棋理論2、棋道論

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年5.12日

 (囲碁吉のショートメッセージ)
 ここで、「囲碁吉の天下六段の道、棋理論2/棋道論」を書きつける。

 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝


【プロとアマの差論】
 上達についていえば、アマにもプロにも上達の道が敷かれている。上達すると違う景色が見えて来る。さらに進むと、また新しい景色が見えて来る。この楽しさは、アマもプロも同じであろう。但し、見えるものがあるいは見どころがアマとプロには違いがあるや思われる。

 プロとアマの碁の差は色々ある。石運びの厳しさの違いもそうである。プロの碁は、どちらが攻めているのか分からないほど緊迫した応酬碁になっている。意外性のある着手もプロならではの手であり感心させられる。石をいっぱいに働かせて打つ。逆に力を矯めて打つのもプロらしい。どちらも理に適ったいるところがプロらしさである。

 こういうプロの力はどこから生まれているのだろうと考えると、脳の鍛え方の差ではなかろうかと思う。脳に骨とか筋肉、腰があるのかどうか分からないが、あると考えた方が分かり易い。あらゆる競技がいわゆる骨格と筋肉、腰の勝負で決まる。その為に相撲取りには相撲取り用のトレーニングがあり囲碁打ちには碁打ち用のトレーニングがあると心得るべきだろう。

 碁打ち用のトレーニングとは思うに古典の紐解きである。それらは詰め碁、手筋の宝庫になっているのだが、それが囲碁頭脳の骨、肉、腰を鍛えていると思われる。囲碁古典の代表的なものとして「玄々碁経」 、「官子譜」(かんずふ)、「発揚論」、「碁経衆妙」の四冊、これに「玄覧」、「死活妙機」の2冊を加える。これを確認しておく。

 玄々碁経は1347年に中国宋代の晏天章、厳徳甫により大成され元の至正7年(虞集)に再編された古代の囲碁全書である。

 官子譜は1690年に中国明の国手の(その時代の第一人者に与えられた称号)過百齢が集めた囲碁手筋を陶式玉によって編集・完成されたものである。手筋の集大成に特徴がある。

 発揚論は1713年に日本の名人4世井上因碩が著した詰碁の本で不断桜(桜を絶やさないほどの名品の意味)とも呼ばれる。難解なものが多い。

 碁経衆妙は1811年に林家11世元美が著した書で、内容は全部詰碁で実戦に現れやすい基本的な死活の基本を集めている。易しいのが特徴である。ここまでが古典四書と云われる。

 玄覧は、1846(弘化3)年、12世井上節山因碩が赤星因徹(あかぼしいんてつ)の「棋譜玄覧」、「手談五十図」を1冊にして発行したものである。

 死活妙機は、1910年、秀哉名人が明治時代の「時事新報」に掲載された懸賞詰碁120題を増補訂正して一巻にまとめ「新案詰碁死活妙機」として刊行したものである。

 プロは、幼少の頃よりこれらの古典を毎日咀嚼する。幼児の頃より鍛練せねば消化吸収できない。プロが義務教育さえ煩わしく、小中学校を終えるや高校へ進学せずプロの門を叩くのは、この理由によると考えられる。プロとなると14歳までの入段が大物の条件とされている。ちなみに、石田章9段が著書「囲碁界の真相」の中で、棋士になる条件として次のように述べている。
 「子供のときに一日十時間、一年三百六十五日、十年の碁の勉強が必要である」。
 これが芸道全般の一人前になる為の要件である。何と凄まじい道であろうか。

 アマとプロの差はこの鍛錬の差によっているのではなかろうか。子供の頃にそこまで厳しく鍛えられていない者の碁をアマと云うのではなかろうか。この中間の者をセミプロと云うのではなかろうか。即ち、セミプロとは、子供の頃にプロほど厳しく精進していないが、それなりに鍛えており、大人になってから鍛えた者とは自ずから差がある、そういう人種ではなかろうか。これは何も囲碁のみではない、他の何々道に通ずる全てのものの法理ではなかろうか。

 プロ同士のトッププロと並のプロとの差の理由までは分からないが、それは恐らく天性のものによっている。そう云えば、将棋でも碁でも院生時代に「将来の大物」と太鼓判押された者がその通りに成長することに驚かされる。彼を認めた評者も認められた者も偉いと思う。

 但し、付け加えておかねばならない。上記心得は一般論であって、プロの芸道に関してのものである。これに比してアマの場合にはそう厳しく考えなくても良い。アマは精進する限り上達する延びしろがあるのであり、あきらめない限り囲碁吉のように遅咲きすることができる。囲碁吉は寿命のある限り精進していくつもりなので、どこまで昇れるか興味津々気持ちワクワクで日々経過している。加えて、2016年頃より人工知能囲碁が登場したことにより、プロアマ問わず精進ツールが提供されたことの史的意味が大きい。これの上手な活用によりアマの技能が格段に進歩すると思われる。

 プロとアマの差をもう一つ確認しておく。プロとアマの差には早熟な頃からの修行の厳しさの経由があるのかないのかの他に、着手の巧拙差がある。と云うのも、着手毎に優、良、可、不可の四基準評価すれば、プロには可、不可の手は基本的にない。ところがアマの手には可、不可が入る。この手が多いほど低段者、少ないほど高段者と云えよう。即ち、全着手を優、良、可レベルで打ち続けられるのがプロ。可、不可混じりで打ち続けるのがアマ。と云うことになるのではなかろうか。ポカ手はプロにもあるようだが、ない手、無価値な手、自殺手を打つのがアマ特有である。こういう手を一手たりとも打たないように心がけて打つのが天下6段の道である。付加すれば、「アマは自分の手の良し悪しを考える。プロは相手の手を読む」。アマとプロにはそういう差がある、とのことである。

 2015.02.23日 囲碁吉拝
 以下、「プロ碁とアマ碁の比較」その他を参照する。棋力の差は、蓄積情報量、ヨミの深さ、価値判断にある。1、蓄積情報量とは、主として定石蓄積を云う。次に2、ヨミの深さとは、ヨミの広さ、深さ、速さを云う。3、着手の価値判断とは、次の1手の感覚を云う。王銘エン9段曰く「プロは強くなり過ぎてしまって入門者・初心者の気持ちを理解することは不可能だ」は言い得て妙である。

 プロとアマの指導碁手合いを決める場合、プロを12段プラスアルファ―として置き石を設定するのが良い。これによりアマがプロと対局するときは、12段が先、11段段が先&二、10段が二子、9段が二&三子、8段が三子、7段が三子&四子、6段が四子を目安とする。これが平均手合いである。プロがトッププロの場合には13段、14段となる。県大会などの常連クラスのトップアマの場合は、8段格、9段格、10段格、11段格、12段格となる。初段ならば星目が妥当である。

