「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その2の2、1973年後半期

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこの川口大三郎君虐殺事件考その2の2」を記しておく。早稲田大学第一文学部・学生自治会臨時執行部副委員長(1972年〜1973年)野崎泰志「X団」顛末記―樋田毅著『彼は早稲田で死んだ』に寄せて」その他参照。

 2022年.11.22日 れんだいこ拝


 「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その1」へ続く。
 (「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その1
」) 


1973(昭和48)年後半期

【全学行動委WAC・叛旗・反帝学評と革マル派の部隊衝突】
 6.4日、反革マル派の全学行動委WAC・叛旗・反帝学評と革マル派の双方合わせて約300名の最大級の部隊衝突となる。偶然そこに居合わせた松井今朝子の『師父の遺言』には以下のようにある。これが6.4日に前後して三回起きた衝突の一つ、演劇博物館前の激突である。
 早稲田ならではの魅力的な空間は演劇博物館だったが、ある時そこで浄瑠璃本を読んでいたら、外が何やら騒然とし始めた。二階の窓から覗くと玄関前の十字路にそれぞれ赤、白、黒、黄色のヘルメット集団がスクラムを組んで激突寸前という状態である。演博の館員はその瞬間何を思ったか『危険なので閉館します。皆さんは出て下さい』とこちらを追い出しにかかった。私ほか数人が扉の外へ出た途端、ヘルメット集団は堰を切ったように突進して鉄パイプで互いに殴り合いを始め、そこら中で血が流れ出すわ、校舎の窓からは火炎瓶が降ってくるわという惨状の中で私たちはうろたえて逃げ回るはめになった。(松井今朝子『師父の遺言』pp68〜69)
 この日、革マル派はなぜか白と黒と黄色のヘルメットだった。黒は行動委、黄色は共産党系の民青が着用するもので、何らかの陽動作戦の意味があったのかもしれない。(「第三章 自衛武装の諸相」)
 6.4日、運送車両のガス欠により現場にヘルメットが届かないというアクシデントもあり、この衝突から脱出する際、全学行動委のメンバー数人が塀から転落するなどして負傷した。とくに一文では行動委のリーダー的存在が加療のため入院となり、その後の運動に大きく影響することとなった。特筆すべきは、ノンヘルだった団実委と行動委のメンバーの後から現場に着いたクラス単位で活動していたメンバーが、ヘルメットをかぶり、鉄パイプで武装していたこと、また、黒ヘルの他一文の行動委は「LAC」と記したオレンジ色のヘルメットを着用したことだった。
 この日、私は4号館に待機の大衆部隊の指揮と防衛に当たっていた。私は途中で偵察に出て、ヘルメット無しのWAC部隊を6号館付近で見たし、11号館での攻防も見た」。最後に大衆部隊を率いて北門から撤収した。

 全学行動委WAC・諸党派は、この5・30、6・4、6・30の本部キャンパスでの昼間の激闘は全て勝ち抜いている。だが、学生会館を拠点とする革マルは24時間体制で部隊を維持した。大学は彼らのロックアウトルールに自ら反して、一貫して革マルの全国動員の精鋭部隊を学生会館から退去させず、それが早稲田解放闘争の武闘期の勝敗を決める。

 6.5日、早大で武力衝突。警察が管理強化を要望。
 6.6日、警視庁が、革マルの拠点早大、反帝の拠点日大を捜索。  
 6.8日、警視庁が先制攻撃で早大など捜索し爆弾や鉄パイプ押収(ゲバルト封じ第2弾)。  
【自治委員選挙態勢作り作動】 
 6.11日、早稲田大学第一文学部学生自治会執行部が自治委員総会を本部キャンパスで開き、新しい自治委員選挙の態勢作りに入った。全学行動委員会・諸党派と革マル全国動員武装部隊が、数百人で入り乱れて本部キャンパスで白兵戦を演じるようになった5.30日以降の戦争状態の最中においてである。だが、そうした集会自体の防衛が必要なほど、革マル派の無差別の武装襲撃は激しくなっていた。それでも尚、私達は学生自治会としてクラス討論とクラス決議に基づき(岡本厚氏の証言)、大衆的・組織的に最後まで闘い続けた。

 他学部の状況はどうであったか、簡単に記述する。
教育学部 1973・1・24 唯一の交渉団体として認める。
1973・2・22 総意に立つものとして承認する。
1973・5・ 団交。第一文学部の自治会再建運動は、まで順調だった。
1973・6・21 新執行部が確立した時点で自治会承認する。
政経学部 1973・1・26 自治会再建学生投票を有効と認める。
1973・4・24 残りは第五項目だけ。着実に前進するように。
第二文学部 1973・2・10 現在の臨時執行部を承認する方向へ努力する確認書に署名。
1973・3・13 五原則提示(一文と同じもの)。諸手続きを含めた学生自身による自治会再建が推し進められてゆく事を切に望む。
1973・4・23 二文学生大会。500人で早稲田通りを高田馬場駅までフランス・デモ。

 運動の起きなかった理工学部、革マル派の拠点であった商学部と社会科学部を除くと、他の三学部でも自治会再建運動は、勝利一歩手前であったと言っていい。結果的には商学部と社会科学部に革マル派の自治会が残存し、他は自治会そのものが消滅した。法学部だけは民青系自治会がそのまま生き残り、その後2000年代に入って、自ら自治会解散決議を行った。

【全学集会『負けるな早稲田・大集会』】
 6.13日、豊島公会堂で全学集会『負けるな早稲田・大集会』開催される。この時、二文臨時執行部・教育学部執行部から「自衛武装」の問題提起があった。
 集会の模様を詳しく残しているのは早稲田キャンパス新聞179号で、サブタイトルに『自衛武装問題、路線分岐鮮明に』とあり、リードにも『集会での発言内容は、自衛武装の必要性を、行動委のみならず自治会執行部が強調したこと、民青系との路線分岐が鮮明になったことが注目される』とある。
 1973年4月から学内外において革マル派からの学生自治会執行部への個別テロが全面的に始まった。5.14日には樋田委員長が重傷を負っている。野崎副委員長の居住先の入り口にも革マル派からの脅迫が書かれた。そして6月に本部キャンパスで部隊同士の武力衝突が始まった。それを受けて、6.13日の全学集会『負けるな早稲田・大集会』が開催され、二文臨時執行部・教育学部執行部から「自衛武装」の問題提起があった。
 集会の模様を詳しく残しているのは早稲田キャンパス新聞179号で、サブタイトルに『自衛武装問題、路線分岐鮮明に』とあり、リードにも『集会での発言内容は、自衛武装の必要性を、行動委のみならず自治会執行部が強調したこと、民青系との路線分岐が鮮明になったことが注目される』とある。

【川口君の2J級友が革マル派の拉致から逃れる】
 6.13日20時頃、文学部正門前で2J級友(11.8日当日に川口大三郎を連れ戻そうとして暴行を受け、これまで裁判に証人として出廷してきた)が、革マル派に同派が拠点とした第一学生会館の方向に拉致されかかり、幸いにも逃れることができた。級友は、この事件が影響して次の公判を欠席している。

【早大ザック集団がバリケード構築。機動隊導入で67名が逮捕される】
 6.14日、朝の早大でザック集団がバリケード構築。早朝機動隊導入で67名が逮捕される。総長連行事件で黒ヘルの早大生に逮捕状。

