| 囲碁吉の天下六段の道、棋理論3/上達論 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年5.12日
| (囲碁吉のショートメッセージ) |
| ここで、「囲碁吉の天下六段の道、棋理論2/上達論」を書きつける。 2005.6.4日、2015.3.3日再編集 囲碁吉拝 |
| 【名人ほど石の繋がりに汲々とし重視している】 |
| 名人ほど石の繋がりに汲々とし重視している。棋譜並べをしながらの実感である。ヘボほど見込みの大丈夫だろう感覚で繋げている。名人に近づくほど裏読みを入れている。 |
| 【読みは入念に上下左右、全方位に目配せせねばならない】 |
| 「読みは入念に上下左右、全方位に目配せせねばならない」。その通りである。「入念に」とき「念には念を入れる」と同義である。その上で、読みは局所に拘り続けるのではなく上下左右、全方位に目配せせねばならない。その際の読みは「相手の読み」を信用してはならない。攻め合いとか、先手後手とかを廻る駆け引きの最中は、必ず「自分の読み」を貫かねばならない。自分の読みを入れぬままに相手の読みに従うのは弱気でありお人好しに過ぎない。それは局面を悪くする。この逆を勝手読みと云う。勝手読みは身の破滅を招く。 とある小さな大会の準決勝戦で、ツケ捌きの予定のところ、急に割込みに旨みを覚え、相手の対応の数種数手を読み、決断して着手したところ、読みを入れていない元からキル手を打たれ、全体を大損してしまい、それまでの優勢碁を失った苦い経験がある。読みは上下左右、全方位に目配せせねばならない。勝手読みは厳禁。これを誓った。 2015.11.21日 囲碁吉拝 |
| 【読みを入れよう、その癖をつけよう】 |
| 「読みを入れよう、その癖をつけよう」。読みは苦しく面倒なことではあるが、この習慣からしか強くなれない。そういう癖をつけねばならない。 将棋の加藤一二三氏は「直感精読」を宗としている。その意とするところを味わうべきだろう。手どころでは特に「直感精読」せねばならない。手どころで正解手を打つことで流れが良くなる。逆は逆である。「手どころでは念には念を入れよう」、「正念場ではなおさら彼我の着手の意味と意思、意図を反芻確認せよ。座禅を組むくらいの瞑想後の着手を心掛けよ」。相手が応じることなく余所(よそ)へ着手した瞬間、シマッタ、そこへ打つべきだったと後悔するようでは「後悔先に立たず」となる。そういう意味で、手どころの着点は牛のよだれの如く反芻して着手せねばならない。 肝心要の時に、早く応酬の決着を見ないと精神的に落ち着かない故に早打ちする癖のある者が居るが、この時に粘り強く読みを入れる習慣をつけねばならない。これができないと強くなれない。そういうバタバタ打ちはロクなことにならない。この癖を直さねばならない。どうすれば矯正できるのだろうか。「座禅」なるものを一度経験しておかねばなるまい。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
| 【相手の着手に受けるか手抜きかの見きわめを熟達しよう】 |
| 相手の着手に受けるか手抜きかの見きわめを熟達しよう。これを上手にこなせば上達者、下手ほど逆対応する。見きわめの一案として、相手の着手に手抜きして酷い目に遭う場合は喜んで受ける、相手に特段良い連続手がない場合は手抜きしてこっちの好点に打つのが良い。こう弁えよう。 |
| 【囲碁は一手一手が緻密な作業である】 |
| 上達する時、ただ強くなるだけではなく、碁に深みが出てくることがあります。また上達しているはずなのに棋力が上がらないことを経験されている方もいるでしょうか。これは囲碁が奥深いゲームだからです。棋力が上がるというのは総合力が上がることです。しかし戦いだけが強くなったり、石の厚さだけが良くなったりすることも、上達するということです。これを碁に深みが出てきたと言い、経験を積んでいる状態です。そして、ある時一気に総合力が上がり棋力も上がります」。 |
| 【ある時一気に棋力が上がるを信じて】 | |
「碁に深みが出る」。
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| 【勝負決戦の碁が打てたら天下六段間違いなし】 |
| 「勝負決戦の碁が打てたら天下六段間違いなし」。上達の為には棋譜取りが有効だが、もっと為になるのは勝負決戦の真剣碁を打つことである。その体験経験の回数を増やすことが肝心である。勝負決戦の真剣碁が打てるようになれば天下六段の証ということになる。天下六段になれば勝負の武者修行に出られる。亦楽しからずやであろう。早くそういう実力と身分になりたいものである。後もう少しの気がする。 |
| 【石の不安定の中に安定が見え始めたら天下六段】 |
| 「石に不安定の中に安定が見え始めたら天下六段」。その通りである。 |
| 【石に粘りとコクが出てくれば天下六段】 |
| 「石に粘りとコクが出てくれば天下六段」。その通りである。 |
| 【囲碁の面白みは道中の手造り、手消しのやり繰りにある】 |
| 囲碁は19路×19路=361路の領土の経営の仕方を争う遊戯(ゲーム)である。結果的に勝負決着で1局が終わるのだが、囲碁の面白みは勝負だけではない、道中の流れのストーリ-を大事にし、棋理に従い、臨機応変に処し、その正解を求めて苦吟するところに楽しみがある。 相手の石組みの隙(すき)や傷を見つけ、手を見出し、手にする。自分の石の手にされる欠陥箇所を発見し、事前に防御する。これを交互打ちの中で堪能するのが囲碁の魅力である。ともすれば、結果オーライの勝ち負けばかりに拘る向きがあるが、最上の喜びは、局面から匂う手、臭う手を見出して、それをものにして、欲を言えばそrを勝負に結びつけることである。 勝ち負けで云えば、勝ち負けに拘らない囲碁は詰まらないし、相手に失礼でもあるのだが、勝ち負けは結果であって、勝ち負け以前の丁々発止にこそ意味がある。手を見出そうとしない、あるいはそれが弱い勝ち負けだけの拘りは味気ない。よし、今日からこの精神で云ってみようっと。 2022.9.23日 囲碁吉拝 |
| 【一局入魂。石に神経を通わせるようになれば天下六段】 |