 アマ5段が平均的な強さのプロに指導碁を打って貰うとすると5子手合いとなる。大概の場合、アマはプロにコテンパンにやられる。プロに3子で入ればアマ8段に相当する。指導碁の場合、3子までの置き碁が「勝負」に近く、4子以上になると 「稽古」碁の意味合いが強くなる云々。

【誰よりも棋理を愛す】
 囲碁上達の要諦は、「誰よりも棋理を愛す」ことにある。これに尽きると云っても良い。囲碁、将棋は思われている以上に棋理的即ち理論的である。このことにもっと注意が払われても良いと思う。ならば棋理とは何か。そう問われると、これに一言で答えるのが難しい。これを解析するのに、縦線(経過)では「布石の棋理」、「中盤の棋理」、「寄せ(終盤)の棋理」の三種から成り立っている。それぞれ共通している棋理もあるが、それぞれに独特の棋理もあるように思われる。横線(面)では「定石」、「手筋」、「攻め合い」、「詰め碁」から成り立っているように思われる。棋理とは、その間の盤上の石の呼吸、石の生命、石の躍動、石の組み立て等々を総合したもの、と云えるのだろうか。これを磨き、鍛えることが囲碁の道なのではなかろうか。個々の勝ち負けに一喜一憂するよりも、棋理に適った打ち方を磨き続け、鍛え上げれば天下六段に至るのではなかろうか。

 あらゆる芸道がそれぞれの筋とかコツとか理をもっている。これを囲碁に当て嵌めれば棋理と云う。囲碁は棋理を味わいながら打つところに妙味がある。棋理を味わうには相当の賢さを要する。そういう意味では、囲碁は賢さが問われる技芸である。世間で「囲碁は難しい」と評される所以のものが確かにあるように思われる。もっとも、であるが故にこそ奥深さのものを求める人も生まれるのが世の倣いである。この人たちによって競われる日本の伝統的芸道が囲碁、将棋であろう。

 棋理を潮流で例えるならば、前半が上げ潮ライン、中半がクライマックスライン、その後が引き潮ラインであろう。この観点も存外と大事で、前半を引き潮、後半を上げ潮で打つのは逆さだろうにそういう打ち方をする例が後を立たない。要するにTPOの問題である。TPO(ティーピーオー)とは、Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合。Opportunityと使われることもある)の頭文字をとった造語で、「時と場所、場合に応じた方法・態度・服装等の使い分け」を意味する和製英語(この概念の発案者は「VAN」ブランドの創始者・石津謙介氏)とのことである。

 2015.02.16日 囲碁吉拝

【構想力&構想石】
 棋理に続いて構想力を重視せねばならない。構想力と棋理は被るところもあろうが一応は別と心得、千変万化の棋理から汲み上げる意思を構想力としたい。要するに構想力は主体性の問題である。但しこれは相手の着手にも影響されるので二人三脚的なシナリオともなる。このシナリオの巧拙が棋力でもある。

 ところで、構想力で獲得した地、大事にしてきた石は捨ててはならない。これを仮に「構想石」と命名する。構想石をなぜ捨ててはならないのか。それは、経験則で云えることだが、構想石を捨てた場合には大概負けているからである。してみれば、「構想石」は「目先の損得に馴染まない、目先の損得で捨ててはならない生命線の石と心得るべき」ではなかろうか。これを愚考するのに、構想石地面には宝の山が埋まっており今後の含みが多いからではなかろうか。構想石を局面打開に使うべきであるところ、これを捨てることにより石の全体が萎えてしまう、そういう気がする。これは2015.02.23日のネット戦での経験からの総括である。こう了解し今後に役立ててみたいと思う。問題はどれが「構想石」なのかである。これは打ちながら感じ取るべきだろう。

 2015.02.23日 囲碁吉拝

【心技体】
 芸事(ごと)にはなべて「心技体」が要求される。「心」は「精神、意思、気力」、「技」は「技術、能力」、「体」は「体力、地力」の簡表現と解することができる。この三者を自在に結合せしめて行くところに上達があると心得るべきだろう。その「心技体」の最初に「心」がある。このことの意味を理解せねばならない。よほど大事と云う意味で解するべきあろう。

 2002.2.4日、2015.4.10日再編集 囲碁吉拝

【囲碁の別名「手談」考】
 囲碁の別名を「手談」と云う。その意味は、「着手を談義する」であり、手談はその略語であろう。まことに結構な妙訳だと思う。確かに囲碁は「着手で囲碁談義している」からである。よって、手談のない独りよがりの碁は本来の碁ではない、囲碁はかくあらねばならぬとの戒めと悟らせていただく。留意すべきは、手談は相手との手談ばかりではない、自らとの手談でもあることである。盤を間に向かいあって、ひたむきに「自他両面の手談」に興じ没頭することこそ囲碁の醍醐味であろう。こういう碁を味わいたいと思う。問題は、このように手談する碁を打たねばならないところ、意味も意思も不明の着手に出くわすことがある。あるいは手拍子打ちで台なしにすることがある。自戒せねばなるまい。

 囲碁を打つ面白味は「手を見つけて石語りすることに」ある。即ち「手を見出し、手を作り、手を味わう碁にせねばならぬ」と云うことになる。「手を見出す」とは、攻めにせよ守りにせよ「秀逸なる手」を見つけることを意味する。「手を作る」とは、手を見出した後の手作りを云う。「手を味わう」とは、手作りの成果を確認、検証することを云う。「手を味わう」にはもう一つ意味がある。分かりきったところであろうが、やはり一呼吸置いて手を味わわねばならぬ。然る後に着手する良い癖をつけねばならない。この味わいも肝要である。

 当たり前のことだが、マイペースマイウェイ碁は独りよがりな碁であってはならない。碁のことを手談とも云うように、絶えず常に手談しつつ打ち進めねばならない。これができないうちは碁とは云えない。単なる石並べに過ぎない。よって手談碁を打たねばならない。
 
 「緩急自在に硬軟両様で打ち、時には然らばの気合いで切り結ばねばならない」。これが大事である。手談碁にも質がある。最も上質は丁々発止の碁ではなかろうか。但しそれにも質がある。要するに棋力に応じた、且つ棋力上達を目指す策のある、「意思」のある碁を打たねばならない。

 今ふと思うのに、碁石の石は「意思」ではなかろうか。少なくとも「意思」を含意しているのではなかろうか。それほど「意思」が大事な役割を持っているのが碁であると了解すべきではなかろうか。囲碁の手談性につき、張ウ9段が次のように述べている。実にその通りであろう。
 「着手には必ず主張があります。主張と主張を戦わせるのが碁、といっても過言ではないでしょう。相手の主張を堂々と受けて立つにせよ、反発するにせよ、主張を見抜くことは大切です」。(「週間碁」2016.10.17日)