 この頃、社学自治会費が革マル系常任委へ下る。
【「猫に鈴をとやせネズミ」の檄】
 6.17日、一文拡大行動委を超えてより広く一文大衆部隊として鉄パイプで武装を呼びかける決意をし、「猫に鈴をとやせネズミ」を書き、「M氏と一文執行委員/私」が意思一致して手分けして一文武装要員のリクルートに入った。これが事実上のX団の萌芽であり、6.17日の初会合はそれによって成立した。「一文執行委員/私」が次のように証言している。その執行委員()が武装を決意して呼びかけた文章が残っている「猫に鈴をとやせネズミ」とやや諧謔的である。
 執行委員会での果てしない自衛武装是非論議は皆も承知で、徐々に自衛に傾いていた。私は、行動委・団実委への2月以来の批判は変わらないが、その総長拉致と革マルの本格的武装攻撃によって、事態がここまで危機的になったので、もはや最後の自衛武装によって運動と仲間を守る以外にないと呼びかけた。
 <何故武装か>
 個体としての己の生を誰も代行的に他人に生きてもらうことがありえないように、個体としての己の意思・思想・感性の表現を己のこととして貫き、決して疎外させ代行させることなく、自らの言葉を以って語っていく、——これが最低限の原則ではないのか。とすれば、己の表現を物理力をもって奪われている時に、己のゲヴァルト空間を確保し抵抗すること以外にどんな道があろうか。己のことばを表現を己から疎外させ誰かに代行させてはならない。同じ意味で、己の自衛権をゲヴァルトを己の肉体から疎外させ誰かに代行させてはならない。セクト主義的引き廻しを許さないと言う観点から言っても、種々のセクトやWACなどのゲヴァルト代行は、運動の自立をさまたげるだけに留まらず、思想的にも運動の敗北を決定的にするであろう。
 文学部拡大行動委LAC・オレンジ・ヘルメット部隊は7・2の文学部中庭集会までその色を使用した。その後に集まった「やせネズミ」集団はヘルメットをオレンジからグレーヘルメットに変えた。

 執行委員会での果てしない自衛武装是非論議は皆も承知で、徐々に自衛に傾いていた。革マルの本格的武装攻撃によって事態が危機的になり、否応なく自衛武装によって運動と仲間を守る以外にないと呼びかけたられ、その必要を感じていた二連協の学友は1973・7・2、竹竿武装中庭集会を計画し、それが成功したので7・13中庭集会へと進んだ。全学行動委(WAC)や全学団交実行委が総長団交を拒否され、6月期の全面的武力衝突を経て拡散・分解していく最中に、逆に自衛武装を決意していった。樋田毅『彼は早稲田で死んだ』p148、文庫本166が次のように記している。
 川口君の虐殺事件を機に、『反暴力』を掲げてこれまで一緒に闘ってきた同じ二年生の仲間たちが、防衛のためとはいえ、『武装』することを決めたのだ。療養中だった私は、その経緯を後になって知り、激しいショックを受けた。

【樋田一文委員長が革マル派にテロられる】
 6.25日、樋田氏が多数の学友に伴われて集団登校をやって革マル派の殴る蹴るの集団暴行に遭った。だが何とか学友の人数で守られてキャンパスから脱出した。(『彼は早稲田で死んだ』p149、文庫本p167)

【一文二連協が自衛武装想定を確認する】
 6.25日、二文に続いて一文の新2年生有志約30名が、「2年生連絡協議会」(以下、「二連協」と記す)を開催し、組織の在り方について、「閉ざされた組織、突出した組織ではなく、クラスのメンバーに運動の目的や手段について説明し、共に闘っていく運動体」としたうえで、緩やかな「自衛武装」が討論され、「自分たちの運動を守るための防衛手段として、武装も想定する」ことを確認し下記の決定を行った。
 自主的運動を保障するための手段として武装を位置づける。武装の行使については、各自の独自性は認めるものの組織的に決定していくこと、テロ・リンチはせず大衆の目前での公然たる暴力であること、目的が確認された暴力であること等の定義が検討された。

 一文執行委員会で「自衛武装」が延々と議論され、平行線のまま結論は出なかった
 これまでの自己規制した暴力が次第にや拡大されて、6月段階の二連協の自制した武装論に繋がっている。ここでは自らの暴力性や武装について規律が模索されている。
 素手で角材や投石と闘う中で多数の負傷者を出しながら、私達は否応もなく「反暴力」が手段でも獲得目標でもない地平に立ち至った。

 6.30日、早大でゲバルト、全学休校。
【一文二連協が自衛武装集会開催】
 7.2日、「一文二連協」が、文学部中庭で、最初となるヘルメットを被り竹竿角材で自衛武装しながらの集会を貫徹させた。この7.22文学部中庭集会は、自治会一般学生が合議によって「竹竿・角材とヘルメットで武装した」全学において最初の集会となった。

 集会に参加した学生はハンドマイクで、「私達は好き好んで武装したのではありません。革マル派の暴力支配の復活の中で、武装を余儀なくされているのです」と訴えた。この時、革マル派の妨害はなかった。一文拡大行動委はオレンジ・ヘルメットで参加した。次のように記されている。
 7月2日午前9時頃、一文二年生連絡協議会(二連協)を中心とする一文学生約25名とそれを支援する全学行動委(WAC)約30名が、7月5日の学生大会のための情宣として文学部キャンパスに登場し、スロープ上などにバリケードを築き、黒・オレンジなどのヘルメット、旗ざお、鉄パイプ(WAC、野崎註)で武装し、学内デモをおこなって気勢をあげた。登校した学生で1年生を中心とした40名余りが中庭での集会に加わり、多くの学生が集会を取り巻く中で一文の2年生が次々にマイクを持ち、武装登場の理解を求め、7月5日の一文学生大会への参加を呼びかけた。この間に一文の部隊は40名程にふくれあがり、中庭での武装デモを繰り返したあと、12時頃隊列を解いて理工学部方面へ引き上げようとした。しかし文学部正門付近に待機していた機動隊が一文の部隊を取り巻いて規制し、外濠公園まで連行した。

 この日の武装登場をキャンパス新聞は次のように評価した。
 二連協を中心とするクラス活動家が11・8以降初めて公然と旗ざお、鉄パイプで武装し(WAC、野崎註)、党派の支援なしに武装情宣を独自で貫徹した点で、小規模ながらも質的には画期的な意味があったと考えられる。
 「一文有志の記録」には2日の総括として、次のようなコメントが記されている
 ほぼ達成。文キャンを120~130(人)で制圧できれば、40、50(人)のZ(革マル派、野崎註)では敵対できない。大衆の渦で埋め尽くすということには限界。Zは全国部隊の時しか展開できない。

 自衛武装に反対の樋田委員長らと民青系は「集会を見守る」という位置付けで、集会の周辺に佇んでいた。
 この日は革マル派は朝から意表を突かれたのか、6.30まで連続して3回撃破されて動員部隊がいなかったのか、全く反撃はなかった。

 7.4日、革マル派が、池袋の中核派アジト四ヵ所を襲撃。
【樋田委員長が病み上がりの登校で武装反対を主張】
 7.5日、樋田委員長が病み上がりにも構わず登校し、15名の委員全員が揃っての執行委員会を開催し、「一文二連協の武装問題」の是非を廻って討議している。樋田委員長は、「私はその後も一貫して武装に反対し続けた」と記している。
 「樋田委員長の病み上がりの登校での武装反対主張」が次のように不販されている。
 樋田氏の出版記念会の席上で、「あなたが武装に反対したから、早大闘争は敗北した。今からでも遅くないから謝ってくれ」と学友の一人から詰め寄られたそうだが(映画プレスリリース・パンフ、p17)、その思いには一理ある。そう言った学友はX団の組織化を始めたもう一人のM氏だと思うが、彼に対して「武闘派のまま生きた者」というラベルを貼っている(同上)。そう云うラベル貼り自体が正当防衛権を否定する権力側の論理だと気がつくべきである。
 一文日本史3年行動委員会準備会の最初のビラはこう記す。
 革マルの組織をあげた反撃・学校当局との闘いをも組織しての自治会再建への闘いの中で、新自治会の防衛を全学友のクラスの団結中に一般化してしまうことは、闘いの困難さと緊急さに対して余りにも無知であり、無責任であり、無力であると云わねばならない。

 次のように評されている。
 結局この予言は当たっていた。新自治会の防衛を非暴力主義で「クラスの団結中に一般化」しようとしたのは、無知で無責任で無力であった。しかし、新自治会の防衛を自衛武装で試みたX団と二連協の”ICHIBUN 80”も、確かに無知で無力であったが、確かな敗北の痛みだけは手元に残った。

