「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その2の1

 更新日/2026(平成31.5.1栄和改元/栄和8)年11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこの川口大三郎君虐殺事件考その2」を記しておく。

 2022年.11.22日 れんだいこ拝


 「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その1」へ続く。
 (「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その1
」) 


1973(昭和48)年

【反革マル派連合「早大行動委」結成のための情宣活動】
 「早大行動委」結成のための情宣活動資料は次の通り。
 全学行動委員会連合準備会情宣部/行動委通信「1.8集会に総結集せよ」。  
 早大全学行動委員会連合(準)「1.8集会貫徹!文学部キャンパス解放!」。
 一文自治会臨時執行部「戦闘宣言 1.8総決起-文学部解放を克ち取れ!-早大管理支配体制を解体せよ!」。
 1973.1.7日、全学前段階総決起集会。

【反革マル派連合「早大行動委」が結成される】
 1.8日、臨時執行部が、革マル派の本部前集会を粉砕すべく、銅像前集会を実現した。
 1.8日、年明けのこの日、前年来相次いで結成された各学部の自治会代表者が勢揃いした全学自治会総決起集会が開かれ、反革マル派連合の「全学行動委員会」(早大行動委)が結成される。一文行動委他約100名が初めて黒ヘルメットを着用して「端緒的な自衛武装を開始した」。以降、黒ヘルを着用する。この段階の早大行動委は革マル派の角材と投石に対して素手で立ち向かっている。自衛武装がやや拡大されて6月段階の二連協の自制した武装論に繋がる。素手で角材や投石と闘う中で多数の負傷者を出しながら、否応なく反暴力を拒否しつつ自衛武装の地平に立ち至った。
 日付なし、一文行動委員会連合(準)「1.8集会の成果にふまえ1.12団交要求集会を準備せよ!」。
 日付なし、二文有志「革マル派の敵対を粉砕し、団交に勝利せよ!」。

【反革マル派セクトが次々と登場し始める】
 この頃、かつて政経学部を拠点としており、革マル派との党派闘争に敗れ追放され、この当時、神奈川大学を拠点としていた社青同解放派、ブントが革マル派追及の波に乗じてキャンパスに登場するようになり、革マル派との本格的抗争に入り WAC(早大行動委員会)に助太刀する。中核派のレポも頻繁に登場していたが高田馬場駅前集会までが限度でキャンパス登場はしていない。

【民青同の行動が急速に沈静化する】
 川口君事件当時、7自治会が存在し、その内の6を革マル派、1を民青同(法学部自治会)が握っていた。川口君事件以降、民青同は革マル派追放の闘いに共同してきていた。しかし、全学行動委員会(早大行動委)が結成された頃から、民青同の革マル派糾弾運動が潮を引き始めた。
(私論.私見) 「民青同の戦線撤退」について
 これも奇怪な動きであった。れんだいこの知り得た情報(確か風邪で病院に出向いた際、当時の早大民青同幹部と偶然に待合室で出会い、その時の手振りを交えながらの直言である)によると、「上からの指示で手を引くことになった」と云う。民青同が運動から引くことにより早大行動委が裸になり、結果的に「早大解放の闘い」が挫折することになる。

 この現象を如何に見るべきか。共産党中央指示は、結果的に革マル派の窮地を救ったことになる。共産党中央は、早大が学生運動のメッカになるよりは革マルの暴力支配による他党派締め出しの方を良しとしていたことになる。これが裏の実態であったことになる。れんだいこの日共批判は、この時の動きの変調さ等々から下地が醸成されている。

【早大行動委が各学部自治会の奪権運動に取り組み始める】
 早大行動委派が、「自主的討議、決議、執行」を良しとする新自治会創出に向かった。
 1.11日、政経学部、学部団交。
 1.12日、団交要求集会。
 1.13日、一文で、一文自治会臨時執行部、選挙管理委員会、クラス連絡協議会の連名でクラス自治委員選挙が告示された。臨時執行部側が約100名の隊列を編成して、革マル派のバリケード突破し、選挙会場を確保しクラス委員を選出していった。
 自治委員選挙を開始した際、一文自治会臨時執行部派は文学部キャンパスのスロープ上で革マル派を実力で突破して、裏山手前にあった木造校舎を占拠して、選挙の場を確保した。革マル派より人数が圧倒的に多く、且つ自制的であれ実力行使で「暴力」を使っていた。
 1.14日、各学部の自治会委員選挙で小ぜり合い。
 1.16日、政経学部で学部団交。800名の政経学部学生と学部による初団交が大隈講堂で開かれた。学部当局は、反革マルの自治会(学生5500人)が学生の総意により組織されたものとは認めないと突っぱねた。

【革マル派の反攻とテロにより「早大行動委」の負傷者が続出し始める】
 1.17日、一文で革マル派の自治委員総会。それに対抗した「早大行動委」部隊が革マル派と二度にわたって衝突し、十数名が負傷する。革マル派は17日以降、角材や投石用の石を用意し、屋上から机すら投げ落とそうとした。これに抗するのに「暴力反対」と言うだけでは日々進行する状況の深刻さを止められなかった。
 この時、「暴力への視座」と云う自省のビラが残されており、「戦術上の必要最小限の自制された暴力」は使うとある。「自己絶対化しない暴力」として位置づけていた。1.17日付け「暴力への視座」ビラが次のように主張している。
 我々は一貫して戦術上我々の方針を貫徹するのに必要最小限の暴力を使ってきたのであり、文学部に我々が入るのを阻止しようとした革マルに対しても、文学部内に統一選挙場を獲得するという目的に合致しないといって、個人レベルでの革マルとの殴り合いは避けてきた。これは我々の目的意識をもった最小限の暴力という原則を貫いたものであり、宗教的な非暴力ではないし、個人的な怒りを即、物理力としての暴力に結びつけるという革マル派諸君がどっぷりと浸った安易な発想(敵に対して何を行なっても良い)とは無縁のものであった。満身の怒りを持ちつつ、それを個人の怒りから止揚し、目的意識を明確にして行使された暴力であった。我々は一貫して思想の違いを認めつつ運動してきたのであり、革マルに対しても戦術上の暴力以上の暴力、つまり革マルだから殴るなどというようなことはありえず、大衆の面前(決して密室などではなく)における自己批判以外は行なわない。もしこの原則を貫ければ我々は川口君を虐殺した革マルの『思想の異なる人間に対して自己又は自己の党派を絶対化した上で罰する』という発想法を乗りこえられるだろう。もしそうでないなら単なる腕力の強弱に終ってしまうだろう。
 この段階では、革マル派の角材と投石に対し、「早大行動委」は素手で立ち向かっている。但し、1.8日の冬休み明けの初日に一文行動委他100名が初めて黒ヘルメットを着用して「端緒的な自衛武装を開始した」として以来、この日も黒ヘルメットを着用した。

 1.17日、期末試験混乱。早大政経学部の団交決裂。


【大学当局が文学部ロックアウトで革マル派の窮地救出】
 1.18日、文学部、ロックアウト。これに抗議する「早大行動委」などが機動隊と衝突、1名逮捕される。

【中核派700名が本部正門突入を図るが機動隊-革マル派連合に阻止される】
 1.18日夕刻、中核派700名がキャンパス内の革マル派350名目がけて本部正門突入を図り、本部キャンパスに入ろうとしたものの多くが逮捕され、残った約200名ほどが本部正門から突入、革マル派大部隊に襲われ敗走した。それ以降、中核派は早稲田大学に登場していない。

 直後、中核派が機関紙前進で、「わが部隊は地下鉄早稲田駅から本部キャンパスに向かう途中、機動隊に阻まれ、多数が逮捕された。本部キャンパスにたどり着けた者はわずかだった」として「KK連合」(革マルと警察の連合)非難を開始した。読売記事「早大でも乱闘騒ぎ」その他を参照すれば、「中核派60名(うち女性11名)が凶器準備集合罪、公務執行妨害で逮捕、革マル派逮捕者なし」としている。
 翌日の朝日新聞に「中核派が今後も実力で早大構内への突入をはかれば、革マル派や反革マル派の学生との間に新しい摩擦が起こるものと見られ、早大の自治会再建運動は、さらに混迷するものと見られる」と書かれた。

【「早大行動委」が革マル派と武闘、追い詰める】
 1.19日、この日、革マル派の文連総会が開かれようとしていた。午後3時40分、黒ヘル(11・8行動委など)60名は革マル派が3号館で開いていた文化団体連合会総会に乱入しようとし、3千名の一般学生も革マル派に出て行けと投石、革マル派は旗竿で逆襲しようとしたが、一般学生と黒ヘルに蹴散らされ、商学部11号館に追いつめられた革マル派が投石などで対抗した。そこへ鉄パイプで武装した革マル派が学外から応援に現れて、11号館から出て来た革マル派と合流し、行動委員会や他の学生たちに襲い掛かった。約30分間にわたる乱闘で負傷者が続出した。

 この時、政経学部の紙谷君(20歳)が革マル派によって投げられた重い物で頭蓋骨陥没骨折の重傷。その後の乱闘でも30数名が負傷した。早大全学行動委員会連合(準)「危篤一名、病院収容者35名 革マル派ノンヘルテロ部隊、闘う学生を鉄パイプで無差別に襲う!!」。
 1.19日の早大キャンパスで私は二千人程に及ぶ「最後の群衆」を目撃した。(府川充男「六八年革命」を遶る断章」)

【「早大行動委」と革マル派とのゲバルトが続く】
 1.20日、一文行動委(準)「革マルの宗派的戒厳令を突破し、闘いの巨大な前進を!」。
 その後も「早大行動委」と革マル派とのゲバルトが続く。
 革マル・ノンヘルテロ部隊が2J生などを襲撃する。 

【大学当局が本部キャンパス全学ロックアウト措置に入る】
 1.20日、大学当局が、後期試験の正常な消化の爲と称して、理工学部をのぞき全学ロックアウトに転じた。この措置が、非勢の革マル派に息継ぎを与えることになった。且つ施設管理権で排除されたのはいつも「早大行動委」側で、革マル派の全国動員精鋭武装部隊は学生会館から排除されなかった。その学内集会は許可され機動隊が常にそれを守った。大学当局が革マル派の武力支配を温存し活用した形跡が認められる。
 1.21日、読売新聞が次のように発信している。
 第一次早大騒動の時に阿部賢一元総長が示した紛争解決に対する熱意と努力が、いまこそ大学当局に必要だろう。