 2015.10.06日 囲碁吉拝

【「手談」のスケールをとことん大仕掛けにしたらどうなるか】
 囲碁の「手談」のスケールをとことん大仕掛けにしたらどうなるか。これが2016年11月4日現在の囲碁吉の新たな発見である。考えてみれば、ここにプロとアマの違いがあるのではなかろうか。棋力差とは実はこれの差ではなかろうか。アマは、その重みに耐えられないから分かり易い地に走り、それぞれがこじんまりと纏まり、相手もそうだからそれなりの碁にはなるけれどもプロの碁とは違うものになる。プロの碁も地に走ることはあるが、それは闘い辞さずの硬軟織り交ぜてのそれであり、アマの地走りとは違う。もっとも、アマでも喧嘩碁を得意とする流派もある。但し、プロのそれとアマのそれは質が違う。目の付け所と厳しさが違うのだろうと思う。攻めと云っても、アマのそれはせいぜい肉切りまでで、プロのそれは骨断ちまで行く。いわゆる剣道で使われる 「肉を切らせて骨を断つ」違いの話になるのではなかろうか。

 ならば、アマの身分で骨断ち碁に向かえばどうなるのか。これが残された課題である。アマにもそういう碁打ちがいるのだろうが、私もそういう碁が打てるようになるよう挑んでみたいと思う。要するに石の折衝の仕掛けを大きくして、即ち話を大きくして、どこが頭で尻尾だか分からないような混戦に向かって戦線を拡大して行き、頃合加減のところで手打ちし始め、そのカオスから勝利的に抜け出していくような碁を打ちたいと思う。人呼んで「カオス手談」と云われるような碁打ちになりたいふふふ。

 そのカオス戦線で仮に不利になったら、道中で用意していた時限爆弾を炸裂させて行けば良い。つまり石を取るのはそれからでも良い。これが本来の私の打ち方で確か勝率が良かったのではなかろうか。

 2016.11.4日 囲碁吉拝

【短兵急はダメ&息の長いたんのう碁を目指せ&持久戦を目指せ】
 「盤上変化を楽しみ味わうべきである」の次に肝要なことは「短兵急はダメ段々良くなる法華の太鼓を目指せ&息の長いたんのう碁を目指せ&持久戦を目指せ」。その通りである。碁の上達度は、どれだけ息長く打てるようになったかが秤(はかり)になる。人生も同じではなかろうか。せっかく覚えた碁を「短兵急に仕掛け」、「早見え過ぎのエイヤートー」で打ち続け、検討せずに一日に何番も打つのは勿体ない。息が短いのは手が見えないからでもあるので、初心者の頃は致しかたない。と云うか、初心者の頃は早打ちで番数をこなしデータ集積するのも一法である。問題は、上達するにつれ局面が広く見え出し、それと共にいろんな手が浮かび、そのどれを選択するのか、全体の石をどう関連づけるのかを思案する構想が必要となる。こうなると自ずと息の長い碁を目指すようになる。これを「たんのう」と云う。漢字で「堪能」、「足納」と表記できるがピタッとこない。そこで平仮名表記にする。「たんのう碁」が打てるようになれば、相手がその逆であればあるほど、中盤過ぎまで案外と拮抗していたように見えるも次第に当方の形勢有利に化し、終盤では怒涛の有利寄せ局面になる。こうなると相手が勝手に転んだり自滅するようになる。故に「たんのう碁、持久戦が宜し」と云うことになる。
 これを「熟(じゅく)し柿戦法」、「横綱相撲」と言い換えることもできよう。即ち、相手のキズをみつけても直ぐには攻めない、頃合に熟れるのを待つゆっくり攻める戦法を「熟し柿戦法」と云う。相手のキズを横目に見ながら、そのキズを衝く出番を切り札として持ちながら打ち進め、次第に形勢を良くして勝つのを「横綱相撲」と云う。横綱相撲にはキズがない。仮にあっても上手に塞ぐ。故に相手の変則に対応できる。一手一手の相手の主張を読み取りながら、慎重且つ丁寧に時に相手の言い分を認め時に反発の自己主張しつつしっかり且つしなやかに打つ。形勢優勢の局面を迎えた頃合に弱石の補強に向かう。相手の攻めを三つ子をあやすように旨く石運びする。これらは皆な横綱相撲の特質であろう。「攻め過ぎ、狙い過ぎがアマ、プロは遠目の熟し柿戦法で仕掛ける」。その通りである。故にアマの碁はセカセカ、プロの碁はゆったりしているように見える。その違いはここにある。

 息の長い碁を打てば、下手の方が勝手に転ぶケースが多い。であるが故に、「上手は下手の失着を待つ持久戦を敷く」。上手は忍耐を能くしがまん汁を飲む。下手はこれができずに自分からこける失着を打つ。これより局面が騒がしくなり下手が不利になる。これが棋理の流れである。この耐久レースに挑まねばならない。これによれば、両者の力が拮抗しているときは、勝負決戦時が中終盤まで持ち込まれることになる。まずはここまで持ちこめられる棋力を養い、次にこの決戦に勝利する棋力を確立せねばならない。

 いずれ勝負の決戦の刻が来る。どの時点でゴングの鐘を鳴らすのが良いのかは局面によろうが、相手が格下の場合には、隙を見つけていきなり行くよりも三度目の隙に出会うや容赦なく斬りに行くと云うじっくり戦法が良いと思う。なかなかできない訳だけれども。上手の場合にも原則そうだとは思うが、決行遅れで良いとこなしでやられる場合もあるので、早めの時機を窺うのも一法である。この辺りの呼吸が微妙である。

 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝

【持時間1時間碁が打てるようになれば天下6段】
 一局にどれくらいの時間をかけるべきだろうか。思うに、意識的な早打ち碁は別として、持時間1時間碁が打てるようになれば天下6段ではなかろうか。初心者の長考は手が分からないために徒に時間を掛けているに過ぎないので別として、相手が打てば条件反射的に打つような棋力同士の早碁の場合には一局が30分もあれば良い。互いに手どころで考えるようになれば1時間ぐらいは掛かる。しかし、持時間1時間碁が打てるようになるには相当の棋力を要する。当然それ以上の持時間を要するとなると県代表クラス、あるいはプロの域に入る。これにより一局の消費時間を見れば、ある程度の棋力が推定できると云うほど対局時間が重要な要素になっている。願うらくは持時間1時間碁を堪能できるような碁打ちになりたいものである。ところで、アマチュアの全国大会の持ち時間が45分と聞く。大会の運営上の都合でそうされているのだろうが、早急に改善させるべきだろう。運営側の棋譜著作権強権化然り、競技時間45分然り、どちらも邪道だろう。