(私論.私見) 今日から見て自衛武装論の質を問う
 今日から見て自衛武装論の質を問いたい。5.29日、全学行動委(WAC)総会で武闘路線が明確にされて以降、革マル派の武闘に対抗する全学行動委の武闘が生み出されていった。が、今日判明するのは、樋田委員長の武装反対論、一文二連協の党派に頼らない武闘対抗論のみの正義弁が流布されている。この流れは負け戦を呼び込む道だったのではないのか。当時の執行部がこの種の運動を牽引したことにより革マル派の暴力支配に屈し、元の木阿弥に戻ったのではないのか。こう問う論が欲しい。

 革マル追放による新自治会創設運動の本来は、早稲田の伝統的な各党派が共存するキャンパス内るつぼ運動論を掲げ、キャンパスにおける革マル派支配一掃を命題とする全共闘運動による闘争を理論的にも武闘的にも敢行すべきだったのではないのか。総長団交、図書館占拠闘争は、この観点からの是非を問われるべきで、樋田委員長の武装反対論、一文二連協の党派に頼らない武闘対抗論から否定的にのみ語る闘争論は俗に片手落ちではないのか。川口君虐殺事件から導き出す教訓は、1969年結成の全共闘運動に結集した八派を内蔵する自由自主自律規律による学生運動の再生ではなかったか。当時の早稲田では中核派、社学同ブント、社青同解放派が該当する。この三派間は共闘&競り合い運動を良しとしており他党派解体を標榜していない。故にキャンパス内共存が可能である。即ち百家争鳴創出これが早稲田の伝統である。

 だとすれば、この三派を排除するのではなく、むしろ全学行動委側に結集させ、一派独善運動に狂奔する限りの革マル派を権力の座から引きずり降ろす運動を手を携えて共に展開するべきだった。この見地から照らせば、樋田委員長の武装反対論、一文二連協の党派に頼らない武闘対抗論は偏狭なそれでしかない。樋田委員長の武装反対論、それを批判する一文二連協の「党派に頼らない」対抗暴力論も、キレイ潔癖論過ぎよう。猫の手でも借りたいときに自らの手足を縛っており、孤高のヒロイズムでしかない。これでは戦に勝てない。それやこれやで結局は潰された。こう観るべきではなかろうか。こうして早稲田キャンパス内に共闘&競り合い運動を再生させる運動は日の目を見なかった。そういう意味で、キャンパス内るつぼ運動論の立場からの川口君事件総括はまだ途上のものでしかない。してみれば、川口君事件はまだ最も欲しい方向の総括に至っていない域のものでしかない、と云うべきだろう。
 「早大図書館占拠闘争の軌跡」が次のように解析している。同感である。
 革マル派(又は民青)との二重自治会というパタ-ンに対し、大学当局は自治会費の凍結を経て既存自治会(すなわち革マル派)の温存をはかり、この間革マル派は行動戦線や新執行部に暴力的に対峙し、社青同解放派や中核派、叛旗派等の介入に対し一貫した戦略を持ち得なかった行動戦線、新執行部は消耗を強いられたのである。(中略)最終的には革マル派の組織された暴力に対して運動体として拮抗して行く持続力を持てなかったところに戦術的な敗北があったと見て良いのではなかろうか。

【専修大学生・山代康裕が暴力行為の疑いで逮捕される】
 7.6日、警視庁公安部は、専修大学生・山代康裕(21)を暴力行為の疑いで逮捕した。6.13日20時頃、文学部正門前で2J級友(11.8日当日に川口大三郎を連れ戻そうとして暴行を受け、これまで裁判に証人として出廷してきた)にさらなる暴行を加えた容疑。暴行に加わったのは3名で、矢郷順一(一文)も含まれる。彼らは級友を革マル派が拠点とした第一学生会館がある方向に拉致しようとしたが、幸いにも逃れることができた。しかし、この事件が影響して級友は次の公判を欠席している。

【再建自治会新執系が文学部で武装情宣】
 7月初旬頃、再建自治会新執系が文学部で武装情宣。「早稲田解放集会」開かれる。

7・13二連協・X団中庭武装集会
 二連協の学友が1973・7・2、竹竿武装中庭集会を計画し、それが成功したので7・13中庭集会へと進んだ。全学行動委(WAC)や全学団交実行委が総長団交を拒否され、6月期の全面的武力衝突を経て拡散・分解していく最中に、クラス活動家レベルの私達は逆に自衛武装を決意していった。
 川口君の虐殺事件を機に、『反暴力』を掲げてこれまで一緒に闘ってきた同じ二年生の仲間たちが、防衛のためとはいえ、『武装』することを決めたのだ。療養中だった私は、その経緯を後になって知り、激しいショックを受けた。(樋田毅『彼は早稲田で死んだ』p148、166)
 「執行委員の呼びかけで集まった20名ほどの集団」がX団で、X団創出過程が次のように語られている。
 そもそもWACの前身は、政経学部のPAC、文学部のLAC、教育学部のEAC、法学部のJACなど各学部に作られた行動委で、それを統合したのが早大行動委WACである。その主な構成員は、在校生および二次闘争(1969年全共闘運動、野崎註)からの復帰組で、革マルによる攻撃に対抗する防衛を役割とした。ことに4月以降、個人攻撃も含め過激になった革マルの武装攻撃に対して、情宣、学大などで登場する際には、行動委に周囲を守られないと執行部は一文キャンパスに足を踏み入れることもかなわなくなった。まだ1月の段階ではヘルメットの着用をめぐる意見の食い違いもあったが、鉄パイプによる攻撃が日常化するに及んで、ほとんど議論の余地はなくなった。さらに、二次闘争の世代にとって武装は既成事実であり、そこへ背後の党派の支援が加わるとなれば、さらに本格化、先鋭化が進むことは必然だった。そうした旧世代の影響の色濃い武装闘争へ傾斜していく一方で、独自の防衛部隊を作る動きもあった。執行委員の呼びかけで集まった20名ほどの集団で、独自の武装訓練等を行い、一文キャンパスへの復帰を果たすことを目論んで活動した。(「川口君の死と早稲田1973年5月29日」)
 7・2中庭集会の後、竹竿だけでは対抗できないので、それから私達は三段組み鉄パイプの試作に入り、10人分まで用意できた。工事現場から、長い鉄パイプを何本か拝借し、夜中に工具で製作した。その数に規定されて私が指揮した7・13の中庭集会での非公然遊撃部隊は10人にとどまった。この段階で私達はWAC(全学行動委員会)やLAC(一文行動委員会)とは分離し、賛同した皆と相談してヘルメットの色をグレーにした。黒(WAC)でも白(革マル)でもないのである。これが鉄パイプで武装した早大第一文学部武装遊撃隊X団の誕生である。正式名称はなく、それゆえに「X」または「X団」とだけ呼んでいた。
 X団を構成したのは旧1年生と旧2年生の8クラスの有志と執行委員1名の20名ほどだった。合議制をとる連絡協議会の即時性の弱さ、党派の競り合いの場となった行動委員会の限界を越え、自衛武装を肯定的にとらえて現状を打破しようとする有志の集まりだった。全員が鉄パイプを握ることを肯定(決意)していた訳ではなく、サポートに徹しようとした者も含まれていたし、途中で活動を中止した者もいた。X団初の対外活動がこの日13日だった。二連協の集会を潰しに来る革マルの襲撃に備え、鉄パイプを握って体育局に潜んでいた。結局革マルの優勢に出番はなく、退却せざるを得なかった。また、X団とは別のグループが、袋に入れた自らの糞尿を革マルに投げつける作戦を実行した。これは、成田紛争で使われていた糞爆弾になぞらえたものだった。
(詳しくは「L*の登場、L*=X団、X団の動き、X団の夏休み合宿」と一文アーカイブにある)(「川口君の死と早稲田1973年7月13日
 樋田氏はその本の中で自衛武装論争と、7・2集会、7・13集会に多くのページを割いている。ここが彼にとっても自治会再建運動にとっても大きな岐路であったのは間違いないだろう。

