきたという神話があります。この「丹塗りの矢」の伝承は、賀茂氏の管轄の下鴨神社・上賀茂神社だけでなく、秦氏の管轄の松尾大社や日吉大社にもあり、また三輪山の大神神社にもあります。 それぞれ、丹塗りの矢の正体は、神社によって違う名前の神なのですが、どちらにしても、賀茂氏と秦氏は共通の神話を持っていたということになります。 |
|||||||||
| ●二条城(世界遺産)――江戸時代の始まりと終わりの場所 二条城は,慶長8年(1603年),徳川将軍家康が,京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し,3代将軍家光により,伏見城の遺構を移すなどして,寛永3年(1626年)に完成したものです。家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて,いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができます。徳川家の栄枯盛衰のみならず,日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城です(以上、二条城HPより)。 徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所とされます。二の丸御殿は国宝に指定され、二条城そのものも世界遺産に登録されています。 |
|||||||||
| ●大極殿跡(および京都アスニー)――かつての都の中心地 現在は住宅地の中の公園の一角ではありますが、かつて平安京の大極殿はこの地にありました。それを示す石碑が建てられています。大極殿を8分の5サイズで再現した建物が、前日に参拝した平安神宮の拝殿です。ここから歩いて数分の京都アスニー(博物館)には、平安京の模型があり、当時のこの近辺の様子を鳥瞰することができます。 |
|||||||||
| ●北野天満宮――学問の神様をお祀りする | |||||||||
| ◎由緒など 北野天満宮は、菅原道真公(菅公)をおまつりした神社の宗祀(総本社)で、親しみを込めて「北野の天神さま」と呼ばれています。平安時代中頃の天暦元年(947)に、京都に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが、当所に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まりとされます。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満宮天神」の神号が認められ、寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきました。江戸時代には教育施設として各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室には必ず天神さまがおまつりされ、あるいは神影(菅公のお姿を描いたもの)が掲げられ、学業成就や武芸上達が祈られてきました。現在、全国各地には菅公をおまつりした神社が、およそ一万二千社とも言われ、その多くは当宮から御霊分けをした神社であります。菅公は世々に「文道の大祖・風月の本主」と仰ぎ慕われ、学問の神様としての信仰は昔も今も変わることなく人々の生活のなかで受け継がれています(以上、同宮HPより)。 |
|||||||||
| ◎菅原道真公について 宇多、醍醐天皇から重用され右大臣として活躍した道真公は、901年、藤原時平の讒言で太宰府に左遷され、2年後にその地で没しました。死後、内裏清涼殿の落雷、時平の急死など、都に天変地異が続きました。923年、時平の娘の生んだ親王が没しましたが、世を挙げて道真公の怨霊のなせることと恐れました。道真公の霊魂を鎮めようとして、朝廷は道真公没後20年、右大臣に復して、正二位を贈り、さらに正一位左大臣、太政大臣を追贈しました。その後、上記の経緯でこの地に社殿が造営され、皇城鎮護の神とされました。 |
|||||||||
| ◎梅の名所として 道真公は梅を好み、梅を詠んだ有名な歌を残しています。「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな」。この時期の境内は梅の花が咲き誇り、梅の馥郁たる香りに包まれています。 |