 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝

【名局を目指せ】 
 「名局を目指せ」。その通りである。その名局とは如何。囲碁の名局とは、打ち手のメンタルが終始乱れず、悪手を一手足りとも打たず、平均点以上の手を打ち続け、中押しもしくは並べて勝ちを得た好局を云うのではあるまいか。これが、できそうでできない。  

 「プロの指導碁のように余裕でゆったりと打つべし」。その通りである。これが大事である。囲碁チャンネルの置き碁道場を見ながら、そのことに気づいた。プロは、互先から井目までの碁を、それなりにこなす。大概はプロが勝つ。アマは、悪手、凡手、異筋手を積み重ねるに応じて形勢を悪くして自分からこける。プロは、アマがこけるまでを大きく見通しながら明るい手を打ち、無理攻めせずに和戦両様で辛抱強く打ち進める。これがプロの芸である。プロのこの打ち方ができるようになったとき好局が打てるようになるのではなかろうか。好局を自分から壊すような打ち方から卒業できるのではなかろうか。

 「碁は棋理の習熟を示し合うゲームと心得よう」。即ち、囲碁を盤上の勝負だけのことにするのは値打ちを下げる。棋理の習熟を示し合うゲームと心得て、これの会得ぶりを人生に活かすことによって囲碁の値打ちが輝きを増す。こう悟って楽しまねばなるまい。よって、囲碁の達人は本来は各界の名士名君とならねばならぬと思う。

 「局後に充実感のある碁を打つよう心がけよ」。勝った負けたよりも局後の充実感こそ優先されねばならない。真剣に真剣に手を探して打つ。責任の持てる石を打つ。これが肝心である。これをどこまで持続させて打てるのかが問われている。これを集中力という。

 2018.06.27日 囲碁吉拝

【棋譜論】
 上達を期す為には棋譜を意識して打つのが有効である。棋譜取りすればなお良い。実際に棋譜とりするのは面倒なので、誰かに棋譜を取って貰っていると想定しながら打つのも良い。これを仮に「棋譜論」と命名する。棋譜論には、棋譜汚しの手を打たないよう戒める意味と対局後の検討に足りる碁を打ての二つの意味、意図があるように思われる。記録採りに値する手を打つと云うことになるので、一手一手に緊張感と印象づけの負荷が掛かり、それが上達に有益と云うことだろう。一手たりとも棋力以下の手を打たないことが肝要である。この心掛けがあれば棋譜は自然と脳内に記録され、後からの棋譜取りに資することになろう。

 とはいえ実際には言うは易く行い難しである。以前したことがあるがほんの数手先から棋譜汚しのダメ手を連発しており、保存するに値しなかったので並べ返す意味がなく止めてしまった。先日も、序盤の忙しいときに先手下がりを決めたまでは良いが、続いて意味のないハネツギを打ち、手抜かれて中央に回られ、優勢の局面を振り出しに戻す手を打った。ハネツギなぞ打たずに中央に手を回せば制空圏を握り続けていたのに。こういうところは技術以前の精神性の問題だなとつくづく思う。


 もとへ。思うに、最近のパソコン能力によれば簡単に棋譜採り、プリントアウト、棋譜のホームページ掲載ができるのではなかろうか。そういうソフトが欲しいと切に願っているのだが今のところ知らない。どなたかに手を取り足を取り教えてもらいたいと思っている。

 棋譜意識の重要性はストーリー&メロディーに結びついている。棋譜がストーリー&メロディー性を強めれば強めるほど鑑賞に堪えられるものとなり逆は逆である。これにつき「元院生の思い出話 橘諒」が次のように述べている。この下りがとても気に入っている。
 「眼前に黒白の宇宙が突如魅惑的に広がった。僕は瞬く間にその世界の虜となった。ただの碁石が突然旋律を奏で出す。何気ない一手が物語を紡ぐ。それを何とか一曲にしたい、一つの物語に仕上げたい、そんなことを考えながら囲碁にのめり込んでいくうちに、僕はいつの間にかとても強くなっていて、気づけば院生の門をくぐっていた。その後の話は本文に書いた。結局言いたいのは、囲碁の面白さは物語の面白さなのだ、ということだ。まったく脈絡がないように見える石が、実は碁盤の裏で繋がっている。自分と相手の棋譜が、一つの完成された物語となって歴史に残る。その面白さに僕は虜になっていた。院生の手合というのは一日に多いときで四局ある。一局あたりの手数は平均して200手だから、四局なら800手ほどになる。僕はそのすべてを、家に着いてからそらで再現できた。一週間後でも、まだできた。やれと言われれば一ヶ月後でもできただろう。なぜなら、すべての棋譜に物語があるからだ。登場人物も起承転結も全部わかっている物語を再現するのは実はそれほど難しくない。だけど囲碁を知らない人からすれば、それは神業にしか見えないらしい。僕がしていたのは、自分で紡いだ物語をもう一度なぞりなおすことだけだ。それをすごいと言われた理由は、実は今でもよくわかっていない。人生に物語がない人などこの世に存在しないのだから、それをいつも通りに喋るのと、要領としてはまったく変わらない。物語は英語でstoryと書く。語源はラテン語のhistoriaで、この単語の意味は『調査によって学んだり知ったりすること』だ。歴史のhistoryもこれが語源だから、両者は意味もスペルもよく似ている。囲碁は物語で、人生だって物語だ。そして物語が歴史と祖を一にするなら、囲碁と人生も、やはりどこか深いところで繋がっているのだろう」。

 これによれば、棋譜とは対局者と共同の対局物語であり対局歴史書と云うことになる。且つこの物語は一手毎に主張性、数手毎に思想性、全体の棋譜がストーリー性で繋がっている。こういう自覚で打ち続けてみたいと思う。これを能く為し得た場合が名局で逆は粗局なのではなかろうか。名局はプロの棋譜にしか現れず、よって学ぶに値するものがある。同じ理屈でアマの棋譜には学ぶべきものはない。せいぜい反面教師的に学ぶぐらいのものだろう。それはそうと、筋か良いとか悪いとかは、ここで云うところの対局者との共同の物語であり歴史書であるところの棋譜の筋書きと考えれば良いのではなかろうか。筋が良い手は筋書きを面白くし、悪い手は悪くするのではなかろうか。そういう意味での筋論に通暁しておきたいと思う。

 2014.6.9日 2014.12.1日再編集 囲碁吉拝

【検討論】
 棋譜論に続いて検討論をしておかねばならない。囲碁に於ける「検討」とは、局後行う棋譜の検証を通じての研究、意見交換を云う。プロの場合には、対局者及び解説者、見届人等を交えて行う。これに熱心なのがプロであり、お互いのそれまでの盤上の丁々発止の激闘がウソみたいに和やかなものに変わり演習し始める。よほど人として素直でなければああはなれないなと感心させられるものになっている。