 革マル派は7.2集会を許した反省からか、7・13には約150名、大学側の資料では約200名の全国精鋭部隊を投入した。

【革マル派が「一文二連協」集会を襲撃、負傷者続出】
 7.13日、革マル派約150名(大学側の資料では約200名の全国精鋭部隊)が、再建自治会新執系「一文二連協」が文学部中庭で約80名参加(その内の約20名が武装)の武装集会を襲撃し、逃げ遅れたり逃げ惑う者を徹底追尾し鉄パイプで容赦なくメッタ打ちにして、重傷者を含む8名の負傷者を続出させた。この時、スロープ下の正面付近出派、叛旗派(ブント系)本隊の武装部隊が守りを固めていたが、わずか5分間で彼らも襲撃され多くの負傷者(重傷者8名)を出している。

 「川口君の死と早稲田大学、1973年7月13日」が次のように記している。
 自衛武装に反対の樋田委員長らと民青系の学友は「集会を見守る」という位置付けで、集会の周辺に佇んでいた。グレーヘルメット部隊10名がミルクホールのある31号館を背に正門に向かって一列横隊になり、正門前の叛旗派と革マル派の鉄パイプ戦闘に介入寸前だった事は、バリケードで塞がれたスロープ脇の階段下の死角でもあってほぼ誰にも気づかれていない。当時は今のスロープ脇の樹木や細長い建物やアリーナはなく、記念会堂前のスロープ横は正門から31号館まで野球場くらいのガランとした広場だった。偵察班が「来たぞー」と駆け寄って報告、私たちは潜伏の地下から這い出した。革マル派はボストンバッグを正門の外から次々と投げ込み、別働本隊が正門内でそれを開けて三段組み鉄パイプを組み立て、前面では腕に甲を付けた鉄パイプなしの防衛部隊が叛旗派を防いでいた。やがてカーンカーンと甲高い鉄パイプ同士の激突音がスロープ下で鳴り響いた。私たちが這い出した体育局地下のその窓は小さく、一人一人時間がかかり、全員が横隊になって私が号令をかけようとした瞬間、叛旗派は敗走して革マル部隊がスロープを駆け上がってしまった。私達は中庭での惨状を予期しながら、無念の撤退をした。撤退途中で私は右足首を捻挫した。
 当日のX団レポセンターの記録には以下のようにある正門前の叛旗派と革マル派の激闘はわずか5分間である。研究棟前では裏山から突入した革マル派と叛旗派本隊がほぼ同時にゲバルトを開始している。
 レポによれば、集会の聴衆は着席50~60人、立ち見50~80人。叛旗他の部隊は見えなかった。また、スロープ脇の階段は塞がれ、スロープは2人が通れるほどに狭められており、革マルの動きは不明だった。pm3:32 革マル100人正門前。スロープ下で叛旗迎撃。pm3:35 研究棟の下でゲバルト。pm3:37 スロープ上に革マル100人以上。救対(救急箱を抱えた女子学生による負傷者の救護部隊、野崎註)動員。pm3:45 X団の10人無事。叛旗壊滅(重傷者8名、野崎註)。
 全学的後退局面で最も果敢に状況を引き受け、脆弱ながら最後まで組織的に抵抗したのは、第一文学部の一般学生約80名であった。叛旗派(吉本隆明の思想的影響下にあった政治党派で、行動規範は文学的原理に近い)約20名が支援。全学行動委員会WACは支援参加する予定だったが当日になって来なかった。非公然鉄パイプ戦闘部隊10名、その後方支援:レポ部隊5名(携帯電話のない時代、偵察員は公衆電話に駆け込んでレポセンターに連絡した)、レポセンター2名(電話のある仲間の一人の下宿を拠点として本部とした)、救対2名、そして別動女性部隊5名の「X団」、公然竹竿部隊約20名、公然集会約40名の「二連協」。
 7.13文学部中庭集会は、一文自治会一般学生が合議によって「竹竿・角材・ヘルメット・鉄パイプ・ウンコ爆弾」で武装した全学において最初の集会であり、且つ学生による学内集会として最後のものである。(文学部戸山キャンパスは裏山や建物や塀で周囲を囲まれており、籠もれば要塞化されるが一旦襲撃されると逃げ場のない閉鎖空間であり、開放系の本部キャンパスとは対峙戦の場合の緊張感の度合いが違う。ひいては本部キャンパスの学生との間で状況認識の深度が違っていた。文字記録だけでは理解できない現場状況がある)

 この時の樋田氏が中庭にいた一人の学友に取材しており、樋田毅『彼は早稲田で死んだ』pp155〜156、文庫本p175)が次のように記している。
 『防衛隊』にいた二連協メンバーの一人で二年K組の岡本厚君はヘルメットと竹竿を投げ捨て、校舎の階段を駆け上がり、三階の空き教室に逃げ込んだ。クラスの仲間たち10人ほども行動を共にし、内側から机でバリケードを作って隠れた。(中略)岡本君は大学を一年遅れで卒業後、岩波書店に入社し、2021年3月まで社長を務めた。当時を振り返り、こう話した。『早稲田ではクラスの話し合いから全ては始まった。最後は、ヘルメットと角材で武装というところまで行き着いたけれど、結果的には、誰も殴らなかったし、実は殴れなかった。今にして思えば、誰も傷つけずに済んでよかったとつくづく思う。
 皮肉な事に、全共闘運動の「自立・創意・連合」と云う核心を引き継ぎ、全学的後退局面で最も果敢に状況を引き受け、脆弱ながら最後まで組織的に抵抗したのは、第一文学部の一般学生約80名であった。叛旗派(吉本隆明の思想的影響下にあった政治党派で、行動規範は文学的原理に近い。)約20名が支援。全学行動委員会WACは支援参加する予定だったが当日になって来なかった。非公然鉄パイプ戦闘部隊10名、その後方支援:レポ部隊5名(携帯電話のない時代、偵察員は公衆電話に駆け込んでレポセンターに連絡した)、レポセンター2名(電話のある仲間の一人の下宿を拠点として本部とした)、救対2名、そして別動女性部隊5名の「X団」、公然竹竿部隊約20名、公然集会約40名の「二連協」。
 ”ICHIBUN 80”の物語は次の通り。X団の武闘訓練はお茶の水の明治大学構内、日大文理学部キャンパスなどで行った。明大全共闘・日大全共闘の生き残りによる部隊訓練だった。その基礎訓練として信濃忍拳を三多摩の或る小学校体育館で毎週夜間行い、夏休みには静岡県の伊豆市辺りの山村で信濃忍拳の合宿に参加した。この夜間訓練や夏休み合宿には「うんこ軍団」の女性たちも参加した。女性たちは腕などにアザができ、アザミという名の女性指導員に対して「このアザを見い!」などと冗談を言い合っていた。体育館での夜間訓練には評論家・劇作家の菅孝行もいた。X団で夏合宿を河口湖で行い、秋以降の方針論議を行った。全学行動委員会WAC部隊が6月の革マルとの激突に勝利したものの、運動の位置付けを失い拡散した後、その無党派の一部が11月の図書館闘争の準備に入っていた夏に、X団はまだ闘うつもりで自衛武装の訓練と合宿を行っていた。
 傍観者的な「暴力反対」は通用しなかった。私達は圧倒的な総意でリコールした革マル派と学生自治会再建を巡って対峙していた。次第に組織的な武力で鎮圧されようとしていた。学生自治の活動と表現を奪われ、身体の自由を奪われ、生命を脅かされる状況にすら追い込まれた。1973・1・19、11号館の屋上から革マル派によって投げられた重い物で一人の学生が頭蓋骨陥没。1973・4・4の自治会執行部・行動委員会会議への襲撃でも頭蓋骨陥没1名、重傷10名。それらに対抗した二連協とX団の角材や鉄パイプと云う武器を用いた自衛武装は、例え非難されようと、相手の武力レベルに応じた自らを守る正当防衛であった。民主的に選出された学生自治会執行部を守り、各人の身体と生命を守ろうとした合法的な営為であった。ただ、自衛武装を呼びかけた一人として、敗北して結果的に誰も傷つけなかったのは良かったと今は思う。