|||||||||
| ●金閣寺(世界遺産)――極楽浄土を再現 銀閣寺と同じ臨済宗相国寺派の寺院です。正式名称は鹿苑寺。お釈迦様の舎利(お骨)をまつった舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました(以上、金閣寺HP等より)。 |
|||||||||
| ●大原・三千院――都を離れた静寂の地 京の中心部から離れた大原の地にある天台宗寺院。788年、伝教大師・最澄が、比叡山東塔南谷の梨の大樹の下に建立したのが始まりと伝えられています。860年、清和天皇の勅を受け、最澄自刻の薬師如来を本尊として、一念三千院と称しました。1130年、堀河天皇の第二皇子が入寺以来、皇族の住持する寺となりました。その後、洛中を転々とし、明治の神仏分離によって、1871年に大原のこの地に移りました。1896年に大原にあった常行三昧堂の往生極楽院を本堂として、阿弥陀如来を本尊としています。この阿弥陀如来と脇侍の観音・勢至菩薩は、国宝に指定されており、両脇侍は前屈みに正座のような「大和坐り」をしているのが特徴で、よく知られています。奥の院に至る庭園の景観も素晴らしいものです。下村観山が襖に大きな虹を描いた「虹の間」もあります。 |
|||||||||
| ●音無の滝――自然との和合 三千院から歩いて15分ほどの山中には「音無の滝」があります。 「良忍上人はじめ、家寛(後白河法皇の声明の師)、湛智など代々の声明法師は、この滝に向かって声明の習礼をさされたという。初めは声明の声が滝の音に消されて聞こえず、稽古を重ねるに従って、滝の音と声明の声が和し、ついには滝の音が消えて、声明の声のみが朗々と聞こえるようになったと言う。それで音無の滝と名づけられたと言われている。」(大原観光保勝会サイトより) |
|||||||||
| ●渡月橋――嵐山の象徴 渡月橋は、桂川左岸(北側)と、中州である中ノ島公園の間に架かる橋で、全体が右京区にある美しい橋です。橋長155m、幅11mで、その美しい風景が観光名所であるとともに、桂川の両岸を結ぶ重要な交通路となっています。亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから渡月橋と名付けられたということです。 |
|||||||||
| ●天龍寺(世界遺産)――京都五山第一の禅寺 臨済宗の寺で、嵐山を背景にした美しい庭園で有名です。この地は、日本最初の禅寺である檀林寺のあったところで、後に、後嵯峨上皇の御所である亀山殿が営まれました。その後、後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が夢窓国師を開山として建立したのが天龍寺になります。室町時代には、京都五山第一の寺格を誇って、幕府の保護を受け、禅に関する書籍が多数出版されました。その後、幕末の蛤御門の変の時まで、八回もの焼亡、再建が繰り返され、明治~大正期に復興されました。 |
|||||||||
| ●嵯峨野の散策 天龍寺を出た後は、嵯峨野を北に向かって歩きます。嵯峨野は、かつて渡来氏族である秦氏が開発し、その後、風光明媚なため天皇や貴族の行楽地となり、寺院や別荘の建設が相次ぎました。まず、竹林の道を通り、野宮神社にお参りします。野宮神社は、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が、お仕えを始める前の一年間に身を清めるための聖なる場所とされていました。ご祭神は天照大神です。そして、常寂光寺(嵯峨野を一望できる日蓮宗寺院)、落柿舎(松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘)、二尊院(釈迦と阿弥陀の二尊をまつる天台宗寺院)の前を通り、清涼寺に向かいます。 |
|||||||||