| 総じて「入魂の一局」を目指さねばならない。これを上達論第一の公理にしておく。ちなみに「入魂」とは文字通り「魂を入れて込める」という意味である。これを分かり易く云うと、雑に打たない、丁寧に打つ、真剣に打つ、気持ちを込めて打つ、楽して勝とうとするのは本当の碁ではないと云うことであろう。もう一つ、手を捜すと云う意味もある。故に早打ちは良くない。それは碁を打つ喜びを半減させている。以上、これらの意味を込めた「入魂の一局」でなければ何局打っても甲斐がない。 |
| 【打ち手と石が繋がっている状態になって初めて天下六段】 |
| 「打ち手と石が繋がっている状態になって初めて天下六段」である。囲碁上達の要諦は、「石に神経を通わせる」ことにある。これは打ち手と石が繋がっている状態であり、この水準になって初めて天下六段の域にあるということである。心して励めよ。 |
| 【碁は自分の業との闘いの碁ぅであると心得よ】 |
| 「碁は自分の『業』(ごう、癖性分)との闘いの『碁ぅ』であると心得よ」。即ち、囲碁を盤上の勝負だけのことにするのは値打ちを下げる。自分の癖、性分、業との闘いにすることによって囲碁の値打ちが輝きを増す。例えば、そそっかしい者は碁を通して自分を見つめ直し正して行かねばならぬ。欲深な者は控えることを覚えねばならぬ。粗雑な者は手順を知り用意周到、丁寧の重要性を悟り正して行かねばならぬという具合に。これが囲碁の味わい方、楽しみ方である。よって、囲碁の達人は本来は本当のという意味での「生き方上手」であらねばならぬと思う。即ち、ゲームであるのだが、単なるゲームではない、生き方に繋がっていることを自覚し、己を磨かねばならないと思う。 |
| 【正々堂々、頭柔らかく発想柔軟に、変幻自在融通無碍(ゆうづうむげ)に闘え】 |
| 「正々堂々、頭柔らかく発想柔軟に、変幻自在融通無碍(ゆうづうむげ)に闘え」。その通りである。プロの碁では局面がコロコロ変わることが多い。これは囲碁の本質に根ざしており、プロならの芸である。これを融通無碍(ゆうづうむげ)と云う。してみればアマも見習うべきで、それは何よりまずもって硬直的な発想による融通の利かない打ち方を改めるべきであろう。囲碁を学ぶことは究極、この思考、処世法を学ぶことにあり、これが囲碁の真の効用なのではなかろうか。こう合点して着手に反映させるべきであろう。よって、「盤上変化を楽しみ味わうべきである」と云うことになる。 |
| 【相手の言い分を認めながら「なるほどの手」で応えよう】 |
| 「相手の言い分を認めながら『なるほどの手』で応えよう」。「石の景色」、「石運び」に加えて「なるほどの手」が肝心である。「相手の言い分を認めながら」とは、相手の打った手の言い分を確認する姿勢を云う。これを侮ったり、馬鹿にしたり、頭から否定するような手は打たぬ方が良い。そもそもこちらに見落としがあるかもしれない。この姿勢は人生全体の呼吸に繋がる。そういう意味で、囲碁は生き方に直結している。いったんは相手の手の言い分を認めた上で、こちらの言い分を打ち出すのが良い。これの巧拙を問うのが手談であり囲碁の妙味面白みではなかろうか。 相手の言い分を認めず、こちらの言い分だけ通そうとするのをゴリゴリ碁と云う。ゴリゴリ碁が通用するのは相手が弱い場合のみである。相手が強いと次第に形勢を損じて行くようになるのが経験則である。 「相手の打った石の後追いをしない」。その通りである。相手の打った石の後追いばかりしていては、相手の意中通りになる訳だから形勢が良くならない。当たり前の話である。止むを得ない手は仕方ないとして、それ以外では得心できる手を打つことが肝心である。これは序盤、中盤、終盤共通である。 2018.11.25日 囲碁吉拝 |
| 【囲碁は一手一手対話の手談である】 |
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「囲碁は一手一手対話の手談である。手談しない碁は囲碁ではない」。このこと気づき、その芸に上達するに連れて一手一手を大切に慎重に打つようになり、決して手拍子打ちをしなくなるだろう。早打ちの凡ミスや見損じが防げるようになる。能く考えて成るほどごもっともの納得の手を打つことになるだろう。ここに囲碁の魅力があるのだから、この手談芸を磨くべきである。
その際、定石は参考であって、時には定石外れ、定石知らずも辞さない覚悟で臨むのが良い。その試行に於いて自ずと着手が見えて来るようになる。且つ、至らない結果になったことに対して反省し、足らざるところを習わねばならない。その繰り返しである。これを精進と云う。 多くのスポーツ対戦は、決着のつく小刻みの「回」を重ねてトータルポイントで「1ゲーム」とする。ところが、囲碁、将棋の対戦には「回」のような区切りものはない。ひたすら盤面に着手を重ねて決着をつけ「一局」を争うトータルゲームである。そういう意味で、「言うは易く行うは難し」であるけれども、「一手たりとも疎かにしてはならない」、「一手一手に責任を持って打たねばならない」、「その果てに結果としての勝負決着が待っている」。そういう訳で、道中の一手一手を大切にして、総じて「工夫を凝らした考える碁」を打とうと云うことになる。 要するに、「なるほどの賢い碁」を打とうと云うことになる。高段者と低段者との芸の差はここにある。高段者になればなるほど石が落ち着いており、低段者になればなるほど石が踊っている。高段者がプロともなると、その手になるほどと得心させられる賢い手の連発となる。であるが故に盤上に並べ返して楽しい。それを習おうと云うことになる。これを逆に云うと、プロの棋譜にはそういう期待が込められていると云うことになろう。 碁はとりわけて考える芸である。なぜそこに打つのか、着手に意味と意志、意図を付与し、それを確認し得心してから着手せねばならない。当たり前のようでなかなかできない。これさえできておれば粗忽な手を打たずに済むものを。故に対局後の検討でいともたやすく並べ直しができる。並べ直しができないのは、一手毎の意味付与、石の流れのストーリーを作りながら打っていないからである。かく自戒せよ。 手に責任を持つとはどういうことか。それは、着手毎に問題図として出されている局面と受け止め、暫し黙考した上で、意味と得心を付与し、順序正しく着手せねばならないことを意味する。かく了解したい。これは、我が石のみならず相手の着手に対しても同様に然りである。彼が打つ石の意味と意思、意図を見抜き、正しく理解して、相応しく対処せねばならない。この両方向の意思疎通ができれば鬼に金棒であろう。 2020.2.11日 囲碁吉拝 |