 貧弱な自衛武装で、眼前に突撃して来る歴戦の革マル派鉄パイプ精鋭部隊の身体にまで到達し得たのは、わずかにX団女性部隊の数個の人糞爆弾のみであった。反革マル派諸党派や全学行動委員会の諸君はこれを嗤うだろう。しかし彼らが早稲田大学キャンパスを勝手に党派闘争の戦場と化し、何の総括も挨拶もなく6月末に拡散・逃亡して沈黙した後に、一文自治会は革マル派の150名の鉄パイプ部隊に襲われながら7月まで尚も組織的に闘っていた。

 長い間、早稲田大学当局と革マル派との癒着によって学生自治が閉塞化されていた。革マル派が代行徴収された巨額な自治会費を大学から受け取りながら自治会費を払った学生達を学内で武力制圧し、事実上の学内私的警察権を行使すると云う異常な事態の中で、川口大三郎君の「スパイ容疑リンチ殺害事件」が起きた。これは党派間の宗派的憎悪によるゲバルトよりも深刻な、大学を舞台にした利権がらみの政治的腐敗であった。身体的暴力だけではなくこの構造的暴力メカニズムこそ打破すべき対象であった。学生自治会再建運動は、革マル派の異常な「私的」武力制圧を払拭し、学生自治のみならず権力からの「学の独立」をも復権させようとする学生達の根源的な闘いでもあった。大学が学生自治会に与えた教室で事件は起きた。今もその教室番号は同じで戸山キャンパス32号館128教室。没後50周年の日、一文の仲間で献花した。早稲田大学自身が内部に抱えた政治的腐敗とその構造的暴力が原因である。それが革マル派の学内私的制裁(殴る蹴る)が暗黙の内に許容されていた理由である。

【一文再建自治会派の執行部で武装議論を延々と続ける】
 夏休みに入る直前まで、一文再建自治会執行部で武装議論を延々と続いた。結局、結論を出せないまま分裂し、機能停止し始めた。

 7.16日、5.17被告団の第1回公判開かれる。 
【革マル派の武装襲撃満展開される】
 9月、夏休みが明けた9月になって、革マル派は都内各地で他党派や全学行動委(WAC)を連続的に襲撃した。これらを受けて早稲田大学は後期最初の日から、「学外の党派闘争」を理由に「不測事態」が予想されるとして異例の集会禁止措置と共にロックアウトした。
 9月以降、中核派と社青同解放派はカクマル派と早稲田大学外での党派闘争を深刻化させた。
 早大文化団体連合会(文連)は革マル派の前は社青同解放派が一時支配していた。

 9.9日、中核派と革マル派が西武池袋線保谷駅構内で集団会戦している。
 9.10日頃、5・17被告団第2回公判開かれる。 
【社青同解放派と革マル派が神奈川大で集団会戦】
 9.14-15日未明午前1時45分頃、反帝学評(青解派)100名が、神奈川横須賀での空母ミッドウェー母港化阻止集会に参加すべく拠点校の神奈川大3号館と宮面寮に泊まっていたところへ、覆面姿の革マル派150名が鉄パイプで乱入し、乱闘で双方で21名が負傷、市内11の病院に運ばれ4名が入院した。

 この乱闘の最中、反帝学評(青解派)がレンタカーで動向視察していた革マル派2名を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場(保土ヶ谷区川島町の横浜市水道局西谷浄水場)裏の小道に遺棄した。午前10時30分、金築寛(東大、23歳)と清水徹志(元国際基督教大生、24歳)の死体が見つかった。この事件はそれまで中核派と革マル派の間だけで行われていた内ゲバ殺人に、社青同解放派を参加させる契機となった。こうして革マル派は中核派と社青同解放派との党派間抗争を引き受けていくことになる。

 次のように情況解析されている。
 早稲田大学は後期最初の日から「学外の党派闘争」を理由にロックアウトした。自治会再建運動が完全に学外状況に支配された日である。もはや学内の学生自治会再建運動の論理と希望は名実ともに党派と大学当局によって圧殺された。その理由は構造的暴力のレベルが上がったからに他ならない。死者二名を出した革マル派は、それ以降、党派であれノンセクト、ノンポリであれ、同レベルの構造的暴力で対応して来るようになった。全学の自治会再建運動の前途が行き詰まって失速し、夏休み中も武闘訓練に明け暮れていたX団の防衛任務も消失した。この段階で”X団”は終わった。
(私論.私見)
 これは変な解析である。「学内の学生自治会再建運動の論理と希望は名実ともに党派と大学当局によって圧殺された」と敗北を認め、その理由を「(革マル派の)構造的暴力のレベルが上がったからに他ならない」としている。自ら非武装主義、ノンセクト主義の手かせ足かせさせて負け戦の道を敷いておきながら、「X団の防衛任務も消失した。この段階で”X団”は終わった」はあまりにも能天気総括ではなかろうか。

【革マル派30名が日本橋の三越本店屋上で「早大行動委」襲撃】
 9.16日、革マル派30名が、中央区日本橋の三越本店屋上で、川口事件を追及する反革マル派のWAC(早稲田全学行動委の略称)を鉄パイプで襲い、8名が暴力行為、凶器準備集合罪の現行犯で中央署に逮捕された。屋上には一般客500人がいた。革マル派は、この日の午後横須賀で開かれた同派の集会で「WACを三越で粉砕した」と声明している。
 翌9.17日の毎日新聞夕刊に、「16日の三越デパートの事件は、革マル派に早稲田を追われた反革マル派が混雑にまぎれて人目のつかないデパートに結集、17日以降の早大奪還作戦を練ろうとしたのを、事前に察知した革マルが先制攻撃をかけた」とする警視庁の見解が掲載された。革マル派の諜報能力の高さを知るべきだろう。

 9.17日、早大ロックアウト。新学期早々、警告無視の集会。
【革マル派が鶯谷駅で中核派を襲撃(鶯谷駅会戦)】
 9.17日、革マル派が鶯谷駅で中核派を襲撃(鶯谷駅会戦)。国鉄鶯谷駅ホームで、京浜東北線南行き電車に乗ってきた中核派150名が降り、上野公園口の改札口近くへ向かったところ、上野公園口から革マル派50名が乱入、乱闘となり、5名が逮捕された。

 1973.9.18日付毎日新聞が次のように報じている。
 概要/革マル派全学連の前川健委員長が、記者会見で、早大奪還をねらっていた中核派を粉砕するために行った。四分五裂になっている現在の学生運動を統一するためには、他党派を徹底的につぶしていかなくてはならないと、他セクトとの内ゲバを続けていく方針を語った。

 1973.9.18日付毎日新聞の記事の中に次のような記述がある。
 早大では昨年11月8日、同大生、川口大三郎君(当時20歳)が革マル派のリンチ殺人にあって以来、同大を最大の拠点とする革マル派に対して中核、反帝系の各セクトが『右翼改良主義=革マル派との対決は階級闘争の前進に不可欠』と叫び、革マル派の追い出しと”早大解放“を闘争課題にしている。

【田中角栄首相が閣議で江崎国家公安委員長に「早大リンチ殺人の犯人検挙はまだか」と異例の質問】
 9.18日、田中角栄首相が、閣議で、「早大リンチ殺人の犯人検挙はまだか」と異例の質問を江崎国家公安委員長に対して行っている。
(私論.私見) 田中角栄首相が閣議で「早大リンチ殺人の犯人検挙はまだか」と質問考
 この情報が隠蔽されており、ネット検索で出てこない。れんだいこ的には、田中首相の姿勢が窺えて興味深い。ネット空間には、こういう本当に知りたい情報が出てこない胡散臭さがある。この現場でも確認できる。

 9.18日、警視庁がゲバルト続発で早大など捜索。正門で厳重チェック。


 9.27日、早大でゲバルト、10人ケガ?。警視庁が早大会館を2度目の捜索。


【革マル派が再びキャンパスの支配権を確立する】
 9月末頃、「早大行動委」の奮戦もここで力尽きた。以降、キャンパスに革マル派が再度支配権を確立することになった。
(私論.私見) 革マル派が再度支配権を確立考
 「革マル派が再度支配権を確立」が大学当局と機動隊に守られてのなりふり構わぬ制圧であったことは、当時の一連の史実であろう。早大総長が一貫して反革マル共同戦線派により結成された自治会の承認を渋り、団交への出席も最終的に拒否し、革マル派の肩を持ち続けた。早稲田大学と革マル派の癒着、蜜月関係が長く続いて行くことになった。この関係が、「平成6年、奥島孝康が早大総長に就任するまで大学当局と革マル派の蜜月は続く」ことになる。