【厳戒の中、期末試験実施へ】
 1.21日、早大緊急会議が開催され機動隊要請。厳戒の中、期末試験実施へ。

【政経学部の混乱が続き試験中止】
 1.22日、政経学部の期末試験がスタートしたが、反革マル派の学生が政経学部で団交を要求してバリケードを作り、朝から追及集会、スト突入。大学は機動隊を導入、15名逮捕。政経学部の試験は中止され、メドたたずの事態となった。

【この頃のビラ(日付なし)】
 この頃、以下のビラ(日付なし)が配布されている。
 一文臨時執行部「規約改正委員会創出に向けて!」。 
 一文自治会臨時執行委員会「臨執声明」。
 二文臨時執行部「二文の自治会員へ」(1.22二文学生大会への革マルの誹謗に対する反論)。
 第一文学部臨時執行部「緊急アピール 全ての学友は1.23学生大会に結集せよ」。
 全学行動委(準)「『個人テロはあたりまえだ・・』醜悪な居直りと敵対を繰り返す革マル糾弾!」。
 山内武「後期試験をボイコットし百家争鳴・百花斉放の嵐を!」。
 無署名「革マルは決して許されてはならぬ!」。
 哲学科3年河田一「我々の運動と今後の方針について」。
 無署名「分離試験を粉砕せよ!」。
 早大<一一・八>抵抗運動「革マルは滅亡寸前だ!」。
 4号館にタムロする有志「告発 死者を冒涜するクラ討連内樋田グループを告発する」。
 四年有志「四年卒業を口実にした当局の闘争破壊を許すな!」。
 パルメザン四人組「犠牲の収斂!」。
 学生運動と自治に関する有志会議「自治会を独占させないための具体的対策を!」。
 1文2Hの反革マル宣言「我らが自治運動を語る」。
 無署名「暴力への視点」。
 無署名「革マルの川口君虐殺断固糾弾!」。
 早稲田大学部落問題研究会「カクマルの川口君虐殺を糾弾せよ!」。

【「早大行動委」が各学部自治会の奪権闘争本格化に向かう】
 1.23日、第一文学部学生大会が開催され、1600名の予想以上の人数が結集した。臨時執行委員会の議案書を採択し、期末試験阻止、自治会承認を要求する1週間ストライキを決定した。「1.23学生大会スローガン」、「試験強行阻止!スト貫徹! 1.23学生大会勝利万歳-自立した自治会運動の創出へ」。
 1.23日、本部キャンパスが平穏化し、法、商学部が期末試験。
 1.24日、一文行動委員会中心に「期末試験ボイコットの一週間ピケットストライキ」に突入。革マル派とこぜりあい。大学当局、試験延期。政経試験も延期。早大教育学部が反革マル系自治会を承認。
 1.24日頃?、一文行動委連合(準)「革マルの敵対を粉砕し、ストライキ実行委の結成をもって、一週間ストを貫徹せよ!」。
 1.24日、教育学部が、唯一の交渉団体として認める。2.22日、総意に立つものとして承認する。6.21日、新執行部が確立した時点で自治会承認する。
 日付なし、早大一文行動委員会「学生大会の勝利を真の勝利とする為に更なる闘いを準備せよ!」。 
 日付なし、一文自治会臨時執行部「1.26自治委員集会に結集しよう!」。
 日付なし、一文選挙管理委・一文臨時執行委・一文クラス協議会「公示 新クラス委員選出=新執樹立に関する臨執決議」。
 1.25日、一文で、臨時執行部が招集する学生大会が開催され、自治委員総会成立のための定足数(全学部生の5分の1)を大幅に突破する1542名が参加した。大会で、事前に公表していた暫定規約を賛成多数で採択した。正式な自治会規約については自治医院を中心としたクラス討論の積み上げによって決定していく方針も承認した。
 1.25日、教育学部、学生大会。
 1.26日早朝、革マル拠点などが捜索される。 
 1.26日、早大一文が30日まで試験中止。教育学部もストに突入。政経学部長らが混乱の責任をとり辞意。
 1.26日、政経学部が、自治会再建学生投票を有効と認める。2.24日、残りは第五項目だけ。着実に前進するように。
 1.27日、一文行動委員会革マルの敵対を打破し自治委員会総会に勝利せよ!」。

【一文で自治委員総会が開催、投票で新執行部が選出】
 1.27日、一文で、学生大会で採択された暫定規約の下で自治委員総会が開催された。一文自治会臨時執行委員会「1.27自治委員総会議案書」と会計報告(1973.1.27現在)、第一文学部自治会仮規約。各クラス、専修ごとに選出された65名の自治委員が勢揃いし、その投票で新執行部が選出された。臨時執行部委員長の1年J組の樋田毅/氏が委員長、1年J組のY、2年T組の野崎泰志/氏が副委員長、フランス文学専修3年の山田誠/氏が書記長に選出された。執行委員に日本文学専修3年の岩間輝生氏ほか。

【手配中の阿波崎、村上、佐竹の3名が事前通報逮捕される】
 1.28日、手配中の阿波崎文雄、村上文男、佐竹実の3名が横須賀市の臨海公園「空母ミッドウェー寄港阻止集会」に参加のところ、革マル組織からの110番通報により横須賀署員が駆けつけて任意同行され、黙秘・指紋採取拒否のため、警視庁公安一課職員が確認して逮捕された。これでリンチ殺人犯人とされた5人全員が逮捕された。
 歯ブラシなど身の回り品を持っており、前回と同じく計画的に逮捕されたものだった。

【「早大行動委」のその後の各学部自治会奪権闘争】
 行動委員会とは第二次早大闘争の生き残りの世代の3・4年生中心に立ち上がった活動家の集合であり、同時に革マル派と敵対していた政治党派の活動家(手書きビラの書体と語彙で当時は分かった)の寄り合い世帯であった。各学部で結成されて合同しそれが後に早稲田全学行動委員会(WAC)の黒ヘルメット集団になる。これが革マル派と対立する諸党派と連携して、後に連合した武闘集団になる。
 1.29日、一文、第二回学部団交。0回答—混乱・日付なし無署名「1.29学部団交(レジュメ)」。
 1.29日付けビラ「一文行動委連合(準)略称LAC」は、「三里塚の闘いを早稲田に」と新左翼党派(社会主義青年同盟解放派・反帝学評)の主張も小さくある。
 1.29日、教育学部スト突入。政経学部が第2波1週間のストに突入。
 日付なし、一文執行委員会「我々は断固主張する!」。
 日付なし、2J行動委「一文解放を妨害し、レッテルはり、下宿テロを行なう「革マル派」を断固糾弾する!」。 

【一文、学生大会で第二波の1週間スト可決】
 1.30日、一文、学生大会。第二波の1週間スト可決。「一文行動委」として付帯決議案を提出。次のように述べている。
 我々は〈自由〉一般を語るのではなく、一人の人間の死をとらえ返す我等の思想と、一人の人間の死に触発された、闘わざるを得なかった我等の初志を問題としたい」。

 筆者不詳のビラ「現状分析・総括を踏まえての行動方針」は運動の担い手として以下の三分類を掲げている。
 一年生を中心とするクラ討連(註、クラス討論連絡協議会)。二年生2Jを中心とする部分。三・四年行動委を中心とする部分。(中略)一年部分、三・四年部分の相違を本質的に捉え返すことでその充実を克ち取り、1/8総決起をめざそう。
 (資料)一文自治会執行委書記局「1.30学生大会議案書」。日付なし、一文自治会執行委員会「72年度最終自治委員総会議案書」。2Hクラス無署名「第二波一週間スト 新執行体制の強化確立」。一文自治会執行部書記局「あした早く起してお母さん!連日早朝ピケットに参加し、キャンパスを埋め尽くせ!」。
 1.31日、一文自治委員総会が開催され、試験無期延期、ストさらに続行。
 1.31日、二文自治委員会総会成立。2.1日、無署名「1.31 二文自治委員会総会報告」。
 1.31日、社会科学部、学生大会。

【「早大行動委」系が次々学生大会、団交に漕ぎ着ける】
 2.1日、一文学部で、学部団交。
 2.1日、一文日本史専修行動委員会「カクマルまたも自主管理を破壊す」。
 2.1日、LAC一文行動委連合「全学スト実を創出せよ」。 
 2.2日、一文自治会執行部書記局「『ソドムとゴモラ再び!』-抑圧の大伽藍を紅蓮の炎で焼き尽くせ!」。
 2.2日、政経学部で、学生大会が開催され3カ月ストライキを可決。社学部団交、教育学部団交。
 2.3日、入試中ロックアウト。
 2.3日、政経、教育で学生大会。教育学部自治会が試験ボイコット延長。

【2.4日、革マル総指揮者逮捕される】
 2.4日、革マル総指揮者逮捕される(氏名その他詳細不詳。誰のことか?)。

【一文で学部団交(1973・2・5団交)】
 2.5日、「団交実行委員会情宣局」名義の「2・5第3次団交に向けて!」ビラ。
 川口君虐殺糾弾闘争のその根底にせまる内実を獲得すること、そのことが問われていることを確認しよう。我々の運動は、自治会承認を自己目的化するものでは決してないし、自治会建設を至上命令とするものでもない。多様な運動を保障し、その中で阻害物として登場する当局―革マルの圧殺を断固粉砕することが我々の当面の任務であるし、自治権奪還闘争として外化している我々の運動の内的な限界を止揚していくような質を内包するものでなければならないであろう。
 この「団交実行委員会情宣局」という主体名は自称であり新執行部に組織機関としてこれは後にも先にも存在していない。行動委や団実委はこの辺りから自治会運動を凌駕して先走りを始める。団交実行委員会は行動委員会系の学生が次に形成した運動体で、各学部にも作られ最後に全学団交実行委員会となる。これが後の1973年5月8日の総長拉致・団交を実行し、5月17日の再団交の確約を取るが、「行動委系の全学団交実行委は、全学生を代表しているとはいえない」と云う理由で団交拒否を通告される。これを境に団交実行委員会は破綻し、そこを突いた革マル派からの学生自治会や一般学生に対する鉄パイプ攻撃が本格的に始まる。
 2.5日、一文で学部団交(1973・2・5団交)。十人委員会が総長団交を実現するよう教授会に要請する旨の確約書にサインする。 

【一文教授会が「新年度の自治会費代行徴収の要請書」提出を催促】
 一文教授会は、2.5団交において「新年度の自治会費代行徴収の要請書」を学部に提出するよう申し入れて来た。これは学生自治会の根幹に関わるもので大激論になり執行部としては結論が出なかった。