| 【名局を目指せ】 |
| 「名局を目指せ」。その通りである。その名局とは如何。囲碁の名局とは、打ち手のメンタルが終始乱れず、悪手を一手足りとも打たず、平均点以上の手を打ち続け、中押しもしくは並べて勝ちを得た好局を云うのではあるまいか。これが、できそうでできない。
「プロの指導碁のように余裕でゆったりと打つべし」。その通りである。これが大事である。囲碁チャンネルの置き碁道場を見ながら、そのことに気づいた。プロは、互先から井目までの碁を、それなりにこなす。大概はプロが勝つ。アマは、悪手、凡手、異筋手を積み重ねるに応じて形勢を悪くして自分からこける。プロは、アマがこけるまでを大きく見通しながら明るい手を打ち、無理攻めせずに和戦両様で辛抱強く打ち進める。これがプロの芸である。プロのこの打ち方ができるようになったとき好局が打てるようになるのではなかろうか。好局を自分から壊すような打ち方から卒業できるのではなかろうか。 「碁は棋理の習熟を示し合うゲームと心得よう」。即ち、囲碁を盤上の勝負だけのことにするのは値打ちを下げる。棋理の習熟を示し合うゲームと心得て、これの会得ぶりを人生に活かすことによって囲碁の値打ちが輝きを増す。こう悟って楽しまねばなるまい。よって、囲碁の達人は本来は各界の名士名君とならねばならぬと思う。 「局後に充実感のある碁を打つよう心がけよ」。勝った負けたよりも局後の充実感こそ優先されねばならない。真剣に真剣に手を探して打つ。責任の持てる石を打つ。これが肝心である。これをどこまで持続させて打てるのかが問われている。これを集中力という。 2018.06.27日 囲碁吉拝 |
| 【真剣勝負の経験を積むこと、碁敵(仇)と切磋琢磨すること】 |
| 練習対局を数多くこなし、積極的に他流試合や大会などに参加すべし。しかして「言い訳無用の真剣勝負の経験を積むことが大事」である。 「碁敵と切磋琢磨することが最良の上達法である」。その通りである。上達道中の最適同伴者を碁敵(ごがたき)と云う。碁敵との切磋琢磨で上達速度が加速する故に碁敵ほどありがたいものはない。この碁敵を求めて出向き出向かれたりするのが最良の上達法である。この碁敵は常時一人であってはならない。常時複数による入れ替わりが前提になっている。 2015.10.05日 囲碁吉拝 |
| 【上達の基本は「実戦」、「詰碁」、「棋譜並べ」】 |
| 上達の基本(上達に欠かせない3大勉強法)は、「実戦、詰碁、棋譜並べ」である。この3つをバランス良くこなすことができれば間違いなく強くなれる。 |
| 囲碁の上達には「1・ひと目、2・ひらめき、3・読み」の腕を磨くことが肝心である。これの基礎が詰め碁、手筋であり、それの実戦が本碁である。それはあたかも、諺、格言と人生の関係に似ているのではなかろうか。理論と実践の関係にも似ている。両者共の学び、経験を高めるべきではなかろうか。 囲碁の上達の秘訣は打ちたいところに打つではなかろうか。これは何もヘボな手まで認めようと云うのではない。ここへ打ちたいのだけれども、その先の乱戦が分からない、怖いと云うときに安全策をとることが多いが、打ちたいと思うところ、盤神の囁きがあるところに打つのが一興ではなかろうか。打ちたいと思うところ、囁きがあるところは意外に形の良い手が多い。逆に安全策で仕方なく打とうとするところの手は愚形が多い。こういう場合、まずは思い切って打ちたいところに打つべきではなかろうか。こういう打ち方が上達に繋がるのではなかろうか。何となくそう思う。 読みには「幅広さ」と「深さ」との二種がある。例えば、「ハネ」の着手の際に、ノビたらどうなるか。「キリ」の着手の際に、切らなかったらどうなるのかと、読むのが「幅広さ」の読みである。「ハネ」た場合、相手の応じ手を予想し、それに対する応じ手を考えるのが「深さ」の読みである。上達するには、その双方向の棋力をあげて行かねばならない。 2016.2.18日 囲碁吉拝 |
| 【上達の為の四つのキ論、6つの敗因論】 | ||||||
| アマ最高峰の菊池氏の「囲碁に強くなる本」によれば、上達の為には「四つのキ」があると云う。即ち、「1・好き、2・やるき、3・根気、4・負けん気」の「キ」。碁が強くなるには次の4つの方法があると云う。即ち、「1・打つ、2・見る、3・教わる、4・本を読む」。概要「上達は年齢ではなく碁に対する姿勢に関係している」とも云う。敗因には次の6つがあると云う。即ち、「1・腕力不足、2・見損じ、3・気合不足、4・打ちすぎ、5・緩着、6・形勢判断の誤り」。それぞれなるほどなと思う心当たりがある。 「本を読む」について確認しておく。囲碁吉は2016.10月頃、県下のトップ10に入りトップを窺う方法としての必須著作を確認した。以下の著作を手垢が染み込み、紙が擦り切れるほどまで少なくとも10回以上読み直しすれば、行けると思う。これは今日から必ず実践する。「囲碁吉2016年10月末日、66歳の誓い」として銘記しておく。
2016.10.31日 囲碁吉拝 |
| 【手の四種の神器考】 |