【一文の樋田委員長/山田書記長連名の反革マル自衛武装批判ビラが播かれる】
 10.3日、一文再建自治会委員長/樋田、書記長/山田の連名による反革マル自衛武装批判の「一文四千の学友諸君!」ビラが播かれる。文面の一部は次の通り。
 一連の内ゲバ事件をしつかりと、とらえ返し、『革マル』の『暴力』、そして諸セクトの武装介入をいかに克服していくのかをこの手でしっかりと掴みとろうではないか!。

 その次のビラのタイトルは、「神奈川大学『内ゲバ殺人』事件を口実とした早大闘争のすり替えを許さない」で、武装路線への批判をさらに強めていた。文面の一部は次の通り。
 中核派、解放派、叛旗派などは、当初から革マルとのゲバルトを主張しつつ早大闘争に介入し、とりわけ行動委員会を中心に一定の影響力を持って来た。革マルのテロ攻勢が激化するにつれ、彼らの主張が正当であるかのような幻影が僕たちの一部に焦りから生じ、それが彼らとの共同行動、あるいは“自衛武装”を主張する諸君を生み出したのである。(中略)『武装路線』は闘争の歪曲であり、学生から運動への主体的関りを奪い去るものとして厳しく批判せざるを得ない。
(私論.私見) 「樋田派の反革マル自衛武装批判ビラ」考
 樋田毅・氏著「彼は早稲田で死んだ  大学構内リンチ殺人事件の永遠」で知らされることになったが、「一文の樋田委員長/山田書記長連名の反革マル自衛武装批判ビラ」がかの局面で適切だったのかどうか、私には疑問がある。革マル派の暴力テロ再燃に対する有効な手立てを編み出してヒューマニスト足らんとするのなら分かるが、編み出さぬままの「反革マル自衛武装批判」は利敵理論になりかねないものではなかろうか。

 10.10日頃、5・17被告団第3回公判。裁判官、起訴理由の釈明求む。


【革マル派が全国12箇所で中核派拠点襲撃(第2次中核村襲撃)】
 10.20日未明、革マル派が、全国12箇所で中核派拠点を襲撃する(第2次中核村襲撃)。この際、襲撃側の若林民生(二文自治会元委員長、11/13処分対象者/除籍)が逮捕、勾留される。但し、この時点では若林の川口大三郎殺害への関与は判明していない。(1974年4月22日参照)

【警視庁公安部と本富士署が川口君リンチ殺人事件で革マル5名逮捕】
 10.21日、国際反戦デーのこの日、警視庁公安部と本富士署が、川口君リンチ殺人事件での川口大三郎監禁致死の容疑で革マル4名を逮捕した。警察が早大第一学生会館など革マル派の拠点を捜索し、この時の捜査で、川口君をリンチ致死せしめた革マル派の下手人の一人である二文自治会委員長/村上文男(25歳)、二文自治会副委員長/武原光志(23歳)、一文自治会書記長/佐竹実(23歳)の3名を宮下公園で再逮捕、一文自治会会計部長/阿波崎文雄(26歳)を自宅で逮捕した。服役中の全学中央自治会委員長/田中敏夫(24歳)にも逮捕状が執行され、翌22日、別件で服役中の横浜刑務所内で逮捕された。  

 10.23日、川口君リンチ殺人事件で、別件で横浜刑務所に服役中の田中敏夫が監禁致死容疑で逮捕された。逮捕されたメンバー5名が起訴され、1名(佐竹)が分離公判となる。

【革マル派の事件関係者5名が追加公開指名手配される】
 10.31日、革マル派の4名(級友への暴行で保釈中の一文学生/近藤隆史(24歳)、一文自治文化厚生部長/水津則子(23歳)、一文自治会組織部長/後藤隆洋(25歳)、矢郷順一(25歳)、緑川茂樹(22歳)、他1名の計6名(革マル自治会幹部がほとんど)にも逮捕状が出され公開指名手配された。東京新聞および産経新聞によれば、別事件で逮捕された革マル派の者の中に川口大三郎殺害に関する供述をした者がいて、逮捕・指名手配に結びついたという。

【11.8一周忌前の(続)自衛武装議論】
 11.8一周忌前の頃、一文自治会が、内部が武装の是非をめぐって分裂する中、久しぶりに執行委員会を開いた。6名の委員が出席し、川口君の一周忌追悼集会を全国の学生総決起の場にしようという提案を廻って議論が伯仲した。既に呼びかけの声明文案が用意されており、採決で「賛成3、反対2、保留1」となった。樋田委員長が「こんなに重要な問題を全執行委員15人の半数にも満たない6人の出席では決められない」と主張したところ、賛成派が欠席した執行委員2名分の委任状を見せ、「これで賛成は5名、投票参加者も過半数になる」として、採決を有効とさせた。これにより、「11.8川口君虐殺一周忌追悼集会を早大全学・全国学友の総決起で勝ちとろう」と題したビラが大量に播かれた。呼びかけ人が第一文学部自治会執行委員会、教育学部自治会執行委員会、第二文学部自治会臨時執行委員会有志の連名になっていた。

 武装問題について次のように書かれていた。
 私達は、決して『革マルせん滅』を目的に闘っているのではない。しかし私たちの仲間である活動家たちが革マルのテロルによってせん滅され、負傷していくのを、私たちは黙って見ているわけにはいかない。その意味において私たちは『反暴力』ではないのであり、運動を保障していくものとして、われわれの運動の利害をかけて闘争破壊者に対する自衛武装を断固として主張するものである。

 樋田委員長ほか3名の執行委員が非暴力、非武装の方針に拘り、一文自治会の執行委員会としてでなく「川口君一周忌追悼集会一文実行委員会」を新たに作り活動を始めた。岩間氏らの日本文学専修4年の有志が「11.8集会参加決議と題したビラを配布した。文面の一部は次のように記されている。
 私達は一部の武装路線には断固反対する。(中略)全く不本意ながら集会は分裂して行われようとしている。分裂は避けねばならないが、彼ら一部武装闘争路線派があくまでも学外セクトの導入に固執するならば、私たちは共に集会を持つことを拒否せねばならない。
(私論.私見)
 「私達は一部の武装路線には断固反対する」は一見、正論のように聞こえる。しかし、この時の「暴力反対」、「学外セクトの導入反対」は闘う学友を見殺しにする結果になったのではないのか。闘う者が助けられないのなら、闘う者が寄ってこなくなるのは当然である。それを思えば、当時のキャンパス事情の正義としては革マル暴力に対峙する自衛能力を持つ方向にリードするのが自然であり、「暴力」であれ「学外セクトの導入」であれ足らずのところを補うのは必要な事であり、それを逆に動いてはいかんだろう。少なくとも多数決採択された決議には従うのが筋で、議論が足りないのなら議論を続行させ意志の練り合いをせねばならない。そういう経緯を得ての決議には従うのが筋だろうし、従えないのなら辞任の方が賢明だろう。結果的に、11.8一周忌前での陣営内部の分裂で、川口君事件闘争は元の木阿弥に戻ることを運命づけられたのではなかろうか。

【第20回早稲田祭】
 大学当局と革マル派が牛耳る早稲田祭実行委員会と「早稲田祭実施にあたっての五原則」合意により「1973年第20回早稲田祭」が催された。この早稲田祭は1996年の第43回まで毎年続く。