| ●清涼寺(嵯峨釈迦堂)――釈迦牟尼像で知られる法然上人ゆかりの寺 浄土宗に属する寺院です。前身となる寺院は945年に建立され、国宝に指定されている釈迦如来像を本尊としています。この釈迦如来像は、善光寺のご本尊とともに「日本三大如来」の一つに数えられています。平安時代以降、霊験あらたかで、生きている仏とされ、篤い信仰を集めてきました。寺伝によれば、インドの王が、釈迦牟尼37歳の当時、そのお姿を寸分違わず像に彫らせました。その像は、やがてインドから中国に伝わり、中国(宋)でその像を見た日本の仏教僧が、さらにこれを模刻して、985年に日本に持ち帰りました。これが本尊の釈迦如来像であり、その由来から「三国伝来」の仏さまとされます。異国の作風であり、釈迦如来像の中では「清涼寺式」という代表的な形式で、やがて日本全国で広く模刻されていきました。この仏像を中国から持ち帰った奈良東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、当時の硬直化した仏教を改革しようとしていた人物でした。彼は「釈迦に帰る」ことをモットーに、中国に求道の旅に出て、この像の元になる釈迦如来像に出会いました。さらに、その後、鎌倉時代にも「釈迦に帰れ」という宗教運動が巻き起こった際にも、これを摸した釈迦像が全国各地で造られたといいます。 鎌倉仏教の第一人者である浄土宗開祖・法然も、比叡山で修学中の24歳の時、釈迦牟尼に教えを請うために、この清涼寺に7日間こもって修行しました。その際、苦悩する多くの一般民衆が釈迦牟尼に救いを求めている光景を見たことから、広く人びとを救うための仏教をより強く探究するようになり、後の浄土宗の開宗につながったといわれています。本堂の釈迦牟尼像に向かって法然の像が建てられている所以です。 |
|||||||||
| ●大覚寺――優雅なたたずまいの「写経の寺」 弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山です。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡と称し、嵯峨御所とも呼ばれています。平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院です。嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)です。弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られています。 明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院です。いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもある。時代劇・各種ドラマのロケ地としても有名です(以上、同寺HPより)。境内には、大沢池など離宮当時の遺構も残っていて、平安期の美しい池泉庭園の姿を残しています。 |
|||||||||
| ●広隆寺――弥勒菩薩と聖徳太子ゆかりの寺 京都市右京区太秦(うずまさ)にある、聖徳太子と弥勒菩薩を祭る真言宗御室派の寺院。現在の本尊は聖徳太子(太子殿本尊)ですが、創建当初は聖徳太子が弥勒菩薩を本尊としていました。平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰の聖地となったと伝わります。 日本書紀によれば、推古天皇11年(603年)、聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、帰化人系の豪族・秦河勝がこの仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたと伝えられています。霊宝館には、弥勒菩薩半跏像(国宝)、不空羂索観音(国宝)、千手観音(国宝)、阿弥陀如来(国宝)、薬師如来、金剛蔵王権現が祭られています。 |
|||||||||
| ●知恩院 知恩院は、京都市東山区にある寺院で、浄土宗総本山です。 |
|||||||||