| 「手の四種の神器考/良い手、普通の手、悪い手、厳しい手」。その通りである。これを仮に「手の四種の神器」と命名する。これを見極め、良い手を打つよう心がけよう。 「良い手」とは、棋理に適う手を云う。攻めるのでもなく逃げるのでもなく且つ局面的に見て味の良い、いわゆる柔らかい手、ふっくらとした手を云う。こういう手が打てるようになると高段者の芸である。これを逆に云うと、初心者ほど狙いが露骨で直線的短絡的な打ち方をしており着手の幅が狭い。 「普通の手」とは、局面上、それほど良いとも悪いともいえない大過ない手を云う。別の意味としては棋力通りの手と云う意味もある。 「悪い手」とは、石の効率を悪くしている手を云う。これは石の形としての愚形からも判断することができる。「手の四種の神器」に続く言葉として「良い手では勝てないが悪い手で負ける」がある。悪手セーブが如何に肝要かと云うことになる。 今日、「手の四種の神器」について感想を得たので書きつけておく。かっての兄弟子格、今は囲碁吉の方が兄弟子格のNさんと打った。特段気負わずに全体に普通の手で打ちまわしコミ3目半貰いの白番で盤面6目残した。本局は普通の手で勝てる好例となった。その要因は、囲碁吉は普通の手、Nさんが悪い手を2、3手打ったことによる。こちらが普通の手でも相手が悪い手を打つことにより勝ちを得るのだなと実感した。考えてみれば、一局を通じて普通の手を打ち続けるのは至難の業である。且つ極力悪い手を打たず、ここ一番のところで良い手を打ったらどうなるのか。これはまだ体験がないので未知数である。こういう碁を打ってみたいと思う。将棋でも同じことが言え、「阿部隆の大局観―良い手悪い手普通の手」なる題名の著書がある通りである。 別の日のこと、順風満帆に石を運び、その流れで相手の隅に手が生じ、挟みツケから行けば良いものを二の2のノゾキから手をつけ、反発されて結果的に何の成果もない持ち込みになってしまった。そもそも挟みつけで中での生きと渡りを見合いにすれば十分なところだった。こういう絶好手があるのに欲張って勝手読みの殺し手を打ち失敗してしまった。あの辺りから流れが変わり最後は大差で負けた。こういう負け方は囲碁の運気を悪くさせる。思えば全体に元の木阿弥に戻ってしまっており、技術論のようで精神論、精神論のようで技術論の、あの初歩からの鍛え直し出直しの必要を感じさせられている。 2014.12.09日 囲碁吉拝 |
| 【囲碁のうどんこホウレンソウを理解せよ】 |
| 囲碁の上達を目指すには、それぞれが大手前棋院の専属棋士、白黒軍の軍師、盤上の経営者になる決心をせねばならない。かく覚悟を決めてよりは、「ホウレンソウうどんこ」を信条とせねばならない。「ホウレンソウうどんこ」とは何か。経営学では「ホウレンソウ」を「報、連、相」と読み解く。「報」は「報告」、「連」は「連絡」、「相」は「相談」を意味している。但し、囲碁では「ホウ」を「法」と読み「定石をこなす」と解く。「レン」を「石の連携」の「連」と解く。「ソウ」を「創造」の「創」と解く。よって囲碁では「法、連、創」と解する。 「うどんこ」は経営学では「運、鈍、根」で、「う」は「うん」の略で「運命」、「幸運」の「運」と解く。「どん」は「鈍」と解く。「鈍いくらいの粘り強さ」を意味する。「こ」は「こん」の略で「根気」の「根」と解く。一局に於いては「盤上の持続的な集中力」、棋道に於いては「愚直な精進」を意味する。 囲碁の「法」、「連」、「創」、「運」、「鈍」、「根」の各項は全体の六分の一の比重を持っている。囲碁は盤上のマラソンレースと心得ればよい。棋士はこのマラソンレースに耐えられる力を身につけねばならない。裏意味として、このマラソンレースの決着を先延ばしして持久戦で勝つよう心がけねばならないということになる。かく心得よ。 「囲碁は盤上のマラソンレース」を指手数で考えれば、19×19=361路を交互に打つので、361÷2≒180となる。これにコウがつくともっと指手が増えるが、それも加味して平均ざっと200手と想定できる。この200手を「次の一手」形式で最善手、良手、普通手を打ち続けることができるかどうかが問われている。実際には悪手、俗手を打ち、それを整形する手などがあり、決して平坦な道にはならない。とはいえ、「囲碁は盤上の囲碁はホウレンソウうどんこ持久マラソンレースであると心せよ」と考え、これを完走できる知力体力精神力が必要である。こう了解する必要があろう。勝負を急がず敢えて先延ばししながら200手まで打ち続ける「持久力レース」と考える必要があろう。暫くこの線で打ってみようと思う。 2016.1.23日 囲碁吉拝 |
| 【二通りの囲碁稽古法】 |
| 囲碁の習い方として二通りの方法があると考えている。例えて言えば富士登山の方法に山梨コースと静岡コースがあるようなものである。どちらがどちらになるのか分からないが、全体を掴む大局観コースと、部分の応接を正確にマスターして行く積み上げコースの二通りがあると思う。囲碁吉は前者派であるが、ようやく積み上げコースへ辿り着いた。当然、積み上げコースから大局観コースへの道順もあると思う。どちらが良いというのではなく、当人の似合いのコースで邁進するのが良かろう。 定石、死活、手筋、手順、布石の習熟の必要については次のように考えている。囲碁は紛れもなく頭脳格闘技である。ならばこれに応じたトレーニングをしておかねばならない。囲碁のトレーニングとは脳筋を鍛えることである。脳に筋肉があるのかどうか分からないが、そう考えた方が分かり易い。少なくとも文学的表現では許されるのではなかろうか。脳筋を鍛えることで読みと感覚が磨かれる。脳筋鍛錬は厳しい道のりであるが、山登りに似たすがすがしさを味わうことになる。ちなみに囲碁が頭脳格闘技だとしても、その他の競技には頭脳が必要でないと云うものではない。全体の割合に於いて体力よりも頭脳勝負の色が濃いぐらいに考える必要がある。 世上の一部で、学者的頭脳を高く評価する向きがあるが机上学的に過ぎておりナンセンスであろう。学者的頭脳は実践で検証されるべきで、実践で試され合格した頭脳をもって高度と受け止める必要があるのではなかろうか。だから、あまりにも天狗の学者には囲碁を覚えさせ、その熟達振りを測って頭脳を測定すれば良い。経験上、「ならばよぅしっ」と引き受けた学者はいないふふふ。 2013.6.3日 囲碁吉拝 |
| 【プロレッスン、プロの棋譜並べが良い】 |