 11.5日、「対立とけぬ早稲田大学。『追悼』と『祭』が立ち並ぶ」。

 11.6日、早大また緊張。川口君死亡一周年でロックアウト。


【田中敏夫前委員長が自己批判書提出】
 「田中敏夫自己批判書」を知る前、次のようにコメントしていた。
 「続いて、早大全学中央自治会委員長・田中敏夫も自己批判し、11.13日、『田中敏男の自己批判書』が提出されている。佐竹自己批判書に続いて田中自己批判書をも確認しておこうと思うのだがネット検索で出てこない。これは偶然だろうか。れんだいこは、他にも重要な文書に限り却って出てこない例を知っているので驚きはしないけれども」。

 「
1973年11月11日(日) 供述により明らかになった事件の経緯。監禁致死罪で革マル派4人起訴 」によると、11.7日、田中前委員長が佐竹に先立って自己批判書「川口君事件に対する私の態度と反省」を書き、転向を表明している。 してみれば田中前委員長の自己批判書が口火を切ったことになる。1973.11.12日付読売新聞は次の記事を発信している。
 田中の自己批判書はさる7日『川口君事件に対する私の態度と反省』と題して書いたもので『暴力の行使は人間性を腐敗させる』など、佐竹とほぼ同じ内容。田中は事件当時の早大革マル派の最高幹部だが、組織との関係について『学生運動から足を洗う』と述べているという。

【川口君虐殺一周年闘争前夜の情勢】
 11.7日、川口君虐殺一周年前夜、早大が緊迫する。革マル派は全国から約1200名を動員して本部キャンパスで総決起集会を開催し、高田馬場駅までデモ行進した。

 11.8日、早大当局がロックアウトを強行し本部キャンパス内での集会が不能にされた。大学当局は革マル派の正門向かい側の大隈講堂前での集会を許可していた。同派の「川口君追悼集会」がヘルメット姿の約500名で開催され、その周囲をジュラルミン盾の持つ機動隊が囲んでいた。反革マル各派が学内突入狙ったが、機動隊が立ちはだかり、抵抗、投石、警官ともみ合うが構内に入ることができなかった。以降、機動隊が常駐化した。この日、警視庁が先制の革マル派書記局を捜索している。

【川口君虐殺一周年闘争】
 11.8日、樋田委員長らの「川口君一周忌追悼集会一文実行委員会」は正門前に集まろうとしたものの機動隊の規制に押しやられるようにして近くの鶴巻公園に向かい約300名で集会を始めた。午後、新宿体育館に場所を移して約600名で追悼集会を再開した。政経学部自治会、法学部自治会との共催となった。

 分裂した側は、「一文自治会執行委員会」を名乗って約300名が一文キャンパス北側の通称「箱根山」の空き地で追悼集会を開催した。日本文学専修グループは独自に大学近くのキリスト教施設/早稲田奉仕園で集会した。新聞は、革マル派が復権した早稲田の情況を伝えている。

【早稲田における革マル派による暴力支配追放運動が頓挫する】
 以降、早稲田大学全学行動委員会などは、まだ闘う姿勢を見せ、図書館占拠をおこなったものの、早稲田大学と機動隊に守られた革マル支配を打ち破ることはできず、この時の「早稲田における革マル派による暴力支配追放運動」は頓挫する。

【佐竹が犯行を自供、自己批判書を発表】
 監禁致死容疑で逮捕、取り調べを受けていた佐竹実が川口君殺害を自供した。自供によると、革マル派は対立する中核派とのセクト争いから、昨年11月8日午後2時頃、文学部構内で友人と立話をしていた川口君を「お前は中核派のスパイだろう」と佐竹ら5人が文学部127番教室に連行、村上らの指導でイスにしばりつけたうえ鉄パイプで殴るけるのリンチを加え死亡させた。佐竹は、10.21日に逮捕されて以来完黙を続けてきたが、8日を前にした週明けに革マル派の弁護士を解任、8日の東京地裁での拘留理由開示の公判も辞退して自供を始めた。これによってすでに逮捕されている二文自治会委員長の村上文男ら4人の起訴もほぼ確実になり、指名手配中の元一文自治会組織部長の後藤隆洋ら6人の逮捕に捜査の的が絞られることとなった。自供に至る経緯については滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」に詳しい。次のように解説されている。
 「自己批判書の日付けが、死者・川口の一周忌の翌日ということは、警視庁公安部(あるいは東京地検公安部)が“一周忌”のチャンスをとらえ、加害者・佐竹に精神的攻めを加えた結果とも見られる。佐竹をはじめ川口君事件被疑者に対し警視庁公安部は、カラーの遺体写真をも眼前に突きつけ、日夜の調べ(攻め)を強行した」。

 佐竹は自己批判書を取調官に提出。リンチの模様について絵をかいて説明するなど詳しく自供したが、遺体の運搬については「自分は関係しなかった」と主張した。
 佐竹自己批判書に対し、革マル派の「共産主義者」32号、木曾淳士(黒田寛一)は次のように批判している。
 「公安当局の弾圧のもとで、暴力一切を否定するというブルジョア的人間観を注入されこれを粉砕し得ず、そうすることによって裏切り者となった」。

 1974.6.28日付読売新聞記事は次の通り。

【川口君1周年闘争】
 11.9日、「もう争いはやめて!」。川口君の母が1周忌の訴え。川口君追悼デモで犠牲者。大阪の中核派の元学生死ぬ。「機動隊に殴られた」。

【事件関係者の自供相次ぐ】
 11.10日、川口君リンチ殺人事件で、革マル幹部が自供「イスに縛りメッタ打ち」。
 11.11日、東京地検が、先に逮捕していた革マル派4名(二文自治会委員長/村上文男(25)、武原光志(23)、佐竹実(23)、阿波崎文雄(26))を監禁致死罪で起訴した。

 量刑につき次のように解説されている。
 「東京地検は当初殺人罪の適用を検討したが、川口君の死に慌てていたという証言があったことから、川口君を殺すつもりはなかったと判断し、監禁致死罪を適用した。また、警視庁は逮捕監禁致死罪で逮捕したが、東京地検は川口君を長時間におよび教室に閉じ込めたことから監禁致死罪に当たるとして逮捕罪を省いた。なお、逮捕罪とは、他人の両手両足を捕らえた場合など、短時間の拘束に対して適用される」。
 田中敏夫前委員長は、「一人の命を奪ってしまったことを一生かけて償っていく。二度と学生運動はしない」と転向表明をしており、犯行への参加や指示・命令した証拠がないため処分保留になった。佐竹は自己批判書を取調官に提出。リンチの模様について絵をかいて説明するなど詳しく自供したが、遺体の運搬については「自分は関係しなかった」と言っている。
 11.12日、川口君リンチ殺人事件で、Sら2人が自己批判・ 「転向声明」。佐竹はその後「分離公判」となり、報道関係にも非公開で審理が進められた。
 川口サトさんのコメントは次の通り。
 被告たちが遅まきながらでも、自分たちがやったことが間違っていたと自己批判したことはうれしい。これをきっかけに、ほかの活動家の人たちも、運動の中から暴力を締め出すよう努力してほしい。大三郎が死んでまる一年たった今は、被告たちに対して憎しみより、むしろ被告たちの母親に対する同情の念の方が強い。(1973年11月12日付読売新聞)
 11.12日、警視庁公安部は、村上文男、武原光志、若林民生を暴力行為と傷害の疑いで再逮捕する。容疑は1972年10月17日21:00、早大文学部34号館253教室に早大社会科学部3年A君(21)を連れ込み「おまえも共青(日本共産主義青年同盟)だろう。自己批判しろ」と言って、殴る傘で突くなどして15日間のケガをさせたというもの。
 11.13日、東京地検公安部が、田中前委員長(24)は川口君リンチ殺人事件で事件現場にいなかったとして処分保留した。次のように報じられている。
 東京地検は、監禁致死容疑で警視庁が逮捕した元早大一文自治会委員長・田中敏夫(24)を12日夕、処分保留のまま釈放した。田中は川口君事件の指揮、命令をした疑いがあるとされ、10月22日に逮捕されたが、事件に関与しなかったという見方が強くなったため釈放となった。田中は、別の内ゲバ事件で横浜刑務所に服役中を逮捕されたので、釈放と同時に身柄は再び同刑務所に移された。(1973.11.13日付け毎日新聞)
 二文自治会委員長/村上文男氏は、「BLOG-C 第293号=『彼は早稲田で死んだ』」によれば、獄中で、「一部の未熟な分子の仕わざ」呼ばわりで切り捨てることで党派の責任を逃れるべく弁明した革マル派党中央の姿勢に憤慨し、「僕を疎外した組織を僕は絶対に許すことができない」、「革マル派に革命などやらせてはならないと思う」と記しているとのことである(「梯明秀との対決」(こぶし書房、1979年刊))。