 ここでもプロとアマの違いが見て取れる。プロのそれが感心させられるものであるのに比して、アマのそれは、そもそも検討をしない場合が多い。検討せぬまま「もう一丁」と云う掛け声で次の対局に入る場合が多い。仮に検討するとしても、ここでもプロとアマの差が歴然で、プロの検討は一手の価値判断が正確なのに比して、アマのそれは、勝った方の勝ち意識が勝り、この碁は勝つべくして勝った、最初より優勢であったとのストーリーが脳内に勝手にでき上がり、そのストーリーに基づいた検討になり易い。即ち勝った方の云い勝ちになりやすい。その逆の場合もある。相手が投了すべきところを投げんから嫌になって打っているうちに打ち損じて負けてしまったと恨み節を云うことが多い。ここまでは形勢互角、順当勝ち、逆転勝ちの見極めが拙い。そういう訳で、そういう検討なら入らんわいとして「もう一丁」の対局になるのが落ちである。

 この水準を越すのが天下6段以上で、それ以下のレベルではまともな検討にならない。そこで、天下6段以上、あるいはプロの介入が要請される訳である。そういう意味で、「正しく検討する」意義ははかり知れない。上達の近道としての棋譜論、検討論に覚醒したい。どうしても次の対局に入る場合でも、最低限のこととして「どの手が敗因か、又は勝因か。なぜ負けたのか、勝ったのか」の敗因勝因の研究をしておきたい。この積み重ねがやがて大器の片鱗となる。そう心得よ。

 2018.9.28日 囲碁吉拝

【大手前棋院の専属棋士、盤上の軍師、経営者になれ】
 棋譜を意識し始めた頃から、更に上達を目指すならば、本物のプロになるのは無理として、ならば自らの大手前棋院を創設し、その専属棋士、盤上の軍師、経営者になると心がけねばならない。当然、プロ棋士とならば棋譜がついて回る。恥ずかしくない棋譜を遺すよう心掛けて打たねばならない。そういう自覚に立つことから次のステップが始まる。これを本日から実践して行くことにする。

 大手前棋院専属棋士・囲碁吉の着手は盤上の龍を目指す。龍は隅より中央へ向けて駆け上がり、盤上を煙を吐きながらうねり回る。そういう龍にあやかる着手の棋譜を遺そうと思う。途中経過ではあるが、何やら成績が良くなった気がする。(と云うつもりなんだけどボソボソ)

 軍師であれば怯むことは許されない。そういう意味では、自分は強いという「錯覚」が大切である。この「錯覚」を元手にそのまま強くなってしまう可能性がある。気後れしないで対局できるからである。要するに、へこたれてはいけない。へこむのも良くない。その時点で既に斬られていることになる。“石が張っている”ことが大切である。同時に相手の手を考えて相場を見つける必要がある。一杯にいかず「いなす」着手が時に必要である。

 2016.2.18日、12.8日 囲碁吉拝

【真剣勝負の経験を積むこと、碁敵(仇)と切磋琢磨すること】 
 練習対局を数多くこなし、積極的に他流試合や大会などに参加すべし。しかして「言い訳無用の真剣勝負の経験を積むことが大事」である。

 「碁敵と切磋琢磨することが最良の上達法である」。その通りである。上達道中の最適同伴者を碁敵(ごがたき)と云う。碁敵との切磋琢磨で上達速度が加速する故に碁敵ほどありがたいものはない。この碁敵を求めて出向き出向かれたりするのが最良の上達法である。この碁敵は常時一人であってはならない。常時複数による入れ替わりが前提になっている。

 2015.10.05日 囲碁吉拝

【上達の基本は「実戦」、「詰碁」、「棋譜並べ」】 
 上達の基本(上達に欠かせない3大勉強法)は、「実戦、詰碁、棋譜並べ」である。この3つをバランス良くこなすことができれば間違いなく強くなれる。
 囲碁の上達には「1・ひと目、2・ひらめき、3・読み」の腕を磨くことが肝心である。これの基礎が詰め碁、手筋であり、それの実戦が本碁である。それはあたかも、諺、格言と人生の関係に似ているのではなかろうか。理論と実践の関係にも似ている。両者共の学び、経験を高めるべきではなかろうか。 

 囲碁の上達の秘訣は打ちたいところに打つではなかろうか。これは何もヘボな手まで認めようと云うのではない。ここへ打ちたいのだけれども、その先の乱戦が分からない、怖いと云うときに安全策をとることが多いが、打ちたいと思うところ、盤神の囁きがあるところに打つのが一興ではなかろうか。打ちたいと思うところ、囁きがあるところは意外に形の良い手が多い。逆に安全策で仕方なく打とうとするところの手は愚形が多い。こういう場合、まずは思い切って打ちたいところに打つべきではなかろうか。こういう打ち方が上達に繋がるのではなかろうか。何となくそう思う。 

 読みには「幅広さ」と「深さ」との二種がある。例えば、「ハネ」の着手の際に、ノビたらどうなるか。「キリ」の着手の際に、切らなかったらどうなるのかと、読むのが「幅広さ」の読みである。「ハネ」た場合、相手の応じ手を予想し、それに対する応じ手を考えるのが「深さ」の読みである。上達するには、その双方向の棋力をあげて行かねばならない。

 2016.2.18日 囲碁吉拝

【地力とは】
 「地力」(じりき)に一言しておく。「地力」とは、「本来持っている力
。そのものに備わっている本来の力。実力」を云う。大相撲における地力が参考になる。大相撲で地力があると言えば、その番付に見合う実力を基準にして、潜在的に番付上位の力量を有しているという肯定的な意味で使われている。実力にキャリアを加味したものが地力だと思えば良い。囲碁でも同様な意味で使われているように思われる。即ち、優勢な碁を優勢なままに打ち進め、非勢な碁を盛り返し、結局は勝ち碁にするのを「地力がある」と云うのではあるまいか。

 2015.10.05日 囲碁吉拝

【棋士に問われている諸能力考】
 囲碁棋士に問われている能力は、局面が呼んでいる手を探し創造的に打つことだろう。これを成り立たせる能力として構想力、発想力、判断力、石の筋と形力、詰碁&手筋力、戦闘力、守備力、調和力、修正力、収束力、集中力、スタミナ、メンタル等が総合的相関的に問われている。これを五角形、六角形の能力表で表すことができよう。例えば、五角形能力表は、構想力、石運び力、戦闘力、守備力、メンタル力を頂点とする図となろう。

 2014.09.22日 囲碁吉拝

【目指せ天下六段】
 今日ふと閃いた言葉。いくら打っても手を学ばねば万年初段。我流で学べば3段。少し学べば5段。一生懸命学べば6段。さらにその向こうに碁の鬼が棲む世界がある。こう思えば良い。この道中で、プロないしはプロ級の人に学べば碁の面白さが教えられ、学ぶ意欲が増す。問題は、この気づきや機会をどのタイミングで得て本気になれるかである。それを得るには能力も運も縁もあろう。要は、なるように成り成らざるも道理と云うことではなかろうか。