| 上達の近道は、「1・お気に入りプロの勝ち碁の棋譜並べ、2・プロレッスン、3・AI碁研究」である。「お気に入りプロの勝ち碁の棋譜並べ」は漫然とした「プロの棋譜並べ」を工夫したものであり、より有効ではないかと思われる。「勝ち碁」に拘るのは、全局の棋譜並べだと時間が係り過ぎると思うからである。囲碁吉はこれをやる道中で碁仇に自然に勝てるようになった。まだ道中なので、これが終わる頃には2目ほど強くなっているのではなかろうか。そういう予感がする。「お気に入りプロの勝ち碁の棋譜並べ」がなぜ良いのかというと、「お気に入り」の場合、恐らく脚質が同じと云うことであろうから馴染み易い。「プロの碁」は「頭の良い碁」であり、自ずと定石に通じることになり、なるほどこう打つのかと「目からうろこ」で教えられることが滅法多い。もう一つは、何か囲碁の本質と云うか思想と云うか会得せねばならぬものが伝わってくるからである。棋譜並べの道中で不思議に何か頭がスーと爽やかになり賢くなった気がする。これはやった者なら共通して感じることだろう。「棋譜並べ」することにより、どんな局面でも落ち着いて打てるようになった気がする。 付言しておけば、「お気に入りプロ」の対象者は人それぞれであろうが、私が聞いた声として道策、丈和、幻庵、秀和、秀栄、秀策、秀哉、呉清源、武宮、井山等々が挙げられる。今はこれにAIが加わる。棋譜は囲碁の歴史遺産であり、これを学ばぬ手はなかろう。これを学ばずして打つ碁は味気なかろう。これが今のところの気づきである。 |
| 【「千局打てば初段」の教え考】 |
| 囲碁には「千局打てば初段」という教えがある。この教えの意味は、覚えたての頃は徒に長考するよりも、むしろ早打ちでどんどんゲームを消化して石の感覚を磨いて行くのが良い、失敗例と成功例を積み重ねるほどに手筋を覚えて行くのであって、そういう経験を積み重ねるのが良いと云うことだろう。こうして「千局打てば初段」の頃がやって来る。これより先は作法を革めなければならない。他の稽古事共通であるが上達には「反省検討」することが要請される。即ち、打ちっぱなしは良くなく局後に「反省検討」するのが良い。その上で、ライバルと切磋琢磨するのが一番の上達薬になる。ヘボ同士打ちでは上達しにくい。上段者対局の打ち筋を静かに見守りながら覚えるのも良い。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
| 【泣きとヤキが入らなければ上達しない】 |
| 「泣きとヤキが入らなければ上達しない」。要するにそういうことである。何度も泣かされ、転がされ、這い上がって、立ち上がって掴み取った着手は、それ以前のものとは違う丈夫なものになる。自戒を込めて云えば、我々の頭脳はかなり頑固である。この頑固を悔い改めさせるにはよほど悔しい思いをせねば無理である。これを「泣きが入る」と云う。泣きが入らなければ上達が難しい。 その為には自分より強い相手を求めてどんどん「懸かり稽古」すべきである。これを逃げるようではダメ。大会にも極力出て負かされ口惜しがるのが良い。これを「焼きが入る」と云う。囲碁も仕事も何も皆な原理は一緒である。囲碁を鍛えることにより間接的に仕事に向かう姿勢と能力をも鍛える。そこに囲碁の面白みと役割があると思っている。 囲碁に嵌まり過ぎて仕事がそっちのけになると云うこともありがちではあるけれどもふふふ。 この辺りは刀鍛冶の教えが最も的確だろう。そこで解説書を参照すると次のように説明されている。概要「焼が入って硬くないと斬れ味が悪く刃のもちも悪くなる。しかし峰の側まで焼入れすると簡単に折れてしまうため峰の方に焼が入らないように冷却速度を遅らせる必要がある。これが焼刃土である。すると刃の側のみに焼が入る。焼が入ると鋼は膨張するので、結果、刃の側が凸に反った形状になる。焼き入れは、外から光が入ってこない状態で行う必要があるため夜行う。方法は、刀身全体を火炉の中で800度程度まで上げたあと、船という水槽の中に一気に入れ急冷し焼き入れ硬化させるのがコツである。このとき重要なのが温度の見極めである。温度は色で見分けるので夜に作業する必要がある。温度が高すぎると刃切れ(亀裂が入ること)が起こり、低すぎると焼きが入らないので非常に難しい作業である。土置きで刃土を厚く塗った棟側はゆっくりと冷えていくので焼きが入らず、硬くならない。また、ゆっくり時間をかけて冷やされ縮むので反りが生じる。一方、薄く塗った刃側は急激に冷えるので、焼きが入り硬くなる。このように土置きすることで、柔軟性と鋭い切れ味を持った良質の刀を作ることができる。硬度の差が生じることにより、研いだ際に刃紋が浮き上がる。このとき、刀匠独自の美しい模様をつけることができる」云々。 |
| 【全体観中の複眼思考&鷹の目俯瞰戦法】 |
| 盤上の局所だけしか見ないようでは良い碁にはならない。着手しようとする石の周囲全体、盤面全体を見て適切な応じ手を繰り出さなければならない。これを複眼思考と云う。 2014.5.25日、禁煙まで誓って挑んだ新聞社主催のとある棋戦の1回戦で敗退した。負け惜しみの弁はしない。この時、今後の打ち方として鷹の目戦法で鍛えていく必要と意義を感じた。これを記しておく。鷹の目戦法とは、盤全体を単に見ると云うだけではなく、鷹の如くに空高く舞い上がり、その高地から盤全体を俯瞰し、彼我の石の長短所を見抜き、彼の石の着手に乱れを感知するやその欠点を鋭く且つ的確且つ効果的に攻め立てる。仮に彼の石に弱点がなければ突いてでも弱点を作る打ち方を云う。部分的観点から攻めず必ず高地から捉えた鷹の目を通して判断し処すると云う作法であり鳥瞰図とも云う。今後はこの技術を磨きに磨いて行こうと思う。これも今までにない発想で、「張栩の眼」を見て思った次第である。 そもそも一局において互いが死力を尽くす訳だから、手合い違いでない限り必ず勝負のアヤがある。沈着冷静に打ち進めるにも拘わらず一局のうちには必ず勝機を損なうような危険を生む事態が生まれる。この時、これをどう防ぎどう纏めて乗り切るのか、逆に相手のそれをどう狙うのかが問われている。これを発見するのが鷹の目戦法である。但し、この鷹の目戦法も感じる力がなければ要するに見れども見れずでどうにもならない。云うは易し行うは難しである。 2013.6.3日 囲碁吉拝 |
| 囲碁経営学では、「3つの目(鳥の目、魚の目、虫の目)の必要」が云われる。 |
| 【石は生き物、渦潮円運動論】 |
| 囲碁吉は新たに「石は生き物、渦潮円運動論」を構想した。常に盤上の石全体との渦潮円運動を意識した着手を心掛ける。そうすれば自ずと着手点が見えてくる湧いてくる。今後はこれを囲碁吉打法として、選択的に許される限りこういう順序で打ってみようと思う。 2014.4.29日 囲碁吉拝 |