 2.6学生大会(流会)議案書には以下のようにある。
 我々は彼らの要求に対し、当面正式な自治会として教授会に代行徴収を要請する。しかしながら、代行徴収に関する我々内部における論議が何らかの形で煮つまるまで、我々自らの手で自治会費を凍結しておくつもりである。
 この学生大会に、BACHグループが独自の議案を提出しようとしていた。それにも自治会費代行徴収について意見が述べられている。事前にそれを知った執行部は驚愕し、上記のような妥協案でしか今回は乗り切れないと申し入れた。苦渋の思いでその削除が要請され、BACHグループは忍耐力を示しその削除に同意した。今日残っているその議案書の最後のところは黒塗りになっている。この問題は大議論になって結論が出ずにこのような折衷的な議案提出に至った。
(私論.私見) 「自治会費受取り」をまごまごする理由なぞないのに 
 今日判明することは、大学側が4月からの新入生の自治会費の代行徴収の要請書を新自治会に言ってきたのは、新自治会を承認する予定であった事を示していることである。学生自治会にとって「承認か自立か」と云う主体性議論はあったとしても、「自治会費受取り」をまごまごする理由なぞない。私論を述べれば、この船には乗って良い、否乗るべきだったのではないのか。

 2.5日、政経スト実行委にゅーすNo2「子羊からの脱皮宣言」。

 2.6―7日、一文で学部集会。
 日付なし、BACHの有志グループ「2.6学生大会議案書」。
 我々は彼らの要求に対し、当面正式な自治会として教授会に代行徴収を要請する。しかしながら、代行徴収に関する我々内部における論議が何らかの形で煮つまるまで、我々自らの手で自治会費を凍結しておくつもりである。

 この学生大会に独自の議案を提出しようとしていたBACHグループのそれにも、自治会費代行徴収について意見が述べられており、代行徴収反対としていた。事前にそれを知った執行部は驚愕し、妥協案でしか今回は乗り切れないと申し入れた。その役目がNに任され、Nが苦渋の思いでその削除を要請した。BACHグループは忍耐力を示しその削除に同意した。その時の彼らの複雑な表情を今でも覚えている。だから、今日残っているその議案書の最後のところは黒塗りになっているのである。この問題は大議論になって結論が出ずにこのような折衷的な議案提出に至った。

 しかしながら確かに言える事は、4月からの新入生の自治会費の代行徴収の要請書を新自治会に言ってきたのは、新自治会を承認する予定であった事を示していることである。学生自治会にとって「承認か自立か」と云う主体性議論はあったとしても大学側は承認なのであり、自治会費代行徴収の許可を新自治会に求めたのは、ほぼ承認する予定であったと言っていい。
 日付なし、2F有志「行動方針修正案」。
 日付なし、一文行動委「対案 80日間ストライキ実現」。 

 日付なし、一文団交実行委員会、二文新入生歓迎委員会結成。

 2.7日、早大政経学部が卒業試験レポートで。
 2.8日、一文、卒業予定者分離試験実施。
 「四年生”卒業予定者”に送るアッピール」。
 川口君虐殺糾弾、早稲田解放をかかげた我々の闘いは、昨年の学生大会で革マル系『執行部』をリコールし、そして我々の新執行部を打ち立てる闘いとして実現してきた。そして、我々は、その過程で、学内管理支配を問題にし手をかける闘いを展開した。卒業予定者諸君が忘れもしないであろうあの69年10月27日告示の撤廃を要求する闘いとして。そして何よりも諸君が、そして我々が、その下で屈辱され、我々に『死せるような生』を強制したあの醜悪な革マルを徹底して糾弾し、早稲田の解放を克ちとる闘いとして。(中略)必ずや革マルの白色テロ政治支配とその制度的保証として具していた当局村井・学内外理事(中略)を徹底的に糾弾し、かつ放逐の闘いを、諸君らの『敗北』のそして僕らの屈辱の大転換としてやりとげるということをはっきりと宣言し、共に全ての学友が、川口君と共に最後まで闘い抜かれんことを訴える。

 日付がないが、2.8日に実施された卒業予定者の期末試験に向けて配布されたと思われる。敗北と屈辱の大転換と、過去のリベンジをここで表明している。同期の卒業予定者への訣別の辞とも読めるこの文章は、臨時執行部書記長だった行動委4年のK氏(故人)によるもの。 彼は第二次早大闘争以来のノンセクトで一文行動委の指導的立場の一人であった。1969年から1973年に至る早大の状況がここに示され、世代のねじれがはっきり読み取れる。この四年K氏、三年U氏が一文臨時執行部9名の中の旧世代で、どちらもクラス活動は持ってないままで執行部に入った。自治会再建運動には関心が元々なかったようで、彼らが中心となって団交実行委員会へと分離していく。

【総長団交要求総決起集会開催。法学部執行部と法学部行動委員会が対立】
 2.8日、10号館で総長団交要求総決起集会。ストに反対する法学部執行部に法学部行動委員会などから反論。

【大学当局が各学部の再建自治会を認めず膠着する】
 革マル派自治会はリコールされたものの、大学当局は再建自治会を認めなかった。予算もつけなかった。再建自治会派と大学当局、革マル派との鬩(せめ)ぎあいが続くことになる。

【一文教授会が「自治会再建についての見解」を発表、郵送】
 2.8日、一文教授会・教員会が、「自治会再建についての見解、自治会承認の条件=四項目」を発表、3年生以下の学生の自宅や下宿先に郵送した。「自治会の民主性を保障する最低限の条件であり、学生諸君も当然とするところであろうと思う」と前置きしたうえで、次の四項目を列記していた。早大1文教授会が初めて公式に表明した、新自治会承認への条件だった。
クラス委員(自治会委員)選出のための公正な選挙管理委員会の設置。
選挙期間・方式等を予め提示した上でのクラス在籍者の過半数の出席を条件とするクラス委員選挙と公開の開票。
クラス委員総会における多数の支持を得た執行部の選出。
その執行部による全自治委員の総意を反映し得るような自治会規約案の提示と、全自治会員の絶対多数による承認。

 読売新聞が、概要「絶対多数による承認という厳しい条件付きであり、新自治会を認めない方針の模様」、「今度の教授会見解は、新自治会を事実上否定して白紙に戻そうというもの」と否定的に報道した。真相は、「再び革マル派が勢力を盛り返してきても、同じ条件を示して公認を拒否する、という先を見通したものだった」とする見方もできるものだった。これに対して、一文教授会・教員会が、それは誤解であり条件さえ整えば承認するつもりであると報道機関に抗議し訂正を申し入れている。「教授会が承認一歩手前であった事がはっきりする」の解説がされている。  
 運動の起きなかった理工学部、革マル派の拠点であった商学部と社会科学部を除くと、他の三学部でも自治会再建運動は、勝利一歩手前であった。一文教授会・教員会の「自治会再建についての見解」に続いて二文教授会・教員会、政経学部教授会、教育学部教授会、社会科学部教授会もほぼ同様の自治会承認条件を提示し、臨時執行部による再建自治会を承認する機運が生まれ始めた。結果的に商学部と社会科学部に革マル派の自治会が残存し、他は自治会そのものが消滅した。法学部は民青系自治会がそのまま生き残り、その後2000年代に入って自ら自治会解散決議を行った。

 2.10日、早稲田大学新聞173号「更に混迷続く学内状況 武装衝突、機動隊常駐さる」。


 2.10日、第二文学部が、現在の臨時執行部を承認する方向へ努力する確認書に署名。3.13日、五原則提示(一文と同じもの)。諸手続きを含めた学生自身による自治会再建が推し進められてゆく事を切に望む。


【行動委と臨執の指揮系統の乱れが顕在化する】
  「一文有志の記録(2月11日)」。
 革マル派と直接的に対決する部分とそうでもない部分との経験が共有されなくなって来た。(中略)行動委と臨執との関係の不明確さが顕在化(指揮系統)」。

【この頃のビラ(日付なし)】
 この頃、以下のビラ(日付なし)が配布されている。
 第一文学部執行委員会新入生歓迎実行委「春越えれば!2.13集会に向けて」。
 一文執行委員会「総括集会に向けて」(*2月中旬の討議資料?)。
 第一文学部自治会執行部「手をねじこね、ゆがんだ笑みを作ったりせんでくれ!」。

【朝日新聞の2.15日記事】
 「朝日新聞の2.15日記事」。
 こうした反革マルの自治会創出運動の中で、最近各学部の『行動委員会』の動きが注目されている。全学部合わせても百数十人のこのグループは、一月八日の反革マル総決起集会に黒ヘルメットをかぶって現れ、他の学生との間に『なぜ必要なのか』、『思想表現の手段だ』など、“メット論争”をまき起こした。(中略)『行動委』は黒ヘルメットに『C連』(サークル連絡会議)『IIJ』(川口君のクラス名)などと書いているが、『全共闘』の文字をペンキで塗りつぶしたものもいて、ノンセクトラジカルの集合体、いわば“ミニ全共闘”と一般には理解されている。(中略)反革マル新執行部のメンバーの主体は一、二年生で、三、四年生の参加はわずかな数に限られている。それらの学生に対して行動委がどう働きかけてゆくのか。反革マル=新自治会創造の運動の中から生まれて来た“最前衛”の思想と行動が、運動の中で浮上する危険を孕んでおり、その行方は今後の早大の運動の一つの重要なカギを握っている。

 2.19日、早大当局が入試前のロックアウトを決定する。


【阿波崎が傷害罪、村上が暴力行為で起訴(保釈)。佐竹は容疑不十分で不起訴】
 2.19日、東京地検が、近藤、武原と同じく阿波崎、村上、佐竹も完全黙秘を続けたが、阿波崎文雄を傷害罪で、村上文男を暴力行為で起訴した(保釈)。佐竹実は「現場には居たが暴行参加を裏付ける証拠が得られなかった」と容疑不十分で不起訴処分。「物証がほとんどなく、級友への暴行容疑による「別件逮捕」も、被疑者たちの完全黙秘により川口大三郎殺害に結び付けることはできなかった」として保釈されている模様である。

【田中敏夫(24)前委員長が収監される】
 2.22日、田中敏夫(24)前委員長が収監される。1971年秋の反帝学評との抗争による凶器準備集合罪で逮捕・起訴され懲役8カ月の判決を受けた後控訴していたが、1973.2.14日、高裁で控訴棄却となったため収監された。田中は川口大三郎殺害には関知していないと言っていたが、警視庁公安部は被疑者の一人とみて、新宿区弁天町の自宅を「被疑者不詳、不法監禁、殺人、死体遺棄」の容疑で家宅捜索した。