 囲碁吉の棋道到達点をどの辺りに設定するのか。これについて結論から言えばこうである。囲碁吉の全国碁会所廻りの際、「どのくらい打たれますか」の問いに、ごく自然に「6段です」と言えるようにしたい。これはそれなりの経験と教訓からもたらされている。と云うのも、もう30年以上も前の大昔、業界旅行の際に二次会を抜け京都河原町の碁会所へ行った。入って来た珍客に客の視線が一斉に向く。番台のおばさんに棋力を聞かれて「初段です」と答えると、居合わせた客が途端に向こうを向き直して碁を打ち始めた。その時、初段では相手にされないことを身に滲みて学んだ。この失望から学んだ教訓である。それに何より「6段です」と言えれば格好良いではないか。この域に達する為の精進をこれからも続けて参りたい。

 2015.1.11日 囲碁吉拝

【上達論/天下六段道上達法】
 「囲碁上達研究会/囲碁上達法、入門から初段・高段まで」の「負けず嫌いは碁が強くなる?ならない?」を転載する。
 勝負に必要な資質が、マイナスになる場合
 プロ棋士はどんなに穏やかな性格の方でも、芯は負けず嫌いです。囲碁や将棋などの勝負事は負けず嫌いでなければ強くなれない、という考えに反対する人は少ないでしょう。負けた悔しさの度合いが強い人は、局後の敗因分析を熱心にやり、またその後の勉強に集中力を発揮します。逆に、負けても何も感じない人には、進歩はゆっくりと訪れます。では、負けず嫌いの人は皆、碁が強くなれるのでしょうか? 残念ながら囲碁や将棋の場合は、「逆も真なり」というわけにはまいりません。むしろ、上達を妨げる場合があります。次のようなタイプの負けず嫌いは、せっかくのすばらしい資質が裏目に出て、上達が遅れたり、挫折したりすることがありますので、注意しましょう。
 1.人を避け、パソコン対局ソフトを相手にする。
 弱くてバカにされるのが悔しいので、パソコン対局ソフトで強くなって、周囲を驚かせてやろうという魂胆(こんたん)。でも、パソコンだけで強くなった人など聞いたことがありません。碁はいろいろな人と打って強くなるのです。
 2.目先の勝敗にこだわりすぎる。
 碁に負けて悔しいので勉強するか、それとも悔しいのでその人とは打たないか。これが分かれ目。負けるのがいやで碁を打たなくなる人はけっこう多いのです。
 3.仲間よりも上達が遅いので、悔しくて碁から遠ざかる。
 3、4人でいっしょに碁を始めると、1人くらいは碁をやめていく人がいます。碁は、上達の過程のどこで停滞するか、人それぞれ。初級段階で遅れても、あとで一気に追い越して先に初段になることはよくあります。入門・初級レベルであまり人と上達速度を比べないことです。
 4.たくさん石を置く相手を避ける。
 「5~6子以上の置碁では、どうせ最後には負かされてしまう」というような理由で、せっかく強い人と打てるチャンスを逃してしまう方のどんなに多いことでしょう。碁は自分より強い人と打たないと強くなれませんから、こうしたタイプの負けず嫌いは上達を妨げます。
 5.人に教えられるのが嫌い。
 ゴルフの教え魔は嫌われますが、囲碁の場合はどうでしょうか? 教え方にもよりますが、実戦対局のあとに有段者が教えてくれることには、ありがたいと思わなければなりません。碁の解説書を読むよりも効果があるはずです。教えられるのが嫌い、あるいは教えられてもその通りには打ちたくない。そういう方は間違いなく上達が遅れます。負けず嫌いの方は、同時に素直さを身につけると、その悔しさを碁への集中に向けることができ、早く上達できるでしょう。

【修行(学問、行儀、祈り)に励まねばならない】
 手を習うのは学問。遺伝子に教え込むのは行儀。運命に影響を与えるのは祈りである。この三法のそれぞれを能く習熟せねばならない。これを修行と云う。囲碁もその他も然り、精魂傾けるものに対してこの修行に励まねばならない。

【全体観&大局観。木を見て森を見ずの愚にならぬよう】
 「全体観&大局観。木を見て森を見ずの愚にならぬよう」。その通りである。これは何にでも通用する戒めである。碁も又然りである。囲碁の上達法の第一は大局観である。大局観こそ棋理の命であり全てを睥睨している。

 この大局観は二種のものから構成されているように思う。一つはズバリの大局観であり、もう一つは碁形の全体観である。両者は少し違うと思う。囲碁吉の理解によれば、全体観は碁盤全体の全体観(全体の全体)と局所に於ける接触している石の上下左右全体(部分の全体)の二種類から成っている。その全体観から内在的に生み出されるのが大局観である。大局観が要求されるのは局面変化時である。そのまま押し切るなり引くなり転ずるなりの戦略の分かれ道の次の一手を感知し着手する為に必要とされるものである。この大局観が本来の意味での大局観であり、碁形の全体観も踏まえて、さて次にどう着手して行くのかと云う最高度な問いからもたらされるものである。全体観が一服したときに要請されるのが大局観であると云えるのかもしれない。そういう意味では全体観は折衝中の大局観と云うことになるのかもしれない。この両方の「観」を踏まえる必要がある。

 この大局観を終始徹底して終局まで貫くことが肝腎であるが実際にはかなり困難でもある。なぜなら、既に対局しているからである。座禅瞑想しながらの平常心のような安穏な環境ではない。対局ともなると必然的に互いの着手で「手談」しつつ打ち進めている。この道中で両者は相当なる感情的な行き掛かりを抱えている。更に対局を進めるうちに局面の難しさが増し、いわゆる手どころを迎え、あるいは次の手どころを迎えと云うように尋常ならざる心境下で打ち進めている。この間を冷静沈着に大局観を失わずに打つことが難しい。

 局面が険しければ険しいほど「手どころの慌(あわ)て者」になりがちである。これは自戒を込めて言い聞かせている。これに気をつけるだけで、いわゆるポカ、貪り等はかなり防げる。「手どころのしっかり者」になるだけで戦績が大きく変わる。そういう意味で、初手から大局観に基づき打ち進め、手どころも然りの打ち手になりたいと思っている。肝腎要の手どころで苦しさから逃れるために早打ちする愚を戒めたいと思う。常に己の棋力に相応しい沈着冷静の解を見出し、責任ある石を打ち続けるのが肝要と云い聞かせている。いついかなる時も「大局観こそ命」と肝に銘じて打ちたいと誓っている。