| ◎法然について 浄土宗の開祖・法然(1133-1212)は、9歳の頃、目前で父を殺され、その敵討ちを誓おうとします。しかし、「敵を恨むな。敵討ちをすればその子がまたお前を恨み、恨みが尽きることはない。出家して私の菩提を弔い、まことの道を歩め」との父の遺言に従い、敵討ちを断念し、出家します。以後、比叡山での約30年間の修学ののち、43歳の時、山を下りて東山吉水の地に庵を結び、「阿弥陀仏の名を称する念仏(称名念仏)によって誰もが平等に救われる」という浄土宗の教えを説き、篤い信仰を集めました。とりわけ法然は「南無阿弥陀仏」と唱える念仏のみを実践する「専修念仏」を説きました。これは、比叡山などで課される多くの他の仏教の修行は不要であり、念仏のみで救われるという革新的なものでしたので、浄土宗の勢いを敵視した旧来仏教勢力の弾圧を受けることになります。法然は、地方に流されますが、許され、また東山吉水に戻って入寂しました(法然は教えの革新性ゆえに、生前から組織的な迫害を受けた日本で最初の宗教家とされます)。 以上のことから、法然は、①親の敵への恨みを捨てた許し=「和の聖人」であり、②一般大衆は仏教の救済の蚊帳の外に置かれていた時代に、比叡山を下り、悪人を含め万人が念仏で救われると説いて、大衆を広く救おうとした意味で、輪と和の思想の中核にある万人平等主義の「輪の聖人」といえます。法然の慈悲が鎌倉新仏教という革新の扉を開いたのです。 なお、法然は日本で唯一、8つもの大師号(天皇から高僧に下賜される諡号)を持っています。江戸時代に「円光大師」が贈られ、500年大遠忌の1711年以降、50年に一度の大遠忌ごとに、大師号が贈られてきました。750年大遠忌の際には昭和天皇から7つ目の大師号である「和順大師」が贈られています(「和順」とは、無量寿経の中の一節で、「世の中が平和であること」を意味する言葉)。そして、2011年の800年大遠忌に際しては、平成の天皇陛下(現上皇陛下)から 「法爾大師(ほうにだいし)」の号が贈られています。 |
|||||||||
| ◎知恩院について 法然が浄土宗を開き、亡くなった地に、後に弟子によって建立されたのが、知恩院です(1234年)。徳川家康の帰依を受け、現存の建物は江戸時代初期に建造されたものです。三代将軍・家光によって寄進された法然の肖像(御影)を祀る本堂(御影堂)は、江戸初期を代表する大建築です。二代将軍・秀忠によって寄進された三門は、我が国最大規模です。長い階段を上った山の中腹には、法然の遺骨を祀った御廟と拝殿も整備されています。 本堂の横には、西に向かって阿弥陀如来を礼拝することができる阿弥陀堂が建立されています。知恩院の境内は、落ち着いた平和な波動であり、法然の優れた智慧・人格・志・困難を乗り越えた生涯を学ぶことができます。上記の通り、法然は円光大師ともいわれ、その点で、ひかりの輪ともシンクロしています。 |
|||||||||
| ●永観堂(禅林寺) 永観堂は、浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院で、本尊は「みかえり阿弥陀さま」として有名な阿弥陀如来です。もともと真言密教の寺「禅林寺」として863年に始まり、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都(しんじょうそうず)ですが、禅林寺12世の僧都・静遍(じょうへん)が法然の教えに帰依し、浄土宗に変わりました。 1082年、禅林寺で修行をしていた永観が日課の念仏を唱え、阿弥陀如来の回りを行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始め、驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って「永観おそし」と声をかけたそうです。それ以来、阿弥陀如来の首の向きは元に戻らず、現在も見返った姿のまま安置されているというめずらしい仏像です。この阿弥陀像からは、仏の平等で広大な慈悲の心の在り方をリアルに学ぶことができます。永観は、境内に施療院を建てるなど、恵まれない人々のために尽くしたことから、永観を慕う人々によって、禅林寺は永観堂と呼ばれるようになりました。 永観堂は自然が美しく、庭園もすばらしいので、心が安らぎ、癒されます。「もみじの永観堂」としても知られています。他にも、西方極楽浄土の思想に絡め、西の空の日没の太陽を見て行う日想観の瞑想の歴史が残る多宝塔や、そこからの京都の地の展望、さらに、仏教・ヨーガの思想を巧みに現した内装の部屋、智慧と慈悲とまごころの象徴とされる「三鈷の松」などの見学・参拝を通して、仏道・ヨーガ道の基本をあらためて学ぶことができます。 |
|||||||||