【春休暇に入る。入学試験始まる】
 2.23日、ロックアウトの“狭き門”下で早大48年度入学試験始まる(3/2まで)。受験生へのビラ配り、機動隊と衝突。

【この頃のビラ(日付なし)】
 この頃、以下のビラ(日付なし)が配布されている。
 日本史三年有志「一文専攻学生に訴える!たちあがった一、二年生を見殺しにするな!!」。
 一文教養演習正岡ゼミ「涙で訴える!革マルさんの・・・」。
 仏文科のCMNo1
 哲学3年有志より「文学部全学友へのアピール」。
 「まめまき大会」。 
 第一文学部自治会執行委員会「3/8自治会連絡会議(4号館)へ向けて」。
 一文執行委員会「われわれは何をめざすのか」。
 1Tクラス「後方よりの通信」(当時発行されていたクラス誌)

【全学団交実行委員会(準)の「一文自治会執行委員委殿 招請状」】
 3.9日、全学団交実行委員会(準)「一文自治会執行委員委殿 招請状」。

 3.10日、第一文学部学生自治会執行委員会・新入生歓迎実行委員会「君達にとって早稲田とは!」。
【早稲田大学新聞174号が座談会「川口君虐殺問題」掲載】
 3.10日、早稲田大学新聞174号が座談会「川口君虐殺問題 11.8のつきだしたもの <虐殺糾弾>の原点」掲載。参加者は第一文学部自治会&二J行動委員会のN(原文は実名、以下同じ)、第二文学部学生自治会臨時執行部のK、政治経済学部学生自治会執行委のU、全学行動委員会(準)のH、ワセダ統一救対のI。

【全学団交実行委員会が結成される】
 3月半ば、各学部に作られた行動委員会、団交実行委員会を集合する全学団交実行委員会(以下、「団交実行委」と記す)が結成された。「団交実行委」は大学本部などに度々押しかけ、大学職員や教員とま小競り合いを繰り広げた。但し、この頃より、穏健派と急進派の溝が生じだしていた。

 3.13日、第一文学部団交実行委員会「11.8川口君糾弾闘争の更なる質的深化に向けて-団実委への招集にかえて」。
 (I)虐殺糾弾闘争の現在的地平とその問題点
a したがって、我々の闘いは決して自治会再建運動が目的ではなくそれが糾弾闘争の過渡的な一形態であり闘争の一環だったと言うことを確認しなければならない。

 (III)全学総長団交へ向けて
a 早大管理支配体制との根底的な対決の最大の頂点として村井「総長」団交を位置付けよう。団実委はそれへ向けて全力をあげる。
b 4.2全学団交勝利総決起集会を提起する。

 「入学式に総長団交を!ーこのスローガンの下、当日新入生の眼前で早大の管理支配秩序の実態を暴露し、闘いの戦列への参加を訴えていくと共に、最低限責任ある当局者に「団交」を確約させる闘
いを組まねばならない。

(Ⅳ)一文団実委の発展・強化のために
a  団実委を執行部の諮問機関的存在から一文の大衆的行動機関へと発展させよう。
b  4月以降の闘いの最大の軸が「総長」団交にある以上、一文での各クラス行動委、闘争委、執行委員会を併呑するスト団実として広範に再編すべきである。

 これは1973年の春休み中の第一文学部団交実行委員会の会議レジュメで、「自治会再建運動が目的ではなく」、「早大管理支配秩序を徹底的に解体」し、組織的にもクラス討論を基礎とした民主的積み上げではなく、「各クラス行動委、闘争委、執行委員会を併呑する」団交実行委員会に再編し、「団実委を執行部の諮問機関的存在から一文の大衆的行動機関へと発展」させるとある。行動委員会を各学部執行委員会の内部機関・諮問機関と理解する第一文学部自治会執行委員会とは認識が異なる。組織的にも運動的にも団交実行委員会が自治会執行部を乗り越えて前衛化していくという意思がここで確認されている。以後、団交実行委員会は総長団交追求と革マルとの対峙に集中して行く。このグループはこのような組織的クーデターに等しい言説を公言し、二十日後の入学式粉砕など実際にもそのように行動して行った。

【革マル派全学連前委員長/馬場素明が逮捕される】
 3.28日、立川署と警視庁公安部が、前年の11.10日に引責辞任した革マル派全学連前委員長/馬場素明(25)を逮捕した。容疑は、3.25日、自衛隊本隊移駐阻止集会の立川市曙町で起きた反帝学評との抗争事件での凶器準備集合罪と暴力行為の疑い。

【一文自治会再建派の新執行部が自治委員総会を開催し入学式対応を協議】
 3.31日、翌日に入学式を控えたこの日、一文自治会再建派の新執行部が自治委員総会を開催し、入学式対応を協議した。1年生の10クラス、2年生の11クラス、3年生も日本文学、日本史、仏文、文芸、哲学の5専修の自治委員が出席した。執行部は、入学式会場の記念会堂前で集会後、整然と会場に入り、新入生たちに学内自治の現状を説明した後、「総長団交の確約」を取りたいと提案した。これに対し、「一文団交実行委」は、演壇占拠による入学式粉砕、そのまま村井総長団交に持ち込むという強硬策を対案した。激論となり参加者の意見も両極に割れた。
 新入生を迎えた新年度の大きな目標は、所定の手続きで新入生を含めたクラス自治委員を選出し、そこから新執行部を再度選出、それを大学側に認めさせる事が第一の課題となっていた。

【入学式、総長挨拶の最中に黒ヘルが壇上に乱入】
 4.1日、「団交実行委」の強硬方針を採択した「4.2実行委員会」が、新入生連帯と総長糾弾闘争への全学総決起集会を開催した。
 4.2日午前11時、早稲田大学入学式で、総長挨拶の最中、約150名の黒ヘルが壇上に乱入した。会場は騒然となり、村井総長は守られながら非常通路から脱出した。入学式は午前の部の段階で入学式中止となった。この間、革マル派は式場外で集会していた。黒ヘル派が次のように嘯いている。
 入学式を、「正常化策動としての入学式を総長糾弾!新入生連帯集会へ」のスロ-ガンの下、我々は4.2入学式を粉砕した。
 4.3日、学部入学式も延期。夕方まで両派が集会。
 「団交実行委」が、3.30日の合同会議で一文執行部原案通りに平穏なアピールに合意しておきながら、翌日の団交実行委員会の戦術会議でその合意を破棄して入学式粉砕を実行した。自治会再建運動の主体である新自治会を無視した暴走だった。政治経済学部の臨時執行部・団交実行委員会の連名のビラでは、「一般学生」に甘んずる事なく自ら思考し自ら行動しようと呼びかけている。
 全学の学友諸君!! 当局・革マル・マスコミによって『一般学生』と罵られ、それに甘んずることによって自らを免罪する時は過ぎ去った。今こそ自ら思考し自ら行動するという自主的自発的な運動が要求されている」。「我々の闘いは決して自治会再建運動が目的ではなくそれが糾弾闘争の過渡的な一形態であり闘争の一環だった。
(私論.私見) 入学式粉砕闘争疑義考
 入学試験、卒業式、入学式等々の大学行事に対する粉砕闘争に意義があるだろうか。それらは大学当局の権限であり、学生自治会は学生自治会としての権限を認めさせるのと対のものではなかろうか。よって、大学当局の権限粉砕闘争は巡り廻って学生自治会運動の絞殺に帰着する。そういう意味で、弁えのない粉砕闘争として自責せねばならん、こういう運動が下火化を誘うと思う。

【「一文4.2集会」】
 4.2日、「4.2集会」。この集会の内容は不明。関連する次のビラ(日付なし)がある。
 一文自治会執行委員会「第一文学部の全ての学友諸君よ 4.2集会に総結集を」。
 一文執行委員会「4月方針(案)」。
 無署名「4.2集会基調(案)」。

【革マル派と中核派が高田馬場駅周辺で乱闘】
 4.2日、革マル派が、高田馬場駅前に集結した中核派約250名を襲撃し、乱闘で地下鉄が止まる騒動となった。(乱闘の様子は不詳)

【一文教授会が新入生に対して自治会承認のための五原則を提示】
 4.3日、一文教授会が新入生に対して自治会承認のための五原則を提示した。
1 新執行部が、学生大会決定事項につき、学部投票の方法で、学部自治会員過半数の支持を確認すること。
2 クラス委員(自治会委員)選出のための公正な選挙管理委員会の設置。
3 選挙期間・方式等をあらかじめ明示した上での、クラス委員選挙、及び公開の開票。
4 クラス委員総会において多数の支持をえた執行部の選出。
5 執行部による、全自治会員の総意を常時反映しうるような自治会規約案の提示と、その全自治会員による絶対多数による承認。
 (1)の学部投票が前回の四項目より増えている。

 この告示は「新入生諸君へ」となっており、在学生が「暴力排除・学生自治の問題」に積極的に取り組んでいる折から、「新入生諸君の健全な自治会再建への努力を期待してやまない」と結ばれている。
 一方、一文執行部の側でも、一文・二文教授会が提示した下記の学生自治会承認条件である「五原則」に対する反論として、「知性とモラルを尽くして作り上げた」九原則をその根拠とした。次のように解説されている。
 これに対して一文自治会執行委員会(樋田委員長)は『自治会再建『五原則』は誰のためか』と題したビラのなかで、『学生自治の原則は、その構成員である学生自らが、その自主的な自治活動のなかで創り出し確認していくものであって、教授会が学生自治の原則をうんぬんすることをわれわれは断じて許すことができない』と、すでに自治会の原則として知性とモラルを尽くして作り上げた「九原則」を打ち出していると反論した。『われわれの創る自治会は、すべての学生の創意による自治活動を保障し、共同の努力によって新たな価値の創造を図り、学生の利益を守る自治会である』とし『われわれは〈九原則〉のうえにしっかりと立ち、学部当局に対して学生の利益を守るために断固闘うことをすべての自治会員のまえに誓うものである』と宣言した。

【革マル派が「早大行動委」テロを満展開し始める】
 4月から学内外において革マル派からの学生自治会執行部への個別テロが全面的に始まった。
 4.4日、革マル派が鉄パイプで本部16号館乱入、「早大行動委」を襲撃した。一方的な襲撃となり、無防備な「早大行動委」の負傷者30数名(頭蓋骨陥没1名、重傷10名)。以降、「早大行動委」系負傷者続出の狼煙となった。