 瀬越憲作名誉九段の手談の最終章「碁の妙味」の中に次のように書かれている。味わうべしの名言だと思う。

 「最善を求むる態度には、みじんも欲があってはならない。なおその上自他の念を去って、局前人なく局上石なしの境地に入って初めて最善の手段が得られるのである。この境地に遊ばれる人は巧拙に拘わらず精進を楽しむといえる。碁が強くなるのはもとより結構であるが、むしろ碁道の幽玄を味って頂きたいことを私は希望する」。

 これによれば、大局観に従い、棋理に合う最善の一手を求めて苦吟していることになる。プロはその最先端最深の囲碁芸人と云うことになるのだと思う。この緊張感の濃密さに基づく一連の着手が絵になるのだと思う。 

 2013.6.3日、2014.5.25日 囲碁吉拝

【正調着手モード論】
 ここで、「正調着手モード論」を確認しておく。「着手モードには早打ち、普通、小考、長考がある。早打ちはしてはならない、その他は局面に応じて正しく使い分けるべきである」。普通モードとは着手するまでに数秒かけることを云う。盤側に記録係りがいると心得、その記録係も同じように着手を考えることができる間合いと云える。早打ちせず最低でもこの普通モードで打たねばならない。小考は、普通モードよりも少し長い数十秒から1、2分程度の時間をかける間合いを云う。長考は数分から数十分要す着手時間を云う。これより長い長考を大長考と云う。これらは適宜のものであるから良し悪しは別である。

 「工夫を凝らした考える碁を打とう」。そもそも、着手に当たっては、分かりきったところでも必ず一呼吸置いて確かめて打つべきである。決して夢遊病者のような手、手拍子の手を打ってはいけない。攻め合いの時はなおさら然りである。正確に打たれれば負けの場合は仕方ないとしても、正確に打てば勝っている場合の寄せ合いの仕方、ダメの詰め方、保険の掛け方等で間違ってはいけない。読みを入れて一手毎に責任を持って打ち、勝つべき流れの碁は勝ちきらねばなりませぬ。

 「手拍子打ち、夢遊病者のような手は厳禁である」。その通りである。天下六段の資格の一つに「手拍子忌避」がある。どんな局面であれ着手には「呼吸の整え」を要する。その間合い抜きの手拍子打ちは宜しくない。よしんば着手が決まっていても、「呼吸の整え」を経ての着手を心掛けねばならない。これを仮に「正着」と名づける。その理由は、「正」の字義が「止」(とめ)の頭に「一」を入れているからである。その意味するものは、着手を決めたら、打つ前にいったん「止め」て、今度は相手の側から読んで見落としがあるかないかを調べる為の「一呼吸」置いて、合点してから着手すべしの諭しであろう。この理に照らせば、「手拍子打ちする間は未熟である」と云うことになる。だから、手拍子打ちや夢遊病者のような手は厳禁である。一手ごとに責任を持たねばならない。きっと申し渡しておく。

 2020.4.6日 囲碁吉拝

【リズム論】
 囲碁に限らず万事の法則であろうが「リズムを大事にせねばならない」。囲碁には囲碁の独特のリズムがある。これを踏まえて打つ者と踏まえない者の差は明らかである。

 囲碁リズムには、着手前の思考時間のリズム、着手内容のリズムの二通りの意味がある。着手前の思考時間のリズムは、着手に思いを凝らすことから始まる。これより読み筋通りの展開のところは流れで打つ。その流れの要所に至ったときとか相手が読み筋と違う手で応じたときとか考えるべきときに考える。岐路の際に沈潜黙考する。要するに、流れで打つのと立ち止まって熟考してから打つの組み合わせを云う。囲碁リズムは、こういう石運びの流れのことを云う。この石運びのリズムを重視せねばならない。良いリズムが勝利の女神を引き寄せるからである。

 早打ち、一呼吸打ち、小考打ち、長考打ちのリズムの取り方で棋力が分かる。考えるべきところで考えず早打ちする者、のべつくまなくの早打ちは単にそそっかしいだけである。逆に、早打ちでも構わないところで長考する者、のべつくまなく長考する者は慎重居士過ぎるだけである。こういう者には良智が宿らないので、この種のタイプで強い者はいない。

 着手内容のリズムとは、攻めと守り、強手と控えめ手、積極性と忍耐の手を、片方に偏るのではなく交互又は適宜な頃合いに繰り出されるような石のバランスを云う。

 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝

【息遣い論】
 リズム同様に「息遣いも大事にせねばならない」。囲碁のリズムは囲碁の息遣いと相応している。囲碁に習熟しようとすれば、上達者の息遣いを学べば良い。これは本やネットからでは学べない。実際に人から人へ以心伝心されるべきものであろう。最近ではプロの対局を映像で見ることができるのが有難いが、その際は手を見るだけではなく息遣いも窺えば良かろう。プロの碁を見て分かるが、第一着手より暫し間合いを置き、気息を整えてから打っている。これはプロが「気息を整える」ことが如何に大事かを知っているからであり、我々も習うべきであろう。

 息遣いは集中力やバランスに大きく関係している。大事決行前に一呼吸置くこと、その溜めのタイミングが大事である。冷静沈着はこれに関係しているように思う。即ち力み過ぎるのは失敗することが多い。いずれ肩で息をする局面にも出くわす。その際の息の乱れは良いことにならない。この辺りも注意深く観察し学べるところは学ぶべきだろう。

 「息の乱れ、息切れ」が良くない。「肩で大きく息を吸う」はそのなれの果てである。「息の乱れ、息切れ」が石の乱れ、石の乱れが「息の乱れ、息切れ」に通じるからである。どちらが先かは分からないが、そういう関係にある。自分に対してそうであれば相手にも言える。と云うことは、相手の「息の乱れ、息切れ」を誘うのも高等な芸である。「息遣い」を馬鹿にしてはいけない。

 2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝

【姿勢論】
 対局中の姿勢が大事である。集中力に関係して要請されるのがリズム、息遣いであり、それに続いて姿勢が問題にされる。囲碁吉の例で云えば、ごく最近の2015年4月頃、或る6段の人に「強くなったね」と云われた。私は、向かい合わせに別の人と打っていたのだけれども、何気なく云いたくなったのだろう。恐らく背筋が伸びていて且つ対局に集中するオーラを出していたのではなかろうか。確かに、囲碁吉は2015年春の囲碁大会に2回出場しどちらも負けたのだけれども、あの時の経験を通して一皮剥けたような気がしている。恐らくひょっとすると次の大会辺りで化けるかも知れない。今から楽しみである。これはマージャンの場合もそうだが、卓を囲んだ際に、いつもよりゆったり、どっしりと座れた感じがしたその日、牌運の流れが良く一人勝ちした経験がある。囲碁の場合もそうで、座るなりイス席なりゆったり、どっしりと座ることが肝要ではあるまいか。