【相次ぐ自己批判声明に対する革マル派、中核派の対応】
 こうした自己批判への革マル派の対応は、滝田洋・磯村淳夫著「内ゲバ~公安記者メモから」に詳しい。それによると革マル派は次のように声明し批判している。
 公安当局の弾圧のもとで、暴力一般を否定するというブルジョア的人間観を注入されこれを粉砕しえず、そうすることによって裏切り者となった」。(革マル派機関紙「共産主義者」32号)

 中核派は次のように論評している。
 佐竹・田中は留置場以外に安全なところはないと観念し警察に保護を申し出た。だがこれは転向でも何でもない。佐竹の脱落にさいしての論理は革マルの“党派闘争の論理と倫理”なるものと寸分違わない」。(中核派機関紙「前進」660号)。

【村上文男、武原光志、若林民生が別件の暴力行為と傷害の疑いで再逮捕される】
 11.12日、警視庁公安部は、村上文男、武原光志、若林民生を暴力行為と傷害の疑いで再逮捕する。容疑は1972.10.17日21:00、早大文学部34号館253教室に早大社会科学部3年A君(21)を連れ込み「おまえも共青(日本共産主義青年同盟)だろう。自己批判しろ」と言って、殴る傘で突くなどして15日間のケガをさせたというもの。

【黒ヘルが早大図書館占拠闘争】
 11.19日午後8時頃、第一文学部と政経学部からなる早大黒ヘル十数名(行動委系学生14名)が本部キャンパス正門脇の早大図書館(私学最多の200万冊の蔵書量を有する一部七階建て)に乱入し、内側から鍵をかけ、屋上からマイクでアジテーションした。大学に対し早稲田祭の中止(虐殺者の祭典・早稲田祭を即時中止せよ!)と総長団交を要求(早大当局者・村井総長は、5.17団交からの逃亡を自己批判しただちに全学団交に出席せよ!)した。

 大学側は「学外へ出なさい」とマイクで再三にわたり警告、警視庁機動隊と戸塚署員約百名が学内外に待機した。同9時過ぎ、大学の了承を得て機動隊員が図書館に入り、学生らは屋上から図書館内の書籍を投げたりして抵抗し、攻防4時間の末に20日午前零時ごろ、14名全員が不退去罪で逮捕された。

 翌日、行動委委員会系グループが本部キャンパスでデモと集会を開き、村井総長の「5.17日団交再開確約」違反を批判する図書館占拠闘争を支持声明した。その後、叛旗派などのセクトと合流し、革マル派が準備中の看板を破壊するなどした。行動委員会系の表立った集会は、この日が最後となった。
 総長拉致に続く早大図書館占拠闘争当事者の後日談がある。(川口君の死と早稲田1973年11月19日
▼発想の元。この話の始まりは8月の末くらい。6月のゲバルト(編注:6・4の革マルと衝突で勝利したことを指す。勝利したが、学内に拠点がないので優勢を保持できなかった)の反省があり、何をもって闘わなくちゃならないかを考えたら、徹夜集会や1・19、総長団交みたいに軸があれば学生が集められる。革マルは人が集まる機会を閉ざしているから、人さえ集められれば、確率的にも物理的にも私たちが勝てるというふうに考えた。
▼人集め。後退局面なので個別に話した。団交なんかの時は「みんなでやりましょう」って言えば「みんなでやりましょう」なんですが、後退局面で負け続けているような状況になると、「やりませんか」と言って個々に説明しないと無理なんです。そうなるとどうしても情報が漏れる。それが党派に漏れちゃって、党派と交渉しなければならなくなった。交渉には一切関わらなかったけれど、党派との約束なんかもしなくちゃならない。そうなると期日も限られてきますよね。当日、学内で部隊を待機させていた党派があったけれど、15人だった。それぐらいの人数だったらこちらでも集めるのは難しくない。人数の話ではないんですよ、早稲田でやっていくためには。だからあまり党派とはやりたくなかった。
▼メンバーの顔ぶれ。政経行動委(P A C)を中心にしたメンバー構成になりました。半分以上が政経、あとは一文、教育、社学です。人数も多くなかったから、政経とそれ以外に分けて分担してオルグしました。(編注:政経8人、一文3人、教育2人、社学1人)。
▼実行期日。やると決めた11・19は、早稲田祭を中止させるリミットに近かった。目標としてはもっと早い時間、昼間のうちにやるつもりだったけれど遅くなった。集合場所の明大の生田がロックアウトだった。青解(ママ=社青同解放派)が封鎖していたの。それで遅くなった。いろいろ調べて、図書館に入りやすい時間帯があることがわかっていて、昼を外すと少し遅くなる。期日を延ばすという選択肢はなかったから、結局ああいう結果になったんですけれど。意図としては、学生を集めてやればなんとかなるかなと、それ以上のことはあまり考えていなかった。こういう形で人を溜めてやるような形の闘争をやろうとしたものだから、外にも人を確保しておかなければならない。そうした人員もいました。

 これをやった動機として次のように証言されている。
 人さえ集められれば、確率的にも物理的にも私たちが勝てるというふうに考えた。意図としては、学生を集めてやればなんとかなるかなと、それ以上のことはあまり考えていなかった。

 これにつき次のように批判されている。
 これは第二次早大闘争の運動スタイルそのものである。建物占拠などの象徴的行動で耳目を集める、その後の事は考えていない。総長拉致団交もそうだった。何をもって勝てるとしているのか空無である。既にして一般学生も含めて多数の流血の惨事となっている政治的場面に演劇空間を演出して登場し、そこで主役を演じて自己陶酔して終わる。学生大衆を単なる観客として踏みつける政治の演劇化と言うべきである。

 図書館占拠した際のビラは次の通り。(川口君の死と早稲田1973年11月19日)。
▼全員に告ぐ、全員に告ぐ、全員に告ぐ--我々は虐殺者の中枢を占拠した。
▼川口君虐殺徹底糾弾 虐殺者の杜を占拠せよ。
▼虐殺者の祭典:早稲田祭を怒りをもって粉砕せよ。
▼総長村井の5・17団交からの逃亡糾弾!全学総長団交へ出てこい。 ▼当局-革マル-民青(民青・日共教職組)の三位一体となった早大管理支配体制解体。
 概要「我々のこの闘いが広汎な学友の共感と共にあることを確信し」、「早大4万学生大衆が心中密かに望んでいた直接行動であったと確信している。」、「川口君虐殺を真に糾弾するひとりの無党派学生大衆として」、「学生大衆自身の自衛武装の第一歩がここに印されたのだ」。

 11.21~26日、革マル系の早稲田祭開催さる。民青同系の法学部祭開かれる。


 この頃、5・17被告団第四回公判。結審近し。検察側曖昧な態度に終始す。
 11.24日、火炎びん11本 大学祭の早大で見つかり押収される。
 11.26日、大隈講堂でボヤ。早稲田祭に反革マル派いやがらせ。
 11.27日、川口君リンチ殺人事件に関わる鉄パイプ乱入で捜索/東京都渋谷区。
 12.16-17日、警視庁公安部は、佐竹の自供などから、小石中也(22)(一文)ら6名を監禁致死容疑で全国に指名手配した(指名手配者は計12名に)。
 12.21日、川口君リンチ殺人事件で、拉致・殺害当日の深夜に目撃された、遺体の搬送に使われたと思われるオレンジ色の自動車は、革マル派活動家が所有する46年式のマツダ・ロータリークーペと特定された(読売新聞12月21日付夕刊)

 「「川口大三郎君リンチ虐殺事件」考その3、1974年以降」へ続く。





(私論.私見)