【革マル派が文学部キャンパスで検問始める】
 この頃より、革マル派が「一文自治会常任委員会」を名乗り、101番教室を仮自治会室として一文キャンパスに常駐し、スロープ付近では毎日、革マル派が検問し始めていた。この情況下で、一文キャンパスには再建自治会と革マル派自治会が「共存」し始め、それぞれがパンフを持って各教室廻りをするようになった。革マル派のパンフは、最後の方で「11.8川口君死亡事件」という表題で、「痛苦に自己批判」したと触れた後、こう続けていた。
 この問題を『暴力支配の結果』として意図的に歪め、常任委員会の追い落としのために政治的に利用し、そのためには自治会規約すらも踏みにじり、『第二自治会』をデッチ上げようとした諸君達の自治会分断策動に対しても断固として対決して来たのである。
 4.5日、本部前で、「4.4革マル鉄パイプ襲撃弾劾集会」。偵察に来た革マル派1名が包囲される。
 4.9日、文学部で、授業初日は討論会。二文で小競り合い。

【一文教授会が『五原則』に則った自治会再建への動きを高く評価】
 4.9日、第一文学部教授会は、革マル派の統一学生大会教室使用を許可せず、逆に新執行部を激励するような、以下の文書を1973・4・9に送付した。
 第一・第二文学部教授会・教員会は、すでにあきらかにしてあるように、全学生過半数の支持、公正な委員選挙、自治会規約の制定などを含むいわゆる『五原則』にのっとった自治会再建への動きを高く評価しており、またこの五原則を無視した自治会再建運動はありえないと考える。
 この時期、大学当局も、自治会承認するかどうかを廻る各学部教授会の真剣な取り組みと調整していた。大学側の全学的資料を詳細に比較検討すると、2月から3月、大学は入試を前にして意思一致し、一斉に各学部の新執行部に歩み寄り、政経学部では五つのハードルのうち四つまで認めさえした。一文は内実のある団交を重ね最後のハードルである新規約もほぼ出来ていた。他学部でもそれぞれ前進し、各学部の自治会承認はその一歩手前まで行っていた。新入生からの自治会費代行徴収の許可まで新自治会に求めていた。樋田氏の本は「全学的に承認への追い風が吹き始めていた」(p123)と記している。

【革マル派が攻撃の矛先を第一文学部教授会に向ける】
 新入生歓迎運動後の頃、革マル派は、攻撃の矛先を第一文学部教授会に向け、次のようなビラを大量に捲いた。
 一文当局は、かの虐殺者=日共・民青、中核派、社青同解放派学生と背後で結託した、デツチ上げ『新執』を尻押し、その『自治会再建運動なるものに協力せんとしている。何一つ闘争課題を掲げず、ただただ『反革マル派』のためにのみ狂奔し、当局の『五原則』に屈服して『自治会承認』要求運動にうつつを抜かす『新執』僭称派を積極的に利用しながら、一文自治会を『当局の意のままに動く』自治会=御用自治会化することを狙っているからに他ならない。

 この頃より、革マル派が、クラス集会への襲撃や個人テロを頻発させるようになった。これに恐怖を感じる者が運動から遠ざかり始めた。その一方で、革マル派と敵対するセクトと共同しての対抗暴力論を主張する声も出始めた。

【革マル派が再建自治会派の集会、学生大会潰しを策動する】
 4.10日、革マル派が、代々木駅で集団登校中の「早大行動委」に鉄パイプ攻撃。負傷10数名、重傷3名。頭を割られ、手足を折られる惨状となった。革マル派の個別的テロが一文執行部を標的に始まった。
 4.11日、革マル派が「統一行動」集会開催(約100名)、続いて一文で「4.9告示」糾弾集会。
 4.13日、教育学部学生大会、革マルの妨害で成立せず。
 4.14日、新入生連帯討論集会、革マルの妨害で出来ず。
 4.17日、一文・二文学生大会成立。総長団交要求を決議。その後、大学当局に再団交を確約させる。全理事、学部長の出席を要請する。

【一文学生大会成功】
 4.21日、再建自治会派が、新学期最初の一文学生大会を文学部で一番大きな181番教室で開催した。革マル派が押しかけ、ハンドマイクを奪い、コードを引きちぎるなどの妨害行動に出た。再建自治会派は、会場を本部キャンパスの15号館に移し再開させた。定足数の900名を確保し学生大会を成立させ、新執行部確立の自治委員選挙実施等の方針を決議し成功裡に勝ち取られた。一文学生大会の「議案書レジュメ」においても第10項目メの最後に「九原則堅持」とある。
 こうしてこの九原則は行動委員会系の旧世代からも広い視野において評価され、新しい世代中心のクラス活動家や執行委員にも自治会再建のよりどころとして深く根付いていた。一文行動委員会は「規約レベルー当局との”交渉”レベルの『正式』な自治会など我々の運動とは無縁だ」とビラで断言しているが、その日付はこの九原則が一文クラス討論連絡協議会で決議された同じ1972年12.12日である。革マル派自治会をリコールした最初の学生大会のわずか二週間後に、既に一文行動委員会は自治会再建運動にとって分裂含みを露呈させていた。

【社青同解放派約200名が本部キャンパスに登場】
 4.21日、社青同解放派約200名が本部キャンパスに登場し、「我々は文学部の学生大会を側面支援する為にやって来た」とアジ演説し始めた。革マル派は、「社青同解放派のテロ部隊を呼び込んで文学部学生大会を強行開催している」と激しく非難した。一文再建自治会派は、執行委員会の名前で、「我々は社青同解放派とは無縁である。本部キャンパスに乱入し、一文自治会の学生大会支援を勝手に標榜したことを強く批判する」と声明した。この学生大会を機に、革マル派の暴力が一気にエスカレートした。樋田委員長の旧友の自治委員/林茂夫も登校できなくされた。こういう「登校不能者」が各クラスで急増した。
 4.22日、両派による投石や放水騒ぎ。
 4.23日、二文学生大会。その後、早稲田通りを高田馬場まで500名で前代未聞の無届け「フランス・デモ(両手を広げて手をつなぎ道路を埋め尽くす)」を成功させた。
 4.23日、教育学生大会、革マルの妨害で流会。
 4.24日、一文自治委員協議会。

【政経学部教授会の告示】
 4.24日、4.21日の一文学生大会の日に革マル派が学生大会会場を襲撃し攻防戦になった事、また社青同解放派・反帝学評の200人の部隊が本部キャンパスに登場した事をもって、政経学部教授会の告示「騒乱と暴力行為について」が発出された。「開き直り」告示と云われる。「川口君大三郎の死と早稲田大学(以下、「川口君の死と早稲田」と記す)1973年4月24日」は次の通り。
 まず、暴力追放運動のことである。事件の責任を自認した革マル派が、相かわらずゲバ棒を振う集団行動を続けたことは言うまでもなく悪い。けれども、暴力に報いるに暴力をもってするのは、自家撞着であろう。だから、これに対抗して立上った学生諸君のなかに、自分たちのほうから暴力をしかける武装集団が生まれたのも、遺憾至極であった。どんなに正当な理由があるにしても、静穏であるべき学内に暴力をもちこむことは、主張がどうあろうと絶対に許されるべきことではない。(中略)それなら大学は、この状態をなくすためになにをしたか、そのつど告示を出して、集団の暴力行為を非難するだけだったではないか、と問う者がいる。だが大学に、これ以上のなにができたであろうか。大学は暴力に対して無力であり、無力であることに誇りを感じている。
 「川口君の死と早稲田大学、1973年4月24日」が次のように記している。
 まず、暴力追放運動のことである。事件の責任を自認した革マル派が、相かわらずゲバ棒を振う集団行動を続けたことは言うまでもなく悪い。けれども、暴力に報いるに暴力をもってするのは、自家撞着であろう。だから、これに対抗して立上った学生諸君のなかに、自分たちのほうから暴力をしかける武装集団が生まれたのも、遺憾至極であった。どんなに正当な理由があるにしても、静穏であるべき学内に暴力をもちこむことは、主張がどうあろうと絶対に許されるべきことではない。(中略)それなら大学は、この状態をなくすためになにをしたか、そのつど告示を出して、集団の暴力行為を非難するだけだったではないか、と問う者がいる。だが大学に、これ以上のなにができたであろうか。大学は暴力に対して無力であり、無力であることに誇りを感じている。
 私が早稲田で考え続けてきたのは、暴力に対して暴力で対抗するのではなく、非暴力で立ち向かうことでした。非暴力の抵抗運動で、インドのガンディーが独立を勝ち取り、アメリカのキング牧師が人種差別と闘い、公民権法を成立させたように。(文庫本のためのあとがき、p312)。
 樋田氏の「暴力反対」論は政治的弾圧場面における暴力への認識が甘い。樋田氏は革マル派や権力側の弾圧的暴力と人権として正当な抵抗権としての自衛行為の区別ができず、正当防衛権の存在そのものを覆い隠している。権力側から歴史上繰り返し押し付けられて来た抑圧的イデオロギーである。もしそれを主張したいならば、それで運動が勝利した暁に言うべきである。結局、理不尽な革マル派の暴力に何もせず、多くの学生達の身体的負傷や心の傷を無駄にした。
 後日の出版記念会の席上で、「あなたが武装に反対したから、早大闘争は敗北した。今からでも遅くないから謝ってくれ」と学友の一人から詰め寄られた(映画プレスリリース・パンフ、p17)。そう言った学友はX団の組織化を始めたもう一人のM氏だと思われる。「武闘派のまま生きた者」というラベルを貼っているが、そう云うラベル貼り自体が権力側の論理だと気がつくべきである。当時、カクマルの武装に対峙する武装が必要にされつつあった。一文学生自治会憲章「九原則」は、敢えて自律しか書いてない。非暴力とは書いてない。自律が侵されそうな局面で自衛的武装実力行使をに及ぶのは当然であろう。一文日本史3年行動委員会準備会の最初のビラにはこうあった。
 革マルの組織をあげた反撃・学校当局との闘いをも組織しての自治会再建への闘いの中で、新自治会の防衛を全学友のクラスの団結中に一般化してしまうことは、闘いの困難さと緊急さに対して余りにも無知であり、無責任であり、無力であると云わねばならない。

 結局この予言は当たっていた。新自治会の防衛を非暴力主義で「クラスの団結中に一般化」しようとしたのは、無知で無責任で無力であった。しかし、新自治会の防衛を自衛武装で試みたX団と二連協の”ICHIBUN 80”も確かに無知で無力であったが、確かな敗北の痛みだけは手元に残った。