 なぜ悪姿勢が良くないのか。それは、悪姿勢であればあるほど、局面のどこかで、それも重要な局面のどこかで、ミス手、ポカ手、形勢有利な局面での判断の誤り手を打つ可能性が高くなるからである。これはアマでもプロでも云えよう。従って、「姿勢を見れば強さが分かる」ことになる。

 このことに関連する格好のエピソードがある。これを確認しておく。「週間碁」(2018.12.24日号)4pの「秋山賢司/一碁一語№11」を参照する。 「風車」(昭和38年5月号)の「背中」と題する伊藤友恵六段(1907-1987)の随筆「小さな巨人の教え」。登場人物の「清ちゃん」とは伊藤友恵の結婚前の姓名である小田清子を指す。明治末から昭和初めにかけての覇者/本因坊秀哉名人の思い出次のように記している。
 概要「私が二十二、三歳のころ、『清ちゃん、碁が上達したかったら、姿勢に気をつけなきゃ駄目だよ』との(本因坊秀哉名人の)御教訓がつい昨日のように思い出されました。前かがみの対局癖がついてしまっている私の猫背はそう簡単に直るわけには参りませんでしたが、それからは自分でもできるだけ注意してきたつもりでございます」。
 秀哉名人は五尺そこそこ(150cm強)で九貫足らず(35キロ弱)だったというから、かなり小柄。しかしひとたび盤の前に座ると、大木に根が生えたように威厳があった。これが為、小さな巨人と云われた。

 2015.4.22日 囲碁吉拝

【仕草論】
 対局中の仕草も問われる。趣意は姿勢論と同様である。

 2015.4.22日 囲碁吉拝

【風格論】
 「強さは風格に表われる」。姿勢に関連して風格がある。風格とは、いざ手合わせする前にその人から感じる気品、威圧を云う。面相、眼威、体型などの容姿や、風体
風采、仕草、それら全体としての雰囲気などから構成されている。風格は自然と滲み出ているものであるから付け刃ではどうにもならない。風格によって打つ前から気後れさせたりさせられたりすることがあり案外と重要である。対局に入っての手つき、息遣い、着手テンポ、どこで考えどれぐらい考えるか等々も風格になる。これらは自然に生まれるもので真似るだけではどうにもならないが、知る、習うという意味では大いに参考になろう。


 2015.4.22日 囲碁吉拝

【貫禄論】
 「強さは貫禄を生む」。貫禄論についても述べておく。国語辞典には、「
からだつきや態度などから感じる人間的重み、風格、立派さ。身に備わった威厳」とある。思うに、風格に実績と年数の「重み」が加わったものが貫禄ではなかろうか。

 2015.4.22日 囲碁吉拝

【碁の神様考】
 「碁の神様」につき、これは私の独眼流であるが、囲碁を覚え上達を欲した瞬間に、「碁の神様」が胸中と頭中に住み着いたと思っている。よって、碁打ちの胸と頭には「碁の神様」が宿っていることになる。以来、碁打ちは「碁の神様」と相談しながら打つことになる。但し、「碁の神様」は問えば働き下さるが、碁打ちの棋力と熱意によって応答が増す、逆は逆の関係にあると思われる。
 NHKの2021年下半期の連続ドラマ「カムカムエブリバディー」の中で、和菓子屋「たちばな」の「小豆(あずき)のおまじない」がしばしば登場する。概要「おいしゅぅなれ、おいしゅぅなれ。その気持ちが小豆に乗り移って甘ぇあんこができあがるのじゃ。小豆の声を聴け。何がしてほしいか小豆が教えてくれる。時計に頼るな。目を離すな。食べる人の幸せそうな顔を思い浮かべぇ」という呪文であるが囲碁にも応用できるのではないか。「どこへ打つべきか教えてくれ。その気持ちが盤上に乗り移ってここへ打てと教えてくれるんじゃ。碁盤の声を聴け。どこへ打って欲しいか囲碁の神様が教えてくれる。目先の利益に頼るな。集中力を切らすな。囲碁の神様が納得するような棋譜を残せよ」。

【神の一手&魂の一手考】
 ここで「神の一手」について触れておく。「神の一手」とは、打ち手の意識を超えるかの如くの閃きによってもたらされた神の導きの手を云う。対局でこういう手を呼び込み勝着とすることが肝要である。これにつき既に石心、盤声について言及している。ここでは「神の一手」について述べておく。「神の一手」は「絶対の一手」を云う。これとは逆に選択肢を増やし着手に幅を持たせる「神の啓示手」と云うものがあるように思う。この両者を合わせて仮に「神の手」と云う。差し手は19路×19路の361路の球面から汲み出される複数が用意されており、打ち手は、その中の最も相応しいと思える手、あるいは好みの手を判断、感覚、決断することにより選び着手する。これが次から次へと繰り返されて一局となる。この間、留意すべきことの第一は手を戻すべきところは戻すことである。「風格」のところで述べたが先走りし過ぎてはいけない。厚く打つところに神の手が宿る気がする。次に局面でピッタリのところを探して打つ。次に局面から浮き上がる打ちたいところを探し、最高のタイミングで打つように心がける。この流れの中から「神の手」が生まれる気がする。これを関連づけると、普通は選択肢を増やし着手に幅を持たせる「神の啓示手」に導かれ、いざ喫急の時に絶対の着手としての「神の一手」を見いだすと云うことかも知れない。但し、「神の手、神の一手」を強調し過ぎると哲学的、宗教学的な意味で神秘論に入り込むことになる。何事も加減が大事で、囲碁吉は、技術論、修身論の果てに「神の手」があると思っている。故に、技術論、修身論を鍛えた果てに「神の手」を呼び込む祈念をする。現にこういう体験をしているので理屈ではない。

 「神の一手」に似たものに「魂の一手」がある。これは、「神の一手」に魂を被せた手ではなかろうか。こういう手を打てるのは相当の高段者であり、天下六段はその始まりの粋かもしれない。

 2014.4.26日 囲碁吉拝

【囲碁脳のチャクラを拓(ひら)く】 
 「囲碁脳のチャクラを拓(ひら)く」。これが肝心である。「チャクラ」(英: chakra)とは、霊能系の宗教用語で、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。チャクラは7つあると言われる。第1チャクラは脊柱の基底にあたる会陰(肛門と性器の間)にある。第2チャクラは陰部にある。第3チャクラは腹部の臍下あたりの丹田(たんでん)にある。第4チャクラは胸(心臓)にある。第5チャクラは喉にある。第6チャクラは眉間にある。第7チャクラは頭頂にある。この七チャクラを鍛えるのと同様にして囲碁脳を鍛えるのが理想である。こうして鍛えられたものを仮に「囲碁脳チャクラ」と命名する。この「囲碁脳チャクラ」を拓(ひら)くこと、磨くことが肝心である。






(私論.私見)