| 【六合一石(りくごうひといし)論】 | |
| 「成り行きで自然に石が繋がる一石碁(ひといしご)が良い」。その通りである。一石碁は当然ながら文様が厚い。死ぬ箇所がない。結果として中押し勝ち、目数でも負けないことが多い。 | |
| 呉清源が「六合」(りくごう)を重視していたことが知られている。「六合」とは古代中国の言葉で「天地と四方(東西南北と上下)」を指している。この六合を意識して、「碁の一石一石はすべからく六合に、つまりあらゆる方面と調和しピタリとその場に適合するのが望ましい」とするのが六合論である。囲碁吉はこれに「一石(ひといし)論」を加えて「六合一石論」を構想したい。「六合一石論」とは「盤を隅、辺、中央の三域に識別して、それらを意図的有機的に結びつけ一石化せしめようとする打法」を云う。従来こういう発想をしなかったので新たな発見である。これは囲碁吉の師匠筋の方との語らいの中で閃いた。中央の着手の検討で、「この一帯は制空権のあるところ云々」を聞きながら発想した。これを開陳する。 当初は隅、辺、中央を陸海空と例え理論化していたが実践的にはあまり役立たなかった。そこで単にそのまま隅辺央結合理論とする。要するに隅と辺と中央の有機的結びつきを重視する理論である。隅を点、辺を線、中央を面とする捉え方もある。肝要なことは極力「一石」を目指すのが良いと云うことである。と云うことは、相手のノゾキに対しては無用な反発を控え原則的に有難いと思ってツグべしと云うことになる。そう云えば、ノゾキを切らせて無用な苦労をしたことが多い気がする。この辺りは「英明な素直さ」が要るのではなかろうかと思われる。 問題は、こちらは「一石打法」で打ち進めるが、相手は「一石させじ打法」で来ることにある。お互いがそうする訳である。故に、この瞬間の着手であるノゾキ、キリ、コウが非常に重要な分岐点と云うことになる。故にノゾキ、キリ、コウの駆け引きに熟達せねばならないということになる。結論から言えば、自分の石は繋がるように相手の石は切れるように打つのが理想的な石運びではなかろうか。これを「囲碁吉一石打法」としよう。今後はこういう構想力で打ってみようと思う。 以下、「囲碁の大雑把な形勢判断をする方法を知りたいです」を参照する。興味深い内容なので確認しておく。
2014.4.29日、2015.1.13日 囲碁吉拝 |
| 【無知の涙。石の生き死に甘いのは良くない】 |
| 「無知の涙。石の生き死に甘いのは良くない」。石の生き死に敏感でなくてはならない。相手の狙いのある手に対しては、地の損得以前の問題として的確に生きる箇所に手を入れて生きを万全にしなければならない。逆に詰め碁的に取れる石の場合は、それが取るに値する石ならば的確に仕留めなければならない。隅の六目のようなハネて死にの場合には中へ置いていいけない。それはセキになる可能性があり、取れる石をわざわざ取り逃がしていることになる。こういうブザマを演じてはならない。
2018.4.2日 囲碁吉拝 |
| 【盤面全体が詰め碁を心掛けよ】 |
| 囲碁吉の碁は中央に厚い。自然に打ってそうなる。よって相手は必ず入って来る。これをどう迎えるかが囲碁吉の碁である。今日は大成功し、相手の中央の石約30目を撲滅寸前にした。寸前にしたと云う意味は撲滅し損なったと云う意味である。コウの見損じで、本来は二手寄せコウを三手寄せコウと勘違いして手を抜いて逆転負けしたと云うお粗末な次第。それは反省するとして、自信持って良いことは、侵入して来た相手の石を迎えて盤面全体を詰め碁の状態にしたことである。これについてはほぼ成功していたと云う意味で良い碁だったと思う。囲碁吉のこの打ち方は定評のものであり、この作法はもっと磨かねばならないと思う。このところ忘れつつあった囲碁吉打法の復権記念にしたいと思う。 そう云えば、先日も進入して来た石を50数目にさせ、盤面全体を詰め碁の状態にしたのに、途中で尻尾の20数目切り取りに向かい結果的に負けてしまった。検討の時、さらに追撃される方が怖かったとのこと。道中で尻尾切りに向かった時の気持ちが自分でも分からない。こういう意味で技術論プラスアルファーとしての精神論の強化が必要とつくづく思う。 2015.1.10日 囲碁吉拝 |
| 【石の心を知り、盤の声、心の声を聞け】 |
| 「石の心を知り、盤の声、心の声を聞け」。囲碁に対する新たな知見を得たので記しておく。囲碁の着手に必要なことは石の心を知り聞くことである。これを「石心」と云う。これは既に云い慣らされている囲碁名言である。続いて「盤の声」を聞きたい。これを仮に「盤声」と云う。さらに「石の囁(ささやき)き声」もある。これを仮に「石の声」と云う。これを仮に「囲碁の三神」と命名しておく。その理論を仮に「囲碁の三神論」と命名しておく。碁打ちは、「囲碁の三神」(石心の神、盤声の神、石声の神)の啓示に耳を傾けねばならない。その導きを得るために、それ以前の要素として礼儀作法、定石手筋、精神(闘争力、調和力、統合力)、判断(判断力、決断力)があり、これを踏まえた先に「囲碁の三神」が待ち受けているのではなかろうか。この神の眼鏡に適うと「閃(ひらめ)き」が生まれ「神の一手」を授かるのではなかろうか。さしずめ「耳赤の手」なぞはこれではなかろうか。一局のうちにこの「神の一手」を見いだし打てるかどうか、これが囲碁の醍醐味ではなかろうか。 補足しておけば、「囲碁の三神」を降臨させる前提として「頭を常にやわらかく意地を柔らかく持て」の心構えが必要である。盤上の局面がどんどん変わる、その中での次善の手、最善の手を追求するのだが、局面が変わっているのが分かりきっているのに意地になって昔の読み筋を通すと云うような愚かな手を打ってはならない。これは碁以前の精神鍛錬に関係しているのだが、こういう例がままある。 「囲碁の三神論」にはどういう効能があるのだろうか。これは、人間思案では割合早くの手仕舞いで部分部分を解決して行くところ、「囲碁の三神」の啓示を得て、どんどん大きく攻め合い含みまで持って行く。仮に攻め合い負けになっても締めつけになったり、その締めつけが利いて反対側の相手の石が弱くなっており、捕捉することができたりする。 2015.2.20日、今日の碁でそういう局面ができた。最初は気づかなかったが途中で手が見えてきて、その狙い通りに石を運び召し取ることができた。当方の取られた石が20目、後で取った石が15目、但しダメがすごく空いているので却って儲けている。「囲碁の三神」の云う事に謙虚になるのが宜しいと云うことになる。 もう一つ、「ここ打てワンワンの心の声」がある。「ここ掘れワンワン」の囲碁版である。 2014.4.26日 囲碁吉拝 |