【革マル派が4.28全国集会。以降、革マル派が再び支配権を確立し始める】
 4.28日、革マル派220名が「4.28全国集会」の前集会開催。

【第一文学部学部長が次々と交代する】
 5月、前年12月の第一文学部の団交後、浅井学部長が辞任し本明学部長が翌年3月末まで、その後を印南学部長が引き受けていたが突如辞任し、辻村敏樹学部長が就任した。教務担当主任に岩波哲男、志波一富が就き安定した。この頃には革マル派による文学部キャンパスの暴力支配が復活し、学部投票の実施が困難になっていた。

【「一文自治会執行委員会声明」で、反帝学評登場批判】
 5.1日、「一文自治会執行委員会声明」で、4.21日の一文学生大会の日に反帝学評200名の武装部隊を本部キャンパスに登場させ混乱が生じた事に対して、「ここに我々の運動の原則を確認したい。それは『九原則』における『セクトの引き回しは一切許さない』というものである」とある。
(私論.私見) 一文自治会執行委声明の反帝学評登場批判考
 「一文自治会執行委声明の反帝学評登場批判」は如何なものだろうか。ここに「早大行動委」の滅びの予兆を観る。早大キャンパスの自由、自律、自主が目標であり、反帝学評の支援がこれに添うものであれば批判するには及ばない。党派運動を党派運動である故に令視するようでは運動が活性化しない。「早大行動委」の非党派を良しとするキレイ潔癖見識が狭過ぎる、これでは革マル派の暴力主義に勝てないと観る。

【早大行動委が文学部団交開催するも革マル派乱入で団交中止】
 革マル派は、大学当局と警察に陰に陽に庇護され続け、再び武力制圧を成功させる。これにより早稲田解放闘争は暗雲に陥った。
 5.2日、一文で、再建自治会派が文学部181番教室で文学部団交を開催した。500名の数の力による非武装自衛で革マル派20名を突破し成功した。革マル10数名が「統一団交」を叫びながら壇上に乱入し乱暴狼藉を働いた。これにより学部側が団交継続を拒否し団交中止を余儀なくされた。その後も集会を開くたびに似たような事態が繰り返された。

【革マル派の暴力的敵対で文学部団交が流産させられる】
 5.4日、一文再建自治会側が自治委員協議会を開催し5.2団交を総括した。
 5.7日、反革マルの一文自治会臨時執行部の80名が学部との団交へ向かっていたところ、全都的動員をかけていた革マル派30名が角材や鉄パイプで武装して襲撃し、殴りあいとなった(文学部で衝突、2名負傷)。この日、スロープ下で一文執行部・一文行動委も角材で応戦すると云う武器を持った100人規模の集団戦に初めて突入、そこへ革マル派の増援鉄パイプ部隊が襲撃して来てバラバラにされた。大学はロックアウトを宣言し予定されていた団交が流れた。革マル派は何としても新執行部の承認はさせない方針だった。 

【大学当局の一文学生自治会承認如何見解】
 5.7日の一文学部団交をめぐる角材と鉄パイプによる集団乱闘についての記者会見で、押村襄学生担当理事は、一文の新執行部を唯一の交渉団体として認めていた。次の通り。
 旧自治会執行部をリコールした執行部は規約もなく、自治委員の選挙もしていないので新執行部とは認めていない。しかし一文の執行部は現在ある交渉団体としては唯一のものなので、新執行部と呼びたい。

 一文教授会・大学側の承認条件と意欲を見る限り、一文学生自治会の意思と力量が評価され、第一文学部自治会はほぼ承認の段階に達していた。最後の関門の自治会規約は既に4月上旬に完成しており、新入生を含む自治委員選挙を行った上で、新年度新執行部を選出すれば教授会の言う「五原則」をクリアできるのが確実で、それを待って大学側は承認する予定であった。


 最後の関門の自治会規約は既に4月上旬には完成しており、新入生を含む自治委員選挙を行った上で、新年度新執行部を選出すれば教授会の言う「五原則」はクリアできるのは確実で、それを待って大学側は承認する予定であった。 
 第一文学部の自治会再建運動は、学生自治会自身の再建手続きはほぼ最終段階に至っていた。教授会・教員会及び理事会のそれへの期待と評価が煮詰まっていた。一文教授会は「新入生諸君の健全な自治会再建への努力を期待してやまない」、「自治会再建への動きを高く評価」とし、押村学生担当理事は「一文の執行部は現在ある交渉団体としては唯一のものなので、新執行部と呼びたい」とまで発言している。順調にいけば、全学の中で最も早く学生自治会承認が成され得たのは第一文学部であったのは間違いない。次のように回顧されている。
 教授会・教員会と学生自治会の「一文コミュニティ」が、学部生を一人失った衝撃から立ち直り相互の努力によってここに至っていた事は、半世紀後の今、特筆するに値する。とりわけ、多くは鬼籍に入られたであろうが、文学部教授会・教員会の先生方の忍耐強いご理解とご尽力に対して、学生自治会の執行委員だった一人としてここに深甚なる感謝を表明しておきたい。

【「早大行動委」が非常手段で総長を拉致し団交に及ぶ】
 5.8日、革マル派が文学部キャンパスに部隊を常駐させていた。そこへ晴天の霹靂のように起きたのが、全学行動委員会(WAC)・全学団交実行委員会(準)による総長拉致団交であった。
 5.8日午前11時過ぎ、川口君虐殺半周忌のこの日、「5.8総長拉致団交」を演出した。「早大行動委」30名が、任意団体の全学団交実行委員会の名で、新宿区西大久保の理工学部54号館404号教室で化学工業論の講義を行っていた村井総長を捕捉し、白覆面の10人が村井総長を連れ出し、黒い布をかぶせて車に乗せ、本部キャン法学部の8号館前入口に座らせ“誠意ない”と吊るし上げした。その後、法学部8号館301教室に拉致した。

 午後2時過ぎ、約2000名の学生が集まる。行動委は、リンチ殺人の後に村井総長が学生と話し合う姿勢のない事を非難、再度の吊るし上げとなった。学生らは、11.17告示に表象される川口君虐殺事件以来の学生弾圧、革マル派追放、各学部の新執行部の即時承認、学館管理運営権奪還等々を要求したが、村井総長はのらりくらりとかわし続けた。この間、革マル派200名が村井総長救援に押しかけたが「早大行動委」が撃退した。
 同午後6時前、村井総長が『5.17日に全学再団交を開く』と文書で確約したため、約6時間で総長を“釈放”した。しかし、革マル派との衝突が予想される事態となった。再建自治会派内に穏健派と急進派の亀裂が深まり、行動委、団交実行委は武闘路線に向かい始めた。
 総長拉致を実行した者が後に語っている。(「川口君の死と早稲田1973年11月19日」)
 はじめは理工にルートがあるから『やりましょうか』、『いいね』みたいな話から始まった。(中略)総長を8号館に連れていって座らせ、僕がアジった。実際の団交の司会進行は、団交実行委員会にやってもらった。始まったら学生が集まってきた(編注:新聞では3000人位とある)。あの時、革マルは文学部に部隊をかき集めていた。こちらは学生がいっぱい来ているから襲われる心配はなかったけれど、とりあえず革マルは部隊を文学部に溜めていた。革マルもどうしたらいいかわからなかったと思う。団交の中身については、極端に言うと『やりましょうか』と言って『いいですよ』みたいな軽いノリで、あまり深く考えていなかった。団交実行委員会の方で考えていたのかどうか。総長を引っ張り出して、大衆の前でいろいろ疑問を解消して、最低でも謝ってもらいたいなというふうには思っていましたけれど。(編注:5.17団交の確約を反故にされたことを受けて)あの状態でそのまま続けた方が良かったという意見もある。だけど、まぁ、しょうがないな~という感じもある。やっぱり大学当局を信じすぎたところがあるのかな。
 最も正確にこの論争を書き残したクラスビラが残っている。 1文哲学4年、クラ討報告「川口君の死と早稲田1973年5月8日」 。
 「5.8団交に関して。

 一致点:執行部の下に位置付けられている特別委員会である一文団実委が自治会執行部の確認なしに勝手な行動をした事は、当然批判されなければならない。この一致点は一文団実委が行動原則を逸脱した事に対する批判であるが、その結果ーつまり村井が確約したことーに対する評価は別れてくる。『各学部執行部は一貫して総長団交を要求したのにそれには何ら答えることなく、全学団実委なる実体のない私的機関に確約するとは、明らかに自治会無視、学生団結に対する分断策動である』、『確かに当局にそういう狙いがあったかもしれない。しかし、実際、総長が出てくることを約束させたことは成果である。それも積極的に利用すべきである。この機会をとりにがすと次にそういう機会を望むことはむずかしい』、『近視眼的に見れば、それも云えるが、自治会再建、存立を展望すれば、そして東大闘争の教訓、つまり何ら学生の意志を反映していない全共闘の”団交"に応じようとした加藤総長代行は最終的に代議員選出による正式団交代表団に応じざるを得なかったことを見るならば、全学の自治会が一致して議長団を追求すべきだ。

 5.17団交について意見は三つに別れたと、以下のように明晰に判断している。1 総長が確約した相手は全学団実委(準)という実体のないものである以上、自治会が無条件で参加することは無原則的である。独自に全学と協議して団交を追求すべきだ。自分も5・17に参加しない。:5人。2 それでも行動委に主導権をとられないために参加すべきだ。:3人。3 条件は彼らが執行部を認めている以上、拒否することはあり得ない。:1人」。  