| ●三十三間堂 三十三間堂(正式名称は蓮華王院)は国宝のお堂。中央にある一番大きな像(中尊・国宝)の左右に、それぞれ五百体の像(重要文化財)が位置し、約120メートルの堂内に、1001体の観音像が荘厳に並び立つ。それぞれの観音像は、正式には「十一面千手千眼観世音」といい、このように千の手を持ち、千の眼を持つ(と観念される)観音像が、実際に千体も存在しているところは、他に類を見ない。不思議と会いたい人の面影に似た観音像が必ず一体は祀られているという。 なお、この「千」という数字は、千の手段、すなわち無数の手段をもって衆生を救済する観音菩薩を象徴し、また、「三十三間堂」という建物の名称も、観音菩薩が衆生済度のために、相手の機根にあわせて三十三の姿に変化することに由来している。その三十三の姿は、仏教修行者が目にするありとあらゆる仏や神、人などの姿であることから、仏教修行者は、その出会うすべての神仏や人々を観音様の化身と見て、尊重すべきだ、という考え方も生まれた。このように、三十三間堂は、広大な慈悲と救済の象徴である観音菩薩の世界観を、まさに目に見える形で現実に現したものといえる。 |
| 【草津:天下の名湯と森の自然】 |
| 「パワースポット・聖地ご紹介第12回/草津:天下の名湯と森の自然」。 |
| お勧めのパワースポット・聖地の第9回は、群馬県・草津です。草津は何と言っても、天下の名湯「草津温泉」で有名です。湧き出る湯の量は圧倒的で、その泉質もあって古来湯治の名湯とされてきました。 草津温泉は、諸説ありますが、奈良時代の高僧の行基菩薩の発見とも言われて、草津温泉郷の中心には薬師如来を祀る光泉寺があります(そもそも温泉自体が古来仏教上の聖地とされ、仏教僧が入るものであり、大衆化したのは江戸時代とされています)。さらに、草津の郊外には、豊かな自然の森や草津白根山を含めた山々も広がっています。そこでまず、①草津に関する文献からそのご紹介をし、そのあとに、②2015年3月22日、私たちが実際に行った時のレポートをご紹介します。そして最後に、③ひかりの輪のパワースポット・聖地巡りの思想や、聖地巡りの際に行うと心身の健康に良い、ヨーガ歩行瞑想に関する記事をリンクしてご紹介します。 |
| ●文献からの草津の温泉・聖地・自然のご紹介 |
| ◆日本一といわれるすばらしい温泉 ・「にっぽんの温泉100選」(観光経済新聞社主催)で、16年連続第一位という人気(2018年12月15日付 観光経済新聞社) ・「泉質主義」を掲げ、どこも源泉掛け流し ・温泉の自然湧出量日本一で、毎分約3万リットル ・酸性で、ph2.1という高い殺菌力(レモンや酢よりすっぱい酸性!)を持つ優れた泉質。その酸の強さは、五寸釘を10日で溶かすほど。 ・さまざまな効能がうたわれ、病を癒したい方が全国から多数湯治に訪れる。 ・高温の熱い湯なのにもかかわらず、硫黄酸化物の特殊な成分が肌表面を保護するために、楽に入ることができ、短い時間でもじんわりと身体がとてもあたたまる、非常に気持ちのよい温泉。 ・特に近年は、新型コロナを不活性化させる効能があると、科学的なデータに基づく主張が公式になされています。 |
| ◆「草津の無比の温泉、山の空気、水」 エルウィン=フォン=ベルツ博士(「お雇外国人」として来日、東京医学校教授、明治天皇やその皇太子の主治医)が、1878年(明治11年)に草津を訪れて以降、草津温泉を再発見、その後、草津温泉は世界的に広く知られることとなりました。博士は、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と、草津温泉のことを称えています。 |
| ◆自然が生み出したパワースポット
活火山・白根山のマグマの力により、いたる所から噴出する草津の温泉地全体が、パワースポットともいえるパワーを秘めています。草津には多数の源泉がありますが、それぞれが、まさにパワースポットといえます。 |
| ◆温泉を聖地、入浴を修行とした日本の神道や仏教の文化
温泉は、今でこそ大衆化しましたが、日本では、古代から、不思議な癒しの力をもった聖地とされていました。 |
| ◎神話にさかのぼれば、神さまが発見したり、温泉に入って蘇ったりしたなどの神話もたくさんあります。大穴持命(オオアナモチノミコト)が少彦名命(スクナヒコナノミコト)を活き返らせた道後温泉や、少彦名命が発見したと伝わる出雲の玉造温泉などが有名です。草津温泉も、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が開いたとの説があります。 |