| 【石の匂い臭い、局面の匂い臭いを嗅げるようになったら一人前】 |
| 「石の臭い、局面の臭いを嗅げるようになったら一人前」。石とか局面の良い意味での匂い、悪い意味での臭いを嗅げるようになると一人前ではなかろうか。石の匂い、臭いを嗅ぐとは、相手の着手石の意味を知ることであり、意味を知るとは狙いと役割を察知することを云う。これを正しく嗅ぐことにより適切な応酬ができるようになる。これができるようになると天下6段の扉が開いたことになる。これにも早嗅ぎと熟考嗅ぎがあろう。どちらもできるようにならねばならない。 これは割合と新しい発見であり、2017.2.13日の飼い犬の散歩のときに気づいた。愛犬が草花の匂いを嗅いで対話しているように囲碁も然りで石を嗅ぐべきではなかろうかと。これをしない早打ちはメクラ滅法ではないのかと。「手談の裏に石の嗅ぎあり」。これを囲碁吉用語とする。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
| 【目を肥やし、ひと目で感知する能力磨くよう】 |
| 「趙治勲のひと目の詰碁」と云う書籍がある。題名の「ひと目」のところに意味がある。「ひと目で分かる」ことが大事とメッセージしていると拝察すべきである。これは実際その通りで、恐らく囲碁のみならず全般に云えることだと思うが、芸能を磨けば磨くほど「ひと目で分かる」ようになると知るべきだろう。これを逆に云うと「ひと目で分からない」のは精通不足と云うことになる。例えばシチョウがそうだろう。手指で追わなくても「ひと目で分かる」者が強い。そういう意味で、「ひと目で分かる」よう目指すべきである。 囲碁に限らずと思うが「ひと目で感知する能力磨くよう」心掛けねばならない。対局で早打ちの人と熟考型の人が居るが、早打ちの人は慎重さが足りないだけで本来は熟考型の人も着手をひと目で見出しているのではなかろうか。対局上の考慮時間とは、ひと目で感知した着手の是非を総合的に確認する為に要する時間であって、空白の中から着手を探し出す時間ではないのではなかろうか。もっとも大抵の場合はと云う条件付きである。時には難解な局面で適切な着手を見出すのに苦吟する場合もあろう。そういう場合は別にしてである。そういう気づきを得た。 2014.12.07日 囲碁吉拝 |
| 【痛恨の一着&虚の一手考】 |
| 「神の手」の逆は「痛恨の一着」である。不意に手拍子で打つ悪手のそれと熟考の末のポカ手の二通りが考えられる。「神の手」を呼びこめられるか、「痛恨の一着」を防ぐことができるかで二子違うと思う。あるいは勝率が5割方変わると思う。これはプロでも同じであろう。 「虚の一手」もある。形勢5分のまま両者ギリギリの折衝を続けている時、何気なくよそ行きの手を打ってしまうことを云う。それは攻めの急所逃しの手であったり、守りの肝要な手外しの手であったり、戦線逃亡の手であったりする。結局は棋力通りになる訳であるが気をつけねばならない。 ここ一番の肝腎な時に、神の一手が出るか手拍子の悪手が出るか、雲泥の差である。この辺りは平素の稽古により鍛えておく必要があろう。 2014.4.26日 囲碁吉拝 |
| 【囲碁体操考】 |
| 負け怖じしない心地良い緊張感と石心盤声を能くする為には、心と体を柔らかく保持することが肝要である。心と体を柔らかくするとはどういうことか。これは心と脳と体の働きの交互関係を知り、それらのコンディションを良くする為に必要な営為である。心と脳の働きのコンディションを良くする為に特に首周り、肩周り、腰周り、を柔らかくしておかねばならない。 これにつき、囲碁吉の実際の経験で、適当なパイプ棒を持って剣道の素振りをした後に対局に臨み思わぬ成果を得たことがある。してみればストレッチ体操なぞも良いのではなかろうかと思われる。食事法と一緒で、各自が相応しく考案されるのが良いと思う。このことに気づいてトレーニングしている者と気づいていない者の差が大きい。そういう観点からプロの生態を窺うと、やはりこちらもプロで、ちゃんと励んで居られる者が多いので感心させられる。 2014.4.26日 囲碁吉拝 |
| 【囲碁の味わい方考】 |
| 囲碁の味わい方には二通りあるように思われる。一つは「下手の横好き」、もう一つは「上達祈願」。この二通りの味わい方のそれぞれを組み合わせて精進するのが理想ではなかろうか。これはアメとムチ、太陽と北風の例え話にも通じている。要するに、厳しいばかりではダメで、かと云って単なる楽しみ碁のような打っただけの碁でもダメで、両者を組み合わせねばならないのではなかろうか。これを上手に為し得てこそ真の囲碁好きと云えるのではなかろうか。 2018.9.1日 囲碁吉拝 |
| 【言い訳無用。言い訳する者は強くなれない】 |
| 勝負の世界では言い訳は無用である。言い訳にどんな理があろうとも聞き苦しいだけである。勝つと負けるので景色が違うことを踏まえ、言い訳無用で次には勝つという作法を鍛えたい。現に言い訳する者の上達は遅い。言い訳せずにむしろ思い切り泣くべきである。言い訳する子は強くなれない、泣く子は強くなると云われている通りである。 2020.2.9日 囲碁吉拝 |
| 【視野を広げよ】 |
| 「視野を広げよ」。その通りである。全局を通じてこれが肝要である。打ち進めるうちにこの戒めを忘れ部分に拘泥するようになる。相手が付き合いしてくれれば良いが、局面のうちの最好点に打たれて愕然とする。後はもがいてみるだけという事例が多い。戒めるべきである。 「手幅が広がる手が良い」。その為にはキチッと守ることが必要である。キチッと守ることにより手幅が広がり楽しみが多くなるからである。守らず先々を急ぐのは自滅の予兆を準備して行く道に過ぎない。 |