 総長拉致が次のように厳しく批判されている。
1 話の中身に自治会再建運動との関連は何も語られていない。
団交の中身について「軽いノリで、あまり深く考えていなかった。
団交確約の反故について「大学当局を信じすぎた」。
団交実行委が全学を代表していないと言われた理由への反省の弁がない。
全学行動委・全学団交実行委(準)は、自治会建設運動やそれを認めようと努力しつつあった大学側の意欲をよそに、突然、総長を拉致し強引に団交を行った。そしてそれに失敗し、全学の自治会再建運動を破局的な状況におとしいれた。
文学部では前日に予定された一文団交を革マル派が角材や鉄パイプを持参して介入し、初めての双方で100人規模の乱闘があった。それ故に5.8日も革マル派は部隊をそこへ常駐させていた。一文の新自治会活動潰しを横目に総長拉致は行われたと言えよう。自治会再建のあの重大な局面で、それとは無縁にこの程度の動機で総長を拉致し、全学的論争を惹起し、挙句は団交確約を破棄され全学の運動をアパシーに投げ込み、そこを革マル派が総攻撃で突き、全てが武力制圧の段階に一気に入った。学生大衆を集める自己陶酔的な劇場的行動にしか関心はなく、それが現実に5.17日に襲撃されて多数の負傷者を出した事への謝罪の言葉一つすらない。
 これに対して、「一文執行委員会(有志)と一文団交実行委員会」名義のビラは以下のようにあった。
 「5.17総長団交こそは、我々の闘いに決定的な飛躍をもたらすであろう」として、一文での態勢固めのためを目的として実行委員会を結成するとしている。それはまた「停滞を打破し一層の大衆化への契機となる」ことであり「闘いを閉鎖化する傾向=闘いの代行化を取り除く」ことであるとしている。実行委員会の実効性については、自治会執行委員会とクラスから選出された自治委員会による組織は代行化の弊害を生むことから、「最大限広汎な学友によって担われる実行委という大衆的共闘機関の創出こそが最も強力」だとしている。さらにこうした大衆機関は、困難な状況下にある文学部においてとりわけ必要であるとし、「革マルの暴力的抑制下にあって、クラス活動はもとよりキャンパスに入ることもおぼつかないという文学部で、クラス・個人に分断されんとしている闘いを結合し発展させていくためには、もはや形式的な団結の象徴である執行委員会だけでは決定的に不充分である。
 上記の哲学4年のクラス討論での「団実委は実体のない私的機関」と、団実委の「形式的な団結の象徴である執行委」とは相互に否認して真っ向から対立している。ここに自治会再建を願った多くの学生と全共闘生き残り世代との間の亀裂と衝突が記録されている。

(私論.私見) 早大行動委の総長拉致批判考
 総長拉致批判の観点は如何なものであろうか。総長拉致は悪乗りかもしれない。しかし、この種の運動はこういう悪乗りをも包摂しながら次の高みに向かうべきものではなかろうか。例えば、運動の成果物である目前の「5.17日総長再団交」の防衛隊結成に精力的に向かい、学内を「5.17日総長再団交」ム-ド盛り上げへ指導するのが上策だったのではなかろうか。

 これを実践した経緯があった上で、「自治会再建のあの重大な局面で、それとは無縁にこの程度の動機で総長を拉致し、全学的論争を惹起し、挙句は団交確約を破棄され全学の運動をアパシーに投げ込み」と批判するのなら分かる。肝心なこの時に傍観者的な評論批判は運動的に害にはなっても実にはなるまい。私はそう思う。

【5.17日全学総長団交是非の全学的な論争起る】
 総長が文書で確約した5.17日の全学総長団交を是とするか非とするかの全学的な大論争が巻き起こった。こうした拉致と言う違法的手法を是認するかどうか、実際問題として17日の再団交に参加するかどうかが焦点だった。一文執行委員会でも行動委系の委員とその他の委員の間で激論になった。各クラス討論でも種々の意見が出され紛糾した。その中で、最も正確にこの論争を書き残した1文哲学4年クラスの討論ビラが残っている。(「川口君の死と早稲田1973年5月8日」 )
 5.8団交に関して

 一致点:執行部の下に位置付けられている特別委員会である一文団実委が自治会執行部の確認なしに勝手な行動をした事は、当然批判されなければならない。この一致点は一文団実委が行動原則を逸脱した事に対する批判であるが、その結果ーつまり村井が確約したことーに対する評価は別れてくる。
『各学部執行部は一貫して総長団交を要求したのにそれには何ら答えることなく、全学団実委なる実体のない私的機関に確約するとは、明らかに自治会無視、学生団結に対する分断策動である』
『確かに当局にそういう狙いがあったかもしれない。しかし、実際、総長が出てくることを約束させたことは成果である。それも積極的に利用すべきである。この機会をとりにがすと次にそういう機会を望むことはむずかしい』
『近視眼的に見れば、それも云えるが、自治会再建、存立を展望すれば、そして東大闘争の教訓、つまり何ら学生の意志を反映していない全共闘の”団交"に応じようとした加藤総長代行は最終的に代議員選出による正式団交代表団に応じざるを得なかったことを見るならば、全学の自治会が一致して議長団を追求すべきだ』
 5.17団交については意見は三つに別れた。
1 総長が確約した相手は全学団実委(準)という実体のないものである以上、自治会が無条件で参加することは無原則的である。独自に全学と協議して団交を追求すべきだ。自分も5・17に参加しない。 5人
2 それでも行動委に主導権をとられないために参加すべきだ。 3人
条件は彼らが執行部を認めている以上、拒否することはあり得ない。 1人
 概要/5.17総長団交こそは、我々の闘いに決定的な飛躍をもたらすであろう。一文での態勢固めを目的として実行委員会を結成しよう。それは停滞を打破し一層の大衆化への契機となるのであり、闘いを閉鎖化する傾向=闘いの代行化を取り除くことでもある。実行委員会の実効性については、自治会執行委員会とクラスから選出された自治委員会による組織は代行化の弊害を生むことから、最大限広汎な学友によって担われる実行委という大衆的共闘機関の創出こそが最も強力である。こうした大衆機関は、困難な状況下にある文学部においてとりわけ必要である。革マルの暴力的抑制下にあって、クラス活動はもとよりキャンパスに入ることもおぼつかないという文学部で、クラス・個人に分断されんとしている闘いを結合し発展させていくためには、もはや形式的な団結の象徴である執行委員会だけでは決定的に不充分である。
 この観点は、運動を前衛化させることにより、これまでの自治会再建運動を乗り越える意思を脈づかせている。哲学4年のクラス討論での「団実委は実体のない私的機関」論と団実委の「形式的な団結の象徴である執行委」論が真っ向から対立している。ここに自治会再建を願った多くの学生と全共闘生き残り世代との間の亀裂と衝突が記録されている。これ以降、雪崩をうって崩壊していくことになる早稲田解放闘争の分水嶺をはっきりと見て取れる。
 「早大行動委」の総長拉致事件につき、岸沼秀樹「左翼名鑑」(「彼方」5号所収)が次のように記している。
 一九七三年五月七・八日WAC(注・早大行動委。早大生の反革マル大衆組織で黒ヘルメットを着用。ノンセクトが主体であったが、解放派や中核派などセクトも加わっていた)を中心とした反革マル系部隊は、革マル派を打ち破り、村井早大総長を引き出して大衆団交し、五月十七日の再団交を確約させ、一時、反革マル系が勝利するかと思われた。だが、十七日当日、総長は団交の約束を破棄し、集まっていた反革マル系学生は導入された機動隊によって多数の負傷者を出して追い散らされた。この日をもって早大での革マル派の勝利は確定した。

【一文自治委員協議会が概ね団交参加の結論を出す】
 5.10日、一文自治委員協議会が開催され、以下のように概ね団交参加の結論を出す。この段階でも一文の新自治会組織はこれだけの団結と機能を示していたことになる。(「川口君の死と早稲田1973年5月10日」)
 5.17団交に向け、一文では各クラスの意見を集約するための自治委員協議会が開かれた。『一文有志の記録』によれば、参加したのは1年生13クラス、2年生12クラス、3年専修5(編註:いずれも旧学年)であった。ここでも5.8『総長』団交を実施した「全学団交実行委員会」の実体、存立基盤が問題となった。協議会では、5つの原則を確認した上で団交に参加する趣旨の決定がされた。
1 学大等による大衆的な団実委の結成。
2 各クラスから1名の団交実行委員を選出。
3 各執行部、団実委で話し合い、全学団交実現に関する要求項目、運営方法について協議し、意志一致をする(5・17にはこだわらない)。
4 以上の点を守ることにより、各学部自治会の闘いを踏まえ、全ての自治会の確認の元に行う。
5 5・8団交の主催が全学団交実行委という実体のない名称を使用し、準備について大衆的な確認をとらなかったことを自己批判すること。

 以降、革マル―大学当局―機動隊連合で「早大行動委」潰される

【早慶連帯化が企図されるが機動隊-革マル派連合によって阻まれる】
 5.12日、早慶交流集会。慶應義塾で、学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生と連帯、第三次早大闘争を全国的に闘うことを決議。早朝、革マル派は慶応大学スト団交実行委に無差別鉄パイプテロ(5名負傷)。早慶学生300名が早稲田に向かったが、機動隊に阻まれ東大で集会。夜、革マル派30名が8号館を鉄パイプで襲撃、4名負傷。

【革マル派の武装襲撃頻出する】
 5.14日、革マル派が、4、8、16、22号館などに7度の襲撃。この日、法学部学生大会がはじめて開かれたが、民青執行部リコールが可決されるや、10名の定員不足を理由に流会とされる。
 5.14日、この混乱の時期、翌月に武装を決意する「一文二年生連絡協議会」が初会合を行う。
 夕方、一文再建自治会委員長/樋田が22号館(8号館?)前で革マル派に鉄パイプで襲撃され、重傷を負う。

【革マル派が総長団交粉砕を企図して全国動員】
 5.15日、革マル派全国動員(500名)で本部集会。
 5.16日、5.17総長団交粉砕を叫ぶ革マル派の集会。村井総長が5.17日総長団交を撤回した。

【大学が5.17日総長団交中止を通告】
 5.16日夕刻、明日の総長団交へ向けて全学で意見の集約と組織化が進んでいたが、押村襄常任理事が記者会見を行い団交中止を通告してきた。その理由として、「行動委学生との話し合いにおいて議題や団交の方法について意見が一致しなかった」、「15日に開かれた革マル派の全国集会には900名が参加。この人数で団交が実力粉砕されれば大混乱となる」、「行動委系の全学団交実行委は、全学生を代表しているとはいえない」との3点を挙げた。
 この時点で、行動委系が武装慎重派と、ノンセクトラジカルとしての武装派と、諸党派を含む全共闘的武装派の三派がきしみ出し、これを束ねる指導者が居なかった。諸党派を含む全共闘敵武装派が全学行動委WACの武闘方針を仕切り闘争を本格化させるが、6月末までに数回の革マル派との部隊衝突を繰り返した後、次第に劣勢となり、やがて元の木阿弥キャンパスに戻っていくことになる。