| ◎仏教の僧の修行 また、行基菩薩による開湯伝説もあります。温泉入浴は仏教の僧の修行として取り入れられ、鎌倉時代以降には、弘法大師伝説も相まって、大衆化していった歴史があります。草津の湯畑に残された古い灯籠が、仏教文化を感じさせます。 |
| ◎寺湯・施湯 僧侶は一般の人々を温泉に入れてあげていました。それは「寺湯」と呼ばれ、大衆に湯を施すことは=施湯と呼ばれていました。たとえば法隆寺の「湯殿」は、入浴施設だったそうです。 |
| ◎大衆文化に その後、江戸時代に湯治文化が広まり、大衆文化となっていったそうです。 |
| ◎薬師如来 日本各地には、医療の仏である薬師如来の信仰と結びついた温泉が多く存在しますが、不思議と身体を癒してくれる温泉は、昔の人にとってはいっそうありがたい薬師如来の恩恵と感じられたことでしょう。 |
| ◆湯畑
湯畑には、高温の源泉を外気にさらすことで温泉の温度を下げる役割があり、ここから各温泉場に温泉が提供されています。これにより水で薄めずに掛け流しの温泉の効能を楽しむことができるしくみになっています。 |
| ◆光泉寺――開湯伝説① 行基菩薩が発見した草津温泉
光泉寺の始まりは、奈良時代(721年)に、行基がこの地に立ち眼下に光る泉を見出したとき、それがただの泉でなく「万病にきく温泉」であると喜んで、薬師如来をまつる堂(薬師堂)を建てたこととされます。以来、泉は人々の病をいやす慈悲の泉となり、今日の草津温泉の源となったといいます。東の草津、西の有馬は我が国の温泉の二大双璧で、「日本温泉三大薬師」のひとつ。現在は真言宗の寺院ですので、真言宗開祖の弘法大師の像や、真言宗でご本尊とされる大日如来の化身・不動明王をお祀りする御堂があります。 |
| ●草津訪問レポート:2014年1月3~4日 (※同行したスタッフのレポートです) |
| 2014年1月3~4日にかけて、草津の聖地・温泉巡りに行ってきました。快晴の空のもと、まずは、私たちが2002年に草津を訪れた時に、不思議にもその空に七重の虹が現れた静可山に行きました。静可山は、草津の中心から車ならすぐに行くことが出来る豊かな自然の山です。静可山からの白根山です。新雪にはまりながら到着しました。不思議なことに、2002年と同じように、上祐代表が現地の説明を参加者の皆さんにしている間に、空に再び虹が現れていました。なお、太陽を取り巻く丸い虹の両脇にも幻日といわれる左右の虹、輪の上部に逆さ虹など、六つの虹が現れてきました!その後、草津温泉郷のセンターである「湯畑」の周辺を散策しました。湯畑のごく近くにある薬師如来をお祭りする光泉寺を参拝し、そこから少し歩いて、スサノオノミコトや日本武尊を祀る白根神社を参拝させていただきました。各々、無料の公衆浴場の湯めぐりをおこないました。草津温泉郷のメッカの湯畑、大変な湯量が湧き出しています
。湯畑の上方から見たところ。湯畑近くの源泉である白旗の湯とその前の石像。湯畑近くにある草津温泉の源泉の一つを引く白旗の湯。白根神社の入り口。白根神社の本殿。白根神社での上祐代表。そして、夜には、ライトアップされた湯畑を散策したり、歓談したり、皆が思い思いに過ごしました。流石に、草津のお湯は泉質が抜群で、溜まった疲れもすっかり抜けました。そして、素敵な虹に始まった巡礼でした。
さて、草津巡りの2日目となりました。今朝は、小雪ちらつく中、癒し効果が高いと言われるベルツの森の散策に出かけました。思いのほか暖かく、植生豊かな森をゆっくり歩きました。この森の一番のパワースポットは「さわらの木」。幹に触ると暖かく、とても気持ちいい。諏訪のミシャグチ総社のご神木に形も、優しい波動も似ているように感じました。60年に一度花を咲かせる珍しいクマイザサもありました。美味しい空気とフィトンチッド?の効果か、胸のあたりがすーっと気持ちよくなりました。雪が座っている (*^_^*)。その後は、また、草津の中心街にある公衆浴場を巡り、その後に、西の河原公園を通って「大露天風呂」へ行きました。西の河原公園、この先に大露天風呂。大露天風呂:池のような露天の温泉です。露天風呂にたっぷり浸かった皆さんは、すっきりしたお顔になっていました。 |
(私論.私見)