| 【おいしい話にご用心、勝手読み錯覚の恐れあり】 |
| 「勝手読み錯覚のおいしい話にご用心」。その通りである。相手が大石を気前良くくれようとしているように見える事態を前にして、これを喜ぶ前に、その話に乗って良いのかどうか見極めねばならない。タネ石が抜けている場合がある。一種の錯覚であるが、気をつけねばならない。 2017.2.14日 囲碁吉拝 |
| 【相手を侮るなかれ。布石の下手をあなどるなかれ】 |
| 「相手をナメてはいけない、布石の下手をあなどるなかれ」。 |
| 【凡ミスせぬようポカせぬよう】 |
| 「凡ミスせぬようポカせぬよう」。案外と勝負は丁々発止の巧拙よりも凡ミスやポカで決まっているのかもしれない。凡ミスやポカをした方が負け。双方が凡ミスやポカをし合う場合は最後にした方が負け。これが勝負相場になっている気がする。 今日は碁仇の凡ミスを咎めて、序盤の薄みを突いて中央の数子を捉えて優勢となった。後は打つほどに相手が崩れて勝勢となり、局後に「酷い碁だった」と言わしめた。逆の事態にならぬよう自戒せねばなるまい。 |
| 【石が要求する着手点を見出し、そこへ打つ。打ちたい所へ打つ】 |
| 「石が要求する着手点を見出し、極力そこへ打つ」。これが打つコツかもしれない。プロの棋譜を並べながらそう思った。その後の紛糾は承知済みで、まずは石が要求するところへ打つ。石が要求するところと打ちたいところが重なれば申し分ない。実際の着手が石が要求するところと異なる場合、何度も何度も可否確認せねばならない。往々にして、石が要求するところへ打つ方が棋理に適っている場合が多い。 「イメトレで手を翳(かざ)して盤上の熱いところに打つのが良いかも」。その通りである。実際に手を翳すのはマナーが悪いと思われるので、これをイメージトレーニングでやるのが良い。早速、試してみよぅっと。 石はのびのびと打ちたいところへ打たねばならない。そういう箇所が見つかったら駄目元で試してみよう。これは逆の場合にもそう。相手の乱暴な手にひるんではいけない。気合の反発が要件とされる場合にはそのように打ち、局面に正面から立ち向かわなければならない。心せねばならぬことは「相手が打たないところに打つな」、「やれ打つな。たった一つの頓死の手」、「チャリンと音した目の前の100円玉拾いに行って、1万円札を音なしで落としている」(西村修語録)である。 |
| 【直線碁は良くない。全体を柔らかく、ふっくらと包み込むようにこねる餅つき碁が良い】 |
| 「直線碁は良くない。全体を柔らかく、ふっくらと包み込むようにこねる餅つき碁が良い」。その通りである。囲碁の着手感覚として、露骨な手を打たず、全体に縮(ちぢ)こまず、力まず、柔らかく、ふっくらと包み込み、全体に石が繋がるような手が良い。無理な攻め過ぎがいけない。 |
| 【囲碁は無理が一番イケナイ】 |
| 「囲碁は無理が一番イケナイ」。その通りである。「石の景色」、「石運び」、「なるほどの手」の次には「無理をしない」ことが肝心である。諺(ことわざ)の「無理が通れば道理が引っ込む」通りであるが、無理は咎められることが多い。無理の度が強いだけ咎められた時の傷が大きい。時には致命傷になる。そういう意味で、棋理に合う手が求められている。次の戒めとして、無用な反発を御法度とし基本は素直な受けから始めるのが良い。次に攻撃よりも自陣補強を優先させるのが肝要である。これらについては、「棋道訓、囲碁十訣、囲碁十章、囲碁名言」で確認する。 |
| 【石の形に通じよう】 |
| 「石の形に通じよう」。「急場」の次に「石の形」に留意せねばならない。これを「石の形論」と命名する。「石の形」は当然ながら好形と悪形がある。 好形の代表例はノビキリ、千両曲がりである。「ノビノビした手」に好形が多く、草花草木が天に向かってスクスクと成長するように石が無駄なく中央に向かっている。効率が良い。 悪形の代表例は空き三角である。「コセコセした手」に愚形が多く、他に有効な大場があるのに、同じ地点のやり取りを続ける打ち方を云う。見た目の形が悪く働きがなさ過ぎ、石に伸びがない。「凝った手」も愚形であり、石が一箇所にごちゃごちゃ混み合っている石運びを云う。「屋根重ねの手」が典型で、石の働きが重複している。囲碁の神様は石の重複を嫌うので先が良くないことになる。効率が悪い。 「石の形論」はもう一つの意味がある。それは「石の格」に関わっており、叩かせてはならないところについて叩かせないよう黙って下がる手を云う。叩かせてはならないところを叩かせると形勢の流れが悪くなり負けコースに向かっていくことによる。よって、こういうところは甘んじて後手を取り辛抱しなければならない。「天王山の手」も然り。こういうところを見逃してはならない。 2014.09.22日 囲碁吉拝 |
| 【石の組み立てセンスを良くしよう】 |
| 「石の組み立てセンスを良くしよう」。布石による相互の陣地の組み立てを終えると、相手の陣地の削り合いが始まるが、その際、相手の意図を察知して逆利用する裏技をも顧慮せねばならない。例えば、オシでヒキを強要しているとき、ハネて、キラセて、そのキッタ石をしごいて、数石を取らせて、その代わりに反対側に巨地を形成する方法がある。採用するかどうかは別にして考慮せねばならない。 「安普請はダメ、本家普請がマル」。盤上での安普請はいけない。本家普請を目指さねばならない。家に例えればそういうことになる。基礎と柱、屋根、筋交いが正確に組み合わされていなければ能い家にならないと同様の注意力で盤上の石建築に向かわねばならない。これを身体に例えれば、丈夫な身体作りになる。丈夫な身体の基本は腰である。これになぞらえて腰の丈夫な碁を打たねばならない。腰の丈夫な碁とは、厚い碁である。特に中央を厚くせねばならない。稼ぎ過ぎの代価で中央を薄くしていると終盤になってトンデモな寄り付きで逆転されることが多い。 2018.4.2日 囲碁吉拝 |
| 【手どころとか大局観が問われる局面で、どこに目が行くが棋力である】 |
| 「手どころとか大局観が問われる局面で、どこに目が行くかが棋力である」。その通りである。この目線を鍛えるのが芸である。こう承知して精進するのが良い。 2021.1.12日 囲碁吉拝 |
(私論.私見)