【革マル派が早稲田一帯を制圧、総長団交流産する】
 5.17日、総長団交予定日、革マル派がキャンパスは無論、早稲田一帯を制圧した。「早大行動委」など500名が夕方正門前で集会。大隈銅像脇で、革マル派鉄パイプ部隊に襲われ負傷者多数。1000名に膨れた学生は再度構内突入を図ろうとしたが機動隊に規制され、500名が外堀公園に連行された。かくて、「5.17日総長再団交」ならず。
 5.17総長団交予定日、非武装の一文デモ隊約300名が、大隈銅像脇で、後ろから革マル派の鉄パイプ部隊に襲われ、多数の負傷者を出した。「川口大三郎の死と早稲田大学、1973年5月17日、革マル派に襲われ、機動隊に阻まれ、団実委は身動きとれず」が次のように記している。
 5月のこの大混乱が自治会再建運動の全てのスケジュールに影響し、また革マル派もこれに乗じて武装制圧を本格化して来た。翌日の総長団交予定日、5月17日の大隈銅像前での、一文大衆デモ隊への鉄パイプ襲撃はその開始のゴングでもあった。私は樋田氏が襲われて療養中だったのでその約300人の文学部デモ隊を指揮していた。当時でもこれだけの大部隊は一文だけである。守るべき男女の仲間がそこに居た。賛否大論争のうちに結集を決めたあれだけのクラス活動の学生大衆が、革マル派の鉄パイプの大部隊の前に晒されたのである。立て看板に飛び降りてその五寸釘で足の裏から甲まで撃ち抜かれた女子学生など多数の負傷者を出しながら、それでも再結集し学内デモを再開した。しかしデモ隊は遥か遠くの四谷駅側の外堀公園まで一時間以上かけて機動隊によって規制されて運ばれた。沿道の市民が拍手して応援してくれた。今日では信じられない事だが、早稲田解放闘争は新聞・テレビの全国版で連日報道されていた。渋谷駅などで臨時執行部がカンパ要請活動を行うと1日で数万円が集まった。私達は公園に着くまで「早稲田解放、革マル粉砕」を声を限りに叫んだ。私達は四谷の公園から再び電車に乗って本部前に引き返して結集し、デモを再開し再び四谷まで連行された。二度やって、公園で声も枯れ疲れ果てた、半分は女子学生の文学部の仲間達が私の顔を一斉に見た。私は「もう一度行くぞ」と言った。だから、三度連行されたと記録にある。

【一文学生の奮戦考】
 一文学生の意思は強固なものがあった。これを確認しておく。
1972 11.28 全学に先駆けた第一回学生大会で臨時執行部を樹立
12.5 第一回学部団交
1973 1.23 第二回学生大会で新執行部を樹立し一週間のスト決議
1.27 第二回学部団交
1.30 第三回学生大会で第二次一週間ストライキ決議
2.5 第三回学部団交
4.10 新年度に入っても、学生大会予定(代々木駅頭で革マル派に襲撃されて中止)
4.21 第四回学生大会成立
5.2 文学部181大教室に500人が集まって第四回学部団交
5.7 予定された学部団交は革マル派の武力介入で角材と鉄パイプ(革マル)で乱闘になり中止、ロックアウト。
5.10 総長拉致団交後、旧1年生13クラス、旧2年生12クラス、旧3年専修5クラスが集まって自治委員協議会を開催し、紛糾の末だが条件付きで5・17総長団交に参加することを決議。
5.17 約300名の長蛇のデモ隊列を成し、三度まで四谷駅まで機動隊に連行された。

 この短期間に、ここまで団結して学生大会と学部団交をこれだけやった学部は他にはない。

【社青同解放派、ブント連合がキャンパスに登場し革マル派を粉砕する】
 神奈川大学を拠点としていた社青同解放派は、川口大三郎事件の革マル派の責任を追及する姿勢に出て、共産主義者同盟(ブント)と共に早大行動委員会(WAC)に助太刀した。  

 5―6月、 社青同解放派、ブント連合が早稲田大学キャンパスに登場し、革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕する。革マル派は社青同解放派の拠点神奈川大学襲撃を計画する。 

 5.18日、総長団交中止の翌日、反帝学評約200名が文学部中庭・学生会館・3号館前のキャンパス内数カ所で革マル派を襲撃。以降、6月末まで全学行動委WAC、戦旗派、叛旗派と連合して、本部キャンパスを舞台として革マル派部隊と連続的にゲバルトを演じた。この日、東京駅で学生ゲバ。早大乱闘の帰り襲う。乗客巻き添え。

 5.19日、革マル派に阻止されて文学部キャンパスに自治会執行部は入れず、早大乱闘で10人ケガ、重体。
【法学部自治会執行部が改選され、再び民青系が選出された】
 この頃、法学部自治会執行部が改選され、再び民青系が選出された。

【「負けるな早稲田」集会開かれる】
 この頃、「負けるな早稲田」集会開かれる。豊島公会堂に650名参加。自衛武装問題で路線分岐鮮明に。

 教育学部の選管委結成される。
【早慶戦の神宮外苑で27日にビラまき】
 5.24日、高田馬場駅周辺で情宣中の一文自治会メンバーが革マル派に襲われる。やむなく早慶戦の神宮外苑で27日にビラまきとなった。その時に出された一文自治会執行委員会と一文団交実行委員会連名のビラでは暴力について正面から論じている。4.18日の革マルと反帝学評との衝突について次のような〈追記〉がされている。
 5月18日の事態について
 まず基本的に我々とは関係のないこと、そして我々の運動の原則とは逸脱していることを確認しよう。勿論我々は革マルに対して一文のキャンパスを暴力的に制圧されているという現状を踏まえるならば、自らの運動は自らで守り抜く、一人に対するテロは全員に対するテロと見なすという立場から、最低限自らの命を守るため、革マルの情宣集会を一切許さないという立場から、大衆的な暴力的な反撃を展開する必要があることは言うまでもない。僕たちは一般的に暴力を否定しない。軽々しく暴力追放などという遠ぼえなど言わない。今、暴力は復権されなければならない。強いられた存在の一つの行動様式として、暴力=肉体性の発現はあるのだから、そういう行為は、共同性の一形態であるだろう。

 この意味するところは、執行部主体の活動における暴力(編註:武装による自衛、あるいは革マルに対する反撃)は、運動を推進するためには必要であるとする意志の表明であった。
 これが自衛武装と云う概念が一文執行部から出てくる最初の日、1973年5月27日である。このビラの上記二重カッコの文言は、ビラの残った余白に私が「追記」として書いた。「自衛暴力は共同性の一形態、肉体性の発現」と一歩踏み込んでいる。吉本隆明を好んで読んでいたその頃の私の文体である。後述のように、この三週間後に私ははっきりと、一文大衆部隊として鉄パイプで武装決意する文章を会議で配布した。この神宮外苑ビラまき以降、このビラを書いたM氏と私は意思一致して手分けして一文武装要員のリクルートに入った。これが事実上のX団の萌芽であり、6月17日の初会合はそれによって成立した。

 5月下旬、11.8当日リンチ殺害に関与したと推定される田中公郎、若林民生、後藤隆洋、水津則子ら革マル派メンバーの文学部構内への復帰が目撃されている。
【一文執行部から自衛武装論が出てくる】
 5.27日、早慶戦の神宮外苑で、一文自治会執行委員会と一文団交実行委員会連名のビラがまかれた。「18日の革マルと反帝学評との衝突について」〈追記〉で暴力について次のように正面から論じている。これが自衛武装と云う概念が一文執行部から出てくる最初の日となった。「川口君の死と早稲田1973年5月19日」が次のように記している。
 5月18日の事態について。まず基本的に我々とは関係のないこと、そして我々の運動の原則とは逸脱していることを確認しよう。勿論我々は革マルに対して一文のキャンパスを暴力的に制圧されているという現状を踏まえるならば、自らの運動は自らで守り抜く、一人に対するテロは全員に対するテロと見なすという立場から、最低限自らの命を守るため、革マルの情宣集会を一切許さないという立場から、大衆的な暴力的な反撃を展開する必要があることは言うまでもない。僕たちは一般的に暴力を否定しない。軽々しく暴力追放などという遠ぼえなど言わない。今、暴力は復権されなければならない。強いられた存在の一つの行動様式として、暴力=肉体性の発現はあるのだから、そういう行為は、共同性の一形態であるだろう。

 この意味するところは、執行部主体の活動における暴力(編註:武装による自衛、あるいは革マルに対する反撃)は、運動を推進するためには必要であるとする意志の表明であった。

【本部キャンパスで各党派の大規模な部隊同士の戦闘展開される】
 5.29日、全学行動委(WAC)総会で武闘路線が明確になり、5.30、6.4、6.30と連続して諸党派も入り乱れての、本部キャンパスにおける大規模な部隊同士のぶつかり合いに向かった。5.30には戦旗派(赤ヘルメット)も登場して、反帝学評(青ヘルメット)と連合して革マル部隊を撃退している。
 全学行動委WAC・諸党派は、5.30、6.4、6.30の本部キャンパスでの昼間の激闘は全て勝ち抜いている。だが、学生会館を拠点とする革マルは24時間体制で部隊を維持した。「第三章 自衛武装の諸相」は次のように記している。
 大学は彼らのロックアウトルールに自ら反して、一貫して革マルの全国動員の精鋭部隊を学生会館から退去させず、それが早稲田解放闘争の武闘期の勝敗を決める。
 「川口君の死と早稲田1973年5月29日」が次のように記している。
 そもそもWACの前身は、政経学部のPAC、文学部のLAC、教育学部のEAC、法学部のJACなど各学部に作られた行動委で、それを統合したのが早大行動委WACである。その主な構成員は、在校生および二次闘争(1969年全共闘運動、野崎註)からの復帰組で、革マルによる攻撃に対抗する防衛を役割とした。ことに4月以降、個人攻撃も含め過激になった革マルの武装攻撃に対して、情宣、学大などで登場する際には、行動委に周囲を守られないと執行部は一文キャンパスに足を踏み入れることもかなわなくなった。まだ1月の段階ではヘルメットの着用をめぐる意見の食い違いもあったが、鉄パイプによる攻撃が日常化するに及んで、ほとんど議論の余地はなくなった。さらに、二次闘争の世代にとって武装は既成事実であり、そこへ背後の党派の支援が加わるとなれば、さらに本格化、先鋭化が進むことは必然だった。そうした旧世代の影響の色濃い武装闘争へ傾斜していく一方で、独自の防衛部隊を作る動きもあった。執行委員の呼びかけで集まった20名ほどの集団で、独自の武装訓練等を行い、一文キャンパスへの復帰を果たすことを目論んで活動した。
 この「執行委員の呼びかけで集まった20名ほどの集団」がXとなる。

 5.31日、早大乱闘でまた重体。

 「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その2の2、1973年後半期へ続く。





(私論.私見)